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2009年10月 7日 (水)

井伊直弼の女スパイ・村山たか

 

安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄橋本左内らが死刑となりました。

・・・・・・・・・・・・

安政の大獄の事、それを断行した井伊直弼(いいなおすけ)の心情などは、以前書かせていただきました(2006年10月7日参照>>)

3年も前の記事で、今となっては、まだまだ書き足りない部分はあるのですが、とりあえず、本日は、安政の大獄当時、直弼の手足となって暗躍した女スパイとも言うべき存在・・・村山たか(たか女)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…

村山たかは、文化七年(1810年)、近江国(滋賀県)多賀神社般若院の僧と彦根の芸妓との間に生まれ、多賀神社の神官に預けられて育ちます

彼女はたいへんな美人だったとの話ですが、それを裏付けるかのように、18歳の頃、時の彦根藩主・井伊直亮(なおあき)に見初められて愛妾となります。

しかし、それは長くは続かず、まもなく暇を出されて、京都で芸妓に出ます。

可寿江(かずえ)という源氏名で、なかなかの人気芸者だったようですが、金閣寺の僧との関係で妊娠し、寺侍の多田源左衛門に譲り渡されますが、出産と同時に子供ともども離縁されます。

そんな頃、彼女は、井伊直弼(いいなおすけ)再会します。

再会・・・というのは、そう、彼女の最初の相手だった直亮は、直弼の兄・・・その当時は、埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれた住まいで、未だ学問三昧の日々を送っていた直弼であっても、彦根城の掘一つ隔てた所に暮らす兄の愛妾の事を知らぬはずはなかったでしょう。

いや、むしろ、その美しさを憧れのまなざしで見ていたのかも知れません。

今は、あれから10年余り・・・勉学に夢中の14~5歳の少年・直弼は25歳の立派な男になり、たかは、その美しさに色気が加わった女ざかりの30歳・・・ふたりが男女の関係になるのに、時間はいりませんでした。

しかし、間もなく、二人は絶縁状態となります・・・いや、絶縁したように見せかけました。

直弼が側室を迎えたからだとも、たかが彼の子供を出産したからだとも言われるこの別れ・・・「たかとの縁をを切りたい」という内容の家臣への書状も残っていますが、おそらく、これは、世間を気にしてのポーズであって、二人の関係は密かに続いていたと思われます。

やがて、たかは、直弼の国学の師であった長野主膳義言(しゅぜんよしとき)と心を通わせるようになります。

たまたま主膳が多賀神社に参拝した時に出会い、話をするうちに彼女が直弼ゆかりの女性である事を知り、その悲しい生い立ちや悲恋の物語に同情したのか?、あるいは、今なお美しいたかの魅力にハマったのか?、その心の内は計り知れませんが、とにかく、主膳&たか、ともに、こののち、直弼の手足となって動くようになるのです。

兄・直亮の養子が病死した事で、彦根藩36万石を継ぐ事になった直弼は、天皇の許しを得ずに行った日米修好通商条約の調印問題、また徳川幕府の将軍の後継ぎ問題に揺れ動く幕府の大老という役職につきます。

日に日に激化する尊王攘夷派の動き・・・多賀神社にいた幼い頃から歌舞を仕込まれ、プロの芸妓として活躍していたたかは、どんなお屋敷にも怪しまれる事なく入り込め、様々な情報を収集する事が可能でした。

この情報をもとに、直弼は、安政六年(1859年)10月7日橋本左内をはじめ、吉田松陰(しょういん)(10月27日参照>>)など、80人近い人物が処罰される事になる安政の大獄という大弾圧を断行するわけです。

しかし、ご存知のように、この事で尊王攘夷派の反発のターゲットとなった直弼は、安政七年(1860年)3月3日、桜田門外にて暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

2年後の文久二年(1862年)の8月には、主膳も彦根藩によって斬罪にされる中、もちろん、たかの身にも危険が迫ってきます。

同じ年の11月、土佐と長州の尊王攘夷派に隠れ家を襲撃されたたかは、「女の身であるゆえ死罪一等を減ず」と称して、京都・三条大橋の橋脚に縛りつけられ、生きさらしにされてしまいます。

Takakonpukuzi2 本来、生きさらしとは、そのまま息絶えるまで、通りがかる人々に罵倒されるるものですが、この時のたかには、やじ馬の視線にはさらされるものの、実際に暴行を働く者はいなかったと言います。

当時、50歳・・・未だ、衰えぬ美貌であったからなのか?、真冬の川風に吹きさらしの状況では、そう長くはないと思われたのか?

翌日には、主膳の門下生となっていた金閣寺の僧との間にできた彼女の息子・帯刀も捕まり、さらし首にされてしまいます。

確かに、大弾圧の片棒を担いだとは言え、この時の彼女の心境はいかばかりであったでしょうか。

しかし、さらされてから三日後、彼女に手を差し伸べる人がおりました。

百々御所(どどのごしょ)と呼ばれる宝鏡寺(11月19日参照>>)の尼僧でした。

助けられたたかは、剃髪して妙寿尼と号し、その後は、東山山麓の金福寺(こんぷくじ)で、直弼や主膳の菩提を弔いながら、静かな晩年を過ごし、明治九年(1876年)、67歳でこの世を去ったという事です。

金福寺には、彼女が三条大橋でさらされた時の肖像画(↑)とともに、彼女が生涯大切にしていた直弼直筆の和歌の書かれた掛け軸が残っています。

♪柴の戸の しばしと云(い)いて もろともに
  いざ語らわん 埋火
(うずみび)のもと ♪ 直弼

波乱に満ちた彼女の生涯・・・ただ一つの支えは、埋木舎で過ごした直弼との、わずかな時間であったのかも知れません。

橋本左内については2012年の10月7日のページでどうぞ>>
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんにちわ。
安政の大獄の裏では一人の女の人生が時代に振り回されていた・・・う~ん、歴史って最高!
しかし晩年のたかさんの心境はいかほどだったのでしょう?江戸幕府消滅・戊辰戦争ect.ect。「ざまぁ~、見ろ」という気持ちなのか?いやっ、茶々様の想像通り、幸せな時代を思い出しつつ安らかに過ごしたことを祈りたいですね(ρ_;)

投稿: DAI | 2009年10月 7日 (水) 14時23分

こういう歴史の表舞台に出てこない人のエピソードは、とくに女性だと胸を打ちます。何人もの身分のある男性の心をとらえたのは、美しいだけでなく頭もよろしかったのでは?  京都の11月はさぞ寒いでしょう。そんな時期川っぺりでずっと立ちつくし、息子はさらし首・・・でも救いの手が差し伸べられるんだからラッキーでしたね。晩年は安らかだったみたいで良かった。私、こういう無名の人を主人公にした歴史ドラマを見たいんですけどね。

投稿: Hiromin | 2009年10月 7日 (水) 15時07分

DAIさん、こんばんは~

事件の陰に女ありと言いますが、こういうお話を聞くと、ホント歴史って最高!ですよね。

やはり、心安らかであった事を祈りたいですね。

投稿: 茶々 | 2009年10月 7日 (水) 19時07分

Hirominさん、こんばんは~

いくら怪しまれずとも、情報収集なんて簡単にできませんから、やはり、頭のいい人だったんでしょうね。

才色兼備な女スパイ・・・ぜひともドラマを見てみたいものです。

投稿: 茶々 | 2009年10月 7日 (水) 19時09分

村山たかという女性については詳しくは知りませんが、長野主膳&宇津木六之丞という藩士の2人が、井伊直弼の死後に家督を継いだ、井伊直憲という最後の彦根藩主と、勤王路線を主張する、岡本黄石という彦根藩の家老とその一派によって、直弼をたぶらかした不埒者にして、彦根藩を混乱に陥れた反逆者として、斬首及び打ち捨ての刑にされたことで、惨めな最期を遂げたことを記憶しています。たかという女性が、さらし者にされたのは、当然でしょうが、直憲や黄石の一派の意向によるものであることは間違いないでしょう。直憲らにとって、主膳&六之丞&たかの3人は、絶対に許すことができない面々だったのだと思います。余談ですが、直憲や黄石の一派は、大政奉還後は、積極的に新政府を支持したそうです。しかも、岩倉具視&大久保利通は、直憲らが新政府支持を表面したことに対して、もの凄く喜んだらしいです。

投稿: トト | 2015年11月19日 (木) 10時34分

村山たかという女性については詳しくは知りませんが、長野主膳&宇津木六之丞という藩士の2人が、井伊直弼の死後に家督を継いだ、井伊直憲という最後の彦根藩主と、勤王路線を主張する、岡本黄石という彦根藩の家老とその一派によって、直弼をたぶらかした不埒者にして、彦根藩を混乱に陥れた反逆者として、斬首及び打ち捨ての刑にされたことで、惨めな最期を遂げたことを記憶しています。たかという女性が、さらし者にされたのは、当然でしょうが、直憲や黄石の一派の意向によるものであることは間違いないでしょう。直憲らにとって、主膳&六之丞&たかの3人は、絶対に許すことができない面々だったのだと思います。余談ですが、直憲や黄石の一派は、大政奉還後は、積極的に新政府を支持したそうです。しかも、岩倉具視&大久保利通は、直憲らが新政府支持を表明したことに対して、もの凄く喜んだらしいです。

投稿: トト | 2015年11月19日 (木) 10時37分

トトさん、こんにちは~

幕末維新は、わずかの間に政局が変わるので、藩中の誰か(一部の人間)を盾にして藩主を守り、生き残っていくしかありませんからね~

投稿: 茶々 | 2015年11月19日 (木) 17時53分

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