信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場
天正六年(1578年)9月30日、堺に入港していた鉄甲船の観艦式が開催されました。
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熊野浦を経て大坂湾の堺の港へ、去る7月17日に堂々の入港を果たした7隻の大安宅船(おおあたけぶね)・・・戦国から江戸初期にかけて造られた最強の軍船=安宅船のうち、1000石以上の大きさの物を大安宅船と呼びますが、この時の記録では、滝川一益(かずます)が建造した1隻を「白舟」と記しているところから、九鬼嘉隆(くきよしたか)が建造した残りの6隻が、黒光りの威風を放つ鉄甲船であったと思われます。
この鉄甲船を、色とりどりの幟(のぼり)や指物(さしもの)で飾りつけ、関白・近衛前久(このえさきひさ)をはじめとする公家や有力大名、堺のお金持ちに宣教師までを招待して、大々的に開催された華麗なる観艦式・・・
この日の織田信長は、自らの発想の豊かさと、それを実現できる力を持つ事を内外に見せつけ、大いに気を吐いた事でしょう。
そもそもは、室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした後、天下統一をもくろむ信長に対して危機感を抱いた義昭の声かけによって敷かれた信長包囲網・・・
比叡山延暦寺をバックに持つ越前(福井県)の朝倉義景と近江(滋賀県)の浅井長政、戦国屈指の大物・甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信、そして、大坂・石山本願寺に拠点を置く第11代法主(ほっす)・顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)が全国の本願寺信徒に同調を呼びかけ挙兵・・・まさに、周囲敵ばかりの状態となった信長。
そんな中、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で痛い目を見た信長は、石山本願寺の周囲に砦を築いて完全包囲・・・籠城する本願寺側の補給路を断ちます。
しかし、ここで西国の雄・毛利輝元が参戦・・・海路から本願寺への兵糧補給を目指し、一族の小早川水軍、配下の村上水軍を率い、さらに紀州(和歌山県)の雑賀(さいが)水軍を加えた船団が、兵糧を満載した船とともに大坂湾に進入します。
もちろん、それを阻止すべく立ちはだかるのは、沼田氏や真鍋氏など和泉・河内(大阪府)や摂津(兵庫県)の水軍で構成された織田水軍・・・第一次木津川口海戦の勃発です(7月13日参照>>)。
しかし、ここで、陸戦に勝るとも劣らない艦隊編制での陣形による連携プレーで、翻弄されまくり、見事な負け戦となってしまった織田軍・・・。
手痛い敗北を喰らった信長は、未だ建築中の安土城に九鬼水軍の嘉隆を呼び、鉄甲船の建造を命じたのです。
九鬼一族は、南北朝時代から、伊勢志摩から熊野灘を活動範囲とする海賊でしたが、すでに嘉隆の時代には、その海賊稼業にも陰りが見え始めていた頃・・・ちょうど、その時、かの顕如の呼びかけに答えて一向一揆が勃発した伊勢長島にやって来た信長の傘下となり、その長島一向一揆(9月29日参照>>)で海上から見事にバックアップした事で、信長からの信頼を得ていたのでした。
ところで、今回の鉄甲船・・・水軍に関してはプロの嘉隆ですが、この鉄甲船というアイデアはおそらく信長本人の発想でしょう。
確かに、前回の木津川口海戦では、村上水軍の放つ焙烙(ほうろく)という手投げ弾のような武器で、木製の軍船がことごとく燃やされて混乱状態に陥ったため、どうにもならない船いくさとなってしまったわけですが、「それなら、燃えない鉄で造っちゃえ!」という発想は、プロにはできません。
たとえ思いついたとしても、上司に提案すれば「何を考えとるんだ!」と、怒られそうな発想です。
なぜなら、そんな重い船体では速く走行する事ができず小回りもきかない、第一、塩分を含んだ海水にさらされた鉄は、すぐに錆び、あっという間に使い物にならなくなるのは目に見えています。
殿様の出す大金を使って、そんなもったいないシロモノ・・・プロなら、もっと機能的で使い勝手が良く、長持ちする有意義な物を造るでしょう。
そうです、今回、おそらく、ものすごい金額になるであろう鉄甲船を考えたのが、その大枚な金額を自らが支払う本人だから実現できたと思うのです。
信長にとって、鉄甲船は、小回りをきかして速く走る必要はないのです。
そこにいて、敵の船団の進入を阻止する事だけ・・・相手を蹴散らして制海権を握れば、2度目は使えなくても良いのです。
一度きりの作戦に、膨大な金額を惜しみなく使えるのは、このアイデアが信長のものであったからに他ならないでしょう。
実際、この鉄甲船は、この後の海戦一回こっきりで、2度と歴史には登場しません。
この14年後に、豊臣秀吉の朝鮮出兵で、再び鉄を装甲した大安宅船が登場しますが、それらは、すべて新しく建造された物なのです。
もちろん、その信長の突飛なアイデアを現実の物とした嘉隆の手腕も大したものですが・・・。
加重して転覆しやすくなる船体をいかにして安定させるか?
損なわれる機動力をいかに最小限にするか?
伊勢大湊(おおみなと)という最先端の職人集団をかかえる嘉隆も、おそらく彼らとの試行錯誤のうえ、完成に漕ぎつけた事でしょう。
かくして天正六年(1578年)9月30日、この日の観艦式で、鉄甲船を目の当たりにしたイエズス会士・オルガンチノは、フロイスへの報告書に・・・
「堺で見てきたけど、ポルトガルの船にも匹敵するような大きさと華麗さにびっくりしたわ。
きっと、あれを大坂港の河口に置いとして、石山本願寺への兵糧の運び込みを阻止しよっちゅーんやろな。
船には3門の大砲と、数えきれんくらいの精巧な長銃が搭載されてるんやけど、いったいどこから入手したんやろ?
僕の知ってるのでは、日本では大友君が持ってるヤツしかないはずなんやけど・・・」
と、驚きを隠せないようです。
そう、以前、耳川の戦い(11月11日参照>>)を書かせていただいた時に登場した大友の最新兵器・国崩(くにくずし)・・・これは、大友宗麟がポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(ふらんき)砲ですが、それこそ、キリシタン大名として宣教師たちを支援し、外国と深い関係を築いていた宗麟だからこそ手に入れられたシロモノ・・・
耳川の戦いは、この鉄甲船完成の同じ年の11月ですが、もちろん、それ以前に、信長の耳に入っているでしょうから、その存在を知っていたであろう事はわかりますが、すでに、この時点で、国産品を造るほどになっていたとは、オルガンチノでなくとも驚きです。
どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)村の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。
戦国という敵味方入り乱れる時代の、信長の情報網のスゴさと、行動に移す事への素早さには感服しますね~
もちろん、わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口ですが・・・
こうして、皆々様の知るところとなった世紀の軍船=鉄甲船・・・この最新の武器を以って、再び、石山本願寺の補給路を断とうとする信長・・・第二次木津川口の海戦はいかに?
・・・と、そのお話は、やはり、海戦の展開される11月6日に書かせていただく事にします。
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ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、金堂や五重塔がある


しかし、その通り沿いだけだと、
この細い道は、一般的に
今、明神さんの前で、奥様方が談笑されてますが、この写真に、すでに
また、有名な六波羅蜜寺の角を西へ行き、大黒町通との角のお風呂やさんの横にある


京都に限らず、以前訪ねた


もちろん、玄関から裏まで、一直線に貫く通り庭にも風が駆け抜けます。






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