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2009年11月30日 (月)

飛鳥から現代まで~日本の土地制度の変化

 

明治十三年(1880年)11月30日、「土地売買譲渡規則」が制定されました・・・という事で、本日は、何かとややこしい、日本の土地制度について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

人が狩りしながら移動して生活をしていた時代はともかく、稲作が始まって、一つところに定住するようになると、その場所を確保すべく、また、より良い土地を巡って争い事が起こるようになっていきます。

その争いに勝った一族は、豪族となって支配階級の上層に位置するようになり、やがて、そんな豪族の集合体である大和朝廷が形成されていき、その頂点の天皇の詔(みことのり)という形で、土地の所有者が明確にされる事になります。

Nihontotiseidocc_2 まずは大化元年(645年)に行われた大化の改新(6月12日参照>>)・・・この改新の詔の第一条の「公地公民制(こうちこうみんせい)で、すべての土地が国家の所有である事が定められました。

それと同時に、「班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)も定められたとありますが、実際にこの法律が施行されたのは、大宝元年(701年)の大宝律令以降と思われます。

この「班田収受法」は、6歳以上の男女に、その身分に見合った一定の区分田(くぶんでん・土地)を貸し与えて、その代わりに税金を納めさせるというもの・・・(くわしくは8月3日の真ん中あたりを参照>>)

しかし、過酷な労働と高い税金に苦しむ農民は、土地を放り出して逃亡する者があとをたたず、また、男より女のほうが税金が安かったため、戸籍を偽る者も続出して、これでは税収が減る一方・・・庶民の過酷な生活は11月8日参照>>)

そこで、朝廷はしかたなく、養老七年(723年)、貸し出しではなく、期限付きで土地を私有できるようにします。

これが、「三世一身法(さんぜいいっしんのほう)・・・新たに荒野を開墾した者は、親子孫の3代に渡って、その私有を認めるというものでしたが、案の定、期限切れ近くになると、農民は働く意欲を失くして、耕作をほっぽり出してしまい、農地は荒れ放題になってしまいます。

そのため、ついに朝廷は、期限のない土地私有を認めざるを得なくなり、こうしてできたのが、天平十五年(743年)の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)・・・面積に制限があり、きちんと朝廷の許可を得なければならないものの、開墾した土地は永久に私有して良いという画期的な法律でした。

これに飛びついたのが、財力のある寺社や貴族です。

彼らは競うように土地を開墾し私有・・・これは荘園(しょうえん)と呼ばれ、皆、こぞって口分田から荘園へと移行し、一気に班田制の崩れを招いていきます。

たとえば三善清行(みよしきよゆき)(11月21日参照>>)の提出した『本朝文粋(ほんちょうもんすい)という意見書には・・・
「天平神護年中(765年~766年)に吉備国(岡山県)邇磨郷(にまごう)の人口を調査したところ、調庸(ちょうよう・物品による納税)を納める農民の数は1900人だったのが、貞観(859年~876年)の始めには70余人で、自分(清行)が調べた時は、17歳~20歳の男子3人、21歳~60歳の男子4人、61歳~65歳の男子2人でした。
さらに、今現在は?と聞いたところ、一人もいませんとの答えが返ってきました」

とあります。

平成の少子化もビックリ!・・・と言いたいところですが、もちろん、これは、人口が減ったのではなく、皆、口分田を捨て、荘園に走ったという事でしょう。

やがて、そんな初期荘園も、10世紀以降になると寄進地系荘園へと変わっていきます。

これは、開発領主(有力農民)作人(さくにん・一般農民)下人(農奴・のうど)を使って土地を開墾し、それを寺社や貴族へ寄進するというもの・・・と言っても、寄進は名目上だけで、実際の所有権は開発した領主にありました。

実は、上記のように、寺社や貴族の名を借りる事で、朝廷の国司(地方官)からの圧力や高い税金から逃れる事ができたのです。

荘園には、
国司の荘園への立ち入りを拒否できる権利=不入の権
税金が免除される権利=不輸(ふゆ)の権
があったんですねぇ。

名前を貸す寺社や貴族のほうも、
 本家=大寺社・皇族・摂関家
  ↓
 領家=貴族・寺社
  ↓
 荘官=開発領主・名主
  ↓
 荘民=作人・下人
という構造ができあがっている中、それぞれの中間で、それぞれいくらかの搾取(さくしゅ・ぬきとり)があるので、ただ名前を貸すだけで、取り分が手に入るわけです。

この荘園の形がしばらく続く中、各地の開発領主は、その自分たちの土地を守るため、徐々に武装していくのですが、これが武士のはじまりです。

彼らは、中央から派遣された賜姓皇族(しせいこうぞく・天皇の後継者にはならない第2皇子や第3皇子など)や貴族を棟梁(とうりょう)として担ぎ、強固な武士団を形成していきます・・・よくご存知の平氏源氏です(11月21日の平将門を参照>>)

やがて、鎌倉に誕生した初の武士政権・・・幕府を開いた源頼朝が、弟・義経奥州藤原氏の討伐に向かいつつあった頃、このように地方で事件が起こった時に、その都度、軍勢を率いての遠征を行うのは負担であると考えます。

そこで、頼朝の家臣や息のかかった者が、全国各地の国領(国の土地)・荘園の税を徴収し、連絡を密にして、ついでにその土地を治めてしまおう!というもの・・・これが、守護と地頭の設置です。

もちろん、朝廷は、この守護と地頭の設置を快くが思っていませんでしたが、もはや政権も武士に移ってしまったわけですから・・・。

こうして、鎌倉幕府や室町幕府のもとでは、御家人になる事で、本領安堵=土地の所有が保証される事になります。

この間に一致団結する農民が無理難題を押し付ける地頭と対決したり(8月21日参照>>)、横領して納税義務を果たさない守護勢力と寺社が対決したり(7月21日参照>>)する中、世は乱世の戦国へと突入!

・・・で、ここまで続いていた荘園の中間搾取を一掃する土地改革を行ったのが、かの豊臣秀吉・・・秀吉は、「兵農分離令」を出して一つの土地に一作人と決め、各地で「太閤検地」を行って生産力を把握し、それを石高で表して年貢を決定する方法で、荘園制度を完全に終らせました(7月8日参照>>)

秀吉の後に天下を取った徳川家康が開いた江戸幕府も、この制度を継続し、土地は農民の物となっていましたが、毎年に渡っての一定の税収確保のため、「田畑永代売買(でんばたえいたいばいばい)の禁令」や、「分地制限令」などを発令して、農民たちが、自由に土地の売買をする事を禁止しました。

土地の売買が再び自由化されるのは、明治に入ってから・・・明治六年(1873年)の地租改正では、「田畑永代売買禁止」を廃止したのを皮切りに、その後7年間に渡る大事業で、様々な改正を行い、そして明治十三年(1880年)11月30日「土地売買譲渡規則」です。

その後は、第二次世界大戦後に、地主が小作人土地を貸して高額な小作料を取る「寄生地主制度」を廃止する農地改革が行われ、多くの小作農が自作農となり、現在に至る・・・でございます。

もちろん、まだまだ細かく書かせていただかねばならないところですが、一応、今日のところは、日本の土地制度のおおまかな流れという事で、はしょった部分については、大目に見ていただきたいと存じます。
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2009年11月28日 (土)

関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城

 

慶長六年(1601年)11月28日、米沢30万石に減封が決まった上杉景勝が米沢城に入りました。

・・・・・・・・・・

前年=慶長五年(1600年)の9月15日、関ヶ原での天下分け目の決戦は、わずか一日で決着がついてしまいました(9月15日参照>>)

東北にて、西軍として長谷堂の戦いを展開していた上杉軍は、9月30日にようやくその結果=西軍の負けを知り、翌日の10月1日から、決死の撤退を開始(2009年10月1日参照>>)・・・多くの犠牲をはらいながらも、何とか帰還しました。

畿内では、同じ10月1日に石田三成小西行長安国寺恵瓊(えけい)ら主要人物の斬首刑が執行され(2006年10月1日参照>>)、一応の決着をみましたが、その後も戦いを続ける九州戦線(11月3日参照>>)同様、東北も余談を許さない状況でした。

特に徳川家康からいわゆる「100万石のお墨付き」を貰った伊達政宗は、このドサクサで旧領を回復しようと、家康の停戦命令を無視して、度々、上杉領に進攻してきていたのです(8月12日参照>>)

そんな中、味方の西軍が負けた事によって、もはや積極的な最上領への進攻は中止し、伊達対策のみに集中する上杉景勝(かげかつ)は、10月20日、諸将を若松城に召集し、今後の対策を話し合います。

諸将の中には、「同じ西軍の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、江戸に攻め上って徳川を討つ」という積極策を主張する者もいましたが、景勝は、家康が持ちかけている和平への道を選択します。

もちろん、負け組となった上杉にとって、この和平は対等ではなく、おそらくは全面降伏となり、家康の出す条件をすべて呑まなければならない事はわかりきった事ですが、もはや、揺るぎない物となった家康の威勢の下では、一か八かの賭けより、何とか生き残る事を優先するしかありません。

翌・慶長六年(1601年)7月1日、家康の上洛要請に応じた景勝が、執政・直江兼続(かねつぐ)とともに若松城を出発・・・24日に伏見城に到着した後、8月16日に大坂城・西の丸にて、家康と会見しました。

ここで言渡された処置は、米沢30万石への減封(8月24日参照>>)・・・謙信時代の越後から会津に移った(1月10日参照>>)とは言え、120万石を要していた上杉が一瞬にして、一地方大名へと格下げになったのです。

家康に恭順すると決めた時から、すでに覚悟も決めていた景勝は、ただ一言「驚くべきにあらず」と冷静だったと言われます。

かくして慶長六年(1601年)11月28日、景勝共々、上杉の皆々が米沢城に入ったのです。

これから後の景勝&兼続は、米沢30万石の藩政を安定させる事のみに、心血を注ぐ事になります。

特に兼続は、以前も書かせていただいたように、上記の家康との会見の際には、殿様である景勝より、供の侍の数が多かったと言われるほど、上杉内の実権を握っていたようなので、自らの過失によって減封となった事への尻拭いは、本人が責任を取らねばならない事であったはずです。

関ヶ原の合戦の前に、上杉が保持していた兵の数は3万余りだったと言われていますが、そのほとんどを解雇したものの、越後以来の家臣=6000名ほどは、ほぼそのまま召抱えたとされていて、当然の事ながら、それだと30万石ではやっていけないので、彼らの給料は削減・・・ほぼ3分の1にしての再出発です。

まずは、下級の家臣たちに城下町の外れのほうにある荒地を宅地として与え、そこで蕎麦や野菜などを栽培しながら、有事の時には兵士として参戦する・・・いわゆる半士半農の生活を送ってもらう事にします・・・彼らはこの後「原方衆(はらかたしゅう)と呼ばれます。

城下には新たな川を開削して水運を確保するとともに、縦横無尽に用水路を張り、大きな川には堤防を設けて叛乱を防ぎました。

また、街道沿いの町人町には有力商人を移転させ、全国の先進地から招いた優れた技術者を中心に染物屋は紺屋町、鍛冶屋は鍛冶屋町と同じ町に住まわせて商工業の発展にも力を入れました。

もちろん、大河ドラマでもあったように学問の向上にも力を注いでいます。

もともと、本の収集家であった兼続は、あの朝鮮出兵で大陸に渡った時も、合戦そっちのけで、兵火の中から多くの書籍を救い出して持ち帰った(戦時なのでドロボー?って事は考えない事にしときましょう)と言われ、それらの貴重な書物を「禅林文庫」と名付けて、新たに建立した禅林寺に整備して、米沢藩士の学問修行の場としました。

これは、後の安永五年(1776年)に設立された藩校・興譲館(こうじょうかん)に引き継がれ、現在も、書籍の一部は米沢図書館に、学校は現役の高校として生き続けています。

そして、先日書かせていただいた大坂の陣では、かの佐竹義宣とともに鴫野・今福の最前線で奮戦(11月26日参照>>)、家康のゴキゲン取りも怠りません。

ゴキゲン取りというと聞こえは悪いですが、現に、この時に家康の出陣要請に答えず、出兵しなかった仙北小野寺義道(よしみち)は改易となって津和野に流されていますから、もはや、生き残るためには、ゴマスリ気味のパフォーマンスも致しかたないところなのです。

おかげで、上杉は、敗者でありながら幕末まで生き残る事ができました。

途中、家督争いのゴタゴタで、30万石を、さらに15万石に減封されるも、上杉鷹山(ようざん)(3月12日参照>>)という改革者の婿殿も現れ、ついに末代まで武名を残せたのですから、まずは誇りを持ってしかり・・・といったところでしょうか。
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2009年11月27日 (金)

剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々

 

永禄元年(1558年)11月27日、三好長慶と和睦した第13代室町幕府将軍・足利義輝が、5年ぶりの入京を果たしました。

・・・・・・・・・・

室町幕府を開いた初代・足利尊氏に始まり、第3代将軍・足利義満を頂点に、その栄華を誇った足利将軍家でしたが、第8代・足利義政の時代に勃発した、ご存知、応仁の乱(5月20日参照>>)のあたりから、実力が物を言う戦国乱世へと突入していきます。

さらに、第10代・足利義稙(よしたね)の頃からは、もはやお飾り状態・・・直属の武力さえ満足に持たない将軍は、その時々に将軍を担ぐ有力武将の動向に左右され、京で争乱が起こるたびに越中(富山県)に逃げたり、阿波(徳島県)に逃げたり、近江(滋賀県)に逃げたり・・・

そんな中、第12代・足利義晴(よしはる)の嫡男として生まれた足利義輝(よしてる)は、生まれながらにして、その将軍を継ぐ運命にあった人ですが、彼が元服し、父から将軍職を譲られた11歳の時には、やはり、めまぐるしく変わる敵味方に翻弄され、近江の坂本に滞在中の時でした。

当時、将軍に代わって実権を握っていた管領・細川晴元と、その家臣・三好長慶(みよしながよし)が対立し、抗争に敗れた晴元とともに、京を追われてしまっていたのです。

当然の事ながら、父・義晴は、長慶に奪われた京都奪回をめざして、銀閣寺の背後にある東山に、中尾城(京都市左京区)なる城を築き、その足がかりにしようとハリキリますが、残念ながら、その城の完成を見ないまま、天文十九年(1550年)5月、40歳で病死してしまいます。

未だ15歳の若き将軍・義輝の行く末を案じての無念の死でした。

その後、父の遺志を継いで、完成した中尾城に入った義輝は、父の家臣を前に・・・
「昔から「父の仇とは共に月日の光を戴かず」と言う・・・我ら、志を一つにして大きな敵に打ち勝とう!万が一この願いが叶わず、屍(しかばね)を軍門にさらすとも、一歩たりとも退かず、公方らしく戦死したい
と、堂々を語ったと言います。

この大演説に、その場にいた者は、皆、感激し、「この主君のために死のう」と思ったのだとか・・・

なんせ、この頃の義輝には、堺に人を差し向けて、火薬の原料となる硝石を買い求めた記録があり、直後の7月に起こった三好軍との京都市中の小競り合いでは、敵方の与力を鉄砲にて撃ち取った記録(歴史上、鉄砲での戦死は初記録)もあり・・・いち早く最新兵器の鉄砲に目をつけていたという大器を思わせるその行動には、周囲も大いに期待した事でしょう。

しかし、やっぱり長慶は強い・・・その後も、度々、三好軍の近江への進攻を許し、結局は、かの中尾城に自ら火を放ち、再び、坂本へ、継いで堅田、さらに朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと撤退するハメになってしまいました

でも、さすがの義輝・・・まだ、諦めません。

正面からぶつかっては勝ち目がないと判断した義輝は、テロ活動にて対抗します(6月9日参照>>)

長慶が、伊勢貞孝の宿所で宴会をしていると聞けば、そこに美少年を送り込んで討とうとしたり、またまたイケメン武士を送り込んで、乱舞のドサクサで殺そうとしたり・・・

しかし、美少年は仲間を手引きする前に捕まり、乱舞の武士は、長慶に軽傷を負わせるも、命を取る事はできませんでした。

ただし、本人こそ大事に至らなかったものの、長慶の義父・遊佐長教(ゆさながのり)は、義輝の放った僧によって殺害されています。

ここで、力ワザでは不可能と考えた義輝は、ちょっくら父の無念を棚の上に置いといて、近江守護の六角義賢(ろっかくよしかた)を通じて、長慶に和睦を申し入れます。

長慶は、晴元を廃して、細川氏綱を管領職につかせる(9月14日参照>>)事などの条件とともに和睦に応じ、義輝は久々に京都に戻ります。

京都では、長慶を御供衆(おともしゅう)に抜擢して、管領・細川家の家臣から、将軍直属の幕臣に出世させる大盤振る舞い・・・オイオイ、あの中尾城での大演説は?

・・・と、ツッコミを入れる間もない、わずか1年後、反長慶派をかき集めて態勢を整え、京都に迫った晴元に、ちゃっかり同調して、霊山城(りょうざんじょう・京都市東山区)へと移動し、晴元に協力する事を表明します。

長慶への優遇は、敵を安心させるための、義輝なりのポーズだったのか?、はたまた、本当にコロコロと体制を変える人だったのか?

ところが、これに対抗すべく、長慶が集めた兵は、なんと2万5000の大軍・・・もはや、その実力は比べ物にならないくらい大差がついてしまっていたのです。

長慶の兵の多さに驚いた晴元は、あっさりと逃走・・・すでに同調してしまった義輝も、京都を追われ、再び朽木谷へと舞い戻ります。

ここで、過ごした5年間・・・この間の義輝は、ただ、ひたすら武芸に励みます。

剣豪の塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)(2月11日参照>>)の直伝により、めきめき上達した義輝は、武芸者として200人余りを斬り伏せたとも言われ、これほど腕のたつ将軍というのは他に類を見ず、「剣豪将軍」なるニックネームもあるほどです。

それと同時に、義輝は、やはり、この間にも、再び父の遺志を棚の上に置いて、長慶との融和政策に転進・・・これまた、ラッキーな事に、この長慶という人が、将軍との上下関係を重んじる古風なイイ人だったため、なんと!かの日の裏切りを許し、義輝からの和議要請をOKしたのです。

かくして、永禄元年(1558年)11月27日義輝は、第13代室町幕府将軍として、5年ぶりに京都に戻ったのでした。

京都に戻った義輝は、積極的に各地の戦国大名と接触・・・今や都一の実力者=長慶の支援を受けているとあって、将軍としての権威もやや復活したのか、あの上杉謙信も上洛して義輝に謁見し、その名の一字を貰い上杉輝虎と名乗っています(4月27日参照>>)、未だ名も無き地方侍だった織田信長「帰京祝い」と称して上洛し、謁見しています(3月2日の前半部分参照>>)

この状況に危機感を抱いたのは、三好家の家臣の中でナンバーツーの座を獲得し、大和(奈良県)を攻略しつつあった松永久秀(10月10日参照>>)・・・

しかし、それでも、将軍を重んじる長慶が健在の数年間は、何とか平成を保っていましたが、やがて永禄七年(1564年)、長慶の死を以って、その均衡が破られる事になるのです。

・・・が、やはり、この続きのお話は、5月19日【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】へどうぞ>>
 

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2009年11月26日 (木)

激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い

 

慶長十九年(1614年)11月26日、大坂冬の陣の中で、最大の激戦となった鴫野・今福の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存知、大坂冬の陣・・・

あの関ヶ原の合戦(関ヶ原の合戦の年表・参照>>)に勝利して、もはや天下を手中にした徳川家康・・・合戦から5年後の慶長十年(1605年)には、将軍の座を三男の秀忠に譲り、征夷大将軍を代々継いでいくのが徳川家である事を天下に宣言した形となりましたが、ただ一つの目の上のタンコブは、あの豊臣が、未だ一大名として存続している事・・・

もともと豊臣秀吉の配下として、もう一つの豊臣家内の勢力であった石田三成を潰すという内紛の形をとった関ヶ原ですから、その時には多くの豊臣恩顧の武将が家康の味方についてくれましたが、この先、成長した秀吉の遺児・秀頼を目の当たりにすれば、豊臣の家臣である彼らが、いつなんどき、秀頼を大将に掲げて徳川に対抗する勢力となってしまうか、わかったもんじゃありません。

そこで、なんとか豊臣家を潰したい家康は、京都に建築中だった方広寺の鐘に書かれた文字にイチャモンをつけ、豊臣に謝罪を要求します(7月21日参照>>)

豊臣側は、片桐且元(かつもと駿府に派遣して、1ヶ月にわたる交渉をしますが、はなから戦いに持ち込みたい家康は、到底叶いそうにもない無理難題を押し付けて、案の定、交渉は決裂します(8月20日参照>>)

その結果を得て、関ヶ原で敗退して改易となった浪人を中心に兵を集め始める大坂方・・・

10月9日にはあの真田幸村(信繁)が九度山を脱出(10月9日参照>>)・・・他にも、京の都で物乞いするまで落ちぶれた後藤基次(5月6日参照>>)や、寺子屋の先生をして生計を立てていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか(5月15日参照>>)、さらに、薄田隼人(すすきだはやと)(9月20日参照>>)塙団右衛門(ばんだんえもん)といった猛者たちが、続々と大坂城へ・・・

一方の家康は、10月1日には江戸城の秀忠に出陣の準備をうながすと同時に、全国の諸大名に参戦するよう命令を下し、自らは、10月11日に500の手勢を従えて駿府城を出陣・・・秀忠も10月23日に江戸を発ち、一路京都へと向かいます。

かくして翌月の11月15日、二条城を出陣した家康は大和路を通り、伏見城を出陣した秀忠は河内路を通って、ともに大坂に到着・・・ここに大坂冬の陣が勃発したのです。

豊臣家宿老(しゅくろう・家老)大野治長(はるなが)の采配する大坂城を囲むように布陣した徳川軍・約20万・・・最初の衝突は、11月16日でした。

九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、豊臣方の水軍の拠点である伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・さらに、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)浅野長晟(ながあきら)池田忠雄(ただかつ)らが、大坂方の砦に奇襲をかけて、見事、これを奪い取ったのです(博労淵・野田福島の戦い)

そしてその1週間後の慶長十九年(1614年)11月26日最も激戦となる鴫野・今福の戦いがあったわけです。

Oosakafuyunozinsiginoimafukuzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この日、先日の博労淵と同様に、築かれた柵の撃破と付け城(攻撃用の簡易な城)の構築を目的に、大和川を挟んだ北側の今福と、南側の鴫野(しぎの)に兵を布陣させた家康・・・

今福には佐竹義宣(よしのぶ)率いる1500、そして、この時、鴫野に最も多くの兵を動員していたのが、今年の大河の主役でもあった上杉です(大河ドラマではナレーションスルーでしたが・・・(;´▽`A``)

すでにご存知でしょうが、上杉家は、関ヶ原の時に西軍の立場で東北にて戦いを展開(9月16日:「長谷堂の戦い」参照>>)・・・つまり、あの関ヶ原で負け組となっていたわけで、それ以来の戦いとなった、この冬の陣では、上杉としては、何とか家康のイイところを見せて少しでも挽回しておきたいし、家康としても、上杉の忠誠心を確かめたい戦いであったわけです。

上杉景勝(かげかつ)は、5000の兵のうち800ほどを本陣の守りにつけ、残りの兵を4隊に分け、執政・直江兼続(かねつぐ)を総大将に、須田長義安井隆元水原親憲(ちかのり)を前線に向かわせます。

先陣を切る上杉の後詰には、堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝と続きます。

彼らに応戦するのは、大坂方の井上頼次(よりつぐ)ら2000・・・っと、さすがに、これだけの多勢に無勢ではいかんともしがたく、またたく間に頼次は討死し、柵は突破されてしまいます。

そこで大野治長は、青木一重1万2000の援軍を、すぐさま大坂城内から派遣・・・今度は、上杉軍の最前線にいた須田隊が苦戦を強いられます。

しかし、これには、すかさず、安井隊が鉄砲で援護射撃し、さらに水原隊が槍で助太刀・・・この連携プレーが功を奏し、見事、大坂方の援軍を蹴散らして鴫野の占拠に成功しました。

この上杉の働きぶりに対して、家康の・・・
「ご苦労・・・堀尾隊と交代されたし」
との指示に、景勝は、
「命を賭けて奪った場所を、上意とは言え、他人に渡す事などできません!」
と、拒否し、上杉の意地を見せつけ、さらに大和川を渡って、佐竹軍の援護に向かうのです。

そう、実は、この時、今福の佐竹隊が、大坂方の後藤基次木村重成らに敗退し、援軍を要請してきていたのですが、それに答えて、大和川を渡った水原隊によって、基次は左腕に銃弾を受けてしまいます。

大将の負傷に、まもなく撤退する後藤隊でしたが、結果、最も激戦となった鴫野・今福の戦いは、鴫野では上杉が、今福では後藤と木村の武名が高まるという5分5分の引き分となったのです。

さらに、戦い終わった上杉の本陣に、家康が慰労にやって来る事となった時、兼続が大坂城に向かって威嚇射撃を行い牽制したところ、鴫野の占拠と言い、この牽制と言い・・・一連の行動に感激した家康が、景勝にねぎらいの言葉をかけると、景勝は、
「こんなの、子供のケンカみたいなもんでしたよ」
と、サラ~ッと答えた・・・なんて、ちょっと、かっこ良すぎるエピソードも残っています。

結局、数百人の死者を出す最も大きな戦いとなった鴫野・今福の戦いは、こうして終わりを告げましたが、この3日後の11月29日には、徳川方が大坂方の砦を奪取した博労淵(ばくろうふち)野田・福島の戦いが終結(11月29日参照>>)、その5日後の12月4日には、逆に、大坂方が徳川方に大打撃を与える真田丸の攻防(12月4日参照>>)と、双方、一進一退を繰り返しながらも、大いなる最終章へと進んでいく事になります。

このお話の続きは、【大坂の陣の年表】でお楽しみ下さい>>
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2009年11月24日 (火)

こんな所にも影響?~大河ドラマと株価の連動

 

昨日の新聞でおもしろい記事を見つけました。

それは、大河ドラマの視聴率と日経平均株価が連動しているのでは?というもの・・・つまり、その年の大河ドラマの平均視聴率が前年よりも高ければ、株価も上昇するというのです。

平成九年から平成20年までのビデオリサーチ調べによる視聴率データを大和證券SMBC金融証券研究所という所が、マジメに分析・・・今回、その調査結果をまとめたのだとか・・・

番組名 平均
視聴率
(%)
株価
騰落率

(%)
平成九年 毛利元就 23.4 -21.2
十年 徳川慶喜 21.1 -9.3
十一年 元禄繚乱 20.2 36.8
十二年 葵徳川三代 18.5 -27.2
十三年 北条時宗 18.5 -23.5
十四年 利家とまつ 22.1 -18.6
十五年 武蔵 16.7 24.5
十六年 新選組!! 17.4 7.5
十七年 義経 19.5 40.2
十八年 功名が辻 20.9 6.9
十九年 風林火山 18.7 -11.1
二十年 篤姫 24.5 -42.1

大和證券SMBC金融証券研究所・集計

・・・と、わかりやすいように、前年の視聴率より下がっている場合と、株価の騰落率がマイナスになっている年とを赤字で記載してみましたが・・・

上記の結果をそのまま見れば、前年の視聴率を比べた結果と、株価の騰落率が一致する年が60%だという・・・

60%・・・なんか微妙な気がしなでもないですが、調査したスタッフさんによれば「統計学的な連動性は相当高い」らしい・・・

平成十六年の「新選組!!」→十七年の「義経」→十八年の「功名が辻」と、いずれも前年の番組より視聴率が高くなっていれば、株価も上昇し、その翌年の「風林火山」視聴率が低迷すれば、株価も下落すると・・・確かに。

なら、「篤姫」は?
と、聞きただしたいところですが、どうやら、さすがの「篤姫」もリーマンショックには勝てなかった・・・てな、事らしいです(爆)。

・・・て、事は、今回の「天地人」

なんだかんだと言いながらも、逆に、何が起こるかわからないおもしろさもあって見続けましたが、さすがに「篤姫」の年間平均視聴率を越えるのは難しそうである事を踏まえれば、やはり株価も・・・という事でしょうか。

いや、しかし、来年は幕末屈指の人気を誇る坂本龍馬が主人公・・・題材だけなら、文句なし!

あとは、造り手の皆様の腕しだいで、うなぎのぼりの視聴率も夢じゃない!

ならば、それに同調して、株価もうなぎのぼり!といっていただきたいものですねぇ。

「みんなで、大河を見て、景気回復しよう!」
なんてね。

ちなみに、これって、単なる数字の連動だけでなく、大河ドラマが良い作品であればあるほど、多くの視聴者が日本の歴史を見つめなおし、日本のすばらしさを再確認する・・・って事で、日本株への期待が高まり、株価が上昇する・・・

という、風が吹いたら桶屋が儲かる的な見方もでき、案外、本当に連動しているのかも知れません。
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2009年11月23日 (月)

最後まで ホームドラマの 天地人・・・最終回

 

第47回「愛を掲げよ」

大河ドラマ「天地人」も、いよいよ最終回を迎えましたね。

先週が、あまりにもツッコミどころが満載だったせいか、それに比べると、今週は、さすがに最終回・・・主人公直江兼続の老後を描きながら、その人生をふりかえるという大河の王道を歩いた感じで、びっくり仰天するようなでき事はありませんでしたが、やはり、最後の最後までホームドラマのような大河でしたね。

あれだけ悪人だった徳川家康が、ただただ反省するイイ人になってしまってるところもホームドラマっぽいですが、石田三成の死に対して、「お前の義は必ず後世に伝える」と誓った兼続の、その「後世に伝える」が、江戸城内の一室で、若い後輩たちに昔話として聞かせるだけのスケールの小さな伝え方だったところも、かなりホームドラマっぽい。

それを、なぜか、この時ばかりは目だたないよう心を配った伊達政宗に連れて来られた徳川秀忠が、影から覗き見して感動してるところも、まさに・・・

結局、最後の最後に、皆が主人公に賛同して、皆がイイ人になってめでたしめでたし・・・一ファンとしての勝手な感想ですが、そもそ戦国モノを、そのようなホームドラマ的な終らせ方をする事にムリがあるような気がします。

さらに、すべてを、主人公を中心にしたキレイ事で収めたいがため、なにやら一貫性のない部分が見え隠れするような造りになってしまいました。

古くは、あの御館の乱も、皆をイイ人に描きたいがために、誰が景虎華姫や、その息子・道満丸を死に追いやったのかも、いったい何のために戦ったんだかもよくわからない。

もちろん、前半、あれだけ活躍した初音という人も、最後には、何のために存在したのかもわからない状況となってしまったような・・・

なんだか、多くの事柄が、未解決のまま、ウヤムヤにされてしまった感があります。

それもこれも、血で血を洗う戦国に、「愛」の文字を掲げた主人公を、完璧なイイ人にするがためのつじつま合わせが、合わしきれなくなってしまった事にあるような気がします。

ドラマの中では、「多くの犠牲の上に平和が成った」的な事を、兼続が言ってましたが、それは、「豊臣大事」と言っておきながら、理由も納得できるものでないまま、大坂の陣で豊臣を攻めた兼続の言うべき言葉ではなく、鬼と化してまで天下を平定した家康の言うべき言葉であるはずです。

群雄割拠の戦国時代に、織田はもちろん、武田が滅び、北条がほろび、さらに関ヶ原で家康の敵となった武将が・・・いや、味方になった武将でさえ、お家断絶お取り潰しの憂き目に遭ってる中で、島津・毛利とともに生き残った上杉は、本来なら、それだけで、ある程度、評価すべきものだと思います。

120万石から30万石へと減封された中、町のいたるところに用水路を張りめぐらして上質な農地とし、川を開削して水運を確保し、堤防を築いて水害を防ぎ、農業や商工業の発展に力を注ぐ・・・私は、米沢藩の礎を築いた、その政治手腕こそが、兼続の一番の魅力ではないかと思います。

合戦シーンを描くのがNGであったのなら、その政治家としての兼続を、もっと描いてほしかったと残念でなりません。

そして、最後に、娘たちや息子を亡くした事で後継者がいなくなった直江家は、養子を取らずに断絶という道を選びます。

これは、ドラマでもあったように、困窮する財政を少しでも助けるために、知行を上杉へ返上したという事のようですが、一方では、兼続の遺品は武具と書籍のみで、返上するほどの物は残っていなかったという話もあり、個人的には、兼続は、直江家を断絶させる事で、すべての事への責任を取ったのではないか?と思っています。

景勝から、ほとんどすべてを任されて、他の家臣から見れば、「直江は上杉家を乗っ取った」とも取れるほど、自らの思い通りに事を運んでいた兼続は、その自分の判断ミスによって上杉を窮地に追い込んでしまったわけです。

当時の兼続は、それこそ、戦国の武将らしく、謀略を張りめぐらし、殺戮を行いますが、そうしなければ生き抜いていけないのが、戦国という時代であって、キレイ事だけではやっていけないわけですが、その結果、大幅な減封となってしまった・・・

自分のやった事を秘書になすりつけて責任逃れする政治家が多い中、自分の代でお家を終らせて責任を取ったのだとしたら、それはそれで、カッコイイ事なのではないかと思い、私としては、そのようなラストシーンを期待していたわけですが、ドラマでは、その兼続を完璧な人物に描きたいために、兼続は悪くないのに、家康など、なにやら周囲の悪だくみのせいで負けたような事になり、さらに、大坂の陣では、千姫を救う事によって「愛が勝った」などとわけのわからない理屈をコネてしまい、結局、その男の責任のとり方までウヤムヤになってしまったような気がします。

一年を通して言えるのは、この脚本家の方は、ご自身が女性らしい女性なのか、あるいは、女性らしい女性をターゲットに、やさしいやさいいドラマを描き続けたのかといった感じに思えてなりません。

日曜8時の大河ドラマのワクでなかったら、もうちょっと評価は変わっていたのかも知れませんが、大河ドラマと銘打つ以上は、やはり、みんなイイ人のホームドラマにすべきではなかったように思います。

確かに、誰も見た事がない以上、今、言われている歴史が正しいとは限りませんし、ドラマはドラマなのですから、創作しておもしろくしていただくのは結構なのですが、「大河ドラマは歴史の勉強になる」と思って、小学生のお子さんに見せておられるご家庭も多いのですから、やはり、その基本となるべき暗黙の了解は守っていただきたかったという思いでいっぱいです。
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2009年11月21日 (土)

平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!

 

天慶二年(939年)11月21日、平将門常陸国府を襲撃・・・藤原維畿を捕らえて国印を奪い取りました。

・・・・・・・・・・・・・

そもそもは、天皇の子供たちは「王」「親王」を名乗り、朝廷からのお手当てで暮らしていたわけですが、当然の事ながら1人の天皇から生まれる皇子は何人もいるわけで、第50代・桓武天皇の孫(もしくはひ孫)高望王(たかもちおう)の頃になると、その数が増えまくり、朝廷は財政難に苦しめられます。

そこで、朝廷内で出世コースに乗れなかった多くの皇族の末裔たちが、天皇から姓を賜り、役人として地方へ送りこまれたのです。

この桓武天皇の血筋から枝分かれして「平」を賜ったのが桓武平氏清和天皇から枝分かれして「源」の姓を賜ったのが清和源氏、他にも宇多天皇からは宇多源氏村上天皇から村上源氏と色々あります。

そんな中央の出世レースからは、はじかれた彼らであっても、地方へ来れば、天皇の子孫というだけで尊敬され、役人の立場を利用して税をごまかしながら私腹を肥やす事も可能・・・ましてや、関東は、未だ未開拓な土地が豊富にありますから、それらを開拓して税収そのものを増やす事もできますから、ある意味、出世の望めない都にいるよりは、よっぽどオイシイ思いができたわけです(11月8日参照>>)

・・・で、平の姓を賜って地方に赴任した高望王の三男で、下総国(しもうさ・千葉県北部)佐倉を領地としていたらしい鎮守府将軍・平良将(よしまさ・良持)の息子として生まれたのが平将門(たいらのまさかど)です。
参考:桓武平氏の系図>>

・・・とは言え、その出生年はよくわかりません。

とにかく、幼くして父を亡くした将門は、立身出世を求めて京の都へと向かい、ラッキーにも、時の権力者・藤原忠平への仕官に成功し、ここで様々な事を学ぶとともに、朝廷とのつながりも確保します。

しかし、延長八年(930年)頃、伯父である平国香(くにか・國香)が、亡き父の領地侵略しているとのニュースを聞いた将門は、いてもたってもいられず、京での出世をあきらめて故郷へと急ぎます。

しかし、すでに多くの領地は国香に奪われたあと・・・しかも、朝廷の支配下にありながら、その支配が行き届かない関東では、農民に法外な重税を課し、国司は私腹を肥やし放題です。

そんなタイミングで京から戻って来た将門に、多くの人が期待を寄せたのも無理はありません・・・まして、彼は、困った人を放ってはおけない親分肌。

いつしか、農民たちを統率しながら荒野を開墾し、砂鉄から鉄も造り、それとともに、その戦力も領地も徐々に大きくなっていきます。

そんな将門を脅威に思った国香が、婚姻関係にある源護(みなもとのまもる)を使って攻めて来ますが、あっさりと返り討ち・・・

さらに、伯父・平良兼(たいらのよしかね)との抗争にも打ち勝つ将門でしたが、これは、あくまで同族同士の領地争い・・・この時点で朝廷から咎められる事はありませんでした。

ところが、そんな中で勃発したのが隣国・武蔵(むさし・埼玉県&東京都)のいざこざです。

都から赴任した興世王(おきよおう)源経基(みなもとのつねもと)という二人の役人が、その権力をかさに着て乱暴狼藉を働いていた事に怒った郡司(ぐんじ・国司の部下の地方官)武蔵武柴(むさしたけしば)が立ち上がり、両者の対立が激しくなっていったのです。

それを聞いた将門は、かの親分肌をフルに発揮・・・頼まれてもいないのに、仲裁役をかって出て、両者の仲を収めようとします。

これによって興世王と武柴はなんとか和解しますが、経基が、何を勘違いしたのか、「将門が興世王と武柴を取り込んで、自分を攻める」と思い込み、あわてて都へ行って、朝廷に「将門に謀反の疑いあり!」と通報してしまったから、都は大騒ぎとなります。

そんなこんなの天慶二年(939年)夏頃、将門のところに1人の男が助けを求めてやってきました。

常陸国(茨城県)の豪族・藤原玄明(はるあき)という男で、秩序を乱す無法者として手配されていた、あまり評判の良くない男でした。

この時も、収穫物を横領したり、税金の取立てに来た役人に暴行を働いたりして、国司の藤原維畿(これちか)に逮捕されそうになったため、仲間とともに逃走をはかり、将門を頼ってきたのです。

確かに悪人のレッテルを貼られている男ではありますが、相手は、横暴を極めている国司の1人です。

維畿という人物はともかく、国司による支配体制を許せない将門は、玄明をかくまい、維畿と戦う道を選んだのです。

かくして天慶二年(939年)11月21日、1000の兵を率いて常陸へと出陣・・・まずは、維畿に対して「玄明を逮捕しない」という約束を取りつけようとしますが、維畿が、そんな約束を簡単にOKするはずもなく、当然、交渉は決裂します。

すると、将門は即座に国府(地方の役所)を取り囲み、中にいる3000の兵の逃走経路を遮断して孤立させ、交戦する者はことごとく討ち取り、食糧倉庫の鍵も奪取・・・そうなれば、もはや、先は見えたも同然となり、維畿は、やむなく降伏します。

将門は維畿を捕らえ、国印をも奪い取ります。

国印とは、当時の公文書に押される銅製のハンコで、朝廷権力の象徴でもありましたから、この行為・・・つまりは、朝廷から常陸という国を奪い取ったという事になります。

この時から、将門は朝敵=国を相手の謀反人という事になったのです。

もう、後へは退けません。

「こうなったら、関東一円の国の国印を奪い、すべての国司を京都に追い返してしまおう」・・・そうすれば、重税を課し、私腹を肥やす国司の支配から、万民を開放する事ができる。

将門、86日間の戦いの始まりでした。

世に言う平将門の乱です。
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2009年11月20日 (金)

尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い

 

元治元年(1864年)11月20日、西行する天狗党と、それを追討する高島・松本藩連合軍和田峠で衝突しました。

・・・・・・・・・・・

この年の3月に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党・・・これまでの経緯は、

・・・と、関東各地で奮戦するも、幕府からは「天狗党・追討令」が出され、地元の水戸藩内は保守派に牛耳られ、やむなく、彼らは、自らの思いを、今は亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に伝えるべく、慶喜のいる京都を目指して出発します(10月25日参照>>)

ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

途中、その領地をすんなりと通してくれる藩もあれば、当然の事ながら、幕府の命に従って彼らの行く手を阻む藩もあります。

最初のぶつかり合いは、11月16日・・・下仁田戦争(11月1日参照>>)と呼ばれるその戦いで、2時間の激戦のうえ、高崎藩に勝利した天狗党は、着物には血しぶき飛びまくり、刀や槍も抜き身のまま、さらに西行を続けます。

翌日到着した信州(長野県)への玄関口・西牧(さいもく・藤井)の関所・・・すでに、前日の「天狗党・大勝」のニュースを聞いていた関所の番人は逃走し、もぬけのからの関所を悠々と通過します。

ほどなく、見えてくる内山峠を越えれば、もう、信州・・・通過する宿場町では、最初はそのいでたちを見て、身を隠していた人々も、彼らが一般市民には危害を加えない事を聞くと、こぞって沿道に出て、隊列を見物するようになっていました。

そして、佐久(さく)に入り、中山道和田宿で一泊した翌日、和田峠を越えて樋橋(とよはし・諏訪郡下諏訪町)にさしかかった所で、高島・松本藩の連合軍の迎撃が待っていました。

元治元年(1864年)11月20日和田峠の戦いの勃発です。

連合軍=2000、天狗党=1000・・・
はじめ、藤田小四郎率いる150人が、正面からの突破をしようと、猛攻撃をかけますが、2度3度と押し戻され、なかなか前進できません。

天狗党・危うしか?・・・と、思いきや、これが、軍師・山国兵部(やまくにひょうぶ)の作戦!

小四郎らが正面衝突してる間に、背後と側面の山に奇襲隊200人を潜ませたのです。

相手に悟られぬよう、激しく急な険しい山をよじ登るという、意表をついた作戦です。

そして、ころあいを見計らって、山上から一斉に砲撃を開始・・・まさかと思った方向からの攻撃に、連合軍が慌てふためいたところで、総大将・武田耕雲斎(たけだこううんさい)が太鼓を打ち鳴らします。

その太鼓を合図に、全軍が突入!・・・連合軍は総崩れとなりました。

この時、逃走を計る高島・松本藩によって樋橋の宿場町に火が放たれましたが、天狗党の隊士らが力を合わせて消火にあたり、町衆の心の拠り所となっていたお地蔵様が安置されている地蔵堂が焼かれずにすんだという事で、沿道での彼らの評判は、さらに高まります。

ここから、南に下った飯田では、尊王攘夷の気質も相まって、3000両もの軍資金を手配してくれるとのうれしい約束も交わされます。

ただ、やはり幕府の追討命令は執拗に発令され続け、困った藩の中には、彼らが通り過ぎたあとに、ポーズだけの大砲を打ち鳴らしてごまかしたりしたところもあったのだとか・・・。

やがて、11月24日、天狗党は駒場宿へと到着します。

ここは、伊那地方でその名を馳せた尊王攘夷の志士・松尾多勢子(たせこ)の地元・・・京都で活動中に幕府から追われ、長州(山口県)へと逃れた後、この頃は、密かに故郷に戻ってはいた多勢子でしたが、さすがに、追われる身の彼女との面会は叶いませんでした。

しかし、彼女の息子・と会う事ができた小四郎らは、多勢子からの伝言を受け取ります。

それによれば、
「このまま南に進めば尾張藩の領地・・・御三家でもあり大藩でもある尾張藩との交戦は避けたほうが良いので、この先は美濃(岐阜県)へと進むべし」
との事・・・

早速、軍儀を開いて方向転換を決定した天狗党は、翌・25日、美濃の玄関口・清内路(せいないじ・長野県下伊那郡)の関所を通過します。

「天狗党はこのまま南へ下るもの」と思い込んでいた関所の役人は、慌てて何もできず、天狗党をそのまま通過させてしまいます。

さらに進む天狗党は、やがて木曽路に入り、妻籠(つまご)馬籠(まごめ)に泊まった後、29日には木曽川を渡りました。

沿道の諸藩は、衝突を避けて撤退する藩、軍資金を渡して「城下の通過を避けてくれ」と頼み込む藩・・・と、その動向も様々な中、あの太子(たいし)を旅たってちょうど1ヶ月の12月1日、彼らは、揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へと到着しました。

このまま西へと向かえば、もう数日で、いよいよ京都です。

・・・と、行きたいところではありますが、ここで、耕雲斎は一つの決断をし、彼らの西行は新たな展開に・・・

思わせぶりにひっぱるようで恐縮ですが、やはり、そのお話は、決断を迫られる12月2日のブログでどうぞ>>m(_ _)m
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2009年11月19日 (木)

頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄

 

天正十六年(1588年)11月19日、美濃三人衆の1人として知られる稲葉一鉄が、74歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

もともとは、美濃国(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よりなり)に仕えていた稲葉一鉄(いなばいってつ)・・・っと、本当のお名前は稲葉良通(よしみち)で、途中で剃髪して一鉄と号するようになるのですが、一鉄のお名前のほうが断然有名なので、本日は一鉄さんで通させていただきます。

やがて、あの斉藤道三が国盗りで美濃を制するようになってからは、その斉藤家に仕えるようになりますが、道三の孫・斉藤龍興(たつおき)の代になって、主君との間に亀裂が生じるようになります。

そこで、ともに土岐氏の時代からの仲間であった氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(もりなり)らとともに、当時、斉藤家の居城・稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長の傘下へと鞍替えしたのです。

彼ら美濃三人衆の協力を得た信長は、永禄十年(1567年)8月、見事、稲葉山城を攻略し、龍興を美濃から追放したのでした(8月15日参照>>)

その後、約20年間に渡って信長に仕えた一鉄は、その間に80回以上もの合戦に出陣し、一度の負けも経験しなかったという武勇伝の持ち主です。

元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦では、窮地に陥った織田軍を、さらに攻める浅井軍に対して、側面からの猛攻撃で加勢し、見事、勝利に導きました(6月28日参照>>)

この時、一鉄の臨機応変な素早い動きを喜んだ信長から、「長」の一字を与えられ、「長通(ながみち)を名乗るように勧められましたが、一鉄は・・・
「今回の勝利は、三河はん(徳川家康の事)の力が大きかったんですわ。
僕の働きなんて大した事ないです・・・こんなんで、武勇やなんて言われたら恥ずかしいですわ」

と言って、信長の提言を断り続けて、譲らなかったのだとか・・・

この一件から、周囲の説得に応じず、自論を曲げない頑固者の事を「一鉄(徹)者」「頑固一徹」なんて呼ぶようになったとされています。(あくまで伝説ですが・・・)

また、一鉄は、武功の誉れのみならず、学識の豊かさも兼ね備えていました。

特に、漢詩は得意中の得意だったようで・・・

天正二年(1574年)のある日、信長は、岐阜城の茶室に一鉄を招きます。

実は、信長は、ある者から「一鉄に謀反の疑いあり」との密告を受けていて、その報告が本当であるかどうかを確かめるために、一鉄を呼んだわけだったのですが、もし、本当に謀反の兆しがあったなら、その場で殺害するつもりで、茶室の壁の向こうで身を潜めて待っていたのです。

すでに不穏な空気を察していた一鉄は、何喰わぬ顔で、茶室へと入り、接待役の武将を対面しながら、何とか弁明の糸口を探ります。

ふと、床の間を見ると、そこに一服の掛け軸が・・・そこには、禅僧の筆による漢詩が書かれていました。

送茂侍者
木葉辞阿霜気清、虎頭載角出禅扃、
東西南北無人処、急急帰来話此情

*注:私は読めないので、何と書いてあったかは聞かないでください

漢詩をすらすらと読んでみせた一鉄は、その意味を聞かれて、くわしい解説をするとともに、自分には、まったく謀反の気持ちなどなく、今後も、信長にひたすら尽くすつもりである事を切々と話しました。

壁のむこうで、一鉄の言葉を聞いていた信長は、武勇だけでなく、その学識の深さにも感銘を覚え、自ら、一鉄の前に進み出て、つまらない密告を信じてしまった事を詫びるとともに、今後とも自分を支えてくれるよう申し出たのです。

結局、一鉄があまりにも信長に重用される事を妬んだ者によるウソの密告だったようですが、これを境に、信長は、ますます一鉄を信頼するようになり、一鉄も、信長が亡くなるまで、その思いに答えるべく尽くしました。

信長亡き後、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の合戦(3月11日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉の味方をしてからは、秀吉に仕えるようになりますが、翌・天正十二年の小牧・長久手の戦い(3月28日参照>>)で、対・小牧山の岩崎山砦の守備を任されたのを最後に、戦場へのお出ましは、どうやら引退されたようで、それから四年後の天正十六年(1588年)11月19日美濃清水城にて静かに息をひきとりました。

享年74歳・・・乱世の真っ只中に生きた武将としては、数少ない天寿を全うできた人・・・その生き抜く事ににおいても頑固一徹を貫いたと言ったところでしょうか。
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2009年11月18日 (水)

御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力

 

天保十一年(1840年)11月18日、第119代・光格天皇が70歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

この光格(こうかく)天皇・・・幕末のページで、しばしば、その名を拝見する第121代・孝明天皇のおじいさまであり、当然ながらその次の第122代・明治天皇のひいおじいさまにあたります。

先代の後桃園天皇が、生まれたばかりの皇女1人を残して亡くなったので、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子だった祐宮兼仁(さちのみやともひと)が養子に入り、光格天皇として皇位を継ぎました。

典仁親王が、第113代・東山天皇の孫にあたるので、皇室には違いないですが、直系という事になると、現在の天皇家は、この光格天皇から始まったという事になります。

9歳で即位し、24歳で先ほどの後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を皇后としました。

即位から数年後の天明二年(1782年)から天明七年(1787年)にかけて、ご存知の天明の大飢饉(12月16日参照>>)が発生します。

悪天候が続いていたうえに、例の浅間山の噴火(7月6日参照>>)によって、広域に火山灰が降り注ぎ、さらに噴煙によって起こる日射量の低下や異常気象によって、またたく間に全国的な飢餓状態となってしまいました。

飢えに苦しむ人々は、犬・猫はもちろん、人を口にするまで追い詰められ、各地では打ちこわし多発!・・・この状況は、天皇のおわす京都でも例外ではありませんでした。

京都の人々は、幕府の京都所司代に対策を講じるよう願い出ますが、いっこうにらちがあきません。

「幕府は何もしてくれない」と感じた人々の心は、ワラをもすがる気持ちで御所に向かいます。

最初に、その現象が起こったのは、天明七年(1787年)6月7日・・・はじめは、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていくというものでした。

ところが、それが数日後には3万の人となり、10日後には、なんと7万人にも達して、御所を巡りながら祈りを捧げます。

この現象は御所千度参り(ごしょせんどまいり)と呼ばれ、京都に限らず、大坂・河内や近江など、近畿一帯から人が集まったと言われています。

見るに見かねた後桜町上皇(第117代の天皇)(11月2日参照>>)は、御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配り、有栖川家九条家からも、お茶や握り飯が配られたと言います。

さらに、心痛めた光格天皇は、自ら民衆の救済を京都所司代に申し入れたのです。

実は、これが江戸幕府始まって以来の出来事・・・

そうです。

以前書かせていただいた第109代・明正天皇(11月10日参照>>)・・・そして、その父上である第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)のところで登場した『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

江戸の始めに徳川幕府が出した天皇の行動を制限するこの法令で、天皇家は幕府の許可なしには、何も出来ない状態にさせられてしまっていました。

つまり、天皇家が幕府に物申すのは、本来なら法令違反・・・光格天皇も、それを補佐する関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)も、さらに、賛同してくれる朝廷の方々も、皆、処罰覚悟の行動だったのです。

しかし、さすがに事態の深刻さを把握している幕府は、京都市民に対して米1500俵を放出する事を約束し、皇室の法令違反に対しても、その罪は問わないという決定をしました。

これは、江戸開幕以来、幕府が取り仕切っていた内政上の事項に対し、天皇が初めて関与し、幕府がそれに従ったという、前代未聞で大きな意味を持つ出来事でした。

翌年の天明八年(1788年)に起こった京都の大火では、皇居仙洞御所も焼けてしまいましたが、この再建に力を注いだ時の将軍・第11代徳川家斉に対して、光格天皇は直筆の詩を送ったと言います。

これを賜った家斉は、早速、老中の松平定信に見せ、定信はそれを床の間に掲げて宴会を催したのだとか・・・これも、御所千度参りという現象を目の当たりにして、いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているかを知り、幕府の中にも、多少の変化があったという事なのかも知れません。

また、光格天皇は、当時、度々通商を求めてきていたロシアとの交渉にも関心を寄せ、皇室での儀式や神事の復活にも力を注ぎました。

これは、この光格天皇によって、幕府に対する朝廷の発言力が高まった証とも言えますが、寛政元年(1789年)・・・この良好な関係にストップがかかります。

実は、光格天皇・・・自分が天皇になったにも関わらず、父上の典仁親王が親王ままでは気の毒だと、常々思っていたのです。

かの公家諸法度では、親王は大臣よりも低い地位ですから、なんとか父に尊号を送りたいと思い、幕府にその旨を伝えますが、これを幕府は断固拒否します。

光格天皇が希望を申し出てから、6年間に渡ってモメるこの尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)は、結局、光格天皇が矛を収めて落ち着いたのですが、尊号の願いが叶えられなかったとは言え、光格天皇によって、近代天皇制への下地が造られた事は確か・・・その観点からも、光格天皇は歴史に残る天皇であったと言えるでしょう。

ちなみに、この光格天皇がなし得なかった典仁親王の尊号・・・この願いを叶えるのは、光格天皇のひ孫で、同じ祐宮(さちのみや)と呼ばれた睦仁(むつひと)親王・・・そう、明治天皇なのですが、そのお話は、典仁親王のご命日である7月6日のページでどうぞ>>
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2009年11月17日 (火)

記念に改元~元正天皇の養老の滝・伝説

 

養老元年(717年)11月17日、岐阜に行幸した元正天皇が、「養老の滝」を命名した事にちなんで、養老に改元しました。

・・・・・・・・・

元正(げんしょう)天皇は、第44代の天皇として即位した女帝です。

先日の第109代・明正天皇のページ(11月10日参照>>)で少しお話しましたので、ご承知だと思いますが、いわゆる中継ぎのための女帝です。

第40代・天武天皇が亡くなった後、後を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなってしまい、その息子(天武天皇からみて孫)に後を継がせたいけど、まだ幼いってんで、天武天皇の奥さんである第41代・持統天皇が、自ら皇位を継ぎ、何とか踏ん張って、その孫=第42代・文武天皇に皇位を継承したものの、今度は、その文武天皇が亡くなった時に、皇位を継承するべき息子が幼かったために、文武天皇の母が第43代・元明天皇となり、それでもまだだったので、その娘である元正天皇が継ぎ、その次の第45代・聖武天皇へ・・・と、ややこしいので、とにかく系図を。。。

Keizugensyucc つまり、聖武天皇から見れば、「文武=お父さん」→「元明=おばあちゃん」→「元正=伯母さん」とバトンタッチされて、自分のところに回ってきた・・・という事です。

そんな中継ぎの女帝ではありましたが、元正天皇という方は、なかなか聡明なお方であったようで、「人民が富まなくては、国は栄えない」と、産業の発展に重きを置き、それまでの水田だけではなく、畑の開墾も推奨し、稲とともに麦の耕作にも力を注いだとの事・・・

そんな元正天皇が、霊亀三年(717年)9月20日に、美濃国(岐阜県)当耆郡(たきのこおり)に行幸した時に、多度山の美しい泉を目にしました。

その泉の水で、顔や手を洗ったところ、お肌がスベスベに・・・さらに、痛いところを洗ったら、またたく間に痛みが取れて治ってしまいます。

「こんな私にも効き目があるなんて!」
・・・と、元正天皇、大感激!

「しかも、聞くところによれば、この泉の水を飲んだり浴びたりした人の中には、目の病気が治ったり、長く続いていた病気が快復したり、ツルピカがボーボーになった人もいるんだとか・・・

遠く、中国にも、こんな霊泉があると聞いた事があります。
これは、吉兆に違いない!

これは、平凡で才能のない私への神様からの贈り物・・・元号を養老にしましょ!

・・・と、この(みことのり・天皇の公式発言)を発したのが、養老元年(717年)11月17日・・・で、この日がら元号が養老になったというワケです。

・・・って、滝は???( ̄◆ ̄;)

実は、この詔の段階の話では、滝はもちろん、お酒も出てきません。

すでに、その名が知れ渡った観光名所にケチをつけるつもりはありませんが、実際に元正天皇が沐浴されたのは、現在の岐阜県は養老町にあるの養老の滝ではなく、近くにある菊水泉という泉であったと言われています。

しかし、『続日本紀』には、すぐ後の12月に、すでに、この水でお酒を醸造した記録があり、おそらくは、かなりの名水で、そこから造ったお酒も、かなりの銘酒だったのでしょう。

そんなところから、徐々に、伝説が伝説となっていったようです。

鎌倉時代の建長四年(1252年)に成立した『十訓抄(じっきんしょう)には、教訓となる説話がいくつか収められていますが、その中に・・・

・‥…━━━☆

その昔、元正天皇の時代の美濃の国に、老いた父とともに暮らす貧乏な若者がおりました。

毎日、山に言っては草木を取って、細々と父を養っていましたが、この父が、毎日のように「お酒が野みたいなぁ・・・」とポツリ・・・

何とか、老いた父の夢を叶えてやりたいと、近所のお金持ちに頼み込んで、お酒を分けてもらったりしていましたが、ある日、いつものように薪を取ろうと山に入ったところ、苔むした石に足をすべらせて、スッテンコロリン。

しばらく気を失って、ふと目覚めると、なにやら、あたりにお酒の匂いが・・・

よく見ると、石の下から湧き出ている水が、どうやら普通の水ではない模様・・・恐る恐る汲んで飲んでみると、これがまさしくお酒。

大喜びの若者は、その日から、毎日お酒を汲みに来て、老いた父を養ったのだと・・・

で、この地にやって来て、このお話を聞いた元正天皇が、「これは、息子の孝行を見た神様のご褒美に違いない」と、この場所を養老の滝と命名し、元号を養老と改め、その孝行息子を美濃守に任命しましたとさ。

・‥…━━━☆

という説話が登場します。

岐阜県の養老の滝の伝説は、これによるものと思われますが、岐阜県に限らず、養老の滝の伝説は、鎌倉時代以前から各地にあり、上記の孝行息子が父にそのお酒を与えるお話のほかにも、滝のお酒を飲んで病気が治ったり、若返ったりという、ご存知の昔話がいくつかありますよね。

すでに、『万葉集』に、その不老長寿の滝の伝説の存在が詠まれていますので、古くからの養老伝説と、元正天皇が泉での沐浴で美肌になった伝説とが、相まって、養老の滝となったという事なのでしょう。

伝説は、ともあれ、おいしい水、身体にいい水である事は確かでしょうね。
 

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2009年11月16日 (月)

ここに来て 千も救うか 天地人

 

さて、いよいよ最終回を目前に控えた昨日の天地人・・・第46回・「大坂城・炎上」

予告を見る限りでは、来週は、ほぼ、思い出話で、最後の涙を誘う感じになりそうなので、手に汗握る?戦国モノとしては、今回が最高の盛り上がりを見せる回でもあります。

もはや、私の中では、すでに「JIN-仁-」マエセツのようになってしまっている天地人ですが、さずがにクライマックスとくれば、胸は高鳴ります。

さらに、先週のお題が「大坂の陣へ」、今週が「大坂城・炎上」・・・冬と夏を一気にやっちゃう感まるだしの表題で、番組最後の大ボケをカマしてくれているのですから、ツッコミ好きの関西人としては、「振られたボケには、心を込めて愛のツッコミを」という事で・・・よろしければ、私的な感想をお聞きくださいませ。

★大坂の陣のそれぞれについては
 【大坂の陣の年表】でどうぞ>>

・‥…━━━☆

方広寺の鐘銘にイチャモンをつけて豊臣を攻める事を決意した徳川家康・・・その命令を受けての出陣を前に、恒例の夫婦の会話・・・

お船:「今の苦しみは新しき世の産みの苦しみ」
兼続:「生まれて来る赤子のために耐えねばなるまい」

・・・と、目をうるましながらの感動シーンですが、見る側の心に、もう一つ響いて来ないのは、このドラマが常に戦闘シーンをナレーションでスルーしてきた事にあるのでしょう。

前々から言っておりますが、平和の素晴らしさ、愛の尊さを際立たせるためには、悲惨なシーンも存分に見せる必要があり、それを避けておいて、言葉だけで言われても、人はなかなかピンと来ないものです。

やがて、大坂冬の陣・・・

この時、冬の陣最大の激戦地となった今福・鴫野(現在の大阪城の北東あたり)で奮戦した上杉軍は、大坂方の井上頼次(よりつぐ)を討ち取って、なんとか鴫野(しぎの)を占拠します(11月26日参照>>)

この一報を受けた家康の・・・
「ご苦労さんやったな、ほな、疲れたやろから堀尾くんと代わってね」
の、言葉に対して、
「命を賭けて奪った地を、上意とは言えど、他人に渡す事はできません」
と、一蹴し、その後も最前線で戦い続ける景勝・・・と、なんで、こんなカッコイイ逸話を、このドラマはやらないのだろう?

ドラマでは、今福・鴫野で戦いがあった事だけがナレーションで語られ、あっさりと外堀を埋める事を条件に和睦となります。

ところで、この掘を埋めちゃう一件も、「外堀を埋めるだけだった約束を無視して、あれよあれよと言う間に、徳川方のお手伝いの連中が勝手に内堀まで埋めちゃった」事をつけ加えておかなければ、次の夏の陣につながり難い気がするのですが、その事は言ってましたっけ?

なんだか、いつの間にか豊臣方が内堀を埋める事も承諾したような展開になってた気がしないでもない(見逃してたらゴメンナサイヾ(_ _*))

そして、小休止の合間に、かつてともに暮らした事もある真田幸村と酒を酌み交わす兼続・・・

「豊臣に勝ち目はない」と、まるで未来を見て来たかのような幸村の弱気発言に、「叶わぬ夢も、次の世を生きる者には叶えられよう」との名言をのたまう兼続ですが、冬の陣がナレーションでスルーされている以上、それほどの感動は沸いてきません。

そして、その別れの時に、
「千姫さまを、お救いしたい!」と兼続・・・まさかと思いきや、とうとう千姫の救出劇も、主役の特権で兼続のお手柄という事に・・・

・・・てゆーか、最後に、この千姫の事を持ち出したために、幸村との和やかムードの盃が、ただの千姫命乞いのための面会になってしまいました。

まるで、「抽選で、あなたにキッチンばさみが当たりました!」と電話をかけ、賞品の配送とともに販売員がやって来て、高級な鍋を売りつけようとする訪問販売のようです。

私なら・・・
「お前、そのために、ワシに会うたんか!」
と、怒り爆発するところですが、やさしい幸村はすんなり「OK」・・・した模様

・・・で、その他モロモロをすっ飛ばして、いきなりの大坂城炎上シーン・・・

人魂を思わせるCGの火の粉が降り注ぎ、まるで、城内には4人しか人がいないのか?と思われるほどの閑散とした中、「私もご一緒に・・・」とすがる千姫を、真っ赤なハチマキで大奮闘の淀殿と、ちょっと小ぶりな秀頼「豊臣の義を見せるためにも生きよ」と説得・・・

そこへ、本来なら、前日に家康の本陣まぎわまで攻め込みながら、惜しくも天王寺で散った(そこが幸村の見せ場なのに・・・)はずの幸村が、人魂CGをかいくぐって登場し、千姫を半ば強引に連れて行く・・・

改めて言いますが、この間、1人として、逃げ惑う女中も、豊臣の御曹子を警護する兵士もいませんので、まるで、暗転の中でスポットライトを浴びての舞台のようなシーンとなってます。

そして、幸村によって井戸へと隠された千姫・・・その報告を幸村からの手紙で知った兼続は、京都の守りを命じられた軍の大将である事も忘れ、一路、大坂城へ・・・

井戸の中から千姫を救い出し、家康の元へと届けます。

そんな千姫、ジッチャンの前で開口一番・・・
「直江山城が救ってくれた!」

「え゛ぇ~?( ̄◆ ̄;)」(←幸村の驚きの声)

直江山城は隣にいるんだから、報告するなら「真田に救ってもらった」なのでは?

まぁ、すぐに兼続が「私ではなく、幸村が・・・」
と、正直に言うから良いものの、合戦での武功の報告は、本来なら、何かと自分をアピールするものなので、目撃者は忠実に報告しなければ・・・

・・・と、ここで、万が一、大坂の陣の千姫救出を、このドラマで初めて知った人がいらっしゃっては、大変!という事で、つけ加えておきますが・・・

すでに、このブログで書かせていただいているように、籠城組の主将格である大野治長から「秀頼の助命を、直接、家康に嘆願する」使命を受けた千姫を警護しつつ、大坂城を脱出したのは豊臣方の堀内氏久で、彼が、一番近くにあった徳川方の坂崎出羽守の陣へ連れて行った(くわしくは2月6日参照>>)というのが、今のところ一応の真相とされています。

先に書いたように、幸村は落城の前日に討死し、兼続は京都の守りについていました・・・この一件が、ドラマの創作であるという事は、知っていていただいたほうが良いと思いますので、あえて・・・

・・・と、数々のツッコミを入れさせていただきましたが、それでも、来週の最終回を楽しみにしているのですから、ぜひとも、最後の最後に、大いなる感動を呼ぶ作品として、大河ドラマの歴史に残るよう希望しています。

終わり良ければ、すべて良し!
最後に感動すれば、名作として人々の記憶に残るかも・・・期待しています。

追記:あれだけ、「お前の気持ちをムダにしない」と誓った石田三成の気持ちを、最後の最後、どうムダにせずに処理するのかが、見どころだと・・・楽しみです!
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2009年11月15日 (日)

恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍

 

明治三十九年(1906年)11月15日、坂本龍馬の妻として知られるお龍楢崎龍(ならさきりょう)が66歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

奇しくも、最愛の夫・坂本龍馬さんのご命日(2006年11月11日参照>>)と同じ11月15日なんですね~

まぁ、龍馬さんは、旧暦の慶応三年(1867年)なので、厳密には同じ日ではないのかも知れませんが・・・

お龍(りょう)は、医師・楢崎将作(ならさきしょうさく)の長女として天保十二年(1841年)に生まれましたが、父・将作が、尊王攘夷派の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと親しかった事から、安政の大獄(10月7日参照>>)に連座して捕らえられ、その後、獄中で死んだとも、釈放後に病死したとも・・・

とにかく、働き手の父が亡くなった事で、長女のお龍は、幼い弟・妹たちを養うために旅館に奉公したりなんかしますが、大した稼ぎにもならず一家はかなりの貧乏・・・そんな時に、龍馬と知り合います。

龍馬から、彼が定宿にしている京都・伏見の寺田屋を紹介され、今度は、そこで働きます。

そんな中の慶応二年(1866年)1月・・・龍馬が、薩長同盟を成立(1月21日参照>>)させた2日後に寺田屋で襲撃された時、彼女の機転によって、なんとか危険を回避したお話は、何度もドラマ化された名シーンですよね(1月23日参照>>)

その時に負傷して、しばらく西郷隆盛の宿所で療養した龍馬は、3月になってから、身の安全と療養を兼ね、お龍を連れて、薩摩・霧島の旅に出ます。

この時に、薩摩藩の小松帯刀(たてわき)に、お龍を「妻」と紹介した事から、二人は、寺田屋事件きっかけで結婚して、この鹿児島旅行は、日本初の新婚旅行・・・なんて事も言われたりしますが、ご存知のように、その翌年の11月に龍馬は暗殺されますので、二人の密月は、わずかに2年もなかった事になります。

ちなみに、お龍の証言によると、二人は寺田屋事件の2年前の元治元年(1864年)に内々の結婚式を挙げたとの事で、残念ながら、この時期には、もはや新婚さんとは言えず、鹿児島旅行が日本初の新婚旅行という話は、司馬遼太郎氏があの『竜馬がゆく』の中で披露した希望的観測な話のようです(><)(そもそも桂小五郎や小松帯刀が奥さんと旅行した方が時期的にも早いですし…)

ところで、龍馬と言えば、来年の大河も楽しみではありますが、今、現在放送中の「JIN-仁-」にも、内野さん演じる龍馬が出てますね。

あの軽快な演技に、
「龍馬はあんなに軽くない」
「もっと、どっしりと構えていてもらわないと・・・」
てな、意見もあるようですが、ワタクシ個人的には、あーいう龍馬さん、好きです。

・・・ていうか、実際にはもっと軽いと思ってます。
今風に言うなら「チャラ男」?

昔ながらの年季の入った龍馬ファンの方には怒られるかも知れませんが、もともと少ない史料の上に、ほぼ小説でつけられた現在の龍馬のイメージですから、想像するのは自由・・・って事で、今回は、言わせていただきますと、大事を成した人というのは、その成した事柄から、どうしても大器をイメージしてしまいますが、必ずしも、そうとは限らないと思います。

私のイメージする龍馬は、公と私、職務と休暇、仕事と遊び・・・このONとOFFを、きっちり分ける人ではなかったかと・・・めちゃめちゃヤンキーなのに、成績は学年トップみたいな?

しかも、交友関係を見るにつけ、かなりの「人たらし」であった事は確実だし・・・。

もちろん、この「人たらし」は「人を騙す」という意味ではなく、いつの間にか、相手を自分のペースに引き入れて「なんで、こんな事までしたらなアカンねん!」と思うような事まで、ついつい龍馬さんのためならしてしまう・・・という感じ。

さらに、彼は幼い頃から姉たちに可愛がられて育った経験から、女性に対しても、そのテクニックが見事に発揮される・・・

あの寺田屋の事件がドラマチックな事と、その後の新婚旅行などから、時代劇では、お龍さんしか登場しない事が多々ありますが、現実には、彼女以外にも、龍馬さんにはカノジョがいたわけで、それらのおネーサン方が、皆「自分が妻だ」と思ってるてな状態を保ち続ける事ができるほど、モテたと思いますし、自分でもモテようとしてたと思いますね。

実際、あの暗殺された日も、お龍さんではない、別のカノジョを部屋に呼んでますからね~(断られてますが・・・)

10代の少年時代から、姉の嫁ぎ先に泊まっては女中部屋に夜這いをかけ、、江戸に出れば道場の千葉佐那子(さなこ)(10月15日参照>>)と婚約までしておきながらほったらかして、そのまま土佐に戻れば、漢方医の娘・お徳と恋仲になり、脱藩の際には、おさななじみの平井加尾(かお)に無理難題を頼み(4月12日参照>>)長崎では、毎日、遊郭遊び・・・この長崎で親しくしていた中江兆民(ちょうみん)が、龍馬の頭髪について、「あの薄毛は、梅毒のせい」と言ってる事からも、その遊びっぷりがわかります。

しかし、その誰もが、「龍馬が憎い」とは思わない・・・
もちろん、当時は、一夫一婦でなくてはないらない事はないのですから、ご両人さえ良ければ、何人妻がおりやしょうと結構なんでござんすが、それがわかっていても、許してしまう魅力が、龍馬にはあったという事でしょうね。

そして、もう一つ、私がチャラ男だと思うところは、例の薩摩旅行・・・知ってる人は知ってる有名な話ですが、この時、お龍とともに高千穂の峰に登った龍馬が、その頂上に突き刺さっていた「天ノ逆鉾(あめのさかほこ)を抜いちゃうくだりです。

この「天ノ逆鉾」というのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降りた天孫降臨の時に、目印として投げた物が頂上に刺さったとされる、由緒のある、言わば遺跡or旧跡です。

それを、お龍と二人で抜いて「わずか4~5尺しかなかった」とか、「大いに笑った」とか・・・普通、抜きますか?
抜きませんよね?

龍馬の逸話だから、「やっぱ、器が違う」となりますが、普通はその名に傷がつきます。
(世界遺産に落書無用)

そんなチャラ男的要素を、見事に魅力に変えるのが、龍馬の龍馬たる所以・・・と、話が龍馬さんに傾きすぎましたので、お龍さんに戻しますが・・・

龍馬を亡くしたお龍は、彼の友人であった三吉慎造(みよししんぞう)のもとに身を寄せます。

これは、龍馬が常々「自分に万が一の事があったら・・・」と頼んでいたもので、「気の強いお龍を実家に預ければ、おそらく、気の強い姉・乙女(8月31日参照>>)とは、うまくいかないだろう」という事を考えて三吉に預けたなんて事が言われますが、案の定、その後、龍馬の実家に身を寄せたお龍は、家族とは折り合いが悪く、「非行がある」として、追い出されるような形で、高知をあとにします。

それから、親戚の家を点々とした後、明治二年(1869年)に京都に戻り、やがて明治十八年(1885年)、横須賀に住む妹の家に身を寄せていた45歳の時、隣家に住む西村松兵衛という商人と知り合い、結婚します。

しかし、再婚しても、龍馬の妻だったというプライドが捨てきれず、晩年は、お酒に溺れ、酒場で飲んだくれては「あたしは龍馬の妻よ!」と、周囲に絡んでいたのだとか・・・。

よく、ドラマでは賢女のカガミのように描かれるお龍さんですが、土佐藩士・佐々木高行が言うように、「美人だし悪い人間ではないが、賢婦とは言い難い」人だったと、私も思います。

・・・が、これはお龍さんの悪口ではないですよ!
むしろ、彼女は、龍馬にとって賢い女でなくてもよかったんだと思っています。

龍馬が何をやってる人なのかも知らなくていいし、日本の未来なんてどうでもいい・・・むしろ、それこそが、緊迫した日々の続く、京都での龍馬が求めていたカノジョだったのではないかと思います。

国の大事に奔走する時だからこそ、スイッチがOFFの時は、大いに遊んで、大いに笑って、大いにバカができるお龍が好きだったんでしょうね。

やがて明治三十九年(1906年)11月15日、晩年は、アルコール依存症状態になっていたお龍は、66歳の生涯を閉じます。

その墓石には、「阪本龍馬之妻龍子」と刻まれているのだとか・・・

そう、再婚した松兵衛さん・・・自らが建立する妻のお墓に、「西村松兵衛之妻」とせずに、「龍馬の妻」と・・・なんともいい人にお龍さんは巡り会えたものです。

ちなみに、婚約したままほったらかしにした佐那子さんのお墓にも「坂本龍馬室」と刻まれているそうですが、それこそ「憎めないアイツ」の人たらしのなせるワザ・・・と言ったところでしょうか。

★追記:2001年に見つかったお龍さんとおぼしき写真は、昨年、ほぼ本人である事が断定されました・・・今後は、ドラマでもあのイメージで登場するのでしょう。
楽しみです。

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2009年11月13日 (金)

尼子経久~下克上の果てに・・・

 

天文十年(1541年)11月13日、北条早雲と並んで、戦国の下克上のお手本と言われる尼子経久が84歳で病死しました

・・・・・・・・

このブログで、すでに度々登場している毛利元就(もうりもとなり)のお話の中で、その元就が家督を継いだ頃の毛利氏は、中国地方に勢力を誇っていた二大大名・大内氏尼子氏に挟まれた小国人であったと書かせていただきました。

そして、そこに登場する尼子氏の事を、あの婆沙羅(バサラ)大名で有名な室町時代の武将・佐々木道誉(どうよ)を祖に持つ源氏の名門である事も、どこかのページで書かせていただいたと思います。

しかし、そんな尼子氏・・・この尼子経久(あまこつねひさ)の代で、守護代を務めていた出雲(島根県)を追われているのです。

つまり、この経久は、一度地獄に落ちた後、再び這い上がって、一代で、出雲石見(いわみ)隠岐(おき・以上島根県)伯耆(ほうき)因幡(いなば・以上鳥取県)安芸(あき・広島県)備後備中備前美作(みまさか・以上岡山県)播磨(はりま・兵庫県)11ヶ国を手中に治める大大名にのし上がったというわけなのです。

まさに、下克上のお手本とも言える身の起しぶりですが、ただ、経久さんに関してのお話は、リアルタイムな史料が少なく、いずれも、後世の軍記物・・・お芝居がかった部分もあり、どこまで真実に近いのかはわかりませんが、とりあえず、本日は、その尼子経久の下克上物語を・・・

・‥…━━━☆

長禄二年(1458年)に、父・尼子清定の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)で生まれた尼子経久・・・当時の出雲の守護は京極氏(8月7日参照>>)一門の尼子氏は、その守護代でした。

その主従関係の証として、幼い頃、京極氏に人質として出された経久は、おかげで京都という中心の地で、高い教養を身に着けるチャンスに恵まれます

根っからの武勇と相まり、文武両道の優れた若者に育った息子に、父・清定は大いに期待を寄せて、早くから政務につかせて経験を積ませようと、彼が21歳の時に家督を譲ります。

・・・とは、言え、父の希望は、単に守護代としての職務を真っ当するという物ではなく、守護の京極氏から、この出雲の地を乗っ取る事にありました。

すでに、父の思いを重々承知の経久・・・父とともに、税金を徴収しながら都に送らず、寺社領を横領するという行為で、京極氏を挑発します。

当然、京極氏は激怒して、守護代・経久をクビにするわけですが、彼ら父子には勝算がありました。

京都に郷を構える京極氏に対して、おそらく、地元の国人衆は、自分たちの味方についてくれるだろうと・・・

しかし、蓋を開けてみると、そのもくろみは見事ハズレ、ほとんどの国人が京極氏の味方となり、父子は、あっさりと敗れて地元を追われてしまいます。

父・清定は浪人として諸国を放浪中に病死・・・経久は、一門の佐々木氏六角氏を頼りますが、いずれも門前払いで、しかたなく、母方の実家・真木上野介(まきこうずけのすけ)のもとに身を寄せながら、武者修行と称して出雲国内を巡り、昔なじみに声をかけて、「尼子再興を計りたい!」という自らの意思を示して協力を求めて回りました。

しかし、もはや、彼の味方になろうという人は、ほとんどいません。

わずかに、父・清定の弟・幸久の家系・山中氏の郎党が十数人、自らの元家臣が数十名・・・これでは、なんとも心もとない・・・

そんな中、経久は、月山を本拠地に活動する芸能集団・鉢屋党の頭目・弥三郎を味方に引き入れる事に成功します。

彼らの集団は、70名余り・・・
しかも、芸能集団という隠れ蓑・・・
経久は、秘策を考え出します。

浪人の身となってから約二年、文明十七年(1486年)が暮れようとする大晦日・・・まさに除夜の鐘が鳴り響く闇夜の中を、経久らの一団が、搦め手から富田城内へと侵入し、密かにその時を待ちます。

そして・・・ピ・ピ・ピーン・・・0時をお知らせします。
日の出は、まだ遠いものの、新年がやってきました。

かねてより、新年の祝賀行事をしきってきた鉢屋党は、
「万歳~!」
「おめでとうございま~す」
「いつもより、多めに回しておりま~す!」
と、笛や太鼓の音も賑やかに、新年を祝賀する歌舞を披露しながら、堂々と大手門から城内へと入ります。

新年の祝賀ムード真っ最中だった城内は、賑やかな踊りを一目見ようと、次々に人が飛び出してきて、本丸も館も、ほぼカラッポの状態に・・・

「今がチャンス!」とみてとった経久・配下の者が、一斉に火を放ち、城のあちこちから火の手があがります。

それを合図に、鉢屋党の面々が、きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、衣装の下に隠し持っていた刀や槍で、周囲に群がる見物人に斬りかかります。

祝賀ムードで、多くの者が武器を持たずにいた城兵は、もう、こうなるとなす術もなく、次々と討たれていきます。

さすがに、城将の塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は、槍を手に持ち応戦しますが、もはや、煙で、一寸先が見えない状態・・・近寄る者を斬って捨てた中に多くの部下の姿を見た掃部介は、「もはや、これまで!」と、妻子を斬り、自らも自害しました。

こうして、わずかの手勢で富田城を落とした経久の評判は、周辺諸国に一気に広まります。

一方で、京極氏が、時の当主・京極政経(まさつね)のもとで家臣団が分裂し、その勢力が衰えるという、経久にとってはラッキーな事もあり、政経の死後は、事実上、経久が出雲を統治する事となります。

その後、着実に領地を広げ、中国地方の覇者となっていく経久でしたが、途中、嫡男・政久(まさひさ)の死という悲しい出来事もありました。

永正十五年(1518年)に尼子に叛旗をひるがえした桜井宗的(そうてき)の居城・砥石城(といしじょう)を、息子・政久が大将となって兵糧攻めの最中、敵の矢に当たって亡くなってしまったのです。

一報を聞いて冨田城から駆けつけた経久は、まもなく宗的を討ち取りますが、すでに61歳になっていた彼にとって、期待の嫡男死は、かなりのショックでした。

亡き政久の嫡男・晴久(詮久)は、未だ幼く、次男・国久(くにひさ)、三男・興久(おきひさ)は、武勇は優れているものの、その器量は、経久のメガネに叶うものではありませんでした。

そこで、経久は、この後、自らの弟の久幸(ひさゆき・義勝)に家督を譲ろうとしますが、久幸は「総領の晴久が継ぐべき・・・我らが、後見人として晴久を盛りたてていくので、晴久の成長を待っていただきたい」と進言します。

「それならば・・・」
と、久幸の意見に従う経久でしたが、その事に不満を持ったのか、亨禄三年(1530年)、塩治を継いでいた三男・興久が叛旗をひるがえします。

この反乱は4年後の天文三年(1534年)に鎮圧され、興久も自刃しますが、この間に、尼子の配下となっていた安芸の武田氏友田氏大内氏に敗北し、あの毛利元就も尼子から大内に寝返り・・・と、中国地方の勢力図が徐々に変わりつつある中、経久は成長した晴久に家督を譲ります。

一方、これまでは、九州の大友氏との争いを重視し、東の尼子氏とは、まがりなりにも友好関係を築いていた大内氏が、ここに来て大友氏と和睦をし、逆に尼子氏を敵視しはじめます。

もはや両者の決裂が確実となった事で、早期に決着を着けたい晴久は、天文九年(1540年)、大内の参加となった毛利の郡山城を攻める事にします。

この時、27歳の晴久に、かの久幸は
「元就は智謀に長けた武将やから、血気にはやらず、じっくりと見据えてから事を起こすべきやで」
と進言しますが、そんな久幸を晴久は「尼子比丘尼(あまこびくに)とバカにしてその臆病ぶりを罵ったと言います。

すでに、その年齢から病気にふせっていた経久も、晴久を病床に呼び、
家が滅ぶのは、一族の不和から・・・この事を胸に刻んで、親類をいたわり尊敬して、わがままに驕ってはいかん!」
と、出陣をとりやめるよう説得しますが、もはや晴久は取り合いません。

出陣を前にして、兄・経久を見舞った久幸は、
「兄貴も、もうかなりのお歳ですから、僕も、潔く、かの地で討死する覚悟ですが、心残りは大将の器ではない晴久の事・・・僕ら二人が死んだら、この家が滅ぶのも、そう遠くないかも知れません」
と言い、二人は、涙を流しながら、別れの盃を交わしたのだとか・・・

3ヶ月以上に及んだ籠城戦で晴久は、案の定、元就に手痛い敗北を受け(1月13日参照>>)、久幸はその言葉どおり、晴久を最後まで守り抜いて討死しました。

その敗北と同じ年・・・天文十年(1541年)11月13日経久は静かに84歳の生涯を閉じました。

その昔、苦渋をなめた事で様々な経験を積み、飢えた者には食事を与え、凍えた者には衣服を与え、怪我をした者には薬を与え、討死した者の家族を保護するという、周囲への心配りが見事だったという経久・・・

病にふせるその目に、孫・晴久の敗北はどのように映ったのでしょうか・・・

また、彼の遺言ともいえる家が滅ぶのは、一族の不和からの言葉は、晴久の心に響いたのでしょうか?

・‥…━━━☆

・・・では、ありますが、軍記物は、あくまで経久が主役で、主役を引き立たせるためか、晴久をかなりの愚将呼ばわりしていますが、現実には、晴久の時代が最盛期だったとも言われ、個人的にはそこまでの愚将とは思えませんが、この郡山城の敗北が、尼子氏にひとつの影を落とした事は確かかも知れません。
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2009年11月12日 (木)

長州を守るため~福原越後の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の福原越後が岩国の龍護寺にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

福原越後(ふくはらえちご)は、周防(山口県)・徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の六男として文化十二年(1815年)に生まれました。

実名を元僴(もとたけ)と言いますが、越後の呼び名が一般的なので、今日は越後さんで通させていただきます。

六男なので家督を継げない越後は、長州藩士・佐世親長(させちかなが)の養子となり、嘉永四年(1851年)には長州藩の家老に昇進します。

しかし、佐世家が家老を継ぐ家柄ではなかったため、その後、藩の命令で、家老職の家柄である福原家を継承する事となり福原姓を名乗るようになります。

寡黙で温厚でありながら、決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老・・・彼の評判に、悪いところはいっさい見当たりません。

しかし、そんな越後が、「不忠・不義」と罵られ、最終的には藩主の命令で切腹して果てる・・・そんな悲しい運命をたどります。

そもそもは、幕末の動乱の中、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の先頭を走っていた長州藩・・・

それが、文久三年(1863年)朝廷内での公武合体(こうぶがったい・天皇と幕府の協力)派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王が、薩摩と会津の協力を得て、尊王攘夷派を朝廷から追い出すクーデターを決行したのです。

八月十八日の政変です(8月18日参照>>)

薩摩と会津の兵士によって封鎖された門から御所の中に入れない状態となった長州藩は、朝廷内の尊王攘夷派だった三条実美(さねとみ)らをともなって郷里へと、一旦、引き下がります。

しかし、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で、会津藩預かりの新撰組によって、何名かの藩士殺害された事をきっかけに、長州藩の積極派が中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都に押し寄せたのです。

この時、御所の蛤御門(はまぐりごもん・禁門)で最も激しい交戦があった事から、これを蛤御門(禁門)の変と言います。

この蛤御門の変の中心人物が、益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)(2011年11月12日参照>>)、そして、今回の越後という3人の家老だったわけです。

とは言え、実際には、藩主・毛利敬親(たかちか・慶親)の命令であって、彼ら3人の家老は、それに従ったまで・・・交戦後の長州藩の陣地からは、藩主の刻印の押された軍令状が発見されているのですから、そこのところは疑う余地はないでしょう。

・・・で、ご存知のように、この蛤御門の変では、長州は手痛い敗北を喰らってしまうわけですが、今回主役の越後さんは、この時、伏見の陣にて指揮を取っていて、その伏見で銃弾を受け、結局、御所へは行く事なく、戦線を離脱しています(7月19日参照>>)

しかし、最も激戦となった蛤御門で、長州の放った銃弾が御所に命中した事に激怒した時の天皇・孝明天皇の態度で、事は、長州が思い描いていた以上の大ごとへと展開してしまいます。

勝つか負けるか・・・そのへんの判断を長州側がどこまで見通していたかどうかはともかく、少なくとも、この大軍を率いて京都を奪回しようという行為は、尊王攘夷のトップとしての行動・・・つまり、天皇のためにやってるわけです。

ところが、その天皇が激怒して、幕府に長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)を出してしまうのです。

天皇のためと思ってやった行動で朝敵となってしまった長州・・・。

一方、勅命を受けた幕府は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を総督に、越前(福井県)や薩摩など15万の兵を広島に集結させます・・・これが、第一次長州征伐です。

この出来事で、長州藩内の勢力図も大きく変わります。

それまでも、下関戦争(5月10日参照>>)の関係で分裂気味だった藩内は、この一件で保守派が牛耳る事になり、とにかく長州征伐を回避するために、恭順な姿勢をとる事になったのです。

その謝罪のために行われたのが、3人の家老の首を差し出す事でした。

彼ら、3人の家老が藩主に背いて勝手な行動をとって事件を起したので、彼らを処分しました・・・「だから許してね」って事です。

だからって、
「藩主ズルイ!」
・・・とは、言わないであげて下さい。

これは、藩主個人の意向ではなく、長州藩全体での決定・・・彼らは、もし、これで事が治まらなかった、藩主はもちろん、その世継ぎまで犠牲にする覚悟で、朝廷と幕府への謝罪に徹したのです。

藩の存続のため、その犠牲となってしまった越後・・・切腹の直前には、無言のまま静かに一筋の涙を流したと言います。

元治元年(1864年)11月12日福原越後、切腹・・・享年・50歳でした。

彼らの死を以って、第一次長州征伐が回避された事がせめてもの救いかもしれませんが、誇り高き血筋に生まれた越後にとって、不忠の汚名を着なけらばならなかった事は、何より屈辱であった事でしょう。

そんな保守派に牛耳られた長州藩を大転換させるのは、高杉晋作のクーデター・・・越後の死から、わずか1ヶ月後の事でした(12月16日:高杉晋作、功山寺で挙兵を参照>>)
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2009年11月11日 (水)

かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで

 

今日、11月11日は、『下駄の日』という記念日らしい・・・

下駄(げた)の足跡が「11 11」に見えるところから、伊豆の国市観光協会が制定したのだとか・・・

なぜに?伊豆?
・・・という事はともかくとして、下駄の日なので、やっぱゲタの歴史と、それに関連して、以前から、どこかの話題にもぐり込ませようと考えていた日本人の歩き方についてお話させていただきます。

・‥…━━━☆

下駄の歴史は、想像以上に古いです。

なんせ、弥生式の土器に登場しているのですから・・・

ただし、この頃の下駄は、日常にはいて歩く物ではなく、水田耕作用に造られた田げたという物で、いわゆる雪国のかんじきのように、泥田の中に足がもぐってしまわないようにするための下駄でした。

そして、もう一つ、大陸と交流するようになって、下駄のルーツのような物が輸入されたという説もあり、察するに、外国の物と日本の農業用のが入り混じって、やがては日常の履き物へと変化していったように思います。

それでも、しばらくは、洪水の時に使用したり、水濡れするような職場で使用されたりと、主に仕事用の履き物として使用されていた下駄でしたが、そんな下駄が日常的な履き物となるのは、江戸時代の中期頃から・・・

現在のような形になったのは18世紀初頭=宝永年間(1704年~1710年)であろうと推測されます。

その後、正徳年間(1711年~1715年)頃には塗りの下駄が流行し、文化文政の時代(1804年~1829年)にはポックリの流行・・・と、今の人気ファッションと同じように、時々の流行で新製品が生まれ、その中の良い物は定番として残っていくといった形で、デザインも多様になり、様々な工夫もされていったようです。

ただし、実際に、下駄を一般庶民の誰もが履くようになるのは、明治以降の事だそうで、やはり、それまでは、草履(ぞうり)草鞋(わらじ)というのが主流だったようです。

ところで、この日本の伝統的な履き物である下駄・草履・草鞋・・・これらの履き物すべてにかかとが無い事にお気づきでしょうか。

これには、日本人独特の歩き方・走り方が関係しているのです。

実は、日本人が現在のような歩き方・走り方をするようになったのは、明治以降・・・以前、靴の記念日』(3月15日参照>>)に書かせていただいたように、維新となって、真っ先に西洋式に移行したのが、新政府の軍隊でした。

当然、そのページにあるような西洋式の軍服や靴などの衣服だけでなく、軍隊の行進も、西洋の物を見習った歩き方に変えられたわけで、それが、現在の日本人の歩き方なわけです。

現在は、「外国から輸入された靴を日本人が履けない(サイズ違いは別ですよ)なんて事はないわけですが、当時、最初に輸入された靴を、徴兵された一般庶民が誰も履けなかったという事は、やはり、歩き方が違っていたからではないでしょうか。

では、なぜ、日本人は、西洋とは違う歩き方をしていたのか?

それは、日本の地形です。

目と鼻の先に山をひかえた日本人にとって、欧米や大陸のように、平坦な国土に張りめぐらされた平坦の道を歩くという事が少なかったのです。

古来より、細く曲がりくねった山道を歩いて来た日本人は、背筋をピンと伸ばして歩く事はなく、自然と前のめりになり、後ろ足のつま先で地面を蹴り、前に踏み出した足に体重移動して、さらにその前に進むという方式で、この歩き方だと、かかとは地面につきません。

なので、日本の履き物には、かかとがないのです。

そして、体重移動で前に進むという事は、自然と、手と足は、同時に前に出るわけで、現在の、左足が前に出た時に、右手が前に出る歩き方とは、まったく違う事がわかります。

この歩き方・走り方は『ナンバ』と呼ばれ、北京オリンピックのリレーで銅メダル獲得に貢献した末續(すえつぐ)慎吾選手が、アジア大会で新記録を出したときにナンバ走りの動きを意識して走りました」と、答えた事から、一気にその名前が有名になりましたね。

そうなんです。

このナンバ・・・現在のスポーツ理論によれば、これを完璧にマスターすれば、数段早く、数段長い距離を、数段疲れずに歩ける(走れる)らしく、スポーツ選手などが、その歩き方・走り方を研究し、練習に取り入れて、より良い記録に挑戦しているのですが、悲しいかな、実際に、この歩き方のホンモノが伝承されていません。

古武術研究家の方の研究や、未だ残る狂言や歌舞伎の歩き方などから、「このような歩き方であったであろう」という推測はされてはいるのですが・・・確かに、体重移動などは、実際にその歩き方を見てみない限りは、再現できませんよね。

なので、現在研究中のナンバが、どこまで本物のナンバに近いのかは、未だ誰もわからないわけです。

そして、相撲のてっぽうなども、手と足が同時に出る事から、歩いたり走ったりだけではなく、力も強くなる=重い物も持てるのでは?とも言われているようですが、なんせ完璧に再現できないので、その効果は未知数です。

ただ、江戸時代の飛脚は、このナンバのおかげで、長距離を疲れずにいち早く移動できたとも言われ、それを聞くと、松尾芭蕉奥の細道で、異常に早く旅をこなした事もうなずけます。

改めて、「日本人、すごいゾ!」と自慢したくなりますね。
忘れられてしまった事が残念ですが・・・
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2009年11月10日 (火)

父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇

 

元禄九年(1696年)11月10日、第109代明正天皇が74歳で崩御されました。

・・・・・・・・・・

明正(めいしょう)天皇女帝・・・それも、第48代・称徳(しょうとく)天皇以来・・・859年ぶりの女帝です。

何年か前に、改定するのしないのと問題になった皇室典範により、明治以降は、男系男子の限られている天皇ですが、歴史上、日本には8人=10代の女性天皇がいらっしゃいます。

明正天皇は、その7人目の女帝・・・

これらの女帝・誕生劇は大きく分けて二つ・・・仮に安定型中継ぎ型とでもしときましょうか・・・

明正天皇が8人中7番目という事は、8人中6人の女帝が称徳天皇の奈良時代以前に誕生している事がわかりますが、最初の女帝となった第33代・推古(すいこ)天皇から、数えて16代目の称徳天皇まで、その半数が女帝という飛鳥~奈良の時代・・・。

最初の推古天皇は第32代崇峻(すしゅん)天皇・暗殺(11月3日参照>>)の後に・・・

第35と37代の2度天皇になった皇極(こうぎょく・斉明)天皇大化の改新(6月12日参照>>)前後に・・・と、血生臭い事件後に不安定な政権を安定させるために擁立された女帝

その後の、第41代持統天皇(12月22日参照>>)、第43代元明天皇、第44代元正天皇【(11月17日参照>>)は、いずれも、皇位を継がせたい皇子が幼い場合、その成長を待つための中継ぎのための女帝です。

まぁ、最初の持統天皇は、中継ぎらしからぬ政治的手腕を発揮しますが、その根底にあるのは、皇位を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなり、未だ幼かった孫の文武天皇へと引き継ぐためです。

この中継ぎ女帝の誕生には、天皇が政治の中心だった飛鳥の前半が過ぎ、飛鳥後半になって徐々に力をつけはじめてきた藤原氏勢力の思惑も絡んでいます。

また、最後の女帝となった第117代の後桜町天皇も、(さすがに藤原氏ではないですが)次期天皇となるべき皇子が幼かった故の中継ぎ女帝です。

そんな中で、859年間の空白の最初と最後となった称徳天皇と明正天皇・・・このお二人は異彩を放ってます。

称徳天皇は第46代孝謙天皇と同一人物・・・そう、あの藤原仲麻呂(恵美押勝)道鏡がらみでその名を残す女帝で、どうあっても天皇の外戚(母方の実家)を手放したくない藤原氏の思惑で、女性として初めて皇太子となってから天皇の座についた人です(くわしくは7月4日参照>>)

そして、今回の明正天皇・・・この明正天皇の誕生は、藤原氏と同じく、天皇の外戚をゲットしたい徳川家と、その真意を察して意地の譲位を決行した第108代後水尾(ごみずのお)天皇前代未聞の天皇交代劇だったのです。

そもそもは元和元年(1615年)・・・大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家を滅ぼした徳川は、その直後に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布します。

これは、天皇の行動を幕府が監視・制限しようとする前代未聞の法律ですから、当然、天皇をはじめとする朝廷側が反発するのは当たり前・・・

しかも、後水尾天皇から見れば、先代の父・後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)の時代から、何かと親切に天皇家をたててくれていた豊臣秀吉の後継者を死に至らしめた徳川には、あまり良い印象を持てません。

そのため、後水尾天皇は、すでに慶長十九年(1614年)に決まっていた2代将軍・徳川秀忠と正室・お江(江与)の間に生まれた娘・和子(6月15日参照>>)との結婚を、ここに来て拒みはじめます

そうこうしているうちに、後水尾天皇と別の女性との間に1男・1女が誕生・・・激怒した秀忠が、天皇に退位をちらつかせたため、やむなく、元和六年(1620年)、天皇は和子との結婚に踏み切りました。

こうして、結婚から三年後の元和九年(1623年)に二人の間に生まれたのが女一宮(おんないちのみや)=後の明正天皇です。

まもなく、男の子も生まれた段階で、後水尾天皇は、はやくもその皇子に皇位を譲ろうとします。

それは、かの禁中並公家諸法度・・・これは、天皇の権限を制限してますから、後水尾天皇が天皇でなくなれば、その制限はうんと軽くなるわけで、幼い天皇の後ろで、存分に腕を奮う事かできます・・・一方の徳川家だって、もともと天皇の外戚になりたいための政略結婚ですから、その皇子が皇位を継ぐ事に依存はないはず・・・って事です。

ところがドッコイ!
この高仁親王が2歳になる前に死亡・・・後水尾天皇は、しかたなく、その姉の女一宮への皇位継承を打診しますが、これには徳川家がNO!

確かに、徳川家は天皇の外戚が欲しいですが、これだと、その欲しい度がいかにもあからさま・・・まさに、859年前に藤原氏があわてて孝謙天皇を即位させたカッコ悪さそのものです。

後水尾天皇と和子の間には、まだ男の子が生まれる可能性もあるのですから、ここで徳川家がそこまで急ぐ必要はありません。

「譲るよん!」
「いや、もうちょい 待って~」
と、やってるうちの寛永四年(1627年)、朝廷の決定した事を幕府が取り消すという天皇の面目丸潰れの事件=紫衣(しえ)事件が起こります(11月8日参照>>)

さらに、寛永六年(1629年)、あの春日局(かすがのつぼね・お福)が、無位無冠の身分で後水尾天皇に拝謁するという、これまでの伝統ぶち破りをやってしまいます(10月10日の後半部分参照>>)

そのわずか1ヵ月後・・・後水尾天皇は、幕府に無断で、娘に皇位を譲ってしまいます

明正天皇の誕生です。

さすがに、「怒ってはるワι(´Д`υ)アセアセ」
・・・と感じた幕府は、「驚いた事ではあるが、ともかく叡慮(天皇のお考え)のままに・・」と返答し、幕府側の関係者を処分するだけで、あえて争いは避けました。

その後、3代将軍・徳川家光によって院政が承認され、現役天皇の後ろで思う存分に腕を奮う事ができるようになった後水尾上皇も満足満足・・・朝廷と幕府の関係も、しだいに穏やかな物となっていきます。

・・・という事で、明正天皇自身は、父の院政の下、直接政務に関わる事はありませんでしたが、なんせ、天皇の娘であり、将軍の姪っ子であるわけですから、その存在自体が、朝廷と幕府の関係修復に大いに役立った事は確かです。

そして15年間の天皇での期間を終えた明正天皇は、21歳で皇位を異母弟の紹仁(つぐひと)親王(後光明天皇)に譲りました。

押し絵などの手芸が大好きだったという明正天皇・・・天皇を引退した後は、父・後水尾天皇と母・和子(東福門院)とを連れ立って、父が設計した修学院離宮へ度々訪れ、家族仲良く過ごす事が多かったと言います。

政略結婚・・・しかも、あれほどのドタバタで結婚した後水尾天皇と和子さんが、娘を間に挟んで離宮で楽しく老後を過ごす・・・プライスレス

それもこれも、明正天皇の穏やかな性格を物語っているようです。

そんな明正天皇・・・元禄九年(1696年)11月10日74歳でこの世を去りました

この明正天皇という追号は、あの奈良時代の元明天皇と元正天皇の二人の女帝から、それぞれの一字をとったという事です。
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2009年11月 9日 (月)

ナユタとフカシギ

 

『ナユタとフカシギ』・・・

これは、すでにご存知でしょうが、大橋卓弥さん&常田真太郎さんという男性二人で構成される音楽ユニット・スキマスイッチが、11月4日に発売した4作目のオリジナルアルバムのタイトルです。

『ナユタ』『フカシギ』・・・
久々に、この言葉というか単語を耳にしました。

初めてこれを習ったのは、ずいぶんと前の事で、その習った時に、「おそらく、この先、一生この単語を使う事も耳にする事もあるまい」と思いました。

そして、月日が経って、その習った事すら忘れていた自分・・・

久々に、この単語を聞いて、習った時に「なんじゃ?こりゃ!」というツッコミを入れながら味わった衝撃と、それだけの衝撃を受けたにも関わらず、すっかり忘れていた自分自身が、なんだかオモシロくて、今回は、この『ナユタ』&『フカシギ』の言葉の意味について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

これは、寛永四年(1627年)に吉田光由(みつよし)という和算家が執筆した『塵劫記(じんこうき)という文献の中に登場するもの・・・

この書物は、数の桁の名称や単位、掛け算や九九などの計算の仕方や、面積の出し方など、いわゆる算術の解説書です。

この一冊で、ほぼ、日常生活に必要な、様々な計算が網羅されているうえ、一般人にもわかりやすく書かれている事から大ベストセラーとなり、さらに、江戸時代を通じて、この本以上の物が登場しなかった事で大ロングセラーにもなり、明治になるまで、何度も出版しなおされた本なのです。

もちろん、江戸時代の多くの学者にも影響を与え・・・いや、今なお、私たちも、これを基本として使っているのです。

一・十・百・千・万・億・兆・京・・・よく使うのは、このあたりまでですね。

そうです・・・この十の位(くらい)、百の位、という数字の桁の名称・・・これが、『塵劫記』の中で紹介されているのです。

もちろん、この桁の名称は、別に吉田さんが創作したわけではなく、中国から伝わっ後、日本でも古くから使われていたわけですが、現在もこの桁の名称が使用されているのは、やっぱり江戸時代に『塵劫記』が大ヒットして、一般庶民にまで数学が浸透した事が基本となっているのでしょう。

・・・で、かの『ナユタ』『フカシギ』は、兆・京・垓・・・と続く、ず~っと先の大きい桁の名称なのです。

もちろん、スキマスイッチのお二人も、これをご存知で、「無限の可能性へと向かう二人の気持ち」を表現するために、この無限にも近い数字の桁の名称をタイトルに使用されたようです(小耳に挟んだ情報ですが・・・)

では、ここで、私が「一生使うか!」と思った物も含めて、ご紹介させていただきます。

名称 読み 換算量
一(壱) いち 1
十(拾) じゅう 10
ひゃく 10の2乗
せん 10の3乗
万(萬) まん 10の4乗
おく 10の8乗
ちょう 10の12乗
けい 10の16乗
がい 10の20乗
禾予(*1) じょ 10の24乗
じょう 10の28乗
こう 10の32乗
かん 10の36乗
せい 10の40乗
さい 10の44乗
きょく 10の48乗
恒河沙 ごうがしゃ 10の52乗
阿僧祗 あそうぎ 10の56乗
那由他 なゆた 10の60乗
不可思議 ふかしぎ 10の64乗
無量大数 むりょうたいすう 10の68乗

「(*1)=のぎへんに予(文字が出ません(。>0<。))」

小学生の皆さんのために説明しますと・・・
10の2乗=百はゼロが二つ着いて100
10の3乗=千はゼロが三つついて1000という事です。

・・・ね!
「なんじゃ?こりゃ!」ってなりますよね。

ついでに、私が同時に習って、さらに「ひぇ~」となった小さい桁もご紹介!

名称 読み 換算量
10の-1乗
りん 10の-2乗
もう 10の-3乗
糸(絲) 10の-4乗
こつ 10の-5乗
10の-6乗
せん 10の-7乗
しゃ 10の-8乗
じん 10の-9乗
あい 10の-10乗
びょう 10の-11乗
ばく 10の-12乗
模糊 もこ 10の-13乗
逡巡 しゅんじゅん 10の-14乗
須臾 しゅゆ 10の-15乗
瞬息 しゅんそく 10の-16乗
弾指 だんし 10の-17乗
刹那 せつな 10の-18乗
六徳 りっとく 10の-19乗
空虚 くうきょ 10の-20乗
清浄    せいじょう    10の-21乗

10の-1乗=1分は0.1
10の-2乗=1厘は0.01

ギガテラも、ナノピコもメじゃないね!

日本の算術も大したモンです。

「大根を1ゴウガシャ下さいな」
「ローンの金利が1モコになったぜ」

・・・・

言~ってみてぇ~!beer
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2009年11月 8日 (日)

役人の不正は許さん!「尾張国郡司百姓等解文」

 

永延二年(988年)11月8日、尾張国(愛知県)の郡司・百姓たちが、国司・藤原元命の悪政を訴えて立ち上がりました。

・・・・・・・・・・・

いつの世も、役人の不正はなくならないものです。

権力のあるところには、必ず甘い汁のおこぼれに預かって私腹を肥やそうとする輩が集まるもの・・・

しかし、そんな政治家をを許す事なく、常に人々が立ち向かってきた歴史も数多くあるのです。

農民や一般市民が心を一つにして、国や地方の権力者に立ち向かう・・・と言えば、室町時代以降の百姓一揆を思い浮かべますが、どうしてどうして、平安時代のはじめ頃からすでにありました。

早いところでは、天安元年(857年)に対馬嶋守(つしましまのかみ)立野正岑(たちののまさみね)が、郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)らが率いる300余名の百姓に襲撃される事件が起きています。

また、元慶七年(883年)には、筑紫国(福岡県)の国守・都御酉(みやこのみとり)が、強盗を装った下級役人率いる集団100人に館を襲われ、射殺されています。

この時代、地方の行政は事実上、国司にまかされていました。

国司というのは、国ごとに置かれた地方行政官で、上から(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)四等官で構成され、任期は6年ないし4年・・・この頃は、すでに、中央のいいポストは藤原一族の独占状態でしたから、藤原以外、あるいは藤原でも末端のほうの一族にとっての生き残りポストだったのです。

国司の中には、自分はその土地に行かず都に住んだままの人=「遙任(ようにん)の国司」と、自らその地方に赴いて実務ととった=「受領(ずりょう)とがいます。

受領・・・って聞いた事ありますよね~
「受領は倒るるところにも土をつかめ」・・・そのあさましいほどの貪欲さを言い表した言葉ですが、なんたって、在任中には、その地方の行政を一手に任されるわけで、もともと国からの給料が出るうえに、中央からの目が行き届かないぶん、下から徴収した税と、上へ治める納品の差ををくすねるのは、己の小手先次第ですから、不正に蓄財して私腹を肥やす者が続出したわけです。

そんな中の、今回・・・永延二年(988年)11月8日

この約50年前には、あの平将門(たいらのまさかど)(2月14日参照>>)藤原純友(ふじわらすみとも)の乱(12月26日参照>>)があり、逆の約50年後には前九年の役(9月17日参照>>)後三の役(11月14日参照>>)が勃発する頃・・・まさに、中央の目がいきとどかない事このうえない年代であったわけです。

とは言え、今回、郡司や農民に訴えられた藤原元命(もとなが)さん・・・この類のお話では、代表格のように扱われる有名人ですが、この方が特別悪人で、特別ヒドイ事をしたというわけではありません。

他にもいっぱいいて、彼と同じ・・・あるいはもっとヒドイ悪事を働いた役人は大勢いたわけですが、こういう悪政を訴えて立ち上がる場合、「解(げ)という声明文というか、上訴文というか、そういうのが残ってないと、その悪事の内容がつかめないわけです。

そんな中で、今回の尾張の元命さんの場合、彼を訴えた「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)という文が、見事に残っている事で、その内情がわかる・・・って事で、重要な史料となっているわけです。

ただし、原本は残っておらず、あくまで写本ではありますが、それは国の重要文化財にも指定されている貴重なものです。

その現物は、早稲田大学図書館がWeb上で公開しているのでコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

「尾張国郡司百姓等解 申し請う官裁の事
 請う、裁断せられんと。
 当国の守藤原朝臣元命、
 三箇年の内に責取非法官物ならびに
 濫行横法三十一箇条○○○・・」

で始まり、以下、31ヵ条の箇条書きにて、悪行の数々が列挙されているわけです。

  • 正規の納期以前に税を徴収
  • 農民から徴収あった調(国の特産品)のうち、良質な物を着服して、粗悪な物を中央へ進上
  • 農民に貸与すべき米穀を着服
  • 池・溝の修理費用を着服
  • 自らの郎党・従者を郡司・農民の家に押し入らせてめぼしい物を奪う

などなど・・・

この、上のほうの税金のごまかしなどは、はっきり言って、大抵の国司が行っていて、なんだかんだで農民は泣き寝入りする事が多かったのですが、今回の場合は5番目の強盗まがいの行為に、農民たちはブチ切れて、「国司を訴える」という行為に及んだようです。

なんせ、事が露見した以上、国司も罰せられるかも知れませんが、訴えた側も罰せられるわけで、郡司や農民たちも、命がけなわけですから・・・。

・・・で、訴えられた元命さん・・・翌年、尾張守を解任されて、一件落着!

と、思いきや、後任の国司たちも次から次へと悪事を働き、この後、寛弘五年(1008年)にも、そして長和五年(1016年)にも、彼らは、国司を訴えるという行動に出ています。

しかも、当の元命も、国司を解任されたとは言え、その後も役人世界に居座り、その息子も、石見守や上越前守など、受領としての家系は続いていくのです。

なんだか、トップの座からは降りたものの、そのまま党のご意見番として影のリーダーとなってるどなたかに似てるような似てないような・・・

いつ世のも、市民が立ち上がらねば!ですね。
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2009年11月 7日 (土)

戦国のトラブルメーカー~小野次郎右衛門忠明

 

寛永五年(1628年)11月7日、戦国屈指の武芸者・小野次郎右衛門が60歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

小野次郎右衛門忠明(おのじろうえもんただあき)・・・もとの名を神子上典膳(みこがみてんぜん:御子神)と言い、里見氏の家臣の子として安房国(千葉県)に生まれました。

里見の万喜城攻めでは、名のある敵将と一騎打ちをして名を挙げるも、思うところあって里見を出奔し、一刀流の剣聖・伊東一刀斎に弟子入り・・・ここで兄弟子を破り、一刀斎から流派の後継者に指名されたのだとか・・・

その後、文禄二年(1593年)に、その師匠の推薦で徳川家康に200石で兵法指南役として召抱えられ、関ヶ原の合戦では徳川秀忠とともに上田城を攻めたり、大坂の陣でも武功を挙げて大活躍・・・1年送れで同じ兵法指南役として召抱えられた柳生宗矩(やぎゅうむねのり)ライバル視される剣豪で、彼の流派は、後に小野派一刀流と称されて世に残ります。

・・・と、見事な経歴の次郎右衛門さん。

しかし、ライバルとされる柳生新陰流の宗矩に比べて、あまりそのお名前を聞きませんねぇ~。

それを裏付けるかのように、同時期に同じ兵法指南役として同じ200石で召抱えられた宗矩が、関ヶ原で2000石、大坂の陣の後には3000石に加増されるにも関わらず、次郎右衛門は、その生涯で600石・・・息子の代になってやっとこさ800石になったくらいです。

「腕が違うんだろ?」
いえいえ、彼の一刀流も、新陰流に勝るとも劣らないすばらしい流派です。

実は・・・
彼は、世渡りベタだったんです。

良く言えば、素直で純粋・・・思った事をそのまま口にして、たとえ相手が上司でも媚びへつらう事を嫌い、自らの心情を貫き通す人・・・

しかし、そんな彼の、周囲を気にせずにわが道を行く行動は、時には周囲を巻き込んでのトラブルとなり、他人に迷惑をかけておきながら、本人はまったく反省の色もなく、また、同じような事をくりかえす・・・

戦国を駆け抜ける一武将として見た場合は、そんな性格も破天荒で魅力的ではありますが、組織の一員となれば、こんな迷惑な人はありません。

当然、周囲からは煙たがられ、果ては、その出世も思うように望めない・・・って事になるわけです。

まずは、かの関ヶ原の時の上田城での出来事・・・

この時、次郎右衛門は、上田城内から物見のために出てきた依田兵部(よだひょうぶ)という者の顔面に一太刀浴びせますが、ほぼ同時に、同僚の辻太郎助という人物も兵部に斬りつけました。

この直後に、彼らは窮地に陥ったものの、味方の加勢によって、何とか助かったのですが、そのありがたみも忘れ、この二人は、どっちが先に兵部に斬りつけたか?・・・つまり「初太刀はどっちか?」でモメ始めるのです。

周囲は、なんとか二人をなだめて事を納めようとしますが、本人たちはいっこうに聞き入れず、結局、家来の数人を馬買いに変装させて真田の家臣に密かに送り、実情を確かめるはめに・・・

結果的には、次郎右衛門の初太刀が認められる事になりますが、上司に敵方への問い合わせをさせる家臣って・・・迷惑極まりないです。

さらに・・・
ある時、秀忠が、家臣たちの前で、剣術についての自論を展開していたところ、「剣術なんて刀抜いてナンボのもんや! こんなトコに座りながら色々言うてても、畑で水泳の練習してるようなもんやがな」と、いきなりのチャチャ入れ・・・

その場での上司・秀忠のメンツもまる潰れ・・・では、ありますが、秀忠もオトナ・・・表情こそ変わったものの、大したトラブルにはなりませんでしたが、その直後、次郎右衛門は、またまた問題を起します。

その頃、両国あたりで「真剣で立会い、斬り殺されるかもしれない覚悟のある者はおいであれ」という看板を掲げた町道場があったのですが、その事を聞きつけた次郎右衛門・・・早速、その道場に出向いて勝負を挑みます。

真剣の相手を鉄扇で受け止め、さらにその鉄扇で脳天叩き割り!

さすがに、先日は怒りを押えた秀忠も、今回は激怒・・・「天下の師範にあるまじき行動」として、勝ったにも関わらず次郎右衛門は蟄居(ちっきょ・謹慎処分)を言渡される事に・・・

確かに、強いところを見せたいのはわかりますが、将軍家の指南役が一・町道場で暴れては、将軍家の看板にも傷がつきます。

まだあります。

ある時、余興で立会いを求めたある大名を相手にした時、その木刀を逆さに掴みながら・・・
「アンタもいらん事を望んだもんや!ケガするのが気の毒やな」
との、相手をナメきったセリフとともに、両腕をへし折り、終生体の自由を失ってしまうほどの重傷を負わせたのだとか・・・

そんな次郎右衛門は、同僚(っと本人は思ってる)の宗矩に対しても・・・
「お前とこのアホ息子でも、罪人の中から腕のたつ者みつくろうて、真剣で斬り合わせたら、ええ修行になって腕もあがると思うでぇ」と・・・

ご存知のように、新陰流は「剣禅一如(けんぜんいちにょ・極めれば剣も禅も同じ)がモットー・・・真剣で稽古をする小野派一刀流に対して、もっぱら新陰流は袋竹刀(ふくろじない・竹を割って造った練習用の物)での稽古でした。

この次郎右衛門の提案に対して、宗矩は、常に「せやね~君の言う通りやねぇ」と言いながらも、終生、その提案を受け入れる事はありませんでした。

トラブルメーカーだった次郎右衛門は、結局、大坂の陣の後、閉門処分に処せられ、寛永五年(1628年)11月7日、60歳でこの世を去ります。

要領が良い人と悪い人・・・
結果、3000石と600石・・・

確かに、隣にいたら迷惑だけど、対岸の火事として見るなら、次郎右衛門さんは、かなり魅力的な人ではあります。

「そうやね」と、口では言いながら、心では「そうやね」とは思っていない宗矩の態度のほうが、考えようによっては、事なかれ主義で、魅力には欠けるという事もありますが、やはり、群雄割拠の時代と、戦国も終わる時代とでは、見てる側は淋しいものの、その生き方も考えなくてはならないのかも・・・

もっと戦国真っ只中だったなら、その個性を、余すところ無く発揮できたかも知れませんね。
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2009年11月 6日 (金)

信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦

 

天正六年(1578年)11月6日、織田信長VS石山本願寺の戦いの勝敗を決する事になる戦い・第二次木津川口海戦がありました。

・・・・・・・・・

天下をめざす織田信長によって、名ばかりの将軍となった室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけに、朝倉義景(よしかげ)浅井長政(あざいながまさ)武田信玄上杉謙信らが応じる一方で、本願寺の顕如(けんにょ)も全国の本願寺門徒に蜂起を呼びかけ(9月12日参照>>)、まさに、絶体絶命の信長包囲網が形勢されます。

しかし、上洛間近と思われた信玄の死という信長にとってはラッキーとも言える出来事も相まって、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)長島一向一揆を根絶やしにし(9月29日参照>>)、長篠で武田勝頼を破り(5月21日参照>>)・・・と、信長は一つ一つ片付けていきます。

やがて、天正四年(1576年)5月、一向一揆の本拠地である大坂は石山本願寺を取り囲んだ信長と、顕如との直接対決=天王寺合戦が火蓋を切ります(5月3日参照>>)

この戦いのあと、信長が、より包囲を強化した事で、籠城する側の石山本願寺の兵糧が尽きるのも時間の問題と思われましたが、ここに来て、顕如の呼びかけに応じた毛利輝元が参戦・・・その年の7月には、毛利配下の水軍と村上水軍の強力タッグで、信長配下の水軍を翻弄し、海上からの兵糧の運びこみに成功します第一次木津川口海戦:7月13日参照>>)

瀬戸内を牛耳る水軍のゲリラ的戦法に見事にしてやられた信長は、屈辱を晴らすべく準備にとりかかり、2年後の天正六年(1578年)9月、前代未聞の鉄甲船を完成させます(9月30日参照>>)

この間に、越後(新潟県)では、あの謙信が亡くなったために後継者争いが勃発(3月13日参照>>)、もはや信長どころではなくなり、信長は石山本願寺と、それを支援する毛利にターゲットを絞事が可能になりました。

「もう、これ以上、兵糧を搬入させるものか!」
・・・と、いよいよの雰囲気になりますが・・・

その10月、突然、有岡城荒木村重(むらしげ)が叛旗をひるがえし、本願寺&毛利側に寝返ってしまったのです(12月16日参照>>)

有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城・・・こんな本願寺に近いところが、その配下となってしまっては、いくら海上を封鎖しても、陸路で支援をされかねませんから、信長は急遽、時の天皇・第106代正親町(おおぎまち)天皇を動かし、本願寺に講和を持ちかけます。

時間稼ぎをして、その間に有岡城を陥落させるつもりでした。

天皇からの勅使(ちょくし・天皇の使い)が、本願寺に使わされたのは11月4日・・・和睦の話を聞いた顕如は、「もはや、本願寺だけの戦ではない」と、毛利へも勅使を送る事を要求・・・毛利側からもOKがない限り、和睦には応じない構えをみせました。

しかし、そのわずか2日後、未だ、勅使の訪問を受けていない毛利は、600艘の船団を引き連れて、大坂湾へと到着・・・本願寺に兵糧を搬入すべく、木津川河口へと侵入しますが、当然、信長の軍勢は、これを阻止しなければなりません。

こうして天正六年(1578年)11月6日第二次木津川口海戦が勃発するのです。

午前8時、河口に、織田の水軍の指揮を任された九鬼嘉高(よしたか)が乗船する旗艦をはじめ、6艘の鉄甲船、1艘の安宅船と無数の軍船が待ち構える中、小回りのきく毛利水軍は、右へ左へと素早く動き、むしろ圧し気味に攻勢をかけます。

しかし、考えて見れば、鉄甲船は動き回る必要はありません・・・ただ、動かざること山の如く、そこにいて、毛利水軍の侵入を防げば良いのです。

当然の事ながら、毛利水軍の小舟のほうは、そこを突破するためにも近づいていくしかないわけですが、鉄甲船には、それぞれ3門の大砲=合計18門が・・・敵船を射程距離に収めるなり、大砲は一斉に火を吹き、小さな軍船は、戦う前から木っ端微塵に砕かれます

何とか、大砲の攻撃をくぐり抜けて鉄甲船に近づいた船も、もはや、相手が鉄の壁では、焙烙(ほうろく・手投げ弾のような武器)も、矢も、役に立ちません

「六艘の大船・・・敵船を間近く寄せつけ、大将軍の船と覚(おぼ)しきを、大鉄砲を以って打ち崩し候(そうら)えば、是(これ)に恐れて中々寄せ付かず」(信長公記)・・・と、織田側の一歩的な勝利で、お昼頃には、船団は壊滅状態となったという事です。

・・・と、これは、勝利者である織田側の言い分なので、気持ちとしては、毛利の言い分も聞いてみたいところですが、残念ながら、毛利側の記録はほとんどありません。

第一次の海戦で大活躍した村上水軍もの話もまったく登場せず、ひょっとしたら村上水軍は、この第二次には参戦していなかったのではないか?と言われています・・・まぁ、毛利自身も水軍持ってますし、隆景の小早川水軍もいますからね~。

ただ、この時、軍船が苦戦する合間を縫って、兵糧船は木津川口に達し、無事、兵糧を運び込んだとも言われていて、そうならば、石山本願寺と毛利にとって、敗北ではあったものの、目的は達成されていた事になります。

ただ、この敗北によって大坂湾の制海権を信長が握った事は確か・・・補給路を断たれた石山本願寺は、しだいに苦境に立たされる事になります。

やがて、翌・天正七年(1579年)には、かの有岡城も開城され(10月16日参照>>)、村重は逃亡・・・その家族と家臣がことごとく処刑される中、石山本願寺への総攻撃もまもなく開始されるのでは?とおもわれましたが、意外にも信長は、正親町天皇を間に置いての講和を再び持ちかけ、本願寺の明け渡しを要求しました。

これには、やはり、長島一向一揆と違って、こちらは、まさに本拠地で、本願寺門徒の信仰の中心である顕如がいますから、未だ、一向一揆発祥の地である加賀が微妙な時に、ムリヤリな武力行使を避けたのでは?とも考えられます・・・加賀一向一揆が完全に終結するのは天正八年の11月:11月17日参照>>)

また、正親町天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)にこだわったのも、もともと将軍・義昭の呼びかけで始まった石山合戦を、完全に終結に持っていくためには、「将軍よりも上の天皇の力を借りるしかない」との思いからであったろうと言われています。

なんだかんだで、信長さん・・・けっこう上下の力関係を考えてます。

かくして顕如が講和に応じ、石山本願寺を出たのは天正八年(1580年)の3月、その後、顕如の息子・教如(きょうにょ)が出て、本願寺が明け渡されるのは8月の事・・・以後、石山本願寺の跡地は、信長の物となり、ここで、十一年に渡る石山合戦が終りを告げました。

その後の本願寺については、10年に及ぶ合戦が終結する8月2日【石山合戦・終結~石山本願寺炎上】でどうぞ>>
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2009年11月 5日 (木)

熱血先生・吉田松陰~松下村塾の教育方針

 

安政四年(1857年)11月5日、吉田松陰が長州藩の許可を得て、萩に松下村塾を開講しました。

・・・・・・・・・

吉田松陰(よしだしょういん)は、文政十三年(1830年)に長州藩士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれ、5歳の時に、山鹿流兵学の師範である吉田大助の養子となりますが、翌年に大助が亡くなったため、叔父である玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)にて、引き続き山鹿流の兵学を学びます。

その後、青年期には、諸国を遍歴して見聞を広め、江戸では佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)の師事を受けました。

やがて、嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した時(6月3日参照>>)には、師の象山とともに黒船を視察し、西洋の最新文明に大いに興味を持ちますが、翌年、ペリーの再来航の時に、艦隊に乗って密航しようとして失敗・・・国元の野山獄に収容されました。

獄中では、囚人や看守相手に、互いに得意分野を教えあう勉強サークルを立ち上げ、後の熱血指導の片鱗を垣間見せています(12月26日参照>>)

安政二年(1855年)には許されて出所するも、しばらく幽閉状態が続いていましたが、安政四年(1857年)11月5日、杉家の敷地内にあった小屋を改造して、叔父・文之進の松下村塾の名を引き継ぐ、松陰による松下村塾を開講したのです。

幕府が、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ずに日米修好条約を締結し、開国に踏み切った事に反対していた松陰が、その後、老中の暗殺をくわだてたために安政の大獄(10月7日参照>>)の粛清にひっかかり、再び投獄されるのが安政五年(1858年)の12月ですから、松下村塾で松陰が教鞭をとった期間が、いかに、わずかであるのかがわかります。

しかし、その松下村塾から多くの優秀な人材が輩出されるのはご存知の通り・・・翌・安政六年(1859年)に処刑され、わずか30歳でこの世を去る松陰(10月27日参照>>)

考えてみれば、この松陰という人の30歳での死は、完全に志半ば・・・もし、この方の生涯に松下村塾で教鞭をとるという出来事がなかったら、これほどの有名人として歴史に名を残す事はなかったかも知れませんが、この後、松下村塾の出身者が維新の動乱で大活躍する事によって、幕末屈指の人となるわけです。

それにしても、そんなわずかな期間に、優秀な人材を輩出するに至った松下村塾とは、どんな教育方針だったのか?
とても、気になるところです。

まず、一番の特徴は、個性の重視・・・松下村塾には時間割もなく、決まった教科書もありません。

藩校の明倫館と違って、士族などの身分に関係なく、入塾希望者のすべてを受け入れていたので、塾生の中には、働きながら通う者や、週何回も来られない者もいますから、昼夜を問わず塾舎は開放され、塾生自身が都合の良い時に出入りできるようになっていました。

また、塾生は受身ではなく、それぞれが異なる書物を読み、自ら選んだ学問を自らの力で学んでいくのです。

・・・と聞くと、結局は、もともと優秀な人たちが、個々に勉学に励んだだけで、松陰先生はあんまり関係ないんじゃないの?
と思ってしまいますが、松陰先生の教育は、そのサポート・・・誘導の仕方が見事なのです。

たとえば、塾にある本の中から、自らが選んだ本を手に取って、個人々々が読んでる・・・身近なところでは、公共の図書館みたいな風景ですが、松下村塾の彼らは、ただひたすら本を読んでいるわけではなく、わからない事、疑問に思う事があれは、その場にいる松陰先生に質問します。

すると、松陰先生が、その質問に答える形の講義のような物が始まり、横にいた塾生も、松陰先生の話に聞き入る・・・やがて、ころあいを見計らって、「・・・で、これをどう思う?」なんて、塾生に質問を投げかけると、それぞれが、いろんな意見を述べはじめ、議論が白熱した時などは、もともとの講義を中断しての討論会が始まるといった感じです。

松陰は、日頃から塾生との関係を師弟ではなく友人ととらえ、「自らが生徒に教えている」というのではなく、「ともに学んでいく」という姿勢を貫いていました。
なので、松下村塾には教壇はありません。

はじめて松下村塾に訪れた者には、誰が教師=松陰かがわからなかったくらい塾生の輪の中にどっぷり・・・時には塾舎を出て、田畑で草取りをしながら、友人同士の会話のように講義を進める姿が、近所の人の目に止まっていたと言います。

さらに、松陰は、塾生一人一人の個性を見抜く力&伸ばす力がすばらしい・・

たとえば、塾生の中でも双璧と並び証される久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作・・・入塾当時からしばらく、学問においては久坂がトップで、高杉は、どうしても久坂を追い越す事ができない。

すると、高杉の負けず嫌いの性格を見抜いた松陰が、わざと高杉の前で久坂を褒め、高杉の心情を刺激・・・すると、高杉は更なる勉学に励み、見事に進歩したのだとか・・・

また、先日、萩の乱の首謀者としてご紹介いた前原一誠(いっせい)(10月28日参照>>)・・・そのページでも、彼の事を「松下村塾で学んだ」と書かせていただきましたが、彼の家はかなり貧困で、結局のところ、わずか10日間くらいしか塾に通う事ができませんでした。

しかし、そんな前原の事を、松陰は・・・
「その才能は久坂に及ばない、その学識は高杉に及ばない、しかし、その人物の完全なるところは、この両名も八十(やそ・前原の事)には及ばない」
と語っていて、出入りの激しい塾内で、わずか10日間しかいなかった前原の事を、しっかりと見ているのがわかります。

それこそが松陰の真髄・・・。

松陰は、入塾してきた生徒に、まず「何をしたいのか?」を聞き、そのために学ぶべき事へと誘導する・・・知識を身につけるだけでなく、身につけた知識をどう生かすかを考えさせる。

「実行するために学ぶ」という事を塾生にも、そして自らにも求めていたのです。

この「自らにも求めた」・・・ここが、最も松陰らしいところではないでしょうか?

先に書かせていただいたように、師弟ではなく、友人として塾生に接した松陰・・・これは、やはり「教壇は廃止して友人のように兄弟のように…」を目指した現代の教育方針に似ている気がしますが、結果、現在の学校では、先生を先生とも思わず、悪気はないにしろ、タメ口でケリを入れてくる生徒もいると聞きます。

同じように、友人として接した松陰と、生徒にタメ口をきかれる現代の先生・・・どこが違うのか?

おそらく、松陰は、松下村塾の中で、最も熱心な塾生だったのではないでしょうか?

教えるのではなく、ともに学ぶ・・・最も熱心で、最も優秀な先輩に対しては、後輩たちは、同等の友人のようでも、決して尊敬の念を忘れる事はない。

自分の個性を理解してくれて、ともに学ぼうとしてくれる先生には、たとえ普段はタメ口でふざけていても、いざという時は、師として仰ぐ・・・そんな関係っていいなぁ~と、つくづく・・・
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2009年11月 4日 (水)

忍者の教科書『万川集海』~服部半蔵の命日に因んで

 

慶長元年(1596年)11月4日、徳川家康の配下で伊賀衆の棟梁となって活躍した服部半蔵正成が55歳の生涯を閉じました

・・・・・・・・・・

ご存知、伊賀忍者の服部半蔵(はっとりはんぞう)ですが、実際には、この服部半蔵という名前は、服部家が代々受け継いでいく名前なので、複数の服部半蔵さんが存在するわけですが、一般的には、徳川家康とともに江戸入りして、その配下となって活躍した二代目・服部半蔵である正成(まさなり)の事を指します。

・・・てな事は、未だ書き足りない部分はあるものの、一応、すでに書かせていただいていますので・・・

・・・で見ていただくとして、本日は12月2日のページにもチョコッと登場した忍術伝書『万川集海(ばんせんしゅうかい)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

『万川集海』とは、「すべての川は海に集まる」という意味で、延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の上忍・藤林長門守の子孫とされる藤林保武(ふじばやしやすたけ)という人が著した書物・・・

その序文に・・・
「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテムの、悪いところは除き、良いところだけを厳選し、名将が編み出した秘策などをあますことなく集めて・・・」
と、あるように、まさに、流派を超えた忍者の教科書ともいえる物で、かの服部半蔵の言葉なども掲載されているのです。

残念ながら、原本はありませんが、複数の写本は今も残っているようです。

それぞれの内容は微妙に違うものの、おおむね7巻に分かれます。

  1. 「序文」「凡例」「目録」「問答」
  2. 「正心(しょうしん)
  3. 「将知(しょうち)
  4. 「陽忍(ようにん)
  5. 「陰忍(いんにん)
  6. 「天時(てんじ)
  7. 「忍器」

忍者の心構えだけでなく、天文学のような科学的な知識、実際の行動方法、そして秘密道具などなど・・・

その中でも、「忍器」で紹介されてる鉄砲についての記述が興味深いです。

なんとなく、忍者と言えば、手裏剣撒菱(まきびし)鎖鎌(くさりがま)なんて武器を思い浮かべますが、意外と鉄砲っていうのも、忍者御用達なんですね。

そう言えば、織田信長朝倉義景を攻めた金ヶ崎城の攻防戦からの撤退(4月27日参照>>)の途中で、まさに危機一髪の狙撃を受けますが、火縄銃で信長を撃ったその犯人は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)・・・甲賀忍者だったと言われていますよね。

また、信長の鉄甲船完成のページ(9月30日参照>>)で、最新鋭の大砲を完成させた事をご紹介した近江・国友村の鍛冶職人・・・甲賀はもちろん、伊賀とも大変近い場所ですから、おそらく、他よりも、いち早く手にした事も想像できますね~。

また、東京・新宿区には鉄砲坂と呼ばれる坂がありますが、ここは、江戸時代に伊賀者の屋敷が建ち並んでいた場所で、その訓練場が近くにあったから、その名がついた・・・なんて話もあります。

ただ、『万川集海』では、その撃ち方の技術的な記述よりも、火薬の調合や弾の製造法に重きを置いているようです。

そりゃそうですね。
撃ち方なら、武将や鉄砲隊なども訓練するでしょうから、忍者たるもの、それ以上の+αを習得しておかなくてはいけませんからね~。

「皮袋に砂を固く詰めた物を玉状にして・・・」
なんて記述を見ると、もはや散弾銃ですよね。

それでは、最後に、『万川集海』から名言を一つ・・・

「およそ兵は国の大事 死生(ししょう)存亡の危機なり」
兵=軍事は、国の一大事で死ぬか生きるかだ~~

・・・て、これは孫子の「始計篇」(4月5日参照>>)のパクリでは?
なんて、硬い事を言うのは、やめときましょう・・・国を越えても、時代を超えても、名言は名言だという事で・・・。
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2009年11月 3日 (火)

皇子から武人へ~明治天皇の大変身

 

今日、11月3日は文化の日・・・「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日として、昭和二十三年(1948年)に定められたものですが、お察しの通り、これは、それ以前から祝日だった11月3日が「芸術の秋」「読書の秋」などと言われる秋真っ盛りの季節である事と日本国憲法の公布の日である事からのあとづけで、もともとは明治天皇のお誕生日。

なので、明治天皇の在位中は、「天長節」と呼ばれていました。

その後、明治天皇の崩御とともに一旦廃止されるも、昭和二年(1927年)に「明治節」として復活し、戦後には「文化の日」となったわけです。

・・・とは言え、明治五年(1872年)に太陽暦(11月9日参照>>)が採用される以前の出来事については、基本、旧暦の日づけでご紹介しているこのブログですので、本来なら、明治天皇のお誕生日は、嘉永五年(1852年)の9月22日という事で、その日に書かせていただかねばならないはずですが、それこそ、天長節自体が、太陽暦採用の時点で、その日を太陽暦に換算した11月3日に変更になってますので、大目に見ていただくという事で・・・

この日、第121代孝明天皇の第2皇子としてお生まれになった明治天皇ですが、その場所は宮中ではなく、権大納言・中山忠能(ただやす)・・・忠能の娘である慶子(よしこ)が後宮に女官として仕え、妊娠したとわかって実家の中山邸に戻り、急ごしらえの産屋で誕生したのです。

現在の京都御苑・・・今出川御門から入って左に曲がったところに旧中山邸の跡があり、邸宅は取り壊されましたが、産屋と井戸が残っています。

Nakayamatei 「明治天皇誕生の地」の碑がある中山邸跡(京都御苑)

実家と言っても、御所とは道を挟んだ北側の京都御苑内で、すぐ近くには、御所の北東部分にあたる猿ヶ辻がありますから「近っ!」と、声をあげるほどの距離ですが、明治天皇は4歳になるまで御所には入れず、忠能が父親代わりとなって養育します。

やがて安政三年(1856年)に内裏にうつって、親王宣下を受け睦仁(むつひと)を名乗りますが、この頃の明治天皇は、髪は稚児風で色物の長袖を着て、顔には白粉(おしろい)を塗り、眉を剃った上に黛(まゆずみ)で麻呂風に・・・お姫様のように美しかったのだとか・・・

朝は7時に起床して、午前中はお習字の稽古、午後は3時頃まで、父の孝明天皇のそばで、二つずつ出される御題から和歌を詠む・・・夜は、女官たちを相手にカルタなどに興じて、午後9時に就寝・・・と、まさに、平安貴族さながらの生活

なんせ、徳川幕府の方針では、天皇の本分は学芸・・・むしろ、政治に関与したり、武術に励んだりなんて事、してもらっちゃぁ、危なっかしくてたまりませんから、天皇家は、おとなしく優雅に芸術に勤しんでいただかねば・・・てな感じでしたからね。

あの蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)の時には、13歳だった明治天皇でしたが、その時、御所に着弾した砲撃に驚いて失神してしまったと言いますから、いかに、別世界の生活を送っていたかがわかりますね。

しかし、皆さんがよく目にする明治天皇の写真・・・男らしくてカッコイイ、貴族というよりは軍人のように見えるお姿をされてますよね。

そうです。
明治新政府の意向によって、明治天皇は180度の大転換をする事になるのです。

慶応二年(1868年)の暮れ、父・孝明天皇が亡くなり(12月25日参照>>)、翌・慶応三年に睦仁親王が践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)・・・16歳にして、明治天皇となりました

この年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)と、
まさに、明治天皇を旗印に新政府の樹立を宣言・・・

翌年の正月一発目からは鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入したわけです。

そうなると、ひ弱な天皇では困る・・倒幕の果てには、世界に肩を並べる近代国家にという目標があります。

欧米列強に屈した隣国・の二の舞にならないためにも、富国強兵・・・経済を豊かにして軍備を整え、強い日本を目指さねばなりませんから、その象徴となる天皇は、英明かつ武勇に優れた強い天皇でなくてはいけません。

まずは、常に天皇を囲んでいた女官・36名を免職し、周囲には学者と武芸者を配置し、男らしさを強調するためのヒゲもはやされるようになります。

維新後には、各地に行幸して、国民に、文武両道の強き天皇を印象づけるとともに、天皇が大元帥として、陸海軍を統率するという、近代日本への道を歩みはじめたのです。

16歳の若き天皇・・・おそらく、その大転換には、とまどいもあったでしょうが、それこそ、若さゆえ、順応するのも早かったのかも知れませんね。

・・・と、本日は、明治天皇の誕生日という事で、あまり聞く事のない天皇になる前の明治天皇を中心にお話させていただきました。
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2009年11月 2日 (月)

柳沢吉保の汚名を晴らしたい!

 

正徳四年(1714年)11月2日、江戸幕府・第5代将軍・徳川綱吉の御用人として知られる柳沢吉保が57歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

娯楽時代劇に登場する悪役と言えば、田沼意次(たぬまおきつぐ)(10月2日参照>>)か、この柳沢吉保(やなぎさわよしやす)か・・・

しかも、本日の吉保さん・・・水戸黄門(12月6日参照>>)忠臣蔵(12月14日参照>>)という人気のお題での敵役ですから、これまで何度も描かれていますが、まぁ、イイ人だった事がほとんどありません。

演じられた俳優さんも、古くは山形勲木村功さん、近くは石橋蓮司さんに北村一輝さんなどなど・・・と、どなたも1クセありそな演技派の方々ばかり・・・

それにしても、そんなに吉保さんは、悪の限りをつくしたんでしょうか?

答えを先に言っちゃうと、「NO!」です。

その一番の根拠は・・・
後ろ盾となってくれた第5代将軍・徳川綱吉が亡くなった時、江戸時代の常として、将軍が変わると同時に側近も入れ替わるという政権交代が起きますが、その時、隠居した吉保も、後を継いだ息子の吉里(よしさと)も、新政権からの処罰をまったく受けていません。

確かに、領地は甲府(山梨県)から郡山(奈良県)へと移転させられてしまいますが、石高は減らされる事なく、そっくりそのままの15万石・・・他の側近たちが、ことごとく免職・減封の憂き目に遭っている事を考えれば、おそらくは、吉保を罰する理由がなかった=彼はイイ人だったという事になります。

では、どこから、どうやって、悪役のイメージがついちゃったのか?

彼の生涯を振り返りながら、そこのところを探っていきましょう。

ちなみに、吉保さんは、その生涯で数度名前を変えていますが、本日はややこしいので、吉保で通させていただきます。

・‥…━━━☆

柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は万治元年(1658年)12月に、3代将軍・徳川家光の弟・忠長に仕えていた柳沢安忠の長男として、江戸は市ヶ谷で生まれました。

・・・で、以前書かせていただいたように、父の主君である忠長は非業の死を遂げます(12月6日参照>>)ので、その後の父は家光に仕え、さらに、当時は館林藩(群馬県)の藩主だった綱吉の家臣となります。

やがて、吉保18歳の時に家督を継ぐと同時に、綱吉の小姓として出仕します。

ちょうど一回り離れた同じ戌年生まれの二人・・・吉保の才覚を見ぬいた綱吉は、彼に、お得意の文学を教え、彼も綱吉を学問上の師と仰ぎ、主君としても仕えるという密接な関係になっていきます。

そして、その5年後、家光から4代将軍を継いだ家綱が、後継ぎがいないまま亡くなった事から、綱吉に将軍の座が回ってきますが、この時、吉保も、将軍の側にいて様々な雑用をこなす小納戸役に任ぜられ、ともに江戸城へと入ります。

・・・と、ここからの吉保は、出世街道まっしぐら!

綱吉は、自らが率先して政治を行うために側用人(そばようにん)という新たな役職を儲けますが、吉保は31歳で、格上の人たちに混じって大抜擢され、石高も1万2千石となります。

その2年後には2万石に、さらにその3年後には従四位下という官位も賜り、元禄七年(1694年)には、37歳にして川越7万2千石を賜り、城持ち大名となります。

この時には、大規模な新田開発に成功し、藩政を見事にこなしています。

その3年後には、出羽守から美濃守に出世し、松平の姓を名乗る事も許されるようになります。

やがて、綱吉の後継者に甲府藩主の徳川綱豊(後の家宣)が決まると、その後任として甲府15万石藩主となります。

後に第6代となるこの家宣は綱吉の甥っ子・・・つまり、この甲府という地は、江戸の重要な防御の地点として、代々徳川家が治める、御三家に次ぐ徳川一門の場所甲斐家と呼ばれていました。

そこに、吉保を・・・
いかに、綱吉の信頼が篤いかがわかります。

その後、将軍家と天皇家の架け橋となった功績もあって、いよいよ宝永三年(1706年)、大老格にまで昇進して頂点へと達しますが、そのわずか3年後の宝永六年(1709年)1月、可愛がってくれた綱吉が亡くなってしまいます(1月10日参照>>)

新将軍・家宣には、政治顧問として学者の新井白石がピッタリとくっついていて、幕府内の力関係は一気に変わります。

ここで、吉保は、その地位にしがみつく事なくあっさり引退・・・息子の吉里に家督を譲って、駒込の別荘に隠居します。

・・・で、この時に冒頭に書いたように甲府から郡山への移転となりますが、吉保自身は、駒込の別荘にいて、その後、7年がかりで広大な庭園=六義園を完成させ、その風雅な庭を愛でながら、四季折々の風情を楽しむ老後を5年間過ごした後、正徳四年(1714年)11月2日静かにこの世をさ去ったのです。

ちなみに、余談ではありますが、息子の吉里が、飼っていたペットの金魚とともに、郡山へとお引越しをした事から、大和郡山は金魚の町となったんですよ。

Dscn3845800 吉保を祭神とする柳澤神社(郡山城跡内・奈良県大和郡山市)

・・・と、ここまでの生涯を見る限り、何も悪い事やってないようなんですが・・・

そうなんです。
『徳川実記』など、いわゆる記録のような文献には、彼の悪行はいっさい出て来ないのです。

しいて言えば、新井白石が放つ悪口くらい・・・白石は、その著書の中で、学者とな思えないほど感情的に前将軍・綱吉の政治を批判し、それを正そうとせず、たたひたすら従った吉保を無能呼ばわりしてます。

しかし、いくらエライ学者さんのお話でも、コレだけは、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。

なんせ白石は、家宣の政治顧問ですから・・・現在の与党と野党のやりとりを思い浮かべていただいたら、その雰囲気も一目瞭然!
相手方の政治家を褒めるわけがありませんからね。

そんな中、現在のような「綱吉=暗愚」「吉保=悪人」のイメージが最初に登場するのは、『三王外記(さんのうげき)という文献ですが、これは、今で言うところの、フライデーなどの写真週刊誌の写真ないバージョンみたいな本だそうで、おおもとは、事実であるものの、おもしろおかしく・・・いわゆるウケ狙いで、話を大きくしている可能性アリ

生類憐みの令を天下の悪法として、「こんな変な事があった」「あんなバカバカしい事がまかり通った」なんてネタも、この本が出どころなのですよ。

もちろん、そこには、一代でのしあがった成功者への嫉妬も多分に含まれていて、そんな内容に、江戸市民が大いに喜んだ様子も、わからんではありません。

今だって、時代の寵児ともてはやされた後、ズドーンと地の底に落とされた人もいましたよね。

他にも、綱吉の側室・染子を娶った吉保が、その後も、妻となったその女性を綱吉に提供して、そして生まれたのが吉里・・・つまり、吉里は綱吉の子供で、それをネタに甲府を貰ったって話がありますが、これは『護国女太平記』という文献が出どころなのですが、実は、この本、今なら、実録モノ=ノンフィクション小説のジャンルに入るもので、いわゆる「事実をもとにしたフィクションです」ってヤツです。

実際には、その染子さんが大奥にいた、あるいは逆に、大奥に上がったという正式な記録なんてないわけなのですが、この後も、この話を元にした「柳沢騒動」というお芝居が大ヒットした事で、ダメ押しとなり、吉保=悪人のイメージが定着してしまう事となったようです。

第一、綱吉が亡くなって、速やかに引退する時点で、言われているような人ではない事がわかります。

本当の悪人なら、それこそ、もうちょっと悪あがきしていただかねばオモシロくありませんからねぇ。

・・・って事で、今回、ちょっとは、柳沢吉保さんの汚名を晴らす事ができたでしょうか・・・
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2009年11月 1日 (日)

天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争

 

元治元年(1864年)11月1日、天狗党が、徳川慶喜のいる京都に向けての行軍を開始しました。

・・・・・・・・・・・・

総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎えた新生・天狗党・・・初めてのかたは、まずは、これまでの経緯について、先に読んでいただくとありがたいです。

・・・て事で、もはや水戸を奪回する事は不可能と判断した天狗党・首脳陣は、亡き主君・徳川斉昭(なりあき)の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている徳川慶喜(よしのぶ)に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。

この一行には、水戸藩士や郷士だけではなく、地元の僧侶や農民、また、これら天狗党に参加している者の家族である女子供も同行していましたから、なるべく、無用な争いは避けたい・・・

それには、まず天狗党自身がトラブルを招くような事をしない事!

以前、その軍資金集めでトラブルになり、地元住民を殺害したり、放火して村の大半を焼いた田中愿蔵(げんぞう)の例(攘夷の魁・天狗党の模索を参照>>)もありますから・・・

そこで、出発前には、再編成された部隊に対して、きびしい軍令を発します

  1. 無罪の一般人を殺したり怪我させたりしてはいけない
  2. 民家に入り、盗みを働いてはいけない
  3. 婦女子をみだりに近づけてはいけない
  4. 田畑の作物を荒らしてじはいけない
  5. 隊長の命令を待たずに行動してはいけない

・・・と、まぁ、いまさら言われる事もない、当然っちゃー当然の項目なのですが、きびしいのは項目ではなく、罰則・・・上記の事に違反した場合は、即刻、斬首!

後の新撰組もそうですが、多種多様の人間を抱える集団は、これくらいのきびしい罰則を設けないと、その秩序は保てないのかも知れません。

かくして元治元年(1864年)11月1日、1000人余りの隊列が、常陸(茨城県)大子(だいご)出発し、一路、西へと進み始めたのです。

その行軍の様子が、いくつかの手記に記録されています。

  • 先手:薄井督太郎
      白綸子(りんず)の小袖に黒紋付黄麻の陣羽織
      =随兵・五十余
  • 第一備(ぞなえ):大将・三橋半六(はんろく)
      黄羅紗(らしゃ)の陣羽織
      =大砲・2門、随兵・百人余
  • 第二備:大将・山国兵部(やまくにひょうぶ)
      猩々緋(しょうしょうひ)の陣羽織
      =大砲・2門、「魁」の旗・1流、随兵・百人余
  • 第三備:大将・藤田小四郎
      紺糸嚇(おどし)の鎧に金鍬形の兜、
      黒ビロードの陣羽織
      =大砲・2門、「赤心」の旗・1流、随兵・百五十余

これらの「大将=騎乗した武士」は、約200名ほどいて、それぞれ従う歩兵の総勢は500余りは、皆、武装して陣笠を着用、荷物を曳く馬が50ほど、大砲は合計で15挺・・・これらが、かの旗々をひるがえして行軍するさまは、まるで錦絵のようだったのだとか・・・カッコイイなぁ~~(*≧m≦*)

Tengutourootwcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして、西行を開始した天狗党は、出立したその日に下野(しもつけ・栃木県)黒羽(くろばね)藩領に入り、さらに西を目指しますが、すでに各藩は、幕府からの天狗党・討伐命令を受けていたはず・・・すんなりと通れたんでしょうか?

実は、耕雲斎は、軍内には規律を守らせる一方で、対外的には、通行する各地の藩に、前もって、行軍の目的を明確に記した通行願いを渡し、なくべく戦闘を避けるようにしていたのです。

すでに何度か書かせていただいているように江戸時代というのは、藩という独立国家の集合体・・・中央の幕府に、どこまで協力するかは、藩によって違うわけで、中には、天狗党の尊王攘夷の志に、理解を示す者も少なからずいまたし、この時点で、天狗党の勇名は各藩にも伝わっていますから、「無用な争いは避けたい」というのもあったでしょう。

最初に遭遇した黒羽藩も、始めのうちは大砲などを持ち出して戦う姿勢を見せていましたが、上記のように、いたずらに危害を加えようとしない規律が守られた軍団に、礼儀を踏まえた通行願いの提出・・・

「堂々と中心部を突っ切られるのは、ちと困るが、間道ならば・・・」
と、結局、通過を黙認する形となりました。

多くの小藩が、このように天狗党の通過を許し、中には、村の大地主が紋付袴で対応し、何も言わずとも軍資金を差し出したり酒代を出したり・・・と、けっこう、旅費には事欠かないほどの好感触だったようです。

もちろん、全部が全部そうではなく、恐ろしい天狗党が通過すると聞いて、家々を焼き払い、村民全員で退去した村もありました。

そして、当然ではありますが、幕府の要請に従い、天狗党の行軍を、何としてでも阻止しようという藩もあります。

おおむね平穏に行軍していた天狗党に、初めて「待った!」をかけたのは、下妻那珂(なかみなと)と、すでに2度天狗党と対戦し、いずれも敗れている高崎藩・・・さすがに、このまま天狗党に勝ち逃げさせるわけにはいきませんから、何としてでも一矢を報いたい。

そして、11月16日、そんな高崎藩の約200名が下仁田(しもにた)で待ちうけます。

下仁田戦争と呼ばれるこの戦いでは、あらかじめ2隊を敵陣正面に置き、別働隊2隊が、敵の左右側面から襲いかかるという、大軍師・山国の発案よる作戦が決行され、約2時間の激戦の末、高崎藩兵の死者・36名、天狗党側の死者・4名と、またしても天狗党の勝利に終りました。

まぁ、いくら非戦闘員を含むとは言え、1000名を越す行軍に対しての200名は、やはり多勢に無勢といったところでしょうか・・・。

しかし、この先、バッチリとタッグを組んだ松本藩と高島藩の総勢・2000名の連合軍が、下諏訪(しもすわ)で待ちうけます。

・・・と、このお話は、和田峠を舞台に行われた戦い11月20日のページでどうぞ>>
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