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2009年10月31日 (土)

開設から3年8ヶ月~150万アクセス突破しました

 

いつも、「今日は何の日?徒然日記」へご訪問いただいてありがとうございますo(_ _)oペコッ

ブログを開設して、3年8ヶ月と19日・・・ついに150万アクセスを突破しました。

これも、毎日訪問してくださる皆様のおかげ・・・感謝感激雨霰でございます。

こんなつたないブログではありますが、このおしゃべり好きが思いのたけをしゃべり尽くすまで、今、しばらくお付き合いいただければ幸いです。

・‥…━━━☆

ところで、開設以来、ほぼ毎日の更新をしておりましたおかげで、今や、このブログのページ数も1300ページを越しております。

私のPCが悪いのか?
ページ数が増えすぎなのか?

とにかく、バックナンバーやカテゴリーでの表示に異常に時間がかかります。
特に、カテゴリーで表示すると、1~2分経っても砂時計が消えなかったりします。

そのため、このブログでは、お目当ての記事を探しやすいようにと、様々な切り口での目次=索引のページを作成しておりますので、すでにご存知かとは思いますが、このキリの良い時に、改めてご紹介させていただいときます。

それぞれ、お目当ての記事をお探しください。

また、1人で多くの記事を書いている歴史人物や出来事に関しましては、人物・出来事年表】>>も用意しております。

さらに・・・

  • このブログの軌跡については・・・
      ★ブログの歩み】へ>>
  • 最新記事へは、左サイドバーの「最新記事」から
  • 閲覧数の多い記事は、左サイドバーの「人気記事ランキング」からどうぞ

それでも、お目当ての記事にたどりつけない場合は、右サイドバーに中間あたりにある「サイト内検索」へ・・・
全文を検索してくれますし、キーワードにはマーカーをつけてくれるので、とてもわかりやすいです(意外な人が、意外なところに登場していたりして・・・)

 

・・・という事で、本日は、歴史のお話ではありませんが、150万アクセスの突破記念?という事で、感謝の気持ちを伝えるページとして書かせていただきました。

今後とも「今日は何の日?徒然日記」と、管理人:羽柴茶々をよろしくお願いします。
 

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2009年10月30日 (金)

今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革

 

明治二十三年(1890年)10月30日、「教育に関する勅語」=教育勅語(ちょくご)が発布されました。

・・・・・・・・・・

1年ほど前、関西の名門私立大学で・・・
「私語で授業に大きな支障が出ている」
「大学生にこのような事を伝えなくてはならないのは慙愧
(ざんき)に耐えない」
などと、学生の自覚を促す学部長名の掲示が教室にあった』

・・・というニュースが話題になった事がありました。

それに関連した実例として、授業中に私語を注意すると「先生は、私たちの授業料で食ってんでしょ?」・・・『だから威張るな!』なんて事を言い返す生徒もいるとか・・・

また、それらの生徒の親は親で、
「風邪で学校を休んだ日の給食費は払いたくない」
「希望する大学に入れなかったので授業料を返せ」
「自分の子供がリレー選手に選ばれないのは不自然だ」

と、いわゆるモンスターペアレントなどは、ドラマにもなって大きな話題となりました。

さらに、今年に入ってからのニュースでは・・・
「日本の医療制度には納得してないから、診療代は払わない」
「医者1人では足りないから、もう一人呼べ!」

と、無理難題をふっかける患者の急増に、「医者や看護婦の身か持たない」と病院側が嘆いているなどという話も登場しました。

なにやら、個性と自由をはき違えた感のする今日このごろ・・・

以前、聖徳太子十七条憲法(4月3日参照>>)のところでも少し書かせていただきましたが、公共の場で騒ぐのも個性、順番に並ばないのも自由、果ては、大人になって働かないのも・・・

本来なら、自由と責任はワンセットになってるもので、自由な行動の結果、起こった出来事には、己自身で責任も負わなけらばならないものですが、こういった場合、大抵、自由を主張するワリには、その結果の不利益は他人のせいだったりします。

こんな光景に眉をひそめる人がいる・・・という事は、皆が皆、そうではないわけですが、逆に、こうして話題になるという事は、やはり、こういった人が現実に増えているという事なのでしょう。

「こんな事って、初めてじゃないの?」と思ってしまいますが、実は、これと同じような事が、明治の時代にありました。

よく、「人は、何か問題が起きた時、過去の例を踏まえて、一番良い解決法を見つけるために歴史を学ぶ」なんて話を聞きますが、私自身は、ただ気がついたら歴史が好きだっただけで、歴史を学ぶ意義なと考えた事もなく、そこのところはよくわかりません。

なので、歴史ブログと銘打っておきながら、おそらくは、学校の授業に役立つ話などは、ほとんど出て気やしないこのブログではありますが、「歴史はくり返される」というのはちょっとあるような気がします。

まさに、明治十年(1877年)頃から、今と同じような教育の崩壊が叫ばれはじめ、それを何とか修復するために、教育勅語が生まれたのです。

それは、あの自由民権運動(10月18日参照>>)・・・自由党が主張する自由主義・平和主義が日本の津々浦々まで浸透すると同時に、政府は欧米主義に走って西洋人の生活様式や思想を最先端と考える・・・

確かに、それまでの江戸時代の封建社会から解き放たれた自由はすばらしい物ではありますが、上記の通り、その自由をはき違えると、どんどんとあらぬ方向へ行ってしまうものです。

そのため、自分の欲望のおもむくままに好き勝手に生き、公共心も失われ、日本古来からつちかわれてきた道徳心も失われていったというのが、その頃の現実です。

特に、自由民権運動を支えたのが地方の農民であった事から、危機感を抱きはじめた各地の県知事たちから、「何とか道徳観を養う教育を・・・」との声が政府にもたらされ、明治二十三年(1890年)10月30日「教育に関する勅語」=教育勅語が発布されるのです。

教育勅語を起草したのは、井上毅(こわし)元田永孚(ながざね)という人物・・・彼らは、この教育勅語が、思想信条の自由をうたっている大日本帝国憲法に触れないよう気を使い、大臣の署名はつけずに、天皇の名前だけを記し、その天皇が「国民とともに、自ら実践していこう」と呼びかける形式としました。

その原文と口語訳が【明治神宮のサイト】(別窓で開きます>>)にあるので、引用させていただきます。

ー引用ー
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
ー引用ここまでー

ご覧の通り、現在でも通用する見事な内容だと思います。

この時代の物ですので、少し忠君に関するところが気になりはしますが、それさえ排除すれば・・・そうです、先ほど、自由をはき違えると・・・と書きましたが、こちらの名文もはき違えると別の意味へと変化してしまうのです。

そもそも、この教育勅語を作った井上らは、この文章は、文部大臣のもとで非公開にするか、公開しても教育関係者にだけに行きわたる程度にと考えていたのですが、政府がそれを許しませんでした。

時の首相・山県有朋(やまがたありとも)伊藤博文らは、「欧米がキリスト教の精神に基づいているのに対して、心の拠り所となる精神的なものが少ない日本では、天皇の権威を拠り所としよう」と考え、この教育勅語を、文部大臣から各学校に配布して、「学校の式典などで奉読せよ」との訓令を出したのです。

これには、当時、勢いづいていた民権運動に対抗するという政治的背景もあったようですが、いつしか、この教育勅語を各学校で奉読する事が義務となり、その精神は「修身」の教科書とともに、子供たちに教え込まれる事になります。

それでも、この段階では、その内容をはき違えてはいませんから、おそらく、崩壊しつつあった教育現場を修復する事には成果があった事でしょう。

しかし・・・です。

「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」
もう、すでにお気づきの通り、ここの部分の解釈が、昭和の始め頃から変化・・・いつしか「国のために命惜しまず…」と、軍国主義のスローガンのような使い方をされてしまうのです。

ゆえに、現在の教育現場で、この教育勅語が教えられる事はありません。

有名な昔話の桃太郎(12月1日参照>>)は、その解釈の仕方によって、勧善懲悪の英雄伝にもなり、他国を侵略する物語にもなる・・・

今や、教科書ではほとんど扱われない記紀神話も、日本のルーツをたどる壮大な叙事詩ととるか、神国ニッポンのプロパガンダととるかで、その扱いは大いに変わります。

しかし、教育勅語の中でうたっている孝行友情夫婦愛博愛精神、さらに謙遜啓発などなど・・・その多くの事は、現代でも決して失ってはならない物であるはずです。

もし、本当に、歴史という学問が、過去の経験を踏まえる事で解決策を導くための物であるならば、今一度、教育勅語を読み直し、新たな教育改革に活かしていただきたいと思う次第です。
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2009年10月29日 (木)

東京で起こった士族の反乱~永岡久茂の思案橋事件

 

明治九年(1876年)10月29日、昨日勃発した萩の乱に同調した永岡久茂らが、東京の思案橋に集結中にて逮捕された事件・・・思案橋事件がありました。

・・・・・・・・・

ここんとこ、連日のように書かせていただいている明治維新後に起こった士族の反乱・・・

まずは、明治七年(1874年)に勃発した江藤新平佐賀の乱(2月16日参照>>)ですが、こちらは、大きな反乱ではありましたが、その後の乱との連動ではなく、単発・・・

ただ、この最初に起こった佐賀の乱から、最終段階で最大の反乱となる西南戦争(1月30日参照>>)まで、いずれも、単に武士の特権を剥奪されたという不満だけではなく、腐敗し、墜落してゆく新政府に対し、その道を正すべく立ち上がった不平士族による反乱という点で一致する事は確かです。

そして佐賀の乱から二年後の明治九年(1876年)、今度は、連携した者同士・・・いわゆる同時多発テロが決行されるわけです。

10月24日、熊本神風連の乱(10月24日参照>>)
10月27日、福岡秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日、山口萩の乱(10月28日参照>>)

・・・と、歴史年表などでは、ほとんどこの3つの乱が立て続けに書かれているわけですが、実は、もう一つ、萩の乱の翌日に、東京で決起した人たちがいたのです。

その人数も少なく、未遂に終ってしまったために、あまり扱われる事はありませんが、明らかにこの3つの乱と連動した士族の反乱であったのです。

それは、昨日書かせていただいた萩の乱の主役である前原一誠(いっせい)・・・彼は、この萩の乱勃発の前年に、同郷の木戸孝允(たかよし・桂小五郎)に呼ばれて東京へ行き、再び政府で働くよう頼まれますが、結局、その話を蹴って萩へと戻っています。

その時、東京に滞在中の前原に数度の面会した人物・・・それが、本日の主役・永岡久茂です。

おそらく、その時に、何等かの密約をかわしたものと思われますが、そんな永岡・・・実は、あの戊辰戦争の時は、北越戦線で大活躍した前原と、真っ向から戦った会津の人です。

まさしく「昨日の敵は今日の友」・・・

天保十一年(1840年)、若松城下に生まれた永岡は、17歳で日新館(会津藩校)に入学し、翌・18歳で大学へ・・・豪快で明朗で、弁も立ち、秀才の誉れ高い少年でした。

戊辰戦争の時は、会津が戦場になる前から北越へとおもむき、あの長岡藩家老・河井継之助(5月13日参照>>)にも協力し、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の締結にも尽力しました。

その後、会津が戦場となり、もはや風前の灯火となった9月に、あの榎本武揚(えのもとたけあき)が艦隊を率いて北上途中に立ち寄った時(10月20日参照>>)「まだ、あきらめない!」と言わんばかりに、その榎本から兵を借りて一戦を交えた事もありました。

しかし、ご存知のように会津は敗れます。

会津藩主・松平容保(かたもり)に領地没収の処分を下した明治新政府は、容保の息子・容大(かたはる)に家名再興を許し、「猪苗代(いなわしろ)もしくは下北に3万石の領地を与える」としましたが、この時、「猪苗代にしよう」という町野主水(もんど)らに対して、山川浩(大蔵)らとともに、下北半島への移住を主張したのも永岡でした。

最終的に下北への移住が決まり、斗南(となみ)と名を改めた会津の国替えは、「全藩流刑」と称されるくらい過酷なものでしたが、そこで永岡は小参事となり、藩政に尽力します。

しかし、やがて迎えた廃藩置県(7月14日参照>>)で藩は消滅・・・その後、田名部(たなぶ)支庁長を命じられますが、間もなく辞職して、東京にて「評論新聞社」を立ち上げます。

そう、ここで永岡は、言論によって政府と対抗する事を考えたのです。

「薩長は王政復古の名を借り、幕府を倒して政権を握りながら、私利私欲に走り、墜落し、あまつさえ外国の奴隷のようだ」
などと、政府批判の記事を書き、何度も発禁処分を喰らいますが、これが、なかなかスルドイ意見を展開してくれます。

その才を生かしてもらおうと、伊藤博文井上馨(かおる)といった面々が、再三に渡って政府への出仕を要請しますが、彼は断り続け、言論での戦いに没頭します。

しかし、そんな永岡もいつしか・・・
「言論を以って矯正するのはムリかも・・・こうなったら、力を以って政府を転覆させるしかない」
と考えるようになっていくのです。

それが、前原らと同調する事でした。

明治九年(1876年)10月29日、永岡をはじめとする旧会津藩士などの士族・13名は、東京思案橋(中央区日本橋小網町・現在、橋はありません)に集合し、千葉県は登戸(のぶと)に向けて船を出そうとしていたところを見咎められ、現場に駆けつけてきた警察官らと斬り合いになってしまったのです。

彼らの計画では、千葉県庁を襲撃した後、佐倉鎮台を襲い、日光あたりで同志を募って人数を増やし、皆で会津へと押し寄せるつもりでした。

しかし、結局、13名のうち永岡ら4名がその場で逮捕され、残りは、一旦逃走を計り、そのうちの何人かは新潟まで逃げ延びたりもしますが、結局、全員捕縛されてしまいます。

しかも、その時の闇夜での斬り合いにて負傷した永岡は、翌年・1月12日に獄中にて死亡してしまいます。

未だ38歳の志半ばでした。

ちなみに、あの時、斗南藩の再出発で、ともに永岡と奔走した山川は、廃藩置県後に政府に出仕し、佐賀の乱や西南戦争で武功を挙げました。

まさしく「昨日の友は今日の敵」・・・

ただ、山川の場合は、佐賀は肥前、鹿児島は薩摩という事で、その戦いを会津の亡き友の復讐ととらえていたところもあるようで、それぞれの敵味方を単純に論じる事はできないようです。

ともに故郷の亡き友を思い、
ともに日本の明日を憂いていた者同士・・・

少し、やるせない思いのする一連の士族たちの反乱です。
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2009年10月28日 (水)

天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発

 

明治九年(1876年)10月28日、長州士族による反乱萩の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

前原一誠(いっせい)長州(山口県)の下級武士・・・松下村塾(11月5日参照>>)で学んだ後、高杉晋作とともに四境戦争第二次長州征伐:5月22日参照>>)を戦い、その後の戊辰戦争では北越戦線(4月25日参照>>)で活躍し、その功績で明治新政府では参議となり、後に兵部大輔(ひょうぶたいふ)まで務めますが、軍事に関しての意見が合わず辞職して故郷・萩に戻っていた人でした。

当然の事ながら、中央で活躍した経験のある彼には、新政府に不満を持つ士族の期待が集まりますし、彼自身も、明倫館(旧藩校)などで、政府を批判する時事論を展開し、熊本や秋月の不平士族たちと交流したりもしていました。

途中、そんな前原を心配した木戸孝允(たかよし・桂小五郎)と相談のうえ、同郷の品川弥二郎が、「血気にはやるな!」と説得したりなんかもしています(4月14日参照>>)

そんなこんなの明治九年(1876年)10月24日・・・熊本城下にて神風連の乱が勃発!(10月24日参照>>)

この時、前原の一派だった玉木正誼(まさよし)小倉にいました。

松下村塾の創設者だった玉木文之進(ぶんのしん)の養子となったため、彼は玉木姓を名乗っていましたが、実は、あの乃木希典(のぎまれすけ)・・・もちろん、この時は、兄を自分たちの仲間に引き入れるべく、小倉に来ていたわけですが、昨日書かせていただいた通り、乃木は、神風連の乱と連携して起こる27日の秋月の乱の鎮圧に向かう事になります(10月27日参照>>)

兄の勧誘には失敗しましたが、小倉にいたおかげで、いち早く神風連の乱の勃発を知った玉木は、慌てて萩へと戻り、「神風連が挙兵した!秋月や、その他の同志もこれに応じるらしい」と報告します。

前原は早速、主だった者たちを明倫館に集め、「山口を占領した後、東上して不正を働く政府役人を排除する!」と宣言・・・同時に、側近の奥平謙輔(おくだいらけんすけ)徳山(山口県徳山市)の同志に、決起を促す使者を派遣します。

27日には、明倫館の門前に「殉国軍(じゅんこくぐん)の札を掲げ、同志を集め、武器・弾薬の準備を始めます。

一方、前原の様子を聞きつけた山口県令・関口隆吉(たかよし)は、側近の百村発蔵を現地に派遣し、「九州はすみやかに鎮圧されたから、すぐに解散せよ」との命令を下します。

これに対して、前原は、とりあえずは「OK!わかりました~」と、従順な態度の返事をしておいて、一方では「向こうにバレた以上は、山口への進軍を中止し、直で山陰道を東上する」と密かに方針転換します。

かくして明治九年(1876年)10月28日前原のもとに集結した約1500名が気勢を挙げます・・・萩の乱の勃発です。

翌・29日の午前2時に明倫館を出発した彼らは、その日は行く手を阻む者には遭遇せず、戦闘がないまま、翌・30日には須佐(萩市須佐)まで到着します。

ここで、陸路と海路に分かれて、さらに東の浜田(島根県浜田市)を目指す手はずでした・・・が、出発直前、ニュースが舞いこ込んできます。

「萩に残った家族が虐待されている」
「反対勢力に明倫館が占拠された」

実際には、これは誤報だったのですが、そうとは知らない彼らの間には、動揺が走り、このままの東上は不可能であると判断した前原は、一旦、海路にて萩に戻る事に・・・

この誤報の出所は、やはり県令・・・もちろん、家族を虐待したりも、未だ明倫館を占拠したりもしてはいませんでしたが、県令の関口が30日に萩に入ったのは事実、すでに、政府側が騒動を鎮圧すべく動いていたのも事実でした。

翌・31日、急遽引き返して来た前原らが、船にて上陸し直行した先は、関口のいる役所・・・いきなりの奇襲攻撃をかけられ、関口は命からがら脱出します。

初めて行われた萩での市街戦・・・午後には、萩の中心である橋本大橋を挟んでの激戦となります。

この戦いで、かの玉木が銃弾に倒れて戦死・・・徐々に形勢が不利となった前原らは、とりあえず、この場を側近の1人である小倉信一(おぐらしんいち)に任せ、自らは、わずかの人数で東上を続けるべく、海路、須佐へと戻る事にします。

残った小倉らは、翌日も戦闘を続け、一進一退の激戦をこなしますが、11月5日には、政府軍に援軍が到着し、翌・6日からは総攻撃が開始され、そうなると、わずかの人数の彼らはひとたまりもなく、散り散りに逃走・・・ある者は身を隠し、ある者は逮捕され、8日には、すっかり鎮圧されてしまいました。

一方の前原らも、5日に出雲にて逮捕されてしまいます。

松山へと護送され、取調べを受ける前原・・・

しかし、ここで、かすかな希望がつながります。

島根県令の佐藤信寛です。

彼は、
「君らが、島根で逮捕されてくれた事は幸いや。
僕に、まかしといてくれ。
君らを東京へ護送して、天皇へ訴えるチャンスを与えたい」

と約束するのです。

そう、実は、挙兵の際、前原はこの乱を決起するにあたっての声明文を発表していたのです。

「最近の争乱は、よこしまな心を持ち不正を働く政府の役人に対する怒りが爆発した物や。
僕は、田舎者やけど、民衆が苦しんでるのを見過ごすなんて事はでけへん。
山陰道を東へ進んで上京し、誠意を持って天皇をお諌めしたいんや。
もし、僕らの意見を聞いてもらわれへんかったら、死を以って、その意志を伝える。
あえて、戦いはしたないけど、行く手を阻む者あれば、蹴散らして前へ進むのみや!」

佐藤は、この声明文を読んだのかも知れません。

さらに、前原は、今回の戦線離脱も、逃亡したのではなく、そもそもの挙兵が国を正さんがためのもので、朝廷への叛逆の意味ではない事を上京して訴えるためであった事を佐藤に告げます。

やはり、この萩の乱もそうでした。

武士の特権を奪われた事で、「もとの徳川の時代のほうが良かった!」などの不平不満だけで反乱を起したのではなく、墜落の一途をたどり、腐敗する新政府への激しい怒が、そこにあったのです。

記録によれば、現在のお金にして数百億円もの公金を、私的に流用した者もいたようですから、島根県令の佐藤のように、同じ新政府の者から見ても、前原らの怒りが理解できたのかも知れませんね。

はてさて、この先、前原の願いが叶えられるのかどうか、気になるところではありますが、そのお話は、更なる展開がある12月3日のページへ>>

ところで、神風連→秋月→萩と来た不平士族の反乱・・・ご存知のように、最終かつ最大の反乱=西南戦争(1月30日参照>>)へと向かう事になりますが、実はその前に、もう一つ・・・

この萩の乱と同調していたであろう反乱が東京で勃発する・・・・はずでした。

思案橋事件と呼ばれるそのお話については、勃発する明日、10月29日のページへどうぞ>>
 

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2009年10月27日 (火)

福岡で起こった士族の反乱~秋月の乱

 

明治九年(1876年)10月27日、不平士族による反乱秋月の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・

元来、合戦というものは、戦いで武功を挙げた者に恩賞が与えられるものでした。

それがあるからこそ頑張れるし、それがあるからこそ命をかけて戦う意味もあったわけですが、その定義がくつがえされたのが明治維新でした。

明治四年(1871年)に新政府が断行した廃藩置県(7月14日参照>>)によって藩という物が無くなり、政治のもろもろは官吏へ、明治六年(1873年)に発令した徴兵令で国民皆兵(かいへい)となり軍事も、広く国民全員から徴集する事に・・・

維新に貢献したと言われる薩長土肥(さっちょうどひ:薩摩・長州・土佐・肥前)の武士たちにとっては、戊辰戦争を戦いぬいた勝利者であるにも関わらず、恩賞どころか、政治と軍事という武士の生きる道さえ奪われてしまう事になったわけです。

さらに、政治の中核にあって膨大な富を得て贅沢な暮らしをしている一部の者は、その特権によって得た甘い汁を吸いまくり、腐敗の一途をたどる・・・この報われない状況に不満がつのるのは当然でした。

それに加え、その中央政府でも征韓論による深刻な対立が生まれ、西郷隆盛(さいごうたかもり)板垣退助(いたがきたいすけ)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)江藤新平(えとうしんぺい)副島種臣(そえじまたねおみ)といった面々が政界を去ります明治六年の政変=10月24日参照>>)

その後、西郷は鹿児島にて私学校を開き、板垣は自由民権運動に没頭し・・・と、下野した彼らはそれぞれの道を歩む事になりますが、そんな中の江藤新平・・・

現政権に不満を抱く士族たちを抑えようと故郷・佐賀(旧・肥前)に戻った江藤でしたが、もはや爆発寸前の彼らを止める手立てがないばかりか、政府からの挑発的行為を受け、ついに、明治七年(1874年)2月、最初の士族の反乱である佐賀の乱が勃発します(2月16日参照>>)

しかし、首謀者と見られる江藤を捕らえた政府は、見せしめとも言える梟首刑(ちょうしゅけい・さらし首)で彼を処刑し、乱を終結させます(4月13日参照>>)

こうして、断固とした処罰によって不平士族を抑えようとした政府でしたが、明治九年(1876年)3月の廃刀令(刀を持ち歩く事を禁止)、続く8月には秩禄処分(ちつろくしょぶん・元武士への給料停止)を発した事で、不平士族の不満は頂点に達します。

こうして、佐賀の乱から2年後の明治九年(1876年)10月24日、熊本城下で国学講義する林桜園(おうえん)の門徒らを中心に結成された敬神党(けいしんとう)が蜂起・・・彼らが、通称・神風連(じんぷうれん)と呼ばれていた事から、この乱を神風連の乱と言います(10月24日参照>>)

・・・とは言え、最初こそ気勢をあげたものの、わずか2日で鎮圧された神風連の乱・・・しかし、実は、彼らは無軌道に決起したわけではなく、すでに挙兵の前に他の不平士族に、同時に決起するように連絡をとっていたのです。

そして、3日後、福岡県下で秋月の乱が勃発するのです。

福岡藩の支藩である秋月藩は、5万石の小藩・・・士族は600名ほどでしたが、未だ攘夷思想が根強く残る土地柄で、現政府を「西洋かぶれ」と言って批判してはばからず、同志たちと連絡を取りなから、その決起の時を待っていたのです。

そんな彼らの所へ、かの神風連の乱・勃発のニュースです。

旧秋月藩の士族・磯淳(いそじゅん)宮崎車之助(くるまのすけ)今村百太郎(ひゃくたろう)土岐清(とききよし)戸原安浦(とばらやすら)らのメンバーを中心に結成された、彼ら秋月党は、早速、現地に蒲池作之進(かまちさくのしん)らを派遣し、様子を探ります。

前半の勢いづく反乱軍を目の当たりにして戻って来た彼らは、「今すぐ、我らも蜂起すべき」と意気を挙げますが、中心人物である磯や宮崎は、「先走るな!少し様子を見よう」と慎重です。

しかし、血気盛んな急進派の今村らは、有志だけを誘って城下の田中天満宮に集結・・・明治九年(1876年)10月27日の朝、挙兵したのです。

彼らの行動を知った磯は、かねてから連携をとっていた豊津(旧小倉藩)の不平士族に連絡し、ともに決起するようにうながしますが、どうやら、豊津の彼らは動かない様子・・・

やむなく、磯と宮崎らも加わり、約240名(諸説あり)となった秋月党は、まずは明元寺(みょうげんじ・朝倉市甘水)にて、警部の穂波半太郎(ほなみはんたろう)血祭りにして気勢を挙げます。

ちなみにこの穂波さんは、日本で最初の警察官の殉職として記録されているのだとか・・・

そして、秋月街道を通って、かの豊津へと向かいます。

もちろん、合流して直接彼らに決起を迫るためです。

翌・28日、豊津に到着した彼らは、早速、豊津の士族らに面会しますが、彼らは、なんだかんだと理由をつけて、はっきりとした意見を避け、チンタラチンタラと、ただ実のない話し合いに終始し、いっこうに結論を出しません。

・・・と、実は、この豊津・・・すでに、穏健派がその主導権を握っていて、秋月党とともに決起しない事が、決定していたのです。

なのに、ダラダラと・・・なんと、それは、時間稼ぎだったのです。

すでに、この秋月党の行動を政府側に報告し、小倉鎮台(政府軍)に出動の要請をしていて、その政府軍の到着を待っていたのでした。

そうとは知らず、夕刻まで話し合いを続けていた秋月党・・・気づけば、周囲を小倉鎮台兵に囲まれてしまっています。

「農民あがりの鎮台兵に、武士の我らが負けてなるものか!」と奮起する秋月党でしたが、あの乃木希典(のぎまれすけ)率いる鎮台兵は、最新鋭の様式武装・・・その戦いは、もはや、武士が刀を揮う時代ではない事を物語っておりました。

17名ほどの死者を出して敗走する秋月党・・・一方の鎮台兵の死者は、わずか2名でした。

31日、栗河内(くりごうち・朝倉市江川)という場所まで逃れてきた彼らは、もはや数十名に減ってしまっていました。

覚悟を決めた磯は、ここで解散宣言・・・今後は、どのような行動を取ろうとも自由として、自らは、宮崎ら7名とともに、その場で自刃しました。

しかし、未だ徹底抗戦の姿勢を崩さない今村ら27名は、そのまま秋月へと戻り、県の役人たを殺害して逃走・・・

けれども、逃げた彼らも、結局は11月中には拘束され、首謀者らは処刑、その他、約100名ほどが、士族を剥奪され平民へと処分されました。

2年前の佐賀の乱もそうですが、彼ら不平士族は、単に武士の特権を奪われた怒りだけではなく、新政府の腐敗した政治そのものにも、それなりの言い分を持っていた人たちですから、もう少し何とかならなかったのか?と、ちょっとはがゆさが残る結末となってしまいましたが・・・

ところで・・・
実は、神風連と連絡を取っていたのは、彼ら秋月党だけではありません。

もう、すでに、水面下で動き始めていたのは、それこそ維新の中心であった長州の出身者たち・・・そんな彼らの行動が、翌日の10月28日、表面化します。

萩の乱が勃発します(明日のページへ>>)
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2009年10月26日 (月)

「能もなく芸もない」暗愚の後白河天皇が天下を動かす

 

久寿二年(1155年)10月26日、雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位しました。

・・・・・・・・・・・

在位が、わずか4年という事で、後白河天皇という名よりも後白河法皇という名で歴史に登場する事が多い天皇・・・

源平の合戦の裏で表で暗躍し、あの源頼朝「日本一の大天狗」と言わせたほど、知略に長けた人ですが、意外にも、その即位は「思いがけず、なちゃった」という雰囲気の物でした。

以前も、「保元の乱のきっかけ?」(7月2日参照>>)として書かせていただいた事のあるややこしい親子・兄弟関係ですが、とにかく第74代鳥羽天皇には、(ややこしいので、今回は皆さん天皇名で呼びますが)崇徳(すとく)近衛(このえ)後白河3人の皇子=天皇候補がいたわけです。

ところが鳥羽天皇は、このうちの崇徳さんを、自分のおじいちゃんである第72代白河天皇の子供だと信じていて・・・というより周囲も承知のもっぱらのウワサで、実際にも白河天皇は崇徳さんを可愛がり、鳥羽天皇をムリヤリ退位させて、崇徳さんを第75代の天皇にしてしまいます。

しかし、その白河天皇が亡くなると、鳥羽天皇は「仕返し」と言わんばかりに、崇徳天皇に退位を迫り、自分の息子である近衛さんを、わずか3歳で第76代天皇としますが、この近衛天皇が17歳で亡くなってしまったのです。

・・・となると、残る息子は、当然、後白河さん・・・という事ですが、この時の後白河さんに対する鳥羽上皇(天皇)&崇徳上皇(天皇)の評価は・・・
「即位の器量にあらず」
「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」

と、言いたい放題の酷評です。

それゆえ、この時の後継者論争でも、ダメな後白河さんよりも、その息子で、英傑の誉れ高い守仁親王(後の二条天皇)即位が期待されたほどでした。

しかし、いくらなんでも、実父をすっ飛ばして、その息子が皇位を継ぐのはおかしいわけで、「んじゃ、しかたないから中継ぎで出てもらいますか」てな感じ・・・

そう、実は、今回の後白河天皇の即位は、次の天皇となる二条天皇への中継ぎという設定で行われた即位だったのです。

それは、「なんやったら、僕がもっかいやったっても、えぇねんでぇ」と、未だヤル気満々の崇徳上皇への、鳥羽上皇からの牽制球でもありました。

ところが、父からも兄からも暗愚と言われた、この中継ぎ=後白河天皇が、蓋を開ければ、源平の勢力を巧みに操り、その後に天皇となる二条→六条→高倉→安徳→後鳥羽天皇までの5代=50余年に渡って院政を行い続けてたぐいまれな政治能力を発揮・・・冒頭に書いたように、あの源頼朝が「日本一の大天狗」と評するようになるのですから、世の中、わからないものです。

・・・そんな、天皇交代劇に不満ムンムンの崇徳上皇・・・案の定、翌・保元元年(1156年)に鳥羽上皇が亡くなると、わずか9日後に保元の乱(7月11日参照>>)が勃発するのです。

しかし、すでにここで、後白河天皇は、武士勢力を巧みに操る腕前を発揮・・・後白河天皇と関白・藤原忠通は、崇徳側についた武士勢力よりも、一つ若い世代の武士勢力である源義朝(みなもとのよしとも)平清盛を味方につけ、崇徳上皇のクーデターを粉砕します。

敗れた崇徳上皇は、讃岐(香川県)に流され、失意の最期を遂げます(8月26日参照>>)

その後、保元の乱で功績のあった者を重用し、荘園整理を行うなどの新制度を整えたと思ったら、即位から四年目にして、さっさと息子に皇位を譲り、自らが院政を開始するのです。

しかし、ここにも、微妙な力関係が・・・

なんせ、先ほど書いたように、もともと、後白河天皇をすっ飛ばして、二条天皇の即位を望む声があったくらいですから、当然の事ながら、二条天皇の代になっても、未だ後白河さんが権力を握る事を、好ましく思わない人がいるわけです。

そんな二条天皇の側近に、武士勢力がからんで、再びのクーデター・・・これが、平治の乱(12月9日参照>>)です。

しかし、ここでも、相手方を圧倒・・・藤原信頼(のぶより)と源義朝は敗れ、後白河さんに味方した平清盛による平家全盛の時代へと移ります。

しかし、あまりにも強大となった平家・・・治承元年(1177年)には、後白河さん自らが鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)を張りめぐらしますが、これは未遂・・・

ところが、清盛が勢いに任せて、自らの孫をわずか3歳で安徳天皇とした事で、不満を持った後白河さんの息子・以仁王(もちひとおう)源頼政(よりまさ)とともに挙兵(4月9日参照>>)・・・これは、失敗に終るも、かの以仁王の令旨(りょうじ・皇族の命令書)を受け取った源氏の生き残りが立ち上がり、ご存知、源平の合戦となるのです(平清盛と平家物語の年表を参照>>)

この源平の戦いの中でも、木曽義仲が京に入るとなれば義仲の元へ行き、源頼朝が立てば頼朝に義仲追討を命じ、平家を倒した源義経が京に戻れば官位を与え、それに頼朝が怒れば、今度は、頼朝に義経追討の命令を出す・・・と、ものの見事に、それぞれの勢力を手玉にとってくれます。

あまりに、その登場回数が多いため、この1ページでは書ききれず、いずれまた、その時々でご紹介させていただく事になろうとは思いますが、即位の時には「能もなく芸もない」と言われた後白河天皇・・・まさに、自分自身で、その評価が間違いであった事を証明してくれましたね。
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2009年10月25日 (日)

総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生

 

元治元年(1864年)10月25日、幕府の追討軍と諸生党に囲まれ、窮地に追い込まれていた天狗党武田耕雲斎が加わり、耕雲斎を総大将とした新たな天狗党が誕生しました。

・・・・・・・・・・

久々の天狗党の登場って事で、これまでの経緯を簡単に振り返ってみますと・・・

ご存知、ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)で、国内が開国攘夷(じょうい・外国を排除)かで揺れる中、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ないままアメリカとの条約を結び、反対派を弾圧する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)

そんな中、今は亡き藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)のもと、尊王攘夷思想を掲げる水戸学が根づく水戸藩では、脱藩した一部過激派による直弼の暗殺・桜田門外の変(3月3日参照>>)が決行されますが、彼らの掲げる尊王攘夷は、大老を暗殺しながらも幕府に敬意を表するものでした。

そんな思想を受け継いだのが東湖の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月、筑波山に集結した同志とともに天狗党を結成したのです(3月27日参照>>)

翌・4月、日光で気勢を挙げた後、各地を点々としながらも、倒幕ではなく、あくまで「幕府の方向転換」を要求する彼らでしたが、そんな彼らに幕府は追討軍を派遣、水戸藩内でも保守派による追討軍・諸生党が結成され(4月10日参照>>)7月には下妻で激戦となり、水戸城を占拠した諸生党と、さらに再編制されて大軍となった幕府討伐軍に挟まれた天狗党は・・・(7月9日参照>>)

・・・と、ここまでお話させていただきました。

その下妻の夜襲から1ヶ月後の8月・・・局面は大きく変わります。

水戸藩の第10代藩主・徳川慶篤(よしあつ)事態の収拾に乗り出したのです。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・

慶篤の命を受けた支藩・宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、執政の榊原新左衛門以下数百人を伴い、水戸へと乗り込んで来たのです。

この榊原という人は、もともとは天狗党を鎮めようとしていた人なのですが、諸生党と、それを率いる市川三左衛門が、ここに来て藩内の要職を牛耳る事態となって、市川らを排斥するために同行したのでした。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・2度目

そんな頼徳ら数百人に、さらに尊王攘夷派の農民たちが加わって、彼らは大発勢と呼ばれる集団となります。

さらに、ここに来て、またまた強い味方が登場・・・

やはり諸生党の勢いで、藩の首脳部から追い出された山国兵部(やまぐにひょうぶ)武田耕雲斎(こううんさい)様ご一行です。

兵部は、天狗党の大将・田丸稲之衛門(いなのえもん)の実の兄で、以前、天狗党が太平山(栃木県)を本拠地としていた頃に、挙兵をやめるように説得しに来た人ですが、その時も、挙兵に反対しながらも、天狗党が目指すその姿勢には理解を示していた人でした。

耕雲斎は、小四郎の父・東湖とも友人関係にあり、先代水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の信頼も厚く、最近では、京都にて徳川慶喜(よしのぶ)を補佐する重要な役職にもついていた頼もしい人で、小四郎が天狗党結成に際に、一番参加を希望した人でもありました。

しかし、その時は、「時期が早い」として天狗党には入らず、藩内の立場上、尊王攘夷派の鎮圧にあたったりしていましたが、ここに来て、やはり、「武力を以ってしか、藩内の保守派に対抗できる手段はない」との判断に至って、頼徳らに合流したのでした。

こうして、約3000の集団に膨れ上がった彼らは水戸城へと向かいますが、水戸城を占拠する市川以下諸生党は、徹底抗戦の構えを見せ、「もし、入城するなら頼徳1人だけ・・・」と言って聞きません。

そんなもん、彼らが占拠する城内に、頼徳がただ1人で入れるわけがなく、やむなく彼らは、歴代水戸藩主の別荘地である那珂湊(なかみなと・ひたちなか市)へと向かいます。

そして、ここ那珂湊で小四郎ら天狗党も、彼らに合流します。

やがて8月半ば頃から、那珂湊を本拠地に激戦を繰り返す彼らでしたが、いずれも一進一退・・・9月からは幕府軍艦による海上からの攻撃も加わり、諸生党・幕府軍・幕府海軍と、3面からの執拗な攻撃に、藩主別荘だった彙賓閣(いひんかく)や、先代・斉昭が作った反射炉など、多くの建物が焼失してしまいますが、それでもなお、彼らは踏ん張ります。

しかし、江戸藩邸にいて動けない慶篤から、一命を受けている頼徳さん・・・自らの意思で参加している他の人とは違い、彼には、事態の収拾という使命がありますから、こうして一進一退を繰り返してばかりではどうにもなりません。

10月に入り、「何とか打開せなば・・・」と、江戸への弁明もあって、幕府の陣営へと出頭するのですが、案の定、水戸城にて拘束され、10月5日には切腹させられてしまうのです。

幕府側は、この頼徳の死を隠したまま、10日と17日に総攻撃をかけますが、この作戦は幕府の負け・・・しかし、まだまだ一進一退の状況は続きます。

そして、
いよいよ長い長い戦いに耐え切れなくなる人が・・

そうです、上記の通り、未だ彼らは、大発勢+兵部+耕雲斎+天狗党で、統一戦線は組んでいるものの一枚岩ではなかったのです。

ここに来て榊原以下・大発勢1154名が、天狗党の征伐を条件に、幕府側に投降・・・残ったのは、小四郎以下・天狗党、兵部とその支持者、耕雲斎とその支持者・・・。

多勢に囲まれた彼らは、絶体絶命のピンチを向かえ、逆に結束を固める事を決意するのです。

元治元年(1864年)10月25日、何とか那珂湊を脱出した1000名ほどの集団は、北方の大子(だいご・茨城県久慈郡)に、ふたたび集結・・・ここに、耕雲斎を総大将とする新たな天狗党が誕生するのです。

時に耕雲斎・62歳・・・小四郎・23歳、親子ほど歳の離れた同志は、ここでやっと一つになれたのです。

実際には、自由奔放な性格だった父・東湖と、父より3歳年上でカタブツの耕雲斎・・・しかし、この時ばかりは、小四郎も、そんな耕雲斎に、亡き父の頼もしさを見てとった事でしょう。

こうして、新たに生まれ変わった天狗党ですが、もはや水戸城を奪回する事は不可能・・・

こうなった以上は、亡き斉彬の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている慶喜に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。

  • 総大将:武田耕雲斎
  • 大軍師:山国兵部
  • 本陣  :田丸稲之衛門
  • 輔翼  :藤田小四郎
         :竹内百太郎・・・

1000名余りの行軍の先頭にひるがえるは、
「攘夷」
「魁
(さきがけ)
「日本魂
(やまとだましい)の旗々々・・・

いざ、京都へ!

・・・と、この話の続きは、天狗党が大子を発つ11月1日のページへどうぞ>>
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2009年10月23日 (金)

没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

 

天平神護元年(765年)10月23日、第47代・淳仁天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・

これまで、孝謙天皇&藤原仲麻呂の乱がらみで、何度かこのブログにもご登場いただいている淳仁(じゅんにん)天皇・・・何となく、彼らに振り回された感のある天皇です。

これまでの内容とかぶる所もありますが、一連の流れをお話させていただきますと・・・

そもそもは、あの東大寺の大仏建立でお馴染みの第45代・聖武天皇光明皇后との間に生まれた男の子が幼くして亡くなり、逆に、(武士でいうところの側室)のほうに男の子が誕生してしまったたために、外戚(天皇の母親の実家)としての実権を他の一族に取られまいとした藤原氏が、光明皇后が生んだ女の子を、女性でありながら初の皇太子に立てて第46代孝謙(こうけん)天皇として即位させました。

聖武天皇の晩年の頃から、朝廷で最も権力を握っていた光明皇后は、亡き兄の息子(つまり甥っ子)藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を重用し、また、女性でありながら皇太子→天皇の道を歩んだため結婚を許されない孝謙天皇も、この従兄弟にあたる仲麻呂を寵愛します。

この頃の淳仁天皇は大炊(おおい)と呼ばれていましたが、第41代・天武天皇の孫として生まれたとは言え、父の舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)は大炊王が3歳の時に亡くなっており、彼自身は、まったく注目されない存在でありました。

やがて、天平宝字元年(757年)に発覚した橘奈良麻呂の乱(7月4日参照>>)で、ライバルを一掃した仲麻呂は、ラブラブ光線たっぷりの目線で孝謙天皇に天皇交代をおねだり・・・そうして、次期天皇になったのが、大炊王=淳仁天皇でした。

実は、この淳仁天皇・・・仲麻呂の亡くなった息子の嫁の再婚相手として仲麻呂宅に転がり込んでたんです。

父親と息子(すでに死んでる)の嫁とその彼氏が一緒に住む・・・何となく、奇妙な一つ屋根の下ですが、とにかく、仲麻呂にとって、この淳仁天皇は、自分の思い通りになる皇族だったのかも知れません。

「あなたのほほえみには、ワタシ負けちゃうわ」という意味の恵美押勝(えみのおしかつ)なる別名を与えるくらい大好きな仲麻呂の頼みとあって、すんなりと皇位を譲った孝謙天皇でしたが、いざ譲ってみると、仲麻呂は新天皇と新たに近江(滋賀県)に建設しようとする都・保良宮(ほらのみや)の事に夢中・・・

さらに、ここに来て最愛の母・光明皇后を亡くした孝謙天皇(上皇)は、寂しさのあまり病にふせってしまいます。

その病気治療のために登場したのが、葛城山で修行し、験者としての誉れも高い僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・・・失恋の痛手を癒してくれた相手にコロッっといってしまうのは今も昔も変わりなく、孝謙天皇は一発で道鏡に夢中になり、しかも、バリバリに元気を取り戻すわ、政界復帰へ意欲満々となるわ、それとともに道鏡もどんどん出世していきます。

あわてた仲麻呂が、二人の親密な関係を注意すると、逆に、孝謙天皇は保良宮を後にして平城京へ戻り、「これからは、私が、ここで政治をやるわよ!」と宣言!

もちろん、仲麻呂もこの事態を見過ごすわけにはいかず、唐で安禄山の乱(11月9日参照>>)が起って海外情勢が不安定になった事を理由に、関所を押さえて軍備を強化しますが、孝謙天皇は、これを謀反と判断し、仲麻呂を討伐します藤原仲麻呂の乱・9月11日参照>>)

・・・と、ここでの淳仁天皇・・・本来なら、最大の支援者である仲麻呂と行動をともにしてそうですが、実際には、まったくの別行動。

この事に関しては、すでに孝謙天皇側に身柄を拘束されていたから・・・とも、すでに仲麻呂とは決別していたから・・・とも言われますが、ちゃんとした記録が残っていないので、はっきりとはわかりません。

しかし、たとえ別行動をとっていても、そこは許されるはずもなく、その身を捕らえた孝謙天皇は、淳仁天皇の帝位を剥奪して淡路国への流罪とし、自らが再び第48代・称徳(しょうとく)天皇として皇位に返り咲きます。

以後、淳仁天皇は淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる事になりますが、このとおりの話だと、何やら、孝謙天皇と仲麻呂の恋愛関係のもつれに付き合わされた感じのする一連の事件ですが、それはそこ、やはり、二人の愛憎劇だけではない、周囲の政治家たちの思惑、権力の奪い合いなども絡んでいた事でしょう。

・・・とは言え、お気づきのように、淳仁天皇自身には、まったく非はありません。

しかも、この後、称徳天皇がかの道鏡をものすごく重用する事で、周囲からの反発も多く、淡路へと流された帝に復帰を願う声も、少なかず聞かれるようになります。

そんな現状に脅威を感じた称徳天皇が現地の警備を強化する中、その声に答えてかどうかは不明ながらも、配流から1年後の天平神護元年(765年)10月22日、淳仁(元)天皇は、淡路を脱出します。

ところが、残念ながら、その身はすぐに捕らえられてしまい、翌日の天平神護元年(765年)10月23日亡くなってしまうのです。

死因は病死・・・えぇ???

前日に自力で配流先を脱出した人が、翌日に病死?
しかも、まだ30歳そこそこの若さで???

不可解極まりない淳仁天皇の死ですが、残念ながら、記録は病死でしかありません。

ところで、歴史上何度か起ってる血なまぐさい天皇交代劇・・・

今回の称徳天皇の次の天皇=第49代・光仁(こうにん)天皇から第50代・桓武天皇への交代劇では、桓武天皇は、ライバルだった他戸(おさべ)親王と、その母・井上皇后を、皇太子と皇后の座から引きずり下ろして自らが皇位につきました。

また、自分の息子を皇太子したいがために、すでに皇太子に決まっていた弟の早良(さわら)親王死に追いやりましたし、平安時代の後半には、やはり兄弟で皇位を争った第77代・後白河天皇が第75代・崇徳(すとく)天皇讃岐(徳島県)に追いやるなんて事も起こりますが、上記のメンバーを見ておわかりの通り、敗れて不運な最期となった人は、皆、怨霊と化してます。

他戸親王と井上皇后、そして早良親王の怨霊が怖くてたまらない桓武天皇が、怨霊退散の願いを込めて、平安京に様々な風水的効果を配置した事は有名ですし(10月22日参照>>)、早良親王に至っては、崇道(すどう)天皇という天皇の追号まで送って、天皇になった事にして必死の供養これがお彼岸の起源らしい・9月23日参照>>)をしています。

崇徳天皇は、もはや日本三大怨霊の1人とされ、あの日本一の天狗と言われた後白河法皇(天皇)でさえ、その怨霊には生涯に渡って悩まれ、その弔いを必死で行っています(8月26日参照>>)

ところが、この淳仁天皇に関しては、そういったお話は聞きません

奈良時代には、怨霊という発想が無かった???

いえいえ、あの乙巳の変(6月12日参照>>)で殺害された蘇我入鹿の怨霊が、第37代・斉明天皇の葬式に現れたなんて話が、すでにありました。

孝謙天皇が怨霊なんて信じるか!てな女傑だった???

いえいえ、孝謙天皇は、父・聖武天皇が天然痘の流行と国乱れに怯えまくって大仏建立を発案したと同時期頃に、すでにボロボロ状態になっていた亡き聖徳太子の遺構・斑鳩寺(法隆寺)を修復したり、現在の東院・夢殿を建立したりしていますが、これは、聖徳太子一族を鎮魂するためだったと言われています(11月2日参照>>)

だいたい、桓武天皇の怨霊ビビリと、淳仁天皇の死が16年しか空いてないのですから、この時に怨霊の思想がなかったとは考えられません。

かと言って、こんな事に答えは出ませんが、考えられるとしたら・・・

  1. 相手が高僧の道鏡なので怨霊なんて怖くない
  2. 淳仁天皇が完璧なイイ人だった
  3. 淳仁天皇の死因が本当に病死

・・・てな、事になるんでしょうが、とにもかくにも、淳仁天皇が、後世に怨霊となって人々を恐怖におとしめる事がなかった事で、彼は、淡路廃帝のまま・・・ずっと、その汚名を背負っていく事になるのです。

そんな淳仁天皇の汚名を晴らしてくれるのは、その死から1102年後に即位いた天皇でした。

ご存知、第122代・明治天皇です。

即位してから3年後の明治三年(1870年)、明治天皇は、大炊王に淳仁天皇の追号を送り、第47代の天皇として、歴代天皇表に加えたのです。

ここで、やっと、天皇の一人として数えられる事になりました。

ちなみに、同時に天皇に加えられたのは、あの壬申の乱で敗れ去ったために、天皇の仲間に入れてもらえていなかった大友皇子(7月22日参照>>)・・・彼もまた、第39代・弘文天皇として数えられるようになります・・・よかったよかった。

*追記:明治天皇は、この14年後にもう一人にも天皇の追号を送っていますが、それこそ、長くなりそうですので、そのお話は、その方のご命日=7月6日のページへどうぞ>>
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2009年10月22日 (木)

西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣

 

永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁に攻められた有田城を救援すべく出陣した毛利元就が元繁を討ち、初陣を飾りました

・・・・・・・

この頃、中国地方では周防(すおう・山口県)大内氏と、出雲(島根県)尼子氏がしのぎを削っていて、毛利吉川小早川平賀などの小豪族は、その2大勢力の中間にあって身動きが取れない状態でした。

これまでも、それら小豪族の間で小規模な争いがくりかえされてはいましたが、大内氏の当主・大内義興(よしおき)足利義稙(よしたね)を奉じて上洛し、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での実権を握るのに反比例するかのように、留守となった西国では、その争いが徐々に激化してきます。

もともと、この安芸(あき・広島県)という場所は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていましたが、戦国の世となってそれらの小豪族が領地化して治めていたため、武田氏の旧領は、わずかしか残っておらず、武田元繁(もとしげ)は不満ムンムンで、何とか、以前の領地を回復する機会をうかがっておりました。

そんな時、安芸内部で小豪族争っている事態をおさめるべく、義興が幕府の命令として元繁に安芸内部の鎮静を命じたのです。

これ幸いと紛争を鎮静すべく行動を開始する元繁でしたが、それが、鎮静どころか、かえって紛争を大きくする結果になるのは目に見えています。

そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)24歳の若さで亡くなります。

家督を継いだ幸松丸(こうまつまる)が、まだ2歳という幼さだった事で、大チャンスと見た元繁は、有田城(広島県山県郡)を攻めにかかるのです。

この有田城は、その2年前に、興元が武田氏から奪い、吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)に守らせて、武田への備えの城と位置づけていたものですが、ここを奪われれば、当然、その次は、毛利への所領に乱入してくるのは明白です。

かくして永正十四年(1517年)10月22日、その有田城を救援すべく、亡き興元の弟・毛利元就が出陣します。

時に、元就21歳・・・「今まで何をしてたの?」と言いたいくらい遅い初陣でした。

・・・とは言え、大軍の武田に対して少人数しか集まらない状況に、側近たちからは、「少し様子を見るのが賢明・・・」と、出陣を反対されますが、すでに武田方による放火が始まったとの一報を聞いた元就は、取るものもとりあえず、戦場へと駆けつける・・・というなんともあわただしいものでした。

とは言え、この時から、興元を失った毛利氏の将来は、元就の腕にかかる事になります。

まず、元就が目指したのは、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っている武田配下の熊谷元直(くまがいもとなお)の陣・・・

つい先日、元就の吉川&小早川乗っ取り作戦のページ(9月27日参照>>)で、「元就の、戦場での武勇伝は、あまり聞かない」と書かせていただいたところですが、今回の初陣は、さすがに21歳の若さ・・・その話を撤回せねばならないほど、元就は先頭に立って、大いに腕を奮います。

途中からは、弟・元綱をはじめとする一門も駆けつけ、さらに吉川の援軍200も加わって、ついに元直を撃ち取って熊谷の陣を占領(2015年10月22日参照>>)・・・続いて元繁の本営に迫ります。

防衛線を破られた事を知った元繁は、引き続き有田城を攻めるとともに、残り、半分強の手勢を5手に分けて周辺に配置し、毛利の進撃に備えます・・・その数、総勢4000.

攻める毛利勢は、先の援軍を加えても1000程度・・・しかも、熊谷との一戦をすでにこなしていますから、かなり不利・・・

しかしながら、元就も、もはやこれが最初で最後の戦いか!と思われるくらいに力を込めて采配を奮い、何度も突入を繰り返す事、約2時間・・・

とは言え、やはり多勢に無勢はいかんともしがたく、敵には、次から次へと新手が現れ、毛利勢は、徐々に、後方の又打川(またうちがわ)へと後退していきます。

やがて、奮戦空しく、ついに退却となり、川を渡って敗走しはじめます。

ところが、ここで・・・
勢い余った元繁がついつい深追いし、自ら槍をかざしながら馬で川の中へと乗り入れた時・・・

最前線に飛び交う一本の矢に撃ちぬかれて、水中に転落してしまいます。

それは、元繁を狙った物ではなく、完全に偶然の出来事・・・

そこを、すかさず、元就配下の井上光久(みつひさ)が首を取り、刀の先に刺して、高く高く掲げて叫びます。
「大将・元繁~討ち取ったり~~~!」

当然、一瞬にして空気は変わります。

敗走中の毛利勢は逆襲に転じ、あるじを失った武田勢は総崩れとなるのです。

終ってみれば、元繁に殉死した者=300、敗走中に討たれた者=780・・・というのは、どこまで正確かはわかりませんが、結果的には、見事な初陣となりました。

さすがの、元就も、有田城を守るだけでオンノジ・・・まさか、守護ご本人まて討てるとは思っていなかったラッキー含め勝利ではありますが、名将というのは、時に、運まで味方にしてしまうのが、戦の常。

この有田城外の戦い(中井手の戦いとも)は、小人数で多勢を倒しただけでなく、この戦いによって「安芸に毛利元就あり」を知らしめた戦いという事で、西国の桶狭間とも呼ばれています。

ただ、21歳でこの初陣を飾った元就が、厳島の奇襲戦(10月1日参照>>)で、全国ネットに躍り出るのは59歳・・・信長とは違って、元就には、更なる時間が必要となります。

そして、もう一つ・・・
運まかせの勝利に思える今回の合戦ですが、『毛利元就卿伝』という文献によれば、この合戦の前に、元繁の重臣の何人かが、すでに、吉川&小早川に寝返っていた事が書かれていて、それには、元就配下の世鬼一族なる忍びが絡んでいるとの話もあり、この先の謀略・知略の片鱗を見せてくれているところが、なんともたのもしい限りです。

後に、家督を争って元就が殺害する事になる弟・元綱が、元気に加勢する姿に、少し胸を熱くしてしまいますねぇ~。
 

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2009年10月21日 (水)

花のお江戸の酒飲み大会~千住の酒合戦

 

文化十二年(1815年)10月21日、飛脚問屋・中屋六右衛門の還暦祝賀パ-ティで『千住の酒合戦』が行われました。

・・・・・・・・・

酒合戦・・・つまり、今もテレビのスペシャル番組などで行われる「大食い大会」のお酒バージョンです。

もちろん、酒豪同士が個人的に、「どっちが強い」的な感じで、酒飲みの勝負をするような事は、おそらく神代の昔からあったでしょう。

黒田家配下の勇将・母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)が、福島正則・主催の宴会で、大杯(おおさかずき)の酒を飲み干し、勝利の証として、正則の持っていた「日本号」と称する名槍を手に入れた話は、♪黒田節♪の歌詞として現在にも伝わります(6月6日参照>>)

ただ、参加者を広く募って、彼らが競う様子を一般聴衆に見せる・・・という、いわゆるイベントとして企画されたような事が行われるのは、やはり、徳川政権も安定し始めた3代将軍・徳川家光の頃から・・・

『水鳥記』という文献には、江戸・大塚の医者・地黄坊樽次(ぢおうぼうたるつぐ)なる人物と、大蛇丸底深(だいじゃまるそこぶか)なる農民が、酒勝負を行い、樽次が一斗五升を飲み、底深はそれ以上飲んだけれど、判定勝ちで樽次の勝利となった事が記録されているそうです。

判定て・・・( ̄○ ̄;)!
どうやら、飲む量だけじゃなく、その作法も採点の対象となったようです。

それにしても、名前が、
「地黄坊樽次」
VS
「大蛇丸底深」て・・・

もう、完全に、
「地上最強の胃袋=プリンス小林
VS
「大食い大魔神=ジャイアント白田の世界ですね。

・・・で、こんな感じで、江戸を通じて、度々開催された酒飲み大会ですが、その中で最も有名なのが、文化十二年(1815年)10月21日に開かれた「千住酒合戦」という大会・・・。

冒頭に書いたように、飛脚問屋・中屋六右衛門さんの還暦を祝うための酒宴だったようですが、この大会をプロデュースした人物が千住駅頌酒堂(酒屋かしら?)の通称・鯉隠居と呼ばれる人で、その隠居なる人が俳画などをたしなむ文化人だった事もあって、ゲストには、今、江戸で評判の一流の文化人や画家が招かれ、彼らが、ちびちびと酒を飲みながら審査をしたと言いますから、まさに、現在の正月番組的な一大イベントだったわけです。

・・・で、大会参加者は、まず、受付で申し込みをし、そこで、自分の酒量を事前に申告して整理券をもらって、待合室へ・・・

しばらくして、一斉に戦いの場となる大広間へ通されますが、戦いの場と観客席は、ちゃんと青竹で作った垣根で仕切られ、お客さんの席には、赤い毛氈(もうせん)が敷かれています。

中央には、6種類の盃が用意されていて、それぞれ盃に描かれた蒔絵によってイカス名前が付けられています。

  • 江の島盃=五合
  • 鎌倉盃=七合
  • 宮島盃=一升
  • 万寿無彊(まんじゅむきゅう)=一升五合
  • 緑毛亀(みのがめ)=二升五合
  • 丹頂鶴盃=三升

これを、小さい順に飲み干していきますが、もちろん、も用意されてます。

花塩・さゞれ梅・蟹・鶉(うずら)の焼き鳥・・・と、けっこう豪華!

しかも、浅草の芸者が三味線でナマBGMを奏で、太鼓持ちが「一気!一気!一気!」とはやし立てて、場を盛り上げてくれます。

もう、飲まずにはいられません!

・・・とは言え、さすがに「大会に参加しよう」と集まってくるような人は、はなから二升・三升当たり前ですから、「負けまい」とついつい、限界を超えてしまう人が続出して、芸者に絡むわ、そこらへんで粗相をしてしまうわで、あたりは修羅場と化してしまったのだとか・・・

さらには、酒・酢・醤油・水をそれぞれ一升ずつ飲んで「腹の中で三杯酢でぃ!」てな芸を見せる電撃ネットワーク的なワンクッションのお笑いもあり・・・まさにエンターテイメントショーです。

・・・と、こんな風に書くと、マッチョで豪快な男たちばかりが、汗だくで競い合ってる光景を思い浮かべてしまいますが、なんと、この大会には、あの大食い大会に花を添えるギャル曽根的に、幾人かの女性の参加者もいたのだとか・・・

菊屋のおすみという人は2.5升緑毛亀盃に挑み、酌取り女のおいく江の島鎌倉の二つの盃を手にチビリチビリ・・・天満屋五郎左衛門の妻・お美代という人は1.5升万寿無彊盃を飲み干してなお、まったく乱れなかったのだそうな。

トゥルトゥルトゥル・・・(←ドラムロール)
ジャ~ン!
結果発表~~!

最多記録としては7.5升を飲んだ男性がいましたが、優勝したのは、千住の宿場の泊り客で6.2升を飲み干した河田なんたらという人物でした。

彼は、江の島に始まり、鎌倉宮島万寿・・・と順調に飲み干し、最後に丹頂鶴盃をすすめられたところ・・・

「明日の朝、ゆっくりできるんなら、もう一杯戴くところなのですが、ちょっと用事があって、早立ちして故郷に向かいますので・・・」
と、丁寧に断り、一礼して会場を去ったのだとか・・・
*この頃って、確か七つ立ち(午前4時)が普通だったはず大江戸旅マニュアル参照>>)・・・早立ちって大丈夫かいな?この人・・・

やはり、量だけでなく、いくら飲んでも乱れず、礼を失わずのカッコイイ飲み方が評価されたようです。

ところで、文化十二年(1815年)と言えば、すでに、近海にロシアの船が何度か現れ、7年前の文化五年(1808年)にはフェートン号事件も起こり、そろそろ、幕末へのカウントダウンを刻み始めた頃でないかい?(黒船以前の外国船出没については2月3日参照>>

そんな時に、ノンキにもこんな事してていいのか!

・・・と、言いたいところですが、個人的には、こういうのもキライではありません。

人間、どんなに深刻な時でも、たまの笑いという物は必要です。

特に、何のヒネリもないバカバカしい笑いというのは、脳をリラックスさせるためには、とても良いのだそうです。

江戸であろうが平成であろうが、緊張・緊張の連続でストレスがたまった場合は、な~にも考えずに笑える、緩和の時も、たまにはアリという事で、広い目で見てさしあげましょう。
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2009年10月20日 (火)

幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取

 

慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、品川沖を脱出し、北へ向かっていた旧幕府軍の榎本艦隊が、蝦夷地への上陸を開始しました。

・・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)4月11日の江戸城無血開城・・・東征大総督府・参謀の西郷隆盛と幕府陸軍・総裁の勝海舟の尽力(3月14日参照>>)によって、新政府軍と幕府軍の正面衝突は避けられ、江戸の町が火の海と化する事はありませんでした。

あとは、今後の徳川家の処遇と海軍の引渡し・・・しかし、このまま幕府が終わる事に納得がいかない幕府海軍・副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、徳川家の駿河(静岡県)70万石への転封が決まった5月24日頃から、密かに脱出の準備をはじめます。

未だ、新政府に屈しない姿勢をとっていた東北の諸藩(4月25日参照>>)とも連絡を取りながら、フランス士官のプリュネを取り込みつつ・・・やがて、榎本が最新鋭の開陽丸以下8隻の軍艦とともに品川沖を脱出したのは8月19日の朝の事でした。

途中、おりからの台風シーズンでいくつかの船を失いながらも9月3日に仙台に到着・・・仙台藩主・伊達慶邦(たでよしくに)と会見して、新政府軍を迎撃する作戦を練りますが、もはや、会津若松城が風前の灯火の状況(8月23日参照>>)ではいかんともしがたく、東北での抗戦はあきらめて、再び北へ向かう事にします。

・・・とは言え、ここで新たな船と新たな同志を得ます。

大鳥圭介、新撰組の土方歳三箱根戦争(5月27日参照>>)で奮戦した遊撃隊人見勝太郎・・・もちろん、彼らの部下や、さらに仙台や東北の緒戦で生き残ったの精鋭たちを乗せて、榎本らは、蝦夷(えぞ・北海道)を目指したのでした。

かくして慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、警備の厳しい函館湾を避け、噴火湾に面した鷲ノ木から上陸を開始する榎本軍・・・

Hakodatebakufurootcc_2 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まず、最初に進軍したのは、人見率いる先発隊・・・続いて、大鳥率いる本隊がそのまま南下して函館を目指し、土方率いる別働隊は大きく迂回して函館へと向かいます。

この時の函館は、先の江戸城無血開城を終えた幕府の指示により、すでに、函館奉行の杉浦誠が新政府・知事の清水谷公考(しみずだにきんなる)平和裏に明け渡したあとで、五稜郭は新政府の物となっていました。

ただ、その明け渡し当時に、五稜郭の警護に当たっていた東北諸藩の兵士たちは、かの戊辰戦争の舞台が北へと進むにつれ、すでに帰国していて、ここにはいませんでした。

新政府はあわてて諸藩に新たな出兵を要請し、即座に兵を投入しますが、その兵士たちが函館に到着したのは、奇しくも、榎本軍が上陸したと同じ本日・・・10月20日でした。

ギリギリセーフで間に合った新政府軍が、峠下(とうげした)まで進軍してきていた人見隊に夜襲をかけたのは10月23日・・・しかし、逆に、近くにいた大鳥本隊に反撃され、この日は、あえなく撤退しました。

翌・24日に、大鳥隊は、隊を二つに分けて進軍・・・大野村に進軍した大鳥隊は大勝利を収めるも、七飯(ななえ・七重)に進軍した人見隊はやや苦戦となります。

しかし、まもなく、ここに、旧彰義隊を中心とする援軍が到着し、なんとか勝利を収めます。

大鳥・人見の両隊が、函館の目の前までやって来た事を知った清水谷は、青森への撤退を決意し、新政府軍は次々と函館港から脱出・・・もぬけの殻となった五稜郭を榎本軍が占領したのは10月26日の事でした。

こうして勝ち取った蝦夷地に、榎本が蝦夷共和国を誕生させるのは約1ヶ月半後(12月15日参照>>)の事ですが、その前に、別働隊の土方は・・・と、行きたいですが、長くなりそうなので、それはまた、「その日」に書かせていただきたいと思います。

本日はここまでという事で・・・m(_ _)m
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2009年10月19日 (月)

その後の武田の運命も変えた武田義信の自刃

 

永禄十年(1567)10月19日、父・武田信玄によって幽閉されていた嫡男・義信が自刃しました。

・・・・・・・・・・・

天文七年(1538年)に、甲斐(山梨県)武田信玄の嫡男として、正室・三条の方との間に生まれた武田義信(よしのぶ)・・・ご存知のように、信玄は父・信虎から、あまり可愛いがられた経験がなく、ついには父を追放して家督を継いだ過去があり(6月14日参照>>)、自身の息子に対しては、ことのほか愛情を注いだようです。

いや、ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・

天文二十一年(1552年)、義信が15歳の時に、駿河(静岡県東部)今川義元の娘と結婚した時には、「領国喜大慶は後代にあるまじく」国を挙げての祝賀を催し、翌年に、時の将軍・足利義輝の一字を賜って義信と名乗った時には、「我より太郎(義信の事)は果報も何も上なり」大喜びで、家まで新築しちゃいます。

さらに、その翌年には、先の今川に、相模(神奈川県)北条氏を加えた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ、信玄は、気になってた信濃(長野県)の攻略に思う存分集中する事ができるようになります。

同じ年には義信も初陣を飾り、この頃からは、様々な書類も父子連名で記され、父も子も、そして周囲も、義信を信玄の後継者として疑わなかった事でしょう。

しかし、永禄三年(1560年)・・・義信の運命を変える大きな出来事が起こります。

海道一の弓取りと言われたあの今川義元が、尾張(愛知県西部)のちょっとした新興勢力に過ぎなかった織田信長桶狭間(おけはざま)で討たれたのです(5月19日参照>>)

さらに、その翌年の永禄四年(1561年)、あの宿命のライバル・越後(新潟県)上杉謙信との川中島の合戦です。

これまでも何度か書かせていただいているように、川中島の合戦は計・5回あり、最初の衝突は、すでに天文二十二年(1553年)に勃発していますが(4月22日参照>>)、5回の中で最も激戦だったとされる第四次の戦いが、この永禄四年の戦いで、一般的に「川中島の合戦」とだけ言う場合は、この第四次を指します(9月10日参照>>)

この時、前夜の闇にまぎれて軍を移動させた謙信が、夜明けとともに、そうとは知らない武田勢の目の前に現れ、前半は上杉有利に展開しますが、別働隊が到着してからは、数に勝る武田勢の優勢となり、結局、謙信のほうから兵を退いて終了となりました。

その第四次の川中島で、最初の父子の亀裂が生じたとされています。

戦いの最中は手傷を負いながらも奮戦し、武功を挙げた義信でしたが、戦いの後、「この優勢のまま終ろう」とする信玄と、「撤退する上杉勢を追撃すべき」と主張する義信との間で口論となったのです。

ご存知のように、この第四次の合戦で、信玄はその右腕とも言うべき弟・信繁(2008年9月10日参照>>)と、あの山本勘助を・・・もちろん、彼ら以外にも大勢の家臣を失いました。

まずは、これだけ多くの犠牲者を出した自軍を立て直す事が先決・・・更なる犠牲者を出すかも知れない深追いはやめようとする信玄と、若さゆえ血気にはやる義信・・・。

「状況に応じて、冷静で適切な判断を取るべき」と、大将としての心得を切々と説く信玄に対して、義信は一歩も退かず・・・いや、むしろ、義信のほうが、信玄を激しく非難したのだとか・・・

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、義信という人は「利根(りこん)すぎる」として、あまり良くないように書かれています。

「利根」って何?・・・と思って調べてみたら、ちょっと古い言い回しのようで、狂言や浄瑠璃での使用例が出てましたが、意味としては、「賢い事」とか「利発な事」とあって、要するに頭が良いわけですが、第2の意味として「口賢い」とありました。

つまり、「頭が良いために理屈をこねる」ってヤツ・・・それが、「過ぎる」のですから、かなりのものだったと想像します。

冒頭に「ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・」って書いたのは、ココです。

確かに、人間、生まれ持った性格というのもありますが、育った環境というのもあります。

自分の意見を持つという事は大事な事ですが、今回の場合、相手は父親で、しかも戦場では主君です。

その相手に対して、公衆の面前での激しい非難というのは、どうなんでしょう?

ここに、これまで大きな失敗をせずに、何事も優遇され続けて育ってきた坊ちゃんの影が見え隠れするのです。

さらに、その翌年、信玄は、四男の勝頼に家臣団をつけ信州高遠城主としますが、義信は、これも気に入らない・・・

ご存知のように勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)(6月24日参照>>)の娘で、勝頼は、その諏訪氏の旧領を継ぐべく諏訪四郎と名乗ってたくらいなんですから、本来、高遠城主になったって何の問題もなく、武田を継ぐはずの嫡子たる義信が気にするべき事ではないのですが、一旦入った亀裂は、こんなところにも影響するわけです。

「自分が戦って取った場所を、まだ、武功もない側室の子に・・・」てな感じでしょうか。

そして、ここに来て徹底的となるのは、義元亡きあとの今川への侵攻・・・そうです。

義信の奥さんは、今川の人ですから、何がなんでも反対しなければ・・・

ついに永禄七年(1564年)、義信は、傳役(もりやく)飯富虎昌(おぶとらまさ)らと、父・信玄を討つ相談をするのです。

しかし、事は事前に発覚・・・信玄は、虎昌、そして義信の側近だった長坂源五郎曽根周防(そねすおう)首謀者を処刑し、家臣団は追放・・・義信を甲府の東光寺へ幽閉したのです。

さらに、今川氏の姫は離縁させて駿河へ返し、今川と決別・・・一方で、勝頼に信長の養女との縁組を成立させ、織田との友好関係を築き、着々と駿河攻めの準備に・・・。

後継者の道を絶たれ、東海一の美人と言われたラブラブな奥さんとも離れ、失意の義信は、永禄十年(1567)10月19日・・・自らの人生に終止符を打つのです。

信玄が駿河に侵攻したのは、それから1年と2ヶ月後の事でした薩埵峠の戦い・12月12日参照>>)

・‥…━━━☆

・・・と、信玄VS義信の確執を書かせていただきましたが、これは、「信玄LOVE」『甲陽軍鑑』の言い分・・・ご存知のように、『甲陽軍鑑』にしか登場しない山本勘助は、ひょっとしたら架空の人物かも知れないと噂されるくらい、すべてが真実とは言い難い記述もあり、何かと信玄を良いように書いている可能性大です。

ただ、義信が幽閉されたのも、側近や家臣団を潰されたのも事実ですから、義信の性格がどうとか、父子の対立がどうというのが創作だとしても、家臣団の中に不満分子がいて、彼らが、信玄が信虎を追放したように、義信を担いで何か事を起こそうとしたのは確かなようです。

それに、義信が幽閉された一方で勝頼が織田との架け橋になったとしても、未だ後継者の道が絶たれたわけではなかったかも知れません。

信玄としては、単に、不満分子の家臣と義信を引き離すための幽閉だった可能性も考えられます。

・・・というのは、山梨県笛吹市にある武田氏と縁の深い美和神社に、義信が亡くなる一年前に、三条の方が鎧を奉納しているのですが、これまで、神社の記録では、それは「信玄の鎧」となっていて、ずっと信玄の物と思われていたのです。

しかし、最近の研究で、その形や時期からみて、「どうやら、義信が元服の時に使用した鎧である」との見解が出されたのです。

死の一年前という事は、すでに義信が幽閉状態にあった頃・・・三条の方は、きっと、息子の将来を思い、夫との絆を思い、母として、一心に祈ったに違いありません。

希望的憶測ですが、ひょっとしたら、父と子との間を修復できる可能性があったとも受けとれます。

しかし、そんな三条の方の願いも空しく、義信は、自ら命を絶ちました。

享年30歳・・・今川の滅亡で運命が変わったこの利発な後継者の死が、やがては、勝頼の運命を変え、武田の運命をも変えてしまう事は、皆さんご承知の通りです。

【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】参照>>)
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2009年10月18日 (日)

関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩

 

慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

通説では、この小早川秀秋の寝返りによって戦況が変わったとされる、あの関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)から、わずか2年後・・・わずか21歳

それも一説には、勝敗を左右する重要な場面での裏切り行為で良心の呵責に耐えかねての狂死だという・・・

前途ある若者が・・・胸が痛みます。

そんな秀秋は、豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれます。

3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、朝鮮出兵の陣中で病死した豊臣秀勝(秀吉の姉・ともの次男)の領地・丹波亀山10万石を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていました。

しかし、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿秀頼を生み、その翌年、秀吉の命により、小早川隆景養子となって小早川家に入ります。

隆景亡き後は、その領地であった筑後・筑前(福岡県)など30万7000石を引き継ぎましたが、慶長の役(11月20日参照>>)で秀吉の怒りをかい、越前(福井県)北ノ庄15万石に転封されてしまいます。

秀吉の死後には、徳川家康のとりなしで旧領にに復帰したと言われますが、まもなく、勃発したのが、かの関ヶ原の合戦・・・

その時の秀秋の行動は、以前、関ヶ原の前夜のお話として書かせていただいたように(2007年9月14日参照>>)、最初の伏見城への攻撃に参加したものの、それ以降は病気と称して参戦せず、一説には、この間に家康のワビを入れたという話もありつつも、一応、西軍として関ヶ原に向かいますが、合戦前夜に行われた大垣城での西軍の軍儀には参加せす、その夜の直接、関ヶ原の松尾山に陣取ります。

そして、秀秋のところには、東軍・西軍の両方から多大な恩賞と引き換えに味方につくようとのお誘いの誓紙を受け取り、両方に「味方になって参戦します!」の返事を送ります。

・・・で、ご存知のように、結果的には、翌日のお昼頃に東軍として参戦した事により、関ヶ原の戦況が一転し、西軍の敗北へとつながったとされています。

この時の揺れ動く態度から、ドラマや小説などでは、優柔不断な愚将として描かれる事が多く、先日の大河ドラマ「天地人」でも、上地くん演じる秀秋は、終始悩み続け、なにやら、ずっとアタフタしてた感があります。

今回の「天地人」では、合戦後も悩み続け、言われているような「狂死」という最期につながるような描き方でした。

ただ、私の印象は、少し違います。

確かに、関ヶ原に関しては、優柔不断だったかも知れませんが、世間で言われるほど愚将ではなかったと思っています。

その根拠の一番は、家定の息子の中で、彼だけが養子になっている所・・・あとは、皆、秀吉自身に血縁関係のある甥っ子ですので、秀秋の場合は、やはり、優秀な人材だと思ったのではないかと・・・。

ただ、当時の戦国武将としては、少し異質な感じのする人です。

その象徴となるのが、家康との接触・・・

家康は、さすがに最後に天下を取っただけあって、その知略・戦略・計画性などが、他の武将を圧倒する所がありますが、秀秋は、そんな戦国武将とはまったく違う、価値観、考え方を持った人だったような気がします。

なので、家康と深く関わるようになった慶長の役のあとくらいから、彼の人生の歯車が狂ってしまったのではないでしょうか。

もちろん、だからと言って、「家康が悪い」という意味ではなく、家康は、「当時の戦国武将なら、当然、こう考えるだろう」という意識で、秀秋に接触したわけで、秀秋自身が、そうではなかったために歯車がかみ合わなかったという意味です。

たとえば、今回の「天地人」でも、養子となって秀吉の後継者と目されていた秀秋が、秀頼が生まれた事で小早川に出され、落胆しているような描写がありました。

誰でもそう思います。

戦国武将となった以上、誰もが天下を夢見るだろうし、天下人の後継者となって、前途洋洋の未来が約束されていたのに、突然、そのレールから外されたら、誰だって、その事を怨みに思い、「豊臣なんてクソ喰らえ!」と思ってるだろうと・・・

人によっては、この秀吉の後継者から脱落したところで、秀秋の人生の歯車が狂ったと考える方もいらっしゃるようで、だからこそ、家康も、北ノ庄へ追いやられた秀秋を、旧領へと戻して恩を売り、「さぁ、不満ムンムンの豊臣を捨て、東軍へ来いよ!」と誘うわけです。

ただ、個人的には、当の秀秋は、それほどショックではなかったのではないか?と思います。

それは、秀秋は、今、頑張れる事をがんばる人であったように推測するからです。

先の先を見据えるばかりでなく、今現在、目の前にある出来事に一所懸命ぶつかる・・・戦国武将として、2手も3手も先を読む事が名将であるのなら、そう言った意味では、秀秋は愚将だったかも知れませんが、人としては、なかなかの頑張り屋さんとも受け取れます。

さして欲しくも無い天下のイスとはサヨナラして、新天地で心機一転・・・しかも、養子に行った先は、名将・小早川隆景です。

隆景に鍛えられた秀秋は、なかなかの武将に成長したに違いありません。

それが、あの慶長の役の出来事です。

結局、秀吉の怒りをかう事になるのは、この時の作戦での意見の食い違いにあったもので、立てられた作戦に従わず、彼は自ら先頭に立って戦った事が、逆鱗に触れたと言われています。

しかし、一方では蔚山(ウルサン)を包囲されて、風前の灯火だった加藤清正を救うという大きな成果をあげた事も記録されています。

少なくとも、この時点では、歯車が狂っているような印象は受けないのですが・・・。

やはり、この後の家康との急接近で、自分とは価値観の違う周囲の状況に、若き秀秋は悩み始めたのではないでしょうか?

目の前にある国政を精一杯がんばりたいのに、いつまでも、後継者から転落した事をとやかく言われ、関ヶ原で東軍に寝返った事に陰口を叩く・・・そのような周囲との差に、悩み続けたようにも思います。

・・・とは言え、実際のところ、その関ヶ原での寝返りに関しても、最初から東軍として参戦していたという人もいれば、最後の最後まで悩んでいたという人もいるのが現状で、その中の秀秋の心の内に至っては、もはや想像の域を出ないものではあります。

私自身、一貫性がないのが露見するようでお恥ずかしいですが、秀秋さんの印象は、ドラマを見るたび、本を読むたびに変わります。

今日のこのブログの内容も、次に秀秋さんの事を書くときは、まったく違った物になってる可能性も、なきにしもあらずですが、とりあえず、現時点で思うところを書かせていただきました。
 .

*秀秋にまつわる恐怖のウワサ・・・岡山城・開かずの間については2011年の10月18日のページでどうぞ>>
 

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2009年10月16日 (金)

有岡城・落城~黒田官兵衛と竹中半兵衛とその息子たち・・・

天正七年(1579年)10月16日、前年に主君の織田信長に叛旗をひるがえした荒木村重の居城・摂津有岡城が開城されました。

・・・・・・・・・・・・

・・・とは言え、城主の荒木村重は、すでに1ヶ月前に、数名の従者を連れて有岡城を脱出して、城に残っていたのは、妻子と家臣だけ・・・

しかも、その妻子や家臣たちは、この後、村重が逃げ回ったために、その犠牲となって命を落す事になりますが、その一連の経緯については、12月16日【荒木村重・妻子の処刑】>>3月2日【花隈城の戦い】>>でご覧いただくとして・・・

それにしても、
主君・織田信長から、何かと優遇されていた感のある村重がなぜ謀反に走ったのか?
また、妻子を見捨ててまで守ろうとした物は、何だったのか?

・・・と、まだまだ、謎は尽きないわけで、その真意については、まだ書きたい事もあるのですが、とりあえず、本日は、この村重の謀反&有岡城の落城が、その人生の転換期となった人物のお話をさせていただきます。

それは、ご存知、黒田如水です。

この時、彼はまだ小寺官兵衛孝高(こでらかんべえよしたか)と名乗っていた頃・・・(今日はややこしいので、呼び方は如水で通します)

つまり、播磨(はりま・兵庫県)の小大名だった小寺政職(まさもと)家老だった如水の父・職高(もとたか)が、主君の信頼を得て名乗った小寺の姓を、未だ使用していた頃で、何かと安芸(あき・広島県)毛利氏寄りだった主君・政職を説得して、中国地方へと手を伸ばし始めた信長の傘下に入ったばかりでした(11月29日参照>>)

・・・て事で、この頃の如水は、まだまだ、「その地方では、ちったぁ名の知れた」程度の存在でしかなかったのです。

そんな彼に、大役が舞い込んできます。

それが、今回、叛旗をひるがえした村重の説得・・・

そのご命日のページでも書かせていただいたように、この時「村重に謀反のきざしがある」という情報を得た信長は、普段、私たちが抱く信長さんのイメージとはうらはらに、すぐに攻撃して抹殺・・・ってな事はいっさいせず、「なんで、謀反なんか起すのん?」「なぁ、戻っておいでぇや」と、何度も真意を尋ねたり、説得をしたりを繰り返しています。

まずは、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、信長が愛してやまない小姓の万見重元(まんみしげもと(12月8日参照>>)の3人を派遣して、母親を人質に出して、安土に弁明に来てくれたら許しちゃう!」と説得してみますが、村重の答えはNO!

それでも、まだ、信長は事を構えず、再び光秀を使者に立てて説得・・・さらに、羽柴(豊臣)秀吉を派遣しますが、やっぱりダメ・・・

それどころか、村重は、光秀の娘を息子と離縁させて、坂本城へ送り返したりなんかして、意地でも戻らない雰囲気・・・。

それで、今度は、その秀吉の命で、彼と親しかった如水が、村重を説得するために有岡城へと派遣されたのです。

ところが・・・です。

実は、如水の主君=政職が、すでに毛利に寝返っていたのです。

以前、如水の説得に応じて、小寺一門が信長の傘下となったものの、それでも主君の政職自身は、「毛利のほうが良い」と思っていたうえに、ここに来て村重が毛利に降った事により、小寺の領地は、西の毛利と東の村重に挟まれる形となってわけで・・・

まぁ、そもそも、信長の傘下に入る事を推し通した如水の存在も、内心ではうっとうしかったも知れませんし・・・

・・・で、政職は、密かに手を回し、有岡城へ説得に向かった如水を捕らえて、抹殺するように村重に依頼したのです。

しかし、村重は、如水を捕まえはしましたが殺しはせず、土牢に閉じ込めて幽閉したのです。

そうとは知らない信長サイド・・・これまで、何人もの人間が有岡城へと行き説得したにも関わらず、村重は、いっこう聞き入れないどころか、「今度は、使者を寝返らせやがった」となったのです。

そうです・・・これまで、光秀やら秀吉やらも、無事帰って来ていますが、如水だけがいっこうに帰って来ない状況に、「如水は、村重に同調して、寝返った!」と、思ったのです。

さすがに、ここらあたりで、ブチ切れはじめた信長さん・・・交戦中の石山本願寺に和睦を申し込んで時間稼ぎをしながら、村重に同調している茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近を味方につけ、目標を有岡城一本に絞り始めます。

そして、自らのブチ切れを、寝返ったと見られる如水と村重に見せつけるかのように、人質として預かっていた如水の長男・松寿丸を殺害するように、秀吉に命じるのです。

しかし、ここで登場したのが、秀吉の軍師として知られるあの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)でした。

この時、半兵衛は「官兵衛には、絶対に二心はない!」と信じ、表向きには殺した事にして、密かに松寿丸をかくまったのです。

かくして、村重が叛旗をひるがえしてから約1年後の天正七年(1579年)10月16日、すでに、主のいなくなった有岡城は、家臣たちによって開城となるのです。

ここで、如水は、奇跡的に救出されます。

ただ、長期に渡り、劣悪な環境で閉じ込められていたため、足腰を痛め、その曲がった足は、その後も一生治る事なく、以後、彼は歩行が困難な状態となってしまいましたが・・・

しかし、如水は、その過酷な現状と引き換えに、信長から形無き褒美をもらう事になります。

それは、信長からの篤い信頼・・・このような状況になっても、村重に同調しなかったという事実は、何よりも信長の心をつかみます。

翌・天正八年(1580年)には、この一件の発覚で毛利の領地へと逃亡してしまった主君=政職の旧領と播磨の一郡・1万石を加えた計・3万石を与えられ、大名としての第一歩を踏み出す事になります。

また、半兵衛の機転で、松寿丸が生きている事を知った信長は、「おかげで間違いを起さずにすんだ」と大いに喜んだと言います。

ただ、その半兵衛は、如水が救出される半年前に、秀吉による播磨・三木城包囲(3月29日参照>>)の陣中にて、36歳の若さで亡くなってしまっていました。(6月13日参照>>)

如水は、半兵衛に感謝するとともに、その死を大いに悼んだという事です。

この時、半兵衛が残した息子・重門(しげかど)は、わずか7歳でした。

重門は、その後、父の後を継いで秀吉に仕え、元服後は、河内(大阪府)国・安宿(あすか)郡など6000石を与えられたものの、朝鮮出兵の時でさえ、「まだ幼い」と参加が許されなかったのだとか・・・。

やがて訪れた関ヶ原の合戦・・・この時、西軍として参戦した重門・・・

しかし、重門は、あの岐阜城・落城(8月22日参照>>)直後に、東軍へと寝返り、さらに、本チャンの合戦後には、あの小西行長重門のところに自首してくれた(9月19日参照>>)事で、竹中家はお咎めなしとなり、所領も安堵・・・以後、徳川の傘下で明治維新まで存続する事となります。

結果的に、竹中家が存続する事となった、この関ヶ原直前のタイミングでの寝返り・・・この時、重門を説得したのは、誰あろう、亡き半兵衛に命を救われた松寿丸=黒田長政でした

関ヶ原当時、多くの大名を、西軍から東軍に寝返らせた長政ではありますが、おそらく、重門に対しては、ただの戦略ではない、何か特別な思いが存在した・・・

そう、信じたいですね・・・o(*^▽^*)o

追記:感動秘話の最後に何ですが…後藤又兵衛が黒田如水の息子だったかも知れない話は2014年4月10日のページでどうぞ>>
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2009年10月15日 (木)

後継者へのパフォーマンス~秀吉演出の信長の葬儀

 

天正十年(1582年)10月15日、羽柴秀吉が、去る6月2日に亡くなった織田信長の葬儀を、京都・大徳寺にて盛大に行いました。

・・・・・・・・・・

戦国最大のミステリーと言われる、ご存知、本能寺の変・・・これまで、このブログでも、何度となく書かせていただきました。

良い機会なので、ここで、本能寺関係の記事へのリンクをまとめさせていただいときます・・・気になるのがあったら読んでみてくださいな。

世の中には、まだまだ・・・
「イエズス会・黒幕説「朝廷・黒幕説」「光秀・うつ病説」・・・などなど、多くの仮説があり、今後も、おりにふれて、このブログでご紹介していきたいと思いますが・・・

私の個人的見解としましては、愛宕山の連歌会やタイムラグのところで書かせていただいたように、光秀のこの謀反に計画性はなく、あくまで突発的であり、かつ、天下を取る目的ではなかったと判断しております。

・・・と、その部分は、今のところ揺るぎないのですが、こと動機となると、これが、まったくわからない・・・もちろん、わからないからミステリーなんですが・・・

信長の光秀に対する仕打ち的なものは、ほとんど後世の創作だと思っていますし、むしろ、光秀は、中途採用のわりには、一番優遇されていました。

信長の行動に、さしたる原因がないとすれば・・・何となく、鬱の傾向があり、更年期障害も相まって、その時の光秀は、被害妄想的な心境におちいっていたのではないか?と思いますが、それこそ、そのような病気は、ご本人すら気づいていない可能性もあり、そうなると、もはや想像するしかないわけですが・・・

とにもかくにも、この明智光秀という人のおかげで、天下に一番近い位置にある座席が、空席となってしまったわけで、信長の息子たちと家臣たちによるイス取りゲームが勃発する事となります。

・・・で、この時、京都の一番近くにいて、一番先に信長の死を知った徳川家康決死の伊賀越えを試み(6月4日参照>>)、その次にニュースを聞いた豊臣(羽柴)秀吉中国大返しをおっぱじめ(6月6日参照>>)、北陸の柴田勝家魚津城を落とした翌日に、主君の死を知る(6月3日参照>>)・・・。

滝川一益北条に足止めされ(6月18日参照>>)森長可(ながよし)武田の残党をなぎ倒し(4月9日参照>>)、四国征伐の準備中で堺にいた信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)丹羽長秀(にわながひで)野田城(大阪市福島区)津田信澄を襲撃する(4月16日参照>>)・・・。

そして、ご存知のように、この中で、誰に邪魔される事もなく、中国から舞い戻った秀吉が、信孝を大将に据え、あの山崎の合戦で光秀を倒した(6月13日参照>>)事で、織田家内での、秀吉の名声が高まった事は間違いありませんが・・・とは言え、そう簡単に家中の序列が変わるものでもありません。

以前、小牧長久手の戦後交渉で、見事に家康の上をいった秀吉を「人たらし」の天才であると書かせていただきました(10月17日参照>>)が、この「人たらし」というのは、いわゆる「人を騙す」というよりは、「いつの間にか、何となく、知らないうちに、そっちの方へ持ってってしまう」という感じでしょうか・・・。

その最たるものが、この信長亡き後の後継者争いでの、清洲会議と、検地の開始と、そして、本日の信長の葬儀だと思います。

もちろん、世は戦国ですので、のちのち賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)信孝の自刃(5月2日参照>>)といった血なまぐさい出来事も起こりますが、その最終段階の前に、極力、自分の有利な方向へともって行く「人たらし」のテクニックは、他に類を見ない見事なものだと思います。

まずは、信長の死から半月後に行われた清洲会議で、信孝と彼を推す勝家に対して、信長とともに死んだ長男・信忠の遺児・三法師を推して信孝が後見人となる事を提案し、会議の前の根回しを怠らず、見事、後継者を三法師に決定させます(6月27日参照>>)

この時、三法師は、わずか3歳ですから、当然、周囲の思うがまま・・・また、そのすぐ後に行われた領地配分では、弔い合戦の功績からか、秀吉自らが采配をふるっています。

そのすぐ後の7月8日は、近江(滋賀県)にて初の検地を行い、自らが号令する立場にある事をアピール(7月8日参照>>)

Dscf0071a800 総見院の鐘楼と土塀

かくして天正十年(1582年)10月15日、京都・大徳寺にて行われた信長の葬儀・・・という事になるのですが、この法要自体は、10月11日から17日まで、7日間に渡って行われ、その中の15日に葬儀という事です。

軒や欄干に金や銀を散りばめた豪華な葬儀殿に、金紗金襴で包まれた、これまた豪華な棺・・・。

その後ろに、秀吉自らが信長の太刀を持ってうやうやしく従い、さらに後ろには3000名に及ぶ烏帽子や藤衣(ふじごろも)の装束に身を包んだ出席者・・・。

そして、火葬場への道筋には、弓・槍・鉄砲をたずさえた3万の警護の侍が配置され、その見物人の数は、ハンパじゃなかったと言います。

この秀吉ならではのド派手な演出は、織田家内にも、そして、世間の一般民衆にも、信長の後継者が誰であるのかを知らしめるパフォーマンス=人たらしのための演出だったわけです。

ちなみに、ご存知のように、信長の遺体は見つかっていませんから、この葬儀の時の棺の中には、信長をモデルに造らせた木像が入っていたと言われています。

そして、もう一つ、この大々的な葬儀に、信孝&勝家はもちろん、次男の織田信雄(4月30日参照>>)も招待されていません。

確かに、信長の四男を喪主としていますが、その四男=秀勝は、秀吉の養子となった、もはや、その名分を利用される羽柴家の人・・・この先を予感させる、秀吉のパフォーマンスでしたね。

追記:秀吉が信長の葬儀を行った大徳寺総見院(そうけんいん)史跡めぐり=特別公開日記2011年3月7日のページでどうぞ>>
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2009年10月14日 (水)

いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略

 

元亀三年(1572年)10月14日、遠江に侵攻した武田信玄の別働隊が、徳川家康方の二俣城を包囲しました。

・・・・・・・・・・

昨日の今日で何ですが・・・
昨日のページをまだ読んでいただいていない方は、先にソチラを>>

・・・で、昨日、一言坂の戦いを繰り広げた武田信玄の本隊と、犬居城(いぬいじょう・浜松市)で分かれた別働隊が、浜松城の北東20kmに位置する二俣城を包囲したのは、翌日の元亀三年(1572年)10月14日の事でした。

城を守るのは、徳川家康配下の中根正照(まさてる)・・・そして彼をサポートする青木貞治(さだはる)松平康安(やすやす)といった面々・・・。

攻めるは、信玄の息子・武田勝頼(かつより)を主力とした部隊・・・

しかし、コチラは城攻め・・・1日や2日でカタがつくものではありません。

まして二俣城は、天竜川二俣川に囲まれた台地の上に築かれた天然の要害で、攻め難さにかけてはトップクラスの堅固な城です。

もちろん、さすがの信玄ですから、その事は充分承知の上・・・城を囲む勝頼たちだけではなく、あの手この手の作戦を、すでに展開しておりました。

まずは馬場信房(のぶふさ・信春)に、北条からの援軍を加えて、浜松城から東・・・天竜川を越えた神増(かんそ・静岡県磐田市)に布陣させ、その地を押さえます。

さらに天竜川東岸の匂坂(さぎさか)穴山信君(のぶきみ)を配置・・・なんせ、浜松の東側・遠江(とおとうみ・静岡県西部)東部には、徳川方の石川家成掛川城、同じく徳川配下の小笠原氏助(うじすけ)が守る高天神城など、まだまだ重要拠点が無傷で残っていますから(昨日の進路図を参照>>別窓で開きます)、これら、東部の城と、浜松城&二俣城の連絡を経ってしまわないといけません

そこに、グッドタイミングで、最初の段階から別働隊として奥三河(愛知県)に展開中の山県昌景(まさかげ)が、東三河各地を制圧し(10月22日参照>>)二俣城への連絡を断ち切る事に成功します。

そんなこんなで完全に孤立した二俣城・・・おそらく、10月下旬頃には、総攻撃が開始されたものと思われます。

しかし、これだけ、周到な攻めをくりかえしても、堅固な城はいっこうに落ちる事なく、やがて、11月・・・12月・・・総攻撃開始から、はや1ヶ月ちょっと・・・

Mizunoteyaguracc この二俣城では、天竜川に面した岩壁に(水の手櫓・井楼=せいろう)を組み、そこから縄を下ろして水を汲み上げていたのですが、勝頼は、最後の手段として、この水補給ルートを断つ作戦に出ます。

12月19日・・・勝頼は、天竜川の上流から大量の(いかだ)を流して、かの櫓に激突させ、見事、櫓を崩壊させます。

これによって、水を補給する事が不可能となった二俣城・・・正照らは、この先の長期の籠城が叶わなくなった以上、更なる籠城は、ただ時間を費やすのみと判断し、速やかに武田方に人質を差し出し、二俣城を明け渡したのでした。

二俣城の陥落で、周囲から完全に孤立した家康の本拠地・浜松城・・・迎える家康はいかに・・・

本日の勝頼さん・・・
生まれ年からいけば、この時25~6歳・・・
昨日の忠勝に引き続き、今度は勝頼に、
「ちょっと、惚れてまうやろ~c(>ω<)ゞ」
あぁ・・・忙しいsweat01

この後、二俣城に入った信玄本隊が城の修復を終え、出陣するのは、12月22日・・・ご存知、三方ヶ原の戦いですが、そのお話は2006年12月22日のページで>>

上記の三方ヶ原のページは3年も前に書いたものなので、今回、その日に関して、更にくわしく、新たな逸話などをご紹介するかどうかは、現在思案中・・・少々お待ちを・・・
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2009年10月13日 (火)

家康に過ぎたるもの~本多忠勝・一言坂の戦い

 

元亀三年(1572年)10月13日、遠江に進出してきた武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康との戦い・・・三方ヶ原戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし、群雄割拠する中、一歩進み出た感の織田信長・・・。

やがて、自らが天下に号令する勢いを見せる信長に(1月23日参照>>)、将軍のプライドもズタズタの義昭が、全国の大名たちに呼びかけ、それに応じて、信長包囲網とも言うべき連隊関係が敷かれます。

越前(福井)朝倉北近江(滋賀県)浅井(あざい)阿波(徳島県)三好・・・さらに、大坂石山本願寺と、それを支援する西国の毛利・・・。

そんな中、義昭が最も頼りにしたのは、戦国最強ともうたわれた甲斐(山梨県)武田信玄でした。

信玄は、信長が今川義元桶狭間に破った頃には、むしろ友好関係にあり、信長と同盟を結んでいた三河(愛知県東部)徳川家康との協力体制で、義元亡き後の今川に攻め込んだりしてました(12月13日参照>>)、もはや、今川の旧領・駿河(静岡県東部)を手に入れた以上、その先にある更なる土地は、家康の遠江(とおとうみ・静岡県西部)・・・このタイミングでの義昭の呼びかけに、その重い腰を上げ、上洛を決意したのでした(本当に上洛だったか否かについては諸説ありますが…)(12月22日参照>>)

元亀三年(1572年)10月3日に、本拠地・躑躅ヶ崎(つつじがさき)を出陣した信玄は、北条氏政からの援軍・2000を含めた約・2万5000の大軍勢を3つに分け、それぞれ別ルートから侵攻します。

山県昌景(やまがたまさかげ)率いる約5000は、信濃(長野県)伊那飯田方面から三河川沿いに南下・・・奥三河に侵攻して、家康軍を三河東部へとひきつける役割です(10月22日参照>>)

秋山信友率いる約3000は、伊那口から東美濃(岐阜県)へと進み、信長を牽制します。

そして、信玄率いる本隊が、諏訪から高遠を経て、天竜川沿いに南下し、遠江との国境にある青崩(あおくずれ)を越えを越えたのは、10月10日の事でした。

Hitokotozakasinrozucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこから、さらに南に下り、すでに武田の傘下となっている天野景貫(あまのかげつら)犬居城(いぬいじょう・浜松市)に入り、ここで、兵を2手に分け、一方は二俣城へ・・・そして、信玄の本隊は、さらに南へと侵攻する作戦です。

もちろん、家康も、この信玄の侵攻をただ見守っているいるわけにはいきません

3000余りの兵を率いて、自ら浜松城を出陣しますが、まずは、先発した偵察隊見附付近にて武田軍と遭遇・・・小競り合いの中、劣勢を強いられた徳川軍は、退却をはじめますが、この時、殿(しんがり・軍の最後尾)を努めたのが、徳川四天王の1人に数えられた本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)です。

何度も言いますが、合戦は攻めるより退却のほうが数段難しく、さらに、その殿は、最も重要で最も危険な役目です。

ただ、この時、最前線にいたのは偵察隊ですから、もちろん、忠勝も、はじめは家康の本隊近くにいたわけで、まずは、家康に形勢の不利を伝え、退却をうながしますが、やはり、最前線の兵士たちを見殺しにする事はできません。

忠勝は、急ぎ、最前線に赴いて、撤収をはかろうとしますが、すでに、武田軍に追いつかれ、見附の西方・一言坂(ひとことざか)にて、今、まさに、本格的な戦闘が開始されようとしていたのです。

両者の距離は、わずか20m・・・そのわずかの場所に、ただ一騎で躍り出たのは、黒糸の鎧に、鹿角の兜を身につけた忠勝!

まずは、味方のほうに向けて「撤収~!退け!」と叫び、今度は、馬を反転させて、堂々とした姿で敵を睨みつけ、蜻蛉切(とんぼきり)の鑓を高くかざします。

この大胆不敵で気迫に満ちた忠勝の行動に、武田軍は唖然とし、一瞬、何もできなかったと言います。

こうして、偵察隊の兵を押し戻した忠勝は、自らが殿となり、撤退を開始するのです。

追いすがる武田の兵には馬を返して戦い、配下の鉄砲隊が火を吹けば、再び撤退を開始する・・・幾度となく、そんな戦いを繰り返しながら、やがて、天竜川を無事に渡河し、なんとか、武田の兵をまく事に成功しました。

戦闘を終えて、家康の前に現れた忠勝・・・指物はボロボロにちぎれ、鎧には5本の矢が刺さり、顔は真っ黒に汚れてはいたものの、一つの傷も負っていなかったのだとか・・・

忠勝の無事な姿を見た家康は、
「お前・・・ホンマ、最高やで!」と、大喜び!

しかし、この時の忠勝の戦いぶりを見て、感激したのは、家康だけではありませんでした。

最初に現れた時の気迫に満ちた態度、決死の覚悟で殿を努めたその姿は、信玄の家臣の心も揺さぶりました。

信玄の旗本・小杉左近が言います。
♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐の頭
(かしら・兜)と 本多平八 ♪

そうなんです。

皆さん、よくご存知の、忠勝の素晴らしさを象徴する、この言い回し・・・これは、忠勝の、この一言坂での戦いぶりを見た武田の家臣の言葉でした。

本多忠勝・・・25歳の時の出来事。
「惚れてまうやろ~(*゚ー゚*)」

この後、戦いは、かの三方ヶ原(12月22日参照>>)へと向かいますが、その前に、武田勝頼による二俣城の攻防戦もどうぞ>>
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2009年10月12日 (月)

戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃

 

慶長五年(1600年)10月12日、水軍を率いて活躍した九鬼嘉隆が、逃亡先の答志島にて自刃しました。

・・・・・・・・・

つい先日、織田信長鉄甲船の完成のお話(9月30日参照>>)にも登場した九鬼嘉隆(くきよしたか)・・・。

熊野大社の別当の末裔とも言われる九鬼一族は、伊勢志摩から熊野灘を活動拠点とする海賊でありましたが、嘉隆の兄・九鬼清隆の時代に、伊勢の国司・北畠氏の関与により、少し後退するも、兄の死後、嘉隆は、兄の息子・澄隆(すみたか)をサポートしつつ勢力挽回に励んでおりました。

やがて、澄隆の死を受けて、嘉隆が当主となった頃に、伊勢に進出してきた信長と出会いますが、その頃は、まだ、海賊あがり小勢力であった彼らを、信長は援助し、紀伊半島に出没していた海賊たちを配下におさめさせ、一大水軍へと成長させていくのです。

その後の長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で活躍して、信長に認められた嘉隆は、さらに、冒頭の鉄甲船を完成させ、2度目の大坂湾海戦で毛利水軍を撃破し、信長を大いに喜ばせました。

この功績で、志摩七島と摂津野田福島など3万5000石の大名となり、鳥羽城を築いて、その城主にもなりました。

しかし、嘉隆の勢いはここまで・・・天正十年(1852年)のあの信長の死とともに、その人生に陰りが見え始めます。

ケチのつき始めは、信長死後の織田家・家臣のトップ争いとなった、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)でした。

そう、この戦いで嘉隆は、柴田勝家についたのです。

結果は、ご存知の通り・・・勝家は負け、妻・お市の方とともに自刃します(4月24日参照>>)

・・・とは言え、嘉隆自身も無事、所領の没収もありませんでした。

おそらく、羽柴(豊臣)秀吉にとって、九鬼水軍が、この先まだまだ必要だったからでしょう。

それを裏付けるかのように、嘉隆は、この後、小田原攻め海上警備をはじめ、大坂城築城のための巨大な石を海上輸送するなど、「これでもか!」というほど、秀吉の天下取りのお手伝いにまい進します。

あの朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、数百隻の造船を担当し、中でも、自らが鬼宿と名付けた全長30m幅10mの大安宅船(おおあたけぶね)には、秀吉も大いに喜び、改めて日本丸と命名したと言います・・・て、気に入ってくれたんはウレシイが、改名は、ちょいとショ~ック(# ゚Д゚)━━!!やろね(口には出せんが・・・)

Ooatakebunecc 大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)

この船のおかげで、大将扱いで参戦した嘉隆は、その日本丸の指揮を任され、意気揚々と渡海しますが、初戦こそ優位に展開したものの、やがて変化した戦況の中、多くの船が海のもくずと消えました。

帰国した嘉隆は、秀吉が2度目の朝鮮出兵を実行する慶長二年(1597年)に、家督を長男の守隆に譲って隠居します。

やがて、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終わりを告げ、またたく間に関ヶ原へ・・・と国内の雲行きが怪しくなってきます。

息子・守隆が、徳川家康とともに会津征伐(4月1日参照>>)へと向かう中、嘉隆のもとには、石田三成からの西軍へのお誘いがかかります。

「もう、そんな歳やないし・・・」
と断る嘉隆に、再三の出陣要請・・・

とうとう、嘉隆は、息子が留守にしている鳥羽城を奪います。

これを知った守隆は、慌てて使者を送って父を責めますが、怒った嘉隆は、この使者を追い返し・・・とありますが、どうやら、これは、例の関ヶ原での親兄弟・東西別れ作戦ではないかと・・・

Tobazyou_001a1000 遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡

なんせ嘉隆は、鳥羽城を奪っておきながら、そこには陣を置かず、少し南の舟津(ふなつ)に布陣。

軍を率いて戻ってきた守隆も、すぐそばまで来ておきながら国府(こくふ)城に拠点を置く・・・嘉隆は、矢は空に向かって放ち、鉄砲は空砲だったとか・・・大事な本拠地である鳥羽城は、無傷でおいておきたかったのでしょうね。(2015年9月13日参照>>)

そんなこんなをやってるうちに、父子には、ラッキーな事に、関ヶ原がわずか一日で決着がついてしまいます。

嘉隆は、速やかに鳥羽城を放棄し、答志島(とうしじま)へ逃亡・・・この間に、守隆は、家康に父の助命を嘆願します。

何とか、家康の承諾を得た守隆は、喜び勇んで、すぐに、父のもとに使者を走らせます。

しかし、その使者が、まもなく島に到着するであろう慶長五年(1600年)10月12日・・・嘉隆は、自ら死を選びました。

享年59歳・・・父子、どちらかが生き残る事に賭けた嘉隆の関ヶ原・・・息子が生き残る事が決定した父にとって、もはや、思い残す事はなかったのかも知れません。
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2009年10月11日 (日)

時代の波に呑まれた穏やかな天皇・土御門天皇

 

寛喜三年(1231年)10月11日、第83代・土御門天皇が、流刑先の阿波にて崩御されました。

・・・・・・・・・・・

第83代・土御門(つちみかど)天皇・・・当代まれにみる心穏やかな天皇ですが、その性格とはうらはらに、激しい気性の父・後鳥羽天皇(第82代)と弟・順徳天皇(第84代)に挟まれて、時代の渦に容赦なく巻き込まれてしまうのです。

その波乱は、わずか4歳で即位した建久九年(1198年)から始まります。

その即位はきわめてあわただしいもので、後鳥羽天皇の3人の息子の中から卜筮(ぼくぜん)・・・つまり、占いで決められたと言います。

占いが行われたのが建久九年(1198年)の正月7日、その3日後の10日には、その占いで後継ぎと決まった第1皇子を為仁と命名し、翌日の11日には皇太子、同じ日に即、践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)の儀式が行われ、この時は、まだ3歳の幼児でした。

百人一首でお馴染みのあの藤原定家は、その日記『明月記』の中で、天皇の後継者を決めるという重要事項が、いとも簡単に、軽率に行われた事を、激しく非難したりしています。

ただ、これは、記録上は「占い」となっていますが、為仁親王の母・在子(ありこ)の養父である源通親(みなもとのみちちか)の意向が多分に含まれているようです。

通親は、この2年前の建久七年(1196年)に政変を起して関白・九条兼実(かねざね)失脚させ、事実上、政界のトップとなっていた人で、いくら気性が激しくとも未だ17~18歳だった後鳥羽天皇は、その権力に押し切られた・・・というところでしょうか。

かくして、同じ建久九年(1198年)の3月にその為仁親王が第83代・土御門天皇として即位するわけですが、もちろん、そこにはご本人の意思など存在しません・・・まだ4歳ですからね。

しかし、その通親の栄華も、そう長くは続きませんでした。

土御門天皇に皇位を譲って上皇となっていた後鳥羽天皇(上皇)が、年齢を重ねるにつれ、徐々にその気性の激しさを見せ始め、先の政変で失脚した九条兼実の息子・良経(よしつね)を左大臣にするなど、自らの意志により人事を決定するようになる中、建仁二年(1202年)の通親の死を以って、その権力の逆転は決定的となります。

一方、鎌倉幕府のほうは、あの源頼朝が正治元年(1999年)に亡くなり(12月27日参照>>)、元久元年(1204年)には第2代将軍となった頼家も暗殺され(7月18日参照>>)、第3代将軍・実朝(さねとも)外戚(母親の実家)として&執権として、北条氏の幕府と化していました。

この時期、そんな鎌倉幕府と緊張関係になりつつあった後鳥羽上皇は、穏やかな性格の土御門天皇を「ぬるい!」として、自分と同じく気性の激しい3番目の息子(つまり土御門天皇の弟)守成(もりなり・もりひら)親王皇位を譲るよう土御門天皇に迫ります。

そこは、心穏やかな土御門天皇が反発するはずもなく、いや、心の中ではしぶしぶだったかも知れませんが、承元四年(1210年)、その弟に皇位を譲ります

これが第84代・順徳天皇(12月28日参照>>)・・・土御門天皇は、土御門上皇となります。

しかし、この間にも、後鳥羽上皇と幕府との緊張は徐々に高ぶっていきます。

やがて、建保七年(承久元年・1219年)、将軍・実朝が暗殺される(1月27日参照>>)に至って、この幕府のゴタゴタを好機とみた後鳥羽上皇は、倒幕の計画を立てる事になります。

ご存知、承久の変です(5月14日参照>>)

しかし、父・後鳥羽上皇が「ぬるい!」と言った土御門上皇のその穏やかな性格は、ぬるいというよりは冷静という表現のほうが似合いそうだと思います。

この時、土御門上皇は、父に「今は、その時期ではありません!」と、しっかりといさめています。

結果論ではありますが、イケイケムードで突き進んだ父と弟の間で、この土御門上皇が一番冷静に状況を把握していたのかも知れません。

しかし、当然の事ながら、後鳥羽上皇は、土御門上皇の意見など一蹴して、幕府への反旗をひるがえし、見事、大敗を喫してしまいます。

倒幕に失敗した後鳥羽上皇は隠岐へ流され(7月13日参照>>)、順徳天皇(上皇)佐渡へと流されました。

そんな中、先に反対していた事もあって承久の変にはノータッチだった土御門上皇には、何の咎めもなかったのですが、そこが、心優しい土御門上皇・・・「父と弟が流罪となったのに、自分だけが京の都に留まるわけにはいかない」と、自らが流罪を申し出ます。

もちろん、幕府は「その必要はない」と断りますが、頑として聞き入れない土御門上皇の姿勢に負け、「そこまでおっしゃるのなら・・・」と、土佐への配流を決定しました。

後に、阿波へと移転して、計・10年という月日を四国で過ごす事になる土御門天皇ですが、そこは幕府も、乱の首謀者である後鳥羽上皇や順徳上皇とは、まったく扱いを変え、土御門天皇には守護に命じて、現地に御所を造営するなど、流人とは思えない待遇で接しています。

かくして寛喜三年(1231年)10月11日、流刑の地である阿波でお亡くなりになった土御門上皇・・・上皇には10男9女という子宝があり、その多くは仏門に入りましたが、源通子(みなもとのみちこ)との間に生まれた邦仁(くにひと)だけが仏門には入らず、後に、第88代・後嵯峨天皇として即位しています。

第87代・四条天皇が、わずか12歳で亡くなり、その後継者に乱に加わった順徳天皇の系統を据える事をヨシとしなかった幕府の意向によって、乱とな関係のない土御門天皇の皇子に白羽の矢が立ち、後嵯峨天皇の即位となったわけですが、思えば、この後、ず~っと、この後嵯峨天皇の血筋が天皇を引き継いでいくのですから、まさに、沈黙の勝利・・・穏やかな土御門天皇の系統が最後まで残った事になります。

ちなみに、日蓮宗の開祖・日蓮が、この土御門天皇のご落という話もありますが、日蓮本人は「名もなき漁民の子」と言って、その名を明かしていないので、本当かどうかは定かではありません。
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2009年10月 9日 (金)

後藤象二郎様々?岩崎弥太郎の成功劇

 

明治三年(1870年)10月9日、岩崎弥太郎土佐開成社(九十九商会)を開設しました。

・・・・・・・・・・

あの関ヶ原の合戦の後、勝ち組の山内一豊(やまうちかずとよ)土佐(高知県)に入り(12月5日参照>>)、負け組となった長宗我部(ちょうそかべ)の家臣団を支配する形となり、元・山内の家臣は上士、元・長宗我部の家臣は下士と、土佐では厳しい身分制度が敷かれました。

そんな土佐で生まれた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の身分は、郷士株を売った地下(ちげ)浪人という最底辺の武士層に位置していました。

そんな弥太郎が、あの三菱財閥の創業者になる!・・・これ、ひとえに、ご本人の才能と努力のたまものに他ならないわけですが、人生、才能と努力だけではどうにもならないというのもつきまとう物でして・・・

そうなんです・・・才能を持ち、惜しみなく努力をする弥太郎に、幸運をもたらしてくれたのは、ある人物との出会いでした。

幼い頃から神童の誉れ高い秀才だった弥太郎は、14歳のある日、藩主・山内豊熈(とよてる)の前にて漢詩を披露した事でその才能を認められ、江戸に出て遊学できるチャンスを得ます。

21歳で安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入塾するも、酒の席で暴れた親父さんのとばっちりで、彼も獄中の人となります。

その後、同じ土佐藩士だった吉田東洋(よしだとうよう)少林塾に通い、ここで、その運命の人と出会います。

それが、あの大風呂敷広げまくりの後藤象二郎(しょうじろう)(8月4日参照>>)です。

象二郎は上士の家柄でありながらも、その大雑把なこだわらない性格で、身分の低い弥太郎にも親しく接してくれ、その才能ゆえに、何かと目をかけてくれたのです。

そのおかげで、慶応元年(1865年)に、象二郎が殖産・貿易振興のために造った開成館下役になり、その2年後には、その象二郎の後を受けて藩の商務組織・土佐商会長崎留守居役に抜擢されます。

坂本龍馬の脱藩が許されて海援隊が土佐藩の外郭組織になった時には、藩の命令のその経理も担当するようになります。

すでに土佐商会の実権を一手に掌握する人となっていた弥太郎・・・明治元年(1868年)に土佐商会が閉鎖されると、拠点を大阪に遷し開成館大阪出張所(大阪商会)に、そしてその大阪土佐商会が、明治三年(1870年)10月9日土佐開成社(九十九商会)となるのです。

やがて、廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)にともなって、土佐藩の持っていた債権債務や財産ひっくるめて、藩の船2隻とともに、すべてが弥太郎に譲渡されますが、これも、象二郎の意見・・・。

維新の混乱の時代とは言え・・・
借金も含まれるとは言え・・・
土佐藩の財産を弥太郎個人にあげちゃうなんて~~!
「あぁ、後藤さん、大雑把でいてくれてアリガトウ」

また、全国統一貨幣が鋳造される事が決まった時に、「新政府が藩札(江戸時代に藩が発行したお札)を買い上げる」という情報を入手した弥太郎は、10万両の元手で藩札を買占め、莫大な利益を得ていますが、この情報を弥太郎に流したのも象二郎です。
「あぁ、後藤さん、大雑把でいてくれてアリガトウ」

・・・で、結局、かの九十九(つくも)商会三菱商会となり、さらに郵便汽船三菱会社となって、そのまた向こうのほうに現在の日本郵船へと発展するわけですが、確かに、モノが一つあっても、それを何倍も大きくするのは、本人の才能と努力・・・

誰もが、何倍もの大きさにできるわけではなく、そのままゼロになってしまう人もいる・・・

しかし、さすがの弥太郎も、象二郎がいなければ、ここまでの成功を収める事はできなかったでしょう。

ただ・・・
私企業を発展させる実業家でありながら、国家を憂い、緊急時には人員や物資の輸送に尽力した弥太郎・・・あまりのその繁栄ぶりに、西郷従道(じゅうどう)「国賊!」と罵倒された時には、「政府がそんな事言うんやったら、三菱の汽船全部を燃やして、財産は全部自由党に寄付してやる!」と、堂々と渡り合いました。

その姿には、象二郎から貰ったラッキーだけではない、自分自身の努力が多分に含まれているという自信が見て取れます。

以前、【どうなった?龍馬亡きあとの海援隊】(11月16日参照>>)で書かせていただいたように、龍馬が夢見た海援隊の世界進出を実現したのは、日本郵船の土台を造った弥太郎・・・という事になるのかも知れません。

そこには、きっと、人知れぬ彼の努力があった事でしょう。
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2009年10月 8日 (木)

将軍・吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主・徳川宗春

 

明和元年(1764年)10月8日、徳川御三家・尾張藩第7代藩主の徳川宗春が69歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

徳川宗春(むねはる)は、元禄九年(1696年)、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠(つななり)19男として名古屋城にて生まれました

19男という性質上、梁川藩(やながわはん・福島県)3万石を与えられ、第4代藩主となっていましたが、兄・継友(つぐとも)死去にともなって尾張徳川家を継ぐ事となり、第7代藩主として享保十六年(1731年)、36歳で名古屋城へ入りました。

・・・と、言っても、一般的には「それ、誰やねん!」の世界ですが、この宗春さん、知る人ぞ知る有名な逸話をお持ちです。

それは、江戸中興の英雄と言われる暴れん坊将軍こと第8代徳川吉宗(よしむね)に、唯一、刃向かった藩主なのです。

遊興にふけって贅沢三昧をしたあげく、蟄居(ちっきょ・隠居して幽閉)へと追い込まれ、罪人として扱われた事で、以前は、江戸幕府を立て直した名君にたてついた極悪人のように思われていた宗春さんですが、ここのところ、少し違った見方が出てきているようです。

・・・と言うのも、以前、このブログでも書かせていただいたように(6月18日参照>>)、吉宗の享保の改革100%すばらしい改革ではなかった事がわかってきて、そうなると、反発した宗春にも、それなりの意見という物が、見え隠れするようになってきたからです。

そもそも、吉宗の享保の改革が財政難に陥っていた幕府を立て直したと絶賛されたのも、幕府の記録によるところからきているわけで、確かに、幕府にとって良い改革だったかも知れませんが、それが、そのまま一般庶民にも良い改革だったかどうか・・・いや、むしろ、重税を課せられるようになった農民は、困窮に拍車がかかり、間引きという悲しい行為もしなくてはならなかったわけです。

そんな吉宗は、増税とともに、倹約令も発布しています。

「お金がないのだから節約しよう」という事ですが、宗春は、これに真っ向から反対します。

「贅沢は必要悪」とばかりに、倹約とは正反対のような藩政の改革を行います。

まずは、芝居・歌舞伎・能といった芸能や相撲の興行を解禁し、藩祖・義直(よしなお)以来禁止されていた遊郭の設置も公認・・・

さらに、自らが率先して華美な服装を身にまとい、数千人を踊り子を招いて大宴会を開いたり、仮装パ-ティで庶民とふざけ合ったり・・・

もちろん、これは、単に贅沢をしたいからやったというバカげた物ではなく、そこには、しっかりとした宗春の理論が底辺にあります。

彼の記した『温知政要(おんちせいよう)は、「極端な倹約ばかりでは、かえって庶民を苦しめる事になり、結局は無益となってしまう」という事が、理論的に述べられている名著です。

実際に、倹約令で低迷していた名古屋の経済は活気づき、「京の都より繁栄している」と噂されたくらいの賑やかさを取り戻しています。

その他にも、咎人の処刑を禁止・・・いわゆる死刑廃止論のような斬新な政策も実践していて、彼が、ただのバカ殿ではない事は明白です。

ただ、ちょっとやり過ぎた事も確か・・・結局は、藩政は赤字となり、新たな税を徴収するしかなくなって民衆の心も離れ、贅沢令とも言うべき数々の政策も見直しを余儀なくされてしまいます。

そこには、吉宗に対する個人的な反発も含まれていると言われますが、その通り、本来なら、将軍家の後継ぎが耐えた時のサポートとしての役割も持つ御三家・・・その中での筆頭は、家康の9男・義直を祖とする尾張だったわけですが、その尾張の第4代藩主である兄・吉通(よしみち)を差し置いて、なんだかんだで紀州の吉宗が8代将軍になってしまっわけで(8月13日参照>>)、そこに、個人的恨みが少なからず影響していた事も、なきにしもあらずです。

しかし、やり過ぎは吉宗のほうも同じ・・・過度な増税と倹約は、米価の暴落を招き、各地で一揆や打ちこわしが続発し、結局は行き詰って、最終的に老中・水野忠之らの尽力によって、「とりあえず成果をあげたんじゃない?」程度の結果となってしまいました。

ただ、願わくば、宗春さんの政策のほうも、最後の最後までやらせてあげて欲しかった・・・そうなんです、上記のように、吉宗の享保の改革のほうは、最後の最後で一応の成果が見られたわけですが、宗春の政策のほうは、吉宗の怒りを買い、宗春が蟄居させられた事によって、途中でストップしてしまうわけです。

ひょっとして、もう少し時間の猶予があれば、改変に改変を重ねて、見事な成功を収めていたかも知れません・・・いや、当代きっての知識人の彼なら、そうなった可能性大だと思います。

そんな、可能性を秘めながらも、将軍に反発した事で叛逆人として扱われ、かの名著も発禁となり、亡くなった後も、その墓石には罪人の証である金網が掛けられていたのだとか・・・

宗春の名誉が回復するのは、彼の没後75年経った天保十年(1839年)・・・第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の息子・斉荘(なりたか)が第12代尾張藩主になった時でした。

もちろん、その時に、金網も撤去されました。

もしかしたら、あの吉宗よりも、暴れん坊で名君だったかも知れない宗春さん、汚名を返上できて、ホッと、胸のつかえが取れた事でしょうね。
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2009年10月 7日 (水)

井伊直弼の女スパイ・村山たか

 

安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄橋本左内らが死刑となりました。

・・・・・・・・・・・・

安政の大獄の事、それを断行した井伊直弼(いいなおすけ)の心情などは、以前書かせていただきました(2006年10月7日参照>>)

3年も前の記事で、今となっては、まだまだ書き足りない部分はあるのですが、とりあえず、本日は、安政の大獄当時、直弼の手足となって暗躍した女スパイとも言うべき存在・・・村山たか(たか女)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…

村山たかは、文化七年(1810年)、近江国(滋賀県)多賀神社般若院の僧と彦根の芸妓との間に生まれ、多賀神社の神官に預けられて育ちます

彼女はたいへんな美人だったとの話ですが、それを裏付けるかのように、18歳の頃、時の彦根藩主・井伊直亮(なおあき)に見初められて愛妾となります。

しかし、それは長くは続かず、まもなく暇を出されて、京都で芸妓に出ます。

可寿江(かずえ)という源氏名で、なかなかの人気芸者だったようですが、金閣寺の僧との関係で妊娠し、寺侍の多田源左衛門に譲り渡されますが、出産と同時に子供ともども離縁されます。

そんな頃、彼女は、井伊直弼(いいなおすけ)再会します。

再会・・・というのは、そう、彼女の最初の相手だった直亮は、直弼の兄・・・その当時は、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれた住まいで、未だ学問三昧の日々を送っていた直弼であっても、彦根城の掘一つ隔てた所に暮らす兄の愛妾の事を知らぬはずはなかったでしょう。

いや、むしろ、その美しさを憧れのまなざしで見ていたのかも知れません。

今は、あれから10年余り・・・勉学に夢中の14~5歳の少年・直弼は25歳の立派な男になり、たかは、その美しさに色気が加わった女ざかりの30歳・・・ふたりが男女の関係になるのに、時間はいりませんでした。

しかし、間もなく、二人は絶縁状態となります・・・いや、絶縁したように見せかけました。

直弼が側室を迎えたからだとも、たかが彼の子供を出産したからだとも言われるこの別れ・・・「たかとの縁をを切りたい」という内容の家臣への書状も残っていますが、おそらく、これは、世間を気にしてのポーズであって、二人の関係は密かに続いていたと思われます。

やがて、たかは、直弼の国学の師であった長野主膳義言(しゅぜんよしとき)と心を通わせるようになります。

たまたま主膳が多賀神社に参拝した時に出会い、話をするうちに彼女が直弼ゆかりの女性である事を知り、その悲しい生い立ちや悲恋の物語に同情したのか?、あるいは、今なお美しいたかの魅力にハマったのか?、その心の内は計り知れませんが、とにかく、主膳&たか、ともに、こののち、直弼の手足となって動くようになるのです。

兄・直亮の養子が病死した事で、彦根藩36万石を継ぐ事になった直弼は、天皇の許しを得ずに行った日米修好通商条約の調印問題、また徳川幕府の将軍の後継ぎ問題に揺れ動く幕府の大老という役職につきます。

日に日に激化する尊王攘夷派の動き・・・多賀神社にいた幼い頃から歌舞を仕込まれ、プロの芸妓として活躍していたたかは、どんなお屋敷にも怪しまれる事なく入り込め、様々な情報を収集する事が可能でした。

この情報をもとに、直弼は、安政六年(1859年)10月7日橋本左内をはじめ、吉田松陰(しょういん)(10月27日参照>>)など、80人近い人物が処罰される事になる安政の大獄という大弾圧を断行するわけです。

しかし、ご存知のように、この事で尊王攘夷派の反発のターゲットとなった直弼は、安政七年(1860年)3月3日、桜田門外にて暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

2年後の文久二年(1862年)の8月には、主膳も彦根藩によって斬罪にされる中、もちろん、たかの身にも危険が迫ってきます。

同じ年の11月、土佐と長州の尊王攘夷派に隠れ家を襲撃されたたかは、「女の身であるゆえ死罪一等を減ず」と称して、京都・三条大橋の橋脚に縛りつけられ、生きさらしにされてしまいます。

Takakonpukuzi2 本来、生きさらしとは、そのまま息絶えるまで、通りがかる人々に罵倒されるるものですが、この時のたかには、やじ馬の視線にはさらされるものの、実際に暴行を働く者はいなかったと言います。

当時、50歳・・・未だ、衰えぬ美貌であったからなのか?、真冬の川風に吹きさらしの状況では、そう長くはないと思われたのか?

翌日には、主膳の門下生となっていた金閣寺の僧との間にできた彼女の息子・帯刀も捕まり、さらし首にされてしまいます。

確かに、大弾圧の片棒を担いだとは言え、この時の彼女の心境はいかばかりであったでしょうか。

しかし、さらされてから三日後、彼女に手を差し伸べる人がおりました。

百々御所(どどのごしょ)と呼ばれる宝鏡寺(11月19日参照>>)の尼僧でした。

助けられたたかは、剃髪して妙寿尼と号し、その後は、東山山麓の金福寺(こんぷくじ)で、直弼や主膳の菩提を弔いながら、静かな晩年を過ごし、明治九年(1876年)、67歳でこの世を去ったという事です。

金福寺には、彼女が三条大橋でさらされた時の肖像画(↑)とともに、彼女が生涯大切にしていた直弼直筆の和歌の書かれた掛け軸が残っています。

♪柴の戸の しばしと云(い)いて もろともに
  いざ語らわん 埋火
(うずみび)のもと ♪ 直弼

波乱に満ちた彼女の生涯・・・ただ一つの支えは、埋木舎で過ごした直弼との、わずかな時間であったのかも知れません。

橋本左内については2012年の10月7日のページでどうぞ>>
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2009年10月 6日 (火)

彦根城・佐和山城・長浜城・安土城・観音寺城へ行きました

 

ただいま~でございます。

「日曜日は晴れるが月曜日は雨になる」との予報の中、彦根城・登城と、佐和山城・攻略を目標に出発した今回の旅でしたが、翌日、ギリで雨に降られる事もなく、何とか彦根城佐和山城にプラス長浜城安土城観音寺城で、5つの城を攻略して参りました~ヽ(´▽`)/

ご存知ではありましょうが、彦根城は実際の城、長浜城は復元の博物館、佐和山城と安土城と観音寺城の3つは城跡です。

未だ、写真の整理ができていませんので、とりあえずは、メインとなる天守または本丸付近の写真を中心に、感想など書かせていただきますね。

・‥…━━━☆

まずは、彦根城・・・

Dscn8325800 彦根城・天守

やはり、ここは、実際のお城・・・なんせ国宝ですから・・・

お山も、そんなに高くありませんし、観光客のかたが多いので階段も道も、公園のように整備されてますから、登るのも楽・・・

ただ、さすがに、お城の中の階段は、すこぶる急な階段でした。

でも、考えたら、天守閣は住まいではなく、要塞・・・いざという時に立て籠もるための設備で、「敵が下からやって来た時に落す」というのが常套手段ですから、急で当たり前・・・上り下りしやすかったら、それだけ容易に上階まで攻め込まれますからね。

この日は天気が良かったので、最上階の眺望も上々で気分も爽やかでした。

Hikonezyoutenbou900 彦根城・天守からの眺望

写真、手前に見える山の中で、ポコンと頭一つ出ている感じの山が佐和山・・・左奥のデカイのが伊吹山です。

気になっていた「菊の花」(11月4日参照>>)は、季節がちょっと早いせいか、まったく見ませんでしたね~城郭内の玄宮園という庭園にも行きましたが、やっぱりなかったです。

ただ、城域が広いので、どこかに咲いてる可能性もなきにしもあらずです・・・もともと人柱のおねーさんも、助かってるみたいですし・・・。

ひこにゃんは、お出ましが終ったばかりで、次のお出ましまでに3時間もある事がわかり、この後、佐和山に行きたいので、断念しました~泣

そして、今度は、その佐和山城へ登城です。

マニア向けの大手から・・・
国道8号線の佐和山トンネル付近から・・・
などのルートもあるそうですが、初めてという事で、一番わかりやすいとの噂の龍潭寺(りょうたんじ)というお寺のところから登りました。

噂の通り、龍潭寺横にある「東山ハイキングコース入口」の看板のあるところから、ず~と一本道でした。

さすがに、山登りのハイキングコースなので、ヒールではムリな山道ですが、ほぼ30分ほどで本丸跡に到着・・・

Dscn8398a800 佐和山城・本丸跡から西側を見る

ここからは眼下に琵琶湖と彦根城が見え、眺望もすばらしい・・・ですが、何より、あの石田三成も、この景色を見たのかなぁ?と思うと感慨もひとしお・・・もちろん、当時は彦根城はありませんが・・・

Dscn8400800 佐和山城・本丸跡から北側を見る

写真は、こっちの北側のほうがキレイに撮れました・・・こちらは長浜の方角なので、ひょっとして三成は、この景色のほうがよく見ていたかも・・・ですね。
(佐和山城の歴史については2月1日のページへ>>)

翌日は、朝一で長浜城へ・・・

Dscn8442a800

こちらは、復元された天守閣が博物館となっていて、今年の「天地人」にちなんで三成に関する特別展示をやっていたのですが、なんと言っても、あの「直江状」の現存最古の写しが見られた事がラッキーでした。

ただし、アンラッキーもあり・・・
次に向かった安土城で、「公営施設・魔の月曜日」に引っかかってしまいました~。

安土駅前の城郭資料館から信長の館安土城考古学博物館などが、ことごとく休館日・・・まぁ、城跡さえ見られれば満足なんで・・・

それにしても、安土城跡・・・さすがに、完成時には織田信長が拝観料を取って一般に公開しただけあって、現在も、復元天主のない城跡に拝観料がいりましたが、まぁ、こういう物は現状維持が大変なので、そこンとこは仕方が無いところですね・・・お察しします~、いえ、むしろ、頑張って現状を維持していただきたい。

Dscn8517800 安土城・本丸跡

そして、最後にいよいよ観音寺城へ・・・

いよいよというのは、「ここが一番しんどい」との噂を耳にしていたので・・・

ここも、いくつかの登山口がありますが、一番わかりやすい観音正寺(かんのんしょうじ)の参道から・・・

この観音寺城は、(きぬがさ)という山の全山を城域とする日本最大規模を誇る山城跡で、近江源氏の佐々木六角氏の居城だったところ・・・六角氏を倒した(9月13日参照>>)信長によって安土城の後詰めの城という役割となった城で、現在は、山の中腹に観音正寺というお寺があり、そのお寺までは、ず~と石段で、かなりハードです。

観音正寺は西国観音霊場の第32番札所なので、参拝者も多く賑やかです。

ベンチやジュースの自動販売機もあり、景色も良いので、休憩するにはうってつけ・・・と言うより、休憩しないと先に進めないほど疲れます。

ここでじっくり休憩して体力回復し、いざ!本丸へ・・・

Dscn8567800 観音寺城・本丸への石垣

こちらも、川並参道と呼ばれる道や桑實寺(くわのみでら)へ抜ける道もありますが、私の場合は、本丸跡から繖山3角点、佐々木城跡、をグルリ一巡りして観音正寺へと戻りました。

山道ではありますが、丸太などで補強されて道がわかりやすいうえ、要所々々には必ず案内板があるので安心です。

・‥…━━━☆

また、おいおいブログで、くわしく紹介していきたいと思いますが、とりあえずは、今度、行かれる時の参考にしていただければ幸いです。

Dscn8617a600  

絶大な人気を誇るため、どこへ行ってもひこにゃんグッズの中、長浜城にて、やっとライバルしまさこにゃんを発見!

ひこにゃんはもちろんですが、コチラも、即、ゲットしました~
 

残念ながら、いしだみつにゃんは、一度も見かけませんでした(ToT)(数が少ないワリに人気なのだ)
 

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2009年10月 3日 (土)

応仁の乱・激戦~相国寺の戦い

 

応仁元年(1467年)10月3日、11年に渡る応仁の乱での相国寺の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・・・

室町幕府・第8代将軍の足利義政後継者を巡っての争い(1月7日参照>>)に、管領家の畠山氏斯波(しば)それぞれの後継者争い、そこに、それぞれを支持する地方大名たちを巻き込み、東西に分かれて争われた応仁の乱・・・

最初の衝突は、その畠山氏の畠山長政畠山義就(よしなり)のいとこ同士の争い=御霊合戦からでした(1月17日参照>>)

そのおおまかな流れは、義政の弟・足利義視(よしみ)に味方した細川勝元(東軍)花の御所に・・・

義政の息子・足利義尚(よしひさ)についた山名宗全(持豊・西軍)(3月18日参照>>)が自宅・西陣に・・・

・・・と、わずか数百メートルの近さの場所に陣を構えてにらみ合った事で、応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・と書かせていただきましたが、今回は、その中で、最も激戦となった相国寺の戦いを・・・

・‥…━━━☆

勝元が花の御所を占拠し、将軍・義政から「山名追討」命令を得た事で、東軍が「官軍」、一方の西軍が「賊軍」となったわけですが、この影響からか、西軍からは、東軍に走る者や降伏する者、陣を離れて自宅に引きこもる者が続出しますが、宗全は、未だ上洛していない大名に呼びかけ、戦力を増強を図ります。

その甲斐あって西国の雄・大内政弘が西軍に加わって士気もあがり、京都各地で転戦しますが、今度は、東軍の総大将であった義視が職場放棄してトンズラするという大事件(11月13日参照>>)・・・これで、東軍の士気が、一気に下がります。

そんな中で行われたのが相国寺の戦い・・・

Dscn4182800
相国寺

応仁元年(1467年)10月3日、西軍の畠山義就と朝倉孝景が、相国寺に陣取る武田信堅(のぶかた)を攻撃します。

1日目は、相国寺・惣門で激しい戦闘が繰り広げられ、西軍に圧され気味の東軍は、一旦退却・・・この日の西軍は、討ち取った首を8輌もの車に積み込んで、意気揚々と西陣へ帰還します。

2日目は、「昨日の仕返しだ!とばかりに、東軍・畠山政長が必死の反撃で巻き返し、西軍・6000人の兵士を討ち取ります。

「応仁記」によれば、この日の戦いは、西軍の一色義直(よしなお)の兵が相国寺内の蓮池のそばで、多くの死亡者を出した事から、蓮池頽(くず)と呼ばれたと言います。

この戦闘で三日三晩、燃え続けた相国寺・・・最終的に、焼け跡に孝景が陣を取る事で、相国寺の戦いは一応の終結となしました。

しかし、結局は、占拠・奪回を繰り返し、双方ともにダメージを受けただけのような戦いでした。

このダメージが大きかったのか、この後、翌年の春まで、戦闘状態は小競り合い程度の中休・・・5ヵ月後の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)となります。

・・・と、ここで、今回の相国寺の戦いで活躍する朝倉孝景さん・・・

けっこう最近、どこかでお名前を見たような・・・

そう、9月23日の【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い】の時に、織田信秀と連合を組んで、斉藤道三を攻めた・・・(9月23日参照>>)

実は、その時の孝景さんの、ひいオジイチャンが本日の孝景さんです。

本日の孝景さんが朝倉氏7代目で、区別するために英林孝景・・・先日の孝景さんは10代目で宗淳孝景と呼びます。

ちなみに、本日の英林孝景は、なかなか魅力的な人物で、いわゆる、私たちが思い描く戦国大名のイメージ・・・そのイメージを持った最初の人ではないかと思います。

山名氏や細川氏のような守護大名的なイメージではなく、いわゆる策略と才知で下克上をのし上がっていく戦国大名のイメージ・・・

ではありますが、やはり魅力的ゆえ、たくさん書きたい事がありますので、本日の場合は、このへんで・・・いずれ、その魅力的な戦国武将ぶりをご紹介させていただくつもりですので、今、しばらくのご猶予を・・・。
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2009年10月 2日 (金)

水戸学と尊王と倒幕と~藤田東湖・志半ばの死

 

安政二年(1855年)10月2日、午後10時頃に発生した安政の大地震藤田東湖がな亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

藤田東湖(ふじたとうこ)は、水戸藩の彰考館(しょうこうかん)に勤務する藤田幽谷(ゆうこく)の次男として文化三年(1806年)に生まれました。

彰考館というのは、水戸藩の二代目藩主だった、ご存知・水戸黄門さま=徳川光圀(みつくに)が始めた水戸藩の一大事業・『大日本史』の編さん(10月29日参照>>)を行っていた部署で、21歳の時に父が亡くなり、その家督を継いで、東湖も、この彰考館で大日本史の編さんに携わる事になります。

親子2代で・・・と、言うと、世襲制のように思ってしまいますが、実は、この彰考館・・・優秀な人しか勤務できません。

父の幽谷という人は、もともと古着屋の息子という低い身分・・・しかし、その優秀さをかわれて15歳の時に彰考館に大抜擢されるわけですが、優秀な人材なら、身分に関係なく抜擢するという事は、言い換えれば、優秀ではなかったら、たとえ親が彰考館に勤務していても、子供が勤務できるかどうかはわからないわけですので、東湖が、父の後を継いで勤務したというのは、やはり、彼もまた優秀な人材であったという事です。

東湖が優秀な人材と評価される根源は、やはり水戸学・・・水戸学派のリーダー的存在だった父のもとで、幼い頃からみっちり水戸学を仕込まれ、彼もまた、水戸学派のリーダー的存在になっていました。

水戸学については、以前、この東湖さんの息子である藤田小四郎天狗党を立ち上げるところで書かせていただいたのでそちらをご覧いただくとありがたいのです(3月27日参照>>)が、そもそもは、一生をかけて学ぶような学問を簡単に説明する事はできません。

・・・が、あえて一言で言うなら「尊王賤覇(そんのうせんば)=つまり、「皇統を引き継ぐ朝廷は尊く、武力で覇権を握った幕府=徳川家は卑しい」という、もともとの黄門さまの時代から受け継いだ大日本史編さんの根源となる朱子学的歴史観による考えかたです。

徳川御三家の一つである水戸で、このような学問が発達する事を不思議に思いますが、実は、これこそが、幕府を安定させる事につながる考え方なのです。

幕府が倒れる=戦国の世の象徴は下克上=上位の者を下位の者が制してしまう事ですよね。

なので、幕府の世を守り続けて行きたい幕府としては、神代の昔から続く天皇家をトップに据え、幕府がその下にある事を明確にして、幕府自身がその上下関係をしっかりと守る事で、封建的社会の秩序を保とうというわけです。

実際には、幕府の下にいっぱいいて、その幕府の中にも上下関係があるわけですが、幕府のトップの将軍=徳川家が、天皇家との上下関係を守る事で、その幕府の下の者にも上下関係を守らせるのです。

ですから、水戸学の尊王の思想は、倒幕とは無縁の、むしろ幕府のための尊王なのです。
(現に、黄門様こと徳川光圀も、水戸家の主君は天皇家と言っています…2009年1月6日参照>>

ほんでもって、そんな尊い天皇の治める神の国である日本は、文化的にも武力的にも外国に犯されてはならない物・・・なので攘夷(じょうい)=外国は排除するという尊王攘夷の思想となりますが、この尊王攘夷が倒幕と結びつくのは、もう少し後の事で、現段階ではあくまで幕府のための尊王攘夷思想です。

そんな水戸学が力をつけるきっかけとなったのは、水戸藩の藩主交代劇・・・第8代藩主の斉翛(なりのぶ)に嫡子がいなかった事で、水戸藩の保守派は、斉翛の奥さんが11代将軍・家斉(いえなりの娘だった事から、家斉の息子を養子にして後継ぎに・・・と願っていましたが、一方の革新派は斉翛の弟・斉昭(なりあき)を後継者にと願い、ご存知のように、次期藩主に斉昭がつく事で、水戸藩を革新派が牛耳るようになるのですが、この時、斉昭を推したうちの一人が、かの東湖だったのです。

もちろん、すでに斉昭は水戸学を大いに理解していて、東湖にも篤い信頼を寄せていましたから、東湖も新たな藩主のもとで側用人となり、郡奉行(こおりぶぎょう)御用調役(しらべやく)など藩政の中核を荷う存在となり、水戸学も一気に広まっていき、多くの若者が、彼に教えを請いにやってくるようになります。

そんな尊王攘夷の思想が、倒幕と結びつくようになるのは、やはり、あのペリー来航(6月3日参照>>)・・・外国の圧力に及び腰の幕府は、尊王の姿勢を示して何とか朝廷の権威を借りて、この事態を乗り切ろうとしますが、時の天皇・第121代孝明天皇は大の外国ギライ。

しかたなく、大老・井伊直弼(いいなおすけ)天皇の許しがないままアメリカとの修好通商条約を結んでしまった事で、幕府は、自ら、尊王思想の根本となる上下関係の約束事を破ってしまったわけです。

ここで、すでに尊王の秩序を乱した幕府なのに、さらに、安政の大獄(10月7日参照>>)で反対派を弾圧した事で、尊王攘夷は一気に倒幕へと傾いていく事になるのです。

その安政の大獄の前に、次期将軍擁立に失敗した斉昭は失脚し、東湖も謹慎の処分となっていましたが、幽閉中にも『回天詩史(かいてんしし)なる書物を執筆し、「こんな危機的状況の時こそ忠君愛国の精神を以って、国家のために命を捧げるべき」と、その思想は変わりません。

この回天詩史は、尊王攘夷派の志士たちに圧倒的な指示を受け、さらに彼らはヒートアップするわけですが、そんな東湖を、かの勝海舟「頭もいいし、腕もたつ、役に立ちそうなヤツだが、本当に国を思う真心がない」とボロカスです。

まぁ、これは、海舟の「自分大好き」の思い込みが多分に含まれている見方ですが、実行する派の海舟にとって、理論で攻める東湖の言動は、絵に書いた餅・机上の空論てな感じに思えたのでしょう。

しかし、東湖の思想が全国の志士に浸透していく中で、その最後はいきなりやってきます。

安政二年(1855年)10月2日、午前10時頃、マグニチュード6.9の直下型地震が、江戸の町を襲います・・・安政の大地震です(2006年10月2日参照>>)

小石川にある水戸藩邸内の宿舎にいて激しい揺れを感じた東湖は、心配になって、すぐさま別室にいる年老いた母のもとへ急ぎます。

母を抱えて、一度は庭へと避難した東湖・・・しかし、母が「火鉢の火を消し忘れた!」と、再び部屋へと走り、「俺が行くがな!」と、東湖も後を追ったところへ敷居が落下・・・

母をかばって、その肩で敷居を受け止めた東湖は、ありったけの力で、母を外へ放り投げますが、その時、再びの強い揺れ・・・建物は天井から崩れ落ち、その姿は瓦礫の中に消えました。

享年50歳・・・志半ばの死は、逆に尊王の志士たちを奮い立たせたかも知れません。

彼の意志を継ぐ息子・小四郎が天狗党を立ち上げるのは、この10年後・・・元治元年(1864年)3月27日の事でした(3月27日参照>>)←途中にもリンクを貼りましたが、一応・・・
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2009年10月 1日 (木)

自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退

 

慶長五年(1600年)10月1日、上杉の執政・直江兼続が、長谷堂からの撤退を開始しました。

・・・・・・・・・・・

会津征伐(4月14日参照>>)のため北へと進行中、留守にした伏見城を、石田三成が攻撃した事を知った徳川家康は、突如、会津征伐を中止し、上方へとUターン・・・(7月25日参照>>)

一方、家康の侵攻がなくなった事を知った会津の上杉景勝は、その矛先を、隣国・最上へと向け、上杉・執政の直江兼続(なおえかねつぐ)が、約2万の軍勢を率いて最上義光(もがみよしあき)配下の支城を次々と陥落させ(9月9日参照>>)、残る支城・長谷堂城へと迫った9月15日・・・西では、ご存知、関ヶ原での合戦が行われますが、ここ、東北では、長谷堂城の戦いが開始されたのです。

迎え撃つ最上勢が、わずか1300にも関わらず、城将・志村光(あきやす)の地の利を生かしたゲリラ的作戦に苦戦する兼続・・・やがて、本拠地・山形城からの援軍や、救援要請を受けた伊達政宗の派遣軍も到着し、更なる苦戦を強いられる中の9月30日、兼続のもとに、関ヶ原の合戦の勝敗の知らせが届きます(9月16日参照>>)

・・・前回は、ここまで書かせていただきました。

大河ドラマ・天地人では、宮本信子さんのナレーションの後ろで、ガャチャガチャやってる間に終ってしまった長谷堂からの撤退ですが、妻夫木君のボー然とした表情で、「何となく激しかったんだろうな」って事だけは伝わってきました。

合戦は侵攻するより撤退するほうが、はるかに命がけですから・・・

・・・で、その9月30日に、遠く関ヶ原で家康が勝利した事を知った兼続・・・最上も伊達も家康の東軍に組していますから、もはや、この戦いは意味のない物になってしまいました。

たとえ、ここで勝利して領地を拡大したとしても、その後の家康の采配一つで、どうにでもなってしまいますからね。

「この先、どうなるんだ?」
と、動揺する兵士たちに、
「先の事は考えず、とにかく、今は米沢に帰る事だけを考えよう」
と、兼続は自らが殿(しんがり)の指揮を取る事にします。

殿とは、隊列の最後・・・撤退では最も危険な位置です。

しかも、ただでさえ難しい撤退を、今回は山間の険しい場所で2万という大軍を移動させなければならないわけですから、さらに困難です。

北は敵地ですから、当然、撤退するのは南・・・兼続は、まず3000という兵に命じて、帰路となる狐街道の道幅を広げて整備させた後、慶長五年(1600年)10月1日未明、本陣を置いていた菅沢(すげさわ)に火を放って撤退を開始します。

*先日の「長谷堂城・総攻撃」の時にupした布陣図に方向を加えた物ですが、この図の通り、下(南)に向かっての撤退です↓
Hasedoufuzinzu2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで9月16日の布陣図が開きますので参考にしてください
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の最上は、すでに義光自身が現地に到着し、自ら陣頭指揮を取って、早速、上杉軍の追撃を開始します。

しかし、これは兼続の作戦・・・実は、道を造ると同時に死角も造り、最上勢が追撃してくるであろう両側に鉄砲を持った伏兵(ふくへい・隠れた兵)をしこんでいたのです。

そうとは知らず、怒涛のごとく追撃する最上勢に、真横から一斉射撃・・・ひるんだところを後続部隊が立ち戻って攻撃します。

ころあいを見計らって、再び撤退を始め、追いすがる敵に、また、一斉射撃!

最後尾の水原親憲(ちかのり)溝口勝路(かつみち)が、巧みにこれを繰り返し、最上勢をかく乱させます。

しかし、全体で2万の大軍と言えど、撤退の最後尾はほんのわずか、この場合は、追撃する最上のほうが、圧倒的に数が勝ってますから、しだいに混戦状態となり、隊列は崩れて、両軍入り乱れての戦いに転じていきます。

兼続としては、とにかく手早く引き揚げたい!・・・しかし、敵を目の前に血気はやる兵士たちは、もはや言う事を聞かず、作戦も連携もあったものかと、個々の戦いにのめり込み、無用な戦闘を続けます。

このグチャグチャモードに
「もはや、これまで!」
と、感じた兼続・・・
「敵に殺されるくらいなら、切腹して果ててやる!」
と、自刃を決意します。

そこに、登場したのが、かの前田慶次郎・・・(6月4日参照>>)

「一軍を率いる大将が、死に急いでどうするんじゃ!」
と、兼続を一喝!

「ここは俺らに任せろ!」
と、同じく浪人崩れの宇佐美民部(うさみみんぶ)とともに殿に加わり、前田家伝来の朱柄の槍を手に、敵陣へと殴り込んで、一気に8人を仕留めます。

この慶次郎の行動に、ハタと我に返った上杉勢は、士気を奮い立たせて次々と敵の猛者を倒しつつも、再び撤退劇に集中・・・そこへ、親憲の鉄砲隊が火を吹き、上杉軍は、最大のピンチを脱します。

なおも追撃する敵をかわしながら、なんとか畑谷(はたや)に到着したのは、翌・2日の事でした。

しかし、ここは、まだ、先日最上へ侵攻した時に落としたばかりの敵の城・・・わずかに置いていた守りの兵を収容し、翌・3日には荒砥(あらと)を経て、さらに翌日の10月4日・・・やっと米沢城にたどりつきました(各城の位置関係は、9月9日にupした関係図でご覧ください 別窓で開きます>>

ただ、さすがに、大急ぎの撤退劇・・・最上に侵攻した時に、別働隊として庄内から入った志駄義秀(しだよしひで)下吉忠(しもよしただ)に、この撤退を知らせる事ができていなかったのです。

それでも、義秀は、何とか自力でこのニュースを知り、速やかに本拠の酒田城へと引き揚げましたが、一方の吉忠は、駐留していた谷地(やち)を敵に囲まれて初めて現状を知り、やむなく義光の勧告に従って降伏しました。

この時の死者の数は、最上の言い分と上杉の言い分で少し差がありますが、いずれにしても、撤退した上杉のほうが数が上なのは確か・・・

それでも、撤退戦の場合は、殿が全滅せずに帰還した事だけでも成功と言えるもの・・・関ヶ原での島津がそうであるように(9月16日参照>>)撤退戦で無事本隊が帰還し、被害を最小限に食い止めた功績は、兼続の武名を高めるものとなりました。

かの義光も、兜に銃弾を受け、危機一髪だった事を振り返りながら
「直江くんは、怖がりもせずに心静かに陣を退き、撤退時にも慌てる事なく、むしろ俺らの兵を数多く討ち取って帰還した。
上杉には、謙信公の武勇が、まだ残ってるんやね」
と、敵ながらあっぱれの言葉を残しています。

ところで、冒頭に書いた通り、大河の兼続は、帰還した時、ただただボー然としていましたが、実際の兼続には、ボー然としている余裕はありませんでした。

今後の上杉の行く末は、もはや、家康の手のひらにあるようなもの・・・何とかしなくては!

なんせ、この上杉を揺るがす事態の全責任は、兼続にあるのですから・・・

大河では、今もなお、殿=景勝さんを立てていますが、実際には、この時の上杉の実権を握っていたのは兼続で、ほとんど独裁政治のような体制であったと言われています。

それは、この後、今回の処分の一件で、景勝とともに上洛する際の記録では「供の侍の数が、景勝より兼続のほうが多かった」とされているからです。

主君より多い供侍・・・このありえない状況に、「この時の兼続は、すでに上杉家を乗っ取っていたのでは?」と考える専門家もいらっしゃるようですが、さすがに、そればオーバーとしても、数が多かった事が事実だとすると、やはり、独裁体制に近いものである事は間違いないわけで、そうなると、西軍に組して最上に侵攻した事のすべてが兼続の意志だった事になり、それが、失敗に終った以上、当然、その全責任は取らねばならないのです。

さぁ、武将・直江兼続が、政治家・直江兼続として、その腕を発揮するときがやってきます・・・勝手ながら、個人的には、この長谷堂の撤退を境に、兼続は武将から政治家に変わると思っていますので・・・

ところで・・・
ここまで、「わざとですよね?」と聞きなおしたいくらい、武将としての兼続をナレーションでスルーし続けた大河スタッフ・・・

おそらく、スタッフさんが描きたかったのは、これから先の政治家・兼続ではないのか?と思いますので、今後の大河ドラマの展開に大いに期待したいところですね。

その政治家・兼続さんのお話は、11月28日:上杉景勝の米沢入城へどうぞ>>
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