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2009年12月14日 (月)

大石内蔵助の綿密計画~赤穂浪士の討ち入り

 

元禄十五年(1702年)12月14日、ご存知『忠臣蔵』のモデルとなった事件・・・元赤穂藩筆頭国家老・大石内蔵助率いる浪士・47人が、主君の仇・吉良上野介の屋敷に突入した赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件のあった日であります。

すでに、このブログでは
その原因となった江戸城の刃傷事件について・・・
 【刃傷・松の廊下~事件を目撃した松はどんな松?】
その裏話的なものを・・・
 【忠臣蔵のウソホント】>>
途中で離反した大野九郎兵衛については
 【忠臣蔵で不忠の悪役】>>)
ただ1人生き残った寺坂吉右衛門については・・・
 【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】>>
「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平について・・・
 【忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平】>>
・・・と、書かせていただいていますが・・・

そう言えば、討ち入りそのものを書いてないなぁ・・・って事で、その原因や、そこに至るまでのもろもろは、いずれ、それぞれのその日にご紹介させていただく事として、本日は、120人が守る邸内に討ち入り、1名の死者も出さずに本懐を遂げた、ほぼパーフェクトに近い突入劇について、一般的な説をご紹介さていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内において、高家(朝廷儀式を司る家柄)吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかった江戸城・松の廊下の刃傷事件で、浅野家側は内匠頭・本人の切腹のうえ、お家も取り潰しとなったにも関わらず、上野介側には何の処分も無かった事から、喧嘩両成敗・お家再興を願って奔走するも叶えられず、ついに主君の仇を討つべく、吉良邸への討ち入りを決意する元赤穂藩筆頭国家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)・・・。

事件から1年と数ヶ月経たこの頃には、大石に「今後、ともに行動する」と誓った文書=神文(しんもん)を差し出していた同志が約120名ほどいましたが、その中には、単に浅野家のお家再興を願う者も含まれていて、いざ討ち入るとなれば、その中から現状に不満を持ち、ともに決起してくれる面々をピックアップしなければなりません。

そこで大石は、貝賀弥左衛門(かいがやざえもん)大高源五(おおたかげんご)に命じて、彼ら一人一人に「大石殿が頼りなく、討ち入りはしない事になったので、神文をお返しする」と言って、神文を返返却して回らせました。

そして、その中で、納得して受け取った者はそのままに・・・
憤慨して突き返した者だけを集めます・・・ここで、約50人に絞られました。

その後、大石は、川崎平間村(神奈川県川崎市)の隠れ家にて、皆に、今後の心構えなどを訓示した後、元禄十五年(1702年)11月、息子・大石主税(おおいしちから)が滞在中の江戸・日本橋の旅館・小山屋に入り、以後、ここを拠点に、ターゲット=吉良邸の情報収集や、討ち入りの真意を綴った声明文作り、細かなダンドリなどを決めていきました。

やがて、剣術家や物売りや医者に変装しての敵情視察のおかげで、吉良邸の詳細な図面を入手・・・「コイツは部屋に突入」「コイツは庭にて見張り」などの、当日の細かな配置も決めていきます。

そして、最も重要なのは上野介の在宅日・・・本人がいなかったからと言って、2度目の討ち入りなんてありえないのですから、一発必中で仕留めなければ・・・

やがて、「来る12月14日、吉良邸にて茶会が催される」との情報を掴みます。

複数のルートから同じ情報を得て確信した大石は、討ち入りの日を元禄十五年(1702年)12月14日深夜に決定!・・・奇しくも、その日は主君・内匠頭の月命日でした。

決行当日・・・大石の指揮のもと、闇にまぎれてすみやかに移動した一行は、(厳密には日づけが変わった)午前4時頃、吉良邸の表門と裏門の2手に分かれて突入し、一斉に上野介を目指して進みます。

吉良邸にも、守る武士が約120名ほどいましたから、当然の事ながら、そこかしこで斬り合いとなりますが、なんせ赤穂浪士は完全武装で、下に鎖帷子(くさりかたびら)など着込んでますから、吉良方の武士も、なかなか致命傷を与える事はできません。

さらに、浪士の何人かが「30人は庭へ回れ~!」「50人はコチラ側へ~!」などと、ハッタリのウソ命令を大声で叫び、本当の人数の数倍にも見せかける事で、吉良方を混乱させます。

同時に、長屋(宿舎)の出入り口を封鎖して邸内以外の者の戦闘参加も阻止しました。

こうして、なんだかんだで約2時間後・・・間重治朗(はざまじゅうじろう)らが、台所付近の物置に隠れていた上野介を発見!

ついに、その首を取ったのです。

数名の負傷者は出したものの、赤穂側の死者はゼロ・・・一方の吉良方は、死者が17名で負傷者が23名という完全勝利となりました。

この間、大石にとって一番の心配だったのは上杉の援軍・・・上野介の実子である綱憲(つなのり)が当主を務める上杉家が、もし援軍を出して来たなら、おそらく彼らに勝ち目はなかったでしょうが、思惑通りに短時間で決着を着けられた事、また、その間、上杉が「誰を、何人送るか」などと協議してくれていた事は、ラッキーだったかも知れませんね。

吉良が悪かったのか?浅野が悪かったのか?
討ち入りが正しかったのか?間違っていたのか?

は、ともかく、討ち入った以上は、本懐を遂げる事が、勝利の必須条件・・・

そういう意味では、見事な大石の采配でしたね。

もちろん、以前書かせていただいたように、この事件は、「名君・吉良上野介は斬られ損の被害者」「幕府公認の襲撃」などなど・・・ウラ話に事欠かない出来事ではありますが、まだご紹介していない個々のお話は、いずれまた、関連する日に書かせていただきますね。

今日のお話の続きは、やはり冒頭にリンクさせていただいた赤穂浪士切腹の日のページ消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】でどうぞ>>
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

時代劇では巷間(江戸市中のウワサ)で広まっている「赤穂浪士の仇討ち」を予測していたかのような警護の人数ですが、実際に吉良自身は襲撃を夢にも思っていなかったでしょうね。「隠居勧告」を無視したほどですから。吉良邸はかなりの広さで120人でも警護が手薄(赤穂藩士は300人いたので、全員が一致結束したらかなわない)と感じます。それを勘定したら300人以上(かつ夜中だったのでダメージが数字以上に大きい)ではないと、浪士を撃退できなかったと思います。ただ最近では「赤穂浪士の吉良邸襲撃」が、一般的印象で否定的に見られています。

この数日、過去の忠臣蔵の関連項目を見ました。今年はBSなどで忠臣蔵特集をする予定があるでしょうか?

投稿: えびすこ | 2009年12月14日 (月) 16時03分

えびすこさん、こんばんは~

時代劇の「忠臣蔵」は、やっぱ「仮名手本忠臣蔵」ですからね~

原作が秀作なので、変に変えると、かえっておもしろくなくなりますもんね。

投稿: 茶々 | 2009年12月14日 (月) 16時18分

あまり詳しく知らないのでなんとなく「気弱な若殿を叱咤激励したのを逆恨みされたんじゃないか?吉良におとがめなし、は正しいんじゃない」と、思ってましたが・・・主君の仇打ちが正義だった時代の感覚がちょっとよくわからないけど、やっぱり庶民からすると赤穂浪士たちはスカッとするヒーローだったのかな。でも、毎年この時期になると悪役として登場させられる吉良じいさんにいつも同情してしまいますわ。

投稿: Hiromin | 2009年12月14日 (月) 21時00分

清水義範氏の「上野介の忠臣蔵」という小説本があるんですが、今ちょっと見つかりません。

赤穂浅野家がどの程度本家の影響下にあったか知りませんが、幕府としては西国の大大名浅野氏の勢力を削ぎつつ、返す刀で吉良を潰して伝統と権威を傘に着る高家を畏怖せしめ、さらに上杉に自重させることで外様全体への統制と影響力を誇示する、という一石三鳥を目論んで、ほぼ成功した・・・と想像するのは穿ちすぎなんでしょうね。たぶん。

さて「上野介の・・」はどこに仕舞ったかな?

投稿: 黒燕 | 2009年12月14日 (月) 22時43分

Hirominさん、こんばんは~

>毎年この時期になると悪役として登場させられる吉良じいさんにいつも同情してしまいますわ

私もです。
吉良さんはかなりの名君だったと聞いてますから・・・

実際には、そんなにかっこよくなかったのかも知れませんが、お芝居のフィクションと事実と入り混じって、何となく一般市民にはヒーローのように見えちゃった気がしないでもないですね。

投稿: 茶々 | 2009年12月15日 (火) 00時03分

黒燕さん、こんばんは~

いや、幕府の思惑は、そんなところじゃないですか?

結局、上杉が援軍を出さなかったのも、「とばっちりでエラい事になってしまっては」と思ったからではないかと思います。

投稿: 茶々 | 2009年12月15日 (火) 00時06分

やっぱり、元禄という賑やかで晴れやかな、平和な時代に起こった、武士魂を見せ付けるような快挙には、人々の心も揺さぶられるものがあった と思います。
私自身、寝惚け眼がシャキンとなってしまうような感じ、毎年の、この時期の赤穂浪士の話しには、頗るつきの面白さを覚えてしまいます。
武士が武士らしく、つまり、男が男らしくある姿にシビれるのです。
この話しが日本の実話であることが嬉しいですね。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年12月15日 (火) 15時01分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

高度成長期の元禄ならではの、痛快な物語は、いつの時代も手に汗握りますね~

年末には、やっぱりコレですね。

投稿: 茶々 | 2009年12月15日 (火) 21時38分

今年は、赤穂浪士の討ち入りから313年ですね。吉良邸討ち入り事件の凄いところは、大石内蔵助(良雄ともいう)のリーダーシップに加えて、緻密な計画と用意周到ぶりだと思います。その一方で、吉良上野介(義央ともいう)及びその家来たちが惨めな最期を遂げたことで、最終的には、「仮名手本忠臣蔵」によって、悪人に仕立てられてしまったのは、上野介らの運命だったのかもしれませんね。もしかしたら、赤穂浪士の討ち入り事件における、真の加害者だったのは、徳川綱吉&柳沢吉保といった、幕府の面々だったのではないでしょうか?

投稿: トト | 2015年12月12日 (土) 10時49分

トトさん、こんばんは~

そうですね。
幕府も、予想したのか?吉良邸を、わざわざ町はずれに引越しさせてる感ありますから…
何か、ウラがあるのかも…

投稿: 茶々 | 2015年12月13日 (日) 03時10分

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