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2009年12月31日 (木)

歴史からみる平時の武装放棄は是か非か?

 

昭和二十年(1945年)12月31日、GHQ「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示しました。

・・・・・・・・・・・

ご存知のように、昭和十六年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃(12月8日参照>>)に始まり、昭和二十年(1945年)8月15日の日本の降伏を以って終結となった太平洋戦争・・・

上記の覚書は、戦勝国・アメリカによる敗戦国・日本への処置の一つですが、ここで、一度、停止された日本史の授業は、おそらく、現在の私たちが受ける日本史の授業とは、似て非なる物であった事でしょう。

私は、右でも左でもない(と本人は思っている)ので、どちらが良くでどちらが・・・てな事は言えませんし、以前から時々お話させていただいているように、近代史には、とにかくウトイです。

また、この太平洋戦争のあたりは、現在の政治にも影響する出来事であり、政治経済という分野の知識も皆無に等しい私には、意見をのべるなどという事はおこがましい限りで、このブログでも、このあたりの出来事を書く時は、ほぼ実況中継のような内容になっており、私見を挟むという事をしないようにしております。

ただ、以前から、歴史という観点から、少し、気になる事がありまして、本日は、身の程知らずとは知りつつ、その事について書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

「平和ボケ」という言葉があります。

世界史にもウトイ私は、この現象が日本独特の物なのか?
それとも、世界のみなさんも、こうなのか?は知らないのですが、とかく、日本人は、平和になると、「軍事=悪(ケガレ)という考えが大きくなって来るようです。

確かに、戦争はないほうが良いのは決まっていますし、平和な日々が、できれば永遠に続いてほしいというのは、皆が同一に願う事なのですが、なにやら、平和な日々が長く続くと、軍隊そのものを悪とみなす傾向があるようなのです。

そこに、日本古来から育まれている「言霊(ことだま)思想」が相まって、あたかも、「平和」「平和」と皆で叫んでいれば、平和が実現するかのように思ってしまう・・・

言葉に魂が宿る=言霊という考えについては、私は、むしろ肯定的です。

篤いエールによって人が勇気を奮い立たせる事も、やさしい言葉によって慰められるのも確か・・・でも、平和を実現するには、やはり、それなりのワザと努力が必要なのではないでしょうか?

そのワザを掴むための一指針として、歴史を紐解いてみましょう。

・‥…━━━☆

歴史上、日本は、2度ほど大いなる平和を感じた時期がありました。

一度目は、平安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)蝦夷を倒した(11月5日参照>>)・・・神代の昔から敵対していた東の大国が滅亡した事で、大いなる平和がもたらされたのです。

時の天皇・第50代桓武天皇は、ここで、なんと軍隊を廃止します。

それには、平安京の造営に多大な費用が発生し、財政的に苦しいからという面もありましたが、何と言っても先ほどのケガレ・・・平和な時に、殺戮を行う軍隊を持つ事は悪であるとみなしていたからでしょう。

さらに、桓武天皇の息子の第52代嵯峨天皇死刑も廃止します。

そのため軍隊に代わる組織として、警察の役目をする検非違使(けびいし)を設置しますが、この検非違使に守られた朝廷周辺こそ平穏であったものの、検非違使のいない地方ではとんでもない事になってしまいます。

この頃の地方行政官として置かれた国司は、甘い汁を吸って私腹を肥やす事ばかりに熱中し、警察としての能力は、まったく無いに等しいものでした。

こうなると、権力のある者がない者を押さえつけ、力のある者がない者に襲いかかる・・・まして、どんなに悪い事をしても死刑にならないのですから、役人は不正を働き、巷には強盗・略奪が横行するのです。

さらに、先日の土地問題で書かせていただいたように(11月30日参照>>)、この少し前に始まった荘園が急速に増えていったため、国家の財政はますます傾き、何か事件があっても解決する術を持ちませんから、荘園の開発領主や農民は、自らの土地を自らの手で守る事になり、農民は武装して国人地侍(半士半農)となります。

そして、つい先日書かせていただいた【僧兵=僧侶の武装】(12月28日参照>>)のように、大きな荘園を持つ寺院も自らの手で寺を守るようになったのです。

つまり、ものすご~く単純に言ってしまうと・・・
平和になって軍隊を廃止した事で、地方では、自らの財産を自らで守るという武装集団=武士が誕生したのです。

やがて、その武士の時代となり、さらに群雄割拠する戦国時代を過ぎ、今度は、その武士の頂点となった人の手によって、2度目の大いなる平和が訪れます。

ご存知、徳川家康が開いた江戸幕府・・・約300年続く江戸時代です。

「さすがに、この江戸時代は、武士がいるのだから軍隊を廃止なんて事はないだろう」と思いきや、これが意外にも、幕府が求めたのは政治に精通した官僚的な武士であって、合戦で武功を挙げるような戦国時代の武士ではなかったために、幕府の基礎が固まるにつれ、そのような武士は見事にいなくなっていくのです。

厳しい武家諸法度で、各地の大名には、武器を購入するのにも、建物を増築するのにも幕府のチェックが入りますし、少しでも不穏な動きをすれば、謀反の疑いをかけられてお取り潰しとなってしまいます。

すでに、このブログでもいくつか書かせていただいていますが、あの宇都宮・日光釣天井事件では本多正純(ほんだまさずみ)が失脚し(3月18日参照>>)加賀百万石前田利常(としつね)は、謀反の疑いをかけられないためにアホのふりまでしています(10月12日参照>>)

こうして、幕府をはじめ、各大名が蔵の中に保管した武器・弾薬は、眠ったまま約300年間保管される事になります。

当然、その間に兵器が発達する事もありませんでした。

またしても、大いなる平和で武装解除してしまったのです。

やがて、太平の眠りをさますペリーの蒸気船・・・ここで、はじめて、幕府にはまともな軍隊が無い事、持っている兵器が300年遅れている事を目の当たりにするのです。

それが見事にわかるのが、3代将軍・家光以来229年ぶりの将軍の上洛と、あの長州征伐=四境戦争です。

この時、上洛が決まった第14代江戸幕府将軍・徳川家茂(いえもち)の警護をする武士を一般募集するのですが、これが、後に新撰組となる浪士隊(9月18日参照>>)・・・なんとも不思議です。

本来なら、将軍の上洛を警護するのは、旗本だけで充分間に合うはず・・・なんせ、旗本八万騎なんて言われてたはずですから・・・(実際には、御家人その他も含みますが・・・)

ところが、一般募集をしたという事は、旗本だけでは足らなかった・・・つまりは、当時の旗本の多くが軍人としてではなく、政治家として存在していたからなのでしょう。

続く長州征伐では、すでに下関戦争(8月8日参照>>)を経験し、薩摩(鹿児島)を通じて最新鋭の武器を装備していた長州(山口県)相手に、幕府軍は、戦国時代の甲冑にほら貝を吹いて火縄銃を持ち出す者までいたというのですから(6月14日参照>>)、時代錯誤もはなはだしい・・・まさに、平和がもたらした武装放棄でした。

こうしてみると、軍隊のなかった平安時代に元寇のような外敵の侵略がなかった事、幕末の混乱で欧米列強に占領されなかった事のほうが、むしろ奇跡のように思えます。

太平洋戦争が終結してから、六十余年・・・大いなる平和に包まれた日本人は、またしても、軍隊を悪(ケガレ)とし、平和を声高に叫びます。

「憲法九条があれば平和は保たれ、自衛隊は憲法違反である」と・・・

果たして、本当に、武装放棄をして憲法九条を声高に主張すれば平和は保たれるのでしょうか?・・・もちろん、未来のことは誰にもわかりませんが、「歴史はくりかえされる」「歴史から学ぶ」という言葉がある以上、一度、歴史の観点から考えてみる事も必要かも知れません。
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2009年12月30日 (水)

将軍権力の確立に生涯をかけた足利義満

 

応安元年(正平二十三年・1368年)12月30日、足利義満が第3代室町幕府将軍に就任しました。

・・・・・・・・・・・・

足利義満(あしかがよしみつ)は、延文三年(正平十三年・1358年)8月22日、第2代室町幕府将軍・足利義詮(よしあきら)と、その側室・石清水八幡別当善法寺通清(ぜんぽうじみちきよ)の娘との間に次男として生まれます。

同じ年の4月30日に、幕府を開いた初代将軍のジッチャン足利尊氏が亡くなっていますので、義満自身は、尊氏の事をまったく知らなかった事になります。

・・・で、上記の通り、彼は次男・・・義満の上には、父・義詮と、その正室である渋川義孝の娘・幸子との間にできた千寿丸という男子がいて、この子が長男であり嫡男であったので、本来なら、義満に将軍の座が回ってくる事はなかったわけです。

ところが、人生わからないもの・・・その千寿丸が若くして亡くなってしまい、義満が後継ぎという事に・・・

そして、応安元年(正平二十三年・1368年)12月30日、前年の父・義詮の死を受けて、わずか11歳で征夷大将軍となったのです。

しかし、この頃の幕府は、まだまだ安心できるものではなく、若き将軍には、細川頼之(よりゆき)が執事として仕え、将軍権力を揺るぎないものにするために奔走する事になります。

特に、将軍を脅かしたのは、各地の有力守護・・・すでに敵対している勢力、あるいは将来敵対しそうな者を、ある時は攻め、ある時は内部分裂で切り崩し、将軍権力の絶対化に向けて力を注ぐのです。

明徳元年(元中七年・1390年)には、山名氏清に同族の山名時熙(ときひろ)を攻めさせ(12月23日参照>>)、自らは、美濃(岐阜県)土岐康行(ときやすゆき)を討ち破り、翌年には、その氏清を明徳の乱(12月30日参照>>)で倒し、応永六年(1399年)には大内義弘応永の乱(12月21日参照>>)で討ち果たします。

その間の明徳三年(元中九年・1392年)には、南朝の第99代・後亀山天皇から北朝の第100代(北朝・第6代)後小松天皇に三種の神器を譲与させ、南北朝の合一にも成功しています(10月5日参照>>)

また、これまでの執事(将軍の補佐・後見)引付頭人(ひきつけとうにん・政治上の事務を合議し決裁する)を統合して管領(かんれい)を創設した事も、将軍権力の確立に一役買いました。

こうして、義満は、その人生のほとんどを将軍権力の確立に費やしたのです。

その最たる物が、(みん・中国)との外交です。

普通、「対外政策に乗り出す」と聞くと、日本という国を統一=いわゆる、天下を掌握したから、次は海外へ・・・と思いがちですが、義満の場合は、未だ抑えきれていない国内の勢力を、きっちりと抑えるがために明との外交に乗り出したような感じがします。

・・・というのも、義満は、この明との外交で、「日本准三后(じゅさんごう)という肩書きで国書を送り、「日本国王」宛てで明からの返書を受け取っています。

この准三后というのは、読んで字のごとく「三后に准ずる位」という事ですが、この三后というのは、皇后皇太后太皇太后の3つで、これに准ずるという事は・・・つまり、天皇の臣下ではなく、一族という事になるわけです。

もちろん、これは義満が勝手に名乗ったのではなく、永徳三年(弘和三年・1383年)の6月に、正式に准三后の宣下を受けていたわけですが、ここで将軍(すでに将軍職は息子・義持に譲っていますが・・・)、あるいは太政大臣の肩書きを使わずに、あえて准三后=天皇の一族の肩書きで明へ国書を送り、その返書で「日本国王」と認めさせたのは、自らが日本のトップである事を外国に認めさせる事によって、反対勢力を抑えるためであったとも言われます。
もちろん、金儲けも(5月13日参照>>)

ただし、以前、義満さんのお誕生日にも書かせていただいたように、単に反対勢力を抑えるためだけではなく、うまく行けば、天皇に取って代わろうと考えていた可能性もあるにはあります(8月22日【足利義満の「王権争奪計画」】参照>>)

・・・というのも、このタイミングが、実に見事なグッドタイミングなのです。

鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん)が記した『愚管抄(ぐかんしょう)には、「人皇(じんこう)百代中、すでに八十四代・・・」という記述が見られますが、これは、古くからある百王思想とか百王説などと呼ばれる思想で、「皇統は百代続けば、そこで断絶し、新しい王が生まれる」という考え方です。

西暦2000年前後に、何となく感じた世紀末思想みたいな感じの、大した根拠のない物ですが、人間、何となく、キリの良いところで何かが起こるという心理があるのも確か・・・。

そうです。
先ほどの南北朝合一で天皇となった後小松天皇が、ちょうど100代・・・すでに、都では、「天皇は百代で終る」とか、「天皇家のあとには足利がそれに代わる」などの噂が飛び交っていたのです。

もちろん、この巷の噂自体は、幕府が流した物かも知れませんが、このタイミングでの「日本国王」の称号に、義満はさぞかし、ほくそえんだ事でしょう。

しかし、幕切れは、あっさりとやってきます。

Dscn1990a800 義満が過ごした山荘・北山殿=鹿苑寺・金閣
北山文化については、いずれまた・・・

応永十五年(1408年)5月6日、義満は病死してしまうのです。

あまりの急死に、今では暗殺説も囁かれる義満の死ですが、果たして、この先も彼が生きていたら、足利家が天皇家に代わっていたかどうかは・・・残念ながら、想像するしかありません。

もちろん、義満の心の内・・・本当に天皇家に取って代わる気があったのか、単に、国内の敵対勢力を抑えるがための一連の行動であったのかどうかも、今となっては藪の中ですが、少なくとも、将軍となったあの若き日の第一の目標であった将軍権力の確立だけは、その生涯をかけて見事に成功したと言えるでしょう。

ただし、ここを頂点に、見事な下り坂となってしまいますが・・・そう考えると、権力の維持というのは、なかなか難しいものですね。
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2009年12月29日 (火)

小林一茶が「おらが春」に込めた新年への希望

 

文政二年(1819年)12月29日、小林一茶の句集「おらが春」が成立しました。

・・・・・・・・・

小林一茶(こばやしいっさ)と聞けば、なんとなく「やさしそうなニコニコしたおじいさんが、のんびりと俳句を詠んでる」みたいなイメージを思い浮かべてしまいますが、そのイメージとはうらはらに、実際には、家族内のトラブルに振り回され続けの生涯を送った人なのです。

信州柏原宿の貧乏な農家の長男として生まれた一茶は、3歳で母親を亡くし、その後、8歳で迎えた継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出されてしまいます。

やがて、25歳の時に俳諧師の二六庵小林竹阿(ちくあ)弟子となり俳句を学びはじめ(弟子ではないとの説もありますが・・・)、29歳で一旦故郷に戻りますが、翌年から36歳までの十数年間、俳句の修行のため近畿・四国・九州などを旅しました。

39歳の時、病に倒れた父の看病をするため、再び故郷に戻りますが、わずか1ヶ月後に父は死亡・・・その後、12年間に渡って、亡き父の遺産を巡って、継母と争う事になります。

私としては、貧乏な農家で、争うほどの遺産がどのくらいあったのか?気になるところではありますが、それは、そこ、ご本人たちにしかわからない意地張り合いのような物があって、一茶も継母も、お互いに「あんなアホンダラにビタ一文、渡すかい!」ってな感じだったのかも知れませんね。

遺産問題が解決した文化十年(1813年)、50歳にして一茶は故郷に戻り、ようやく、初めての結婚をします。

妻・きくとの間に、3男1女をもうけますが、生まれた子供は次々と早世し、妻にも先立たれるという、またまた家庭内の不幸に襲われます。

2番目の奥さんとは、わずか半年で離婚し、3番目の奥さん・やをとの間に、やっと女の子が誕生しますが、その時には、一茶は、すでにこの世の人ではなく、しかも、文政十年(1827年)閏6月1日に、柏原宿を襲った大火で家が消失して、焼け残った土蔵で生活している最中の同年11月19日・・・65歳での死でした(11月19日参照>>)

・・・で、今回の「おらが春」は、文政二年の元日から年末までの身辺雑記と俳句を記したもので
♪目出度(めでた)さも ちう位也(中くらいなり) おらが春♪
から始まります。

ただ、読み物として刊行されたのは、25年経ってからで、一茶の意図を汲みながらも、作品としておもしろくなるように、少し脚色して記述の順番を入れ替えたとも言われていて、すべてが、日記のように時系列で並べられているわけではないようですが・・・。

♪雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る♪
などの、おどけた感じのする句もありますが、なさぬ仲の継母と過ごした悲しい少年時代を思い浮かべる
♪親のない子はどこでも知れる 爪を咥(くは)へて門に立(たつ)
なんて句もあります。

また、有名な
♪我と来て 遊べや親の ない雀♪
には、「六歳・弥太郎(一茶の本名)という添え書きがされていて、幼い頃に、近所の子供たちから、母親のいない事をはやし立てられ、逃げ隠れた時の、ひとりぼっちの寂しさがひしひしと感じられます。

ただ、この文政二年の前年に長女・さとが生まれている事もあって、
♪這(は)へ笑へ 二つになるぞ けさからは♪
♪名月を 取(とっ)てくれろと なく子哉(かな)
なんて、家族のいる幸福感いっぱいの句もあります。

しかし、まもなく、さとは天然痘にかかり、1歳を過ぎたばかりで亡くなってしまい、一茶自身は、それ以前に長男も亡くしていて、その後は
♪露の世は 露の世ながら さりながら♪
♪秋風や むしりたがりし 紅い花♪

と、悲しい運命に逆らえない空しさと、亡き子供を思う句を詠んでいます。

「おらが春」で、この年の年頭に
♪ことしの春も あなた任せに なんむかけへる♪
と詠んだ一茶は、年末の今日・文政二年(1819年)12月29日
♪またしても あなた任せの としの暮♪
と締めくくります。

浄土真宗の信者であった一茶にとって、この「あなた任せ」というのは、いわゆる真宗の「他力本願」にからめての言い回しで、この句は、自身の力だけではどうにもならない、大きな力によって、その運命が、決定づけられる空しさを詠んでいると言われます。

しかし、それとともに、だからこそ、その大きな力へ、「新年こそは・・・」という、願いを込めているのでは?と思えてなりません。

「あなた任せ」なのだから仕方がないではなく、
「あなた任せ」なら、その「あなた」により良い未来へと導いていただきたい。

勝手な解釈かも知れませんが、この最後の句は、人生の空しさだけではなく、明日への希望を詠んだ句だと思いたいですね。
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2009年12月28日 (月)

僧侶の武装と堕落

 

治承四年(1180年)12月28日、平家による南都焼き討ちが行われ、東大寺・大仏殿などが消失しました。

・・・・・・・・・・

・・・という事ですが、事件の経緯については昨年の12月28日に書いておりまして「焼き討ち」というよりは、失火だった可能性が高い事も書かせていただいたのですが(2008年12月28日【故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち】を見る>>)、そもそも、武士と寺院の争いという事に関して、どうしても現代の私たちには違和感が残ります。

それは、現在の私たちにとって、「お寺さんのお坊さん」=「徳が高く非暴力」というイメージだからなのでしょうが、当時は、少し違っていたという事を知っておかねばならないのでは?・・・という事で、本日は、僧兵と寺院の武装化と、それに伴う僧の質の低下について書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

本日の平家による南都焼き討ちの大将だった平重衡(たいらのしげひら)、一昨日ご紹介したばかりの松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)は、あの大仏を焼いたことで、仏をも恐れぬ悪行=仏敵と称されます。

また、あの織田信長も、比叡山焼き討ちを決行した事で、魔王などと言われます。
(2006年9月12日【比叡山焼き討ち】参照>>)
(2007年9月12日【比叡山焼き討ちはなかった?】参照>>)

しかし、この当時は、寺院も武装していたという事実を抜きにした現代人の尺度では測れないのです。

それは、平安時代後期からくすぶりはじめます。

「自分の思い通りにならないのは、賀茂川の流れとサイコロの目と比叡山の僧兵」
この言葉を言ったとされるのは、第72代白河天皇(2月11日参照>>)・・・あの源頼朝「日本一の大天狗」と言わせた第77代後白河天皇のひいおじいちゃんです。

逆に言えば、その三つ以外は思い通りになるって言っちゃう天皇も「えぇ!?Σ(゚д゚;)」って感じですが、思い通りにならない二つの自然現象に並んで、人間である僧兵が入ってるところも驚きですよね。

こうした武装する聖職者集団には、白河天皇の言葉にも出てきた比叡山の山法師、興福寺の奈良法師、園城寺の寺法師などが有名ですが、彼らが武装したのには律令制の崩壊がが大きな要因となっている事は確かでしょう。

以前、書かせていただいた土地問題です(くわしくは11月30日の記事で>>)

奈良時代の大宝律令で定められた土地制度を、国家は維持できなくなったため、それまでは日本の土地すべてが国家の物だったのが、条件つきではあるものの「開墾した土地は自分の物にして良い」という画期的な法律=「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発され、寺院がこれに飛びつきます。

かつては、国家の保護を受けていた寺が、律令制の崩壊で、その国家の保護をあてにできなくなっていた所にこの法律ができたものですから、寺はこぞって新たな土地=荘園を開墾し、寺の維持を、そのお金でまかなおうとしたわけです。

上記の土地問題のページで、荘園を開墾した領主が、自らの土地を守るために、中央から派遣された皇族や貴族を棟梁(とうりょう)に担ぎ、強固な武士団を築いていったと書かせていただきましたが、それは寺とて同じ事です。

自らの荘園を守るために、僧も武装し、国司の侵入を防ごうとしたのです。
そんな僧の武装集団が僧兵・・・

・・・で、そうなると、戦いのためには一人でも多くいたほうが有利という事で、寺のほうも、大した修行もしないまま、安易に僧である事を認めて、その質もどんどん低下・・・やがては、ただの荒くれ者の集団のようになっていくのです。

たとえば室町時代の初期、第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の時代、京都五山の第一と言われた南禅寺が、その楼門を造営するための費用を捻出しようと、勝手に関所を造って通行料を徴収したのですが、そこを園城寺の小僧が料金を払わずに通行しようとしたためにケンカとなり、小僧は殺されてしまいます。

すると、怒った園城寺側が、南禅寺の関所へ殴りこみをかけて僧・2名を殺害したにもかかわらず、その園城寺に興福寺延暦寺が味方した事で、京都五山VS園城寺・興福寺・延暦寺の構図が出来上がり、さらにヒートアップ!

正平二十二年(貞治六年・1367年)12月には将軍・義詮が亡くなり、一旦、落ち着きますが、すぐまた翌年、南禅寺の僧が・・・
「延暦寺の坊主は猿や!人のようで、人でない(ベンベン)
(↑延暦寺の鎮守の日吉神社の使いが猿なので)
とか
「園城寺の坊主は三井のガマ蛙!生き物の中で、一番アホ!」
(↑園城寺の別称が三井寺なので)
とかの暴言を吐いた事で再燃・・・

怒った延暦寺が、お得意の御輿を担いで入京する騒ぎにまでなり、さらに京中の禅寺や朝廷・幕府を巻き込んで大モメにモメた後、結局、お互いに険悪なムードを維持したままの状態が長く続く事に・・・(6月26日参照>>)

失礼ながら、なんか低レベルな争いです~。
しかし、戦国の頃は、さらにエスカレートしています。

あの本願寺の蓮如(れんにょ)が、延暦寺の弾圧によって大谷廟を焼かれて北陸へと行くハメになったのは有名なお話(7月27日参照>>)・・・これは、一つの宗教から見れば、他の宗教は邪教=敵で、「邪教を信じる者は排除しなければならない」というのが当時の常識だからです。

天文五年(1536年)には、やはり延暦寺の僧兵が、日蓮宗のお寺を取り囲み、中に人がいるまま火を放って焼き殺すという天文法華(てんぶんほっけ)の乱なんて事件(7月27日参照>>)もありました。

しかも、これ、1ヶ所ではなく、京都内のお寺21ヶ所でやっちゃってますから、その殺戮たるやハンパじゃありません。

また、僧の質の低下という点では、高野聖(こうやひじり)と呼ばれた修行僧らも見逃せません。

高野聖というのは、高野山の僧が全国をめぐり歩き、高野山の由来などの話を人々に聞かせながら勧進(かんじん・寄付集め)をする修行僧の事ですが、開祖の空海がそうであったように、各地の家々にお願いして泊めてもらう宿借(やどかり)という特権がありました。

しかし、室町時代の後期には、それを悪用して、衣類や雑貨を入れた篭を持ち歩き、入った家で物を売る呉服聖(ごふくひじり)商聖(あきないひじり)が多発・・・中には、若い奥さんに夜這いをかける売聖(まいす)なんて僧もいたのだとか・・・

また、彼らが、「高野山で祈祷した時の護摩(ごま)の灰だ」といつわって、変な燃えカスを押し売りまがいで売りつけた事から、命を取るような強盗ではなく、サイフなどの懐中物をスルといった小悪党の事を「護摩の灰」と呼んだ←これが「ゴマの灰の語源」なんて事もまことしやかに囁かれています(諸説ありますが・・・)

・・・と、以上、現在のお寺さんやお坊さんとは、ずいぶんと違います。

もちろん、これ以外に、最も重大な、政治への介入という事がありましたから、時代の権力者は、彼らを野放しにしておく事はできなかったという事なのでしょうね。
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2009年12月26日 (土)

織田信長をも魅了した松永久秀の築城センス

 

天正元年(元亀四年・1573年)12月26日、足利義昭の呼びかけに応じて、織田信長包囲網に加わっていた松永久秀が降伏し、多聞城を信長に明け渡しました。

・・・・・・・・・・・

この松永久秀(まつながひさひで)という人・・・その生涯で、2度・信長に降伏し、2度・刃を交えています。

最初は、織田信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した時・・・

この時は、敵対するというよりは、すぐさま恭順な態度を示し、名器と言われる作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを差し出して、むしろ信長に気に入られ、義昭の家臣という居場所を確保しています。

その後、信長に2度叛旗をひるがえし、その2度目の叛乱で壮絶な爆死を遂げた事は、そのご命日の日に書かせていただきました(2007年10月10日参照>>)

しかし、この最期の時も、信長は、「お前の持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を譲ってくれたら、今回の謀反を許してあげる」と、魔王と噂される信長さんとは思えない寛大な態度で接してします。

この「お前の持ってる茶釜をくれたら・・・」という交換条件は、それだけ信長がその茶釜が欲しかったとも言えますし、それだけ、久秀が価値のある人物だったともとれますが、最初の段階での信長が、(謀反の)理由があったら聞くし、望みがあるんやったら言うてみぃ」と言ってるところから察して、私は後者・・・久秀にそれだけの価値があったのだと思っています。

そんな久秀が、最初と最期の中間・・・一度目に起した謀反が、今回の多聞城の一件です。

・‥…━━━☆

そもそも、「乱世の梟雄(きょうゆう)と呼ばれ、13代将軍の足利義輝(よしてる)三好三人衆とともに殺害し、主君の三好長慶(ながよし)を毒殺し(これには諸説あり)(5月9日参照>>)、その後、仲間割れした三好三人衆との戦いで東大寺の大仏殿を灰にしてしまう(2018年10月10日参照>>)・・・その破天荒な暴れっぷりは、対岸の火事である後世の戦国ファンから見れば実に小気味いい。

こうして、京を掌握していた久秀の前に現れたのが信長・・・しかし、ここは、無理に反発する事なく、上記の通り、その傘下に入る事にします。

これまでの久秀の行動からすれば、実におとなしい応対ですが、ここは、「そのチャンスをうかがっていた」というところかも知れません。

まもなく、義昭と信長の間に亀裂が生じ始める中(1月23日参照>>)、義昭の呼びかけに応じて、越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)近江(滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄・・・やがては、石山本願寺も参加しての信長包囲網が形成されますが、それでも、まだ、信長の配下として石山本願寺戦に参戦していた久秀・・・。

しかし、元亀四年(1573年)3月、ついに義昭の誘いに応じて同盟を結び、さらに、あの三好三人衆とも仲直りし、信長包囲網の一角に加わる事になります。

これには、信玄の上洛も追い風になったのかも知れません。
「あの大物が上洛したなら、さすがの信長も・・・」という空気が、一瞬でも流れた事でしょう。

ところが、西へ進軍していた信玄は、この年の1月の野田城攻防戦(1月11日参照>>)を最後に甲斐へと戻ってしまいます(ご存知のように病に倒れ、4月に亡くなります)

さらに7月には、信長からの攻撃を受けて義昭が京を追放され(7月18日参照>>)、8月には、やはり信長の前に浅井・朝倉が倒れ(浅井:8月27日参照>>)(朝倉:8月6日参照>>)、11月には、婚姻関係を結んでいた三好義継が河内若江城で敗死する(11月16日参照>>)に至って、ついに天正元年(元亀四年・1573年)12月26日信長に降伏し、籠っていた多聞城を明け渡したのです(2017年12月26日参照>>)

・・・で、この後は、信長の家臣である佐久間信盛の配下となって働くわけですが・・・そうです、やっぱり、ここでも、信長は謀反を起した久秀を許しているわけです。

あの信長が、ここまで寛大な処置をとるという事が、久秀の魅力のレベルアップに一役買っているわけですが、そこまで、信長を魅了した彼の魅力というのは、何だったんでしょう?

それは・・・センス!

先見の明というか流行の先取りというか・・・それが、彼はバツグンだったのです。

まずは、先ほどから登場している茶道具です。

最初の作物茄子の茶入れを貰った信長は、久秀に「大和一国・切り取り次第」というお墨付きを与えていますが、これは、「自分で攻め取ったところは勝手に治めちゃっていいよ」という事・・・それほど、信長にとって魅力のある品だったわけです。

久秀は、信長より24歳年上・・・信長から見ればオヤジの年齢です。

息子が、親父のコレクションを欲しがる・・・これは、ひとえに、そのセンスが良いからです。

昔、親父が若い頃にはいていたGパンも、センスが悪ければただのボロ・・・しかし、それが、今もなお人気の品なら、デニムの古着=アンティークとしての価値があり、息子も欲しいと思うのでは?

そんな久秀のセンスは築城にも発揮されています。

今回、歴史の舞台となった多聞城・・・ここを訪れたルイス・フロイスの記録によれば・・・

見上げるほどの高さの数階の建物(天守)があり、漆黒の瓦真っ白な壁西洋風の窓格子を設けた外国では見た事のないような立派な建造物だったと・・・。

白い壁は、石灰に砂を混ぜるのではなく、紙を混ぜていたようで、特に、その白さが強調される造りだったようです。

その内部の壁には歴史物語が描かれ、光り輝く真鍮(しんちゅう)の柱には、菊の花が彫刻され、見事な庭園を備えていたのだとか・・・

さらに、城下を歩けば、、「今できたばかりなのではないか?」と思わせるほどの、清潔で白く輝く道が続き、まるで天国のようだったと・・・。

このフロイスの感想・・・何かを思い描きませんか?

そうです。
まるで、信長の安土城の感想を思い浮かべますが、実は、信長の築城は、久秀の技術を生かした設計・・・これこそが、一番の魅力なのです。

Hikonesawagutitamon800 彦根城・佐和口多聞櫓

今も、全国各地の城に残る多聞櫓(たもんやぐら)という建物・・・以前、このブログでは、大阪城の多聞櫓の特別公開に行った時のお話も書かせていただきましたが(11月2日参照>>)、この多聞櫓が、この名前で呼ばれるには、久秀の多聞城に造られた久秀デザインの櫓だからなのです。

守りに強く、見た目に美しく・・・この多聞城にあった櫓を、ことのほか気に入った信長が、自らの築城に採用し、さらに、その良さを実感した大名たちが、自らの城にも採用して全国的に広がったのです。

Dscn6434tamon800 大阪城・多聞櫓

フロイスの記録を見る限りでは、おそらく、天守閣を最初に造ったのも久秀・・・

謀反を起しても寛大な措置・・・信長にとって、久秀のセンスは、殺すに惜しい魅力的なものだったという事なのでしょう。
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2009年12月25日 (金)

平治の乱~清盛の天皇救出劇

 

平治元年(1159年)12月25日、平治の乱で内裏に幽閉されていた二条天皇が、六波羅へ脱出しました。

・・・・・・・・・・

すでに、昨年の勃発の日に、一連の流れを書かせていただいている平治の乱ですが(2008年12月9日のページを見る>>)、乱を起こした最初の段階で政権を握った藤原信頼(のぶより)源義朝(よしとも)が、わずか半月ほどで、平清盛に倒されてしまう、最も重要なキーポイントが、この二条天皇の脱出です。

この日、二条天皇と、その父の後白河上皇を清盛が確保した事で、清盛側が官軍となり、一気に形勢逆転となるわけですが、それにしても、なぜ、信頼は、大事な大事な天皇と上皇に逃げられてしまったのか?

そこには、複雑な人間関係が絡んでいるようです。

そもそもは、保元の乱に勝利して、保元新制なる新制を発令した第77代・後白河天皇・・・この改革を、実際に立案して推し進めたのが、当代随一の学者と言われた執政・信西(しんぜい・藤原(高階)通憲))という人物で、後白河天皇の乳母の夫だった事から側近として重用された人でした。

その保元新制の主要部分が、全国の荘園を規制して、天皇の支配下置こうとする荘園整理だったので、それを強行するためには武力も必要という事で、信西は平家一門を重用していたのです。

そんなこんなの保元三年(1158年)、後白河天皇が退位・・・上皇となって院政を行い、息子の第78代・二条天皇が即位します。

これは、その二条天皇の養母だった美福門院(びふくもんいん・藤原得子)という女性が信西に迫って実現したもので、この女性は、今は亡き第74代・鳥羽天皇の皇后で、第76代・近衛天皇の母という立場の人なのです。

当時も多くの荘園を相続していて政財的にも力を持つ人・・・しかも、信西は、鳥羽天皇の側近でもあった人ですので、この2人のつながりもなかなか強いものでした。

ただ、この時、16歳で皇位を継いだ二条天皇は、政治にも強い関心を持っており、どちらかと言えば、自らが政治をしたい・・・で、当然ながら、父の院政がうっとおしく、徐々に対立していきます。

そうなると、先の近衛天皇の急死を受けて、中継ぎ的立場で即位した後白河上皇にとって院政を推し進めるのが、美福門院と親しい信西だけでは、いたって不安・・・という事で後白河上皇が、大抜擢したのが、寵愛する信頼だったのです。

後白河上皇の力を得て、急速に出世し、信西と肩を並べる実力者となった信頼ですが、そんな彼が、いつしか信西と反目するようになり、その武力として頼ったのが義朝でした。

かくして、朝廷内には、二条天皇派と院政派という対立とともに、信頼派と信西派という対立も生まれ、それらが複雑に絡み合います。

その中での清盛の立場は・・・確かに、信西は、平家一門の武力を頼りにし、厚遇していましたが、清盛のほうは、信西の息子にも、信頼の息子にも娘を嫁がせており、この段階では中立の立場をとっていたのです。

・・・で、そんな中の平治元年(1159年)の12月9日、清盛が熊野詣に出かけた留守中に、信頼と義朝は、天皇と上皇を幽閉し、信西の首を取るというクーデター=平治の乱を決行したのです(12月15日参照>>)

ただ、幽閉と言っても、天皇のいる場所に上皇を連れてきた・・・しかも、そこには美福門院の息のかかった人物が関与していたともされ、このクーデター自体に、二条天皇派が関わっていた可能性大で、つまりは、この時点では、二条天皇は信頼の味方だったかも知れないのです。

ところが、このクーデターの一報を聞いて、あわてて熊野から帰ってきた清盛の天皇救出作戦の手引きをするのも、二条天皇派の人物・・・

確かに、信西を倒して政権を掌握した信頼が、臨時除目(じもく・任官の儀式)を行って、自らが近衛大将に、義朝を播磨守(はりまのかみ)に任じたりした時、太政大臣の藤原伊通(これみち)が、
「人を多く殺した者が官位を貰うなら、三条殿の井戸にも官位を授けねば・・・」
(最初に三条殿を攻めた時、多くの女性がそこの井戸に飛び込んで死んだとされているので・・・)
てな、皮肉を言ったとも言われ、ここらあたりで、反信西だった朝廷の人たちが、逆に、反信頼・反義朝に変わっていったとも考えられますが、もともと、二条天皇派にとっては、信西が死んさえくれたら、その後はどうでも良かったという事なのかも知れません。

とにもかくにも、平治元年(1159年)12月25日、清盛は、まずは、娘婿となっていた信頼の息子・信親(のぶちか)に護衛をつけて、信頼のもとへ送ります

その一方で、二条天皇派の藤原惟方(これかた)の義兄弟である藤原尹明(ただあき)に、女性用の車を用意させ、そこに二条天皇を乗せ、闇にまぎれて放火し、騒ぎに乗じて連れ出すよう指示します。

さらに、信頼には名簿(みょうぶ)を提出・・・この名簿というのは、本人の官位や姓名を記した名札の事で、「差し出したあなたに服従します」という意味が込められている物でした。

これに対して信頼は、
「重ね重ね、アリガトね!」
と、大喜び「です。

「息子も無事返してくれて名簿も提出してくれて」・・・つまり、信頼は清盛を完全に味方だと思っていて、まったく疑っていなかったのです。

しかし、清盛の計画通り、二条天皇は脱出して六波羅邸へと入り、さらに仁和寺へ・・・

やがて、後白河上皇も、美福門院も、六波羅邸に合流すると、さきの関白・藤原忠通(ただみち)など、公卿・殿上人のすべてが六波羅に大集合・・・これで清盛が官軍となり、信頼と義朝は孤立し、彼らの運命は、ここで決定的となってしまったのです。

なんだか、清盛の1人勝ち・・・信頼は踊らされた感も拭えないですが、まだまだ異説もあり、謎多き平治の乱です。

平治の乱の結末については、
●冒頭にもリンクした藤原信頼中心の平治の乱>>
源義朝中心の平治の乱(義朝の最期)>>
義朝の長男=悪源太義平の平治の乱>>
捕えられた義朝の嫡男=源頼朝>>
など、それぞれのページをご参照くださいm(_ _)m
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2009年12月24日 (木)

日本のクリスマスはいつから?

 

明治七年(1874年)12月24日、東京・築地の東京第一長老協会で日本初のクリスマスイブの祝賀会が行われました。

・・・・・・・・・・

以前、クリスマスの起源で書かせていただいたように、もともと、1月6日、2月2日、3月25日、4月19日、11月17日・・・などなど、民族によって、様々だったキリストの誕生日を、ローマ教会が12月25日と一定したのは西暦354年の事・・・(2006年12月24日参照>>)

かつての日本も、そうであったように、農業を営む国にあって、昼が一番短い冬至は太陽が生まれ変わる重要な日だったわけで、その年の収穫に感謝し、翌年の豊作を祈るお祭りが古くからこの時期に行われていて、未だキリスト教が新参者の宗教であった3世紀あたり、キリストの誕生日という祝い事が、人々に浸透しやすいように、収穫祭の時期に合わせて、12月25日に落ち着いた・・・という感じでしょうか。

ちなみに、日本の収穫祭である新嘗祭(にいなめさい)=勤労感謝の日は11月23日ですが、これは旧暦の冬至の時期です(11月23日参照>>)

・・・で、本日は、そのクリスマスに盛大なお祝いをするようになったのは、いつか?・・・というお話なのですが・・・

この手のお話で、初となるのは、例の円卓の騎士で有名なイギリスアーサー王という事ですが、ご存知のように、5~6世紀頃に、モデルとなる実在の人物がいた事は確かでしょうが、アーサー王そのものは、伝説の域を超えない人物であります。

なので、おそらく、史実であろうという物での初は、小さく分かれていたイギリスをアルフレッド大王が統一した西暦893年頃・・・そのアルフレッド大王が、1年のうちの12日間をクリスマスの祝賀の日を定めて祝ったという記録が最古の記録とされています。

今でも、欧米では、12月6日の聖ニコラスの誕生日から始まったり、12月13日の聖ルチアの祝日から始まったりと、クリスマスのお祝いが一日だけではない所が多くありますよね。

・・・で、本日の本題・・・日本のクリスマスは?

冒頭に書かせていただいたように明治七年(1874年)12月24日東京・築地の東京第一長老教会で開催されたクリスマスイブの祝賀会が、日本初とされていますが、この同じ日に、銀座でもクリスマスの祝賀会が行われた事が記録されています。

提灯で飾られたクリスマスツリーや、(かみしも)をつけた殿様風のサンタクロースも登場したと言いますから、欧米のクリスマスパーティの様子を伝え聞いて、想像を膨らませての手探り状態だったようですが、まぁ、お祝いなので、キリスト様もお許しくださる事でしょう。

・・・とは言え、これは明治の文明開化となってからの近代のお話・・・実は、もっと以前の日本のクリスマスパ-ティの記録が残っています。

そう、キリスト教が禁止される以前の戦国時代です。

あのフランシスコ・ザビエルが日本にやって来たのが天文十八年(1549年)7月3日(7月3日参照>>)・・・おそらく、ザビエルは、その布教活動の中で、「クリスマスを祝う」という事をやってはいたでしょうが、正式な記録として残るのは、イエズス会『日本通信』の記録・・・

これによると、天文二十一年(1552年)の12月9日(太陽暦では24日)に、周防(山口県)にいた宣教師・トルレスらが、司祭館に日本人の信徒たちを招いて、クリスマスの祝賀会を催したのだそうです。

修道士らが、夜を徹して神様のお話をして聞かせた後、食事が振る舞われ、そこには、建物に入りきらないほどの善男善女が集まったのだとか・・・

また、ポルトガルの宣教師・ビレラが、永禄五年(1562年)に本国に送った手紙の中には、「堺の切支丹らは、大いなる喜びと満足を以って、クリスマスを祝したり」という一文があり、当時の国際都市・堺でも、盛大な祝賀会が行われていた事がうかがえます。

永禄五年と言えば、あの第四次・川中島の合戦(9月10日参照>>)の翌年・・・織田信長足利義昭(よしあき)を奉じて上洛する6年も前ですから、キリスト教は、信長よりも早く堺に到着していたんですね。

宣教師の布教活動がうまかったのか?
日本人が宗教に対して柔軟なのか?

日本のクリスマスの歴史も、なかなか古いものです。

Dscf6373800a 写真は、現在、大阪中之島で開催中の「OSAKA光のルネサンス2009」スノ-マン・イルミネーション

大阪の冬を彩る光の祭典は25日まで

広い会場に様々なイルミネーションが、とても美しかったです!!
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2009年12月23日 (水)

本日は年賀状づくりに励んでおります

 

私事で恐縮ですが、本日は年賀状づくりに専念させていただいております。

「25日まで」・・・という事なので(´Д`υ)アセアセ

急ピッチで製作中ですので、歴史のお話は、また、明日書かせていただきますね。
申し訳ないっすo(_ _)oペコッ

ちなみに、今年のネタは・・・

Nenga2010cc ・・・てな感じ(/ー\*)
 

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2009年12月22日 (火)

死守はしたけれど・・・慶長の役・蔚山城攻防戦

 

慶長二年(1597年)12月22日、豊臣秀吉朝鮮出兵の後半戦=慶長の役にて、蔚山城に籠城する日本軍に明・朝鮮の連合軍が総攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・・

様々な説あれど、その真意が未だに計り難い豊臣秀吉朝鮮出兵・・・(3月26日参照>>)

長期に渡る戦乱の世を終らせた秀吉は、大陸へと思いを馳せ、アジア諸国に入貢(にゅうこう・貢物を持って挨拶に来い)を促す手紙を出しますが、当然の事ながら、(みん・中国)朝鮮もそんな要求を受け入れるわけにはいきません。

大陸との窓口となって奔走する小西行長宗義智(そうよしとも)でしたが、結局、秀吉は文禄元年(1592年)4月13日、計15万を越える大軍を釜山(プサン)に上陸させたのです(4月13日参照>>)・・・文禄の役の勃発です。

しかし、緒戦こそ勝利したものの、しだいに戦況は泥沼化・・・碧蹄館(ビョクジェグァン)では、なんとか勝利するも、もはや戦う気力も体力もなく、和睦交渉をすすめていた行長によって、何とか講和使節団の日本訪問をとりつけ、文禄の役は終結を迎えました(1月26日参照>>)

文禄の役関係図はコチラから>>(別窓でひらきます)

しかし、いくら使節がやってきても、はなから、相手を服属させる事が目的の秀吉との交渉がうまく行くわけもなく、結局、慶長二年(1597年)7月、再び、日本軍の渡海が開始されるのです。

2度目の朝鮮出兵=慶長の役です。

今回は、「唐入り(明への進攻)を目標とした文禄の役と違い、あくまで朝鮮半島南部の主要道路の確保・・・渡海&遠征しての合戦の困難さを、前回で充分に理解したうえでの作戦でした。

今回も緒戦は日本軍が勝利し、明・朝鮮連合軍を漢城(ハンソン)郊外まで撤退させますが、かねてからの作戦通り、それ以上北上する事はなく、南部の鎮定に終始します。

やがて11月に入って、日本軍は蔚山(ウルサン)に築城を開始します。

Keityounoekikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここは、釜山(プサン)から慶州(キョンジュ)へと通じる交通の要所・・・しかも、南側に太和江(テファガン)が走り、すぐそばに船を着ける事ができます。

なんせ、日本側の補給路は、船の道しかないのですから・・・

あの加藤清正が縄張り(設計)を担当し、毛利秀元浅野幸長も加わり、工事は急ピッチで進められていきます。

一方の明・朝鮮連合軍・・・日本軍が半島南部の守りに集中している事、築城に多数の兵が動員されている事、さらに、日本軍のリーダー的存在である清正の城という事も踏まえ、この蔚山城が完成する前に攻略する作戦に出ます。

リーダー的・清正の城が完成前に占拠されたとなれば、日本軍にかなりの心理的ダメージを与えられますから・・・。

12月7日、漢城から蔚山に向けて南下する明・朝鮮連合軍・・・かくして慶長二年(1597年)12月22日、南側の川の方向を除いての3方を囲んだ5万7000が、総攻撃を開始したのです。

執拗な攻撃に、内側へと追い込まれる城兵・・・運悪く、蔚山を留守にしていた清正は、慌てて7里(約28km)の道をひた走り、なんとか城に戻りますが、未だ未完成の城には、兵糧すら運び込まれてはいません。

しかも、この真冬・・・朝鮮半島の厳しい寒さに、餓死者&凍死者が続出する中、やむなく、清正は開城を模索しはじめます。

もう、後がない!!
と、諦めかきた時・・・

蔚山の西方に、かの秀元・黒田長政鍋島直茂らが、1万5000の兵を率いて到着・・・援軍の参戦に士気あがる籠城組・・・

敵の援軍の到着を知った明・朝鮮連合軍は、戦いが長引いては退路が断たれかねないと、年が明けた1月4日、最後の総攻撃を仕掛けますが、籠城組は、なんとか防ぎきります。

なかなか落ちない蔚山城に見切りをつけた連合軍は、まもなく、連合軍は包囲を解いて撤退を開始・・・そこへ、襲い掛かるのは毛利・黒田・鍋島隊。

撤退戦が最も難しいのは、日本も大陸も同じ事・・・ここで、2万以上の死者を出しながらも、なんとか撤退した明・朝鮮連合軍でしたが、一方の日本軍も、それをさらに追いかける気力もなく、攻防戦は、これにて終了・・・

この後、1月25日付けで、秀元ら13名の武将が、石田三成らの奉行に「戦線の縮小」を願い出ているところから見ても、いかに、過酷な戦いであったかがうかがえます。

しかし、春はまだ遠い・・・いえ、春を越えてもまだ続く遠征は、現地に派遣された武将だけでなく、日本に残る秀吉に、そして、豊臣家をも過酷な渦の中へと巻き込んで行く事になりますが、そのお話は、以前、書かせていただいた慶長の役のまとめ的な記事・11月20日のページの後半部分でどうぞ>>

それにしても・・・
戦国の世の手に汗握る合戦は、いつも勇猛な武将たちの姿を思い描きながら、自分自身もワクワクしつつブログを書いているのですが、どうも、この文禄・慶長の役だけは、あまりにも過酷で悲惨で、頭に思い描く映像が悲しすぎるなぁ・・・
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2009年12月21日 (月)

天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状

 

元治元年(1864年)12月21日、天狗党・総大将の武田耕雲斎の降伏状が、天狗党征討総督の徳川慶喜に受理されました。

・・・・・・・・・・・・・

これまでの天狗党のお話は・・・

外国からの圧力に屈し、開国をしてしまった弱腰の幕府に対して、元治元年(1864年)3月に、今は亡き水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎を中心に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党は、その後、幕府軍や水戸藩内の保守派の諸生党などと関東にて転戦しますが、諸生党に水戸城を占領された事で、関東での活動に限りがあると感じ、新たな総大将・武田耕雲斎(こううんさい)のもと、水戸藩の現状報告と幕府の方向転換を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立ち下仁田戦争和田峠の戦いを経て、美濃(岐阜県)萎靡(いび・岐阜県揖斐郡)宿に到着・・・ここで、面会に来た中村半次郎の勧める薩摩藩の前面支援を辞退し、北まわりのルートで雪の木ノ芽峠を越えた12月11日、この先の通行許可を金沢藩に求めますが、ここで、頼みの綱であった慶喜が、天狗党征伐の総督として琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来ている事を知らされ、がく然とするのです。

くわしくは、それぞれの下記リンクからどうぞ▼

行軍ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆

そもそも天狗党の西行行軍は、先代藩主の息子である慶喜に嘆願するための行軍であり、途中の戦いも、その行軍を阻止されたための戦い・・・だからこそ、すんなりと道を開けてくれた藩とは、何のモメ事もなく通過し、ここまでやってきたのです。

ところが、その頼むべき相手が討伐軍の総督・・・これでは、もう面会する意味はありません。

天狗党と対面して水戸藩の現状を聞き、彼らの理念を聞き、その武士らしく、き然とした態度に感銘を受けた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らは、彼らと慶喜の間をとりもつ事を約束し、罪人としてではなく、客人として接しました。

それに応えた耕雲斎は、早速、嘆願書始末書をしたため、その満願の思いが込められた書状を持って、甚七郎らは雪の近江をひた走ります。

しかし、その書状を受け取った慶喜は、「天狗党は賊徒である」として、書状を受け取る事すら拒否し、それどころか、「来たる12月17日に総攻撃をせよと金沢藩に命じました。

金沢藩の彼らから、その報告を聞いた天狗党・・・総攻撃の予定日の前日=16日に、最後の軍儀を開きます。

ここで、天狗党・大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)は、
「ここから間道を抜けて山陰道を行き、かねてからの同盟に従って長州(山口県)とともに尊王攘夷の意志を貫くべきである」
と主張・・・数人が、この意見に賛同します。

そう、実は、この4年前の安政七年(万延元年・1860年)7月22日、長州藩の桂小五郎と、水戸藩の西丸帯刀(さいまるたてわき)岩間金平(いわまきんぺい)らによって丙辰丸(へいしんまる)の盟約成破同盟(せいはどうめい)なる物が交わされていたのです。

その年に桜田門外の変(3月3日参照>>)井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺したのが水戸浪士らであった事から、同じ尊王攘夷の意志を強く持つ長州の小五郎が、水戸藩の彼らに近づいて同盟を結んだ物で、長州藩の軍艦・丙辰丸の船上で交わされたので丙辰丸の盟約と言います。

また、別名の成破同盟の「成」「大成の成」・・・つまり、現在の幕政を改革を成すという事で、「破」「破壊の破」で、暗殺や襲撃や挙兵の事です。

この密約を結んだ時、かの西丸が「成すのと破壊するのとどっちが難しいやろ?」と、小五郎に聞いたところ、小五郎が「そら、破壊でしょう」と言ったので、「ほな、難しいほうを俺らがやるわ!」と言ったのだとか・・・。

その約束通り、彼らは、その後、英国公使館の襲撃坂下門外での安藤信正の襲撃も決行したのです。

その後、京都で小五郎に会った小四郎も、「頑張ってね~」と激励され、軍資金として500両も支援してもらっていたのですから、ここで、長州を頼ろうというのも一理あります。

しかし、マジメ一筋で実直な耕雲斎には、主君同様の慶喜に弓を引く事など到底できません。

結局、耕雲斎の意見に小四郎も賛成した事から、協議の末、天狗党は、このまま降伏する事に決定したのです。

翌・17日、耕雲斎が書状をしたため、再び甚七郎らがひた走ります。

さすがに今度は、その内容を確認した慶喜でしたが、そこには、水戸藩の現状と、それにともなう挙兵へのやむにやまれぬ事情が書いてあったため、「内容が降伏になってない!」と激怒・・・やむなく、耕雲斎は再び書状を書き直し元治元年(1864年)12月21日、その内容に満足した慶喜が、やっと受理したのです。

最後の降伏状には、弁明など一切なく、
「武装して各地をウロウロして、周囲を動揺させ、大きな罪を犯してしまった事は、申し訳ありません。
深く反省して、一同、皆、降伏しますので、どのようにでも処置なさってください」

書状に「降伏」の文字が入っていて、さぞかし、慶喜も満足したようですが、この書状は、慶喜の御用人が書いた下書きを耕雲斎が写しただけだったなんて話もあります。

ただ・・・
「願い事を聞いていただく事ができないという事は充分わかりました」
とか、
「賊徒の汚名を受ける事は悔しい」
とか
「武士の情けで、どうか心情を汲み取ってください」
とか、ほんの少しだけでも、書けた事がせめてもの救いかも知れません。

この後、天狗党は金沢藩預かりとなり、敦賀へと移送されますが、以前と変わらず、金沢藩はいたって親切・・・3ケ所のお寺に宿泊する彼らには、食事は充分に与えられ、新しい衣類ももらい、翌・慶応元年((1865年)の元日には、鏡餅や振る舞い酒も用意され、皆、大いに喜んだと言います。

しかし、この事が、かの甚七郎をも巻き込む、悲しい結末へと導いてしまうのです。

そう、年が明けた1月18日、彼らは幕府へと引き渡され、その待遇は一変・・・と、なるのですが、そのお話は、天狗党最期の日となる2月4日のページへどうぞ>>
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2009年12月20日 (日)

奥州制覇を狙う頼朝に消された上総介広常

 

寿永二年(1183年)12月20日、源頼朝の挙兵に大きく貢献した上総介広常が梶原景時に暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

上総介広常(かずさのすけひろつね)は、桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)の息子・良文(よしふみ)を祖とする両総平氏の嫡流・・・なので、本名は平広常(たいらのひろつね)ですが、上総(かずさ・千葉県中央部)下総(しもうさ・千葉県億部)一帯を治めていたので上総広常とも、その要職名をつけて上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)とも呼ばれますが、上総介広常というのが一般的です。

この(すけ)というのは、このブログにも度々登場しています、中央から地方行政を任されていた国司の中の役職で、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)の順番の2番目、長官である守を補佐する次官のような役どころですが、つい先日、平将門の新皇のところで書かせていただいたように(12月15日参照>>)、この上総の国は、平安時代はじめの頃から、親王(天皇の後継者になる資格を持つ皇子)が守を務める事になってる場所で、その親王は名ばかりの長官・・・なので、事実上、この上総では介が最高権力者という事になります。

・・・と、ややこしい説明をしてしまいましたが、とにかく、この広常さん・・・東国の最大勢力を誇るスゴイ家系の人だったわけです。

しかし、かの平治の乱(12月9日参照>>)源義朝(みなもとのよしとも)の配下として、義朝の長男・悪源太義平(あくげんたよしひら・源義平)(1月25日参照>>)とともに戦った事で、敗者となってしまいます

敗戦後は、なんとか平家の追手をかいくぐって領国に戻り、その後は平家に従う事になった広常でしたが、兄弟での内紛も勃発し、さらに、平家が自分の配下の藤原忠清(ふじわらのただきよ)を上総介に任命したりなんぞして、政治的には窮地に立たされていました。

そんな時に、ナイスなタイミングで平家打倒に立ち上がったのが、かの源頼朝です(8月17日参照>>)

しかし、すぐには頼朝のもとへ駆けつけませんでした。

なんせ、未だ平家の支配は続いていますし、頼朝は石橋山(8月23日参照>>)では手痛い敗戦を喰らっていますから、まだまだ、この先どうなるかわかったものではありません。

その後、再起をかけて鎌倉に入った頼朝が、上総・下総の武士に参集を呼びかけた時、広常のところには、和田義盛(わだよしもり)が派遣されてきましたが、それでも、まだ、腰を上げなかった広常・・・。

しかし、やがて、その頼朝が隅田川に到着した時、広常は2万の軍勢を率いて、ようやく登場・・・実は、この時の登場は、頼朝の人となりを見るための挙兵で、その器が大した者でなかったら、その首を取って平家に献上するつもりであったとも言われています。

ところが、ここでの対面で一変・・・広常は、頼朝の行動に、その将来を見抜き、彼に忠義を尽くす事に決めたのです(10月6日参照>>)

こうして、頼朝の配下となった広常ですが、その参戦は、頼朝の今後を左右したとも言われるくらい彼の持つ兵力は強大だったわけです。

しかし、その価値観のズレはまもなくやってきます。

富士川の合戦(10月20日参照>>)の勝利のあと、平家を討つべく、さらに西に向かおうとする頼朝に「東国の支配を先に進めるべき」と、当時、東国平氏の最大勢力であった常陸(ひたち・茨城県)佐竹氏討伐を進言します。

この時の戦いでは、広常自身が、佐竹一族の1人・佐竹義政(さたけよしまさ)誘い出して謀殺したり、佐竹義季(さたけよしすえ)寝返らせるべく画策したりと大活躍し、見事、頼朝軍を勝利に導くのですが、この東国志向が、後白河法皇とのつながりを強くしようとする頼朝の方針と一線を画すようになるのです。

『吾妻鏡』では、強大な兵力を持つがゆえに、頼朝の前でも下馬の礼を取らず、それを誰かに咎められても、「三代にわたって下馬の礼などした事がない」と反論して、御家人たちに対しても横柄な態度をとっていたとし、最終的には、頼朝から謀反の疑いをかけられたのだとか・・・

そして、後白河法皇から頼朝へ、東国支配が正式承認されてまもなくの寿永二年(1183年)12月20日、双六に興じているところを、頼朝の命を受けた梶原景時(かじわらかげとき)によって首を斬られる・・・という無惨な最期を遂げる事になるのです。

その後、嫡男・能常(よしつね)は自害し、広大な所領は没収されて、他の御家人に配分されます。

ところが、さらに後日、広常の鎧から上総一宮に捧げた願文が見つかり、そこには、謀反どころか、頼朝への忠誠を誓いつつ主君の武運を祈る言葉が記されていた事から、頼朝は、謀反を疑って広常を殺害した事を大いに悔やみ、投獄していた弟を解放して一族を赦免にしたのだと・・・

なんだか、ミョーな終り方・・・と思うのは、私だけではないはずです。

・・・と、ここからは、正史に載らない憶測という事になりますが、広常が奥州藤原氏と深くつながっていたのではないか?という話があります。

かの佐竹氏を倒した時、そのまま奥州へ攻め上ろうとする頼朝を制止し、自軍を連れて戻ってしまったと記録する文献もあります。

つまり、広常が目標にしていたのは「東国独立国家の樹立」であり、その向こうの奥州は圏外だったのでは?

しかし、頼朝の最終目標はあくまで、奥州を含めた全国支配・・・そこに、大きな溝があったように思います。

よく、頼朝自身は鎌倉を動かず、弟の範頼(のりより)義経(よりつね)を平家討伐の大将とした事に、「頼朝は戦がヘタだったから」という話を聞きますが、本当にそうなのでしょうか?

確かに、頼朝という人は勇猛果敢な武将というよりは、武士政権を樹立した政治家のイメージが強いですが、個人的には、そこまで、戦がヘタだったようには思えない・・・いや、少なくとも、戦ベタが理由で鎌倉を動かなかったわけではないと思っています。

もちろん、鎌倉に武士政権を打ち立てるための、現地での地固めもありますが、それよりなにより、頼朝にとって奥州が脅威であり、平家の次のターゲットである事を、すでに決めていたからではないでしょうか?

奥州を牽制するためにも、頼朝は東国を離れなかった・・・幸いにも、軍事に長けた弟・義経が、平家を壇ノ浦で滅亡(3月24日参照>>)させるまでやってくれていましたから、それなら、東からの脅威のほうを優先するでしょう。

だからこそ、武官の最高位である右近衛大将(うこのえたいしょう)を、わずか10日間で辞職し、征夷大将軍を望んだのでは?

結果的には、征夷大将軍になる前に、奥州藤原氏を滅亡させてしまう頼朝ですが(8月10日参照>>)大いなる野望を抱く頼朝にとって、奥州を視野に入れない最大兵力の広常は、謀反があろうがなかろうが潰しておかねばならない存在だったという事なのかも知れません。
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2009年12月18日 (金)

徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之

 

寛文十二年(1672年)12月18日、会津松平家・初代で、第4代将軍・徳川家綱の補佐役として江戸幕府の基礎を築いた保科正之がこの世を去りました

・・・・・・・・・・・

来年の大河ドラマ「龍馬伝」もさることながら、大河ドラマの50作目という節目に当たる事から、もはや2011年の「江~姫たちの戦国」に期待を寄せるファンも少なくありません。

このブログにも、「2011年 大河ドラマ」や、題名の「江~姫たちの戦国」のキーワードで、ほぼ毎日、どなたかが訪問してくださっているようです。

かく言う私も、かなり期待しておりますが・・・

とは言え、お江(こう=お江与・小督とも)さんが主役ともなれば、その波乱と苦難に満ちた前半生と、大奥誕生へと向かう将軍の正室としての後半生を、美しき女性目線で描いてくださるものと思いますが、やはり、気になるのは、その時の保科正之(ほしなまさゆき)との関係をどのように描いて見せてくださるのか?というところです。

できれば、今年の「天地人」のように、ヤバイ事は全部無かった事に・・・と、スルーしてしまうのだけは避けていただきたいとは思いますが、スーパーヒロインのイメージを損なう事なく、この正之さんを登場させる事は、非情に難しいです。

それくらい、正之さんサイドから見るお江さんは、とても陰険な女に映ってしまうのですが、本日は、この正之さんが主役という事で、2011年に期待しているお江ファンの皆様には、ちょっとだけ目をつぶっていただいて、お話を進めていきたいと思います。

・‥…━━━☆

お江さんの生涯については、以前、ドラマへの期待を含めて書かせていただいた6月19日のページ>>で見ていただくとして、そのページでも書かせていただいたように、お江さんが、徳川家康の息子で後に第2代将軍となる徳川秀忠と結婚した時には、秀忠=17歳で初婚、お江=23歳で再々婚・・・どう考えても、なるべくしてなったカカァ天下の夫婦関係だったわけです。

ある時、父・家康のいる駿府にやってきていた秀忠に、「血気盛んな若者なのだから・・」と家康が気をきかせて、という美人の侍女にお菓子を持たせて(ソノつもりで)使わしたところ、わざわざ(かみしも)をつけて応対し、丁寧に礼を言った後「今夜はもう遅いので、どうぞ、早めにお帰りください」と、玄関まで見送って帰宅をうながしたのだとか・・・

「律儀やのぅ~~」
と、感心する家康でしたが、これは律儀なのではなく、ひとえにカミさんのヤキモチが怖かったわけで・・・

なんせ、秀忠が側室を持つ事は絶対に許さず、秀忠の子供を妊娠した大奥の女性には、次々と堕胎を強要していたなんて噂も、お江さんにはあるのですから・・・

そんな感じで、できたばかりの大奥を仕切っていたお江さんですが、実は、同時期にもう一人、秀忠の大奥を仕切っていた人がいます。

秀忠の乳母で、後に老中となる井上正就(まさなり)の母で「大乳母殿(おおうばどの)と呼ばれていた老婦人でした。

もちろん、彼女は、秀忠の大奥にいましたが、側室や愛人というのではなく、その名の通り母親のような立場でいたわけですが、マジメで律儀な秀忠は、大奥にやってきた時には、大乳母殿のお部屋にも度々顔を出し、そのご機嫌をうかがっていたのです。

その大乳母殿に奥女中として仕えていたのが神尾栄加(かんのおさかよし)の娘・(しず・志津)という女性・・・。

そう、秀忠は、そこで、そのお静さんを見初めたのです。

まもなく、秀忠の子供を妊娠した彼女ですが、それこそお江さんの嫉妬深さは、重々承知していますから、何も言わずに大奥を去り、実家に戻って、お腹の子を処分します。

そのまま大奥に戻る気はなかったお静さんですが、彼女の事を忘れられない秀忠の再三の求めで、再度、大乳母殿に出仕すると・・・
「以前の通り、台徳院様(秀忠)御寵愛にて」またまた、妊娠してしまいます。

再び実家に戻って
「鬼嫁が何をするかワカランからおろせ」
「いや、将軍様の御子を2度も水にしてはバチが当たる」
と、喧々囂々の家族会議の中、彼女と、その子供に手をさしのべる人がありました。

武田信玄の次女で穴山信君(のぶぎみ・梅雪)(3月1日参照>>)に嫁ぎ、夫の死後は江戸城田安門内に屋敷を与えられていた見性院(けんしょういん=信玄の次女)と、やはり信玄の娘で尼僧となっていた信松尼(しんしょうに=信玄の五女・松姫)・・・この姉妹の庇護のもと、隠れるように出産したお静・・・

老中・土井利勝から、息子の誕生を聞いた秀忠は、葵の紋の入った小袖と幸松(こうまつ)という幼名を与える事で、自らの息子と認めはしましたが、当然の事ながら、公的に認知する事はありませんでした。

かくして、見性院のもとで育てられる幸松・・・途中、この事を知ったお江から、「なんで、そんな子を預かるのか?」という抗議にも、見性院は「もはや、私の子供となった以上、何を言われても手放しはしません」と、キッチリと跳ね除けました。

とは言え、この時代の事・・・ある程度大きくなれば、男子たる教育を受けるべく、女性の養育者から離れなければならない時が来ます。

元和元年(1617年)、7歳になった幸松は、見性院が「この男ならば・・・」と見込んだ、信州高遠(たかとう)2万5000石の藩主・保科正光(まさみつ)の養子となります。

この時、秀忠は、その養育費として保科家に5000石を加増しますが、お察しの通り、お江さんの手前、この実父と息子が対面する事はありませんでした。

そんな親子が初めて対面するのは、お江さんが亡くなった後、寛永六年(1629年)の事(やっぱり( ̄Д ̄;;)・・・幸松は、すでに18歳となっていました。

やがて、その2年後、養父の正光が亡くなると幸松は、その後を継ぎ、保科肥後守(ひごのかみ)正之と名乗ります。

正之さん・・・やっと、このあたりから日の目を見るようになります。

その後、異母弟がいる事を知って、彼との面会を希望した第3代将軍・徳川家光は、正之に会うなり、その真面目で正直で才能あふれる姿にゾッコン・・・その信頼から、出羽山形を経て奥州会津23万石へと出世を果たします。

さらに家光が亡くなる時には、「是非とも、息子・家綱の補佐役をやってくれ!」と頼まれた正之・・・家光は、11歳の我が子の将来を、最も信頼できる弟へと託したのです。

その期待に応えるように、その後の正之は幕政の中心となって活躍・・・由比正雪の乱(7月23日参照>>)の処置、牢人の取り締まり殉死の禁止玉川上水(1月13日参照>>)の開削明歴の大火後の復興再建【(9月1日参照>>)・・・と、まれに見る善政をおこなって、徳川幕府を武断政治から文治政治へと見事に方向転換させ、この先の天下泰平となる道に一役買う事となったのです。

そんな正之さん・・・寛文十二年(1672年)12月18日江戸藩邸にて62歳の生涯を閉じますが、彼は、すでに名乗ってもよい事になっていた松平の姓を、死ぬまで名乗らず、自分をここまでに育ててくれた養父・正光への恩義を表すかのように、保科の姓を使い続けていたそうです。

さらに、兄・家光の遺言とも言うべき「家綱を頼む」の遺志を汲んでか、彼の記した家訓の第一条には、「何があっても将軍を守る」旨の事が書かれていたとの事・・・

その正之の心情は、後を継いだ二代目藩主・正経(まさつね)から、遠く、幕末まで受け継がれる事となります。

ご存知、最後まで幕府側として新政府軍と戦った松平容保(かたもり)です(8月29日参照>>)

歴史にもしもは禁物ですが、あの時、お江さんに気を使って2人目の子供も堕胎していたら・・・
お江さんの抗議に屈して見性院が手放していたら・・・

きっと、お江さん、大河の主役なんて張れない悪女になっていたかも・・・

*内容だだカブリですが、よろしければ、母のお静の方サイドからのお話・【将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方】もどうぞ>>
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2009年12月17日 (木)

蓮華王院=三十三間堂の建立

 

長寛二年(1164年)12月17日、後白河上皇の希望により、平清盛が造営した蓮華王院の落慶法要が行われました。

・・・・・・・・・・

蓮華王院(れんげおういん)とは、京都盆地の東に連なる東山の一つ、現在は阿弥陀ヶ峯と呼ばれる鳥辺(とりべ)のふもとにあった法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一角に建てられたお堂の名前です。

法住寺殿というのは、当時、息子の二条天皇に皇位を譲って上皇となり、院政を行っていた後白河上皇の住まいという事ですが、当時は上皇になれば、天皇の住まう御所とは別の院御所というのを造営して、そこに住まうのが通例となっていたのです。

Houzyuuzitizu2 その大きさは、東山のふもとから西は鴨川まで、南北は八条から六条までという広さで、政治を行う北殿と、住居となる南殿に分かれていて、その南殿の一角に、当時、一番の権力者であった平清盛が、その蓮華王院を建て長寛二年(1164年)12月17日落慶法要が行われたというわけです。

・・・とは言え、この時、完成した建物は、残念ながら80年後の建長元年(1249年)に焼失し、その後、文永六年(1266年)に後嵯峨上皇によって再建されて現在の姿に・・・

室町時代には、時の将軍・第6代足利義教(よしのり)も修復を行い、あの豊臣秀吉も築地塀と南大門を建立しています。

もちろん、昭和の修理も4度行われています。

歴代のビッグネームが、建立・再建・修復にたずさわったこの建物・・・その本堂は、南北に約120m、東西約16m、総檜造り(そうひのきづくり)入母屋・本瓦葺き正面の柱が33本あるところから、通称・三十三間堂と呼ばれています。

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堂内には、大仏師・湛慶(たんけい・運慶の長男)作の国宝・中尊を中央に・・・左右に各500体、合計1001体の千手観音がびっしりと並び、その姿は圧巻です。

うち124体は、堂の創建と同じ平安期のもの、残りは鎌倉時代のもので、そのうちの半数は製作した仏師の名前もわかるというオマケ?つき。

Houzyuuziato 法住寺殿跡より三十三間堂を見る

これが、なぜ、世界遺産になっていないのかは、摩訶不思議なところなのですが、なにやら私たちにはわからない、謎が含まれているようで、むしろ、好奇心をくすぐられます。

また、どうしても堂内の千手観音様だけに目が行きがちですが、三十三間堂を含むこの一帯は、方広寺豊国神社、そして、上記した南大門など、豊臣政権時代は、秀吉の権力を内外に見せつける一大テーマパークゾーンでもあったのです。

戦国ファンは、庭内にある椿を見逃さないように・・・

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この椿は、「大盃」という珍しい品種で、あの加藤清正が秀吉に献上したものと伝えられ、今でも毎年4月頃に、一般の椿の倍ほどもある大輪の花が咲くそうで、通称・太閤椿と呼ばれています。

今日は、なんとなく、三十三間堂のご紹介ページになってしまいましたが、近くには、以前ご紹介した、伏見城の血天井のある養源院(7月19日参照>>)や、長谷川等伯の襖絵が美しい智積院(2月24日参照>>)などがありますので、一度と言わず、二度・三度と訪れたい場所であります。

史跡めぐりのオススメコースは、本家のHP【七条通りを行く】でどうぞ>>
 

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2009年12月16日 (水)

夜討ちの大将・塙団右衛門in大坂冬の陣

 

慶長十九年(1614年)12月16日、大坂冬の陣において、豊臣方の塙団右衛門が徳川方の蜂須賀至鎮隊に夜討ちをかけ侍大将の中村右近を討ち取りました

・・・・・・・・・・

征夷大将軍の宣旨を受け、もはや天下を掌握した徳川家康の唯一の気がかりは、豊臣秀吉の遺児・秀頼の動向・・・

すでに、全国の諸大名は家康への臣従を誓ってはいるものの、未だ豊臣恩顧の気持ちも少なからず・・・いつ何どき、成長した秀吉の忘れ形見を担いで反対勢力になるか・・・

そんな目の上のタンコブをぶっ潰すべく、豊臣家が建設中の方広寺の鐘にイチャモンをつけて(7月21日参照>>)大坂冬の陣を勃発させた家康・・・

緒戦の野戦では、大坂城を取り囲むように、豊臣方が構築していた各所の砦を次々と落として勝利した徳川方でしたが(11月26日参照>>)、12月4日の真田丸の攻防戦で多くの犠牲者を出し、初の敗北を味わいます(12月4日参照>>)

翌・5日の谷町口での戦いでも戦果をあげる事ができなかった事で、自軍の士気の衰えを感じた家康は、このままの数にモノを言わせた強攻策では、難攻不落の大坂城を落せないと判断し、戦略の転換を模索しはじめます。

徳川方から大坂城に向かってトンネルを掘り始める一方で、この戦いのために用意した約300挺の大筒(大砲・石火矢)を設置して、昼夜を問わず延々と砲撃を続けたのです。

もちろん、トンネルが、このまますんなりと大坂城まで通じるなどとは思っていませんし、大筒も未だ命中率の低い鉄の固まりを飛ばすだけのシロモノですから、それで敵をやっつけるというものではなく、徐々に迫るトンネルの先端と、連日連夜に響き渡る轟音で相手を心理的に追い込む作戦です。

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月16日、草木も眠る丑三つ時、船場(せんば・大阪市中央区)に陣取る徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)への襲撃をもくろむ男・・・豊臣方の援将・塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)です。

団右衛門は尾張(愛知県西部)葉栗(はくり・愛知県一宮市)生まれの実在の武将ですが、後に『立川文庫』でもてはやされて、そのスーパーヒーロー伝説数知れずの史実&創作の入り乱れた人物です。

同じく、多くの講談本で少年読者のヒーローとなる薄田隼人(すすきだはやと)かも知れない岩見重太郎の仇討ち伝説(9月20日参照>>)にも、後藤又兵衛とともにバッチリ登場しています。

もともと織田信長に仕えてした団右衛門でしたが、その酒癖の悪さから織田家を追われ、その後、秀吉の直臣で賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)に数えられた加藤嘉明(よしあき)に仕官し、足軽を率いる鉄砲大将にまでなっていました。

しかし、関ヶ原の合戦の時に主君・嘉明の命令に背いての単独行動でこっぴどく叱られた事から、自ら・・・
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」
(ついとどまらずこうなんのやすい たかくてんをとぶいちかんおう)
「こんなキッタナイ水に留まってられるかい!俺は空高く飛ぶ自由なカモメなんや!」
という、旧・ソ連テレシコワばりの言葉を叩きつけて出奔・・・浪人暮らしの末、今回の大坂の陣に参戦していたのです。

(おそらく、このあたりが、『立川文庫』のヒーローに抜擢されるゆえんなのでしょうが、この一件に関しては、このページの末尾にリンクした夏の陣のページでどうぞm(_ _)m)

ほんでもって、ここに来て徳川方の士気の低下を見て取った団右衛門・・・自らが選抜した部下80人に命じて蜂須賀至鎮の陣を襲わせ、敵将の中村右近重勝(なかむらうこんしげかつ)以下・三十数名の首を盗り、見事、夜襲を勝利に終らせました。

おもしろいのは、この時の団右衛門・本人の動向・・・

自らは、城門口の橋の上に床几(しょうぎ・武将が戦場などで座る折りたたみイスみたいなヤツです)出して、どっしりと座り、(き・合図の旗)を手に持ったまま、まったく動かなかったのだとか・・・

気になった友人が、
「槍をひっさげて、思うままに合戦するのが男っちゅーもんやろ!」
と指摘すると、団右衛門は
「俺はまだ48歳・・・まだまだ充分に動けるけど、昔、あの嘉明のアホに叱責された事がくやしいてタマランのや!
一回だけでも、アイツに俺が麾をとって采配をふるう大将っぽい姿を見せてやりたいと思とったんや。
願いが叶って満足満足・・・次の戦からは、槍をふるって最前線で戦うで~~」

と言ったのです。

それを裏付けるかのように、配下の80人には、「夜討ちの大将 塙団右衛門」と書かれた木札を持たせて、戦場の途中々々でバラまかせていたようなのですが、結果的に、その宣伝効果はバッチリと決まり、「夜討ちの大将 塙団右衛門」の名は、一気に広まったのです。

ただ、残念ながら、団右衛門の真のターゲットである嘉明は、その豊臣恩顧のつながりが家康に警戒され、この冬の陣では、江戸城の留守居役を命じられていたため、現地にはいませんでした。

まぁ、その代わりに嘉明の息子・明成(あきなり)が従軍していたので、その噂は耳に入ったとは思いますが・・・

こんな感じで、「してやったり」の団右衛門と、豊臣方ではありましたが、この同じ16日に、その後の展開を大きく変える一大事が起こります。

Ginbasioosakazyou800 大阪城の北側・桜之宮公園から眺める大阪城天守閣・・・今は陸続きとなっている備前島だと、この半分くらいの距離になります

大坂城の北方、700mの位置にあった淀川の中洲・備前島に設置されていた徳川方の大筒から放たれた一発が、見事に大坂城・天守閣に命中したのです。

もちろん、先に書かせていただいたように、狙ったというよりは、のべつまくなしに発射していたうちの一発が、たまたま本当に当たっちゃったという感じですが、その一発は柱を撃ち抜いて天守は大きく傾きます

もちろん、その傾きと同時に豊臣方の姿勢も大きく傾き・・・

となるのですが、そのお話は、偽りの和睦が締結する12月19日に書かせていただいた【大坂冬の陣・講和成立】にてどうぞ>>>

大坂夏の陣での塙団右衛門の活躍は4月29日の【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣】のページでどうぞ>>
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2009年12月15日 (火)

新皇・平将門は独立国家を望んだか?

 

天慶二年(939年)12月15日、上野国に進軍した平将門国府を占領し、国印と倉の鍵を奪いました。

・・・・・・・・・・・

先日の11月21日に平将門の乱が勃発したとして記事を書かせていただきましたが(11月21日参照>>)、それは、これまでは、あくまで同族同士の下総(しもうさ・千葉県北部)での覇権の争いであったり、隣国の仲裁のための出兵であったりした将門の戦いが、その日、初めて、藤原玄明(はるあき)の求めに応じて、常陸(ひたち・茨城県)の国司・藤原維畿(これちか)を捕らえるとともに朝廷権力の象徴であった国印を奪った事で、朝廷への叛逆となるとの判断からです。

しかも、その直後に・・・
「一つとは言え、国を奪っちゃった以上は、朝廷から怒られるだろうから、こうなったら、いっその事、坂東全部を手中に納めちゃいなよ」
という、武蔵(むさし・埼玉&東京)権守(ごんのかみ・守の代理)興世王(おきよおう)のアドバイスに従い、将門本人も・・・
「関東一円の国の国印奪い、国司を皆、京都へ追い返したる!」
てな事をおっしゃっているようなので、やはり、ご本人たちも、その心持ちであったと思われます。

その後、12月11日に下野(しもつけ・栃木県)に向けて進軍すると、国司は戦う前に降伏し、つづく天慶二年(939年)12月15日上野(こうずけ・群馬県)に兵を進めた将門は、ここでも、国府を占領し、国印を奪い、国司を追放しました。

・・・と、ここで一大転機が訪れます。

その時、陣中にいた巫女に神託が下ったのです。

「われは八幡大菩薩の使いである。
われが位
(皇位)を将門にお授けいたす。
これは左大臣正二位菅原朝臣
(道真)の霊魂によって授けるものなり」

つまり、「怨霊となった菅原道真が味方をするから王になれ」と八幡菩薩が言っているというのです。

その場にいた将門も兵士たちも大喜びし、新しい天皇という意味の「新皇」と称して即位・・・ここに、京の都の朝廷の支配から外れた独立国家の宣言をしたというのです。

この時、将門の弟・将平が・・・
「天皇は天命で決められる物であって、知略や武力で決まる物ではないんやから、兄ちゃん、やめとき!って・・・」
と反対しますが、もはや、将門の耳には届かず、独断で坂東の国司に、身内や重臣を任命するのです。

  • 下野守平将頼(将門の弟)
  • 上野守多治経明(たじのつねあき・客将)
  • 常陸介藤原玄茂(はるしげ・玄明の弟)
  • 上総介興世王(客将)
  • 安房守文屋好立(ぶんやのよしたつ・客将)
  • 相模守平将文(まさふみ・将門の弟)
  • 伊豆守平将武(まさたけ・将門の弟)
  • 下総守平将為(まさため・将門の弟)

そして、野望の実現に向けて、下総の猿島郡王城の建設も計画していたと・・・

まさに、関東の独立国家の絶頂期だったわけですが、このように、一般的に知られる平将門の一連の行動は、鎌倉時代に書かれたといわれる『将門記(しょうもんき)の記述によるところが大きいです。

しかし、どうも引っかかります。

それは、八幡大菩薩の神託・・・将門を菅原道真に照らし合わせるあたり、まるで、その後、将門に怨霊伝説が生まれる事を見越しての言い回しのように見えます。

もちろん、『将門記』の作者は、後の怨霊伝説を知っていて書いているのでしょうから、将門の存在をより強烈な物にするには、道真の登場は持って来いの逸話となりますが、この時点で、巫女のセリフとして道真の名前が出て来るのは・・・

「いや、神託=神のおつげなのだから、未来の事は、全部お見通しなんだよ」と言われれば、どうしようもありませんが、無神論者の私としては、この巫女のお告げは『将門記』の作者の創作だと考えたほうがスッキリします。

・・・で、神託が創作なら、将門が親皇を名乗るのも、独立国家を目指したのも・・・と、ここらでひとつ、考えてみるのもアリなのかも知れません。

そうです。
果たして、平将門は本当に新皇を名乗り、独立国家を造ろうとしていたのでしょうか?

実は、今日のこのお話を、将門が新皇を名乗る12月19日に書かずに、本日=15日に書いたのはワケがあります。

『将門記』と同じく、鎌倉時代に成立したとされる説話集『古事談』には、将門が、天慶二年(939年)12月15日付けで、摂政兼太政大臣・藤原忠平宛てに書状を書いた事が記されています。

そこには・・・
「僕は桓武天皇の5代目の子孫です。
昔から、武力によって天下を取った者はいてるけど、そんな中でも、僕は、退けを取らんくらいの軍事の才能があると思てます。
せやのに、朝廷からは恩賞がもらえるどころか、むしろ、怒られてばっかりやないですか。
メッチャかっこ悪いですやん。
僕が、昔、忠平さんの下で働かさしてもろてから数十年経ちましたけど、忠平さんが摂政やってはる時に、なりゆきとは言え、事件を起してしもて申し訳ありません。
こんな事になってはしまいましたけど、昔の上司である忠平さんの恩を忘れる事なんてできません。
どうか、この気持ちをお察しください」

と、切々と弁明の一筋の姿勢がうかがえます。

この手紙の内容を見る限りでは、とても、この4日後に、朝廷に対する独立国家を立ち上げ、天皇に対抗して新皇を名乗る人とは思えません。

もちろん、『古事談』も説話集なのですから、その内容も、まるまる信用できるものではありませんが、実は『将門記』にも、何となく、その部分が見え隠れしている所があります。

それは、新皇と称する将門に対して、時の天皇=第61代・朱雀天皇の事が「本皇」とか「本天皇」と記しているのです。

これは、将門の称する新皇は、天皇に対抗する物ではなく、あくまで天皇の下にあるもの・・・つまり、将門の支配する関東は、天皇の国家の中にあるという事のようにも解釈できます。

さらに、先ほど書いた将門が決めたとされる坂東各地の国司・・・

上記の国司には「○○守(かみ)「○○介(すけ)がありますが、ご存知のように、朝廷が任命する国司の長官が守で、その手助けをする次官が介・・・

そんな中で、天長三年(826年)以来、上総・上野・常陸の三国の守には、親王が任命される事になっていたのですが、親王は天皇の息子というだけでなく、天皇を継ぐ資格のある特に身分の高い人だったりするもんですから、実際にはほとんど実務をこなす事なく、名目上の長官で、現地で働くのは、もっぱら介だったので、現地で任命されるのは介のみという事が、当時の慣例となっていたのです。

・・・で、将門の国司の任命・・・上野こそ守となってましが、上総と常陸は介となっています。

朝廷から100%離れる気持ちなら、すべてを守に任命すれば良いのに、なぜ、慣例通りの介にしたのでしょう?

そして、何より、天慶二年(939年)12月15日という書状の日づけです。

ご存知のように、この元号を決めるのは朝廷(11月21日の前半部分参照>>)・・・あの大化元年から、この元号は朝廷のみに決定権があり、後には、有名な南北朝時代(10月5日参照>>)しかり、そして室町幕府に叛旗をひるがえす第4代鎌倉公方足利持氏(2月10日参照>>)しかり、いずれも、敵方の元号を使用しない事で、その反発度をアピールしていますが、将門には、その気配はありません。

それどころか、元号をはじめとする暦関係を司る当時の役職であった暦博士のような役職すら設ける事がありませんでした。

果たして、歴史に埋もれた真実は???

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2009年12月14日 (月)

大石内蔵助の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り

 

元禄十五年(1702年)12月14日、ご存知『忠臣蔵』のモデルとなった事件・・・元赤穂藩筆頭国家老・大石内蔵助率いる浪士・47人が、主君の仇・吉良上野介の屋敷に突入した赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件のあった日であります。

すでに、このブログでは
その原因となった江戸城の刃傷事件について・・・
 【刃傷・松の廊下~事件を目撃した松はどんな松?】
その裏話的なものを・・・
 【忠臣蔵のウソホント】>>
途中で離反した大野九郎兵衛については
 【忠臣蔵で不忠の悪役】>>)
ただ1人生き残った寺坂吉右衛門については・・・
 【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】>>
「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平について・・・
 【忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平】>>
・・・と、書かせていただいていますが・・・

そう言えば、討ち入りそのものを書いてないなぁ・・・って事で、その原因や、そこに至るまでのもろもろは、いずれ、それぞれのその日にご紹介させていただく事として、本日は、120人が守る邸内に討ち入り、1名の死者も出さずに本懐を遂げた、ほぼパーフェクトに近い突入劇について、一般的な説をご紹介さていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内において、高家(朝廷儀式を司る家柄)吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかった江戸城・松の廊下の刃傷事件で、浅野家側は内匠頭・本人の切腹のうえ、お家も取り潰しとなったにも関わらず、上野介側には何の処分も無かった事から、喧嘩両成敗・お家再興を願って奔走するも叶えられず、ついに主君の仇を討つべく、吉良邸への討ち入りを決意する元赤穂藩筆頭国家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)・・・。

事件から1年と数ヶ月経たこの頃には、大石に「今後、ともに行動する」と誓った文書=神文(しんもん)を差し出していた同志が約120名ほどいましたが、その中には、単に浅野家のお家再興を願う者も含まれていて、いざ討ち入るとなれば、その中から現状に不満を持ち、ともに決起してくれる面々をピックアップしなければなりません。

そこで大石は、貝賀弥左衛門(かいがやざえもん)大高源五(おおたかげんご)に命じて、彼ら一人一人に「大石殿が頼りなく、討ち入りはしない事になったので、神文をお返しする」と言って、神文を返返却して回らせました。

そして、その中で、納得して受け取った者はそのままに・・・
憤慨して突き返した者だけを集めます・・・ここで、約50人に絞られました。

その後、大石は、川崎平間村(神奈川県川崎市)の隠れ家にて、皆に、今後の心構えなどを訓示した後、元禄十五年(1702年)11月、息子・大石主税(おおいしちから)が滞在中の江戸・日本橋の旅館・小山屋に入り、以後、ここを拠点に、ターゲット=吉良邸の情報収集や、討ち入りの真意を綴った声明文作り、細かなダンドリなどを決めていきました。

やがて、剣術家や物売りや医者に変装しての敵情視察のおかげで、吉良邸の詳細な図面を入手・・・「コイツは部屋に突入」「コイツは庭にて見張り」などの、当日の細かな配置も決めていきます。

そして、最も重要なのは上野介の在宅日・・・本人がいなかったからと言って、2度目の討ち入りなんてありえないのですから、一発必中で仕留めなければ・・・

やがて、「来る12月14日、吉良邸にて茶会が催される」との情報を掴みます。

複数のルートから同じ情報を得て確信した大石は、討ち入りの日を元禄十五年(1702年)12月14日深夜に決定!・・・奇しくも、その日は主君・内匠頭の月命日でした。

決行当日・・・大石の指揮のもと、闇にまぎれてすみやかに移動した一行は、(厳密には日づけが変わった)午前4時頃、吉良邸の表門と裏門の2手に分かれて突入し、一斉に上野介を目指して進みます。

吉良邸にも、守る武士が約120名ほどいましたから、当然の事ながら、そこかしこで斬り合いとなりますが、なんせ赤穂浪士は完全武装で、下に鎖帷子(くさりかたびら)など着込んでますから、吉良方の武士も、なかなか致命傷を与える事はできません。

さらに、浪士の何人かが「30人は庭へ回れ~!」「50人はコチラ側へ~!」などと、ハッタリのウソ命令を大声で叫び、本当の人数の数倍にも見せかける事で、吉良方を混乱させます。

同時に、長屋(宿舎)の出入り口を封鎖して邸内以外の者の戦闘参加も阻止しました。

こうして、なんだかんだで約2時間後・・・間重治朗(はざまじゅうじろう)らが、台所付近の物置に隠れていた上野介を発見!

ついに、その首を取ったのです。

数名の負傷者は出したものの、赤穂側の死者はゼロ・・・一方の吉良方は、死者が17名で負傷者が23名という完全勝利となりました。

この間、大石にとって一番の心配だったのは上杉の援軍・・・上野介の実子である綱憲(つなのり)が当主を務める上杉家が、もし援軍を出して来たなら、おそらく彼らに勝ち目はなかったでしょうが、思惑通りに短時間で決着を着けられた事、また、その間、上杉が「誰を、何人送るか」などと協議してくれていた事は、ラッキーだったかも知れませんね。

吉良が悪かったのか?浅野が悪かったのか?
討ち入りが正しかったのか?間違っていたのか?

は、ともかく、討ち入った以上は、本懐を遂げる事が、勝利の必須条件・・・

そういう意味では、見事な大石の采配でしたね。

もちろん、以前書かせていただいたように、この事件は、「名君・吉良上野介は斬られ損の被害者」「幕府公認の襲撃」などなど・・・ウラ話に事欠かない出来事ではありますが、まだご紹介していない個々のお話は、いずれまた、関連する日に書かせていただきますね。

今日のお話の続きは、やはり冒頭にリンクさせていただいた赤穂浪士切腹の日のページ消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】でどうぞ>>
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2009年12月12日 (土)

島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼

 

天正十四年(1586年)12月12日、島津の大軍の攻撃を受けた大友配下の鶴崎城を、城主名代の妙林尼が死守しました。

・・・・・・・・・・・・

羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を破り(7月25日参照>>)四国を平定した天正十三年(1585年)・・・九州では薩摩(鹿児島県西部)島津義久(しまづよしひさ)の勢いが増していました。

それまで、九州の最大勢力は豊後(大分県)大友宗麟(おおともそうりん・義鎮)でしたが、天正六年(1578年)の耳川の戦い(11月12日参照>>)で義久に大敗してからは、以前の勢いもなくなり、それに乗じて肥前(佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も勢力を伸ばしてきます。

しかし、その隆信が天正十二年(1584年)の沖田畷の戦い(3月24日参照>>)で討死すると、もはや島津の敵は大友のみ・・・義久は、九州全土を統一せんが勢いで豊後に向けて進撃を開始していたのです。

もはや、自力のみの抵抗で島津を倒せないと判断した宗麟は、四国を平定して意気あがる、かの秀吉に援助を求める事にします(4月6日参照>>)

この先、天下統一をもくろむ秀吉にとっては、この援助要請は、まさに渡りに船・・・早速、宗麟の要請を受けた秀吉は、その天正十三年(1585年)の10月、大友と島津の間に入って和睦の提案をしますが、その条件が・・・

薩摩大隅(鹿児島県東部)日向(宮崎県)のすべてと肥後(熊本県)豊前(ぶぜん・福岡県東部)のうち半分を島津の領地とし、残りは、大友を含む他の大名(秀吉配下の)のものとする」
という物だったため、島津側にとっては納得し難く、義久は、この和睦提案を拒否し、再び豊後への進攻を開始します。

中でも、天正十四年(1586年)7月27日には、島津に攻められた大友配下の筑前岩屋城で、全員討死するという壮絶な攻防戦となりました(7月27日参照>>)

かくして、九州の平定に本腰を入れる事になった秀吉は、まずは、9月18日に高松城主・仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)を、先鋒の軍監として豊後・府内に着陣させ、いよいよ・・・

しかし、11月25日に勃発した戸次川の戦いでは、平定したばかりの四国勢の足並みが揃わず・・・(11月25日参照>>)

そんな中、援助を頼んだ宗麟も、さすがに秀吉にまかせっきりとはいきませんから、自らの本城・臼杵(うすき)に配下の武将を招集し、本拠地を死守する作戦へと出ます。

一方の島津は、主力が秀吉配下の大軍と交戦する中、大友の支城を次々と落す作戦です。

そんな支城の一つが、本日の舞台=鶴崎(つるさき)です。

この頃の鶴崎城の城主は吉岡紀増(のります・統増)・・・彼は、父・吉岡鑑興が一連の島津との交戦中に戦死し、敵討ちとも言える今回の戦いに闘志を燃やす若き武将で、主君・宗麟の求めに応じて、すでに臼杵城へと出張中。

つまり、城主はお留守という事です。

上記のように、本拠地・臼杵城を死守するために配下の諸将を招集・・・と書けば聞こえは良いですが、言いかえれば、残りの支城は、見捨てられた事になります。

なんせ、主軸となるべき城主が、主だった城兵を連れてかの本拠地へ行ってしまっているわけですから・・・

そうして、残ったのは、女子供と百姓兵・・・

若き城主から留守を預かるのは、その紀増の(もしくは祖母)である吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)・・・彼女は、ここで女城主として見事な働きをするのです。

・・・とは言え、彼女の記録はほどんと残っておらず、『大友興廃記(おおともこうはいき』『豊薩軍記(ほうさつぐんき)などの戦記にわずかに残るだけ・・・その表記も城主・吉岡紀増の母・妙林尼だったり、城主・吉岡統増(むねます)の祖母・妙麟尼だったり・・・なので、先ほどから2種類の表記をさせていただいていますが、母なら30歳代、祖母なら50歳代という事で、そのエピソードも年齢に見合うように微妙に違うようなのですが、何とか、うまく取りまとめてご紹介していきたいと思います。

ちなみに、余談ではありますが、2009年2月11日に放送された『日本史サスペンス劇場』での再現ドラマでは、『大友興廃記』の妙林尼さんを描いたとみえ、ちょっと色っぽい感じで島津兵を惑わす若き未亡人という設定となっていました(老女よりは若いほうがドラマとしては絵になります)

・・・と、話を鶴崎城・攻防戦に戻しましょう。

11月に入って、そんな鶴崎城に、「まもなく島津の軍が攻めて来る」という情報が入ってきます。

上記の通り、もはや、女子供と百姓兵のみの城となってしまった鶴崎城の運命は風前の灯火・・・
かの岩屋城のように徹底的に戦って散るか、あっさりと城を明け渡して降伏するか・・・

この時の妙林尼さん・・・鎖ハチマキをキリリと締め、着込みの上に羽織を着用し、薙刀をを手に徹底籠城の構えを見せます。

まずは、城の回りに張りめぐらされた堀をさらに深く掘りなおし、堀と掘の間に張りめぐらした柵の周囲には落とし穴を多数掘り、その上を平地に見えるようにカモフラージュし、そのすぐ先にはありったけの銃を並べて、準備万端、敵を待ちます。

このてきぱきとしたリーダーシップに、城を守る皆々は、大いに士気を高めたと言います。

やがて、11月下旬・・・約3000の島津の大軍が鶴崎城を囲みます

率いるのは、伊集院久宣(いじゅういんひさのり)野村文綱(のむらふみつな)白浜重政(しらはましげまさ)ら、いずれも島津の精鋭たちです。

ただ、彼らはあまりに精鋭すぎた・・・数々の激戦をこなして来た彼らにとっては、鶴崎城は、見るからに守りに薄い小城で、張りめぐらされたチャチな柵も、尼城主による、にわかごしらえのミエミエの防御に見えてしまったのです。

しかし、もちろん、これは妙林尼の作戦・・・「チャッチイ柵なんか防御になるか!」と、それを突き破って突進して来てくれる事が狙いなのですから・・・ホンモノの仕掛けは、その周りにある平地に見える落とし穴・・・。

かくして、まさに戸次川での秀吉軍が、島津に完敗する天正十四年(1586年)12月12日、一方の島津の軍勢は、鶴崎城に総攻撃を開始したのです。

案の定、一度の攻撃で一気にカタをつけようと、何の作戦もないまま、島津の大軍は柵を壊しながら突進していきます。

しかし、柵を壊した向こうには落とし穴・・・大軍であればあるほど、次から次へと人馬は落とし穴へドサドサと落ちて身動きがとれません。

やっとの思いで落とし穴から這い出ると、そこには、待ち構えていた鉄砲の嵐・・・至近距離からの攻撃なので、半分素人の百姓兵でも見事に命中させる事ができ、島津軍は多くの死傷者を出してしまいました。

後日、落とし穴作戦にしてやられた島津軍は、今度は、人の前に牛馬を走らせ、穴の所在を確かめながら、ニジリニジリと進んでいく作戦に切り替えます。

しかし、今度は、穴には落ちないものの、動きが相当遅いために鉄砲で狙いやすく、またもや、その餌食となってしまいました。

このような攻防戦が16回ほど繰り返されたと言いますが、城側は、その都度、島津兵を撤退へと追い込み、島津側は死傷者が増えるばかりです。

・・・とは言え、鶴崎城は小さな城・・・その兵糧も弾薬も、そんなに多く蓄えているわけではありませんから、籠城戦も時間の問題です。

未だ、秀吉の大軍が、この近くに来ているという知らせもない以上、このままでは、皆、討死の前に飢え死にしてしまいます。

そこで、妙林尼は、やむなく、和睦を提案・・・一方の島津側も、もはや力攻めで城を落す事は難しいと考えていましたから、すんなりと城を明け渡してさえくれるなら・・・と、その命を奪う事なく和睦に応じました。

こうして、女城主のもと善戦した鶴崎城は落城・・・妙林尼らは城を後にし、その後に、島津勢が入城を果たします。

しかし、実はこれ・・・妙林尼の時間稼ぎ・・・

そう、彼女は、秀吉軍の到着を待っていたのです。

それまでは、落城しようが和睦をしようが、何とかして命ながらえ、時が来たら、起死回生の作戦を決行するつもりでいたのです。

後に、秀吉が絶賛する彼女の作戦・・・ですが、その後日談は、やはり、それが決行される3月8日に書かせていただきましたので【島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼】>>へどうぞo(_ _)oペコッ
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2009年12月11日 (金)

謎が謎呼ぶ天平人の忘れ物~藤原宮から難波宮へ

 

12月9日づけのニュースで大変興味深いものが・・・

大阪市天王寺区空堀町で出土した瓦が藤原宮の瓦である事が判明したというのです。

何が興味深いって・・・

Fusiwaranomiyakawarasyutudotizu この発見場所(右図の印)というのが、難波宮跡の南東300mほどの8世紀頃の地層・・・何とも不思議です。

つい先日書かせていただいたばかりの藤原京(12月6日参照>>)・・・そのページに書かせていただいたように、第41代持統天皇の世に飛鳥浄御原から藤原京に遷都したのが持統八年(694年)。

一方の難波宮(なにわのみや)は、大化の改新(6月12日参照>>)直後の大化元年(645年)と、第45代聖武天皇天然痘と藤原広嗣の叛乱から逃げまくっていた(10月15日参照>>)天平十六年(744年)の2度、都に定められています。

西暦 天皇 出来事

645
652
孝徳 大化の改新
難波長柄豊崎宮・完成式
667 天智 大津宮遷都
673
 
686
天武 壬申の乱
飛鳥浄御原宮遷都
大蔵省より出火・宮室全焼
694 持統 藤原京遷都

710 元明 平城京遷都
726
734
744
745
聖武 藤原宇合を難波遷都の責任者に
難波京の宅地を班給
難波を皇都と定める
平城京遷都
756 孝謙 天皇が難波宮を東南新宮に
784 桓武 長岡京遷都(11月11日参照>>)

前者を前期難波宮(難波長柄豊崎宮・なにわながらとよさきのみや)、後者の天平時代に再び造営された宮殿を後期難波宮と言います。

Naniwanomiyazenkeicc 大阪歴史博物館より難波宮跡を望む

現在の大阪城の南側には、難波宮の遺跡の一部が公園として整備されていますが、実際にはもっと広い範囲が推定されるわけですから、その南東300mとなると、もはや難波宮跡から出土したと言っても良いくらいの誤差です。

そこから、なぜに藤原京の瓦が・・・???

発見された、この瓦は、縦6cm、横17cm、奥行き20cmの大きさで、表面には(つる)唐草模様の浮き彫りがほどこされた、軒先などに使用する軒平瓦(のきひらがわら)と呼ばれる瓦との事・・・

その紋様や表面の仕上げ具合から、香川県三豊市宗吉瓦窯(むねよしがよう)で製作されて、藤原宮の朱雀門や宮殿を囲む塀などに用いられた物と、同一の物であるとの判定が下されたわけです。

考えられる推理は二つ・・・

香川で製作された瓦は、瀬戸内海を船で渡り、当時は難波津(なにわづ)などと呼ばれて遣唐使船の発着場でもあった大阪に陸揚げされ、おそらくは、ここから奈良藤原宮へと運ばれたわけですが、その途中に、破損してしまった瓦を捨てたか、あるいは、運んでいる最中に落としてしまったか・・・

Koukinaniwanomiyafukugen 後期難波宮・復元模型(大阪歴史博物館)

そして、もう一つは、発見された地層が8世紀頃という事なので、すでに、藤原京から平城京へと遷都されてしまった事で、藤原宮の瓦が不要となり、難波宮にリサイクルとして使用したか・・・

実は、後期の難波宮・・・造営に着手したのが神亀三年(726年)で、正式に都と定められたのが上記の通りの天平十六年(744年)。

そして、その1年後の天平十七年(745年)には、再び平城京に遷都されてしまうものの、天平勝宝八年(756年)には第46代孝謙天皇が新宮に移ったりなど、その後も、この難波宮は、平城京に対する副都して、第50代桓武天皇長岡京に遷都する延暦三年(784年)まで存続し続けていたというのですから、何等かの手が加えられていた可能性もあるかも知れませんし、リサイクルというのは大いに考えられますね。

ただ、それなら、出土したのが、たったの1枚というのは、何とも・・・??

破損したり、使わなくなって捨てたのであれば、もっとたくさんの瓦が出土して当然ですし、リサイクルなら、なおさら大量の瓦が必要だったはず・・・たった一枚だけが、ポツンと出土した事に関係者の皆さんも首をかしげておられます。

ならば、やっぱり、運ぶ途中の落し物???

ひょっとしたら、どこかにごっそりと埋もれている可能性も・・・

時空を越えた天平人の忘れ物は、平成の私たちに大きな謎を残してくれました。

謎はいつ解けるのか?
ドキドキ・ワクワク・・・歴史好きは今夜も眠れない!

そんな謎の瓦は、今月の27日まで、難波宮跡近くにある大阪歴史博物館(地下鉄「谷町四丁目駅」下車・火曜日休館)にて公開されてるそうなので、ぜひ、この機会にどうぞ(。・w・。 )
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2009年12月10日 (木)

江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号

 

永禄二年(1559年)12月10日、妙本寺の住職・日我が、西安房(千葉県)を移動しながら『いろは字』を書き上げました。

・・・って事なのですが、恥ずかしながら、日我さんについては、ほぼ無知なので、つい思い出してしまった『いろは歌の暗号』について、本日はお話させていただきます。

・・・・・・・

今更ながらの暗号話ではありますが、ご存知の通り、『いろは歌』は、今以って作者は不明となってます。

この『いろは歌』が文書として初めて登場するのは、承暦三年(1079年)成立の『金光明最勝王(こんみょうさいしょうおう)です。

Irohauta その文書の中で、経典での発音や漢字の意味を説明するためのものとして用いられた『いろは歌』は、やがて仮名文字の手習いに用いられるようになり、広く一般庶民にまで知られるようになるのは、鎌倉時代頃からと言われています。

色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔いもせず

(この世に華やかな生活があっても、それは無情に消えてしまう。そのはかなさを乗り越えるには、浅はかな栄華を夢見たり、幸せに酔いしれてはいけない)

47文字を一度も重複する事なく、しかも、なめらかな語呂で意味のある文章にするのは、大変な作業である事・・・

また、その内容が、仏教的な意味が込められた無常観を唄ったものである事から、昔から、天才として知られる「弘法大師=空海の作である」なんて事が言われていますが、このなめらかな語呂というのが、平安後期に流行った『今様』風である事から、今では、奈良時代の人物である空海ではないだろうとの見方が主流です。

・・・で、この『いろは歌』の末尾の部分を横に読むと、「咎(とが)なくて死す」「無実の罪で死んだ」という暗号が隠されているというお話は、かなり有名ですが、実は、この暗号話は、すでに江戸時代からあったお話なのです。

この暗号の話を一躍有名にしたのは、あの『仮名手本忠臣蔵』・・・この人形銃瑠璃の大ヒットによって、江戸の町のほとんどの人は、すでに、暗号について知っていたんですねぇ。

ご存知のように忠臣蔵は、実際にあったあの赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(12月14日参照>>)がモデル・・・事実はともかく、お芝居の中では、悪人は吉良さんのほうですから、赤穂浪士は無実の罪で切腹した事になります。

しかも、いろは47文字で浪士の数も四十七士いろは歌は仮名文字のお手本・・・って事で『仮名手本忠臣蔵』なワケですね~。

てな事で、すでに江戸時代から有名だった『いろは歌の暗号』ですが、今では作者も含め、いろいろな推理が出てきています。

意外なところでは、キリスト教徒説・・・

もちろん、「咎なくて死す」はまさしく、イエス・キリストの事なのですが、これによれば、末尾だけではなく、上の行にも、暗号があると・・・

一番最初の「い」・・・
そこから、上段の最後の「ゑ」・・・
そして、最後の「す」

さらに、このいろは歌には「ゑ」と、もう一つの「え」がありますが、最初の文字「い」から「え」までの文字数が33「え」から最後の「す」までの文字数が12・・・

この数字が、キリストが亡くなったのが33歳と、言わずと知れた12使徒と一致するというわけです・・・ワォ!!

なので、キリストの死を悼んだキリスト教徒の作ではないか?というのですが・・・キリスト教って、死を悼むというよりは、「神に召された」って考える気がしないでもないですが・・・。

また、有名なところでは、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)もありますね~。

人麻呂(3月18日参照>>)万葉集にも多くの歌を残す有名歌人ですから、歌を作る才能に関しては申し分なし、また、以前書かせていただいたように、猿丸太夫(さるまるだゆう)(4月18日参照>>)かも知れない謎多き人物で、万葉集に登場するのに正史には登場せず、死に際して詠んだ歌が存在するところから、死刑になったとも言われていて、もし、その死刑となった罪が無実であったとしたら、まさしく「咎なくせ死す」って事になります。

さらに、この場合・・・
江戸時代の火消しが、いろは47文字に「万」を足して48組あった事から、以前は、一番最後に「ま」があったのかも?って事で、最後に「ま」の文字を入れて7文字ずつ並べると、真ん中の「の」の文字を中心に、対角線上に「かきのもとひとまろ」と読める・・・

もはや、文字の多少のズレも、反対向きに読むのも、なんで「の」が中心なんだ?という疑問も、そんなの関係ねぇ!・・・と言わんばかりの暗号ぶりでダヴィンチも真っ青Σ(;・∀・)

でも、奈良時代の空海でありえないのなら、飛鳥時代の人麻呂は、もっと、ありえない気がしないでもないんですが、まぁ、なんやかやと推理するのは、とにかく楽しい事でありますから、わくわくしばがら、いろんな説を楽しみたいものですね。
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2009年12月 9日 (水)

「明暗」を書き終えたら・・・夏目漱石のやり残した事

 

大正五年(1916年)12月9日、明治・大正時代の文豪・夏目漱石が50歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

もはや、説明もいらぬほど、超有名な夏目漱石さん・・・一昨年のこの日には、そのペンネーム・漱石の由来など書かせていただきましたが(2007年12月9日参照>>)、本日は、その執筆中に亡くなった事から、結果的に最後の作品となった『明暗』・・・

実は、漱石さんには、「この『明暗』を書き終えたらやりたい事があった」というお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

明治三十八年(1905年)、大学講師のかたわら『吾輩は猫である』で作家デビューを果たした翌年・・・そのデビュー作が大人気となっていた頃の漱石を訪ねて、ある人物がやってきました。

それは、三崎座という芝居一座の興行主の男で、
「今、人気の小説を、ぜひ舞台化したい!」
と、原作者である漱石の許可を得るためにやって来たのでした。

そこで、漱石・・・
「・・・で、どんな芝居になるのかな?」

「ハイ、役者を全員、女の役者にしまして、彼女らに男装して演じてもらいます。
もちろん、作品のこっけいな部分を充分に活かしたオモシロイ芝居に仕上げてみせます」

「ふ~~ん」
「コレ、絶対!当たりまっせ~」

結局、漱石は、この芝居興行を許可し、出来上がった芝居は、なかなかの評判となります。

未だ、教師の仕事をしていた時ですから、教え子の中には、
「先生! 先生の『猫』の芝居、見てきましたよ!」
「なかなかおもしろかったですよ」
「一度、先生もご覧になれば?」

と、言う生徒も多くいたのだとか・・・

ところが、漱石自身は、この芝居の話にはあまり良い顔をせず、もちろん、その勧めに応じることもなく、・・・結局、一度も芝居見る事がなかったので、生徒たちは、皆、「先生は、お芝居がお嫌いなんだ~」なんて事を、思っていたようです。

しかし、後日、漱石が友人に宛てた手紙には・・・
『猫』を芝居にするんなら、どんな演出にしたらえぇか、俺に聞きにきたらえぇもんを・・・三崎座のヤツは、まったく聞きに来よらん!」
「女の役者を使たりなんかして、小手先だけの演出なんぞ・・・」
『猫』は、俺が監督せなアカンのや!」

と、不満ムンムンのご様子・・・

そうです。
漱石が、一度も芝居を見に行かなかったのは、芝居が嫌いなのではなく、むしろ「大好き!」・・・

それも、自らが演出をつけたいほど大好きだったのです。

30代の頃、英語の教育者であった漱石の専門はイギリス文学・・・それも、シェイクスピアの研究に没頭していたようなのです。

ちょうど、その時期に、英語教育研究のため、イギリス留学した漱石は、その間に何度も現地の芝居を見にいきました。

ヴィクトリア朝時代の最盛期だった当時のイギリスでは、その舞台衣装は華やかで、舞台装置にも、本物の噴水を用意したり、煌びやかな電飾を配したりと、その演出も最盛期でした。

ロンドンから送られきた漱石の手紙には、
「こっちの舞台は、まるで竜宮城だ!」
なんて、感激のコメントも書かれていたそうです。

一方で、作家となってからの新聞の文化欄などへの批評として、
「歌舞伎の演出はオーバーすぎる」とか
「人間の動作として不自然」とか、
痛烈な批判を書いています。

まぁ、歌舞伎の動作の不自然さは、むしろ、それが歌舞伎の魅力であって、それは、ミュージカルを見て、「あの場面で、急に唄い出すのはオカシイ」と言ってるようなものなのですが、漱石としては、どうしても好きになれなかったようです。

とは言うものの、歌舞伎の衣装の煌びやかさ、踊りの美しさは認めていたようですので、漱石としては、
1、リアルで自然な演技
2、派手な衣装と演出
3、とにかく楽しい

・・・てのが、お好みだったようです。

そんな漱石に、千載一遇のチャンスがやってきます。

それが、最後の作品=『明暗』を執筆していた大正五年(1916年)の事・・・

新聞連載に忙しくペンを走らせる漱石に、弟子であり、当時は演出家をしている小宮豊隆(こみやとよたか)という人物が訪ねてきて、
「先生!この連載が終ったら、今度は、新聞で芝居の脚本を連載されたらどうですか?」

おそらく、この小宮という人は、漱石の弟子であった時代に、彼の「芝居好き」「演出やりたい」の気持ちを見抜いていたのかも知れませんねぇ~~しかも、漱石が、自らそれの口火を切る人ではなく、誰かから背中を押されてやるタイプだという事も・・・

しかし、元弟子の手前、師匠としては、うれしい提案に小躍りしてしまう軽さを見せるわけにはいきませんから・・・

「そんな事・・・新聞社が納得するわけないだろう
 
(小宮エライ!お前、えぇ事言う!)
「ええ!って事は新聞社がOKなら、先生はヤル気アリなんですね?」
「おいおい、小説枠に芝居脚本など前代未聞だゾ~
 
(ええぞ!小宮!新聞社に掛け合うて来い!)
「いいですか?聞いてきますよ!」
「おいおい、君は何を考えているんだね~
 (はよ、行って来いや!小宮!)

・・・と、一旦、退席した小宮が、再び戻り・・・

「先生!担当者も、それはオモシロイかも・・・って言ってくれました!OK出ましたよ!明暗の次は、芝居の脚本です!楽しみだなぁ~」
「おいおい、君は書く私の気持ちも確認しないまま、勝手に決めて来たのかい?
 (ヨッシャー!!!)
「そ、そうですよね・・・スミマセンヾ(_ _*)つい、気持ちがハヤッてしまいました。
一つの芝居脚本をコマギレに連載なんて無理ですよね~やっぱ、もう一度、新聞社に言って断ってきますね」

「いや、いいよ、向こうは君の事を、僕の代理と思ってるかも知れない。そしたら、僕は、自分で提案しておきながら、すぐに断った事になって、それはそれで失礼だろう
 
(アカン アカン・・・断ったらアカンでぇ)
「そうですかぁ・・・」
「『明暗』の次には、脚本を書く事にしよう
 
(小宮、ようやった!俺、頑張るからな!)
-以上()内は漱石の心の叫び(想像)-

しかし、漱石は、未だ『明暗』執筆中の大正五年(1916年)12月9日胃潰瘍(いかいよう)の悪化によってこの世を去ります。

小宮は、漱石の死から、ずっと後に発行された岩波文庫の『漱石全集』の解説文で、「先生の脚本を楽しみにしていたのに・・・」と語っていますが、小宮ならずとも、残念でなりませんねぇ。

リアルで自然でギャグ満載のド派手な舞台・・・いったい、どのような作品になったのやら・・・

日本の近代文学史に燦然と輝く最高の小説家=夏目漱石・・・しかし、そんな彼も、やはり志半ばで無念の死を遂げた事になります。
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2009年12月 8日 (火)

排除された邪教の神~酒呑童子の叫び

 

いけません。
やっちまいました~

うぅ・・・・
頭が痛い~~喉が痛い~~

どうやら、風邪をひいたようです。

長期に渡って、風邪一つひかない健康体質を保ち続けていた茶々でござりまするが、まさに鬼の霍乱(かくらん)とは、この事でおます。

大阪には「アホは風邪ひかん」ということわざ?がありまして、長年どっぷり浸かったアホの世界から抜け出る事ができた事を喜びつつ、鬼の霍乱にちなんで、本日は鬼のお話を一つ・・・

・‥…━━━☆

昔、正暦(990年~994年)のころ、京の都の内外で行方不明や殺人事件が相次いでいた中、時の最高実力者の藤原道長息子が行方不明になってしまいます。

あわてて、おかかえの陰陽師・安倍晴明を招いて占ってみますと、大江山に住む鬼の仕業である事がわかり、早速、帝は源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)藤原保昌(ふじわらのやすあき)鬼退治の命令を下しました。

頼光は、渡辺綱(わたなべのつな)坂田金時(さかたのきんとき)卜部季武(うらべのすえたけ)碓井貞光(うすいのさだみつ)という四天王と呼ばれる4人を引き連れて、鬼を油断させるために、山伏の姿に変装して大江山に乗り込みます。

鬼たちは彼らを山伏だと信じ込み、大歓迎して迎え入れてくれたうえ、宴の席を設けてくれたのです。

やがてそのうち酒宴の席に、ジャニーズ系美少年の姿をした酒呑童子(しゅてんどうじ)が現れました。

頼光たちは、神様からもらった毒入りのお酒を鬼たちに振る舞い、鬼たちを身動きできないようにしてから酒呑童子の様子を伺うと、酒呑童子もまわりに美女をはべらせてグーグーと眠ってしまっています。

熟睡して油断した酒呑童子は、とうとう本性を表します。

その正体は、15個の眼、5本の角を持つ巨大な醜い鬼だったのです。

寝ている童子に頼光たちが襲いかかります。
怪力自慢の四天王が手足を押さえ、頼光が首を切り落としました。

しかし、その首は宙を舞い、叫びまわりながら、やがて、頼光の兜に噛み付いたのです。

そこで、頼光は、その首の眼をくりぬき、やっとのことで、首は兜から離れ、退治する事ができました。

・‥…━━━☆

ご存知、大江山の酒呑童子のお話です。

このお話には、藤原道長をはじめ安倍晴明や源頼光や四天王たちなど、実在の人物が登場してはいますが、さすがに、実際にあった出来事だとは思えません。

・・・とは言え、伝説や昔話の類を、「作り話だ」として一蹴してしまうのはいただけません。

たとえ、物語そのものが空想の産物であったとしても、その物語が、そこで誕生した事は事実・・・その誕生のウラには、なにかしらの背景があるものです。

このお話の中で、酒呑童子が自らの身の上話を語るのですが、それによれば・・・
「昔から、比叡山を、先祖代々の所領としていたのだが、ある日、伝教大師(でんぎょうだいし)という坊さんがやって来て、延暦寺というお寺を建てたために追い出され、大江山に住むようになった」
との事・・・

伝教大師は、ご存知、最澄(6月4日参照>>)の事・・・つまり、酒呑童子とは、もともと神代の昔から比叡山で信仰されていた土着の神様で、仏教の伝来によって、それら昔の信仰が邪道とされ、徐々に排除されていった事を、英雄伝説に置き換えたものではないか?と思われます。

まぁ、大した根拠もない話ではありますが、頼光たちが山伏の姿で大江山に入り、その姿に、鬼たちが警戒しないところなど、山伏が鬼たち(土着の神様)とは同類で一体感があった事を臭わせています。

山伏も仏教ではなく、山岳信仰の修験者ですから・・・

また、御伽草子(おとぎぞうし)では、酒呑童子は越後(新潟県)の生まれであるとされ、越後のお寺で稚児として育つものの、寺で暴れて追い出されて比叡山へ・・・

そして、やはり比叡山を伝教大師に追い出されて大江山に住みついたところ、今度は弘法大師(空海)に追い出されるも、最澄や空海がいなくなったので、再び大江山に戻ってきていた事になってます。

おそらくは、彼らは鬼ではなく、山の神や竜神といった昔ながらの信仰を続けてきた人々・・・そんな彼らは、仏教や陰陽道を信仰する都の人々にとっては、邪教の信者であり、排除の対象となったという事なのでしょう。

伝説によれば、酒呑童子は、殺される時、
「鬼に横道(おうどう)はない!」
と叫んだのだとか・・・

つまり、「正義は我々にある」と・・・

邪教の排除を名目に、彼らの昔ながらの土地を次々と征服していった者たちへの、悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
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2009年12月 7日 (月)

形なき未来への遺産~佐野常民の博愛精神

 

明治三十五年(1902年)12月7日、日本赤十字社の創始者として知られる佐野常民が80歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

佐野常民(つねたみ)は、文政五年(1822年)に、佐賀藩士・下村充贇(みつよし)の五男として肥前国佐賀郡に生まれました。

12歳の時に、藩医だった佐野常微(つねあき)の養子となって佐野の姓を名乗り、その後、藩の命令で江戸や京都・大坂で遊学します。

あの緒方洪庵(こうあん)適塾で学んだ時は、大村益次郎をはじめとする将来の大物との交流も篤かったのだとか・・・

この間、養父の事もあって医学を中心に学ぶ常民でしたが、同時に物理学や化学も学びつつ、嘉永六年(1853年)には、佐賀に戻って佐賀藩精錬方主任となります。

そこで、蒸気船や蒸気機関車の模型制作などを行いながら、幕府が長崎に設立した海軍伝習所では、航海術や造艦、砲術なども習得していき、文久三年(1863年)には、日本初の蒸気船・凌風丸(りょうふうまる)を完成させたと言いますから、そのマルチな才能は限界を知らず・・・といった感じですね~

この間に藩主・鍋島直正に海軍の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となって三重津海軍所も創設しています。

やがて、慶応三年(1867年)に開催されたパリ万博に、佐賀藩が出展していた関係から、佐賀藩団長として万国博覧会に派遣された常民は、そこで、人生を変える二つの物と出会います。

一つは、産業を発展させる万国博覧会そのもの・・・そして、もう一つは、その会場でスイス人・アンリー・デュナンが提唱した赤十字社の活動でした。

やがて、明治維新となった後、海軍の知識をかわれて兵部省(ひょうぶしょう)に入った常民は、日本海軍の近代化に尽力する・・・はずでしたが、薩長中心の政府首脳との関係が、必ずしも良好でなかった彼は、志半ばで別の世界へ飛び込む事になります。

明治五年(1872年)には、日本の産業近代化をめざして湯島聖堂にて日本初の博覧会を開催したり、その翌年には、多数の技術者を率いてウィーン博覧会へとおもむき、最先端の技術を見学する貴重な体験をしたり・・・

彼の体験は、膨大な報告書として記録され、日本産業の近代化への指針となりました。

一方で、この頃から士族の叛乱が立て続けに勃発します。

常民と同郷の江藤新平が起した佐賀の乱(2月16日参照>>)
旧熊本藩士による神風連の乱(10月24日参照>>)
福岡で起こった秋月の乱(10月27日参照>>)
前原一誠萩の乱(10月28日参照>>)
そして、ご存知、西郷隆盛西南戦争(1月30日参照>>)

かつて目指した医術の世界・・・
パリで聞いた赤十字の精神・・・

常民は、戦場で敵味方の区別なく看護する救護組織の必要性を訴え、博愛社という組織の設立を政府に提出しますが、その理念を理解できない政府首脳陣は、その嘆願を却下・・・

やむなく、常民は、同じ志を持つ大給恒(おぎゅうゆずる)とともに、自ら戦場となった熊本へと向かい、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)への直訴を決行したのです。

そんな彼らの熱意と精神に胸を打たれた親王は、なんと!中央に確認する事なく、その場で、即、許可をしてくれました。

博愛社=後の日本赤十字社の誕生です。

その後、日本赤十字社の初代・社長に就任した常民は、日本を万国赤十字条約に加盟させ、その保険衛生と人道福祉が、欧米にもひけをとらない近代的なものである事を、世界に示しました。

国内では、磐梯山噴火災害濃尾大地震に災害救援を派遣し、日清戦争の時には、病院船を発案&建造して戦時の救援活動にも尽力・・・明治二十三年(1890年)のオスマン帝国海軍のエルトゥールル号遭難事件(9月16日参照>>)でも救護隊を派遣して、その精神が揺るぎない事を証明してみせます。

やがて、明治三十五年(1902年)10月に開かれた日本赤十字社の創業25周年式典の席で、常民は、最高の栄誉である名誉社員に推薦されました。

彼にとって、名誉社員の栄誉は確かにうれしい事であったかも知れませんが、ひょっとしたら、そんな事よりも、初めは誰も理解してくてなかった博愛の精神が、こうして多くの人に浸透し、盛大な式典を催す事ができるまでに成長した事のほうに喜びを感じていたのかも知れません。

集まった人々を目の当たりにして、自らの役目が終った・・・
そう、感じたのでしょうか?

式典から、わずか2ヵ月後の明治三十五年(1902年)12月7日常民は東京の自宅で、静かに、その生涯を閉じました。

そして、彼の遺志を受け継いだ日本赤十字社は、未だ、記憶に新しい2004年のスマトラ島沖地震、2005年のパキスタン北部地震などで、被災者の救護活動や復興支援に尽力し、今現在も活躍を続けています。
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2009年12月 6日 (日)

日本初の本格的「都」~藤原京・誕生

 

持統八年(694年)12月6日、持統天皇飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都しました。

・・・・・・・・・・・・

つい先日の11月29日、建築資材を運ぶための運河の跡が発見され話題となった藤原京(奈良県橿原市)は、日本初の都市計画に基づく本格的な都です。

この日から、和銅三年(710年)3月10日に平城京に遷都されるまでの16年間、ここが政治の中心でした。

Zitoutennouyamatosanzancc 明日香・甘樫丘から見た大和三山(左から畝傍山・耳成山・香久山)

ちなみに、藤原京という呼び名は、後世の人が名付けた学問上の名称で、実際には新益京(あらましのみやこ)と言い、その都にある宮殿の部分を藤原宮(ふじわらきゅう)と言います。

・‥…━━━☆

天皇を頂点としたピラミッド型の政治構造を造り、法令に基づいた律令国家を目指した第40代・天武天皇(2月25日参照>>)・・・その死からまもなく、跡を継ぐべき皇太子であった草壁皇子も亡くなってしまった事から、天武天皇の奥さんで草壁皇子の母だった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)第41代・持統天皇として即位して、亡き夫の遺志を継ぐ事となります。

持統三年(689年)には、日本初の行政法である飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)が施行され、古代官僚制を確立させます。

ちなみに、「令」というのが行政の法規で、「律」というのが刑罰の法規で、両方合わせて律令国家なわけですが、「律」のほうはもう少し先の大宝律令(8月3日参照>>)で施行されます。

そして、やはり新しい律令国家に必要なのは本格的な都・・・もちろん、これも天武天皇の遺志なのですが・・・。

これまでの都は天皇が変わるたびに宮も変わる歴代遷宮が普通でしたが、数年ごとに宮が変わる不安定な状態だと、その周辺が(みやこ)として大きく発達する事は難しい・・・そこで、都市計画に基づいた「京」としての藤原京の建設が行われたのです。

しかし、当時は朝鮮半島の情勢が不安定だったため(4月2日参照>>)、約30年間に渡って遣唐使が途絶えていた時代でもあり、モデルとなるべき中国の最新情報が得られない状況での造営は、なかなか難しかった事でしょう。

とは言え、そのスケールは大きかった・・・

Fuziwarakyouzu 藤原京(新益京)・復元区画図
(このイラストはわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

以前は、古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)に囲まれた大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の内側の部分であると考えられていましたが、近年の発掘調査で、その外側から道路の遺構が見つかり、平成九年(1997年)には東西十大路が確認され、1辺が5,3km四方の大きさであった事が判明しました。

これは、23k㎡の平安京、24k㎡の平城京よりも大きい事になります。

条坊道路は両側に側溝のある構造で、その幅は16m・9m・7mの3段階に分けられ、道路によって区画された中に寺院や官邸・宅地などがあり、基本的には宮に近いほど、有力な貴族の住む大きな邸宅であったと思われ、遠くなるほど小さな宅地が多くなります。

Fuziwarakyuuzu 藤原宮(想像図)

この藤原京の中心に位置したのが藤原宮で、東西925m、南北907mの区画を瓦葺の大垣で区切り、各面に3ケ所ずつの門が備えられている中央部分に北から内裏(だいり)大極殿朝堂院と並びます。

大極殿は、基壇の上に礎石を用いた瓦葺の最も大きな建物で、赤い柱や緑の窓、金色の金具といった中国的な建築様式だったとされ、これまでの基壇なしで地面に柱の板葺きという建物とは、明らかに違うものでした。

大極殿の南側には南門があり、続いて南北318m、東西230mに囲われた朝堂院があり、ここに東西各6棟の朝堂が建ち、さらに、その東西には官庁が並びます。

こうして、律令国家の基盤となる永年の都として造営された藤原京でしたが、わずか十六年で、次の平城京へと遷都される事になります。

それには
・山に囲まれたこの地では、これ以上都を大きくできない。
・良い材木を伐採しつくした。
・木材運搬の便利さ。

などなど・・・考えられますが、私としては、やはり政権交代ではないか?と・・・

そこのところは、平城京・遷都がらみのページで書かせていただいておりますので、2月15日の【平城京はなぜ、あの場所に?】へどうぞ>>
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2009年12月 4日 (金)

藤原・全盛への道を開いた清和天皇のジレンマ

 

元慶四年(880年)12月4日、第56代・清和天皇が、31歳の若さで崩御されました。

・・・・・・・・・・・・

この天皇の孫である経基王が皇族を離れて臣下となり、源経基(つねもと)と名乗った事に始まる清和源氏・・・以来、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏新田義貞に、果ては、あの徳川家康(家康は自称)まで、武門の棟梁となる名門の祖とされるのが、第56代・清和天皇です。
(*源氏が清和源氏ではなく、陽成源氏かも知れないお話は、また別の機会にさせていただきますので、今日のところは通説の通りという事で・・・)

しかし、その猛々しさとはうらはらに、清和天皇の生涯には、なにやら、空しさというか、寂しさというか・・・物悲しい思いがします(←個人の感想です)

第55代・文徳天皇を父に、藤原明子(あきらけいこ)を母に持つ清和天皇は、本来、皇位を継ぐ人ではありませんでした。

父である文徳天皇には、紀名虎(きのなとら)の娘・静子との間にもうけた惟喬親王という第一皇子がいて、「聡明で人望も篤い親王は後継者にふさわしい」と文徳天皇自身も、周囲の気持ちも、ほぼ、それで確定していたのです。

ところが、文徳天皇が第55代天皇として即位してまもなく、明子との間に男の子が生まれ、自体は一変・・・その赤ん坊が、わずか、生後8ヶ月で皇太子となり、後の清和天皇となるのです。

それは、この清和天皇の母である明子が、時の実力者・藤原良房(よしふさ)の娘であったから・・・もちろん、そこに清和天皇自身の意思は含まれていません(なんせ、生後8ヶ月ですから・・・)

やがて、父の文徳天皇が急死すると、清和天皇はわずか9歳で第56代天皇として即位します。

まだ幼い天皇は、当然、、政治を行う事はできませんから、外戚(母親の実家)の良房が事実上の摂政として、政治の全権を握る事になります。

摂政とは、天皇が年少であったり、中継ぎの女帝であったりした時に、天皇に代わって政務をこなす役職の事で、古くは、第15代の応神天皇の時の母・神功皇后や、有名なところでは、第33代の推古天皇聖徳太子など、いずれも皇族がなるべき役職でしたが、ここで初めて、臣下である藤原氏が摂政となるのです・・・ただし、この時はまだ、事実上という事で、正式な摂政ではありませんでしたが・・・。

やがて、清和天皇が16歳となった貞観八年(866年)3月、あの応天門炎上事件が起こります。

この事件は、ブログでも「真犯人は誰だ?」(9月22日参照>>)と称してご紹介させていただいているように、謎だらけの事件で、はじめ、大納言伴善男(とものよしお)が、「左大臣の源信(みなもとのまこと)が犯人だ」と証言するも、結局は、最初に訴えた善男とその息子が真犯人とされ、共犯者とされた紀豊城(きのとよき)らが、それぞれ伊豆隠岐安房などへ流罪となってしまいます。

さらに、最初に疑われた信も、無実とされながらも政界からは失脚し、その後は狩り三昧の日々を過ごす事になりました。

これで、古代からの名門・大伴(おおとも)(伴善男は大伴の末裔)とともに(きの)、そして嵯峨源氏(信の父は嵯峨天皇)もが、失脚してしまったわけです。

つまり、時の太政大臣だった良房と、その弟で右大臣だった藤原良相(よしみ)ら、藤原家の1人勝ちという事になってしまったのです。

しかも、平安時代のはじめに一旦失脚していた大伴氏の善男を信頼して重用し、大納言にまでに推したのが清和天皇であったにも関わらず、その善男が犯人となった事で、天皇は良房に気をつかったのか?、事件から5ヵ月後の貞観八年(886年)8月、良房を正式に摂政としました(8月19日参照>>)

名実ともに、臣下の摂政の誕生です。

その後、貞観十四年(872年)に良房が亡くなると、良房の兄の子で養子となっていた藤原基経(もとつね)が摂政となり、藤原氏栄華の基礎を築く事になるのです。

清和天皇のほうは、貞観十八年(876年)11月に、息子の第57代・陽成(ようぜい)天皇に譲り、3年後の元慶三年(879年)に出家して、その翌年の元慶四年(880年)12月4日31歳という若さでこの世を去ったのです。

ところで、この清和天皇の御陵・・・どこにあるかご存知でしょうか?

たとえば、桓武平氏の祖となる、同じ平安期の第50代・桓武天皇陵は、京都の伏見・・・京阪電車の丹波橋駅近くにあります。

同じ伏見には、第122代の明治天皇桃山御陵もあり、いずれも、歩くに苦にならない距離の最寄り駅から、玉砂利の敷き詰められた参道が続き、容易にお参りができるようになってます。

エラそうに「どこにあるか知ってますか?」というワリには、実は、私も現地には行った事ないんですが、清和天皇の御陵は、亀岡から嵐山へと流れる保津川沿いから北へ3~4km山に入った水尾という集落の近くの水尾山にあります(普通の地図にも載ってるので確認してみてください)

以前、ご紹介したJR保津峡駅(12月3日参照>>)・・・この無人駅が唯一の最寄り駅で、さらにここから北の山奥に3~4kmという事です。

もちろん、集落には住民の方もおられるのですから、最寄り駅から不便・・・という言い方は失礼かも知れませんが、車の免許を持たない私としては、やはり、なかなか行けない場所であります。

子孫の皆さんの豪華メンバーを考えると、当然、「なぜ?ここに?」という疑問を抱きますが、実は清和天皇ご自身が希望された場所なのです。

陽成天皇に皇位を譲った清和天皇が出家した・・・と上記させていただきましたが、これが、かなりのマジ出家で、何日間も断食する荒行や、山野を行く修行にあけくれたのだそうで、そんな中、当時は、俗世間とはかけ離れたような陸の孤島とも言えるこの水尾にて、里の人の暖かさや、心の美しさに触れ、「この地で最期を迎えたい」とおっしゃったのだとか・・・。

容姿端麗で聡明だったという清和天皇・・・若い頃は多くの女性と浮名を流したようですが、それも、聡明であるがゆえのジレンマ?

退位後に荒行に挑んだのも、藤原氏の勢力に圧されて、思う存分に政治的手腕を発揮できなかったジレンマだったのかも知れません。

藤原氏全盛の時代への道を切り開いた天皇は、ひょっとしたら、別の未来を夢見ていたのかも・・・

やがて、清和天皇が亡くなってから7年後の仁和三年(887年)、かの基経は、史上初の関白の座につく事になりますが、そんな貴族全盛を抑えて、武士として政界のトップに立つ事になるのは、誰あろう清和天皇の子孫たちなのですね。
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2009年12月 3日 (木)

長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉

 

明治九年(1876年)12月3日、先の10月28日に勃発した萩の乱の首謀者として逮捕されていた前原一誠・以下、幹部・7名が斬罪に処せられました

・・・・・・・・・・

幕末の戊辰戦争を戦い抜いて、維新の立役者となった薩長土肥(さっちょうとひ・薩摩=鹿児島県・長州=山口県・土佐=高知県・肥前=佐賀県)の武士たち・・・

しかし、彼らが待ち望んだ明治新政府は、士族と名を変えた武士たちの特権を次々と奪っていきます。

そんな中、明治六年の政変(10月24日参照>>)で政府内の中心人物であった西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ)らが辞職して、士族たちの不満が爆発するのです。

政変から4ヶ月経った明治七年(1874年)2月、すでに不満を抑えきれなくなった士族たちに担がれて江藤新平が佐賀の乱を決起します(2月16日参照>>)

反乱軍は、一旦は佐賀城を占拠するも2ヶ月で鎮圧され、政府は、乱の関係者に徹底した処分を下す事で、不平士族を抑えようとしますが、明治九年(1876年)3月には廃刀令が出され、続いて8月に出された家禄(武士の給料)の撤廃によって、その不満は再び頂点へと達します。

これは、国民皆兵を理念とする新政府が徴兵制を施行したため、それまでの武士の最も重要な仕事であった軍事が奪われる事になったわけで、そうなれば、政治にかかわる一部の者を除いた残りの士族は、皆、無職となってしまい、当然ですが、そのまま給料を貰い続けるわけにはいかなくなるのです。

しかし、困窮にあえぐ彼らではありましたが、それはあくまできっかけであって、その根底にあるのは、政治の中核にいる一部の者だけが公金を横領して私腹を肥やしたり、立場を利用して贅沢三昧をし、果ては、その罪でさえ特権でうやむやにしてしまう事が許せなかったのです。

かくして明治九年(1876年)10月24日の神風連の乱(10月24日参照>>)を皮切りに、水面下で連携を約束していた各地の士族が、次々と叛乱を起すのです。

10月27日・秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日・萩の乱(10月28日参照>>)
10月29日・思案橋事件(10月29日参照>>)・・・

この中の萩の乱の首謀者であった前原一誠(いっせい)は、10月30日に山口県令の関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩での市街戦に突入しますが、途中で戦線を離脱した後の11月5日、わずかの人数で出雲にいたところを逮捕されてしまいます。

実は、彼は、上京して「天皇をお諌めするつもりであった」のです。

彼らの叛乱の目的は、新政府を倒す事ではなく、政府の中にいる一部の悪徳政治家を排除して、腐敗した政治を正しい物にする事であり、その事を直接天皇に伝えたいがための戦線離脱であったのです。

そんな前原を逮捕したのは島根県令の佐藤信寛・・・彼も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一部の政治家の贅沢三昧には眉をひそめていた1人だったのかも知れません。

佐藤は、前原に
「君らを東京へ護送して、天皇に訴えるチャンスを与えたい・・・僕に任しといて!」
と約束します。

そもそも、萩城下の下級武士の家に生まれた前原は、その貧しさゆえ、魚を捕ったり畑を耕しながら家計を支える少年時代を過ごしてきました。

以前、吉田松陰松下村塾(しょうかそんじゅく)のページ(11月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまりの貧しさにわずか10日間しか塾に通えなかったほどです。

しかし、そのわずか10日間の松下村塾での体験が前原に大きな変化をもたらし、兵学や砲術を学ぶきっかけともなったのです。

その後、高杉晋作功山寺の挙兵(12月16日参照>>)に参加した前原は、四境戦争(第二次長州征伐・7月27日参照>>)では、病身の高杉に代わって小倉での指揮をとるまでになっていたと言います。

戊辰戦争では会津征討に活躍し、その功績で維新後は越後(新潟県)判事となり、さらに参議となる前原でしたが、大村益次郎の後を受けて兵部大輔(ひょうぶたいふ)になってからは、軍隊には士族を登用すべきと主張する前原に対して、国民皆兵を主張する木戸孝允大久保利通らとの間で大きな溝ができ、結局は辞職して萩に戻っていたところを、不平士族たちに担ぎ出された格好となりました。

かくして、決起した萩の乱も、志半ばで逮捕されてしまった前原は、すでに自身の死は覚悟していたものの、「その真意を天皇に訴える」という事については、「任しとけ!」と約束してくれた佐藤の言葉に一縷の望みを託していた事でしょう。

しかし、その淡い期待は、すぐに裏切られます。

大量の逮捕者を東京に護送して裁判を行う事が難しいと判断した中央政府は、彼らを萩に護送して、そこで裁判を行う決定をしたのです。

もちろん、佐藤は、それに反対し、一旦は、前原の引渡しを拒みますが、もはや、一県令が中央の決定にさからう事はできませんでした。

彼らの審議は1週間に渡って行われ、明治九年(1876年)12月3日前原以下・幹部7名+1名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残り388名を放免するとの判決が下り、その日のうちに刑が執行されたのです。

前原一誠・・・享年・43歳・・・

この前日・・・あの日、前原に急襲され、命からがら役所から逃げ出した関口が、決別の酒を酌み交わそうと、獄中の前原を訪ねた際、彼は・・・
「このもてなしは、東京の名妓にも勝るな~」
と、大いに喜んだと言います。

そして、涙ながらに別れを惜しむ関口に対して
「そんなに悲しんでくれるんやったら、明日、一緒に死んでくれるか?」
と言い、
「今は、まだ、ちょっと・・・」
と口ごもる関口を見て、彼は大いに笑ったのだとか・・・。

そこには、立場上敵味方となり、襲撃した側された側に分かれた二人と言えど、個人的怨みなどどこにもなく、ともに郷里の明日を憂う、戦国武将にも似た友情があったのかも知れません。

時代は、この後、最終かつ最大の士族の叛乱・西南戦争へと向かう事になります(1月30日参照>>)
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2009年12月 2日 (水)

天狗党・雪の行軍~運命の新保入り

 

元治元年(1864年)12月2日、美濃萎靡宿に滞在中の天狗党の総大将武田耕雲斎に、西郷隆盛の命を受けた中村半次郎が面会しました。

・・・・・・・・・・

この年の3月、藤田小四郎の呼びかけにより、尊王攘夷の魁(さきげけ)となるべく蜂起した天狗党(3月27日参照>>)・・・

神君・家康公のお膝元・日光東照宮にて声明を発表した後(4月10日参照>>)
下妻夜襲など、関東各地で奮戦するも(7月9日参照>>)
藩内の保守派に水戸城を占領された彼らは、新たな総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎え、水戸藩の現状を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立つ事にします(10月25日参照>>)

行軍ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

11月16日の下仁田戦争(11月1日参照>>)
11月20日の和田峠の戦いを経て(11月20日参照>>)

旅立ちから、ちょうど1ヶ月の12月1日、美濃国(岐阜県)揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へとたどりつきました。

そして、翌日・元治元年(1864年)12月2日、そんな彼らの元に、薩摩(鹿児島県)西郷隆盛の命を受けた中村半次郎(後の桐野利秋)面会に訪れたのです。

そうです。
上記のルート図をご覧いただくとお解かりの通り、揖斐宿から、一山越えた先には琵琶湖が広がっていますから、このまま西へと進み、琵琶湖の東岸を行けば、数日で京都に到着します。

「わが薩摩が、全面的に協力しますので、このまま、まっすぐ京都へ出て下さい」
半次郎は、西郷からの伝言を伝えに来たのです。

しかし、しばしの論議の末、耕雲斎は、その薩摩の協力を丁重に断り越前(福井県)から近江(滋賀県)に向かい、琵琶湖の北へと抜けるルートを選択したのです。

それは、「我らは戦うために西へ向かっているのではない」という、彼ら天狗党のポリシーから生まれた判断でした。

琵琶湖の東岸を通るという事は・・・当然、彦根という場所を通る事になります。

4年前の万延元年(1860年)3月3日、安政の大獄を断行した、時の大老・井伊直弼(なおすけ)桜田門外の変で暗殺したのは・・・首を取った者こそ薩摩の脱藩浪士・有村兼清(かねきよ)でしたが、その他のメンバーは水戸の脱藩浪士たちでした(3月3日参照>>)

天狗党は、まさに、彼らの遺志を継いだ集団・・・そんな彼らが、直弼のお膝元=彦根を通過するなど、更なる摩擦を呼びにいくようなものです。

天狗党の今回の西行は、この挙兵自体が、弱腰で開国してしまった幕府を再び尊王攘夷の姿勢へと方向転換させる目的のやむにやまれぬ挙兵であった事、また、そのために起きてしまった水戸藩の内紛の状況を慶喜に説明したいがための行軍です。

けして、幕府と戦うために西に向かっているわけではありません。

それを証明するためにも、無用な争いは避けねばなりません。

即日、出発した天狗党は、12挺の大砲、9挺の五十目筒、そのうえ馬まで連れて、翌・3日には長嶺へ、続いて、すでに1m以上の積雪に見舞われていた越前との国境・烏帽子(えぼし)越えを決行します。

4日に峠を越えた天狗党は、6日に木本(福井県大野市)を過ぎ、9日には今庄宿(福井県南条郡)に到着し、雪道の行軍で乱れた隊を整えますが、常陸(茨城県)大子(だいご)を出発した時の1000名は、度重なる戦乱と険しい行軍のため、約800名ほどになっていました。

その後、2mの積雪となっている木ノ芽峠を越えて11日には新保宿(福井県敦賀市)に到着しました。

ここで、南2km先の葉原(はばら)に、金沢藩の兵が陣を敷いている事を知った耕雲斎は、「この行軍が慶喜に嘆願するための京都行きであり、沿道の諸藩と戦う意志はないので、藩内を通行する許可をいただきたいとの書状をたずさえて、金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らと面会します。

立場上、尊王攘夷派と幕府(保守)派に分かれているとは言え、どちらも、国の行く末を憂う忠義なる武士同士・・・したためられた書面からあふれ出る思い、藩の内紛と過酷な峠越えでボロボロになった姿、それでいて武士の誇りを失う事のない毅然たる立ち居振る舞い・・・

甚七郎らは、彼らの姿に深く感銘を覚えます。

しかし、甚七郎は、そんな彼らに残酷な知らせを報告しなければなりませんでした。

それは、彼らが最後のの頼みとしている慶喜が、天狗党征討軍の総督として、すでに琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来て、本営を設置しているというものでした。

愕然とする天狗党隊士たち・・・

この日まで、主君と疑った事のなかった人物が、突然、敵の・・・それも総大将となっている・・・

この悲しい現実は、同じ武士として甚七郎らの涙も誘い、甚七郎は、ありったけの力を活用して、慶喜と天狗党の間を取り持つ事を、耕雲斎に約束したのです。

その言葉を聞いた耕雲斎は、慶喜宛ての嘆願書と始末書を書き、甚七郎に託しました。

そして、まもなく・・・耕雲斎の満願の思いがこもった書状を手に、一路、海津へと、降りしきる雪の中をひた走る甚七郎の姿がありました。

天狗党の運命やいかに・・・と、この続きのお話は、天狗党の今後を決める軍儀も含め、耕雲斎が3度目にしたた書状を徳川慶喜が受理する12月21日のページへどうぞ>>>
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2009年12月 1日 (火)

いよいよ師走~年賀状の由来と年賀状・寅のイラスト

 

今日から、いよいよ12月・・・師走(しわす)ですね。

この師走というのは、12月は一年の終わりで、皆、忙しく、いつもはドッシリと構えているエライ師匠も趨走(すうそう・ちょこちょこ走る)ので「師趨(しわす)・・・というのが一般的ですが、古い事ゆえ、他にも説があります。

「師」が法師の「師」で、12月は各家々で、僧を迎えてお経を読んでもらう習慣があるため、僧が忙しくなり、師がはせ走る「師馳月(しはせづき)と呼ばれていたのが、いつしか略されて師走となったというもの・・・

また、「歳極(としはす)が略されて訛ったもの・・・
「万事、為果(しは)つ月」から来たもの・・・
などと、イロイロあります。

別名もたくさんありますよ!

親子月、春待月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、弟(おとと)月、除月、窮月、小歳、暮節、嘉平、清祀、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、晩冬・・・などなど

途中に明らかに人物名のようなのもありながら、最後のほうは月の異名とは思えないような物も・・・一番最後の晩冬なんて、季節の言い回しかと思っていたら、12月の事なんですね~

まぁ、現在は新暦なんで、ちょっとズレがあるため、今となっては、季節の表現として使うんでしょうが・・・

そう言えば、そろそろ年賀状を書かなくては・・・

てな事で、本日は、年賀状の由来などご紹介しながら、歴史とともに私のもう一つの趣味であるイラストを書かせていただきましたので、もし、よろしければ、お持ち帰りくださいませ。
(たぶん金にはならないイラストだとは思いますが、一応、商用はお控えください)

・‥…━━━☆

年賀状を書く習慣が、一般的になったのは、やはり、近代の郵便制度が整った明治以降の事になりますが、実は、すでに江戸時代に、武士や商人の間で、飛脚を使った年始のあいさつが交わされていたのだそうです。

ただし、ご存知のように、当時の飛脚便はかなりの高額ですから、ホント一部のお金持ちの間だけだったのしょうね。

Torahatuharu

そんな年始のあいさつは、明治六年(1873年)に郵便はがきが発売された事によって、安価で手軽な存在となり、一般庶民の間に広がっていくのですが、最初のうちは、元旦に配達されるというシステムはなく、遅れ&フライングの嵐・・・

それが、現在のように、年賀状だけを一斉に元旦に配達するようになるのは明治三十九年(1906年)からだそうです。

そして、その年賀状での年始あいさつが爆発的にヒットするのは昭和二十四年(1949年)・・・そう、お年玉つき年賀はがきが発売されたのです。

Kotobukiindoormamacc ホント、うまい事考えたもんです。

初の賞品は、
特等=ミシン
1等=純毛服地
3等=学童用こうもり傘
4等=はがき入れ
5等=切手シート・・・

そんな豪華賞品に目がくらんだのか、当時は、下の番号の書いてあるクジ部分を切り取って送った人もいたのだとか・・・なんて、失礼な!
そんなんなら、まだ、送らないほうがマシですよね~

Toramozi ちなみに、小耳に挟んだ情報によると、このお年玉つき年賀はがきは、アメリカに送っちゃいけないんだって・・・

アメリカには、「外国の宝くじを買ってはいけない」という法律があって、このお年玉つき年賀はがきは、宝くじとみなされるんだとか・・・

そう言えば、以前、「○○(外国)の宝くじを買いませんか?」というダイレクトメールが届いていて、その国のジミー何たらという人物が「もうすぐ、あなたの家にうかがいます」って書いてあったけど、あれから数年・・・ジミーは徒歩でウチへ向かっているんだろうか(笑)

もちろん、日本で海外の宝くじを購入するのは違法です・・・騙されんゾ!

・‥…━━━☆

Torapotibukurocc ポチ袋:
画像をクリックして、イラストギャラリーにある大きなイラストをコピーしてお持ち帰りいただいて、そのまま印刷して糊付けすればOK!

 

寅の福笑い:Torafukuwarai330 こちらも画像をクリックして、イラストギャラリーにある大きなイラストをコピーしてお持ち帰りいただいて、目・鼻・口を切り取って遊んでね。
年賀状を福笑いにしてもオモシロイかも・・・

来年のえと=寅の意味は【「えと」十二支の由来】で見てね>> 

これまでブログにupした画像で、年賀状に使えるイラストを集めた【年賀状に使えるイラスト集】もよろしく>>
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