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2009年9月 1日 (火)

謙信VS信玄!第一次川中島の合戦~布施の戦い

 

天文二十二年(1553年)9月1日、犀川を渡り布施に布陣していた上杉謙信の軍が、武田信玄先鋒をを破りました・・・世に言う、第一次川中島の合戦・布施の戦いです。

・・・・・・・・・・・

川中島に関しては、何だかんだで随分と期間が空いてしまいましたが、ココだけホッタラケにするわけにもいかず、今回書かせていただきます。

すでに何度か書かせていただいている川中島の合戦・・・今回の布施の戦い以外は、すでにこのブログで最低一度は書かせていただいております。

ご存知のように、全部で5回と言われている謙信VS信玄の川中島の合戦・・・

このうち、第四次の八幡原の戦いが、あの♪鞭声粛々~♪のくだりで有名な一番激しい戦いで、例の一騎打ちもあり、信玄の弟・信繁の討死(2008年9月10日参照>>)もありで、一般的に「川中島の合戦」と言う場合は、この第四次の戦いの事を指します。

・・・って、「全部書いとるやないかい!」とお思いでしょうが、上記の第一次と第二次の間に、今回の布施の戦いが入ります。

実は、この第一次川中島の合戦と呼ばれる戦いは、天文二十二年(1553年)4月に行われた更級八幡(さらしなはちまん)の戦いの前半戦と、同じ年の8月~9月にかけて行われる布施(ふせ)の戦いの後半戦を合わせて第一次と呼ばれます。

・・・と、長い前置きになりましたが・・・

天文十一年(1542年)、諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして(6月24日参照>>)諏訪一帯を手に入れた甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)は、さらに信濃(長野県)の奥深くにまで領地を広げるべく、度々侵攻します。

天文十九年(1550年)には小笠原長時林城を攻略した信玄は、いよいよ天文二十二年(1553年)、その長時が逃げ込んだ葛尾(かつらお)を包囲・・・長時ともども、葛尾城の村上義清も追放して、信濃の中部・東部を手中に収めました。

信濃の国人衆らとともに、越後(新潟県)上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼った義清は、居城の葛尾城を奪回すべく、信から5000の兵を預かり、更級八幡に布陣していた武田勢を急襲し、その勢いで、見事、葛尾城を奪回します・・・これが4月22日・23日の第一次川中島の合戦=更科八幡の戦いです。

謙信が、この戦いに乗り出してきた事を知った信玄は、一旦、兵を退き、休養をとり、態勢を整えて、3ヶ月後の7月25日、再び、甲斐を出陣します。

約1万の大軍を擁する武田勢は、義清の籠る塩田城をはじめとする佐久郡小県(ちいさがた)の支城を破竹の勢いで落とし、義清の残党を次々と蹴散らしながら、8月には川中島へと入ります。

一方の謙信・・・もはや、信玄との対決は避けられないものと判断し、こちらも約8000の兵を率いて春日山城を出陣・・・8月下旬には(さい)を渡り、布施(長野市)一帯に陣取ります。

Kawanakazimasyusenzyoucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十二年(1553年)9月1日、上杉勢が武田方の先鋒を破る形で、戦闘の火蓋が切られました。

そのまま、勢いに乗って八幡(やわた)まで進出した上杉勢は、荒砥(あらと)を落とし、その時、信玄が本陣を置いていた塩田城へと迫ります。

しかし、今度は9月13日、武田勢が夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行・・・荒砥城に放火して反撃します。

・・・とは言うものの、この9月初旬から中旬にかけての戦況や勝敗に関しては、あれやこれやの諸説ありで、確かな事はわからない小競り合いの連続のような戦いだったようですが、おおむね上杉優勢という見かたがされているようです。

しかし、結局、本陣の塩田城を攻撃できないまま、9月20日、謙信は陣を引き揚げ、春日山城への帰途につきます。

予想以上に遠征が長引いた事で兵糧が尽きてきた事、まもなく10月という事で越後ではそろそろ冬支度に入らねばならない事・・・などの理由があったものと思われますが、もともと、お互いがウワサの強敵と、いきなりの大決戦をするつもりではなく、「まずは、敵を知りたい」という気持ちでの出陣であったようです。

なぜなら、謙信の撤退を見た信玄も、10月7日を以って塩田城をあとにし、甲斐に戻っているからです。

おそらくは、この第一次川中島の前半戦であった更級八幡の戦いでは、謙信は義清に兵を貸しただけで、本人は、出陣しなかったのではないか?と思われます。

そうなると、謙信VS信玄の直接対決となったのは、まさに、この布施の戦いが最初という事になり、お互いの力量を計る戦いだった可能性、大です。

特に、謙信にとっては、この先、本格的に信玄と戦うための前哨戦と位置づけていたものと思われます。

・・・というのも、この布施の戦いを終えて、春日山城に戻った謙信は、すぐに上洛し、第105代・後奈良天皇に拝謁・・・『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を授かっています(4月27日参照>>)

つまり、これで、謙信が官軍、その謙信に敵対し、戦乱を巻き起こす信玄は朝敵(国家の敵)であり賊軍という事になります。

これで、正々堂々、信玄と戦う大義名分ができました。

この次に、謙信と信玄が相まみえるのは、2年後の弘治元年(1555年)7月19日・・・第二次川中島の合戦~犀川の戦いです。

冒頭にもリンクがありますが、コチラからもどうぞ>>
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