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2009年12月 3日 (木)

長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉

 

明治九年(1876年)12月3日、先の10月28日に勃発した萩の乱の首謀者として逮捕されていた前原一誠・以下、幹部・7名が斬罪に処せられました

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幕末の戊辰戦争を戦い抜いて、維新の立役者となった薩長土肥(さっちょうとひ・薩摩=鹿児島県・長州=山口県・土佐=高知県・肥前=佐賀県)の武士たち・・・

しかし、彼らが待ち望んだ明治新政府は、士族と名を変えた武士たちの特権を次々と奪っていきます。

そんな中、明治六年の政変(10月24日参照>>)で政府内の中心人物であった西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ)らが辞職して、士族たちの不満が爆発するのです。

政変から4ヶ月経った明治七年(1874年)2月、すでに不満を抑えきれなくなった士族たちに担がれて江藤新平が佐賀の乱を決起します(2月16日参照>>)

反乱軍は、一旦は佐賀城を占拠するも2ヶ月で鎮圧され、政府は、乱の関係者に徹底した処分を下す事で、不平士族を抑えようとしますが、明治九年(1876年)3月には廃刀令が出され、続いて8月に出された家禄(武士の給料)の撤廃によって、その不満は再び頂点へと達します。

これは、国民皆兵を理念とする新政府が徴兵制を施行したため、それまでの武士の最も重要な仕事であった軍事が奪われる事になったわけで、そうなれば、政治にかかわる一部の者を除いた残りの士族は、皆、無職となってしまい、当然ですが、そのまま給料を貰い続けるわけにはいかなくなるのです。

しかし、困窮にあえぐ彼らではありましたが、それはあくまできっかけであって、その根底にあるのは、政治の中核にいる一部の者だけが公金を横領して私腹を肥やしたり、立場を利用して贅沢三昧をし、果ては、その罪でさえ特権でうやむやにしてしまう事が許せなかったのです。

かくして明治九年(1876年)10月24日の神風連の乱(10月24日参照>>)を皮切りに、水面下で連携を約束していた各地の士族が、次々と叛乱を起すのです。

10月27日・秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日・萩の乱(10月28日参照>>)
10月29日・思案橋事件(10月29日参照>>)・・・

この中の萩の乱の首謀者であった前原一誠(いっせい)は、10月30日に山口県令の関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩での市街戦に突入しますが、途中で戦線を離脱した後の11月5日、わずかの人数で出雲にいたところを逮捕されてしまいます。

実は、彼は、上京して「天皇をお諌めするつもりであった」のです。

彼らの叛乱の目的は、新政府を倒す事ではなく、政府の中にいる一部の悪徳政治家を排除して、腐敗した政治を正しい物にする事であり、その事を直接天皇に伝えたいがための戦線離脱であったのです。

そんな前原を逮捕したのは島根県令の佐藤信寛・・・彼も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一部の政治家の贅沢三昧には眉をひそめていた1人だったのかも知れません。

佐藤は、前原に
「君らを東京へ護送して、天皇に訴えるチャンスを与えたい・・・僕に任しといて!」
と約束します。

そもそも、萩城下の下級武士の家に生まれた前原は、その貧しさゆえ、魚を捕ったり畑を耕しながら家計を支える少年時代を過ごしてきました。

以前、吉田松陰松下村塾(しょうかそんじゅく)のページ(11月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまりの貧しさにわずか10日間しか塾に通えなかったほどです。

しかし、そのわずか10日間の松下村塾での体験が前原に大きな変化をもたらし、兵学や砲術を学ぶきっかけともなったのです。

その後、高杉晋作功山寺の挙兵(12月16日参照>>)に参加した前原は、四境戦争(第二次長州征伐・7月27日参照>>)では、病身の高杉に代わって小倉での指揮をとるまでになっていたと言います。

戊辰戦争では会津征討に活躍し、その功績で維新後は越後(新潟県)判事となり、さらに参議となる前原でしたが、大村益次郎の後を受けて兵部大輔(ひょうぶたいふ)になってからは、軍隊には士族を登用すべきと主張する前原に対して、国民皆兵を主張する木戸孝允大久保利通らとの間で大きな溝ができ、結局は辞職して萩に戻っていたところを、不平士族たちに担ぎ出された格好となりました。

かくして、決起した萩の乱も、志半ばで逮捕されてしまった前原は、すでに自身の死は覚悟していたものの、「その真意を天皇に訴える」という事については、「任しとけ!」と約束してくれた佐藤の言葉に一縷の望みを託していた事でしょう。

しかし、その淡い期待は、すぐに裏切られます。

大量の逮捕者を東京に護送して裁判を行う事が難しいと判断した中央政府は、彼らを萩に護送して、そこで裁判を行う決定をしたのです。

もちろん、佐藤は、それに反対し、一旦は、前原の引渡しを拒みますが、もはや、一県令が中央の決定にさからう事はできませんでした。

彼らの審議は1週間に渡って行われ、明治九年(1876年)12月3日前原以下・幹部7名+1名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残り388名を放免するとの判決が下り、その日のうちに刑が執行されたのです。

前原一誠・・・享年・43歳・・・

この前日・・・あの日、前原に急襲され、命からがら役所から逃げ出した関口が、決別の酒を酌み交わそうと、獄中の前原を訪ねた際、彼は・・・
「このもてなしは、東京の名妓にも勝るな~」
と、大いに喜んだと言います。

そして、涙ながらに別れを惜しむ関口に対して
「そんなに悲しんでくれるんやったら、明日、一緒に死んでくれるか?」
と言い、
「今は、まだ、ちょっと・・・」
と口ごもる関口を見て、彼は大いに笑ったのだとか・・・。

そこには、立場上敵味方となり、襲撃した側された側に分かれた二人と言えど、個人的怨みなどどこにもなく、ともに郷里の明日を憂う、戦国武将にも似た友情があったのかも知れません。

時代は、この後、最終かつ最大の士族の叛乱・西南戦争へと向かう事になります(1月30日参照>>)
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