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2009年11月26日 (木)

激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い

 

慶長十九年(1614年)11月26日、大坂冬の陣の中で、最大の激戦となった鴫野・今福の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存知、大坂冬の陣・・・

あの関ヶ原の合戦(関ヶ原の合戦の年表・参照>>)に勝利して、もはや天下を手中にした徳川家康・・・合戦から5年後の慶長十年(1605年)には、将軍の座を三男の秀忠に譲り、征夷大将軍を代々継いでいくのが徳川家である事を天下に宣言した形となりましたが、ただ一つの目の上のタンコブは、あの豊臣が、未だ一大名として存続している事・・・

もともと豊臣秀吉の配下として、もう一つの豊臣家内の勢力であった石田三成を潰すという内紛の形をとった関ヶ原ですから、その時には多くの豊臣恩顧の武将が家康の味方についてくれましたが、この先、成長した秀吉の遺児・秀頼を目の当たりにすれば、豊臣の家臣である彼らが、いつなんどき、秀頼を大将に掲げて徳川に対抗する勢力となってしまうか、わかったもんじゃありません。

そこで、なんとか豊臣家を潰したい家康は、京都に建築中だった方広寺の鐘に書かれた文字にイチャモンをつけ、豊臣に謝罪を要求します(7月21日参照>>)

豊臣側は、片桐且元(かつもと駿府に派遣して、1ヶ月にわたる交渉をしますが、はなから戦いに持ち込みたい家康は、到底叶いそうにもない無理難題を押し付けて、案の定、交渉は決裂します(8月20日参照>>)

その結果を得て、関ヶ原で敗退して改易となった浪人を中心に兵を集め始める大坂方・・・

10月9日にはあの真田幸村(信繁)が九度山を脱出(10月9日参照>>)・・・他にも、京の都で物乞いするまで落ちぶれた後藤基次(5月6日参照>>)や、寺子屋の先生をして生計を立てていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか(5月15日参照>>)、さらに、薄田隼人(すすきだはやと)(9月20日参照>>)塙団右衛門(ばんだんえもん)といった猛者たちが、続々と大坂城へ・・・

一方の家康は、10月1日には江戸城の秀忠に出陣の準備をうながすと同時に、全国の諸大名に参戦するよう命令を下し、自らは、10月11日に500の手勢を従えて駿府城を出陣・・・秀忠も10月23日に江戸を発ち、一路京都へと向かいます。

かくして翌月の11月15日、二条城を出陣した家康は大和路を通り、伏見城を出陣した秀忠は河内路を通って、ともに大坂に到着・・・ここに大坂冬の陣が勃発したのです。

豊臣家宿老(しゅくろう・家老)大野治長(はるなが)の采配する大坂城を囲むように布陣した徳川軍・約20万・・・最初の衝突は、11月16日でした。

九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、豊臣方の水軍の拠点である伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・さらに、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)浅野長晟(ながあきら)池田忠雄(ただかつ)らが、大坂方の砦に奇襲をかけて、見事、これを奪い取ったのです(博労淵・野田福島の戦い)

そしてその1週間後の慶長十九年(1614年)11月26日最も激戦となる鴫野・今福の戦いがあったわけです。

Oosakafuyunozinsiginoimafukuzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この日、先日の博労淵と同様に、築かれた柵の撃破と付け城(攻撃用の簡易な城)の構築を目的に、大和川を挟んだ北側の今福と、南側の鴫野(しぎの)に兵を布陣させた家康・・・

今福には佐竹義宣(よしのぶ)率いる1500、そして、この時、鴫野に最も多くの兵を動員していたのが、今年の大河の主役でもあった上杉です(大河ドラマではナレーションスルーでしたが・・・(;´▽`A``)

すでにご存知でしょうが、上杉家は、関ヶ原の時に西軍の立場で東北にて戦いを展開(9月16日:「長谷堂の戦い」参照>>)・・・つまり、あの関ヶ原で負け組となっていたわけで、それ以来の戦いとなった、この冬の陣では、上杉としては、何とか家康のイイところを見せて少しでも挽回しておきたいし、家康としても、上杉の忠誠心を確かめたい戦いであったわけです。

上杉景勝(かげかつ)は、5000の兵のうち800ほどを本陣の守りにつけ、残りの兵を4隊に分け、執政・直江兼続(かねつぐ)を総大将に、須田長義安井隆元水原親憲(ちかのり)を前線に向かわせます。

先陣を切る上杉の後詰には、堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝と続きます。

彼らに応戦するのは、大坂方の井上頼次(よりつぐ)ら2000・・・っと、さすがに、これだけの多勢に無勢ではいかんともしがたく、またたく間に頼次は討死し、柵は突破されてしまいます。

そこで大野治長は、青木一重1万2000の援軍を、すぐさま大坂城内から派遣・・・今度は、上杉軍の最前線にいた須田隊が苦戦を強いられます。

しかし、これには、すかさず、安井隊が鉄砲で援護射撃し、さらに水原隊が槍で助太刀・・・この連携プレーが功を奏し、見事、大坂方の援軍を蹴散らして鴫野の占拠に成功しました。

この上杉の働きぶりに対して、家康の・・・
「ご苦労・・・堀尾隊と交代されたし」
との指示に、景勝は、
「命を賭けて奪った場所を、上意とは言え、他人に渡す事などできません!」
と、拒否し、上杉の意地を見せつけ、さらに大和川を渡って、佐竹軍の援護に向かうのです。

そう、実は、この時、今福の佐竹隊が、大坂方の後藤基次木村重成らに敗退し、援軍を要請してきていたのですが、それに答えて、大和川を渡った水原隊によって、基次は左腕に銃弾を受けてしまいます。

大将の負傷に、まもなく撤退する後藤隊でしたが、結果、最も激戦となった鴫野・今福の戦いは、鴫野では上杉が、今福では後藤と木村の武名が高まるという5分5分の引き分となったのです。

さらに、戦い終わった上杉の本陣に、家康が慰労にやって来る事となった時、兼続が大坂城に向かって威嚇射撃を行い牽制したところ、鴫野の占拠と言い、この牽制と言い・・・一連の行動に感激した家康が、景勝にねぎらいの言葉をかけると、景勝は、
「こんなの、子供のケンカみたいなもんでしたよ」
と、サラ~ッと答えた・・・なんて、ちょっと、かっこ良すぎるエピソードも残っています。

結局、数百人の死者を出す最も大きな戦いとなった鴫野・今福の戦いは、こうして終わりを告げましたが、この3日後の11月29日には、徳川方が大坂方の砦を奪取した博労淵(ばくろうふち)野田・福島の戦いが終結(11月29日参照>>)、その5日後の12月4日には、逆に、大坂方が徳川方に大打撃を与える真田丸の攻防(12月4日参照>>)と、双方、一進一退を繰り返しながらも、大いなる最終章へと進んでいく事になります。

このお話の続きは、【大坂の陣の年表】でお楽しみ下さい>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

兼続が小物に見えてしまうのは、ナゼ?
スタンドプレイに、チャラい発言。
しかも、景勝の言ってたことと真逆だし。

...もしかして、権威に弱いタイプ?

投稿: ことかね | 2009年11月26日 (木) 11時19分

ことかねさん、こんにちは~

>もしかして、権威に弱いタイプ?

私個人的には、兼続さんは権威に弱く、スタンドプレー好きのチャラ男だと思っています。

でも、これは悪口ではなく、明日をも知れぬ戦国では、それも一つの才能だとマジメに考えます。

上司にゴマスリながら、時にはエェカッコのハッタリをかまし、要領よく、したたかに・・・これも、描きようによってはカッコイイと思うんですが、大河の主役は、やっぱ愛と義の一途なお人でないとダメなんでしょうかね?

投稿: 茶々 | 2009年11月26日 (木) 12時00分

バージョンアップで表示が速くなってありがたいです。最初は4分待ちました。

約400年前の冬は、今よりもはるかに寒いので雪も降ったとお思います。
上杉にとっては「雪戦場」は得意の戦術だったと察します。

投稿: えびすこ | 2009年11月26日 (木) 13時09分

えびすこさん、こんばんは~

>最初は4分待ちました。

ですよね~
私も、自分自身でイラッときました。
早くなって良かったです。

投稿: 茶々 | 2009年11月27日 (金) 01時51分

 お邪魔します
上杉家は武門の意地を見せましたね。
表面では頭を下げ、裏では千丁の鉄砲と20砲に上る大筒(大砲)を造らせ、戦になると上杉家が活躍出来たり、また言い掛かりで攻められた時に備え、応戦出来るようにしておく。
したたかだと思います。
 ちなみにドラマと違って秀頼公や淀殿が上杉とり潰しを防いだのではなく、徳川家の家老・本多正信が上杉討伐後、取り計らってくれたのですから。
 失礼しました

投稿: | 2009年12月 6日 (日) 07時26分

コメントありがとうございます。

>本多正信が上杉討伐後・・・

そうですね。
そのお話は、本多政重さんがらみで書かせていただこうと思っています。

また、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2009年12月 6日 (日) 07時45分

鴫野の合戦の後「子供の喧嘩のようだった」と言ったのは景勝ではなく水原親憲では?確か水原が感状を貰った後のセリフだったと思うのですが・・・。

投稿: | 2010年1月31日 (日) 22時14分

確かに水原親憲っていうのもありますね~

家康に言ったのは?
景勝?
親憲?

家臣の言葉を景勝が家康に伝えたって事なのか?
親憲が直接言ったのか?

水原親憲説の出典を教えていただければありがたいです。

投稿: 茶々 | 2010年2月 1日 (月) 01時57分

この戦いは今年の「江 姫たちの戦国」でもあまり描写されていないような気がします。
佐竹義宣は名前も出ていませんでしたね。

ところで明日の「江 姫たちの戦国」は、近畿地方ではNHK総合の放送開始時間が、30分他地域より早いんですね。「平成版大阪の陣」の全国的な注目を反映しての事ですが、一部地域で大河ドラマの放送時間をずらすのは、NHK関係者でも「恐らく前例がない」そうです。

投稿: えびすこ | 2011年11月26日 (土) 19時59分

えびすこさん、こんばんは~

江に限らず、大坂の陣をちゃんと描いてくれたドラマって、あったのでしょうか?

ほとんどが籠城戦だけで終わってたような気がします。

明日は、注目の選挙ですからね~

投稿: 茶々 | 2011年11月27日 (日) 02時37分

>大坂の陣を大河ドラマでしっかり描写した

多分「葵 徳川三代」くらいでしょうか?
主人公が大坂の陣まで生きていないと触れないですからね。
映画では「茶々 天涯の貴妃」がそうですね。

投稿: えびすこ | 2011年11月27日 (日) 08時22分

えびすこさん、こんにちは~

おぉ「葵三代」見逃してました(ρ_;)

そう言えば、
“江での戦闘シーンのほとんどが「葵三代」の使い回し…記念すべき50作品めなのに残念”という話も、どこかで聞きましたが、それだけ「葵三代」がよくできた作品だったという事なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年11月27日 (日) 13時19分

上杉景勝&直江兼続の2人にとって大坂冬の陣は、関ヶ原の戦いによって、米沢30万石に減らされた以上、徳川家康からの信頼を勝ち取らなければならない戦いだったでしょう。その一方で、景勝&兼続の2人は、はからずも真田信繁(幸村)とは敵同士となったわけですから、複雑な思いを感じたのではないでしょうか。もちろん、信繁が、上杉家の人質として深く関わっていましたから、景勝&兼続の2人としては、信繁に対する私情を捨てるしかないと決断していたかもしれませんね。

投稿: トト | 2016年10月10日 (月) 22時34分

トトさん、こんばんは~

家名と血筋を残すために、親兄弟でも敵味方に分かれて戦うのが天下分け目の大イクサですからね~私情より大切な情があるのでしょうね。

個人的には、謙信の養子で景勝の妹婿だった畠山義春が、天下分け目の時の上杉家の保険?と思ったりもしてます。

関ヶ原では徳川に寄り、大坂の陣では開戦寸前まで大坂城にいたりと、何かと景勝とは反対の位置に立ってたりするので…
まぁ、本当に仲悪いだけかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2016年10月11日 (火) 03時10分

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