« 江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号 | トップページ | 島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼 »

2009年12月11日 (金)

謎が謎呼ぶ天平人の忘れ物~藤原宮から難波宮へ

 

12月9日づけのニュースで大変興味深いものが・・・

大阪市天王寺区空堀町で出土した瓦が藤原宮の瓦である事が判明したというのです。

何が興味深いって・・・

Fusiwaranomiyakawarasyutudotizu この発見場所(右図の印)というのが、難波宮跡の南東300mほどの8世紀頃の地層・・・何とも不思議です。

つい先日書かせていただいたばかりの藤原京(12月6日参照>>)・・・そのページに書かせていただいたように、第41代持統天皇の世に飛鳥浄御原から藤原京に遷都したのが持統八年(694年)。

一方の難波宮(なにわのみや)は、大化の改新(6月12日参照>>)直後の大化元年(645年)と、第45代聖武天皇天然痘と藤原広嗣の叛乱から逃げまくっていた(10月15日参照>>)天平十六年(744年)の2度、都に定められています。

西暦 天皇 出来事

645
652
孝徳 大化の改新
難波長柄豊崎宮・完成式
667 天智 大津宮遷都
673
 
686
天武 壬申の乱
飛鳥浄御原宮遷都
大蔵省より出火・宮室全焼
694 持統 藤原京遷都

710 元明 平城京遷都
726
734
744
745
聖武 藤原宇合を難波遷都の責任者に
難波京の宅地を班給
難波を皇都と定める
平城京遷都
756 孝謙 天皇が難波宮を東南新宮に
784 桓武 長岡京遷都(11月11日参照>>)

前者を前期難波宮(難波長柄豊崎宮・なにわながらとよさきのみや)、後者の天平時代に再び造営された宮殿を後期難波宮と言います。

Naniwanomiyazenkeicc 大阪歴史博物館より難波宮跡を望む

現在の大阪城の南側には、難波宮の遺跡の一部が公園として整備されていますが、実際にはもっと広い範囲が推定されるわけですから、その南東300mとなると、もはや難波宮跡から出土したと言っても良いくらいの誤差です。

そこから、なぜに藤原京の瓦が・・・???

発見された、この瓦は、縦6cm、横17cm、奥行き20cmの大きさで、表面には(つる)唐草模様の浮き彫りがほどこされた、軒先などに使用する軒平瓦(のきひらがわら)と呼ばれる瓦との事・・・

その紋様や表面の仕上げ具合から、香川県三豊市宗吉瓦窯(むねよしがよう)で製作されて、藤原宮の朱雀門や宮殿を囲む塀などに用いられた物と、同一の物であるとの判定が下されたわけです。

考えられる推理は二つ・・・

香川で製作された瓦は、瀬戸内海を船で渡り、当時は難波津(なにわづ)などと呼ばれて遣唐使船の発着場でもあった大阪に陸揚げされ、おそらくは、ここから奈良藤原宮へと運ばれたわけですが、その途中に、破損してしまった瓦を捨てたか、あるいは、運んでいる最中に落としてしまったか・・・

Koukinaniwanomiyafukugen 後期難波宮・復元模型(大阪歴史博物館)

そして、もう一つは、発見された地層が8世紀頃という事なので、すでに、藤原京から平城京へと遷都されてしまった事で、藤原宮の瓦が不要となり、難波宮にリサイクルとして使用したか・・・

実は、後期の難波宮・・・造営に着手したのが神亀三年(726年)で、正式に都と定められたのが上記の通りの天平十六年(744年)。

そして、その1年後の天平十七年(745年)には、再び平城京に遷都されてしまうものの、天平勝宝八年(756年)には第46代孝謙天皇が新宮に移ったりなど、その後も、この難波宮は、平城京に対する副都して、第50代桓武天皇長岡京に遷都する延暦三年(784年)まで存続し続けていたというのですから、何等かの手が加えられていた可能性もあるかも知れませんし、リサイクルというのは大いに考えられますね。

ただ、それなら、出土したのが、たったの1枚というのは、何とも・・・??

破損したり、使わなくなって捨てたのであれば、もっとたくさんの瓦が出土して当然ですし、リサイクルなら、なおさら大量の瓦が必要だったはず・・・たった一枚だけが、ポツンと出土した事に関係者の皆さんも首をかしげておられます。

ならば、やっぱり、運ぶ途中の落し物???

ひょっとしたら、どこかにごっそりと埋もれている可能性も・・・

時空を越えた天平人の忘れ物は、平成の私たちに大きな謎を残してくれました。

謎はいつ解けるのか?
ドキドキ・ワクワク・・・歴史好きは今夜も眠れない!

そんな謎の瓦は、今月の27日まで、難波宮跡近くにある大阪歴史博物館(地下鉄「谷町四丁目駅」下車・火曜日休館)にて公開されてるそうなので、ぜひ、この機会にどうぞ(。・w・。 )
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号 | トップページ | 島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼 »

奈良時代」カテゴリの記事

ニュース」カテゴリの記事

コメント

「建物の部品をリサイクルする」と言うのは、この時代(奈良時代)から行われていたらしいです。恐らく「リサイクル説」かな?

今日の午後2時に「今年の漢字」が発表されます。「ミヤネ屋」で生中継します。

投稿: えびすこ | 2009年12月11日 (金) 08時54分

一枚だけ、場違いのものが入っていた、って、面白いですね。
それはひょっとして、表に晒してはいけないモノだったのでは ? ? ? ・ ・ ・、

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年12月11日 (金) 11時50分

えびすこさん、こんにちは~

>午後2時に「今年の漢字」が・・・

ならば、このコメントを書いてる今は、もう発表されてますね~

楽しみです。

投稿: 茶々 | 2009年12月11日 (金) 15時40分

重用の節句を祝うさん、こんにちは~

>ひょっとして、表に晒してはいけないモノだったのでは ? ? ? ・ ・ ・

ロマンですね~
わくわくしますo(*^▽^*)o

投稿: 茶々 | 2009年12月11日 (金) 15時42分

茶々ママさん、こんばんわです!

”たった一枚だけ”
とわ・・・。
ひょっとして、当時の人の遊び心?(ウォーリーを探せ!みたいな・・・? : 古っ)

まさに浪漫!
妄想が膨らみますねぇ~☆

投稿: おふく | 2009年12月11日 (金) 18時43分

誰かが記念に一枚とっておいた・・・それがたまたま発見された・・・なんてね・・誰かとは「持統天皇のファン」「藤原京に思い入れの強い人」いろいろ想像すると楽しい!

投稿: Hiromin | 2009年12月11日 (金) 20時51分

おふくさん、こんばんは~

ホント!
”たった一枚だけ”っていうのが、不可思議です~

>ひょっとして、当時の人の遊び心?

まさに・・・天平人のイタズラなのかも・・・

投稿: 茶々 | 2009年12月11日 (金) 21時06分

Hiromiさん、こんばんは~

>誰かが記念に・・・
>持統天皇のファン・・・

「あぁ、あの頃は良かった~」
って感じですかね~

もしかしたら、タイムカプセル的なものなのかも

投稿: 茶々 | 2009年12月11日 (金) 21時10分

私も、記念品に一票。
日本初の本格的な都の瓦、の欠片。
マニアでなくても、欲しくなります。

そういえばベルリンの壁も、欠片が記念品として売られていたような。
後世、その欠片が日本で出土したとき、研究者は頭を悩ませるのでしょうか?
そう考えると、思わずニヤケてしまいます。

投稿: ことかね | 2009年12月12日 (土) 12時11分

ことかねさん、こんばんは~

>記念品・・・

そう言えば、ウチには、以前、奈良で開催された「シルクロード博」に行った時のおみやげの「タクラマカン砂漠の砂」があります。

何百年かたったら
「なんで、ここにタクラマカン砂漠の砂が?」ってな事になるのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2009年12月12日 (土) 18時09分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/32565043

この記事へのトラックバック一覧です: 謎が謎呼ぶ天平人の忘れ物~藤原宮から難波宮へ:

« 江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号 | トップページ | 島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼 »