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2009年11月18日 (水)

御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力

 

天保十一年(1840年)11月18日、第119代・光格天皇が70歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

この光格(こうかく)天皇・・・幕末のページで、しばしば、その名を拝見する第121代・孝明天皇のおじいさまであり、当然ながらその次の第122代・明治天皇のひいおじいさまにあたります。

先代の後桃園天皇が、生まれたばかりの皇女1人を残して亡くなったので、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子だった祐宮兼仁(さちのみやともひと)が養子に入り、光格天皇として皇位を継ぎました。

典仁親王が、第113代・東山天皇の孫にあたるので、皇室には違いないですが、直系という事になると、現在の天皇家は、この光格天皇から始まったという事になります。

9歳で即位し、24歳で先ほどの後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を皇后としました。

即位から数年後の天明二年(1782年)から天明七年(1787年)にかけて、ご存知の天明の大飢饉(12月16日参照>>)が発生します。

悪天候が続いていたうえに、例の浅間山の噴火(7月6日参照>>)によって、広域に火山灰が降り注ぎ、さらに噴煙によって起こる日射量の低下や異常気象によって、またたく間に全国的な飢餓状態となってしまいました。

飢えに苦しむ人々は、犬・猫はもちろん、人を口にするまで追い詰められ、各地では打ちこわし多発!・・・この状況は、天皇のおわす京都でも例外ではありませんでした。

京都の人々は、幕府の京都所司代に対策を講じるよう願い出ますが、いっこうにらちがあきません。

「幕府は何もしてくれない」と感じた人々の心は、ワラをもすがる気持ちで御所に向かいます。

最初に、その現象が起こったのは、天明七年(1787年)6月7日・・・はじめは、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていくというものでした。

ところが、それが数日後には3万の人となり、10日後には、なんと7万人にも達して、御所を巡りながら祈りを捧げます。

この現象は御所千度参り(ごしょせんどまいり)と呼ばれ、京都に限らず、大坂・河内や近江など、近畿一帯から人が集まったと言われています。

見るに見かねた後桜町上皇(第117代の天皇)(11月2日参照>>)は、御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配り、有栖川家九条家からも、お茶や握り飯が配られたと言います。

さらに、心痛めた光格天皇は、自ら民衆の救済を京都所司代に申し入れたのです。

実は、これが江戸幕府始まって以来の出来事・・・

そうです。

以前書かせていただいた第109代・明正天皇(11月10日参照>>)・・・そして、その父上である第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)のところで登場した『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

江戸の始めに徳川幕府が出した天皇の行動を制限するこの法令で、天皇家は幕府の許可なしには、何も出来ない状態にさせられてしまっていました。

つまり、天皇家が幕府に物申すのは、本来なら法令違反・・・光格天皇も、それを補佐する関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)も、さらに、賛同してくれる朝廷の方々も、皆、処罰覚悟の行動だったのです。

しかし、さすがに事態の深刻さを把握している幕府は、京都市民に対して米1500俵を放出する事を約束し、皇室の法令違反に対しても、その罪は問わないという決定をしました。

これは、江戸開幕以来、幕府が取り仕切っていた内政上の事項に対し、天皇が初めて関与し、幕府がそれに従ったという、前代未聞で大きな意味を持つ出来事でした。

翌年の天明八年(1788年)に起こった京都の大火では、皇居仙洞御所も焼けてしまいましたが、この再建に力を注いだ時の将軍・第11代徳川家斉に対して、光格天皇は直筆の詩を送ったと言います。

これを賜った家斉は、早速、老中の松平定信に見せ、定信はそれを床の間に掲げて宴会を催したのだとか・・・これも、御所千度参りという現象を目の当たりにして、いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているかを知り、幕府の中にも、多少の変化があったという事なのかも知れません。

また、光格天皇は、当時、度々通商を求めてきていたロシアとの交渉にも関心を寄せ、皇室での儀式や神事の復活にも力を注ぎました。

これは、この光格天皇によって、幕府に対する朝廷の発言力が高まった証とも言えますが、寛政元年(1789年)・・・この良好な関係にストップがかかります。

実は、光格天皇・・・自分が天皇になったにも関わらず、父上の典仁親王が親王ままでは気の毒だと、常々思っていたのです。

かの公家諸法度では、親王は大臣よりも低い地位ですから、なんとか父に尊号を送りたいと思い、幕府にその旨を伝えますが、これを幕府は断固拒否します。

光格天皇が希望を申し出てから、6年間に渡ってモメるこの尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)は、結局、光格天皇が矛を収めて落ち着いたのですが、尊号の願いが叶えられなかったとは言え、光格天皇によって、近代天皇制への下地が造られた事は確か・・・その観点からも、光格天皇は歴史に残る天皇であったと言えるでしょう。

ちなみに、この光格天皇がなし得なかった典仁親王の尊号・・・この願いを叶えるのは、光格天皇のひ孫で、同じ祐宮(さちのみや)と呼ばれた睦仁(むつひと)親王・・・そう、明治天皇なのですが、そのお話は、典仁親王のご命日である7月6日のページでどうぞ>>
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コメント

>いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているか
  実はいつの時代も、もちろん現代もそうなんでしょうね。人は無意識のうちに古来より民衆に寄り添い見守ってくださっていた神様に対して感謝と畏敬の念を持っているのでしょう。その神様に向けて儀式を執り行う天皇家は民衆の心の拠り所のはずなのだと思います。しかし、時に時代の波に翻弄され、なんて大変なお立場だろうと痛々しく感じられます。現代は、なんか雲の上の大スターがいなくなった代わりにされてしまっているようで、ちょっとあまりに失礼な報道が多すぎる気が・・・

投稿: Hiromin | 2009年11月18日 (水) 21時12分

Hirominさん、こんばんは~

ホントですね。
陛下や皇后さまの会見を見ていると、すべての事柄に、一つ一つ言葉を選んでお答えになっているのがうかがえますが、それでも、なんやかやと取りざたされて・・・

投稿: 茶々 | 2009年11月19日 (木) 00時35分

光格天皇の譲位の約200年後、つまり本年5月1日に今の上皇さまが天皇陛下に譲位するのですが、今回の譲位に関しても関係各位で試行錯誤がありましたね。
ところで昔に2人以上の上皇が健在の時期は先に天皇に在位していた上皇と、後に天皇に即位した上皇とで、存命時はどのように敬称の区別(例えば陽成上皇と宇多上皇が存命していた時期)をしていたんでしょうか?
存命時に「~院」の敬称があっても、今日の諡号表現の「~上皇=~院」の「~院」とは一致しないので。

投稿: えびすこ | 2019年11月18日 (月) 14時46分

えびすこさん、こんばんは~

在所の名で呼んだんでは無いでしょうか?
崇徳天皇は亡くなって崇徳と号されますが、讃岐に流罪となってた頃は讃岐院と呼ばれてたみたいですし、御所の西に住んでた淳和天皇の西院というのもありますし…

あと、複数の場合は、譲位した順に本院→中院→新院とかって呼ぶ事もあるみたいです。

投稿: 茶々 | 2019年11月19日 (火) 04時28分

昨日りんごの話をBSで見ました。
昔から最後の助けは皇室という気持ちがいつの時代でもあったのだと感じました。平家が燃やした南都の復興も後白河法皇の強い意志からですし。(それで私は後白河法皇は好きです。)
やはり皇室は特別だと感じました。
光格天皇以来の儀式が今年もありましたが、上皇陛下は昔だと院ですが、崩御されて以降はどうなるのかなと思いました。
何がともあれ光格天皇のご人格は後桜町天皇の教えを素直に聞いた事だと思いました。
今年は体中を痛めて、かかとの骨が変形しました。疲れ果てました。来年が良くなったらうれしいです。茶々さん、今年もご迷惑をおかけしてすみません。来年もよろしくお願いします。

投稿: non | 2019年12月31日 (火) 12時08分

nonさん、こんばんは~
皇室はいつの世も国民の心の拠り所ですね~

来年もよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2019年12月31日 (火) 23時17分

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