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2009年12月15日 (火)

新皇・平将門は独立国家を望んだか?

 

天慶二年(939年)12月15日、上野国に進軍した平将門国府を占領し、国印と倉の鍵を奪いました。

・・・・・・・・・・・

先日の11月21日に平将門の乱が勃発したとして記事を書かせていただきましたが(11月21日参照>>)、それは、これまでは、あくまで同族同士の下総(しもうさ・千葉県北部)での覇権の争いであったり、隣国の仲裁のための出兵であったりした将門の戦いが、その日、初めて、藤原玄明(はるあき)の求めに応じて、常陸(ひたち・茨城県)の国司・藤原維畿(これちか)を捕らえるとともに朝廷権力の象徴であった国印を奪った事で、朝廷への叛逆となるとの判断からです。

しかも、その直後に・・・
「一つとは言え、国を奪っちゃった以上は、朝廷から怒られるだろうから、こうなったら、いっその事、坂東全部を手中に納めちゃいなよ」
という、武蔵(むさし・埼玉&東京)権守(ごんのかみ・守の代理)興世王(おきよおう)のアドバイスに従い、将門本人も・・・
「関東一円の国の国印奪い、国司を皆、京都へ追い返したる!」
てな事をおっしゃっているようなので、やはり、ご本人たちも、その心持ちであったと思われます。

その後、12月11日に下野(しもつけ・栃木県)に向けて進軍すると、国司は戦う前に降伏し、つづく天慶二年(939年)12月15日上野(こうずけ・群馬県)に兵を進めた将門は、ここでも、国府を占領し、国印を奪い、国司を追放しました。

・・・と、ここで一大転機が訪れます。

その時、陣中にいた巫女に神託が下ったのです。

「われは八幡大菩薩の使いである。
われが位
(皇位)を将門にお授けいたす。
これは左大臣正二位菅原朝臣
(道真)の霊魂によって授けるものなり」

つまり、「怨霊となった菅原道真が味方をするから王になれ」と八幡菩薩が言っているというのです。

その場にいた将門も兵士たちも大喜びし、新しい天皇という意味の「新皇」と称して即位・・・ここに、京の都の朝廷の支配から外れた独立国家の宣言をしたというのです。

この時、将門の弟・将平が・・・
「天皇は天命で決められる物であって、知略や武力で決まる物ではないんやから、兄ちゃん、やめとき!って・・・」
と反対しますが、もはや、将門の耳には届かず、独断で坂東の国司に、身内や重臣を任命するのです。

  • 下野守平将頼(将門の弟)
  • 上野守多治経明(たじのつねあき・客将)
  • 常陸介藤原玄茂(はるしげ・玄明の弟)
  • 上総介興世王(客将)
  • 安房守文屋好立(ぶんやのよしたつ・客将)
  • 相模守平将文(まさふみ・将門の弟)
  • 伊豆守平将武(まさたけ・将門の弟)
  • 下総守平将為(まさため・将門の弟)

そして、野望の実現に向けて、下総の猿島郡王城の建設も計画していたと・・・

まさに、関東の独立国家の絶頂期だったわけですが、このように、一般的に知られる平将門の一連の行動は、鎌倉時代に書かれたといわれる『将門記(しょうもんき)の記述によるところが大きいです。

しかし、どうも引っかかります。

それは、八幡大菩薩の神託・・・将門を菅原道真に照らし合わせるあたり、まるで、その後、将門に怨霊伝説が生まれる事を見越しての言い回しのように見えます。

もちろん、『将門記』の作者は、後の怨霊伝説を知っていて書いているのでしょうから、将門の存在をより強烈な物にするには、道真の登場は持って来いの逸話となりますが、この時点で、巫女のセリフとして道真の名前が出て来るのは・・・

「いや、神託=神のおつげなのだから、未来の事は、全部お見通しなんだよ」と言われれば、どうしようもありませんが、無神論者の私としては、この巫女のお告げは『将門記』の作者の創作だと考えたほうがスッキリします。

・・・で、神託が創作なら、将門が親皇を名乗るのも、独立国家を目指したのも・・・と、ここらでひとつ、考えてみるのもアリなのかも知れません。

そうです。
果たして、平将門は本当に新皇を名乗り、独立国家を造ろうとしていたのでしょうか?

実は、今日のこのお話を、将門が新皇を名乗る12月19日に書かずに、本日=15日に書いたのはワケがあります。

『将門記』と同じく、鎌倉時代に成立したとされる説話集『古事談』には、将門が、天慶二年(939年)12月15日付けで、摂政兼太政大臣・藤原忠平宛てに書状を書いた事が記されています。

そこには・・・
「僕は桓武天皇の5代目の子孫です。
昔から、武力によって天下を取った者はいてるけど、そんな中でも、僕は、退けを取らんくらいの軍事の才能があると思てます。
せやのに、朝廷からは恩賞がもらえるどころか、むしろ、怒られてばっかりやないですか。
メッチャかっこ悪いですやん。
僕が、昔、忠平さんの下で働かさしてもろてから数十年経ちましたけど、忠平さんが摂政やってはる時に、なりゆきとは言え、事件を起してしもて申し訳ありません。
こんな事になってはしまいましたけど、昔の上司である忠平さんの恩を忘れる事なんてできません。
どうか、この気持ちをお察しください」

と、切々と弁明の一筋の姿勢がうかがえます。

この手紙の内容を見る限りでは、とても、この4日後に、朝廷に対する独立国家を立ち上げ、天皇に対抗して新皇を名乗る人とは思えません。

もちろん、『古事談』も説話集なのですから、その内容も、まるまる信用できるものではありませんが、実は『将門記』にも、何となく、その部分が見え隠れしている所があります。

それは、新皇と称する将門に対して、時の天皇=第61代・朱雀天皇の事が「本皇」とか「本天皇」と記しているのです。

これは、将門の称する新皇は、天皇に対抗する物ではなく、あくまで天皇の下にあるもの・・・つまり、将門の支配する関東は、天皇の国家の中にあるという事のようにも解釈できます。

さらに、先ほど書いた将門が決めたとされる坂東各地の国司・・・

上記の国司には「○○守(かみ)「○○介(すけ)がありますが、ご存知のように、朝廷が任命する国司の長官が守で、その手助けをする次官が介・・・

そんな中で、天長三年(826年)以来、上総・上野・常陸の三国の守には、親王が任命される事になっていたのですが、親王は天皇の息子というだけでなく、天皇を継ぐ資格のある特に身分の高い人だったりするもんですから、実際にはほとんど実務をこなす事なく、名目上の長官で、現地で働くのは、もっぱら介だったので、現地で任命されるのは介のみという事が、当時の慣例となっていたのです。

・・・で、将門の国司の任命・・・上野こそ守となってましが、上総と常陸は介となっています。

朝廷から100%離れる気持ちなら、すべてを守に任命すれば良いのに、なぜ、慣例通りの介にしたのでしょう?

そして、何より、天慶二年(939年)12月15日という書状の日づけです。

ご存知のように、この元号を決めるのは朝廷(11月21日の前半部分参照>>)・・・あの大化元年から、この元号は朝廷のみに決定権があり、後には、有名な南北朝時代(10月5日参照>>)しかり、そして室町幕府に叛旗をひるがえす第4代鎌倉公方足利持氏(2月10日参照>>)しかり、いずれも、敵方の元号を使用しない事で、その反発度をアピールしていますが、将門には、その気配はありません。

それどころか、元号をはじめとする暦関係を司る当時の役職であった暦博士のような役職すら設ける事がありませんでした。

果たして、歴史に埋もれた真実は???

また、今夜も歴史好きは眠れない!かな?ww
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コメント

将門の本拠地はまさしく茨城県坂東市(旧岩井)ですから、私の住んでいる隣市です。(車で15分以内)様々なご意見が有りますが、全ては謎ですね。将門自身の存在を疑う者もいて、5代の孫と言うのが怪しいのです。

投稿: 半杭正幸 | 2009年12月15日 (火) 13時40分

半杭正幸さん、こんばんは~

>5代の孫と言うのが怪しいのです

確かに・・・
そんなに由緒正しい家系なのに、生まれがはっきりしないのは、やはり、何かあるのかも知れませんね~

投稿: 茶々 | 2009年12月15日 (火) 21時35分

茶々さんこんにちは!

将門さんといえば数々の首塚伝説の人ですね! 人気のある人だけど、本当のところどんな人だったんでしょうね?ホントに首だけで飛んでいったのかな(笑)
こういう記事読むとほんとに勉強に集中できなくなっちゃいます・・・受験間近なのに(笑)
これからもこういう楽しい記事よろしくお願いします!

投稿: ryou | 2009年12月16日 (水) 12時54分

ryouさん、こんにちは~

そうです。
平将門は新皇を名乗り、朝廷に真っ向から反抗したのです。
それが、授業で習う歴史です。

くれぐれも、このブログのたわ言を、答えてはなりませぬぞえ~

受験、頑張ってくださいねscissors

投稿: 茶々 | 2009年12月16日 (水) 13時42分

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