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2009年11月28日 (土)

関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城

 

慶長六年(1601年)11月28日、米沢30万石に減封が決まった上杉景勝が米沢城に入りました。

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前年=慶長五年(1600年)の9月15日、関ヶ原での天下分け目の決戦は、わずか一日で決着がついてしまいました(9月15日参照>>)

東北にて、西軍として長谷堂の戦いを展開していた上杉軍は、9月30日にようやくその結果=西軍の負けを知り、翌日の10月1日から、決死の撤退を開始(2009年10月1日参照>>)・・・多くの犠牲をはらいながらも、何とか帰還しました。

畿内では、同じ10月1日に石田三成小西行長安国寺恵瓊(えけい)ら主要人物の斬首刑が執行され(2006年10月1日参照>>)、一応の決着をみましたが、その後も戦いを続ける九州戦線(11月3日参照>>)同様、東北も余談を許さない状況でした。

特に徳川家康からいわゆる「100万石のお墨付き」を貰った伊達政宗は、このドサクサで旧領を回復しようと、家康の停戦命令を無視して、度々、上杉領に進攻してきていたのです(8月12日参照>>)

そんな中、味方の西軍が負けた事によって、もはや積極的な最上領への進攻は中止し、伊達対策のみに集中する上杉景勝(かげかつ)は、10月20日、諸将を若松城に召集し、今後の対策を話し合います。

諸将の中には、「同じ西軍の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、江戸に攻め上って徳川を討つ」という積極策を主張する者もいましたが、景勝は、家康が持ちかけている和平への道を選択します。

もちろん、負け組となった上杉にとって、この和平は対等ではなく、おそらくは全面降伏となり、家康の出す条件をすべて呑まなければならない事はわかりきった事ですが、もはや、揺るぎない物となった家康の威勢の下では、一か八かの賭けより、何とか生き残る事を優先するしかありません。

翌・慶長六年(1601年)7月1日、家康の上洛要請に応じた景勝が、執政・直江兼続(かねつぐ)とともに若松城を出発・・・24日に伏見城に到着した後、8月16日に大坂城・西の丸にて、家康と会見しました。

ここで言渡された処置は、米沢30万石への減封(8月24日参照>>)・・・謙信時代の越後から会津に移った(1月10日参照>>)とは言え、120万石を要していた上杉が一瞬にして、一地方大名へと格下げになったのです。

家康に恭順すると決めた時から、すでに覚悟も決めていた景勝は、ただ一言「驚くべきにあらず」と冷静だったと言われます。

かくして慶長六年(1601年)11月28日、景勝共々、上杉の皆々が米沢城に入ったのです。

これから後の景勝&兼続は、米沢30万石の藩政を安定させる事のみに、心血を注ぐ事になります。

特に兼続は、以前も書かせていただいたように、上記の家康との会見の際には、殿様である景勝より、供の侍の数が多かったと言われるほど、上杉内の実権を握っていたようなので、自らの過失によって減封となった事への尻拭いは、本人が責任を取らねばならない事であったはずです。

関ヶ原の合戦の前に、上杉が保持していた兵の数は3万余りだったと言われていますが、そのほとんどを解雇したものの、越後以来の家臣=6000名ほどは、ほぼそのまま召抱えたとされていて、当然の事ながら、それだと30万石ではやっていけないので、彼らの給料は削減・・・ほぼ3分の1にしての再出発です。

まずは、下級の家臣たちに城下町の外れのほうにある荒地を宅地として与え、そこで蕎麦や野菜などを栽培しながら、有事の時には兵士として参戦する・・・いわゆる半士半農の生活を送ってもらう事にします・・・彼らはこの後「原方衆(はらかたしゅう)と呼ばれます。

城下には新たな川を開削して水運を確保するとともに、縦横無尽に用水路を張り、大きな川には堤防を設けて叛乱を防ぎました。

また、街道沿いの町人町には有力商人を移転させ、全国の先進地から招いた優れた技術者を中心に染物屋は紺屋町、鍛冶屋は鍛冶屋町と同じ町に住まわせて商工業の発展にも力を入れました。

もちろん、大河ドラマでもあったように学問の向上にも力を注いでいます。

もともと、本の収集家であった兼続は、あの朝鮮出兵で大陸に渡った時も、合戦そっちのけで、兵火の中から多くの書籍を救い出して持ち帰った(戦時なのでドロボー?って事は考えない事にしときましょう)と言われ、それらの貴重な書物を「禅林文庫」と名付けて、新たに建立した禅林寺に整備して、米沢藩士の学問修行の場としました。

これは、後の安永五年(1776年)に設立された藩校・興譲館(こうじょうかん)に引き継がれ、現在も、書籍の一部は米沢図書館に、学校は現役の高校として生き続けています。

そして、先日書かせていただいた大坂の陣では、かの佐竹義宣とともに鴫野・今福の最前線で奮戦(11月26日参照>>)、家康のゴキゲン取りも怠りません。

ゴキゲン取りというと聞こえは悪いですが、現に、この時に家康の出陣要請に答えず、出兵しなかった仙北小野寺義道(よしみち)は改易となって津和野に流されていますから、もはや、生き残るためには、ゴマスリ気味のパフォーマンスも致しかたないところなのです。

おかげで、上杉は、敗者でありながら幕末まで生き残る事ができました。

途中、家督争いのゴタゴタで、30万石を、さらに15万石に減封されるも、上杉鷹山(ようざん)(3月12日参照>>)という改革者の婿殿も現れ、ついに末代まで武名を残せたのですから、まずは誇りを持ってしかり・・・といったところでしょうか。
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