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2009年9月30日 (水)

信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場

 

天正六年(1578年)9月30日、に入港していた鉄甲船の観艦式が開催されました。

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熊野浦を経て大坂湾の港へ、去る7月17日に堂々の入港を果たした7隻の大安宅船(おおあたけぶね)・・・戦国から江戸初期にかけて造られた最強の軍船=安宅船のうち、1000石以上の大きさの物を大安宅船と呼びますが、この時の記録では、滝川一益(かずます)が建造した1隻を「白舟」と記しているところから、九鬼嘉隆(くきよしたか)が建造した残りの6隻が、黒光りの威風を放つ鉄甲船であったと思われます。

この鉄甲船を、色とりどりの幟(のぼり)や指物(さしもの)で飾りつけ、関白・近衛前久(このえさきひさ)をはじめとする公家や有力大名、堺のお金持ちに宣教師までを招待して、大々的に開催された華麗なる観艦式・・・

この日の織田信長は、自らの発想の豊かさと、それを実現できる力を持つ事を内外に見せつけ、大いに気を吐いた事でしょう。

そもそもは、室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした後、天下統一をもくろむ信長に対して危機感を抱いた義昭の声かけによって敷かれた信長包囲網・・・

比叡山延暦寺をバックに持つ越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政、戦国屈指の大物・甲斐(山梨県)武田信玄越後(新潟県)上杉謙信、そして、大坂・石山本願寺に拠点を置く第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)全国の本願寺信徒に同調を呼びかけ挙兵・・・まさに、周囲敵ばかりの状態となった信長。

そんな中、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で痛い目を見た信長は、石山本願寺の周囲に砦を築いて完全包囲・・・籠城する本願寺側の補給路を断ちます。

しかし、ここで西国の雄・毛利輝元が参戦・・・海路から本願寺への兵糧補給を目指し、一族の小早川水軍、配下の村上水軍を率い、さらに紀州(和歌山県)雑賀(さいが・さいか)水軍を加えた船団が、兵糧を満載した船とともに大坂湾に進入します。

もちろん、それを阻止すべく立ちはだかるのは、沼田氏真鍋氏など和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の水軍で構成された織田水軍・・・第一次木津川口海戦の勃発です(7月13日参照>>)

しかし、ここで、陸戦に勝るとも劣らない艦隊編制での陣形による連携プレーで、翻弄されまくり、見事な負け戦となってしまった織田軍・・・。

手痛い敗北を喰らった信長は、未だ建築中の安土城九鬼水軍の嘉隆を呼び、鉄甲船の建造を命じたのです。

九鬼一族は、南北朝時代から、伊勢志摩から熊野灘を活動範囲とする海賊でしたが、すでに嘉隆の時代には、その海賊稼業にも陰りが見え始めていた頃・・・ちょうど、その時、かの顕如の呼びかけに答えて一向一揆が勃発した伊勢長島にやって来た信長の傘下となり、その長島一向一揆(9月29日参照>>)で海上から見事にバックアップした事で、信長からの信頼を得ていたのでした。

ところで、今回の鉄甲船・・・水軍に関してはプロの嘉隆ですが、この鉄甲船というアイデアはおそらく信長本人の発想でしょう。

確かに、前回の木津川口海戦では、村上水軍の放つ焙烙(ほうろく)という手投げ弾のような武器で、木製の軍船がことごとく燃やされて混乱状態に陥ったため、どうにもならない船いくさとなってしまったわけですが、「それなら、燃えない鉄で造っちゃえ!」という発想は、プロにはできません。

たとえ思いついたとしても、上司に提案すれば「何を考えとるんだ!」と、怒られそうな発想です。

なぜなら、そんな重い船体では速く走行する事ができず小回りもきかない、第一、塩分を含んだ海水にさらされた鉄は、すぐに錆び、あっという間に使い物にならなくなるのは目に見えています。

殿様の出す大金を使って、そんなもったいないシロモノ・・・プロなら、もっと機能的で使い勝手が良く、長持ちする有意義な物を造るでしょう。

そうです、今回、おそらく、ものすごい金額になるであろう鉄甲船を考えたのが、その大枚な金額を自らが支払う本人だから実現できたと思うのです。

信長にとって、鉄甲船は、小回りをきかして速く走る必要はないのです。

そこにいて、敵の船団の進入を阻止する事だけ・・・相手を蹴散らして制海権を握れば2度目は使えなくても良いのです。

一度きりの作戦に、膨大な金額を惜しみなく使えるのは、このアイデアが信長のものであったからに他ならないと思うのです。

なんせ信長は、数年前にも、大軍を率いて琵琶湖を渡るためだけに大船を建造(7月3日参照>>)していますし・・・

実際に、この鉄甲船は、この後の海戦一回こっきりで、2度と歴史には登場しませんしね。

この14年後に、豊臣秀吉朝鮮出兵で、再び鉄を装甲した大安宅船が登場しますが、それらは、すべて新しく建造された物なのです。

もちろん、その信長の突飛なアイデアを現実の物とした嘉隆の手腕も大したものですが・・・。

加重して転覆しやすくなる船体をいかにして安定させるか?
損なわれる機動力をいかに最小限にするか?

伊勢大湊(おおみなと)という最先端の職人集団をかかえる嘉隆も、おそらく彼らとの試行錯誤のうえ、完成に漕ぎつけた事でしょう。

かくして天正六年(1578年)9月30日、この日の観艦式で、鉄甲船を目の当たりにしたイエズス会士・オルガンチノは、フロイスへの報告書に・・・

「堺で見てきたけど、ポルトガルの船にも匹敵するような大きさと華麗さにびっくりしたわ。
きっと、あれを大坂港の河口に置いとして、石山本願寺への兵糧の運び込みを阻止しよっちゅーんやろな。
船には3門の大砲と、数えきれんくらいの精巧な長銃が搭載されてるんやけど、いったいどこから入手したんやろ?
僕の知ってるのでは、日本では大友君が持ってるヤツしかないはずなんやけど・・・」

と、驚きを隠せないようです。

そう、以前、耳川の戦い(11月11日参照>>)を書かせていただいた時に登場した大友の最新兵器・国崩(くにくずし)・・・これは、大友宗麟ポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(ふらんき)ですが、それこそ、キリシタン大名として宣教師たちを支援し、外国と深い関係を築いていた宗麟だからこそ手に入れられたシロモノ・・・

耳川の戦いは、この鉄甲船完成の同じ年の11月ですが、もちろん、それ以前に、信長の耳に入っているでしょうから、その存在を知っていたであろう事はわかりますが、すでに、この時点で、国産品を造るほどになっていたとは、オルガンチノでなくとも驚きです。

どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。

戦国という敵味方入り乱れる時代の、信長の情報網のスゴさと、行動に移す事への素早さには感服しますね~

もちろん、わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口ですが・・・

こうして、皆々様の知るところとなった世紀の軍船=鉄甲船・・・この最新の武器を以って、再び、石山本願寺の補給路を断とうとする信長・・・第二次木津川口の海戦はいかに?

・・・と、そのお話は、やはり、海戦の展開される11月6日【信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦】でどうぞ>>
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2009年9月29日 (火)

柳生宗冬の総入れ歯

 

延宝三年(1675年)9月29日、大和(奈良県)柳生藩・第3代藩主で、第4代将軍・徳川家綱の剣術師範としても知られる柳生宗冬が亡くなりました。

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昭和二年(1927年)6月、東京下谷広徳寺にあるお墓から、めずらしい物が発見されました。

お墓の主は、延宝三年(1675年)9月29日に亡くなった柳生宗冬(やぎゅうむねふゆ)・・・初代柳生藩主となった柳生宗矩(むねのり)(3月26日参照>>)の三男で、時代劇で有名な剣豪・柳生十兵衛三厳(じゅうべえみつよし)の弟です。

時代劇では、激しく強い父と兄の影に隠れて、何かとめだたない存在の宗冬さんですが、この大発見で、ある意味、父と兄を超越したか?という感じですが・・・

彼の遺体とともに「かめ」の中に収められてしたのは、床の部分が黄楊(つげ)の木でできていて、そこに蝋石(ろうせき)で彫刻された歯が埋め込まれている、すばらしく精巧に造られた総入れ歯だったのです。

日本の医学の歴史は、なかなかのもので、大宝元年(701年)に制定された、あの大宝律令にも医師の養成が国家で行われる事か明記されていて、内科や小児科とともに、歯科も登場しています。

以前、『入れ歯の日』という記念日に、日本最古・・・いや、実際に義歯として使用していた物としては、世界最古の室町時代の入れ歯をご紹介させていただきましたが(10月8日参照>>)、欧米においての誕生は、18世紀のフランスまで待たねばならず、やはり日本の入れ歯の技術は世界最先端だったんですね。

そのページにも、少し書かせていただきましたが、宗冬さんの入れ歯は、寛永十二年(1635年)当時に、口中医として活躍していた小野玄入(げんにゅう)さんの作品で、今で言えば、インプラント以上の最高級品・・・とてもじゃないが、なかなか手に入る物ではなかったでしょうね。

はっきりとはわからないものの、宗冬さんは、大体63歳くらいでお亡くなりになったという事で、当時としては老人の部類に入るのでしょうが、彼よりも年齢の高い人で、お金持ちの人もいたでしょうに、彼以外の人のお墓から入れ歯が見つかった話を、あまり聞きませんねぇ。

他の人が使っていなかったのか?たまたまお墓に入れる事がなかっただけなのか?

そこのところは微妙ですが、宗冬さんに関しては、その歯の悪さは職業病とも言えるもののようです。

つまり、剣を使うたびに全身に急激な力が加わるため、歯に大きな負担がかかり、最終的にボロボロになっていったのではないかと・・・

あの、幕末の将軍・第14代の徳川家茂(いえもち)には、30本の虫歯があったそうですが、そういうのとは別の形でのボロボロ・・・

つい先日、某市長が市議会の本会議中にガムを噛んでいた事が問題になり、「市長だけでなく、スポーツ選手もガムを噛んでいて態度が悪い」なんて、市長の話からスポーツ選手に飛び火しているブログやら掲示板やらを見かけましたが、市長のガムとスポーツ選手のガムとはまったくの別物・・・

スポーツ選手のガムは、宗冬さんと同じで、急激に力を入れる時に歯をくいしばって痛めたり、また、その食いしばった歯で舌や口内を傷つけてしまう事を防ぐためのガムであって、市長の「喉をうるおしたかった」のとは、わけが違うのです。
(議会中に喉をうるおすのもどうかと思うし・・・)

そう考えると逆に、宗冬さんの時代にガムがあれば、彼も総入れ歯にならずにすんだのかも・・・

いずれにしても、時代劇では、やっぱり兄貴の引き立て役にされてしまうんでしょうけど・・・ボウフラを見て、剣の極意を編み出したっていう逸話自体が、兄貴とは差がある気が拭えないですもんね。
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2009年9月28日 (月)

関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2

 

慶長六年(1601年)9月28日、毛利輝元長男・秀就を、江戸へ人質として差し出しました。

・・・・・・・・・

この時、わずか7歳だった秀就(ひでなり)は、その後の10年間を江戸で過ごし、慶長十六年(1611年)に弟・就隆(なりたか)と交代する形で、やっと、本拠地の周防(山口県)に戻ります。

この人質・・・慶長六年(1601年)という年数を見ておわかりの通り、あの関ヶ原の合戦での敗戦後、徳川家への服従の意味が込められた江戸入りなわけですが、ちょうど、昨日の大河ドラマ・天地人で、関ヶ原の敗戦後の毛利家の処分についてやってましたが、ドラマでは中尾さんが血走った目をむいただけで終ってしまったので、本日は、「合戦前にはどのような密約が交わされていたのか?」「その密約を、どんな形で家康が破ったのか?」を、お話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

このブログでも何度か書かせていただいているように、この関ヶ原合戦では、毛利輝元西軍の総大将という立場で、一方、東軍との密約を交わしていたのは吉川広家です(7月15日参照>>)

彼らは、ともに、あの毛利元就(もとなり)の孫・・・輝元は、元就の長男・隆元の息子で、広家は元就の次男・吉川元春の息子です。

もともと輝元という人は、豊臣秀吉が存命中の頃から、徳川家康とは親密にしていて、秀吉亡き後に、なんとなくきな臭い空気がくすぶり始めた頃などは、わざわざ「今後、何があっても、お互い裏表なく、兄弟のようにやっていこうや」てな誓紙を交わしたりなんかしてました。

一方の広家は、とにかく安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がキライ・・・まぁ、この恵瓊という人は、秀吉の天下取りの第一歩となった中国大返しの時に、毛利側の交渉人でありながら、途中から秀吉べったりになった人(9月23日参照>>)ですから、広家にとって気に喰わないのは当然と言えば当然だったわけです。

その恵瓊が、はなから石田三成ベッタリだった事もあって、広家の心の内は早いうちから東軍に味方するつもりでいましたが、事もあろうにその恵瓊に乗せられて輝元が西軍の総大将になっちゃったものだから、広家ビックリです。

合戦前から怪しい動きをする恵瓊を警戒した広家は、やはり同じく輝元の大坂城入城に反対姿勢をとる毛利家臣の益田元祥(もとよし)熊谷元直らとともに、輝元の入城前から、家康の近侍の榊原康政(さかきばらやすまさ)宛てに「恵瓊と輝元とはかかわりはない」旨の手紙を送ったりなんかしてましたが、もはや、入城しちゃった以上、更なる対処が必要です。

そこで、家康の信頼も厚く、また豊臣恩顧で、しかも広家も親交している黒田長政に間に入ってもらい、家康に「輝元は三成側について徳川に敵対しようとしているわけではおませんねん」と、なんだかんだと書き綴った弁明の手紙を出します。

・・・で、その返答は・・・
「君の言うてる事はようくわかったで。輝元とは前から、兄弟のように仲良うしょーなって約束してたのに、おかしいなぁって思ててん・・・君の説明で理解したわ」
と、なかなか好感触。

そして、それに添えられていた長政の手紙には・・・
「家康さんも、アレは恵瓊が勝手にやってる事で、輝元の真意やなって事わかってはるみたいや。
こうなったら、輝元にも、よ~言うてきかして家康はんベッタリになる事や。
まぁ、そのダンドリはワシがやったるけど、勝敗が決まってからではどうもならんさかいに、開戦までにやる事やっとかんとアカンやろな。
くわしくは、この手紙を持っていった使者に言うとくさかいに、よぉ、話聞いたって」

・・・で、その使者がたずさえていた条件というのが、毛利の不戦・・・その日から、約1ヶ月間、徳川との裏工作に奔走する広家でしたが、そんな彼のところに、徳川方の起請文が届いたのは、なんと、関ヶ原の前日=慶長五年(1600年)9月14日でした。

そこには、合戦に参加しなければ、戦後の毛利の処遇は、すべて従来通りで、領国も安堵する事が書かれていたのです。

しかし、広家は、一抹の不安を覚えます。

なぜなら、その起請文の署名は、本多忠勝と井伊直政の連署・・・家康の名前がありません。

できれば、家康の名の入ったお墨付きが欲しかった・・・とは言え、徳川の重臣ふたりの、それも血判の入った起請文に納得した広家は、翌日の関ヶ原当日、ご存知のように、布陣した南宮山からビクとも動かず、合戦には不参加の姿勢をとりました(9月15日参照>>)

この時、広家の後方に陣取り、大坂城に留まった輝元の名代として毛利軍を率いていたのは、輝元の従兄弟で養子の毛利秀元(11月7日参照>>)・・・どうやら、彼には、徳川との密約は知らされていなかったようです。

大将とは言え、秀元は、未だ22歳・・・合戦の主導権は、12歳年上の広家が握っていたらしく、密約の相談には一切関わっていなかったのだとか・・・。

また、大坂城の輝元にも知らされていなかったようです。

さすがに、こんな重要事項なのだから輝元に言わないわけはないだろうという見かたもありますが、上記の通り、正式な起請文を受け取ったのが、合戦の前日なのだとしたら、それを知らせる余裕がなかった可能性が高く、この時、密約を承知していたのは、広家と老臣の福原広俊だけだったとされています。

かくして、関ヶ原での西軍は総崩れとなり、夕方にはやむなく撤退する毛利軍・・・広家と広俊は、その日のうちに家康のもとへ戦勝を祝う使者を送り、秀元には、服従の証として人質を差し出すように勧めますが、秀元は納得せず、大坂城へと向かい、輝元に、「ここ大坂城にて家康と再度戦おう」と持ちかけます。

しかし、輝元は、もう、戦う気はゼロ・・・頭を丸めて家康に服従する意志を固めていたのです。

実は、合戦のわずか2日後の17日付けで、輝元には、長政からの「吉川君から、不戦を条件に毛利の安泰をお願いすると言われてた事は、家康さんも充分ご存知やから、今回の輝元には何の処分もないさかいに、今後は、忠節に励んでね」という手紙が届いていたのです。

輝元も大いに喜んで、即刻「ありがとう、手紙見て安心したわ」と返事を送り、22日には「大坂城の西の丸、明け渡しまっせ」の誓紙も送っていたのです。

これには、相手の長政も、輝元宛てに、「毛利の安全を保証する」内容の正式な起請文を、25日付けで届けています。

しかし、「安心した」と書いて送った輝元も、心の底では、未だ安心してはいませんでした。

そう、「安全を保証する」と言ってるのは長政であって、徳川の誰でもないのですから・・・。

長政の起請文と同じ25日・・・輝元は西の丸の明け渡しの起請文を書くのと同時に、広家に、井伊直政からの直接の安全保障を取り付けるよう努力するように言い渡しています。

しかし、広家が、そんな努力をする時間はありませんでした。

家康は、輝元の西の丸明け渡しの起請文を見るなり、即座に明け渡しを要求・・・2日後の27日には、輝元が去った西の丸に入ってしまいました。

そして、10月に入ってまもなく、広家は、長政からのとんでもない書状を受け取る事になります。

そこには・・・

  • 輝元は三成に味方して西の丸に入って采配を揮ってた事が、後々になってわかってきた・・・困るなぁ、毛利の領地は没収されるやろなぁ。
  • 君の働きは、皆、よう知ってるで、中国地方のうち、1ヶ所か2ヶ所を君に与えるべく井伊さんが家康さんに働きかけてるさかい安心しぃ。
  • せやよって、井伊さんから呼ばれたら3~4人の供を連れて会いに行きや、武装なんかしたらあかんで~

「え゙ぇ~(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.」

そうです。
輝元が大坂城の西の丸にいて、一応、西軍の味方として動いていた事は、アチラさんも百も承知のはず・・・それを、知らなかった事にして・・・新たに発覚した事にして、以前からの約束をなかった事にしようとしているのです。

さすがに、広家も呆然・・・しかし、落ち込んでる暇はありません。

広家は、長政に・・・福島正則に・・・何とか、毛利の家名を残してくれるよう涙涙の手紙を書き綴ります。

もう、こうなったら、情に訴えるしかありません。

「意外な処置に混乱してます。
僕への事はうれしいですけど、何とか毛利の家名を残してくださるようお願いします。
自分だけ領地をもろて、収まるわけがありません。
輝元は、今後も、家康さんに刃向かう事なく、忠節を尽くします。
いや、もし、万が一の時は、僕が輝元の首を取って差し出しますさかいに・・・」

長政も正則も、もとは豊臣恩顧・・・さすがに、この涙の手紙は心を動かしたようで、10月10日、毛利に対して誓紙が送られます。

そこには、周防・長門の2国を安堵する事、輝元・父子の身の安全を保証する事が書かれてありました。

敗戦の翌日から、輝元&広家が待ちに待っていた、正真正銘の家康の名の入った誓紙でした。

こうして、112万石から36万9千石・・・3分の一以下という、とんでもない減封となってしまいましたが、何とか家名だけは存続した毛利家でした。

・‥…━━━☆

それにしても、今回の天地人・・・ホント、先が読めません。

上杉家が主役ですから、さすがに毛利の戦後処置はナレーションで仕方ないとしても、まさか、長谷堂の撤退がほぼナレーションでスルーされるとは思ってもみませんでした。

そりゃ、前田慶次郎が登場しないわけです・・・あんなに早くちゃ出る間ありません。
(ひょっとしたら、兼続の周辺にいた誰かが慶次郎という設定なのかも・・・)

個人的には、武将としての直江兼続の一番カッコイイところだと思うんですが、どうやら、今回の作り手の皆様は、合戦で武功を挙げる事が、カッコイイ事とは思っていらっしゃらないようです。

なんだか、45分間のうちのほとんどを三成の思い出話で終ったみたいな回でしたね。
まぁ、題名は三成の遺言なので、題名どおりですが・・・

しかも、豊臣恩顧でありながら東軍に降った福島正則と小早川秀秋が、エライ反省の弁をのべ、兼続は亡き三成に「お前の思いは受け継ぐ」みたいな事誓ってましたが・・・

歴史上では、この先、上杉は家康に服従し、あの大坂冬の陣鴫野(しぎの)今福の合戦(11月26日参照>>)では先頭に立って大活躍し、その武功を褒めた家康に「あんなの子供のケンカみたいなもんでしたよ」と言ってみせた有名な逸話がありますが、これだけ「三成=正義」「豊臣=大事」を強調してしまって、そこんとこは、どのように処理するのでしょう?

これは、批判ではなく、逆に、見ものという意味です。
この先、どのように展開させるのか、とても楽しみにしています。
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2009年9月27日 (日)

毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦

 

天文十九年(1550年)9月27日、毛利元就吉川興経・父子を殺害しました。

・・・・・・・・・・

これまで、何度か書かせていただいておりますが、後々、西国の雄となる毛利も、毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ頃は、安芸(広島県)郡山城にわずかの家臣をかかえるだけの国人(半士半農の地侍)にすぎなかったわけで、その当時は、毛利の北=山陰の出雲(島根県)には尼子氏、西=周防(山口県)には大内氏、南=豊後(大分県)には大友氏・・・と、強大な勢力を誇る名門に挟まれ、身動き取れない状態だったわけです。

もちろん、それは毛利だけに限らず、大きな国に挟まれた小国は、その都度、あっちについたり、こっちについたりしながら、生き残るだけで精一杯・・・そんな状況の中から、毛利が一つ飛びぬけて、いや、最終的にすべてを手に入れるほどの大国になったのは、これ、ひとえに元就の謀略による領地拡大作戦のたまものです。

皆さんも、元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』の逸話(11月25日参照>>)などは、よくご存知でしょうが、その元就が、戦場で大暴れする武勇伝は、あまり聞かれた事がないのではないでしょうか?

彼は、たとえ合戦はしても、自らが戦場を駆け巡って武功を挙げるタイプではなく、緻密な情報活動から謀略&計略を張りめぐらしてのし上がっていくタイプの人なのです。

・・・と、ここで、一つ付け加えておきますが、これ、決して元就さんの悪口ではありません。

負ければ即・死亡の戦国時代で、コスイと言われようが、ズルイと罵られようが、勝たなければ生きぬいていけないわけですから、戦国武将に対する謀略家・策士・悪人・鬼などという代名詞は、褒め言葉だと思っています。

ましてや、尼子・大内・大友といったズバ抜けてデカイ名門に対して、武力で対抗できない小国なら、策略で対抗する以外に方法はないわけですから・・・。

そんな元就が、山陰・山陽に大きく根を張るきっかけとなったのは、次男・元春(もとはる)と三男・隆景(たかかげ)・・・元春が山陰の名族・吉川(きっかわ)に、隆景が瀬戸内の水軍を持つ小早川(こばやかわ)に、それぞれ養子に入って、その足がかりとしたわけです。

この両家は、双方に「川」の字がつく事で、その後「毛利の両川りょうせん)と呼ばれ、早くに亡くなった長男・隆元の息子・輝元を支えて、毛利の躍進に一役も二役も買う事になるのです。

・・・で、本日は、その次男・三男の他家への養子の話なのですが・・・

一応、史料などによれば、この二つの養子縁組は、両家の側から、「後継ぎがいないので・・・」と頼まれ、「そんなに言うなら・・・」と元就が承知した形になってますが、血で血を洗う戦国に「そんなワキャないだろ!」と、怪しい香りがプンプン・・・

この養子縁組・・・いや、はっきりと、他家の乗っ取りと言っちゃいましょう!
これこそ、元就の謀略のなせるワザなのです。

まずは、三男の隆景の小早川入り・・・小早川家は、安芸安直・沼田本荘・竹原両荘一帯の地頭を務めた家柄で、それらの領地を二つに割って、本家の沼田(ぬた)小早川と分家の竹原小早川の二家に分かれていました。

・・・で、そんな竹原小早川の当主・興景(おきかげ)病死し、後継ぎがいなかったため天文十三年(1544年)、12歳の隆景が養子となって後を継ぎますが、とりあえず、この養子縁組は、亡き興景さんの奥さんが元就の姪であった事もあって、何となく、「それもアリかな?」という雰囲気で、さしてモメる事もなかったようなのですが、問題は、その6年後の本家=沼田小早川との養子縁組です。

この沼田小早川家の当主だった正平(まさひらは、隆景が竹原を継ぐ前年の天文十二年(1543年)、大内氏の傘下となって尼子氏の月山富田城を攻撃した戦いで戦死してしまっていたのですが、この沼田小早川家には繁平(しげひら)という後継者がいたのです。

・・・にも関わらず、「繁平は当主にふさわしくない」として、天文十九年(1550年)に、繁平に剃髪をさせて仏門に入れ、竹原を継いでいた隆景に沼田も継がせてしまうのです。

この時、当主にふさわしくない理由として繁平が視力に障害を持っていたからとされていますが、そのワリには家臣の猛反発に遭い、敵対する家臣をすべて殺害しての養子縁組となっています。

こうして沼田と竹原の両小早川家が一つになり、それをまとめる隆景・・・これは怪しいです。

そして、さらに怪しい次男・元春と吉川家の養子縁組・・・この吉川家も、藤原南家の流れを汲む安芸山形郡の地頭を務めた家柄で、かの応仁の乱の時には、東軍の細川勝元の配下として参戦し、当時の当主だった経元(つねもと)「鬼吉川(←さっきの褒め言葉でっせ)と称されるほどの大活躍をしています。

そんな吉川家でしたが、やはりこの頃は毛利と同様に大国に挟まれていて、この時の当主・吉川興経(おきつね)は、その時々の情勢に応じて、尼子についたり、大内についたり・・・特に、マズかったのは、先ほどの沼田小早川の正平が戦死した月山富田城攻めの時、興経が、重要な局面で大内から尼子に寝返ったらしく、大内側では「正平の死の原因を作ったのは興経」と噂されていたのだそうで、そんな優柔不断な態度に不安を抱いた家臣が「興経を隠居させて元春を養子にして後を継いでもらいたい」と元就に言ってきたのだと・・・

まぁ、以前書かせていただいたように、もともとは毛利と吉川は、嫁にもろたりもらわれたりの関係にあって(7月10日参照>>)、元就の妻が興経の叔母さんという事で、可能性がゼロではありませんが、やはり「そんなウマイ話が・・・」と思ってしまいますね。

だって、興経には千法師という子供がいるわけですから、幼いとは言え、後継者がいるのであれば、家臣なら千法師を擁立して興経を隠居させるでしょうからね~。

しかし、天文十七年(1548年)、元就は、元春の養子縁組を成立させ、天文十九年(1550年)には強制的に興経を隠居させ、妻子も幽閉してしまったのです。

「そんな無茶なぁ!」と、納得いかない興経が不穏な気配を見せている・・・いや、これも、元就の流した噂の可能性大でしょう。

なんせ、興経は、わざわざ元就に手紙を送って、それを否定しているのですから・・・。

しかし、天文十九年(1550年)9月27日、新しき当主への謀反の疑いありとして、元就は、自らの配下の熊谷信直(くまがいのぶなお)らに命じて、興経の館を襲撃させ、興経・千法師の父子もろとも殺害してしまうのです。

こうして、元就は大きな合戦をする事なく、毛利の両川を手に入れました。

この頃は、すでに尼子氏を離れ、大内氏をバックにしていた元就は、両川を得た事でステップアップ・・・さらには、その大内氏(4月3日参照>>)や尼子氏(11月28日参照>>)まで滅亡させて、最終的に中国地方の覇者となるわけです。
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2009年9月25日 (金)

未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?

 

昭和六十年(1985年)9月25日、奈良県斑鳩町藤ノ木古墳で石室等が発掘された事で、本日9月25日は『藤ノ木古墳記念日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

つい先日書かせていただいた江戸の名大工・中井正清(9月21日参照>>)・・・彼の出身地である西里(にしさと)が、奈良の法隆寺の西大門出てすぐの西隣にある事を書かせていただきましたが、その道をさらに西に進んで、民家と畑の合間にポツンと見えてくるのが藤ノ木古墳です。

Fuzinoki2 右の写真は、私が訪れた3年前のものですが、ご覧になっての通り、この時は、近所の奥様に「これが、藤ノ木古墳ですか?」と聞いてしまったくらい、雑草生え放題で、説明書きも何もない状態でした。

その後、昨年の3月に、車椅子で石室内に入れるバリアフリー設計で整備されたようで、wikiなどにはキレイな写真が載せられていてうれしい限りですが、その時の私の驚きは、あの有名な藤ノ木古墳が・・・何の整備もされていない」事の驚きだったわけです。

・・・で、この藤ノ木古墳が、なぜ、そんなに有名なのか?

それは、この古墳の石棺が未盗掘のまま発見されたからです。

あの有名な高松塚古墳も、美しい壁画が残っていた事で一躍脚光を浴びましたが、やはり、鎌倉時代に盗掘された跡があり、おそらく朱雀が描かれていたであろう南側の壁は壊され、石棺の中も荒らされていました。

未盗掘という事は、埋葬された時の状態のままなわけで、当時の埋葬の儀礼を解明するうえで、とても貴重な史料なわけです。

発掘後すぐに行われた第一次調査では、全長約14mの横穴式石室と、くりぬき式家型石棺が検出され、石棺と奥壁との間に、銅に金メッキをほどこした馬具や武具、土器などが出土しましたが、何と言っても藤ノ木古墳を有名にしたのは、昭和六十三年(1988年)に行われた第二次調査です。

この時、最新技術とも言えるファイバースコープを使って、石棺内を調査・・・翌日の新聞の一面には、「金銅の冠・刀剣・玉 見えた」「輝く大量の副葬品」という見出しが躍り、まさに、高松塚以来のフィーバーを巻き起こしました。

ただ、高松塚の壁画と違って、ファイバースコープの映像は、なんだかモヤモヤで、素人目には、何が映っているのかよくわからず、何であんなにデカデカと報道されたのか?と少し疑問にも思ったりもしましたが、「最新技術のファイバースコープのカラー映像」というのが、テレビ向き、新聞向きのいい材料だったんでしょうね。

もちろん、ファイバースコープの映像はともかくも、貴重な発見には変わりないわけで、その後も続けられた調査で、石棺内では、北側に20歳前後の男性と、南側に20~40歳とみられる男性二人の被葬者が確認され、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、被葬者を覆う布などが、埋葬当時の状態のまま見つかっています。

そんな藤ノ木古墳・・・石棺内の調査は、その昭和六十三年に終えましたが、出土した多くの品々の調査が今なお続いており、イロイロ話題をふりまいてくれています。

もちろん、その被埋葬者が誰であるのかは未だ不明なわけですが、やはり、そこが一番興味のあるところ・・・

実は、この藤ノ木古墳の石棺内からは大量のベニバナの花粉が見つかっていたのですが、当初、その花粉は、被葬者を覆う布の染料に使用されたと見られていました。

しかし、その量がハンパなく多い事に疑問を抱いていた金原正明・奈良教育大准教授の研究によって、その花粉がほぼ100%の花粉である事が判明・・・逆に染料として使用すれば、花粉はほとんど残らない事が証明されて、この石棺内のベニバナは、染料に用いられたのではなく、生花が使用された可能性が高くなったのです。

つまり、現在の私たちが葬儀の時に、生の菊の花で飾るように、生のベニバナで埋葬者を埋め尽くしたという事です。

・・・という事は、ベニバナの咲く季節=夏に埋葬された事になります。

そこで、奈良芸術短大の前園実知雄教授は、被葬者は用明二年(587年)6月5日に亡くなった穴穂部皇子(あなほべのおうじ)ではないか?と推測します。

この穴穂部皇子は、第31代・用明(ようめい)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後の推古天皇である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立して殺され(6月7日参照>>)、果ては、そんな穴穂部皇子のバックについていた物部守屋(もののべのもりや)との「蘇我VS物部の大抗争」(7月7日参照>>)へと発展するきっかけとなった人物です。

そうなると、もう一人の被葬者は、穴穂部皇子が殺された翌日に、やはり殺された親戚筋の宅部皇子(やかべのおうじ)の可能性が高い事になりますが、それを裏付けるお話も・・・

この藤ノ木古墳内で発掘されている副葬品の中には製作ミスの物が混ざっていたりして、かなり、やっつけで、急遽副葬品を製作した感があります。

さらに、石棺内の被葬者の骨がくっついていた・・・つまり、当時は、亡くなってから一定の期間喪に服してから埋葬するはずが、がくっつくほど、死の直後に埋葬されているなど、急な死であり、急な埋葬であった事がうかがえ、その点でも、穴穂部皇子の可能性が高いのだとか・・・

ただ、石棺に入れられたベニバナが生花ではなく、保存用のドライフラワーだった可能性も捨てきれず、そうなると、季節は関係なくなります。

また、今年になって、被葬者の1人・・・南側の人物は女性という説も登場しています。

もともと、骨の鑑定から、男性とされた南側の人物ですが、北側の人物が20歳前後の男性とされたのに対し、南側は20~40歳の男性と見られる・・・つまり、その残っている骨の状態があまりよろしくなく、極めて鑑定し難い状態なのです。

そこで、奈良芸術短大の玉城一枝・非常勤講師は、身に着けていた装飾品に注目し、当時の埴輪や記紀に見られる手玉・足玉など、女性が身に着けていた可能性が高い装飾品を身に着けている南側の被葬者は女性ではないか?と・・・

もちろん、そうなると、北側のもう一人が穴穂部皇子・・・というのも、根本から見直す事になります。

「なんや、結局ワカランのかいな!」
なんて、言わないでくださいね(。>0<。)

こうして、いろいろな、ヒントをいただきながら、あーだこーだと推理していく事が楽しいのです。
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2009年9月24日 (木)

西南戦争~城山・最終決戦

 

明治十年(1877年)9月24日、城山での最終決戦が行われ、総指揮官である西郷隆盛が死亡・・・7ヶ月余りに渡った西南戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・

いよいよ西南戦争も最終段階・・・これまで、ブログに書かせていただいたキーポイントとなった部分を、振り返る意味も込めて、リンク表示させていただくと・・・

そして、本日・・・と、ずいぶんと空いてしまいましたが、この間の薩摩軍は・・・

熊本城を放棄して、一旦、人吉(熊本県人吉市)にて反撃しようとしますが、その人吉も6月1日に政府軍に占領されて宮崎へと逃走して、今度は宮崎内を転戦しますが、7月24日に都城(みやこのじょう)が陥落し、続く7月30日には宮崎も陥落し、その次の高鍋も落とされ、どんどんと北へと追いやられます。

やがて、8月14日には、本営を置いていた延岡も政府軍に占領されてしまい、その翌日には延岡を奪回すべく、西郷隆盛自らが陣頭指揮に立って気勢を上げますが、残念ながら敗退・・・このあたりになると、もはや投降する者が後を絶たなくなり、わずか600名ほどになって、政府軍に囲まれてしまった薩摩軍は、鹿児島での再起を誓って、夜の山中へと散り散りに逃走したのです。

しばらく姿を消していた彼らが、鹿児島に現れるのは、半月後の9月1日・・・約200日ぶりに本拠地に戻った薩摩軍は、新政府軍に占拠されていた私学校を奪回して各地を転戦・・・再び、鹿児島の大部分を占領しますが、そのニュースを伝え聞いて、続々と鹿児島に到着する政府軍に圧され、徐々に行動範囲を狭められていき、とうとう、鹿児島市街地の中心に位置する標高107mの城山に籠ります。

あくまで、降伏を許さず、最後の最後まで徹底抗戦の構えの薩摩軍は、岩崎谷という場所に10個ほどの横穴を掘って、西郷以下幹部らは、その中にて指揮をとります。

9月10日に到着した政府軍の総指揮官・山県有朋(やまがたありとも)は、「1に包囲、2に攻撃」の方針のもと、城山の周囲に土塁を築き、堀をめぐらし、柵を構築し・・・まさにネズミ一匹逃さない体制で囲みます。

その数、約5万人。
籠る薩摩軍は372人・・・兵糧は約50日分。

緊張が走る中、総攻撃を9月24日の午前4時に決定した政府軍・・・一方の薩摩軍では、「潔く死なれてこそ西郷先生・・・」と決死の抗戦を訴える桐野利秋(きりのとしあき)に対して、辺見十郎太(へんみじゅうろうた)河野主一郎(こうのしゅいちろう)らの間では西郷の助命を希望する声もあがっていて、河野は、その思いを抱いたまま、9月23日、軍使として、政府軍の参軍・川村純義(かわむらすみよし)に対面します。

しかし川村の返答は・・・
「何か言いたい事があれば、本日午後5時までに回答せよ」というものでした。

降伏勧告です。

河野は、そのまま政府軍に留め置かれ、もう一人、河野とともに軍使として赴いた山野田一輔が、その返答を持ち帰り、西郷に伝えます。

西郷の答えは・・・
「回答の必要はない」

これにて、全員玉砕するまでの徹底抗戦が決定しました。

その日の夜・・・薩摩軍では、最後の宴が催されたと言います。

かくして明治十年(1877年)9月24日午前4時・・・3発の号砲とともに、一斉に銃を乱射しながら城山を駆け上がる政府軍兵士たち・・・

各所に設置されていた砦は次々と破られ、わずか2時間ほどで、残るは本営のある岩崎谷だけとなってしまいました。

全員での自刃を覚悟した西郷以下、約40名の幹部らは、横穴を出て、岩崎谷の砦に向かって歩きはじめます。

その時、敵側から放たれた銃弾が西郷の脇腹と股に命中・・・西郷は、その場に倒れて、もう、立ち上がる事ができません。

「もう、ここでよか」
そばにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に向かってポツリと言って、その場で正座した西郷・・・

「ごめんなったもんし」
心を決めて、力いっぱい刀を振り下ろす別府・・・

西郷の死を見届けた別府も、まもなく、敵の銃弾に倒れます。

一方、何とか岩崎谷の砦にたどりついた幹部らは、ここで最後の抗戦におよびますが、、桐野をはじめ、次々と銃弾に倒れ、戦死しました。

総攻撃開始から約5時間・・・ここに、最大で最後の武士の反乱・西南戦争が終結しました。

そして、皆様ご存知のように、ここで西郷の首が確認されなかった事から、その後様々な憶測を呼ぶ事になります。

その後の、西郷さん関連の逸話については、コチラをどうぞ。

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2009年9月23日 (水)

織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い

 

天文十三年(1544年)9月23日、織田・朝倉の連合軍が稲葉山城下に火を放ち斉藤道三を攻めた井ノ口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

もともと南北朝の時代がら、美濃(岐阜県)守護だったのは、清和源氏の流れを汲む土岐(とき)・・・その配下に守護代斉藤氏がいて、その下に小守護代長井氏という序列だったわけですが、その土岐氏の後継者争いで、斉藤氏の推す兄・頼武(よりたけ)に勝利して、天文五年(1536年)に第14代守護となったのが土岐頼芸(ときよりなり)でした。

この時、頼芸を強く推して勝利へと導いたのが、頼芸に仕えていた長井長弘・・・ここで、その長弘とともに頼芸を支えて主家である斉藤氏を追いやったのが、京都の妙覚寺の僧から還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、当時、長弘の家臣となっていた人物・・・

彼は、もともと西村姓を名乗っていたのを、主君の信頼を得て、主家の長井姓を賜り、この頃は、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と名乗っていた・・・この人が斉藤道三(どうさん)のお父さんです。

近年の「六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)の発見により(1月13日参照>>)、今や、道三の出世物語は、親子2代の話である事が定説となっていますが、このあたりまでは、父である新左衛門尉さんのお話であろうとされています。

まもなく長弘が亡くなり、その息子の景弘が小守護代を継いだと同じ頃に新左衛門尉も亡くなり、こちらも息子の新九郎規秀(のりひで=道三)が継ぎますが、いつの間にか、景弘の名前が長井氏の公文書から消え(道三に殺されたとも)、規秀が、その名跡を継いでしまいます・・・つまり乗っ取っちゃいました。

先の長井氏のクーデターで落とした斉藤氏の居城・稲葉山城に道三が入り、その名を長井規秀から斉藤利政(としまさ)に変えたのは天文七年(1538年)頃と思われますが、その頃には、その名の通り斉藤氏の名跡も継ぎ、もはや守護=頼芸も名ばかりとなり、実権は道三が握っていたのです。

・・・と、長い前置きになりましたが、その頃から勢力をつけてきたのが、隣国・尾張(愛知県西部)の下4郡を支配する清洲織田家のひとり織田信秀(のぶひで・信長の父)です。

未だ、織田家内の内紛も続く中、隣国の三河(愛知県東部)松平にも手を出し、那古屋(なごや)を奪ったのは、ちょうど道三が斉藤を名乗り始めたかも知れない天文七年の事・・・ここを本拠地として他国への軍事行動を起こしはじめます。

ここで、水面下で動き始めた人が、もう一人・・・かの頼芸です。

天文十一年(1542年)に、道三によって追放された彼は、近江(滋賀県)に勢力を誇る六角氏六角定頼(さだより)の娘が嫁さんだった事で、有力大名の六角氏の支援を得られる自信からか、この信秀と、越前(福井県)朝倉孝景(たかかげ)の仲介役となるのです。

朝倉には、冒頭の土岐氏の守護争いで、頼芸に負けた頼武の息子・頼純(よりずみ)が庇護されていて、一時は、朝倉氏と六角氏が彼を推して頼芸と争った、言わば宿敵だったわけですが、もう、そんな事、言ってられません。

信秀にとっては渡りに船・・・。

一方の孝景としては、織田家とは、ともに斯波(しば)家の家臣という立場ではあるものの、朝倉は、守護代を任される直臣で織田家は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)・・・そこに、何等かのわだかまりがあったかも知れませんが、ホンネとしては、今現在も、「頼純を守護に・・・」という思いを持っていますから、ここは一つ、連携を組んで、道三を倒そうと、一歩踏み出したのです。

かくして、天文十三年(1544年)9月、織田・朝倉連合軍が美濃への侵攻を開始します。

19日には、赤坂の戦いで勝利し、その勢いのまま、連合軍は、天文十三年(1544年)9月23日道三の稲葉山城に迫ります。

ふもとの城下町・井ノ口に火を放って焼き払い作戦にでますが、この時は、道三の巧みな反撃を受け敗走・・・斉藤軍の追撃を受けた織田軍は、木曽川へと追い詰められ、5000の死者を出すという大打撃を受けてしまいますが、ころんでのタダでは起きない信秀・・・大垣城だけは占領します。

しかし、結局は、その後も道三に翻弄され、美濃侵攻はいっこうにはかどらない信秀も、一方の国内では順調に勢力をのばし続け、自国の守護・&守護代をしのぐ勢いなり、尾張の半分以上を制したばかりか、美濃の西半分も手に入れます。

なのに、やっぱり道三とは・・・と、このお話は、信秀VS道三の最後の戦いとなる加納口の戦いのページでどうぞ>>
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2009年9月21日 (月)

築城の匠~家康専属大工・中井正清

 

慶長十九年(1614年)9月21日、大工頭・中井正清が、徳川家康に、宇治川開削計画を上申しました。

・・・て事で、本日はブログ初登場の中井正清さんをご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・

このブログに興味を持って、覗きに来てくださるかたなら、おそらくは奈良法隆寺に行かれたかたも多いと思います。

大仏さんと並んで、奈良観光の定番ですからね。

Houryuuzitizunisisatocc_3 ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、金堂五重塔がある西院を見て、次に夢殿のある東院へ・・・という感じで拝観される事が多いでしょうね。

すべての拝観が終っても、あとは、再び南大門から出てJR法隆寺駅へ向かうか、あるいは、西院と東院の間の道を北へ行き、法輪寺法起寺へ・・・というパターンだと思います。

地元の人か、あるいは、よほど藤ノ木古墳に興味のあるかたくらいしか、西大門からはお出になりませんが、実は、この法隆寺の西大門を出てすぐの所から、しっくいで塗り固められた低い築地塀が続く趣のある町並みが現れます。

Houryuzisaimoncc 法隆寺西門:門の向こうに、すでに町並みが見えています

落ち着きのある独特の雰囲気は、まるでタイムスリップしたように、なにやら、ゆっくりと時間が流れている空間のようにも思えます。

Dscn2543a800 ここは、西里(にしさと)と呼ばれる地区で、その昔、法隆寺を建て、そして、その美しさを維持していく大工集団が先祖代々に渡って本拠地とした場所だったのです。

中井正清(まさきよ)は、永禄八年(1565年)、この西里で生まれます。

父・正吉(まさよし)は、隆寺の修理・新築工事を一手に引き受ける大工でした。

正吉が活躍した頃は、ちょうど戦国後半に突入した頃・・・織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が天下を取り、それまでの争乱で荒廃しきった社寺の修復・再建が急ピッチで行われ始めた頃で、京都や奈良、堺の大工職人たちが大活躍していたのです。

そんな彼らの指導者的な役割を果たしていたのが、中井家でした。

この頃の中井家は豊臣家の大工頭であり、大坂城や京都・方広寺の大仏殿の建設も手掛けていましたから、むしろ豊臣専属・・・他の大名が、中井家に仕事を頼む事など不可能な状況だったのです。

しかし、やがて、訪れた政権交代・・・秀吉亡き後、その実権を握り始めた徳川家康は、若き後継者・正清を召抱えます。

徳川の威信を天皇に見せたい二条城の建設(5月1日参照>>)、征夷大将軍の宣旨を受ける晴れの舞台となった伏見城のリフォーム・・・正清は次々と大事業を手掛けていきます。

正清の腕前とともに、天下人のお抱え大工頭を配下に収めた事を、家康は大いに喜んでいたようで、それまでの徳川家の大工たちも存続させてはいるものの、序列としては中井家をトップに据えています。

正清も、期待に答えるように、その腕をふるいます。

慶長十年(1606年)の法隆寺の大修理の際は、その棟札(むなふだ・建築の記念として建物内部に取り付ける札)には、「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣(たちばなあそん)中井正清」と記して掲げました。

もはや、揺るぎない日本一の大工です。

あの大坂夏の陣では、城攻め用の大はしごなどの道具も製作・・・しかし、この事が怒りをかったのか、そのすぐ後に、正清の生家が豊臣配下の者に焼かれ、その時に、西里の多くの家屋も焼けてしまったと言われています。

ちなみに、正清自身が、それをきっかけに京都へと移り住んだ事で、西里に残った大工も、移転するか転職するかとなり、現在の西里は大工さんの町ではありません。

さらに、家康は、建築だけでなく、土木工事のいっさいも、すべて正清を通すようにと家臣たちに命令し、全信頼をおく事となります。

慶長十九年(1614年)9月21日宇治川開削計画を上申・・・まさにこの頃ですね。

やがて、家康が亡くなってから最初に埋葬された久能山の社殿も、さらに翌年に改葬された(4月10日参照>>)あの日光東照宮も正清が手掛けたのです(現在の建物は後世のものです)

ただ、その家康の後を追うように、3年後の元和五年(1619年)、正清もこの世を去ります。

中井家は、息子・正侶まさとも)に引き継がれ、さらに、その息子・孫へと受け継がれていき、その後も、京都御所下鴨神社上賀茂神社などの大修理を代々に渡って手掛けていく事になります。

思えば、豊臣時代の大坂城を手掛けたのは父・正吉・・・大坂夏の陣で、その城を攻める道具を作ったのは息子・正清・・・。

その時の正清には、父が手塩にかけた豪華絢爛な城が、自らの加勢によって燃えゆく事への迷いはなかったのでしょうか?

正吉の父・正範(まさのり)は、三輪神社(大神神社)の神官をつとめた巨勢(こせ)一族の人で、合戦に赴き戦死し、幼かった正吉は、母方の縁者である中井家にひきとられたと言います。

その息子である正清も、おそらくは、自らの作品に命をかける職人であると同時に、戦国のサムライでもあったのでしょう。

城は戦うために建てるもの・・・戦いに殉じる事こそ、本望なのだと・・・
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2009年9月20日 (日)

岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち

 

天正十八年(1590年)9月20日、日本三景の一つ・天橋立岩見重太郎の大仇討ちがありました。

・・・・・・・・・・

この日、天橋立(あまのはしだて)は、大変な見物客で賑わっていました。

丹後(京都府北部)宮津城主・中村一氏(かずうじ)が、恒例の軍馬調練を行うというのです・・・が、実は見物人は、それを見に来たのではありません。

諸国武者修行でその名を馳せた噂の剣豪・岩見重太郎(じゅうたろう)が、本日、ここで、父の仇討ちをするという事を聞き伝えて集まった人たちなのです。

重太郎の父・重左衛門(じゅうざえもん)は、あの毛利家傘下の小早川家の剣術指南役をめぐって広瀬軍蔵(ぐんぞう)という人物と試合をしますが、試合に負けた軍蔵が、そのはらいせに仲間二人とともに重左衛門を闇討ちにして逃亡していたのです。

その後、偶然、この地にいた時、もともと指南役を争うほどの腕前の持ち主だった重蔵の剣に惚れた城主・一氏が、彼を指南役として召抱えていたのでした。

一方、重太郎は、父・重左衛門、兄・重蔵、妹・の恨みを晴らすべく、諸国をめぐりながら、軍蔵と、その仲間である大川八右衛門(やえもん)鳴尾大学(なるおだいがく)の3名を探し続け、ここ宮津で見つけたのです。

・・・とは言え、最初は、重太郎が小早川家から受けた仇討免状を提示して仇討ちを願い出ても、もはや、かわいい家臣となった軍蔵らをかばって、なかなかOKサインを出さなかった一氏・・・ここに来てやっと許しが出たのです。

家老の福原一平太が、重太郎を呼び寄せて言います。

「来る9月20日に、軍馬調練を天橋立で行うので、現地に来て念願の仇討ちをされるがよかろうと、主君からの許しが出た。
当日は、家中の若者にも、後学のために、その一戦を拝見させたいというのがその意向である。
ただし、軍蔵は、今や指南役・・・家中の者は、皆、彼の門弟という事になるので、師匠のピンチを黙って見ているかどうかまでは保証できない」

思いっきり、助太刀する気満々ですやん!

しかし、重太郎、ひるみません・・・いや、むしろ、決死の覚悟を固め、戦いに挑むのです。

かくして、天正十八年(1590年)9月20日・・・

竹垣を張りめぐらした内側の一番奥、一段高くなった中央に座るは城主・一氏・・・。

そのそばには、家老をはじめ近侍が約30名・・・さらに、両側に源平に見立てた赤備えと白備えの武将がズラリと旗指物も勇ましく並びます。

そう、この日の調練は、源平打ち込み大調練=武将が、それぞれ、源氏と平氏に分かれて合戦シュミレーションを行いながらの訓練・・・まさに、彼らは完全武装です。

そこへ、重太郎がやってくる・・・

「おのれ!狼藉者!」
「それ!曲者を討ってしまえ!」

「おいおい、後学のために拝見やなかったんかい!」
と、突っ込む間もなく、罵声を浴びせながら、重太郎に斬りかかる武者たち・・・。

重太郎は、槍を打ち振り、邪魔者をなぎ倒しながら、目指す相手を求めて、奥へ奥へと進みます。

しかし、なにぶん、敵は大勢、こちらは1人・・・次から次への新手の登場に、なかなか前へは進めません。

・・・と、そこへ、どこからともなく、六尺はあるかという鉄棒を手にした巨漢の男が、群がる武者の前に躍り出て・・・

「我こそは、伊予松山城主・加藤左馬頭嘉明(さまのかみよしあき)が家臣・塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)なり!
義弟・岩見重太郎の仇討ち、卑怯にも多勢で返り討ちにせんとする計画を、遠く大坂にて聞きつけ、助勢のために馳せ散じた!」

そして、もう一人、新たな助太刀・・・

「我こそは黒田甲斐守長政(かいのかみながまさ)が家臣・後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)である!
義兄弟の契りを結んだ岩見重太郎が敵討ちと聞いて助太刀に参った!」

名乗りもそこそこに暴れまわる剣豪3人に、中村配下の者たちは、もはやたじたじに・・・やがて、形勢不利と見た一氏は、そそくさと帰り支度をはじめます。

「こうなったら勝負するしかない・・・」
しかたなく、軍蔵ら3人は、太刀を抜いて構えます。

「おぉ、広瀬、大川、鳴尾・・・探したぞ!
本日、これほどの見物人の前で仇討ちできるも神の思し召し、いざ!尋常に勝負におよべ!」

使いきった槍を捨て、重太郎も太刀を抜きます。

団右衛門と又兵衛は、その脇にて、邪魔する者を蹴散らさんと立ちはだかりますが、もはや城主が帰り支度をしている段階で、軍蔵らを助けようという者もいません。

しかし、そんな軍蔵だって、腐っても(腐ってないが)剣術指南役・・・彼らも剣豪なのです。

疲れきった身体を、目指す敵が現れた事で、今一度奮い立たせる重太郎・・・。

斬りつけた軍蔵をヒラリとかわして振り下ろした刀は、見事、その肩をとらえ、左右から襲い掛かった八右衛門と大学を受け流しつつ舞い踊る・・・大学を左肩から袈裟がけにすると、逃げようとする八右衛門の背中へ一刺し・・・

重太郎がめでたく本望を成し遂げるさまを、竹垣の向こうから見守っていた数万人の見物人がはやしたて、たちまちにして、あたりは歓喜の渦に包まれる・・・

・‥…━━━☆

以上が、岩見重太郎の大仇討のお話ですが、お察しの通り、怪しさ満載。

実は、彼は講談・歌舞伎のヒーローで、一時代前はアムロ仮面ライダーにも負けないくらいの少年たち憧れの存在・・・このお話も超有名な物語でした。

それこそ、真田幸村猿飛佐助日本武尊(ヤマトタケルノミコト)などど並び称される豪傑として人気があり、その諸国武者修行時代の「ヒヒ退治」のサブストーリー(2月20日参照>>)まで誕生しています。

そのおおもととなったのは、安政五年(1858年)に出版された一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)『岩見重太郎実記』なる書物だそうですが、その後も歌舞伎やお芝居などで多くの作家が手掛けています。

講談では、この仇討ちの後、重太郎の伯父という人物が登場して、彼は、その縁から関ヶ原の合戦へと向かいますが、そこで、その伯父・薄田七左衛門(すすきだしちざえもん)の姓を名乗り、その名を、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)と改めて参戦するのです。

出た~!

大坂夏の陣のヒーロー薄田隼人だぁぁぁぁヽ(´▽`)/
薄田隼人については5月6日参照>>)

それで、助太刀が後藤又兵衛(5月6日参照>>)と塙団右衛門(12月16日参照>>)だったんですね・・・って、浸ってる場合ではないな・・・

あまりのヒーロー揃いぶみに、ウルトラ6兄弟のようになってしまっているあたりは、さすがに講談の世界なんだろうなぁという感じです。

そのため、宮津の城主も中村大輔だったり一色小輔だったりと、作家によってまちまちですし、重太郎が相手にした人数も、300人から、果ては3000人と、あり得ない数にまで膨らみます。

肝心の仇討ちの日づけさえ、今回の9月説あり、10月説あり、中には寛永九年(1632年)9月20日とするものもあって、「そんなん、もう薄田さん死んでますやん!」てな事にも・・・。

また、以前、書かせていたように、薄田隼人自身がすでに伝説に彩られた謎の人なので、大坂夏の陣で戦死した時の年齢さえ定かではありませんが、彼の武技だった「兼相流」の秘儀を伝える『武家諸派辞典』なる書物によれば、没年齢が23歳となっているので、こちらはこちらで、仇討ちのあった天正十八年(1590年)には生まれていない事になってしまいます。

とは、言うものの、現在の天橋立には、岩見重太郎の試し斬りの石仇討ち跡という史跡も残されていて、まったくの作り話ではないようです。

その人物が岩見重太郎と名乗っていかどうか、そして、その人物が薄田隼人なのかどうかは別にして、おそらくは、ここ天橋立で、仇討ち事件のような事があった事はあったのでしょう。

そして、いつしか、そこに、剣豪と呼ばれるヒーローたちを結びつける事によって、よりストーリーが盛り上がる・・・

ただ、「伝説だ」「作り話だ」と言って、これをあなどってはいけません。

これらは、その内容が事実かどうかよりも、伝説や作り話が生まれ、それらが人々に受け入れられ、そして長く言い伝えられる事に意味があるのです。

平将門の怨霊しかり(2月14日参照>>)
豊臣秀頼&真田幸村の生存説しかり(5月8日参照>>)・・・

そこには、現在の政権にあらがいながら敵となって散っていったヒーローへの、庶民のささやかな希望が込められているのです。

はてさて、この平成の世の岩見重太郎=薄田隼人は、いずこにおわします事やら・・・。
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2009年9月18日 (金)

失敗してもくじけるな!どん底からの復活・仙石秀久

 

天正十四年(1586年)9月18日、仙石秀久が、羽柴秀吉島津討伐軍・先鋒の軍監として豊後・府内に着陣しました。

・・・・・・・・・・

あの耳川の合戦(11月12日参照>>)の勝利以来、その勢力を九州全土に広げんが勢いで豊後(大分県)大友を圧迫する薩摩(鹿児島県)島津・・・。

島津の攻撃に耐えかねた大友宗麟(そうりん)は、天正十四年(1586年)4月、前年に四国を平定して、今、まさに、天下統一を目前にした羽柴豊臣)秀吉援軍を依頼します(4月6日参照>>)

この時、秀吉の命を受け、先鋒の大将として駆けつけたのが讃岐(香川県)高松城主の仙石秀久(せんごくひでひさ)でした。

彼は、自称・土岐氏で、はじめは美濃(岐阜県)斉藤氏に仕え、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると信長に、信長が本能寺で倒れると秀吉に・・・と、順に主君を変えて、その都度武功を挙げてきました。

そして、賤ヶ岳の合戦のあった天正十一年(1583年)頃、これまでの功績により、淡路洲本を与えられ、5万石の大名となります。

天正十三年(1585年)にはじまった四国征伐(7月25日参照>>)では、宇喜多秀家(うきたひでいえ)黒田孝高(如水)らとともに讃岐ルートで参戦し、その時の活躍によって讃岐高松10万石を与えられたのです。

・・・で、冒頭に書いた宗麟からの救援要請です。

かくして、秀吉から先鋒を命じられた秀久は、天正十四年(1586年)9月18日軍監として豊後・府内に着陣しました。

軍監とは読んで字の如く、軍を監督するという役どころ・・・この時、彼の率いる先鋒軍の他に、讃岐虎丸城主の十河存保(そごうまさやす)土佐岡豊(おこう)城主の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)も軍を率いて参戦したわけですが、そんな他の軍も含めて、軍全体を監視し、チェックする役割です。

簡単に言うと、上記の二人=存保と元親の監視です。

なんせ、この二人、これまで四国を巡って争っていた敵同士なわけですから・・・

存保は讃岐&阿波(徳島県)に勢力を誇った三好義賢(みよしよしかた)の息子。

元親は土佐(高知県)出身で、そんな彼らを倒して、一旦は四国統一を果たした人物・・・存保は、元親から追われた後に、秀吉の傘下となり、四国征伐に従軍した事で旧領を取り戻していたのです。

そして、その元親を抑えて四国を平定した秀吉から、この軍団のまとめ役を任されたのが秀久というわけですが、そんな因縁の二人を、そう簡単にまとめられるはずもなく、まして、軍監というのは、総大将ではなく、作戦の指揮・命令を出せる立場ではないので、合戦の方針は、3人で相談して決めなければならない・・・

嵐の予感が満載ですが、そんな中で突入したのが、11月25日の戸次(へつぎ)川の合戦(11月25日参照>>)・・・。

大友の軍を加えても1万足らずの秀吉軍に、対する島津は2万5000・・・ただでさえ数が劣るのに、意見がまとまらずギクシャクしたままでの開戦は、予想通りの大敗を喫してしまいます。

しかも、かの存保自身と元親の嫡男・信親(のぶちか)が討死するという大きな犠牲を出したうえ、自分だけが戦場を先に離れて逃げ帰るという大失態を演じてしまいます。

この状況に激怒した秀吉は、秀久から所領を没収・・・高野山へと追放してしまいます。

いや、これだけの大失態、命があっただけでも儲けモンです。

しかし秀久・・・これにめげずに、拾った命を大切に使います。

その後、秀吉が島津を屈服させて、残る最後の大物=北条小田原城を囲んだ事を知ると、秀久は20人余りの家臣を率いて参陣するのです。

もちろん、一旦追放された以上、そのまま、すんなり受け入れられるわけがありませんから、徳川家康の陣を借りての仮参戦・・・

ところが、ここで秀久・・・一世一代の大パフォーマンス!

なるべく、秀吉の目を惹くように、最高に目だつ格好で、自らが最前線に立って奮戦しまくり・・・小田原城の要所の出入り口を占領するという大手柄を挙げます。

ちなみに、諸説あるものの、あの箱根仙石原は、彼が奮戦した事によって、その名で呼ばれるようになったという話が残るくらいの大活躍・・・

そして、わずかな人数での命がけのパフォーマンスは、その願い通り秀吉の目に止まり、その活躍に大喜びした秀吉から、信濃(長野県)小諸5万石を与えられ、再び大名に返り咲いたのです。

その後も、朝鮮出兵や伏見城の建築に尽力し、秀吉亡き後は、ちゃっかりと家康につき、江戸時代には初代・小諸藩主となって、城下町の整備に力を注く秀久の姿がありました。

どん底から、見事、這い上がった数少ない武将・仙石秀久・・・人間、追放くらいで諦めちゃぁいけません。
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2009年9月17日 (木)

12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?

 

康平五年(1062年)9月17日・・・この日の安倍貞任(さだとう)の死によって、東北の雄・安倍一族が滅亡し、12年続いた『前九年の役』が終了した事は一昨年の9月17日に書かせていただきました(2007年9月17日参照>>)

・・・とは言え、12年間に渡った戦いを、わずか1ページに集約できるわけもなく、まだまだ、書き足りない事山のごとしなんですが、本日は、とりあえず、以前から気になっていた事を書かせていただきます。

それは、この『前九年の役』と、この20年後に起こる『後三年の役』・・・後三の役については11月14日参照>>

先に書きましたように、『前九年の役』は12年『後三年の役』は5年間に渡る戦いなのに、なんで「前九年」と「後三年」なのか?

そもそも、その後につく「役(えき)」って何?・・・いや、役=戦役で、結局は戦争・合戦を意味してるのはわかってますが、なんで、この二つの戦いだけ「役」って呼ぶのか?

どうでもいい事ではありますが、気になった事は解決しておくに越した事はないので、チョイと調べてみました。

・‥…━━━☆

・・・で、合戦の事を「役」という言い方・・・これは、そもそも、明治維新となって、江戸時代の武士とは違う西洋式の軍隊が発足する中で、陸軍参謀本部が、今後の作戦を考えるにあたって、これまで国内で行われた戦史をまとめる時に、それらの戦いの名称を「関ヶ原の役」「桶狭間の役」「大坂の役」といった具合に、「役」という呼び方で統一したのだそうです。

Hasimotohoudaiba2cc そう言えば、以前、訪れた橋本砲台場跡の石碑にも「戊辰役」と書かれてましたし、戦争経験者のお年寄りなんかは、今も「関ヶ原の役」っておっしゃいますよね。

つまり、これは昔の言い方・・・

ちなみに、旧日本軍は、日露戦争の事も「明治三十八年戦役」と表記するのだそうです。

・・・で、その影響で、明治の頃の大学の国史(日本史)の教科書用として発行された『稿本国史眼(こうほんこくしがん)が、「前九年の役」「後三年の役」と表記した事で、それが基準となって、その後、小学生用の国史教科書なども、「役」と表記するようになったのだとか・・・。

しかし、この当時は、上記のように、すべての戦いが「役」だったので、なんとなく納得できますが、現在では「関ヶ原の合戦」あるいは「関ヶ原の戦い」などと呼び、他の合戦も皆、その呼び方なのに、なぜ、「前九年の役」と「後三年の役」だけが、そのままなのか?

それは、この二つの戦いには、他の合戦とは違う特徴があったからだと考えられています。

まずは、上記の通り、長期に渡って戦闘状態が続いた事、さらに、範囲が広大であった事、そして、何より、誰と誰がという個人の武将同志の戦いではなく、朝廷が介入し、朝廷対○○という戦いになった事で、多くの兵が全国から動員され、より、大きな戦争、大きな軍役をイメージさせる「役」という言葉が、この戦いにだけ残ったのであろう・・・という事らしいです。

確かに、あれだけ戦乱が続いた戦国時代でも、「前九年の役」「後三年の役」のような戦いはなかったかも知れません。

あの石山合戦が11年・・・加賀の一向一揆に至っては、100年間戦い続けますが、いずれも相手は朝廷ではありませんし、加賀の一向一揆は、富樫を倒して始まり、上杉&朝倉との小競り合いを繰り返し、最終的に織田信長が引導を渡すという風に、次々と相手が変わってますからね。

・‥…━━━☆

そして、もう一つの疑問・・・12年間なのに「九年」、5年間なのに「三年」・・・

これは、もともと、「前九年の役」は、その年数から「十二年合戦」という名前で呼ばれていたのですが、鎌倉時代の中期頃から、その後に起こる「後三年の役」とごっちゃになってしまい、いつしか、両方の戦いを含めた全体の戦いの事を「十二年合戦」と呼ぶようになってしまっていたのです。

そこで、先の安倍氏滅亡の戦いと、後の奥州藤原氏が誕生する戦いを区別するために、12年から3年を引いて、先の安倍氏滅亡の戦いを「前九年の合戦」と呼ぶようになったのです。

では、なぜ、3年引くのか?

それは、現在は、「後三年の役」が、源義家陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥(青森県)に赴任した永保三年(1083年)から清原家衡(いえひら)を倒した寛治元年(1087年)の5年間と考えられていますが、その名前がつけられた当時は、義家が清原氏の内紛に積極的に参入した応徳三年(1086年)から、戦いを終えて京の都に凱旋する寛治二年(1088年)までが、それであると考えられていたため、3年・・・つまり「後三年」となり、先のように12年から3年を引いちゃったというわけです。

最初に間違えて、ひっくるめて12年にしてしまった事と、3年をそのひっくるめたままの年数から引いちゃった二重の間違いから、12年なのに「前九年」、5年なのに「後三年」と名付けられ、そのままの名称で呼ばれ続けているわけです。

よく、「歴史は変わる」「歴史は日々新しくなる」と言われますが、実際には過去にすでに起こっている出来事が変わるはずはないわけで、それは、何か新しい発見があるか、認識の違い、考え方の変化によって新しい考えか生まれ、それが定説となるわけですが、たとえ、考え方が変わっても、名称は最初についた呼び名だっていうのを、改めて認識させられました。

まぁ、覚える側としては、ころころ名称が変化しても、ややこしいので、そのままでもいいんですけどね。
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2009年9月16日 (水)

直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い

 

慶長五年(1600年)9月16日、最上領に侵攻した上杉家の執政・直江兼続が、長谷堂城に総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・

「上杉に謀反アリ」のイチャモンをつけて、「会津征伐」と称して上杉にケンカを売っておきながら、畿内での石田三成の挙兵によって、サラリとUターンしちゃった徳川家康さん(7月25日参照>>)・・・

「背を向けた相手を攻撃するのは、義に反する」と、追撃を許可しなかった主君・上杉景勝(かげかつ)に従い、泣く泣く、家康との一戦を諦めた直江兼続(かねつぐ)は、そのウップンを晴らすかのように、隣国・最上義光(もがみよしあき)の領地へと侵攻します。

先日の大河ドラマでは「最上が攻めて来た!」と、あたかも、上杉が被害者のようになってましたが、この最上領は、もともと上杉が手に入れたい場所・・・

豊臣秀吉の置き土産となった越後から会津へのお引越しで与えられた領地は、真ん中で分断された形になっていて何かと不便でしたが、この最上の土地が手に入れば、その悩みも解決しますし、万が一、関ヶ原で家康が大勝して、その勢いで再び「会津征伐」を再開したとしても、後方の宿敵=最上がいなければ、挟み撃ちされる心配もありません。

なんせ、この時は、まだ誰も、あの天下分け目の戦いが、わずか一日で決着するとは思ってもいませんでしたから、兼続には、充分な時間があるはずでした。

そんなこんなで、慶長五年(1600年)9月9日に、居城・米沢城を出陣した兼続は、最上配下の支城を次々と落とし、長谷堂城へと迫ります・・・と、先日はここまでお話させていただきました(9月9日参照>>)

長谷堂城は、山形城の南西7kmに位置する小高い丘のうえにあり、その丘が天然の要害となっている最上の支城の中でも、最も堅固な城でした。

9月15日・・・西では、関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城へ到着した兼続は、城から1,2km離れた菅沢山に本陣を構えました・・・その数、約1万8000!

迎え撃つ長谷堂城には、城将の志村光安(あきやす)以下、わずか1000名!

Hasedoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここが落とされたなら、もはや山形城は風前の灯火・・・とばかりに、義光は、息子・義康(よしやす)北目城に派遣して、あの伊達政宗に救援を要請します。

これまで、東北の覇権を巡って、過去には、散々争ってきた最上と伊達ですが、なんだかんだで、政宗の母は、義光の妹・・・しかも、最上が倒れた後には、上杉は伊達の領地へと侵攻するに違いありませんし、家康の手前も、ここは最上を助けたほうが、政宗にとってもよろしい・・・

しかし、先日の家康のUターンで、後ろ盾を失った政宗は、落としたばかりの白石城(7月25日参照>>)を上杉に返還し、和睦を結んだばかりです。

そこで、政宗は自らは動かず、叔父・留守政景(るすまさかげ)3000の兵をつけて山形に派遣しました。

かくして慶長五年(1600年)9月16日長谷堂城への総攻撃を開始する兼続・・・しかし、城門はピッタリと閉ざされ、徹底抗戦の構えの光安は、上杉勢を容易に近づけさせません。

その日の夜の事・・・今度は、最上勢が夜襲をかけます。

この時、菅沢山の上に陣を敷いていた兼続の主力部隊でしたが、春日元忠だけは、その麓に陣を構えていたのです。

少ない兵なれど、地の利がある光安は、そこを狙います。

ふいを突かれた元忠はあわてて山の上の本陣に敗走・・・

その後も、兼続は連日の攻撃を仕掛け、外堀のあたりまでは侵攻するのですが、そこまで来ると山上からの鉄砲の集中放火を浴び、苦戦に次ぐ苦戦を強いられてしまいます。

この結果にいらだつ兼続は、将兵に、周辺の田んぼの苅田を命じて、最上勢を挑発します。

ちなみに、この苅田・・・なんだか、米泥棒のようでセコイ気がしますが、「刈り働き」と呼ばれる、れっきとした作戦の一つです。

収穫間際の刈り働きは、相手の兵糧をピンチにさせるだけでなく、略奪した稲は、自分とこの兵糧となって一石二鳥・・・(って結局泥棒かい!)

また、季節によっては、稲や麦が、まだ、実っていない段階で襲う事にもなりますが、この場合は、自分ところは、ともかく、相手の兵糧は減らせるわけですから、それでも充分効果アリ、これを「青田刈り」と呼びます。
(出世しそうな新人兵士を、他人より先にスカウトする事じゃないですww)

もちろん、「そうはさせるか!」と、敵がおびき出されてくれれば、襲う側としては思う壷・・・そこで、ガツンとやっちゃえるわけです。

ところが、どっこい、今回ばかりは、そんな兼続の上をいく武将が最上におりました。

山形城から、救援に駆けつけたばかりの鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)でした。

まずは、わずか100ほどの人数で、おびき出されたふりをして、苅田を阻止するために城外へ撃って出ます。

「そら、来た!」とばかりに、上杉勢が襲ってきたら、すぐに兵を退いて、大手門あたりへ誘い込む・・・そこには、約300挺の鉄砲隊を潜ませておいて、追ってきた上杉勢に一斉に銃弾を浴びせかけます。

この作戦で、30余名の上杉勢が命を落しますが、最上勢は1兵の損失もなく無事にに帰還・・・お見事でした。

その後も、連日の攻撃に、最上勢は、ある程度打撃を受けるものの、どれも戦況を左右する戦いには至らず、そうこうしている中、24日(29日とも)には、周囲を偵察していた一隊が、敵に遭遇して、そのまま合戦になだれ込みました。

この一隊には、あの前田慶次郎や、新影流の始祖・上泉信綱の孫の上泉泰綱(かみいずみやすつな)もいましたが、気づいたときには、すでに周囲を囲まれてしまって、絶体絶命・・・。

何とか前線に立って10騎ほどを討ち取ったところで、急を聞いた兼続は、慌てて400の兵を現地に向かわせますが、奮戦空しく、泰綱は、ここで命を落としてしまいました。

途中からは、かの伊達の援軍も到着し、最上の士気はますます高くなります。

兼続は、他の最上の支城と同様に、この長谷堂城も、簡単に落せると踏んでいたようですが、その思惑通にはいかなかったようです。

そんなこんなの9月30日・・・さらに、上杉にとって悪い知らせが舞いこんできます。

そうです。

あの関ヶ原で、三成率いる西軍が敗れた事・・・

たとえ、この戦いで上杉が最上に勝ったとしても、天下が家康のものとなれば、何の実りもありません。

動揺する兵士たち・・・なんせ、上杉軍は1万8000という大軍、こうなったら、これを速やかに撤退させなければなりません。

このブログでたびたびお話しているように、撤退が進軍よりもはるかに難しい事は、孫子(そんし)の昔からの定番・・・

ここまで、あまりいいとこのなかった兼続さん、この撤退劇で、その名を残す事になるのですが、そのお話は、撤退戦が行われる10月1日へどうぞ>>
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2009年9月15日 (火)

討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近

 

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦・・・

関ヶ原の合戦で活躍した重要人物、しかも、人気の武将であるにも関わらず、未だ、このブログにほとんど登場していなかった( ̄Д ̄;;

そうです!島左近(しまさこん)です!

彼は、西軍の主要人物でありながら、大谷吉継とともに、ただ二人、その首が発見されていない人物・・・吉継の首については、昨年、湯浅五助藤堂高刑(たかのり)の逸話(2008年9月15日参照>>)を書かせていただきましたが、左近には、そんな逸話もありません。

関ヶ原にて、この島隊と直接対決した黒田隊・兵士の回顧録『古郷(ふるさと)物語』にも、「その名を聞いただけで身の毛もよだつ」と書かれているように、その『鬼左近』の呼び名にふさわしい猛将ぶりは、江戸時代になっても、黒田の家臣たちの語り草になっていたわけですが、「押し寄せる大軍に呑み込まれるように姿を消した」「深手を負いながらも槍を振るって奮戦し、壮絶な死を遂げた」と、さまざまに語られるものの、皆、記憶があいまいではっきりしない・・・

つまり、その姿が恐ろしすぎて、まともに見る事ができず、誰もその最期を確認していない・・・という事なのですが、もちろん、もし討ち取られていたなら、彼ほどの武将を首実検で見逃すのも、納得のいかないところです。

故に、当然の事ながら、やはりあります!生存説・・・『信長公記』では行方不明、『関ヶ原軍記』では西国へ落ち、『関ヶ原町史』では京都の寺に隠れ住んで、この後32年間も生存していた事になってます。

しかし、それこそ左近ほどの猛将・・・もし、生きていたなら大阪の陣に参戦しないはずはありませんから、やはり、この関ヶ原にて命を落としたのでしょう。

そんな島左近・・・その名は勝猛(かつたけ)とも清興(きよおき)とも言われますが、名前がややこしいところからして、その前半生が謎に包まれている事が垣間見えます。

その出身は、近江(滋賀県)尾張(愛知県西部)対馬などさまざまですが、現在では、大和(奈良県)東部の平群(へぐり)の国人で、筒井氏の家老であった島氏の人というのが有力となっています。

興福寺多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)『多聞院日記』には、永禄十年(1567年)に、その平群の島城で、25歳の息子が実父である城主や養母など、一族9人を殺害して家督を手に入れた事が書かれており、この息子が左近であったと見られます。

・・・とは言え、はっきりと島左近の名で、歴史上に登場するのは、筒井順慶(つついじゅんけい)のやり手の家老として、松倉右近重信(まつくらうこんしげのぶ)なる武将とともに、「筒井の右近左近」と称されるようになってからの事・・・

しかし、天正十二年(1584年)に、主君・順慶が病死し(8月11日参照>>)、その後を継いだ息子・定次(さだつぐ)とは、あまりしっくりいっていなかったようで、やがて筒井氏を離れ、蒲生氏郷(がもううじさと)から豊臣秀長秀保(ひでやす)父子に仕えて、朝鮮出兵の時には海を渡ったりもしましたが、その大和豊臣家も秀保の病死で改易となった事で、浪人として不遇の生活を送り、出家も考える日々の中、そんな左近に破格の待遇で声をかけたのが、石田三成だったのです。

この時の有名な話として・・・
当時、近江水口城主だった三成は、自らの知行・4万石の半分の2万石を以って「ぜひとも我が家臣になってもらいたい」と、左近に頭を下げたのだとか・・・

まぁ、左近が三成の家臣になったのは、三成が19万石取りの佐和山城主になってからという話もあり、上記の、「自らの知行の半分」というのは、少々オーバーな話かも知れませんが、「それだけ左近が欲しかった」というのは確かなようで、もし、創作であったとしても、その事を強調したいがための逸話という事でしょう。

それは、以前から度々書かせていただいているように、三成が戦場にて武功を挙げて出世するタイプではなく、その内政匠さで出世するタイプであったため、自らの武功を補ってくれる猛将の誉れ高い左近に目をつけた・・・左近は、左近で、その人物の配下の武将としてもう一花咲かせるにふさわしい智将にめぐり合えたという事で、二人の利害関係が見事に一致したといったところなのかも知れません。

♪三成に 過ぎたるものが二つあり
   島の左近と佐和山の城 ♪

「三成には分不相応な二つのもったないもの=島左近と佐和山城」

三成にとって、頼れるのは、尽くしに尽くしぬいた主君・豊臣秀吉1人・・・その秀吉が亡くなった豊臣政権下で、とても磐石とは言い難い地位にある中、左近は、その歌の通り、三成を唯一の主君として大いに活躍する事となります。

まずは、上杉の態度に激怒し(4月14日:「直江状」参照>>)会津征伐に向かう事になった家康を暗殺するべく、三成に進言します。

「そんな卑怯な手を使うたら、かっこ悪いがな」と、義を重んじる三成に対して、
「手段を選んでたら、目的は達成できまへんで」と、説得を重ねて説き伏せます。

かくして、東国へ下る家康を近江は石部宿で待ち伏せし、夜襲をかけるべく800の兵を用意します。

そう、昨日のページ(2009年9月14日参照>>)で、「五奉行の1人・長束正家(なつかまさいえ)家康・暗殺を計画していた」と書かせていただきましたが、これが、正家&左近の計画です。

ところが、この計画が事前に漏れて家康の知るところとなり、会津への出発を早めたために未遂に終ってしまい、左近は大いに悔しがったのだとか・・・

今年の大河ドラマ「天地人」では、「家康を暗殺する!」とイキリまくりの小栗三成を、若林左近が「止めたんですけど行っちゃいました」的なセリフをのたまい、妻夫木兼続が止めに行く・・・といった風なくだりがあり、初登場に期待していた左近ファンを、大いに悩ませたようですが、実際には、上記のように左近のほうがイケイケキャラだったのですから、ファンの落胆もわかる気がします・・・左近は、いくら歳をとっても、落ち着いたベテランのイメージではなく、常に先頭を走る燃える男であってほしいのです・・・前田慶次郎みたいに(←個人的意見ですが・・・(*v.v)。)

かくして、左近活躍の場は、関ヶ原へと移ります。

前日の杭瀬川の戦い(2008年9月14日参照>>)に勝利して左近のテンションも最高潮!・・・。

慶長五年(1600年)9月15日、午前8時頃に井伊直政隊の発砲によって開始された合戦・・・まずは、先頭にいた宇喜多秀家(うきたひでいえ・西軍)隊と福島正則(東軍)隊がぶつかる中、開戦から1時間ほどした頃、左近は、100名に満たないわずかな手勢を以って、本陣の笹尾山から討って出ます。

相手は黒田長政隊・・・少ない将兵を巧みに操って、鬼神のごとく迫る姿は、黒田隊を翻弄させ、しだいに黒田隊は押され気味になります。

しかし、黒田隊も、はなから正面きっての攻撃だけでは、猛将・左近を討ち取る事は不可能との思いがあり、すでに鉄砲隊を迂回させており、あわやというところで、その迂回部隊が準備完了となり、一斉に銃撃を開始・・・混戦になる中、馬上にあった左近は、狙い撃ちさせ、重傷を負ってしまいます。

この黒田隊の側面攻撃は、左近だけでなく、石田隊・・・さらには西軍に大きな深手を負わせる事になってしまいました。

一旦、柵の中に戻った左近は、やがて、止血もそこそこに、再び馬上の人となり、敵の中でと撃って出て、いつしか群集の中に、その姿を消したのです。

以来、左近を見た者は誰もいません。

あまりの奮戦ぶりに、その姿を直視できなかった黒田家の兵士が、江戸の世になって語った左近のイメージは、ひょっとしたら夢幻の偶像なのかも知れません。

しかし、それこそが戦国武将のロマン・・・400年経った今もなお、左近のファンが尽きないのは、そこに、傷ついても果敢にアタックする戦国武将の理想の姿を抱いているからなのでしょうね。
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2009年9月14日 (月)

豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月14日・・・いよいよ明日は、天下分け目の関ヶ原!!!
って事は、今日は関ヶ原・前夜祭(祭りではないが・・・)

この日の正午頃に赤坂に到着した徳川家康は、赤坂を見下す事ができる小高い丘・岡山に陣取り、作戦会議を開きますが、「野戦に持ち込みたい」がために、逆に、西軍が本陣をおく大垣城「城を水攻めにする作戦である」ウソの情報を流します。

一方、その時、大垣城にいた石田三成は、家康が、思ってた以上に早くついた事に驚き、配下の島左近偵察隊として派遣し、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いとなったわけですが、この戦いに勝利して士気あがる西軍の島津義弘宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、「家康・本陣への夜襲」を提案しますが、三成はこの案を一蹴し、関ヶ原での決戦を決意します(くわしくは2008年9月14日のページで>>)

・‥…━━━☆

・・・と、9月14日の両軍の現地での様子はこんな感じでしたが・・・

何度か、書かせていただいています通り、結果的に今後の歴史を大きく変え、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦ですが、この時点では、あくまで、豊臣家の家臣同士での争い・・・西軍も東軍も、皆、豊臣政権の一員なわけです。

・・・で、この時の豊臣政権の中心と言えば、豊臣秀吉が未だ幼い秀頼を中心にしての政権維持を計るために定めた五大老&五奉行・制度・・・

その五大老は・・・
●五大老
 ・徳川家康
 ・毛利輝元
 ・前田利長
 ・上杉景勝
 ・宇喜多秀家  の5人・・・

このうち、家康は上記の通り東軍の総大将で、輝元は西軍の総大将として大坂城の守備に、利長は東軍として北陸にて戦い(8月8日参照>>)、景勝の上杉は東北にて東軍に属する最上攻めの真っ最中(9月9日参照>>)、秀家は翌日の関ヶ原で福島正則隊と死闘をくりひろげます。

そして、五奉行は・・・
●五奉行
 ・前田玄以
 ・長束正家
 ・浅野長政
 ・増田長盛
 ・石田三成  の5人・・・

・・・て事で、本日は、この五奉行の「それぞれの関ヶ原」と題して書かせていただきますが、三成はご存知の通りです(くわしくは関ヶ原の年表で>>)し、五奉行筆頭の前田玄以(げんい)については、すでに玄以さん主役のページ(5月7日参照>>)を書かせていただいているので、今回は残りのお3人について書かせていただきますね。
 

長束正家(なつかまさいえ)

正家は近江(滋賀県)水口(みなくち)10万石の領主・・・計算力に優れ、豊臣政権下では検地や財政に能力を発揮した人です。

この人は、最初の最初っから三成派で、例の家康の悪行を告発した弾劾状(7月18日参照>>)にも積極的に署名し、会津征伐に向かう家康を暗殺する計画までたてていたとか・・・

三成の挙兵後は、伊勢の安濃津城・攻略(8月25日参照>>)にも参戦しています。

もちろん、関ヶ原の本戦にも参戦し、その日は1500の手勢を率いて南宮山に布陣していました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、布陣図を見ての通り、すぐそばには、すでに家康との密約を交わしている吉川広家・・・結局、この動かぬ広家の妨害に遭って、まったく兵を動かす事ができず、勝敗が決する頃に、水口へと敗走しますが、東軍の池田輝政らに城を囲まれ、自害して果てます。(くわしくは10月3日参照>>)
 

浅野長政

長政は、秀吉の奥さん・お禰(ね・ねね)さんとは、義理義理兄弟・・・長政の奥さんが、お禰さんの義理の姉妹(または姉妹)だった縁で秀吉に仕え、武功にも行政にもその手腕を発揮し、甲斐(山梨県)22万石を領していました。

もともと家康寄りで、三成とは犬猿の仲だったと言われますが、関ヶ原の前年には家康への暗殺を疑われて謹慎処分となっているので、その話は疑わしいと思います。

家康寄りなら、謹慎させる必要ありませんから、この一件は、むしろ長政が、三成派であって、二人を引き離すために謹慎させた可能性・大ですね。

関ヶ原の当日は、秀忠軍に属していたので本戦には参加せず、息子・幸長が現地にで南宮山に布陣した西軍を牽制しています。
 

増田長盛(ましたながもり)

長盛は、秀吉が織田信長に仕えていた頃からの家臣・・・武功よりも内政面で活躍し、郡山20万石を領し、あの家康の弾劾状にも署名し、積極的に西国の大名を西軍に誘ったりもしてましたが、実は、三成が奉行職を解かれて謹慎になった頃から、すでに家康に通じていて、せっせと三成側の動きを家康に知らせていたとも言われます。

関ヶ原の当日には、守備隊として大坂城にいましたが、その時も、城内の仲間内では、家康への内通の噂が耐えなかったという事です。

そのおかげか、戦後、命を取られる事はなかったものの高野山へ追放され、その後、武蔵(埼玉県)岩槻に流罪となりました(その後については5月27日参照>>)

・‥…━━━☆

以上、それぞれの思惑、それぞれの関ヶ原・・・三成&玄以も含め、本人たちの行動とはうらはらに、戦後の処分には、家康の思惑が大いに絡んでいる事は確かでしょう。
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2009年9月13日 (日)

豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦

 

慶長五年(1600年)9月13日、九州の関ヶ原とも言われる石垣原の合戦がありました。

・・・・・・・・・・

・・・と、石垣原の合戦については、すでに一昨年の9月13日にも書かせていただいたのですが(一昨年のページ>>)、その時は黒田如水(じょすい・孝高)サイドの話に終始してしまったので、本日は、そのお相手・大友義統(よしむね)中心に合戦の内容をお話させていただきます。
 

義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた、あの大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子です。

20歳に満たない段階で宗麟から家督を譲られますが、隠居した宗麟が未だ大きな権力を持ち続けた事で、二元政治となったうえあの耳川の戦い11月11日11月12日参照>>)で大敗してしまいます。

やがて、坂道を転げ落ちるように衰えはじめ、隣国・薩摩(鹿児島県)の島津からの脅威にさらされる中、当時、天下統一しつつあった豊臣(羽柴)吉に救援を求めます。

その後、その秀吉軍が、島津を抑えて九州を平定した事により、豊臣政権のもと、豊後一国を与えられ義統は領国の統治にまい進しますが、朝鮮出兵の時、かの地で大失態を演じてしまします。

明の使者・沈椎敬(ちんいけい)と和睦交渉を行っていた小西行長が、騙まし討ちに遭って撤退した時に、後方の鳳山(ホンサン)の守りを任されていた義統が、「行長が討死した」との誤報を信じて先に撤退してしまい、救援を求めて城に入った行長隊を、あわや全滅の危険にさらしてしまったのです(1月26日参照>>)

これに激怒した秀吉によって大友家は改易となり、義統は、一旦、周防(すおう・山口県)に送られた後、常陸(茨城県)水戸の佐竹義宣(よしのぶ)のもとに預けられ蟄居(ちっきょ)の身となりました。

やがて、秀吉の死によって罪は許されて、その身は自由になりますが、旧領が復活する事はなく、浪人としての日々を送る事になります。

そんなこんなの慶長五年(1600年)です。

政情がにわかに不安定となり、流れ始めた関ヶ原への不穏な空気・・・
キタ━━━(゜∀゜)━━━ !!!!!
義統にとっては、豊後=大友氏・復活のチャンスです。

・・・とは言え、相手は、早々と東軍参戦への意志を表明した如水・・・一昨年のページでも書かせていただいたように、如水は、あの秀吉に「俺の次に天下を取るのはお前だ」と、言わせた男です。

そんな如水を相手に、ちょいと義統さん、無謀じゃありませんか?・・・と、言いたくもなりますが、それは、やっぱり、この後の歴史を知っているから言える事で、この時の義統にとっては、充分に勝算があったのです。

もともと、この時の彼は浪人の身ですから、東軍につこうが西軍につこうが自由・・・実際、如水や加藤清正から「東軍に参戦するように」との声をかけられたという話もあります。

しかし、義統は、あえて、西軍として如水と戦う事を選びます。

それは、秀吉からの改易の命令を受けた直後に、しばらくの間、周防にいた縁からか、毛利輝元に強く誘われたという事があります。

輝元は、何と言っても西軍の総大将です。

しかも、豊後に帰国するにあたって、大坂城豊臣秀頼から、具足100領、長柄槍100本、鉄砲300挺、銀100枚、馬100頭を引き出物として与えられたほか、勝利のあかつきには、豊後一国を複領する約束も取り付けています。

総大将のお誘いに豊臣家のバックアップ・・・何となく、これならヤル気になるのも、わかるような気がします。

かくして、その態勢を整えるべく、豊後へと向かう義統でしたが、その旅の途中、旧臣・吉弘統幸(よしひろむねゆき)と再会します。

統幸は大友家譜代の重臣で、先日書かせていただいた立花道雪(どうせつ)(9月11日参照>>)とともに大友家を支え、岩屋城で壮絶な最期をとげた高橋紹運(しょううん)(7月27日参照>>)の甥にあたる人物・・・

義統が改易の身となった時から、その紹運の息子である立花宗茂(むねしげ)柳川城に身を寄せていたのですが、昨今の不穏な空気を察して、義統の息子・義乗(よしのり)を補佐しようと、九州から江戸に向かっている最中だったのです。

統幸は、義統に東軍での参戦を訴えますが、上記のように、すでに西軍での参戦の決意が固い義統・・・「主君のお気持ちとあらば」と、彼も従う事になりました。

豊後に戻った義統のもとには、旧臣を含め、たちまちのうちに2000ほどの兵が集まります。

早速、集まった兵を率いて、細川忠興(ただおき)が不在の杵築(きつき=木付)(大分県杵築市)を取り囲む義統でしたが(9月10日参照>>)、その事を聞きつけた如水が救援に駆けつける事を知り、一旦、杵築城の包囲を解いて、立石(別府市)へと引き揚げ、迎え撃つべく態勢を整えます。

かくして慶長五年(1600年)9月13日、大友軍と黒田・細川連合軍は、石垣原(別府市鶴見一帯)でぶつかる事となります。

その日の未明に、黒田軍の先遣隊が到着した杵築城では、留守を預かる細川家の家臣・松井康之有吉立行らが彼らを迎え入れ、ともに石垣原へと出陣しました。

一方の大友軍は、境川の南に築かれた立石砦を拠点に布陣します。

Isigakiharafuzinzucc_3 ↑クリックしていただくと複数の布陣図が開きます
(このイラストは戦況と位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

細川勢・約200に黒田勢・約2000を加えた連合軍に、約900の大友勢・・・戦端が開かれたのは、その日の正午頃でした。

まずは、大友勢の鉄砲隊が一斉に攻撃を開始・・・それを受けて、黒田勢の先手・久野次左衛門(ひさのじざえもん)が突撃し、続いて実相寺山(じそうじやま)に布陣じていた松井康之も突撃します。

しかし、激しい鉄砲隊の攻撃に次左衛門が戦死・・・久野隊が、一旦、後退する中、それでも松井隊は踏ん張り続けますが、「あまりに危険」とばかりに井上之房(ゆきふさ)が康之を説得し、ようやく後退します。

それを期に、大友勢の先手である吉弘統幸と二手の宗像鎮続(むなかたしげつぐ)が前へと押し出ます。

このあたりは、断然・大友勢が優勢・・・一時は、連合軍を実相寺山の麓にまで追い詰めますが、多勢に無勢で、ここらあたりで、少し疲れが・・・

それを、見逃さなかったのが之房・・・すかさず吉弘隊と宗像隊めがけて攻撃を仕掛けます。

一気に形勢逆転となり、味方の劣勢を見た義統は、ここで彼らに退却を命じますが、統幸はそれを聞き入れず、ますます奮戦・・・両軍入り乱れる中、偶然にも、之房と統幸の一騎打ちとなります。

武勇の誉れ高き統幸ではありましたが、この一騎打ちは之房に軍配が上がりました。

さらに、この後、鎮続もに討死してしまい、大友勢のテンションは一気にだだ下がりとなります。

午後6時頃には、大友軍の敗色が決定的となる中、南下してきた如水・本隊が実相寺山の麓に到着・・・義統は立石砦に籠ります。

翌・14日から、「このまま一気に大友を全滅させるべき」との家臣の声に、「大友には私的な怨みはないのに、義統を殺すなんてのは、ちょっと・・・」と、如水がちゅうちょしていたところへ、義統から、配下の田原紹忍(たわらしょうにん)を通じて、黒田配下の母里友信(もりとものぶ)(6月6日参照>>)のもとへ降伏の申し出がありました。

こうして、石垣原の合戦は終結・・・奇しくも、その日は、あの関ヶ原で合戦が行われた9月15日でしたが、当然、九州にいる誰1人、その天下分け目の戦いの勝敗を知る者はいませんでした。

そう、「知らない」=「まだ、戦いは続く」です。
この後、如水は、杵築城の救援を優先したために、未だ落せていない諸城を落しつつ、関ヶ原で西軍に属している毛利勝信(かつのぶ=吉成)小倉城(こくらじょう=福岡県北九州市小倉)へと向かう事になりますが、そのお話は10月14日【九州の関ヶ原~小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】でどうぞ>>
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2009年9月11日 (金)

ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪

 

天正十三年(1585年)9月11日、大友宗麟に仕えた名将・立花道雪が、龍造寺氏配下の柳川城攻めの途中、高良山の陣中で病死しました。

・・・・・・・・

立花道雪(たちばなどうせつ)は、大友氏の一族・戸次(べっき)の13代目だった豊後(大分県)鎧ヶ嶽(よろいがだけ)城主戸次親家(べっきちかいえ)の息子で、幼名は八幡丸と言いました。

ちなみに、立花道雪という名前・・・立花という姓は、大友氏から毛利氏へと寝返った立花鑑載(あきとし)を自刃に追い込み(5月3日参照>>)立花城を落とした功績から、後に道雪が、立花城主となった時に、立花の名跡を継いで名乗ったもの。

道雪の名は、主君の大友宗麟(そうりん)が出家する時に、自らも、ともに出家して道雪と名乗ったもので、本名は戸次鑑連(べっきあきつら)と言います。

でも、ややこしいので、今日は立花道雪の名で通させていただきます。

・・・で、少年・道雪の初陣は、まだ元服も済ませていなかった14歳の頃・・・病気がちだった父に代わって、老臣・3名とともに2000の兵を率いて、周防(山口県)の名門・大内義隆を相手に、見事な勝利を収めました。

才気あふれる勇敢なわが子に大喜びし、戸次氏の将来を託して父は亡くなりますが、そんな前途洋洋&将来有望だった道雪に、まもなく人生の転機が訪れます。

『大友興廢記(おおともこうはいき)によれば、ある時、道雪が、大木の下で昼寝しながら涼んでいると、突然!閃光が走ります。

慌てて、枕元にあった千鳥の太刀を抜き、その者を斬りますが、その直後から道雪の足は動かなくなり、以降、千鳥の太刀は『雷斬(らいきり)と呼ばれた・・・とあります。

つまり、道雪が、雷に中にいた雷神を斬ったと・・・もちろん、これは、道雪の勇敢さをアピールする書き方で、実のところ、雷に打たれて半身不随になってしまったという事です。

この後、道雪は、出陣も乗り物=輿(こし)に乗ってするしかなくなりました。

しかし、彼はめげません・・・というより、むしろ、そのハンディこそが、彼をさらに強くしたようです。

自らの手足となってくれる配下の者を、誰よりも愛し、誰よりも信じ、誰よりもうまく使いこなす見事な指揮官となるのです。

『常山紀談(じょうざんきだん)には、道雪の残した言葉として、こんな言葉があります。

「勇将の下に弱卒なし」「武士に弱い者はおらん、もし、弱いと思われる者がおるんやったら、それは、その大将が悪いんや」と・・・

さらに続けて・・・
「俺の配下にも、そのさらに配下にも、弱いヤツはおらん!
もし、他んとこにおって、“俺って弱いんちゃうん?”と思てるヤツおったら、俺んとこへ来い!
みちがえるくらいに強したんでぇ」
と・・・

合戦の前には、下っ端の者とも、気軽に話しかけ、酒を酌み交わし・・・
「合戦の時に挙げる武功には、運不運っちゅーのがある。
お前が、強いって事は、俺が一番よ~ぉ知ってるねんから、変に手柄たてようと思て、抜け駆けなんかして、討死するなよ。
それは、忠義とは言わへんで」

んも~、優秀な上司に、こんな事言われて、ついて行かない部下はいません。

道雪のまわりには、常に100人ばかりの長い刀を持った若者が徒歩で周囲を固めていました。

定衆(じょうしゅう)と呼ばれる彼らは、いざ、合戦が始まると、そのうちの幾人かが、道雪の乗る輿の担ぎ手となり、さらに、敵が迫ってくると、道雪が三尺(約1m)ほどの棒にて、輿を叩いて拍子を取りながら、大声で指示を出し、敵陣に突っ込ませたりもしました。

そうなんです・・・道雪は、輿だからと言って、後方の座って指示を出すだけではなく、自ら、戦いの中に乗り込んで行ったのです。

そんな戦いの最中、多人数で担ぐ輿ですから、当然、乱れる事がありますが、そんな時は、その持っている棒で、容赦なく担ぎ手をポカリ!

「オイオイ!輿を担がされて、敵の中に突っ込まされて、オマケに棒で打たれるなんて・・・やってられねぇよ!」・・・と、思いきや、これが、皆、「愛のムチ」と受け止めていたのだと・・・

つまり、それだけ、家臣の心をつかんでいた・・・「この人のためなら、何だってやってやる!」と思わせる事ができていたって事のようなのです。

そんな担ぎ手には・・・
「ホンマにヤバイと思た時は、俺を、敵の真っ只中に担ぎ入れて、お前らは逃げろ」とも言ってたそうですから、そりゃ、命預けます!って言いたくもなりますわな。

現に、輿には、いざという時のために、常に二尺七寸(約82cm)の刀と、鉄砲・一挺も置いてあったのだとか・・・。

さらに、こんな事もありました。

ある時、家臣の1人が、道雪の側女に手をつけてしまいます。

事が発覚した以上、もはや、その命はないものと覚悟を決めるその家臣・・・

ところが道雪は、
「若い者が色恋に走るのは当然やないかい!
そんな、しょーもない事で、主君と呼ばれる者が人を殺したら、人は主君を信用できんようになる・・・法を犯したわけやないねんから、ほっとけ、ほっとけ」

と、笑ってすましたのだそうです。

ちなみに、その話を直接の上司から伝え聞いたその家臣は、後に、島津との合戦の中で道雪が窮地にたった時、「今こそ、報いる時!」とばかりに、敵の中に突入して命果てたのだとか・・・

ほんまかいな?と疑いたくなるほど良い事づくめの道雪さんですが・・・まだ、あります。

今度は、部下ではなく、主君・宗麟に対してのお話・・・

道雪は、宗麟よりも14歳年上だったのですが、その宗麟が30歳で北九州6ヶ国の守護と日向(宮崎県)の一部と伊予(愛媛県)の一部を手に入れた、まさに絶頂期・・・ちょっと、レールを踏み外します。

いわゆる天狗になる・・・というヤツ。

昼間っから酒を飲み、女をはべらせ、重臣が面会を求めても、部屋から出て来ない・・・当然の事ながら、内政も家臣に任せっぱなしだし、注意しようにも、その部屋から出て来ないんじゃ、できやしない。

・・・で、一計を案じた道雪・・・京都から、飛びっきり美人ダンサーを集団で呼んで、朝から晩まで休みなく躍らせます。

あの女好きの宗麟が、都一の人気アイドル集団に食いつかないわけがありません。

「ちょっと、覗いたれ」と、部屋を出た瞬間・・・
「国のため、家臣のため、そして、自分自身のために・・・やめとくなはれ!」と一喝!
宗麟、シュ~ン(´・ω・`)

まぁ、宗麟がおとなしくなるのは、怒られた時だけで、また、ほとぼりが冷めると、なんやかんやとやり出すんですが、道雪は、そのたんびに、諭していたのだそうです。

やがて訪れた、あの耳川の合戦・・・

実は、道雪は、この合戦にも反対していたらしいのですが、この合戦は、すでに立花城主になった後の事・・・耳川の合戦は、南側、薩摩(鹿児島県)の島津との戦いで、道雪が任されていた立花城は、毛利と取ったり取られたりの北の守りの要・・・

て、事で、結局、宗麟は戦いに突き進み、道雪は、従軍しなかったわけですが、ご存知のように、宗麟は大敗してしまいます11月11日11月12日参照>>)

大友氏のターニングポイントとも言えるこの合戦の後も見捨てる事なく、大友家一筋を貫いた道雪。

やがて、天正十二年(1584年)に起きた沖田畷の戦い(3月24日参照>>)で、龍造寺隆信が戦死した事をチャンスととらえ、当時は龍造寺の物となっていた筑後(福岡県)の奪回を目指して出陣しますが、その途中で発病・・・天正十三年(1585年)9月11日、3ヶ月の闘病空しく、北野・高良山の陣中で70歳(73歳とも)の生涯を閉じました。

この後、大友氏が坂道を転げ落ちるように衰退していくのは、皆様、すでにご承知の通りです。
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2009年9月10日 (木)

ツウな京都の路地あるき

 

京都観光と言えば、由緒ある大きなお寺や神社に、つい足が向いてしまいますが、その途中途中には、複雑に入り組んだ路地が存在します。

京都の細い道には、それぞれの名前があり、それぞれの歴史があり・・・

道端の小さな祠(ほこら)に手を合わせ、街中なのにゆっくりとした時間が流れる・・・

いつもの京都じゃない、そんなツウなひとときを味わってみませんか?

京都は、ご存知のように、中国・唐の時代の長安にならって、碁盤の目のように道が張りめぐらされていますが、大路小路と呼ばれるそれらの通り沿いには、お店や家が並んでいます。

しかし、その通り沿いだけだと、真ん中に空き地ができてしまってもったいない・・・って事で、その奥の空間に入るための細い道がつけられる・・・やがて、その細い道にも、お店や家ができ、さらに町は発展していくわけです。

この細い道は、一般的に路地(ろーじ)と呼ばれますが、厳密には、路地というのは奥に入って行き止まりになっている道の事・・・大路や小路を結ぶ(つまり通り抜けられる)道は、図子(辻子・ずし)と言います。

いずれにしても、つい見落としてしまうくらい細いのです。

Tatumibasi3a800

たとえば、田村はんのビールのCMでお馴染みの、この巽橋(たつみばし)付近・・・ここでは、CMにも写っていた辰巳大明神が目に止まりますが、そのすぐ近くに・・・

Dscn8158a330 今、明神さんの前で、奥様方が談笑されてますが、この写真に、すでに「巽小路(たつみこうじ)という路地が写ってますが、わかりますか?

Dscn8158abc200
写真のココです。
Tatumikouzi200 ホラ!
ありました。

そして、皆様よくご存知の八坂神社の・・・

Dscn8164a200
車がビュンビュン行き交う四条通
ここにも
Dscn8163a170 ビルとビルの間に
こんな感じ

しかも、奥には、創業120年の老舗の和菓子屋さん「甘泉堂」があったりなんかします。
Dscn8162a330
ここは、「四条花見小路東入ル北側八番路地」と言います。

Dscn8223171 また、有名な六波羅蜜寺の角を西へ行き、大黒町通との角のお風呂やさんの横にある「あじき路地」は、一見、普通の路地ですが・・・

奥に入ると・・・

 

 

Dscn8222330jpg 築100年近いお宅が12軒・・・
まるで、幕末にタイムスリップしたみたいです。

そして、最後にご紹介するのは、知る人ぞ知る
「膏薬図子(こうやくずし)

南北は綾小路通四条通をつなぐ図子で、東西は新町通西洞院通の間・・・あの賑やかな四条通を一歩入ると、ここまで空気が変わるか?と、驚くほど人通りがありません。

・・・で、「なんで、知ってる人は知ってるか?」・・・

Dscn3047a200

それは、ここは、その昔、平将門首がさらされていた場所だったという話・・・つまり、ここから首が、東京のかの地に飛んでいったわけですよ。

Dscn3043171jpg

途中には、将門を祀る「神田神社」があります。

あの空也上人が、将門の供養をした事から、空也供養」がなまって「膏薬図子」になったとも・・・

なんたか、今日は写真ばかりの記事になってしまいましたが、大好きな京都・・・清水や金閣も良いですが、たまには、情緒あふれる、こんなまち歩きもアリではないかと提案させていただきました~。

平将門の伝説については2月14日のページへ>>
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2009年9月 9日 (水)

関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻

 

慶長五年(1600年)9月9日、上杉景勝配下の直江兼続が、最上領へと侵攻すべく、居城・米沢城を出陣しました。

・・・・・・・・・・・

会津上杉景勝(かげかつ)上洛拒否(4月1日参照>>)と、上杉家の執政・直江兼続(かねつぐ)ケンカ売りまくり手紙=直江状(4月14日参照>>)に、会津征伐を決意し、伏見城を出陣した徳川家康・・・

迎え撃つ上杉も、前線となる白河(福島県)付近に土塁や掘を構築し、領内32ヶ所の支城に城代を配置して臨戦態勢のヤル気満々・・・さらに、兼続は弟・大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、領民による一揆を扇動させて、現・領主の掘秀治(ひではる)を牽制します(7月22日参照>>)

しかし、その間に留守になった伏見城を石田三成が攻撃(7月19日参照>>)した事から、家康は会津征伐を中止し、急遽、上方へと転進します(7月25日参照>>)

・・・と、これで、いよいよ関ヶ原の幕開けとなるわけですが、おそらく、来週の「天地人」では、このあたりをやるのではないかと思われます。

・・・で、本来なら、西へと戻る家康を追撃すべきところなのですが・・・というより、兼続は追撃するつもりだったわけですが、肝心の景勝が「謙信公は敵の背後を襲う事はしなかった」とか何とか言って、かたくなに追撃を許さず、すでにほとんどの事をやりたい放題にやってた兼続も、さすがに、これだけはっきりした主君の命令には逆らえず、泣く泣く諦めます。

・・・で、その代わりと言っちゃぁなんですが、かねてより欲しくてたまらなかった隣国・最上領への侵攻を考えます。

・・・と言うのも、家康は会津征伐に先駆けて、東北の武将たちに協力を要請・・・すでに書かせていただいたように、あの伊達政宗ヤル気満々で、もう、すでに出陣しちゃってました(7月25日参照>>)

ところが、その家康の転進で、状況が一変したわけです。

会津征伐のために、最上義光(よしあき)の居城・山形城に集結していた南部利直戸沢政盛秋田実季(さねすえ)といった東北の大名たちは、会津征伐が中止になって、家康が西へと戻った事で、当然の事ながら、皆、それぞれの居城に帰ってしまいます。

あのハリキリボーイだった政宗も、家康の援護なしでの会津侵攻は不可能と考え、奪ったばかりの白石城を撤退し、停戦を申し入れます。

もちろん、上杉側は、最上への攻撃に集中するためにも、「喜んで!」と、すんなりと和睦が決定・・・なので、義光は、単独で120万石の会津相手に戦わなくてはならなくなったわけです。

8月18日・・・義光は、嫡子・義康(よしやす)を人質に差出し、ほとんど無条件降伏といえる条件での講和を持ちかけますが、兼続はこれを一蹴します。

「兼続ヒドイ・・・講和したれよ」
と、思ってしまいますが、実は、これも、本当に義光が降伏しようとしていたかどうかは微妙です・・・ひょっとしたら、上方の情勢が、どのように展開するか、見極めるための、義光の時間稼ぎだったかも知れません。

ここは、武将同士の駆け引き&腹の探りあい・・・で、結局、半月近くたっても人質を出す気配がない事で、9月3日、兼続は、諸将に最上攻めの準備を命じました。

Hasedoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして慶長五年(1600年)9月9日兼続は、2万4000余りの兵を率いて、居城・米沢城を出陣します。

同時に、与板衆の木村親盛(ちかもり)と中山城代の横田旨俊(むねとし)率いる別働隊が高島城を出陣・・・兼続の本隊は畑谷(はたや)へ、別働隊は上山(かみのやま)へと向かいます。

比較的守りが手薄の周囲の支城から落としていき、徐々に、義光のいる山形城への包囲を狭めていく作戦です。

一方、今は亡き豊臣秀吉の変な転封命令で、分断された形になっている現在の上杉領・・・あっちの庄内側からは、酒田城主志駄義秀(しだよしひで)最上川に沿って、尾浦(おうら)城主下吉忠(しもよしただ)六十里街道を越えて、それぞれ最上領へと攻め込みます

9月13日・・・迫り来る上杉軍を前に、わずか350の兵の畑谷城・・・たまらず、義光は、城将の江口光清(あききよ)に撤退命令を出しますが、光清は聞き入れず、籠城作戦を決行します。

そこで、兼続が、城の南側に位置する片倉山を占拠して、一方の向かい側に鉄砲隊を配置し、両方からの同時攻撃を仕掛けると、さすがに、多勢の猛攻にはひとたまりもなく、光清以下、城兵はことごとく討死し、まもなく畑谷城は落城しました。

その後も、谷地(やち)寒河江(さがえ)白岩城などを次々と落とし、またたく間に最上領内の西半分の城を手に入れた上杉軍・・・いよいよ、西では関ヶ原の合戦が行われる事になる運命の9月15日、最上の支城の中では最も堅固な要害・長谷堂城へと迫るのです。

ただし、一方の上山城へと向かった別働隊2000余りは、城兵と伏兵の挟み撃ちに遭って苦戦し、16日には、親盛が討死し、旨俊が中山城へと逃げ帰ったため、こちらは惨敗となりました。

果たして、大河ドラマのように、兼続と三成の密約はあったのか?

いや、京都にいた時点での約束はなかったとしても、三成が毛利輝元に総大将を頼んでから関ヶ原まで、約2ヶ月あるのですから、充分連絡は取れますし、『続武者物語』には、兼続に宛てた6月20日付けの三成の書状が存在した事が書かれているし、『上杉軍記』にも密約をほのめかす文章が書かれている・・・(これが密約ありの根拠となってるわけですが・・・)

ただし、いずれも、まさか関ヶ原が、わずか半日で決着がつくとは想像できなかったわけで、兼続も、このまま長谷堂城の戦いへと突入していく事になります・・・続きは、長谷堂城への総攻撃が開始される9月16日へどうぞ>>

追記:判官びいきのワタクシ・・・このページを書きながら、今日は兼続が主役のはずなのに、ちょっとだけ江口さんを応援してしまいました~兼続ファンのかた、スンマセンo(_ _)o

だって、2万に350はかわいそ過ぎる・・・(;д;)
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2009年9月 8日 (火)

京町屋・特別公開「無名舎」と「紫織庵」に行きました

 

現在、特別公開中の「無名舎(むめいしゃ)「紫織庵(しおりあん)に行って参りました。

これは、「第34回・京の夏の旅」という、いわゆる京都観光を盛り上げるイベントの一環で、他にも、東福寺の三門と龍吟庵並河靖之七宝記念館の庭園など、計・5ヶ所の文化財が1ヶ所=600円の拝観料(なぜか紫織庵は500円でした)で、同時に特別公開されるというもの・・・

東福寺と七宝記念館はいずれも東山山麓・・・と、ちょっと距離があるので、今回は、やはり「京町屋が見たい!」という事で、冒頭の2ヶ所に行ってきました。

Mumaisyatizucc 場所は、紫織庵が新町通の六角上ル、無名舎が同じく新町通の六角下ル・・・京都に慣れたかたなら、これで大体の位置がわかるんですが、遠方から来られる方は・・・

とりあえず、地下鉄・烏丸御池駅を降りて、烏丸通を西へ行き、4つ目の新町通を左(南)へ曲がり、ひたすらまっすぐ・・・5~6分ほどで紫織庵、さらに新町通を南に3~4分で無名舎、もちろん四条烏丸からの逆バージョンだと8分ほどで無名舎、その向こうに紫織庵という事になります。

いずれも、普段は中には入れない普通のお宅で、今回は9月30日までの特別公開となります。

‥…━━━☆まずは無名舎

Dscn8100800_2 こちらは、いわゆる典型的な「表屋(おもてや)造り」と呼ばれるタイプの町屋です。

 

Mumeisyamadorizucc 京都に限らず、以前訪ねたならまちの格子の家(ならまちについては姉妹サイトの奈良歴史散歩へ>>もこんな造りでしたが、通りに面した玄関を入ると、表に面した格子の部屋があり、その向こうに中庭、さらに縦に家をつらぬく通り庭(走り庭)と、並行に住まいの空間があり、奥の庭、さらにへと縦長に続く感じです。

表に面した格子のある部屋は、おおむね店舗や私塾など、公に使用される部屋で、この格子は取り外し可能になっており、お店の形態によっては、バーゲンなどの時に、格子を外して大売出しをしたりするのだそうです。

Dscn8113a800 ちなみに、この格子・・・写真でご覧の通り、太い部分が細い何本かを挟む形となってますが、太い木の間に細いのが1本だと米屋や炭屋さん、2本だと呉服屋さんで3本だと糸屋さん、4本だと織物屋さんという暗黙のルールがあるのだとか・・・

現在の無名舎さんの場合は・・・
祇園祭の宵宮や宵々宮あたりに開催される「屏風祭」という、各お宅が、自慢のお宝を披露するという習慣・・・この時に、格子を取っ払って代々受け継いでいる自慢の品を展示するのだとか・・・

先に書いたとおり、普段は公開していない無名舎さんですが、「その時は、玄関まで開けっぴろげになってるので、今度は、ぜひ、祇園祭の時にお越し下さい」との事でした。

ところで、今回の見ものは、何と言っても「夏のしつらえ」です。

夏のしつらえ=つまり、建具から調度品にいたるまでのすべてを夏バージョンに切り替えてあるのです。

京都は、夏は暑く冬は寒いという盆地独特の気候・・・エアコンなんてない頃に、この夏の暑さをしのぐために、様々な工夫がされている・・・今回は、それを目の当たりにできるわけです(それが見たくて行ったんですが・・・(*゚ー゚*))

Dscn8121acc800 まずは敷物・・・と言っても、まぁ、敷物の場合は、現在の一般のお家でも、夏はいぐさのセンターラグ、冬はホッカホッカカーペットと、季節によって変えるわけですが、無名舎さんを含む伝統的町屋の場合は、敷物だけでなく、建具も変わります。

冬場は、ガラス戸や障子だったのが、夏には、葦戸(よしど・葦製)簾戸(すど・竹製)の戸に替わります。
これなら網戸のように風がスースー通り抜けるわけですね。

Dscn8111a800 そして、今回、初耳で驚いたのは、中庭と奥の庭との関係・・・中庭は少し手狭で陽があまり当たらないのですが、奥の広い庭には、常に陽が当たっている・・・これは、考えたあげくに、わざとこうしてあるそうなのですが、夏の暑い日に打ち水をまきますよね。

実は、陽の当たる奥の庭の打ち水はすぐに蒸発し、陽の当たらない中庭の打ち水は徐々にゆっくりと蒸発する・・・この時間差攻撃によって、建物内に風が生まれるのだそうです。

究極のエコですね・・・

Mumeisya4a130 もちろん、玄関から裏まで、一直線に貫く通り庭にも風が駆け抜けます。

ここには、台所がありますから、火を使えばよけいに暑くなるので、暑い空気を上に逃がすよう天井も工夫されています。

また、この通り庭は、お店で仕入れた品が、住居ゾーンを通らず、直接、大八車などで、蔵へと運び込めるという利点も考えての造りで、昔の人の工夫にはホント頭が下がります。
 

・‥…━━━☆次に紫織庵

Dscn8040800 こちらは、大正15年に、モダンな洋間を加えて新築された町屋で、表に高い塀があって、家が直接表通りに面していない「大塀造り」と呼ばれる造りです。

Dscn8069a800 茶室あり広間ありの純和風の部屋の隣には、まさに大正ロマンのサロンがあり、「ごきげんよう」と、風とともに去りぬバリな究極のお嬢様がピアノを弾いてそうな雰囲気です。

部屋と部屋の間にある戸は、無名舎と同様の夏仕様の簾戸なのですが、何と言っても、ここの見ものは、美しい庭に面した広い縁側にピッシリと入れられたガラス戸・・・

Dscn8092cc これは、「波打ちガラス」と呼ばれる、表面が波のように歪ませてあるガラスがはめてあり、これは建築当時そのままのもので、現在は復元が不可能なのだとか・・・

室町随一の豪商・井上利助氏の心意気がうかがえますね。
 

・‥…━━━☆

また、「第34回・京の夏の旅」は、まだまだ他にもたくさんのイベントが用意されています。

もちろん、もう9月なので、終ってしまったイベントも多いですが、まだまだ間に合う物もあります・・・この町屋の公開も9月30日までですからね。

皆様、ぜひとも、もう少しの間、行く夏を惜しんでください・・・

くわしいイベント内容は・・・
「京の夏の旅キャンペーン」のページへ>>
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2009年9月 7日 (月)

石田三成はそんなに嫌われていたのかしら?

 

天下分け目の関ヶ原に向けて、ここンところ大変おもしろくなってきた大河ドラマ・天地人ですが、昨日は、第36回「史上最大の密約」・・・

実際には、あったか?なかったか?は微妙なところの直江兼続石田三成の密約ですが、ドラマとしてはあったほうが断然オモシロイので、そこは、思う存分、徳川家康を倒すシュミレーションで盛りあがっていただきましょう。

ただ、ドラマでは、殿=上杉景勝までもが、合戦必至の敵対心むき出しだったのがチョイと気になりますね~。

京都にいる時点で、ここまでヤル気満々なら、後々、会津征伐の途中から西へ戻る家康を追撃しない事(4月14日参照>>)の理由付けが大変なような気がしないではないのですが、そこは、やはり、造り手のかたの手腕で、それなりにうまく処理してくださる事でしょう。

ただ、先週の病身の前田利家VS徳川家康のカッコイイ場面で(第35回・参照>>)、息子・利長の同席をアピールしてくださったのは、てっきり徳川方へと寝返る時の心の描写を表現するための「フリ」だと思っていたんですが、いともたやすく仏壇の前で泣くだけで終ってしまいましたからねぇ・・・本当に放送時間が足りないのかも知れません。

三成を襲撃する福島正則らが(3月4日参照>>)、あれだけ盛り上がって集合していたにも関わらず、実際に襲撃する場面がなかったのも、残りの放送時間と番組予算の関係による大人の事情なのでしょう。

そんなこんなで、襲撃事件のターゲットとなってしまった三成クンは、居城の佐和山城で蟄居の身となり、そこを訪ねた兼続と、題名通りの「史上最大の密約」を交わすわけですが、三成の佐和山城での暮らしが、とても質素な事に驚くという有名な話は、実際には兼続ではなく、関ヶ原の後に佐和山城に乗り込んできた東軍の兵士たちの話・・・

豊臣秀吉の寵臣として、諸大名とのパイプラインの役割をはたしていた三成なら、各地からのワイロも集まり、さぞや贅沢な暮らしをしていたんだろう・・・と、想像していたところに、みすぼらしい調度品や、チリ一つなく整理整頓された城内を目の当たりにして、非常に驚いたわけです。

つまり、それだけ三成の評判が悪かった・・・そこンところは、ドラマと同じですね。

ただ、実際には、大谷吉継(9月15日参照>>)という小姓時代からの親友がいますが、今回の天地人では、この大谷クンの役割も、兼続がやってくれています(主役なので・・・)

それにしても、どうして、そんなに評判が悪いのか?

もともと、合戦で命を賭けて挙げた武功で出世の道が開けた戦国時代・・・そんな腕自慢の武将たちにとっては、戦いにも参加せず、後方でぬくぬくしていながら、同じように出世する文治派の彼らが気に食わなかったわけです。

ただ、天下統一をして中央集権を進める秀吉にとっては、検地もできて年貢の徴収もうまく、兵站の処理もできる奉行としての三成ら文治派を重用するのは当然で、戦場の武功と同じように出世するのはしかたのない事ですが、武闘派からは嫌われるかも知れません。

また、ドラマで描かれているような、融通のきかない高飛車な態度の人であった事も確かなようです。

たとえば、ある年の10月頃、毛利輝元から秀吉へ桃が献上された時・・・輝元は、10月という季節外れのめずらしい桃を献上して「さぞや、喜んでくれるだろう」という思いだったのですが、三成は、それを突き返します。

「旬じゃない物を食べて、殿下が腹を壊したら大変!」って事のようで、ハウス栽培のない当時としては、正論っちゃぁ正論なんですが、杓子定規でなんとも・・・こんな事されちゃぁ、やられた側がイラッとする事は間違いないですわな。

・・・とは言え、私自身は、一般に言われているほど、三成は嫌われ者ではなかったのではないか?と思っています。

現在の印象の元となる様々なエピソードは、関ヶ原で勝利者となった徳川の言い分が大いに影響していて、それこそ、必要以上に三成の評判をおとしめているのではないかと・・・

そう思う根拠は、関ヶ原に集結する両軍勢の数です。

確かに、毛利や吉川は動かないし島津も参戦せず、小早川が寝返って、その周辺も一気に・・・と、なると、実際に合戦に参加した兵力は、家康の東軍は関ヶ原にやって来た兵力=8万~9万がそのまま兵力となりますが、西軍は開戦前は8万ちょっと言っても、結果的には3万5000程度だった事になり、現在では、以前から言われているような「拮抗した戦力ではなかった」とおっしゃる論客も、多くおられるようです。

しかし、おそらく、この数字には結果論が含まれているはずです。

合戦が始まってから、状況を見て参戦しなかった者もいるだろうし、状況を見て寝返った者もいるでしょう・・・最終的に東軍についた者が皆、最初から東軍につこうとは考えていなかったと思いますし、ヘタすりゃ、会津征伐の時点で、勢いで家康についた豊臣恩顧の武将の中にでも、もしも、西軍優勢なら寝返っていた者もいたかも知れません。

確かに、最初の8万以上の数字もアテにありませんが、この3万いくらという数字もアテにならないと思います。

そこで、考えなければならないのは、家康×三成の立場の違いです。

かの堺屋太一さんは、その著書の中で、当時、豊臣政権の五大老の筆頭だった家康と、4番め奉行の三成とでは、言わば「豊臣会社の中の、他を圧勝する大副社長と、一企画部長の戦いだった」と書いておられます。

石高をみても、家康=256万石、三成=19万4000石・・・
年齢も家康=59歳、三成=41歳・・。

この差のわりには、寝返り組を含むと言えど、関ヶ原という戦場に8万以上の西軍を集めたのは、大したモンなのでは?

少なくとも、関ヶ原当時の感覚では、天下分け目の戦いではなく、豊臣政権内の派閥争いの形をとっていたわけですから、これはひとえに三成の人望・・・とまではいかなくても、「お前には誰もついて来ない!」と、タヌキジジイに叱責されるほど嫌われてはいなかったのではないでしょうか?

まだ秀吉が生きていた頃・・・殿下のご機嫌をそこねて、取り潰しになりそうになったのを、三成の奔走によって無事切り抜ける事ができた大名や、三成の口添えによって加増された大名も少なくなかったそうで、そんな彼らは、三成に好感を持っていたに違いありません。

また、先ほどの輝元との桃の一件に関しても、あのような高飛車は、人を選ばず、全員に対して、同じ態度をとっていたわけで、相手を見て態度を変える事はありませんでした。

杓子定規で融通がきかないのも、私利私欲ではなく、すべて豊臣のためにやっている事というのは、皆が感じ取っていたはずです。

そんな三成は、エラそうな態度はともかく、「豊臣の事を思う信用のおける人物」と思われていた事は確かでしょう。

以前も、三成の最期のページに書かせていただきましたが(10月1日参照>>)・・・

合戦で負けたのに自刃せずに逃亡した事をバカにした本多正純「その昔、源頼朝公は、その命残して源氏の世を開いた」と言ったという有名なエピソードがあります。

これを・・・
「命を惜しむ武士として恥ずべき行為」ととるか、
「最後の最後まであきらめない不屈の精神」ととるかは、受け手側の自由といったところでしょう。

少なくとも、恥ずべき行為ととったのは、勝者である徳川が大半だったでしょうからね。
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2009年9月 5日 (土)

ポーツマス条約の調印と日比谷焼き討ち事件

 

明治三十八年(1905年)9月5日、日本とロシアの間で日露講和条約=ポーツマス条約が締結し、日露戦争が終結しました。

・・・・・・・・・

「今日は何の日?」という事で、年ではなく日づけで気まぐれに記事を書くもんだから、昨日も日露、今日も日露の話題となると、あたかも次の日に起こった出来事のようで非常にややこしい・・・スンマセンm(_ _)m

・・・って事で、一応、すでにブログに書いている日露戦争に関係する記事を出来事が起こった順に並べますと・・・

明治三十七年(1904年)
 ●2月 9日:旅順・仁川沖海戦>>
 ●2月10日:日露戦争勃発>>
 ●3月27日:旅順港閉塞作戦>>
 ●8月10日:黄海海戦>>
 ●9月 4日:遼陽・入城>>
明治三十八年(1905年)
 ●1月 2日:旅順・陥落>>
 ●3月10日:奉天・占領>>
 ●5月27日:日本海海戦>>

・・・と、まだ、ブログに書いていない事もありつつも、一応、戦況を左右する大きな出来事は、だいたい出ているものと思いますが、こうして見ると、確かに、日本が勝利している感じではありますが、奉天(ほうてん)が占領されようが、バルチック艦隊が壊滅しようが、未だ、ロシアの皇帝・ニコライ2世戦争を終らせる気は、まったくありませんでした。

なんせロシアは大国・・・日本とドンパチやってるのは、東の端のほうなので、まだまだ西には、たくさんの兵力を温存したまま、しかも、シベリア鉄道が全線開通したばかりで、その兵力&物資を、どんどんと東へと送り込める状態にあったわけですから・・・。

一方、ギリギリの状態になっていたのは日本のほうです。

上記の出来事を一つ一つ見ていただければ一目瞭然ですが、勝利に酔いしれるような勝ちは海戦のみで、陸戦はどれも、多大な犠牲を払っての紙一重の勝利・・・もはや、物資も兵力も崩壊寸前の危機にさらされて、むしろ、戦争を終結させたいのは日本のほう・・・。

ただ、この頃のロシアは、国内に爆弾を抱えていました。

この年の1月には、“血の日曜日”と呼ばれる軍隊が反発する一般民衆へ発砲する事件が起こっていましたし、6月にも、戦艦・ポチョムキンが叛乱を起すという事件が起こっていて、いずれも、この後のロシア革命への波を感じさせる事件です。

そこで、日本海海戦から10日後の6月6日、ルーズベルト大統領のメッセージを持ったアメリカ大使が、直接、ニコライ2世に拝謁して、日本との講和交渉を呼びかけたのです。

重い腰をあげたロシア、その代表は非戦派のウィッテ・・・一方、日本の代表は小村寿太郎外相・・・

8月5日、ふたりは、大統領専用ヨット・メイフラワー号の船上で、初めて顔を合わせます。

しかし、この時、ウィッテは、皇帝から「領土の割譲と賠償金の支払いには、絶対に応じるな」という使命を課せられていました・・・なんせ、皇帝は未だ、「このまま戦争を続けて長期化させれば、絶対に負ける事はない」と思ってましたから、かなり強気です。

・・・で、話し合いの末に迎えた明治三十八年(1905年)9月5日ポーツマス海軍工廠(こうしょう)で開催された会議にて、講和条約が調印されたのです。

その主な条件は・・・

  1. 韓国における日本の優越的地位の承認
  2. 北緯50゜以南の樺太を日本へ永遠譲渡
  3. 両軍の満州・撤退
  4. 清国の承認下での満州鉄道の日本への譲渡
  5. ロシア沿岸の漁業権を日本へ許与

確かに、ロシア本土の領地の割譲も、賠償金の支払いも入ってません。

しかし、戦争の実情を知っていた内閣・軍部・元老・・・そして、もちろん明治天皇にとっては、まったく以って納得のいく条件でした。

ロシア本土は未だに無傷・・・かたや日本は虫の息・・・

この状態で、ロシアという大国に勝ったという名誉を得ただけでも、大きな成果です。

しかし、納得がいかなかったのは、勝利の成果に期待していた日本の一般庶民・・・彼らが、期待していたのは、やはり領土の割譲と賠償金の支払い。

 

戊辰戦争 日清戦争 日露戦争
動員兵力
死者
負傷者
12万人
約3600人
3800人
12万人
1万3309人
108万人
約12万人
17万人
戦費 約2億円 約15億円

(国史大辞典ほか)

日露戦争よりも犠牲が少なかった10年前の日清戦争では、台湾を獲得し、当時の清国の国家予算の3年半分に相当する巨額の賠償金を得ていたわけですから、これだけ大きな犠牲が払われたなら、それ相当の見返りを期待していたわけで、その二つが含まれない講和は、あってはならない物だったのです。

・・・で、ポーツマス条約が調印されたその日から、各地で騒動が発生する事になるのですが、中でも、東京・日比谷公園で開催された講和反対国民大会・・・

●内閣と全権(交渉した小村の事)の謝罪
●条約の破棄
●再度の抗戦で敵を粉砕
Hibiyayakiuti ・・・を求めて開催されたこの大会では、暴徒と化した参加者が政府系新聞社や内務省に乱入・・・さらに、交番や電車まで焼き討ちされ、死者も出る大惨事となりました
・・・世に言う日比谷焼き討ち事件です。

本来なら、国を挙げて祝うべき勝利の日に、このような騒動が起こった事は、その後の日本の運命を暗示しているかのようですが、欧米列強の支配に苦しんでいた有色人種に、この時の日本勝利のニュースが、一筋の希望を与えた事だけは、少し誇りに思います。
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2009年9月 4日 (金)

日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦

 

明治三十七年(1904年)9月4日、日露戦争において、日本軍が遼陽入城を果たしました。

・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

この年の2月に、日本側の宣戦布告によって始まった日露戦争・・・(2月10日参照>>)

2月の開戦後まもなく、仁川(じんせん)沖海戦(2月9日参照>>)に勝利して朝鮮半島に上陸した日本軍・第1軍は、5月には鴨緑江(おうりょくこう)を越えて満州へと進出しました。

*黄海海戦でご紹介した地図ですが、位置関係を知るために・・・
Nitirotizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここから北にある遼陽(りょうよう)には、ロシア満州軍の司令部があり、満州に展開する以上、その遼陽での決戦は避けられないと判断した日本軍は、まずは、第1軍を北へと進撃させます。

一方、同じく5月に遼東半島の中央部分にある塩大澳(えんだいおう)に上陸した第2軍は、遼東半島を南下・・・5月26日には、旅順(りょじゅん)の北側に位置する金州(きんしゅう)と南山(なんざん)を陥落させて半島を分断し、旅順を孤立させました。

しかし、その旅順には、未だ4万4000とも言われるロシアの守備軍がいますから、このまま2軍だけで、旅順を陥落させる事はおそらく不可能・・・しかも、この時期は、開戦当初から、この旅順に停泊しているロシア艦隊を撃破すべく展開していた日本海軍の連合艦隊も、なかなかの苦戦を強いられ、旅順の攻略は陸軍の手にゆだねられる方向へと進みつつある時期でした。

そうなると、陸軍でも、旅順攻略のための新たな第3軍を編制する必要があり・・・って事で、ともかく、第2軍はこのまま南へは向かわず、北東へと進路を変え、第1軍と合流して、ともに遼陽攻略をめざす事になりました。

・・・とは言え、この間に、海上では、先日書かせていただいたロシア艦隊に連合艦隊が大勝利を収める黄海海戦(8月10日参照>>)が展開される事になるのですが・・・。

そんな8月、こちらの陸戦部隊でも、第1軍と第2軍に加え、新たに姫路第10師団を中心に編制された第4軍が合流し、遼陽を攻略をめざして、徐々に包囲を狭めていく中、やがて訪れた8月24日、いよいよ遼陽に向けて本格的な進撃を開始します。

日本側の作戦は、第2軍と第4軍が正面からの攻撃・・・そして第1軍が迂回して側面からの攻撃という物でした。

一方のロシア軍は、この遼陽は、あくまで突出した最前線という事で、最初のうちは遼陽での決戦に消極的だったのですが、ここに来て、本国から大量の援軍が派遣されてきた事もあって、遼陽司令部を率いるクロパトキン大将も、決戦を決意・・・

こうして始まった遼陽会戦ですが、2日後の26日、迂回部隊が想定位置に到着したところで、正面の部隊からロシア軍主力に向けて攻撃が開始されます。

ところが、ロシア軍は、あっさりと撤退・・・ほぼ無抵抗のまま、日本軍は遼陽のすぐ手前にまでやってきます。

実は、これはロシア側の作戦・・・ロシアは遼陽の手前に堅固な守備陣地を構築しており、「決戦はここで・・・」という事だったようです。

・・・よって、ここでの戦いは激戦となります。

歩兵部隊による接近戦が繰り返され、一進一退の戦闘・・・やがて、日本軍の弾薬が底をつきはじめ、兵士の疲れもピークに達し、窮地に立たされた日本軍が「もはや限界か・・・」と、やや、あきらめムードになった時・・・

なぜか、ロシア軍が撤退を開始・・・理由は明白ではありませんが、一進一退の激戦になっていたという事は、日本側だけでなくロシア側にも、それ相当のダメージがあったという事でしょう。

とにもかくにも、クロパトキン大将が、遼陽を放棄し、さらに北に位置する奉天(ほうてん)での決戦に切り替えてくれた事で、日本軍は救われた形となりました。

かくして明治三十七年(1904年)9月4日日本軍は遼陽入城を果たしたのです。

一方、同じ8月から同時進行で行われていた旅順攻略・・・そのために新しく編制された第3軍の司令官は、ご存知、乃木希典(のぎまれすけ)大将です。

日露戦争のキーポイントともなる旅順での激戦は、1月2日のページでどうぞ>>。
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2009年9月 3日 (木)

西郷隆盛が星になった?…明治の火星大接近

 

明治十年(1877年)9月3日・・・っと、本日は、この日に何があったかは後半で・・・、その前にとりあえずは、コチラのお話から・・・

・・・・・・・・・・

明治十年(1877年)と言えば・・・そうです、1月30日に勃発した鹿児島の私学校の生徒たちによる政府火薬庫襲撃事件(1月30日参照>>)に端を発した、最終かつ最大の士族の反乱=西南戦争のあった年。

このブログでも、その1月30日から順を追って書かせていただいておりますが、一応、簡単に、流れをまとめさせていただきますと・・・

・・・と、田原坂での敗戦をきっかけに劣勢に陥った薩摩軍は、熊本城を放棄した後、6月1には人吉8月14日には延岡を奪われ、翌・8月15日延岡奪回作戦に出るも敗退・・・結局、その翌日には、西郷隆盛によって薩摩軍の解散が布告され、多くの者が政府軍に投降する中、残った600人ほどが夜陰にまぎれて姿を消したところまで、お話させていただきました。

・・・で、姿を隠した後、山中を逃げまくった薩摩軍の生き残りが、こつ然と鹿児島に姿を現わすのが9月1日・・・政府軍が駐屯していた私学校を奪回し、徐々に鹿児島全土を占領すべく画策します。

そして、彼らが鹿児島に戻って来た事を知った政府軍が、その鹿児島に到着するのは9月10日・・・という事で、9月3日の段階では、実際には、以上のような状況だったわけですが・・・

とにもかくにも、明治の始めという時代・・・現在のように、最新のニュースがリアルタイムで全国に配信されるような事はありませんから、多くの一般市民は、九州での戦況が、今、どのような状態にあるのかを、はっきりとはわかっていませんでした。

ただ、田原坂での敗退や熊本城を政府が守りぬいた事などが徐々に伝わってきていて・・・
「なにやら西郷さんの分が悪いらしい」てな話が伝わったり、
逆に、「いや、今日、明日にも西郷軍が東京まで攻めて来る」てなウワサが流れたり、
果ては、「もう、負けが決まったので外国へ逃げた」
「いや、もう、西郷は、とっくに死んでて、今いるのは影武者だ」などという話まで出たりします。

現在と同様、なぜか庶民に人気があった西郷さん・・・遠い九州での戦況に一喜一憂していた人々が、8月の終り頃、南の方角=鹿児島の方角に異常に輝く大きな星を見つけます。

夕方の空に、赤く輝くその星を見つけた人々は・・・
「西郷さんが死んで星になったものなんじゃないか?」
「あれは西郷星だ!」
と、騒ぎはじめます。

そのうち、「千里鏡(望遠鏡)で見ると、西郷さんの顔が星の中に見える」なんて事もまことしやかに囁かれ、日暮れと同時に、町のあちこちに集まっては、物干し台などから、「西郷星はどこだ?」と、まるでイベントのように大盛り上がり・・・

Saigoubosi700a さらに、人々を驚かせたのは、赤く大きな星のそばに、もう一つ、黄色くで、少し小さな星が、西郷星につかず離れず、寄り添うように輝いていた事でした。

その二つ星は、日によって、くっついたり離れたり、とても、興味深い動きをします。

誰からともなく「あの星は、桐野利秋ではないか?」
「そうだ!桐野星だ!」
と、言いはじめます。

なかなかの有名人なので、ご存知の方も多いでしょうが、桐野は、西郷を尊敬してやまない人物・・・常にそばにいて、西郷のためになら死ねるし、西郷のためなら人も殺せるという人で、まさに、大きな赤い星を守り支える小さな黄色い星のイメージにぴったりだったのでしょうね。

・・・で、8月の終り頃から確認されはじめた二つの星は、実際の西郷さんのご命日である9月24日を過ぎても輝き続け、さらに、11月頃まで続いたのだとか・・・

特に、11月4日には、まるで、二つの星が一つになるかのごとく接近し、すでに、西郷・死亡のニュースを知っている人々を驚かせました。

・・・と、長々と書いてしまましたが、実は、これ、火星の大接近だったんです。

あまりの騒ぎに、当時、東京帝国大学の外国人教授だったピー・ウイー・ウイダルという人が「不思議な事ではないのです」と、火星の大接近を解説する新聞記事まで出ちゃってますので、まさに、事件だったんでしょうね。

もちろん、日本でも火星の大接近を知っている人は大勢いたでしょうが、まだ一般庶民には知られていない頃ですから・・・

・・・と、ここで、一応、火星の大接近について・・・

Kaseidaisekkincc

地球も火星も、ともに太陽の回りを回る太陽系の惑星なわけですが、地球が一年で太陽の回りを一周するのに対し、火星は1年10ヶ月で太陽の回りを一周します。

なので、だいたい2年2ヶ月に一度、地球が火星を追い抜く時が来て接近するわけですが、火星は、太陽の周りを、美しい円を描いて回っているわけではなく、少し楕円になっているため、地球が火星を追い抜く場所がどこかという事で、大接近となる時が15年~16年に一度来るのです。

・・・で、明治十年(1877年)9月3日が、この大接近で、最も接近した日だったんです。

この時、イタリアスキアバレリは火星の表面には運河のような線状の模様がある事を発見し、アメリカホールという人は2個の衛星を発見しています。

火星は、小さい星なので、大接近した時が、イロイロと観察するチャンスなんですね。

ところで、最近では2003年に話題になったのを覚えていらっしゃる方も多いでしょうが、実は、この明治十年(1877年)の時よりも、2003年のほうが、はるかに大接近だったんですよね。

大接近の中でも、やはり、その追い抜く位置によって、距離に差が出るのだそうで、この2003年の時と同じくらいの距離になったのは、過去では6万年前、未来では280年ほど先になるのだそうで、何だか気が遠くなりそうです。

ちなみに、2003年ほどではありませんが、次に大接近となるのは2018年の7月25日だそうで、ひょっとしたら、私たちも、西郷星を見た明治の人々の気分を味わえるかも知れませんね。

おっと、忘れるところでしたヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ

西郷星につかず離れずいた桐野星は、どうやら土星の事らしいです。

明治十年(1877年)の時には、7月28日と8月26日、そして11月4日の3回に渡って火星と土星の接近があったそうですよ。

それにしても、西郷さんが亡くなってから2ヶ月ほども、火星が輝き続けていたわけですから、大接近なるものがどんなものか知らず、「西郷さんの星だ」と信じ込んでいた人にとっては、少々不気味な輝きだったかも知れませんね。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年9月 2日 (水)

鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱

 

建仁三年(1203年)9月2日、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の嫁の実家である比企氏が、頼家の母の実家である北条氏によって滅ぼされる比企能員の乱がありました。

・・・・・・・・・・

本日の比企能員の乱については、先日の源頼家(よりいえ)さんのご命日に、少し書かせてはいただきましたが、やっぱり外せない鎌倉幕府の一大事件という事で、内容かぶりつつも、今日も書かせていただきます。

比企能員(ひきよしかず)は、その出自は明らかでないものの、幼い時に、叔母である比企禅尼に引き取られて養育され、その比企禅尼が源頼朝の乳母だった事から、あの伊豆での挙兵(8月17日参照>>)以来、ずっとそばにいて頼朝を支え、藤原氏を滅亡させた奥州遠征(8月10日参照>>)でも、片翼の大軍を任されるほどの有能な側近でした。

頼朝の死後、2代目将軍を継いだ頼家のもとで、13人の御家人による合議制による体制が敷かれる事になりますが(4月12日参照>>)能員は、その13人のメンバーにも入っていました。

しかし、その13人の中の1人であり、頼朝・頼家父子からの信頼も篤かった梶原景時が非業の死(1月20日参照>>)を遂げた頃から、徐々に世代交代の波が押し寄せます。

もちろん、それは、確執や争いからだけでなく、年齢というものもあります。

三浦義澄(よしずみ)安達盛長千葉常胤(つねたね)など、頼朝とともに戦って源氏の世を勝ち取った第一世代が、その年齢もあって相次いで亡くなり、幕府内の序列というものが大きく変わろうとしていたのです。

そんな中、年齢のわりに元気ハツラツなのは、頼朝の嫁・政子の父・北条時政・・・気を使わねばならない老臣たちがいなくなってきて、息子の義時(よしとき・政子の弟)とともに、まさにその権力を一手に引き受けようとしていましたが、彼らのライバルとなったのが能員です。

なんせ、能員は、頼朝が流人の時代からのおつきあいですし、彼の娘・若狭局(わかさのつぼね)は、2代将軍・頼家の側室となって一幡(いちまん)という男の子ももうけていました。

しかも、頼家はその若狭局にベタ惚れ・・・なにかと実家を引き立てます。

これは、いけません!

確かに、頼家も時政にとっては孫ではありますが、このままでは、その一幡くんが次期将軍に・・・そんな事になったら、将軍の外戚(母方の実家)として、ますます比企氏の力が・・・

ところが、そんなこんなの建仁三年(1203年)、8月に入って、頼家が病に倒れ、一時は重体という事態となってしまいますが、逆に時政は、これ幸いと、かの合議制をうまく利用して将軍の権力を2分化する作戦に出ます。

それは、総守護職と関東28ヶ国の地頭職を頼家の子・一幡に・・・、関西38ヶ国の地頭職を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させるという案でした。

これで、頼家にもしもの事があったとしても、千幡の外戚(千幡の母は政子ですから)として時政も腕をふるう事ができます。

しかし、比企氏へのイケズとしか思えないこの案のゴリ押しに、怒り心頭なのは能員・・・そこで、能員は若狭局を通じて頼家に、「将軍が病気なのをええ事に、時政父子が千幡を担ぎ出して将軍職を奪おうとしてまっせ」と告げたのです。

この話に、病気とは思えないほどの怒りをあらわにする頼家・・・早速、枕元に能員を呼び寄せて、北条討伐の密議をこらしますが、これを障子の影から家政婦のように「見ちゃった・・・」のは、市原・・・いや、政子です。

かくして建仁三年(1203年)9月2日・・・政子の使いから、急を知らせる書状を受け取った時政の行動は素早い!

早速、政所(まんどころ・政務を取り仕切る所)の長官だった大江広元の承諾を得て、「将軍が病気なのをええ事に、その命令やと偽って、叛逆を企ててるので、ともに出陣せぃや!」と、天野遠景(とうかげ)仁田忠常(にったただつね)に命じます。

・・・と、この時、遠景が、「あんなジイサンに軍隊出す必要ないやろ!呼び出して殺ってまおうぜ!」と進言・・・まもなく、工藤五郎という男が使いとなって、「薬師如来の供養をするので、ウチに来てね(≧∇≦)」と、能員を北条邸へと誘います。

誘いを受けた比企邸では、一族・親類が、「行くのなら、甲冑に身を包んで、兵を引き連れて行くべき!」と提案しますが、将軍との密議がバレてるとは思わない能員は、「いやいや、武装していったら、かえって怪しまれるやろ・・・」と、平服のまま、数人の郎党を連れただけの状態で北条邸へと向かいます。

迎える時政は、自ら甲冑に身を固め、弓の名手を左右の小門に控えさせ、先ほどの遠景と忠常を脇戸の影に潜ませます。

やがて、そうとは知らずにやって来た能員が、惣門をくぐり、馬から下りた、その時!

遠景と忠常が飛び出し、左右から能員の腕を押さえ、有無を言わさず首を取ってしまいました。

慌てた郎党は、われ先にと比企邸に逃げ帰り、異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もります。

これに対して、時政は、幕府御家人を総動員しての大軍勢で小御所を取り囲み、すかさず攻撃開始!

守る比企氏は、能員の息子たちはもちろん、娘婿の笠原親景中山為重なども馳せ参じ、小勢ながらも大奮戦しますが、いかんせん多勢に無勢・・・やがて親景が討たれ、為重が負傷する中、最期を悟った能員の嫡男・比企時員(ときかず)は、わずか6歳の一幡を抱きかかえ、燃え盛る炎に身を投じました。

こうして、比企氏は、わずか一日の変事によって滅亡する事となったのです。

その後、病が癒えた将軍・頼家の運命は、そのご命日に書かせていただいた通り(7月18日参照>>)・・・第3代の将軍は、先の争いで一幡のライバルとなった千幡が継ぎます・・・ご存知、源実朝(さねとも)です。

・・・とは言え、上記の出来事は、北条家の正史『吾妻鏡』に書かれている事で、実際のところは、この騒動のおおもとである頼家と能員の密議でさえ、本当にあったのか?どうなのか?・・・なんせ、すべてが北条氏の言い分ですから・・・。

しかし、細かな描写はともかく、ここで、比企氏という一族が、滅亡してしまう事は、おそらく事実・・・時政の呼びかけに応じて、小御所を囲んだ御家人の中には、未だ現役で頑張る第一世代の生き残り、和田義盛畠山重忠もいました。

かの頼朝と苦労をともにして、やっと得た源氏の世・・・身体をはって山を駆け下り、命を賭けて瀬戸内を渡り、夢見た未来は、同志が同志を討つ、こんな世界だったのでしょうか?

そして、そんな彼らも、やがて、北条氏の画策によって、今日の比企氏と同じ運命をたどる事など、みじんも思っていなかったに違いありません。
 ・2年後の6月22日【武蔵二俣川の合戦】>>
 ・10年後の5月2日【和田義盛の乱】>>

彼ら老臣の死によって、もはや北条を押える者はいなくなりました。
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2009年9月 1日 (火)

謙信VS信玄!第一次川中島の合戦~布施の戦い

 

天文二十二年(1553年)9月1日、犀川を渡り布施に布陣していた上杉謙信の軍が、武田信玄先鋒をを破りました・・・世に言う、第一次川中島の合戦・布施の戦いです。

・・・・・・・・・・・

川中島に関しては、何だかんだで随分と期間が空いてしまいましたが、ココだけホッタラケにするわけにもいかず、今回書かせていただきます。

すでに何度か書かせていただいている川中島の合戦・・・今回の布施の戦い以外は、すでにこのブログで最低一度は書かせていただいております。

ご存知のように、全部で5回と言われている謙信VS信玄の川中島の合戦・・・

このうち、第四次の八幡原の戦いが、あの♪鞭声粛々~♪のくだりで有名な一番激しい戦いで、例の一騎打ちもあり、信玄の弟・信繁の討死(2008年9月10日参照>>)もありで、一般的に「川中島の合戦」と言う場合は、この第四次の戦いの事を指します。

・・・って、「全部書いとるやないかい!」とお思いでしょうが、上記の第一次と第二次の間に、今回の布施の戦いが入ります。

実は、この第一次川中島の合戦と呼ばれる戦いは、天文二十二年(1553年)4月に行われた更級八幡(さらしなはちまん)の戦いの前半戦と、同じ年の8月~9月にかけて行われる布施(ふせ)の戦いの後半戦を合わせて第一次と呼ばれます。

・・・と、長い前置きになりましたが・・・

天文十一年(1542年)、諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして(6月24日参照>>)諏訪一帯を手に入れた甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)は、さらに信濃(長野県)の奥深くにまで領地を広げるべく、度々侵攻します。

天文十九年(1550年)には小笠原長時林城を攻略した信玄は、いよいよ天文二十二年(1553年)、その長時が逃げ込んだ葛尾(かつらお)を包囲・・・長時ともども、葛尾城の村上義清も追放して、信濃の中部・東部を手中に収めました。

信濃の国人衆らとともに、越後(新潟県)上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼った義清は、居城の葛尾城を奪回すべく、信から5000の兵を預かり、更級八幡に布陣していた武田勢を急襲し、その勢いで、見事、葛尾城を奪回します・・・これが4月22日・23日の第一次川中島の合戦=更科八幡の戦いです。

謙信が、この戦いに乗り出してきた事を知った信玄は、一旦、兵を退き、休養をとり、態勢を整えて、3ヶ月後の7月25日、再び、甲斐を出陣します。

約1万の大軍を擁する武田勢は、義清の籠る塩田城をはじめとする佐久郡小県(ちいさがた)の支城を破竹の勢いで落とし、義清の残党を次々と蹴散らしながら、8月には川中島へと入ります。

一方の謙信・・・もはや、信玄との対決は避けられないものと判断し、こちらも約8000の兵を率いて春日山城を出陣・・・8月下旬には(さい)を渡り、布施(長野市)一帯に陣取ります。

Kawanakazimasyusenzyoucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十二年(1553年)9月1日、上杉勢が武田方の先鋒を破る形で、戦闘の火蓋が切られました。

そのまま、勢いに乗って八幡(やわた)まで進出した上杉勢は、荒砥(あらと)を落とし、その時、信玄が本陣を置いていた塩田城へと迫ります。

しかし、今度は9月13日、武田勢が夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行・・・荒砥城に放火して反撃します。

・・・とは言うものの、この9月初旬から中旬にかけての戦況や勝敗に関しては、あれやこれやの諸説ありで、確かな事はわからない小競り合いの連続のような戦いだったようですが、おおむね上杉優勢という見かたがされているようです。

しかし、結局、本陣の塩田城を攻撃できないまま、9月20日、謙信は陣を引き揚げ、春日山城への帰途につきます。

予想以上に遠征が長引いた事で兵糧が尽きてきた事、まもなく10月という事で越後ではそろそろ冬支度に入らねばならない事・・・などの理由があったものと思われますが、もともと、お互いがウワサの強敵と、いきなりの大決戦をするつもりではなく、「まずは、敵を知りたい」という気持ちでの出陣であったようです。

なぜなら、謙信の撤退を見た信玄も、10月7日を以って塩田城をあとにし、甲斐に戻っているからです。

おそらくは、この第一次川中島の前半戦であった更級八幡の戦いでは、謙信は義清に兵を貸しただけで、本人は、出陣しなかったのではないか?と思われます。

そうなると、謙信VS信玄の直接対決となったのは、まさに、この布施の戦いが最初という事になり、お互いの力量を計る戦いだった可能性、大です。

特に、謙信にとっては、この先、本格的に信玄と戦うための前哨戦と位置づけていたものと思われます。

・・・というのも、この布施の戦いを終えて、春日山城に戻った謙信は、すぐに上洛し、第105代・後奈良天皇に拝謁・・・『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を授かっています(4月27日参照>>)

つまり、これで、謙信が官軍、その謙信に敵対し、戦乱を巻き起こす信玄は朝敵(国家の敵)であり賊軍という事になります。

これで、正々堂々、信玄と戦う大義名分ができました。

この次に、謙信と信玄が相まみえるのは、2年後の弘治元年(1555年)7月19日・・・第二次川中島の合戦~犀川の戦いです。

冒頭にもリンクがありますが、コチラからもどうぞ>>
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