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2009年10月15日 (木)

後継者へのパフォーマンス~秀吉演出の信長の葬儀

 

天正十年(1582年)10月15日、羽柴秀吉が、去る6月2日に亡くなった織田信長の葬儀を、京都・大徳寺にて盛大に行いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦国最大のミステリーと言われる、ご存知、本能寺の変・・・これまで、このブログでも、何度となく書かせていただきました。

良い機会なので、ここで、本能寺関係の記事へのリンクをまとめさせていただいときます・・・気になるのがあったら読んでみてくださいな。

世の中には、まだまだ・・・
「イエズス会・黒幕説「朝廷・黒幕説」「光秀・うつ病説」・・・などなど、多くの仮説があり、今後も、おりにふれて、このブログでご紹介していきたいと思いますが・・・

私の個人的見解としましては、愛宕山の連歌会やタイムラグのところで書かせていただいたように、光秀のこの謀反に計画性はなく、あくまで突発的であり、かつ、天下を取る目的ではなかったと判断しております。

・・・と、その部分は、今のところ揺るぎないのですが、こと動機となると、これが、まったくわからない・・・もちろん、わからないからミステリーなんですが・・・

信長の光秀に対する仕打ち的なものは、ほとんど後世の創作だと思っていますし、むしろ、光秀は、中途採用のわりには、一番優遇されていました。

信長の行動に、さしたる原因がないとすれば・・・何となく、鬱の傾向があり、更年期障害も相まって、その時の光秀は、被害妄想的な心境におちいっていたのではないか?と思いますが、それこそ、そのような病気は、ご本人すら気づいていない可能性もあり、そうなると、もはや想像するしかないわけですが・・・

とにもかくにも、この明智光秀という人のおかげで、天下に一番近い位置にある座席が、空席となってしまったわけで、信長の息子たちと家臣たちによるイス取りゲームが勃発する事となります。

・・・で、この時、京都の一番近くにいて、一番先に信長の死を知った徳川家康決死の伊賀越えを試み(6月4日参照>>)、その次にニュースを聞いた豊臣(羽柴)秀吉中国大返しをおっぱじめ(6月6日参照>>)、北陸の柴田勝家魚津城を落とした翌日に、主君の死を知る(6月3日参照>>)・・・。

滝川一益北条に足止めされ(6月18日参照>>)森長可(ながよし)武田の残党をなぎ倒し(4月9日参照>>)、四国征伐の準備中で堺にいた信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)丹羽長秀(にわながひで)野田城(大阪市福島区)津田信澄を襲撃する(4月16日参照>>)・・・。

そして、ご存知のように、この中で、誰に邪魔される事もなく、中国から舞い戻った秀吉が、信孝を大将に据え、あの山崎の合戦で光秀を倒した(6月13日参照>>)事で、織田家内での、秀吉の名声が高まった事は間違いありませんが・・・とは言え、そう簡単に家中の序列が変わるものでもありません。

以前、小牧長久手の戦後交渉で、見事に家康の上をいった秀吉を「人たらし」の天才であると書かせていただきました(10月17日参照>>)が、この「人たらし」というのは、いわゆる「人を騙す」というよりは、「いつの間にか、何となく、知らないうちに、そっちの方へ持ってってしまう」という感じでしょうか・・・。

その最たるものが、この信長亡き後の後継者争いでの、清洲会議と、検地の開始と、そして、本日の信長の葬儀だと思います。

もちろん、世は戦国ですので、のちのち賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)信孝の自刃(5月2日参照>>)といった血なまぐさい出来事も起こりますが、その最終段階の前に、極力、自分の有利な方向へともって行く「人たらし」のテクニックは、他に類を見ない見事なものだと思います。

まずは、信長の死から半月後に行われた清洲会議で、信孝と彼を推す勝家に対して、信長とともに死んだ長男・信忠の遺児・三法師を推して信孝が後見人となる事を提案し、会議の前の根回しを怠らず、見事、後継者を三法師に決定させます(6月27日参照>>)

この時、三法師は、わずか3歳ですから、当然、周囲の思うがまま・・・また、そのすぐ後に行われた領地配分では、弔い合戦の功績からか、秀吉自らが采配をふるっています。

そのすぐ後の7月8日は、近江(滋賀県)にて初の検地を行い、自らが号令する立場にある事をアピール(7月8日参照>>)

かくして天正十年(1582年)10月15日、京都・大徳寺にて行われた信長の葬儀・・・という事になるのですが、この法要自体は、10月11日から17日まで、7日間に渡って行われ、その中の15日に葬儀という事です。

軒や欄干に金や銀を散りばめた豪華な葬儀殿に、金紗金襴で包まれた、これまた豪華な棺・・・。

その後ろに、秀吉自らが信長の太刀を持ってうやうやしく従い、さらに後ろには3000名に及ぶ烏帽子や藤衣(ふじごろも)の装束に身を包んだ出席者・・・。

そして、火葬場への道筋には、弓・槍・鉄砲をたずさえた3万の警護の侍が配置され、その見物人の数は、ハンパじゃなかったと言います。

この秀吉ならではのド派手な演出は、織田家内にも、そして、世間の一般民衆にも、信長の後継者が誰であるのかを知らしめるパフォーマンス=人たらしのための演出だったわけです。

ちなみに、ご存知のように、信長の遺体は見つかっていませんから、この葬儀の時の棺の中には、信長をモデルに造らせた木像が入っていたと言われています。

そして、もう一つ、この大々的な葬儀に、信孝&勝家はもちろん、次男の織田信雄(4月30日参照>>)も招待されていません。

確かに、信長の四男を喪主としていますが、その四男=秀勝は、秀吉の養子となった、もはや、その名分を利用される羽柴家の人・・・この先を予感させる、秀吉のパフォーマンスでしたね。

追記:秀吉が信長の葬儀を行った大徳寺総見院(そうけんいん)史跡めぐり=特別公開日記2011年3月7日のページでどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

家督を継げなかった信雄は、70歳まで生きて信長の息子では、最後まで生き残った人です。
フィギュア選手の織田信成君が、この信雄の血筋上の末裔で、先日本能寺で先祖供養を行いました。
「天地人」が終盤に来て、視聴率が伸び悩んでいます。先週は朝ドラの「ウェルかめ」の週間最高(その日は台風の上陸日で、その影響もある)を下回り、4週連続で20%以下です。大阪の陣の回でもう1回25%を超えてほしい。
若い男性に人気がないのかな?女性には好意的に受け止められますが…。

投稿: えびすこ | 2009年10月15日 (木) 14時35分

えびすこさん、こんばんは~

織田信雄さんが73歳の天寿を真っ当した事は、昨年のご命日に書かせていただきました~

この戦国乱世にあって、ホント彼は憎めない人です。

投稿: 茶々 | 2009年10月15日 (木) 18時13分

茶々さん、こんばんは!

本能寺は信長ファンにとっては痛恨の出来事ですね。
信長が天下を取ったら、どんな時代になっただろうかと、つい考えてしまいます。

その本能寺ですが、私は秀吉が絶対に絡んでいたと思います。
理由は、秀吉がどうして本能寺を知ったかです。
一般的には、光秀が毛利に送った密書を持った使者が間違えて秀吉に陣に入ったからだといわれてます。
でも、これもかなり胡散臭いと思うのですが、もっと不思議なのは、秀吉はこの密書をすぐに信じてすぐに行動に移しているところです。
この時代は特に相手を騙すのために手紙をかなり書いたといわれてます。
黒田官兵衛がいるにもかかわらず、この密書を疑わないで行動した秀吉は絶対に何かを知っていたと思います。

秀吉は光秀を監視していたのではないですか。
必ず光秀が謀反を起こすことを知っていたような気がします。
だから、茶々さんが秀吉黒幕説に書いた通りの準備万端に行動が起こせたような気がします。

そこに何があったか。やはり、当時信長と微妙な中になった朝廷が一枚噛んでいる気がするんですよね。
朝廷と光秀、朝廷と秀吉どちらも上手くいってますから。

2年か3年前に秀吉のことを研究していた方が書いた本を読んだ時になるほどと思って今回コメントに記載させていただきました。

投稿: シンリュウ | 2009年10月15日 (木) 22時42分

シンリュウさん、こんばんは~

やはり、サスペンスのセオリー通り、一番得したヤツが怪しいって事で言えば、秀吉が一番得してますからね~

投稿: 茶々 | 2009年10月16日 (金) 03時36分

『織田信成』でググったら、チョンマゲ姿の写真(コラかな?)を発見。似合いすぎ。

本能寺の変については、考え始めると止まりませんね。
私の意見は、茶々様とほぼ同じです。
ただ、光秀の動機については、存在しないと思っています。
そう思ったきっかけは、上にリンクを貼ってある
『'08/6/2:数時間のタイムラグを埋める物は?』です。
この“誰かがニセの情報を流した”に痺れました。
失敗しても、痛手は少ないでしょうし。
では、“誰が?”については、安国寺恵慶が私の一押しです。
...妄想なのでコロコロ変わりますが。

信長の葬儀は、例えると
社長の社葬に、専務と家族を呼ばないということですよね。
......!!
大事件だ!秀吉、怖えェ。

投稿: ことかね | 2009年10月16日 (金) 11時42分

ことかねさん、思わずググッてしまいました(爆)

>安国寺・・・

まさに、怪僧ですな・・・

私も、コロコロ変わります(*´v`*)
妄想は尽きませんもんね。

投稿: 茶々 | 2009年10月16日 (金) 12時41分

こんばんは。
いつも大変楽しみに拝読させていただいております。
大昔の記事にコメントさせていただいたのは、この葬儀の件がどの史料に載っていたのか失念してしまい、ご存じであればご教授いただきたいと思ってのことです。
この葬儀に丹羽長秀や池田恒興、蜂屋頼隆、金森長近あたりの織田宿老が参加したのかが知りたいのです。

投稿: 木村美作守 | 2016年6月25日 (土) 03時17分

木村美作守さん、こんにちは~

そうですね。
確か『甫庵太閤記』と『絵本太閤記』には葬儀の記述があったように記憶してますが、『川角太閤記』には記述があったかどうか…
いずれも、順にお焼香する場面等で「宿老らは…」とか「諸侯の面々は…」というような書き方だったように思います。
記憶が曖昧で、申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2016年6月25日 (土) 15時20分

ご返事ありがとうございます。
面子について詳しく記述が無かったような気がしていましたが、やはりそうでしたか。
早速また確認いたします。
ありがとうございました。

投稿: 木村美作守 | 2016年6月27日 (月) 23時02分

木村美作守さん、こんばんは~

お返事ありがとうございます。
他に出席者等のくわしい記述がある文献をお知りになりましたら、私めにもお教えくださいませ。

投稿: 茶々 | 2016年6月28日 (火) 02時08分

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