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2009年10月23日 (金)

没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

 

天平神護元年(765年)10月23日、第47代・淳仁天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これまで、孝謙天皇&藤原仲麻呂の乱がらみで、何度かこのブログにもご登場いただいている淳仁(じゅんにん)天皇・・・何となく、彼らに振り回された感のある天皇です。

これまでの内容とかぶる所もありますが、一連の流れをお話させていただきますと・・・

そもそもは、あの東大寺の大仏建立でお馴染みの第45代・聖武天皇光明皇后との間に生まれた男の子が幼くして亡くなり、逆に、(武士でいうところの側室)のほうに男の子が誕生してしまったたために、外戚(天皇の母親の実家)としての実権を他の一族に取られまいとした藤原氏が、光明皇后が生んだ女の子を、女性でありながら初の皇太子に立てて第46代孝謙(こうけん)天皇として即位させました。

聖武天皇の晩年の頃から、朝廷で最も権力を握っていた光明皇后は、亡き兄の息子(つまり甥っ子)藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を重用し、また、女性でありながら皇太子→天皇の道を歩んだため結婚を許されない孝謙天皇も、この従兄弟にあたる仲麻呂を寵愛します。

この頃の淳仁天皇は大炊(おおい)と呼ばれていましたが、第41代・天武天皇の孫として生まれたとは言え、父の舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)は大炊王が3歳の時に亡くなっており、彼自身は、まったく注目されない存在でありました。

やがて、天平宝字元年(757年)に発覚した橘奈良麻呂の乱(7月4日参照>>)で、ライバルを一掃した仲麻呂は、ラブラブ光線たっぷりの目線で孝謙天皇に天皇交代をおねだり・・・そうして、次期天皇になったのが、大炊王=淳仁天皇でした。

実は、この淳仁天皇・・・仲麻呂の亡くなった息子の嫁の再婚相手として仲麻呂宅に転がり込んでたんです。

父親と息子(すでに死んでる)の嫁とその彼氏が一緒に住む・・・何となく、奇妙な一つ屋根の下ですが、とにかく、仲麻呂にとって、この淳仁天皇は、自分の思い通りになる皇族だったのかも知れません。

「あなたのほほえみには、ワタシ負けちゃうわ」という意味の恵美押勝(えみのおしかつ)なる別名を与えるくらい大好きな仲麻呂の頼みとあって、すんなりと皇位を譲った孝謙天皇でしたが、いざ譲ってみると、仲麻呂は新天皇と新たに近江(滋賀県)に建設しようとする都・保良宮(ほらのみや)の事に夢中・・・

さらに、ここに来て最愛の母・光明皇后を亡くした孝謙天皇(上皇)は、寂しさのあまり病にふせってしまいます。

その病気治療のために登場したのが、葛城山で修行し、験者としての誉れも高い僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・・・失恋の痛手を癒してくれた相手にコロッっといってしまうのは今も昔も変わりなく、孝謙天皇は一発で道鏡に夢中になり、しかも、バリバリに元気を取り戻すわ、政界復帰へ意欲満々となるわ、それとともに道鏡もどんどん出世していきます。

あわてた仲麻呂が、二人の親密な関係を注意すると、逆に、孝謙天皇は保良宮を後にして平城京へ戻り、「これからは、私が、ここで政治をやるわよ!」と宣言!

もちろん、仲麻呂もこの事態を見過ごすわけにはいかず、唐で安禄山の乱(11月9日参照>>)が起って海外情勢が不安定になった事を理由に、関所を押さえて軍備を強化しますが、孝謙天皇は、これを謀反と判断し、仲麻呂を討伐します藤原仲麻呂の乱・9月11日参照>>)

・・・と、ここでの淳仁天皇・・・本来なら、最大の支援者である仲麻呂と行動をともにしてそうですが、実際には、まったくの別行動。

この事に関しては、すでに孝謙天皇側に身柄を拘束されていたから・・・とも、すでに仲麻呂とは決別していたから・・・とも言われますが、ちゃんとした記録が残っていないので、はっきりとはわかりません。

しかし、たとえ別行動をとっていても、そこは許されるはずもなく、その身を捕らえた孝謙天皇は、淳仁天皇の帝位を剥奪して淡路国への流罪とし、自らが再び第48代・称徳(しょうとく)天皇として皇位に返り咲きます。

以後、淳仁天皇は淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる事になりますが、このとおりの話だと、何やら、孝謙天皇と仲麻呂の恋愛関係のもつれに付き合わされた感じのする一連の事件ですが、それはそこ、やはり、二人の愛憎劇だけではない、周囲の政治家たちの思惑、権力の奪い合いなども絡んでいた事でしょう。

・・・とは言え、お気づきのように、淳仁天皇自身には、まったく非はありません。

しかも、この後、称徳天皇がかの道鏡をものすごく重用する事で、周囲からの反発も多く、淡路へと流された帝に復帰を願う声も、少なかず聞かれるようになります。

そんな現状に脅威を感じた称徳天皇が現地の警備を強化する中、その声に答えてかどうかは不明ながらも、配流から1年後の天平神護元年(765年)10月22日、淳仁(元)天皇は、淡路を脱出します。

ところが、残念ながら、その身はすぐに捕らえられてしまい、翌日の天平神護元年(765年)10月23日亡くなってしまうのです。

死因は病死・・・えぇ???

前日に自力で配流先を脱出した人が、翌日に病死?
しかも、まだ30歳そこそこの若さで???

不可解極まりない淳仁天皇の死ですが、残念ながら、記録は病死でしかありません。

ところで、歴史上何度か起ってる血なまぐさい天皇交代劇・・・

今回の称徳天皇の次の天皇=第49代・光仁(こうにん)天皇から第50代・桓武天皇への交代劇では、桓武天皇は、ライバルだった他戸(おさべ)親王と、その母・井上皇后を、皇太子と皇后の座から引きずり下ろして自らが皇位につきました。

また、自分の息子を皇太子したいがために、すでに皇太子に決まっていた弟の早良(さわら)親王死に追いやりましたし、平安時代の後半には、やはり兄弟で皇位を争った第77代・後白河天皇が第75代・崇徳(すとく)天皇讃岐(徳島県)に追いやるなんて事も起こりますが、上記のメンバーを見ておわかりの通り、敗れて不運な最期となった人は、皆、怨霊と化してます。

他戸親王と井上皇后、そして早良親王の怨霊が怖くてたまらない桓武天皇が、怨霊退散の願いを込めて、平安京に様々な風水的効果を配置した事は有名ですし(10月22日参照>>)、早良親王に至っては、崇道(すどう)天皇という天皇の追号まで送って、天皇になった事にして必死の供養これがお彼岸の起源らしい・9月23日参照>>)をしています。

崇徳天皇は、もはや日本三大怨霊の1人とされ、あの日本一の天狗と言われた後白河法皇(天皇)でさえ、その怨霊には生涯に渡って悩まれ、その弔いを必死で行っています(8月26日参照>>)

ところが、この淳仁天皇に関しては、そういったお話は聞きません

奈良時代には、怨霊という発想が無かった???

いえいえ、あの乙巳の変(6月12日参照>>)で殺害された蘇我入鹿の怨霊が、第37代・斉明天皇の葬式に現れたなんて話が、すでにありました。

孝謙天皇が怨霊なんて信じるか!てな女傑だった???

いえいえ、孝謙天皇は、父・聖武天皇が天然痘の流行と国乱れに怯えまくって大仏建立を発案したと同時期頃に、すでにボロボロ状態になっていた亡き聖徳太子の遺構・斑鳩寺(法隆寺)を修復したり、現在の東院・夢殿を建立したりしていますが、これは、聖徳太子一族を鎮魂するためだったと言われています(11月2日参照>>)

だいたい、桓武天皇の怨霊ビビリと、淳仁天皇の死が16年しか空いてないのですから、この時に怨霊の思想がなかったとは考えられません。

かと言って、こんな事に答えは出ませんが、考えられるとしたら・・・

  1. 相手が高僧の道鏡なので怨霊なんて怖くない
  2. 淳仁天皇が完璧なイイ人だった
  3. 淳仁天皇の死因が本当に病死

・・・てな、事になるんでしょうが、とにもかくにも、淳仁天皇が、後世に怨霊となって人々を恐怖におとしめる事がなかった事で、彼は、淡路廃帝のまま・・・ずっと、その汚名を背負っていく事になるのです。

そんな淳仁天皇の汚名を晴らしてくれるのは、その死から1102年後に即位いた天皇でした。

ご存知、第122代・明治天皇です。

即位してから3年後の明治三年(1870年)、明治天皇は、大炊王に淳仁天皇の追号を送り、第47代の天皇として、歴代天皇表に加えたのです。

ここで、やっと、天皇の一人として数えられる事になりました。

ちなみに、同時に天皇に加えられたのは、あの壬申の乱で敗れ去ったために、天皇の仲間に入れてもらえていなかった大友皇子(7月22日参照>>)・・・彼もまた、第39代・弘文天皇として数えられるようになります・・・よかったよかった。

*追記:明治天皇は、この14年後にもう一人にも天皇の追号を送っていますが、それこそ、長くなりそうですので、そのお話は、その方のご命日=7月6日のページへどうぞ>>
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奈良時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんにちわ~!
毎日の楽しい歴史ブログ 大変でしょうが私の活力にもなっていますので頑張ってください。
今日は・・・ややこしいですね。私、あまり天皇同士の争いには詳しくはありませんが、やはり争いが起きるときに働くのは武士なんですかね・・・?その当時の武士の地位、生活などをよろしければ教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

投稿: DAI | 2009年10月23日 (金) 13時26分

大友皇子は正式な「即位の礼」をしていなかったから、江戸時代までは天皇とは認知されなかった、と言う説もあります。
ただ、父・天智天皇も皇太子のまま、「あえて」天皇不在状態で政務をしていたと言う「前例」もあります。
里中満智子先生の「天上の虹」に、壬申の乱前後のくわしい経緯が書いてあります。このコミックはもうすぐ完結のはずですが、「書き下ろし」なので「最終巻発売」が予測できません。

投稿: えびすこ | 2009年10月23日 (金) 16時05分

DAIさん、こんばんは~

この頃は武士ではなく、いわゆる官軍ですね。
末端の兵士たちは、兵役で集められた農民たち・・・あの防人を思い浮かべてくださればわかりやすいと思います。

上の方にいる人たちは、天皇の臣下の豪族・・・コチラは、征夷大将軍となった坂上田村麻呂を思い浮かべてくだされば想像しやすいと思います。

あの万葉集の編さんで有名な大伴家持のお父さん・大伴旅人が隼人族を征伐する将軍に任命された話を以前書かせていただきましたので、そちらも参考にしていただけるとうれしいです↓
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/03/post-db8b.html

やがて、平安時代に入って、おおむね蝦夷や隼人を平定した事と、平安京造営のために財政難となった事で、官軍を廃止しますが、そうなると徐々に治安が悪くなって行き、結局、天皇が宮殿の警備をしてくれるガードマンを雇うことになります。

白河天皇が、宮殿の北側を守らせたのが「北面の武士」・・・武士と呼べるのは、このあたりからじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2009年10月23日 (金) 18時51分

えびすこさん、こんばんは~

「即位の礼」は平安時代以降に始まったと聞いていましたが、大友皇子の時代もやってたんですかね?・・・今度、ちゃんと調べてみますね。

江戸時代には、「大友皇子は即位していたが、壬申の乱の勝者によって、その事実を消された」という考えが主流になっていて、大日本史もこの説をとって、大友皇子を歴代天皇に加えていますね。

明治天皇が追号を送るのは、この大日本史の影響が大きいのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2009年10月23日 (金) 18時57分

「即位の礼」は飛鳥時代当時は、現在よりもずっと簡素だった様です。
ただ、大友皇子の弘文天皇が政情理由により、それを行っていない可能性もあります。
この時代の藤原一族は平安時代に比べて、ライバルが多く浮沈を繰り返していました。でも後の五摂家の時期も含めると、1200年も(貴族社会の)日本の政治の中心でしたね。
天上の虹・第21巻が12月に発売予定です。

投稿: えびすこ | 2009年10月23日 (金) 22時06分

えびすこさん、こんばんは~

>「即位の礼」は飛鳥時代当時は、現在よりもずっと簡素だった・・・

それは、「即位の礼」ではなく「践祚の儀」ではないでしょうか?

皇位を継ぐ儀式が「践祚の儀」で、それを外部にお披露目するのが「即位の礼」で、もともとは一つの「践祚の儀」だったのが、お披露目部分が徐々にたいそうになっていって「即位の礼」として枝分かれるのが平安中期だと、個人的には解釈していますが・・・

いずれにしても、「大友皇子の践祚」についての天智天皇の詔で出ているにも関わらず、日本書紀がまったく無視するのは、何か作為的な感じがします。

まぁ、日本書紀は、発案者の天武天皇自身の年齢すら書いてないくらいですから、書いたらマズイ事は、きっと意図的に無視してるんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年10月23日 (金) 23時28分

こんにちは、茶々さん。
実は淡路の隣の徳島に住んでいますのに淳仁天皇陵に行ったことが無いです。弘文天皇陵は大津に行ったときにあります。
でもこの両天皇は悲劇的な最後を遂げていますので、哀悼の意を表したいです。
淳仁天皇があのまま在位を続けますと天智系に戻らなかったと思いますが、恵美押勝はどうなったでしょうか?
やはり新羅出兵はしたでしょうか?
淳仁天皇、押勝の失脚に新羅出兵もあるかなと思いました。
ところで押勝の娘婿に従妹の御楯がいましたけど・・・
確か直前に亡くなっていますが、影響は大きいでしょうか?
それにしても出家して頭を剃った称徳天皇が大きな権力があったのは道鏡というよりも何だか仏教勢力の強さを感じました。
弘文天皇の方が悲惨ですが、淳仁天皇もかなり悲惨な末路だと思いました。

投稿: non | 2015年5月 3日 (日) 13時38分

すみません、従弟でした。
ところで孝謙天皇が退位した時にはまだ天武系は自滅していませんでしたが、押勝の乱とかその後の権力闘争で天智系復活になりました。
天智系で乱れることは少ないのに、天武系と言いますか奈良時代は政争ばかりです。よく潰れなかったと思います。
出家と言いますと聖武天皇は出家したかどうかは定かでないですが、孝謙天皇(称徳天皇)の出家は定かですが、称徳天皇の政治は何だか聖武天皇の政治と似ています。
道鏡を持ち上げたのも玄昉を引き上げた聖武天皇の政策に似たのかなと思いました。

投稿: | 2015年5月 3日 (日) 13時51分

nonさん、こんにちは~

私としては、天武系から天智系に変わっても、相変わらず争いが絶えなかったような印象ですが、それとは別に、「仏教勢力の強さ」という点で言えば、「桓武天皇の平安遷都は、奈良の仏教勢力から距離を置くための遷都だったと思う」という事を2010年10月1日のページ>>で書かせていただいております。

それまで、遷都とともに移転していた寺院が、平安京には移転しませんでしたし…

投稿: 茶々 | 2015年5月 3日 (日) 16時18分

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