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2009年10月 8日 (木)

将軍・吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主・徳川宗春

 

明和元年(1764年)10月8日、徳川御三家・尾張藩第7代藩主の徳川宗春が69歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

徳川宗春(むねはる)は、元禄九年(1696年)、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠(つななり)19男として名古屋城にて生まれました

19男という性質上、梁川藩(やながわはん・福島県)3万石を与えられ、第4代藩主となっていましたが、兄・継友(つぐとも)死去にともなって尾張徳川家を継ぐ事となり、第7代藩主として享保十六年(1731年)、36歳で名古屋城へ入りました。

・・・と、言っても、一般的には「それ、誰やねん!」の世界ですが、この宗春さん、知る人ぞ知る有名な逸話をお持ちです。

それは、江戸中興の英雄と言われる暴れん坊将軍こと第8代徳川吉宗(よしむね)に、唯一、刃向かった藩主なのです。

遊興にふけって贅沢三昧をしたあげく、蟄居(ちっきょ・隠居して幽閉)へと追い込まれ、罪人として扱われた事で、以前は、江戸幕府を立て直した名君にたてついた極悪人のように思われていた宗春さんですが、ここのところ、少し違った見方が出てきているようです。

・・・と言うのも、以前、このブログでも書かせていただいたように(6月18日参照>>)、吉宗の享保の改革100%すばらしい改革ではなかった事がわかってきて、そうなると、反発した宗春にも、それなりの意見という物が、見え隠れするようになってきたからです。

そもそも、吉宗の享保の改革が財政難に陥っていた幕府を立て直したと絶賛されたのも、幕府の記録によるところからきているわけで、確かに、幕府にとって良い改革だったかも知れませんが、それが、そのまま一般庶民にも良い改革だったかどうか・・・いや、むしろ、重税を課せられるようになった農民は、困窮に拍車がかかり、間引きという悲しい行為もしなくてはならなかったわけです。

そんな吉宗は、増税とともに、倹約令も発布しています。

「お金がないのだから節約しよう」という事ですが、宗春は、これに真っ向から反対します。

「贅沢は必要悪」とばかりに、倹約とは正反対のような藩政の改革を行います。

まずは、芝居・歌舞伎・能といった芸能や相撲の興行を解禁し、藩祖・義直(よしなお)以来禁止されていた遊郭の設置も公認・・・

さらに、自らが率先して華美な服装を身にまとい、数千人を踊り子を招いて大宴会を開いたり、仮装パ-ティで庶民とふざけ合ったり・・・

もちろん、これは、単に贅沢をしたいからやったというバカげた物ではなく、そこには、しっかりとした宗春の理論が底辺にあります。

彼の記した『温知政要(おんちせいよう)は、「極端な倹約ばかりでは、かえって庶民を苦しめる事になり、結局は無益となってしまう」という事が、理論的に述べられている名著です。

実際に、倹約令で低迷していた名古屋の経済は活気づき、「京の都より繁栄している」と噂されたくらいの賑やかさを取り戻しています。

その他にも、咎人の処刑を禁止・・・いわゆる死刑廃止論のような斬新な政策も実践していて、彼が、ただのバカ殿ではない事は明白です。

ただ、ちょっとやり過ぎた事も確か・・・結局は、藩政は赤字となり、新たな税を徴収するしかなくなって民衆の心も離れ、贅沢令とも言うべき数々の政策も見直しを余儀なくされてしまいます。

そこには、吉宗に対する個人的な反発も含まれていると言われますが、その通り、本来なら、将軍家の後継ぎが耐えた時のサポートとしての役割も持つ御三家・・・その中での筆頭は、家康の9男・義直を祖とする尾張だったわけですが、その尾張の第4代藩主である兄・吉通(よしみち)を差し置いて、なんだかんだで紀州の吉宗が8代将軍になってしまっわけで(8月13日参照>>)、そこに、個人的恨みが少なからず影響していた事も、なきにしもあらずです。

しかし、やり過ぎは吉宗のほうも同じ・・・過度な増税と倹約は、米価の暴落を招き、各地で一揆や打ちこわしが続発し、結局は行き詰って、最終的に老中・水野忠之らの尽力によって、「とりあえず成果をあげたんじゃない?」程度の結果となってしまいました。

ただ、願わくば、宗春さんの政策のほうも、最後の最後までやらせてあげて欲しかった・・・そうなんです、上記のように、吉宗の享保の改革のほうは、最後の最後で一応の成果が見られたわけですが、宗春の政策のほうは、吉宗の怒りを買い、宗春が蟄居させられた事によって、途中でストップしてしまうわけです。

ひょっとして、もう少し時間の猶予があれば、改変に改変を重ねて、見事な成功を収めていたかも知れません・・・いや、当代きっての知識人の彼なら、そうなった可能性大だと思います。

そんな、可能性を秘めながらも、将軍に反発した事で叛逆人として扱われ、かの名著も発禁となり、亡くなった後も、その墓石には罪人の証である金網が掛けられていたのだとか・・・

宗春の名誉が回復するのは、彼の没後75年経った天保十年(1839年)・・・第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の息子・斉荘(なりたか)が第12代尾張藩主になった時でした。

もちろん、その時に、金網も撤去されました。

もしかしたら、あの吉宗よりも、暴れん坊で名君だったかも知れない宗春さん、汚名を返上できて、ホッと、胸のつかえが取れた事でしょうね。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

時代劇は勧善懲悪がワンパターン。宗春の存在は暴れん坊将軍のヒーロー振りを際立たせるのに、出来すぎと云いたくなる程で、それはそれで 私は、褒めてしまいそうです。
・ ・ ・、金は天下の回り物、持っている人はケチケチせずに、奮発してどんどん使ってくれた方が有り難い、私もそう思います。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年10月 8日 (木) 10時20分

おはようございます、茶々さま。
他所では無名かもしれませんが、名古屋では超有名人、宗春公を取り上げていただき、ありがとうございますo(*^▽^*)o
心中禁止令に反発して、死に切れなかった二人の両親を説得して一緒にさせてやった、なんて粋な計らいもなさったとか。
昔の大河ドラマで中井貴一さんが演じていらしたのがよく似合っていてステキでした(*^-^)

投稿: おきよ | 2009年10月 8日 (木) 10時26分

重用の節句を祝うさん、こんにちは~

ホントです。
ばら撒くしか能がない政府・・・もっと斬新な政策で、金を天下に回らせていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2009年10月 8日 (木) 10時57分

おきよさん、こんにちは~

>名古屋では超有名人・・・
そう思って一応「知る人ぞ知る」と付け足させていただきましたが、「それ誰やねん!」とは、ちょっと失礼でしたm(_ _)m

>粋な計らいもなさった・・・
きっと、名古屋には、まだまだ宗春さんの名君的逸話が残されているのでしょうね。

何とか、名誉回復された事だけが救いです。

投稿: 茶々 | 2009年10月 8日 (木) 11時02分

(;ω;)茶々様、こんにちわ!
徳川 宗春、知らなかった・・・。でもなんか性格的に合いそうな気が・・・(私はケチですが遊ぶの大好きなので)(*´v゚*)ゞでもこのような殿様がいたと想像するだけで楽しいですね。重用の節句を祝うさんが言うように節約だけでは経済が活性しない・・・、しかし贅沢三昧ではただの浪費・・・。申し少し経済効果を見守りたっかた事でしょう

投稿: DAI | 2009年10月 8日 (木) 15時04分

DAIさん、こんばんは~

そうなんですよね~
もう少し時間があれば、倹約と贅沢の合間をぬって、しっかりとした効果をを発揮していたかも知れないと思うと残念ですね。

投稿: 茶々 | 2009年10月 8日 (木) 17時54分

茶々さん、今晩は。そちらの方は台風どうでしたか?
彦根城の石垣が一部壊れたようですね。ってここでのコメントではないですね。

本当に吉宗は不思議ですよね。
本来なら紀州藩主にも成れない人間が、トントン拍子で将軍になり、将軍になったら質素倹約の名の下に増税をして、極めつけは御三卿まで作って将軍職まで牛耳ろうとしたんですからね。
一般的には迷将軍だと思うのですが。

多分、宗春の方が当時の支持率は高かったのではないでしょうか。

宗春のお墓にまで冒涜したのは宗春の人気に対する嫉妬ではないですかね。

と勝手な想像をしてしまいました。

投稿: シンリュウ | 2009年10月 8日 (木) 20時53分

シンリュウさん、こんばんは~

>彦根城の石垣が一部壊れた・・・
えぇupそうなんですか?
それはエラいこってす

>宗春の方が当時の支持率は高かったのでは・・・
やっぱり、そうですよね~
増税と倹約で、あまりに評判を落として、不満の矛先を変えるための作戦ではないかと・・・

投稿: 茶々 | 2009年10月 8日 (木) 23時39分

天才も理解者を得られなければ、異端者として排斥されてしまうんでしょうね。
ひとり時代の先を行く発想ができても、ついて来れる人手がいなければどうにもならないわけで。

藩政改革に成功した名君、とやらはどこの藩史にも一人や二人必ず出てきますが、どれもこれも質素倹約と称して市民の経済活動を統制し、奨励と称して管理下で売れ筋の特定の商品生産に注力させて一時的に税収を上げる、という発想から抜け出たところはありませんでした。
「藩の財政を立て直した」・・・笑わすな、です。一時的に立ち直るのは藩の財政だけで、代償に倹約と称して経済規模を縮小されたり、右へ倣えで先行き不安定な流行りものへの就業転換を強いられる領民の生活はたまったものではなかったでしょう。まさに現場を知らぬお上の発想。(だから私はあの上杉鷹山が名君だ、と言われても素直には認められないのです)

そのただ一人の例外が、尾張宗春公だった、と思っています。

別に名古屋市民でも愛知県人でもありませんが、成就させてあげたかったです。

投稿: 黒燕 | 2009年10月 9日 (金) 22時52分

黒燕さん、こんばんは~

私も、学校の歴史で習った頃には「幕政を立て直した」「藩政を立て直した」と言われると、素直に「そうなんだ」と思っていましたが、大人になってイロイロ読んでみると、それは全部、幕府や藩の言い分なんだという事に気づきました。

庶民の言い分は記録として残らない事が多いので、庶民の側からみて本当に改革が成功したかどうかは微妙なところですね。

>そのただ一人の例外が、尾張宗春公だった・・・
確かにそうかも知れません。

投稿: 茶々 | 2009年10月10日 (土) 01時30分

15年前の「八代将軍吉宗」での中井貴一さんで有名ですね。あの番組は吉宗・忠相・宗春の3人が始めて(主要人物として)大河ドラマに登場した作品でもあります。後にも先にも「吉宗」だけですね。
今名古屋市長の河村たかし氏が、「市民税減税」をやろうと躍起になっていますが、この発想は宗春と同じでしょうか?「減税=内需拡大=公共投資」と言う発想ですね。
7日時点で「記載888人」ですが、900人は年内にできそうですか?

投稿: えびすこ | 2010年10月 8日 (金) 11時06分

えびすこさん、こんにちは~

ファッション雑誌でモデルをやろうがやるまいが、とにかく今の政治家さんには、「金は天下の回り物」って雰囲気にしていただきたいです。

このままだと、ウチには回ってきません(p_q*)

>7日時点で「記載888人」

もう、大概の人は出ちゃってますから、難しいかも知れません…

投稿: 茶々 | 2010年10月 8日 (金) 14時29分

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