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2009年8月 6日 (木)

朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い

 

永正三年(1506年)8月6日、越前に進攻してきた加賀一向一揆朝倉宗滴(教景)が撃破した九頭竜川の戦いがありました。

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長享二年(1488年)に、加賀の本願寺門徒が高尾城を攻め、守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ長享一揆(ちょうきょういっき)(2016年6月9日参照>>)にはじまる加賀一向一揆が、100年の長きに渡って、その支配を保ち続ける事ができた背景には、その一向一揆が、単に本願寺門徒の信仰のみによる戦いではなく、彼らに協力して勢力拡大を図ろうとする国人や、彼らの力を利用して現状を左右しようとする武将たちの思惑も絡んでいたわけです(2009年6月9日参照>>)

その筆頭とも言うべきが、そのページにも書かせていただいた管領・細川政元(6月23日参照>>)・・・

明応二年(1493年)に明応の政変と呼ばれるクーデターを決行し、時の10代将軍・足利義稙(よしたね)を追放し、自分の意のままになる傀儡(かいらい・あやつり人形)将軍である足利義澄(よしずみ・義高)を11代将軍に据えた政元に対して、その義種は北陸に潜伏し、勢力回復の機会を狙っていたわけです。

そして永正三年(1506年)7月、そんな義種を支持する勢力を一掃すべく、本願寺に協力を要請した政元に答えて、本願寺門徒に挙兵の指示を出したのが、亡き蓮如の後を継いで、第9代法主となっていた息子の実如(じつにょ)でした。

つまり、先の将軍の動きを抑えるべく、再び一向一揆が立ち上がったわけです。

その動きに同調したのが、朝倉元景(もとかげ)です。

この人は、越前(福井県)朝倉氏の現在の当主である朝倉貞景(さだかげ)叔父に当たる人・・・貞景の祖父で7代当主の朝倉孝景(たかかげ)の息子で、もともとは景総(かげふさ)と名乗っていた彼でしたが、母親の身分が低かったため、兄でありながら常に兄弟の中で下に扱われる不満から、弟の1人を殺害してしまい、以降、朝倉家を離れて政元の家臣になっていました。

その後、貞景が9代当主を継ごうとした時、自らが朝倉氏を継ぐべく、その暗殺計画を立てますが事前に発覚して、以後、能登に逃れ、身を隠していたのです。

そんな元景が、この期に乗じて越前へ進攻しようと、超勝寺(ちょうしょうじ・福井市)へ協力を要請・・・それに答えた超勝寺は、加賀・越中・能登の門徒を率いて発起したのです。

ここに、朝倉氏以前に越前の守護代だった甲斐氏の残党が加わり、総勢30万もの大軍となった一揆勢は、7月初旬、越前への進攻を開始します。

九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)を挟んで、彼らを迎え撃つ朝倉方の大将は、当主・貞景の叔父・朝倉宗滴(そうてき・教景)・・・

貞景の叔父・・・という事は?
そうです・・・実は、この宗滴も7代当主・孝景の息子って事で=元景とは兄弟です。

もともと、元景が貞景の暗殺を計画していたあの時、この宗滴も、その計画に加わっていたのが、途中で寝返って密告・・・つまり、この宗滴によって、元景の計画が発覚してしまい未遂に終っていたという過去があったのです。

運命のいたずらか、兄弟の元景が誘発した一向一揆と相対する事になった宗滴・・・っと、この宗滴さん、以前、弘治元年(1555年)に、やはり、総大将となって一向一揆勢を蹴散らした時に、その人となりについて、このブログで書かせていただきましたが(8月13日参照>>)、直後に79歳でこの世を去る宗滴は、その弘治元年の戦いが、一向一揆との最後の戦い、そして、今回の九頭竜川の戦いが、一向一揆との最初の戦いとなります。

この時、宗滴30歳・・・思えば、この先、50年弱に渡る人生を、この一向一揆との戦いに費やす事になるのですね。

上記のページにも書かせていただきましたが、この宗滴さん・・・生涯現役を貫いた猛将なのですが、よく語られるその類の大将クラスの武将でも、実際に自らの刀を血に染めて、先頭を切って戦うというのは、意外に少ないです。

よく、誰々が誰々を討ったという表現をする場合、ドラマやゲームでの合戦シーンを思い出し、あたかも、本人が斬りまくってる印象を受けますが、本来、大将は、軍団の指揮をとる=采配を揮うのが役目ですから、自ら、戦っていては、指示を出し難いわけです。

そんな中で、宗滴は、自ら刀を振るって戦い抜いた武将だったわけですが、この九頭竜川の戦いの時も、それまで、しばらくの間、川を挟んで対峙していた最中、8月5日夜半に約3000の精鋭とともに川を渡り、一揆軍に奇襲をかけます。

不意を突かれた一揆軍は、またたく間に総崩れとなり、討たれる者、川で溺れる者が続出し、壊滅状態となった一揆軍の中で、加賀に逃げ帰る事ができたのは、3分の1=10万ほどだったとか・・・(上記の一連の実数には諸説あり)

宗滴は、馬上から長刀を振って敵を討ち、部下に首を取らせるという方式で、多くの首を挙げました。

かくして永正三年(1506年)8月6日一揆勢を撃ち破った宗滴・・・九頭竜川での勝利に勢いづいた貞景は、この勢いのまま、吉崎御坊をはじめとする本願寺の主要寺院&道場を破却しました。

この九頭竜川の戦いに端を発した一向一揆VS朝倉の戦いは、後に朝倉に身を寄せる足利義昭(7月28日参照>>)の仲介によって和睦が成立し、元亀二年(1571年)、朝倉義景の娘と本願寺第11代顕如(けんにょ)の息子・教如との結婚によって終止符を打たれ、ともに織田信長という共通の敵に立ち向かう事となります。
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