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2009年9月13日 (日)

豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦

 

慶長五年(1600年)9月13日、九州の関ヶ原とも言われる石垣原の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、石垣原の合戦については、すでに一昨年の9月13日にも書かせていただいたのですが(一昨年のページ>>)、その時は黒田如水(じょすい・孝高)サイドの話に終始してしまったので、本日は、そのお相手・大友義統(よしむね)中心に合戦の内容をお話させていただきます。
 

義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた、あの大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子です。

20歳に満たない段階で宗麟から家督を譲られますが、隠居した宗麟が未だ大きな権力を持ち続けた事で、二元政治となったうえあの耳川の戦い11月11日11月12日参照>>)で大敗してしまいます。

やがて、坂道を転げ落ちるように衰えはじめ、隣国・薩摩(鹿児島県)の島津からの脅威にさらされる中、当時、天下統一しつつあった豊臣(羽柴)吉に救援を求めます。

その後、その秀吉軍が、島津を抑えて九州を平定した事により、豊臣政権のもと、豊後一国を与えられ義統は領国の統治にまい進しますが、朝鮮出兵の時、かの地で大失態を演じてしまします。

明の使者・沈椎敬(ちんいけい)と和睦交渉を行っていた小西行長が、騙まし討ちに遭って撤退した時に、後方の鳳山(ホンサン)の守りを任されていた義統が、「行長が討死した」との誤報を信じて先に撤退してしまい、救援を求めて城に入った行長隊を、あわや全滅の危険にさらしてしまったのです(1月26日参照>>)

これに激怒した秀吉によって大友家は改易となり、義統は、一旦、周防(すおう・山口県)に送られた後、常陸(茨城県)水戸の佐竹義宣(よしのぶ)のもとに預けられ蟄居(ちっきょ)の身となりました。

やがて、秀吉の死によって罪は許されて、その身は自由になりますが、旧領が復活する事はなく、浪人としての日々を送る事になります。

そんなこんなの慶長五年(1600年)です。

政情がにわかに不安定となり、流れ始めた関ヶ原への不穏な空気・・・
キタ━━━(゜∀゜)━━━ !!!!!
義統にとっては、豊後=大友氏・復活のチャンスです。

・・・とは言え、相手は、早々と東軍参戦への意志を表明した如水・・・一昨年のページでも書かせていただいたように、如水は、あの秀吉に「俺の次に天下を取るのはお前だ」と、言わせた男です。

そんな如水を相手に、ちょいと義統さん、無謀じゃありませんか?・・・と、言いたくもなりますが、それは、やっぱり、この後の歴史を知っているから言える事で、この時の義統にとっては、充分に勝算があったのです。

もともと、この時の彼は浪人の身ですから、東軍につこうが西軍につこうが自由・・・実際、如水や加藤清正から「東軍に参戦するように」との声をかけられたという話もあります。

しかし、義統は、あえて、西軍として如水と戦う事を選びます。

それは、秀吉からの改易の命令を受けた直後に、しばらくの間、周防にいた縁からか、毛利輝元に強く誘われたという事があります。

輝元は、何と言っても西軍の総大将です。

しかも、豊後に帰国するにあたって、大坂城豊臣秀頼から、具足100領、長柄槍100本、鉄砲300挺、銀100枚、馬100頭を引き出物として与えられたほか、勝利のあかつきには、豊後一国を複領する約束も取り付けています。

総大将のお誘いに豊臣家のバックアップ・・・何となく、これならヤル気になるのも、わかるような気がします。

かくして、その態勢を整えるべく、豊後へと向かう義統でしたが、その旅の途中、旧臣・吉弘統幸(よしひろむねゆき)と再会します。

統幸は大友家譜代の重臣で、先日書かせていただいた立花道雪(どうせつ)(9月11日参照>>)とともに大友家を支え、岩屋城で壮絶な最期をとげた高橋紹運(しょううん)(7月27日参照>>)の甥にあたる人物・・・

義統が改易の身となった時から、その紹運の息子である立花宗茂(むねしげ)柳川城に身を寄せていたのですが、昨今の不穏な空気を察して、義統の息子・義乗(よしのり)を補佐しようと、九州から江戸に向かっている最中だったのです。

統幸は、義統に東軍での参戦を訴えますが、上記のように、すでに西軍での参戦の決意が固い義統・・・「主君のお気持ちとあらば」と、彼も従う事になりました。

豊後に戻った義統のもとには、旧臣を含め、たちまちのうちに2000ほどの兵が集まります。

早速、集まった兵を率いて、細川忠興(ただおき)が不在の杵築(きつき=木付)(大分県杵築市)を取り囲む義統でしたが(9月10日参照>>)、その事を聞きつけた如水が救援に駆けつける事を知り、一旦、杵築城の包囲を解いて、立石(別府市)へと引き揚げ、迎え撃つべく態勢を整えます。

かくして慶長五年(1600年)9月13日、大友軍と黒田・細川連合軍は、石垣原(別府市鶴見一帯)でぶつかる事となります。

その日の未明に、黒田軍の先遣隊が到着した杵築城では、留守を預かる細川家の家臣・松井康之有吉立行らが彼らを迎え入れ、ともに石垣原へと出陣しました。

一方の大友軍は、境川の南に築かれた立石砦を拠点に布陣します。

Isigakiharafuzinzucc_3 ↑クリックしていただくと複数の布陣図が開きます
(このイラストは戦況と位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

細川勢・約200に黒田勢・約2000を加えた連合軍に、約900の大友勢・・・戦端が開かれたのは、その日の正午頃でした。

まずは、大友勢の鉄砲隊が一斉に攻撃を開始・・・それを受けて、黒田勢の先手・久野次左衛門(ひさのじざえもん)が突撃し、続いて実相寺山(じそうじやま)に布陣じていた松井康之も突撃します。

しかし、激しい鉄砲隊の攻撃に次左衛門が戦死・・・久野隊が、一旦、後退する中、それでも松井隊は踏ん張り続けますが、「あまりに危険」とばかりに井上之房(ゆきふさ)が康之を説得し、ようやく後退します。

それを期に、大友勢の先手である吉弘統幸と二手の宗像鎮続(むなかたしげつぐ)が前へと押し出ます。

このあたりは、断然・大友勢が優勢・・・一時は、連合軍を実相寺山の麓にまで追い詰めますが、多勢に無勢で、ここらあたりで、少し疲れが・・・

それを、見逃さなかったのが之房・・・すかさず吉弘隊と宗像隊めがけて攻撃を仕掛けます。

一気に形勢逆転となり、味方の劣勢を見た義統は、ここで彼らに退却を命じますが、統幸はそれを聞き入れず、ますます奮戦・・・両軍入り乱れる中、偶然にも、之房と統幸の一騎打ちとなります。

武勇の誉れ高き統幸ではありましたが、この一騎打ちは之房に軍配が上がりました。

さらに、この後、鎮続もに討死してしまい、大友勢のテンションは一気にだだ下がりとなります。

午後6時頃には、大友軍の敗色が決定的となる中、南下してきた如水・本隊が実相寺山の麓に到着・・・義統は立石砦に籠ります。

翌・14日から、「このまま一気に大友を全滅させるべき」との家臣の声に、「大友には私的な怨みはないのに、義統を殺すなんてのは、ちょっと・・・」と、如水がちゅうちょしていたところへ、義統から、配下の田原紹忍(たわらしょうにん)を通じて、黒田配下の母里友信(もりとものぶ)(6月6日参照>>)のもとへ降伏の申し出がありました。

こうして、石垣原の合戦は終結・・・奇しくも、その日は、あの関ヶ原で合戦が行われた9月15日でしたが、当然、九州にいる誰1人、その天下分け目の戦いの勝敗を知る者はいませんでした。

そう、「知らない」=「まだ、戦いは続く」です。
この後、如水は、杵築城の救援を優先したために、未だ落せていない諸城を落しつつ、関ヶ原で西軍に属している毛利勝信(かつのぶ=吉成)小倉城(こくらじょう=福岡県北九州市小倉)へと向かう事になりますが、そのお話は10月14日【九州の関ヶ原~小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】でどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちはー

前回に続き九州大友関連ですね。
畿内・東海・関東等に比して地味な感じがする九州ですが、良い武将が多いのでこれからもよろしくお願いします!

また、宗茂さんの柳川開城も拝見いたしました。
そこでチョット気になった事が。
浪人から脱したのが家康死後の様に読み取れたのですが、秀忠から奥州南郷に領されたのがたしか慶長11年でその後大坂の役にも参陣していると思います。
非常に細かい話で恐縮ですが、チョット気になったもので申し訳ないです。

長々と失礼しましたm(_ _)m
これからもよろしくお願いいたします。

投稿: maabou | 2009年9月13日 (日) 14時59分

maabouさん、こんにちは~

あやや・・・本当ですね。

ずいぶん以前の記事なので、今となっては、なんでこうなったのか、自分でもあやふやですが、おそらく、柳川にて完全復帰する元和六年が頭から離れていなかったのでしょう。

ご指摘通り、宗茂が秀忠に重用された時点では、まだ家康は健在です。

改めさせていただきました。
見つけていただいてありがとうございますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2009年9月13日 (日) 15時32分

大友宗麟(剃髪前は、義鎮)の嫡男である大友義統の人生は、耳川の戦いで、宗麟が島津義久に負けた時点で、転落してしまったのではないでしょうか。しかも、朝鮮出兵で無断逃亡をしたことで、所領を没収されたわけですから、義統は、考える力が足りなかったのだと思います。それでも義統は、関ヶ原の戦いが勃発したことに乗じて、再起を図ろうとしましたが、黒田官兵衛(孝高ともいう)の戦略によって、大友家再興の望みを潰されてしまったのは、義統に運がなかったのかもしれません。

投稿: トト | 2016年8月31日 (水) 10時55分

トトさん、こんにちは~

島津に黒田に鍋島に立花…九州にはツワモノが多かったですからね~

投稿: 茶々 | 2016年8月31日 (水) 16時57分

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