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2009年9月15日 (火)

討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近

 

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦・・・

関ヶ原の合戦で活躍した重要人物、しかも、人気の武将であるにも関わらず、未だ、このブログにほとんど登場していなかった( ̄Д ̄;;

そうです!島左近(しまさこん)です!

彼は、西軍の主要人物でありながら、大谷吉継とともに、ただ二人、その首が発見されていない人物・・・吉継の首については、昨年、湯浅五助藤堂高刑(たかのり)の逸話(2008年9月15日参照>>)を書かせていただきましたが、左近には、そんな逸話もありません。

関ヶ原にて、この島隊と直接対決した黒田隊・兵士の回顧録『古郷(ふるさと)物語』にも、「その名を聞いただけで身の毛もよだつ」と書かれているように、その『鬼左近』の呼び名にふさわしい猛将ぶりは、江戸時代になっても、黒田の家臣たちの語り草になっていたわけですが、「押し寄せる大軍に呑み込まれるように姿を消した」「深手を負いながらも槍を振るって奮戦し、壮絶な死を遂げた」と、さまざまに語られるものの、皆、記憶があいまいではっきりしない・・・

つまり、その姿が恐ろしすぎて、まともに見る事ができず、誰もその最期を確認していない・・・という事なのですが、もちろん、もし討ち取られていたなら、彼ほどの武将を首実検で見逃すのも、納得のいかないところです。

故に、当然の事ながら、やはりあります!生存説・・・『信長公記』では行方不明、『関ヶ原軍記』では西国へ落ち、『関ヶ原町史』では京都の寺に隠れ住んで、この後32年間も生存していた事になってます。

しかし、それこそ左近ほどの猛将・・・もし、生きていたなら大阪の陣に参戦しないはずはありませんから、やはり、この関ヶ原にて命を落としたのでしょう。

そんな島左近・・・その名は勝猛(かつたけ)とも清興(きよおき)とも言われますが、名前がややこしいところからして、その前半生が謎に包まれている事が垣間見えます。

その出身は、近江(滋賀県)尾張(愛知県西部)対馬などさまざまですが、現在では、大和(奈良県)東部の平群(へぐり)の国人で、筒井氏の家老であった島氏の人というのが有力となっています。

興福寺多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)『多聞院日記』には、永禄十年(1567年)に、その平群の島城で、25歳の息子が実父である城主や養母など、一族9人を殺害して家督を手に入れた事が書かれており、この息子が左近であったと見られます。

・・・とは言え、はっきりと島左近の名で、歴史上に登場するのは、筒井順慶(つついじゅんけい)のやり手の家老として、松倉右近重信(まつくらうこんしげのぶ)なる武将とともに、「筒井の右近左近」と称されるようになってからの事・・・

しかし、天正十二年(1584年)に、主君・順慶が病死し(8月11日参照>>)、その後を継いだ息子・定次(さだつぐ)とは、あまりしっくりいっていなかったようで、やがて筒井氏を離れ、蒲生氏郷(がもううじさと)から豊臣秀長秀保(ひでやす)父子に仕えて、朝鮮出兵の時には海を渡ったりもしましたが、その大和豊臣家も秀保の病死で改易となった事で、浪人として不遇の生活を送り、出家も考える日々の中、そんな左近に破格の待遇で声をかけたのが、石田三成だったのです。

この時の有名な話として・・・
当時、近江水口城主だった三成は、自らの知行・4万石の半分の2万石を以って「ぜひとも我が家臣になってもらいたい」と、左近に頭を下げたのだとか・・・

まぁ、左近が三成の家臣になったのは、三成が19万石取りの佐和山城主になってからという話もあり、上記の、「自らの知行の半分」というのは、少々オーバーな話かも知れませんが、「それだけ左近が欲しかった」というのは確かなようで、もし、創作であったとしても、その事を強調したいがための逸話という事でしょう。

それは、以前から度々書かせていただいているように、三成が戦場にて武功を挙げて出世するタイプではなく、その内政匠さで出世するタイプであったため、自らの武功を補ってくれる猛将の誉れ高い左近に目をつけた・・・左近は、左近で、その人物の配下の武将としてもう一花咲かせるにふさわしい智将にめぐり合えたという事で、二人の利害関係が見事に一致したといったところなのかも知れません。

♪三成に 過ぎたるものが二つあり
   島の左近と佐和山の城 ♪

「三成には分不相応な二つのもったないもの=島左近と佐和山城」

三成にとって、頼れるのは、尽くしに尽くしぬいた主君・豊臣秀吉1人・・・その秀吉が亡くなった豊臣政権下で、とても磐石とは言い難い地位にある中、左近は、その歌の通り、三成を唯一の主君として大いに活躍する事となります。

まずは、上杉の態度に激怒し(4月14日:「直江状」参照>>)会津征伐に向かう事になった家康を暗殺するべく、三成に進言します。

「そんな卑怯な手を使うたら、かっこ悪いがな」と、義を重んじる三成に対して、
「手段を選んでたら、目的は達成できまへんで」と、説得を重ねて説き伏せます。

かくして、東国へ下る家康を近江は石部宿で待ち伏せし、夜襲をかけるべく800の兵を用意します。

そう、昨日のページ(2009年9月14日参照>>)で、「五奉行の1人・長束正家(なつかまさいえ)家康・暗殺を計画していた」と書かせていただきましたが、これが、正家&左近の計画です。

ところが、この計画が事前に漏れて家康の知るところとなり、会津への出発を早めたために未遂に終ってしまい、左近は大いに悔しがったのだとか・・・

今年の大河ドラマ「天地人」では、「家康を暗殺する!」とイキリまくりの小栗三成を、若林左近が「止めたんですけど行っちゃいました」的なセリフをのたまい、妻夫木兼続が止めに行く・・・といった風なくだりがあり、初登場に期待していた左近ファンを、大いに悩ませたようですが、実際には、上記のように左近のほうがイケイケキャラだったのですから、ファンの落胆もわかる気がします・・・左近は、いくら歳をとっても、落ち着いたベテランのイメージではなく、常に先頭を走る燃える男であってほしいのです・・・前田慶次郎みたいに(←個人的意見ですが・・・(*v.v)。)

かくして、左近活躍の場は、関ヶ原へと移ります。

前日の杭瀬川の戦い(2008年9月14日参照>>)に勝利して左近のテンションも最高潮!・・・。

慶長五年(1600年)9月15日、午前8時頃に井伊直政隊の発砲によって開始された合戦・・・まずは、先頭にいた宇喜多秀家(うきたひでいえ・西軍)隊と福島正則(東軍)隊がぶつかる中、開戦から1時間ほどした頃、左近は、100名に満たないわずかな手勢を以って、本陣の笹尾山から討って出ます。

相手は黒田長政隊・・・少ない将兵を巧みに操って、鬼神のごとく迫る姿は、黒田隊を翻弄させ、しだいに黒田隊は押され気味になります。

しかし、黒田隊も、はなから正面きっての攻撃だけでは、猛将・左近を討ち取る事は不可能との思いがあり、すでに鉄砲隊を迂回させており、あわやというところで、その迂回部隊が準備完了となり、一斉に銃撃を開始・・・混戦になる中、馬上にあった左近は、狙い撃ちさせ、重傷を負ってしまいます。

この黒田隊の側面攻撃は、左近だけでなく、石田隊・・・さらには西軍に大きな深手を負わせる事になってしまいました。

一旦、柵の中に戻った左近は、やがて、止血もそこそこに、再び馬上の人となり、敵の中でと撃って出て、いつしか群集の中に、その姿を消したのです。

以来、左近を見た者は誰もいません。

あまりの奮戦ぶりに、その姿を直視できなかった黒田家の兵士が、江戸の世になって語った左近のイメージは、ひょっとしたら夢幻の偶像なのかも知れません。

しかし、それこそが戦国武将のロマン・・・400年経った今もなお、左近のファンが尽きないのは、そこに、傷ついても果敢にアタックする戦国武将の理想の姿を抱いているからなのでしょうね。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんはー

昨日今日と関ヶ原ですね!
今までも沢山書いてこられたと思うのですがまだまだネタが尽きないという所でしょうか。
その後の日本の行方を決めた戦いですから当然といえば当然でしょうか。

関ヶ原本戦も面白いですが各地の戦いや、戦後の交渉等、興味の尽きないところです。
特に、島津義久の戦後交渉は見事であり毛利・上杉等との差は歴然であると思います。
戦国の島津と云えば義弘さんの方が先に名前が挙がりそうですが、義久は戦国でも屈指の文武に優れた大名だと思うのですが・・・
どうか機会があれば義久さんのコトも書いてやって下さいm(_ _)m

投稿: maabou | 2009年9月15日 (火) 20時16分

maabouさん、こんばんは~

そうですね~
島津については、本戦の「背進」については昨年の9月16日>>に、戦後交渉に関しては4月11日>>に書かせていただきました。

投稿: 茶々 | 2009年9月15日 (火) 21時47分

島左近と前田慶次郎は同世代なんですよね。「天地人」では慶次郎が登場しませんが。
今年の「若いキャスト」の中で、ベテランが演じると違和感(漫画やゲームやパチンコのイメージがある)があるからでしょうか?小栗旬君も俳優と配役の年齢差に関して少し物言っています(NHKストーリーブック下巻で記載)。
でも、兼続・三成が髭を生やしても、まだ20代に見えるのは気のせい?演者が20代のせいでしょうか?
小説では慶次郎は終盤で活躍します。

投稿: えびすこ | 2009年9月16日 (水) 16時00分

えびすこさん、こんばんは~

島左近は、実際にも年齢が上ですし、若林さんは、大好きないい役者さんですが、ドラマでの配役はちょっと離れすぎの感もありますよね。

20代の役者さんが40代を演じているのだから、まわりも、実年齢より下のかたでもよかったような気がします。

実際の歴史でも、慶次郎は、長谷堂の撤退戦で大活躍しますよ。

投稿: 茶々 | 2009年9月16日 (水) 20時25分

最近では島左近が大和豊臣家に仕官していた事は眉唾ものといわれてますね。
三成は寺小姓の時に秀吉と知り合ったわけでなく播磨で仕官した説もありますし。
豊臣政権で活躍して関ヶ原後に没落した家は史料が断片しか残らないのが惜しいと思います。

投稿: 和泉 | 2010年8月27日 (金) 12時03分

和泉さん、こんにちは~

ときおり、ブログでも書かせていただいていますが、私個人的には、関ヶ原が天下分け目の戦いで、その後は、豊臣家の権威は弱まる一方…っていう事自体を怪しいと感じています。

秀頼をはじめ、豊臣側の人の事は、江戸時代に書きかえられてる可能性大ですよね~

正史を覆すような発見のほうに、むしろ期待してしまいます。

投稿: 茶々 | 2010年8月27日 (金) 15時33分

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