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2009年12月20日 (日)

奥州制覇を狙う頼朝に消された上総介広常

 

寿永二年(1183年)12月20日、源頼朝の挙兵に大きく貢献した上総介広常が梶原景時に暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

上総介広常(かずさのすけひろつね)は、桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)の息子・良文(よしふみ)を祖とする両総平氏の嫡流・・・なので、本名は平広常(たいらのひろつね)ですが、上総(かずさ・千葉県中央部)下総(しもうさ・千葉県億部)一帯を治めていたので上総広常とも、その要職名をつけて上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)とも呼ばれますが、上総介広常というのが一般的です。

この(すけ)というのは、このブログにも度々登場しています、中央から地方行政を任されていた国司の中の役職で、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)の順番の2番目、長官である守を補佐する次官のような役どころですが、つい先日、平将門の新皇のところで書かせていただいたように(12月15日参照>>)、この上総の国は、平安時代はじめの頃から、親王(天皇の後継者になる資格を持つ皇子)が守を務める事になってる場所で、その親王は名ばかりの長官・・・なので、事実上、この上総では介が最高権力者という事になります。

・・・と、ややこしい説明をしてしまいましたが、とにかく、この広常さん・・・東国の最大勢力を誇るスゴイ家系の人だったわけです。

しかし、かの平治の乱(12月9日参照>>)源義朝(みなもとのよしとも)の配下として、義朝の長男・悪源太義平(あくげんたよしひら・源義平)(1月25日参照>>)とともに戦った事で、敗者となってしまいます

敗戦後は、なんとか平家の追手をかいくぐって領国に戻り、その後は平家に従う事になった広常でしたが、兄弟での内紛も勃発し、さらに、平家が自分の配下の藤原忠清(ふじわらのただきよ)を上総介に任命したりなんぞして、政治的には窮地に立たされていました。

そんな時に、ナイスなタイミングで平家打倒に立ち上がったのが、かの源頼朝です(8月17日参照>>)

しかし、すぐには頼朝のもとへ駆けつけませんでした。

なんせ、未だ平家の支配は続いていますし、頼朝は石橋山(8月23日参照>>)では手痛い敗戦を喰らっていますから、まだまだ、この先どうなるかわかったものではありません。

その後、再起をかけて鎌倉に入った頼朝が、上総・下総の武士に参集を呼びかけた時、広常のところには、和田義盛(わだよしもり)が派遣されてきましたが、それでも、まだ、腰を上げなかった広常・・・。

しかし、やがて、その頼朝が隅田川に到着した時、広常は2万の軍勢を率いて、ようやく登場・・・実は、この時の登場は、頼朝の人となりを見るための挙兵で、その器が大した者でなかったら、その首を取って平家に献上するつもりであったとも言われています。

ところが、ここでの対面で一変・・・広常は、頼朝の行動に、その将来を見抜き、彼に忠義を尽くす事に決めたのです(10月6日参照>>)

こうして、頼朝の配下となった広常ですが、その参戦は、頼朝の今後を左右したとも言われるくらい彼の持つ兵力は強大だったわけです。

しかし、その価値観のズレはまもなくやってきます。

富士川の合戦(10月20日参照>>)の勝利のあと、平家を討つべく、さらに西に向かおうとする頼朝に「東国の支配を先に進めるべき」と、当時、東国平氏の最大勢力であった常陸(ひたち・茨城県)佐竹氏討伐を進言します。

この時の戦いでは、広常自身が、佐竹一族の1人・佐竹義政(さたけよしまさ)誘い出して謀殺したり、佐竹義季(さたけよしすえ)寝返らせるべく画策したりと大活躍し、見事、頼朝軍を勝利に導くのですが、この東国志向が、後白河法皇とのつながりを強くしようとする頼朝の方針と一線を画すようになるのです。

『吾妻鏡』では、強大な兵力を持つがゆえに、頼朝の前でも下馬の礼を取らず、それを誰かに咎められても、「三代にわたって下馬の礼などした事がない」と反論して、御家人たちに対しても横柄な態度をとっていたとし、最終的には、頼朝から謀反の疑いをかけられたのだとか・・・

そして、後白河法皇から頼朝へ、東国支配が正式承認されてまもなくの寿永二年(1183年)12月20日、双六に興じているところを、頼朝の命を受けた梶原景時(かじわらかげとき)によって首を斬られる・・・という無惨な最期を遂げる事になるのです。

その後、嫡男・能常(よしつね)は自害し、広大な所領は没収されて、他の御家人に配分されます。

ところが、さらに後日、広常の鎧から上総一宮に捧げた願文が見つかり、そこには、謀反どころか、頼朝への忠誠を誓いつつ主君の武運を祈る言葉が記されていた事から、頼朝は、謀反を疑って広常を殺害した事を大いに悔やみ、投獄していた弟を解放して一族を赦免にしたのだと・・・

なんだか、ミョーな終り方・・・と思うのは、私だけではないはずです。

・・・と、ここからは、正史に載らない憶測という事になりますが、広常が奥州藤原氏と深くつながっていたのではないか?という話があります。

かの佐竹氏を倒した時、そのまま奥州へ攻め上ろうとする頼朝を制止し、自軍を連れて戻ってしまったと記録する文献もあります。

つまり、広常が目標にしていたのは「東国独立国家の樹立」であり、その向こうの奥州は圏外だったのでは?

しかし、頼朝の最終目標はあくまで、奥州を含めた全国支配・・・そこに、大きな溝があったように思います。

よく、頼朝自身は鎌倉を動かず、弟の範頼(のりより)義経(よりつね)を平家討伐の大将とした事に、「頼朝は戦がヘタだったから」という話を聞きますが、本当にそうなのでしょうか?

確かに、頼朝という人は勇猛果敢な武将というよりは、武士政権を樹立した政治家のイメージが強いですが、個人的には、そこまで、戦がヘタだったようには思えない・・・いや、少なくとも、戦ベタが理由で鎌倉を動かなかったわけではないと思っています。

もちろん、鎌倉に武士政権を打ち立てるための、現地での地固めもありますが、それよりなにより、頼朝にとって奥州が脅威であり、平家の次のターゲットである事を、すでに決めていたからではないでしょうか?

奥州を牽制するためにも、頼朝は東国を離れなかった・・・幸いにも、軍事に長けた弟・義経が、平家を壇ノ浦で滅亡(3月24日参照>>)させるまでやってくれていましたから、それなら、東からの脅威のほうを優先するでしょう。

だからこそ、武官の最高位である右近衛大将(うこのえたいしょう)を、わずか10日間で辞職し、征夷大将軍を望んだのでは?

結果的には、征夷大将軍になる前に、奥州藤原氏を滅亡させてしまう頼朝ですが(8月10日参照>>)大いなる野望を抱く頼朝にとって、奥州を視野に入れない最大兵力の広常は、謀反があろうがなかろうが潰しておかねばならない存在だったという事なのかも知れません。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
実は私も広常殺害の背景に奥州ありという説に賛成です。
海上交通の関係や、奥州藤原氏と姻戚である佐竹氏と上総氏も縁戚関係であったとも言われています。
また佐竹氏が奥州藤原氏の支援を得て平家が滅ぶ寸前まで頼朝に抵抗していたとの見解もあるようです。
東国における頼朝の実力は現在私達が思っているほど強大なものではなかったのではないかと思います。
それだけに、すぐ北にある奥州藤原氏が脅威であり、それを滅ぼすまで頼朝は上洛ができなかったのではないかと思われます。

投稿: さがみ | 2009年12月20日 (日) 06時16分

さがみさん、こんにちは~

この時代におくわしいさがみさんと同意見だなんて光栄です。

そうですね、本文に書きましたように吾妻鏡では金砂城の戦いで頼朝に滅ぼされる佐竹氏ですが、他の文献では、その後も登場したりしてますから、思ってる以上に頼朝の地盤は、まだまだゆるいものだった可能性大ですよね。

投稿: 茶々 | 2009年12月20日 (日) 15時51分

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