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2009年10月25日 (日)

総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生

 

元治元年(1864年)10月25日、幕府の追討軍と諸生党に囲まれ、窮地に追い込まれていた天狗党武田耕雲斎が加わり、耕雲斎を総大将とした新たな天狗党が誕生しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久々の天狗党の登場って事で、これまでの経緯を簡単に振り返ってみますと・・・

ご存知、ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)で、国内が開国攘夷(じょうい・外国を排除)かで揺れる中、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ないままアメリカとの条約を結び、反対派を弾圧する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)

そんな中、今は亡き藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)のもと、尊王攘夷思想を掲げる水戸学が根づく水戸藩では、脱藩した一部過激派による直弼の暗殺・桜田門外の変(3月3日参照>>)が決行されますが、彼らの掲げる尊王攘夷は、大老を暗殺しながらも幕府に敬意を表するものでした。

そんな思想を受け継いだのが東湖の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月、筑波山に集結した同志とともに天狗党を結成したのです(3月27日参照>>)

翌・4月、日光で気勢を挙げた後、各地を点々としながらも、倒幕ではなく、あくまで「幕府の方向転換」を要求する彼らでしたが、そんな彼らに幕府は追討軍を派遣、水戸藩内でも保守派による追討軍・諸生党が結成され(4月10日参照>>)7月には下妻で激戦となり、水戸城を占拠した諸生党と、さらに再編制されて大軍となった幕府討伐軍に挟まれた天狗党は・・・(7月9日参照>>)

・・・と、ここまでお話させていただきました。

その下妻の夜襲から1ヶ月後の8月・・・局面は大きく変わります。

水戸藩の第10代藩主・徳川慶篤(よしあつ)事態の収拾に乗り出したのです。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・

慶篤の命を受けた支藩・宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、執政の榊原新左衛門以下数百人を伴い、水戸へと乗り込んで来たのです。

この榊原という人は、もともとは天狗党を鎮めようとしていた人なのですが、諸生党と、それを率いる市川三左衛門が、ここに来て藩内の要職を牛耳る事態となって、市川らを排斥するために同行したのでした。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・2度目

そんな頼徳ら数百人に、さらに尊王攘夷派の農民たちが加わって、彼らは大発勢と呼ばれる集団となります。

さらに、ここに来て、またまた強い味方が登場・・・

やはり諸生党の勢いで、藩の首脳部から追い出された山国兵部(やまぐにひょうぶ)武田耕雲斎(こううんさい)様ご一行です。

兵部は、天狗党の大将・田丸稲之衛門(いなのえもん)の実の兄で、以前、天狗党が太平山(栃木県)を本拠地としていた頃に、挙兵をやめるように説得しに来た人ですが、その時も、挙兵に反対しながらも、天狗党が目指すその姿勢には理解を示していた人でした。

耕雲斎は、小四郎の父・東湖とも友人関係にあり、先代水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の信頼も厚く、最近では、京都にて徳川慶喜(よしのぶ)を補佐する重要な役職にもついていた頼もしい人で、小四郎が天狗党結成に際に、一番参加を希望した人でもありました。

しかし、その時は、「時期が早い」として天狗党には入らず、藩内の立場上、尊王攘夷派の鎮圧にあたったりしていましたが、ここに来て、やはり、「武力を以ってしか、藩内の保守派に対抗できる手段はない」との判断に至って、頼徳らに合流したのでした。

こうして、約3000の集団に膨れ上がった彼らは水戸城へと向かいますが、水戸城を占拠する市川以下諸生党は、徹底抗戦の構えを見せ、「もし、入城するなら頼徳1人だけ・・・」と言って聞きません。

そんなもん、彼らが占拠する城内に、頼徳がただ1人で入れるわけがなく、やむなく彼らは、歴代水戸藩主の別荘地である那珂湊(なかみなと・ひたちなか市)へと向かいます。

そして、ここ那珂湊で小四郎ら天狗党も、彼らに合流します。

やがて8月半ば頃から、那珂湊を本拠地に激戦を繰り返す彼らでしたが、いずれも一進一退・・・9月からは幕府軍艦による海上からの攻撃も加わり、諸生党・幕府軍・幕府海軍と、3面からの執拗な攻撃に、藩主別荘だった彙賓閣(いひんかく)や、先代・斉昭が作った反射炉など、多くの建物が焼失してしまいますが、それでもなお、彼らは踏ん張ります。

しかし、江戸藩邸にいて動けない慶篤から、一命を受けている頼徳さん・・・自らの意思で参加している他の人とは違い、彼には、事態の収拾という使命がありますから、こうして一進一退を繰り返してばかりではどうにもなりません。

10月に入り、「何とか打開せなば・・・」と、江戸への弁明もあって、幕府の陣営へと出頭するのですが、案の定、水戸城にて拘束され、10月5日には切腹させられてしまうのです。

幕府側は、この頼徳の死を隠したまま、10日と17日に総攻撃をかけますが、この作戦は幕府の負け・・・しかし、まだまだ一進一退の状況は続きます。

そして、
いよいよ長い長い戦いに耐え切れなくなる人が・・

そうです、上記の通り、未だ彼らは、大発勢+兵部+耕雲斎+天狗党で、統一戦線は組んでいるものの一枚岩ではなかったのです。

ここに来て榊原以下・大発勢1154名が、天狗党の征伐を条件に、幕府側に投降・・・残ったのは、小四郎以下・天狗党、兵部とその支持者、耕雲斎とその支持者・・・。

多勢に囲まれた彼らは、絶体絶命のピンチを向かえ、逆に結束を固める事を決意するのです。

元治元年(1864年)10月25日、何とか那珂湊を脱出した1000名ほどの集団は、北方の大子(だいご・茨城県久慈郡)に、ふたたび集結・・・ここに、耕雲斎を総大将とする新たな天狗党が誕生するのです。

時に耕雲斎・62歳・・・小四郎・23歳、親子ほど歳の離れた同志は、ここでやっと一つになれたのです。

実際には、自由奔放な性格だった父・東湖と、父より3歳年上でカタブツの耕雲斎・・・しかし、この時ばかりは、小四郎も、そんな耕雲斎に、亡き父の頼もしさを見てとった事でしょう。

こうして、新たに生まれ変わった天狗党ですが、もはや水戸城を奪回する事は不可能・・・

こうなった以上は、亡き斉彬の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている慶喜に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。

  • 総大将:武田耕雲斎
  • 大軍師:山国兵部
  • 本陣  :田丸稲之衛門
  • 輔翼  :藤田小四郎
         :竹内百太郎・・・

1000名余りの行軍の先頭にひるがえるは、
「攘夷」
「魁
(さきがけ)
「日本魂
(やまとだましい)の旗々々・・・

いざ、京都へ!

・・・と、この話の続きは、天狗党が大子を発つ11月1日のページへどうぞ>>
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コメント

水戸黄門こと徳川光国(旧字で出ません)が、既に「日本は天皇が治める国だ」と言う、勤皇思想を持っていたと言われます。これは大日本史編纂の作業の中で抱いたと思います。「武家の棟梁」の徳川一族である水戸黄門が、勤皇思想を持つのは矛盾していると言えますが、末裔の徳川慶喜が大政奉還した事で「筋を通した」と言えます。
徳川慶喜の葬儀や命日の供養は神式で行われています。
ただ、この幕末の「攘夷派」の人たちは考え方が微妙に違っていて、幕府に対しても異なる提言(「鎖国維持派」だけではない)をしています。
幕末に積極的に開国を支持した人はいなかったのでしょうか?大河ドラマでは、幕府内のほとんどが「開国反対」と見られます。

投稿: えびすこ | 2009年10月25日 (日) 14時48分

えびすこさん、こんにちは~

徳川光圀が天皇家を主君としていた事は、すでに何度か書かせていただいてしますが、なぜ、水戸がそうなったのか?の私的見解については2009年の1月6日のページ>>
を読んでいただけるとありがたいです。

>徳川一族である水戸黄門が、勤皇思想を持つのは矛盾している

については、倒幕につながると尊王攘夷思想と、「水戸学」の尊王攘夷思想は微妙に違うので、矛盾するとは考えておりません。
それは、水戸学においては「尊王攘夷こそが徳川のため」という事なのですが、その事に関しては本日のページからもリンクを張っている10月2日>>に書いておりますので、また見てみていただけるとウレシイです。

文中にも書いております通り、今回の天狗党は、水戸学がベースになってますので、尊王攘夷でありながら幕府にも敬意を表しています。

最後に、佐久間象山や井伊直弼は開国派ではないでしょうか。

投稿: 茶々 | 2009年10月25日 (日) 15時43分

筑波山は、北関東に住む者にとっては馴染みの山。学校の遠足で行く山でもありますが、天狗党 の話しを聞くことは、殆ど、無いです。
‘ガマの油’、というのが有名で、その‘ガマの油売り’の口上なら、一度か二度は聞いたことがありますよ。
そして、筑波山のおみやげと云えば、ガマガエルの置き物です。
又、筑波山は桜の名所でもあるのですが、桜の名所と云えば 又、栃木の太平山も有名です。
天狗党の皆さんは、桜の花見など、その人生の中で楽しんだことはあったのでしょうか・・・、弁当を持って遠足に行く、そんな楽しみも、経験したことはあったのでしょうか・・・、

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年10月27日 (火) 17時47分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

そうですかぁ・・・
未だ筑波山にも太平山にも行った事がありませんが、きっと美しいところなのでしょうね。

>天狗党の皆さんは、桜の花見など・・・

どうでしょうね~
以前、京都の川床の歴史をご紹介したページで、清河八郎が「鴨川の川床、最高!」って楽しんでいた話をさせていただきましたが、清河が楽しんだという事は、新撰組の皆さんも楽しんだのかな?なんて想像してしまいます。

ひょっとしたら、この時代の人は、ONとOFFの使い分けが上手だったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年10月27日 (火) 23時59分

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