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2009年12月 4日 (金)

藤原・全盛への道を開いた清和天皇のジレンマ

 

元慶四年(880年)12月4日、第56代・清和天皇が、31歳の若さで崩御されました。

・・・・・・・・・・・・

この天皇の孫である経基王が皇族を離れて臣下となり、源経基(つねもと)と名乗った事に始まる清和源氏・・・以来、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏新田義貞に、果ては、あの徳川家康(家康は自称)まで、武門の棟梁となる名門の祖とされるのが、第56代・清和天皇です。
(*源氏が清和源氏ではなく、陽成源氏かも知れないお話は、また別の機会にさせていただきますので、今日のところは通説の通りという事で・・・)

しかし、その猛々しさとはうらはらに、清和天皇の生涯には、なにやら、空しさというか、寂しさというか・・・物悲しい思いがします(←個人の感想です)

第55代・文徳天皇を父に、藤原明子(あきらけいこ)を母に持つ清和天皇は、本来、皇位を継ぐ人ではありませんでした。

父である文徳天皇には、紀名虎(きのなとら)の娘・静子との間にもうけた惟喬親王という第一皇子がいて、「聡明で人望も篤い親王は後継者にふさわしい」と文徳天皇自身も、周囲の気持ちも、ほぼ、それで確定していたのです。

ところが、文徳天皇が第55代天皇として即位してまもなく、明子との間に男の子が生まれ、自体は一変・・・その赤ん坊が、わずか、生後8ヶ月で皇太子となり、後の清和天皇となるのです。

それは、この清和天皇の母である明子が、時の実力者・藤原良房(よしふさ)の娘であったから・・・もちろん、そこに清和天皇自身の意思は含まれていません(なんせ、生後8ヶ月ですから・・・)

やがて、父の文徳天皇が急死すると、清和天皇はわずか9歳で第56代天皇として即位します。

まだ幼い天皇は、当然、、政治を行う事はできませんから、外戚(母親の実家)の良房が事実上の摂政として、政治の全権を握る事になります。

摂政とは、天皇が年少であったり、中継ぎの女帝であったりした時に、天皇に代わって政務をこなす役職の事で、古くは、第15代の応神天皇の時の母・神功皇后や、有名なところでは、第33代の推古天皇聖徳太子など、いずれも皇族がなるべき役職でしたが、ここで初めて、臣下である藤原氏が摂政となるのです・・・ただし、この時はまだ、事実上という事で、正式な摂政ではありませんでしたが・・・。

やがて、清和天皇が16歳となった貞観八年(866年)3月、あの応天門炎上事件が起こります。

この事件は、ブログでも「真犯人は誰だ?」(9月22日参照>>)と称してご紹介させていただいているように、謎だらけの事件で、はじめ、大納言伴善男(とものよしお)が、「左大臣の源信(みなもとのまこと)が犯人だ」と証言するも、結局は、最初に訴えた善男とその息子が真犯人とされ、共犯者とされた紀豊城(きのとよき)らが、それぞれ伊豆隠岐安房などへ流罪となってしまいます。

さらに、最初に疑われた信も、無実とされながらも政界からは失脚し、その後は狩り三昧の日々を過ごす事になりました。

これで、古代からの名門・大伴(おおとも)(伴善男は大伴の末裔)とともに(きの)、そして嵯峨源氏(信の父は嵯峨天皇)もが、失脚してしまったわけです。

つまり、時の太政大臣だった良房と、その弟で右大臣だった藤原良相(よしみ)ら、藤原家の1人勝ちという事になってしまったのです。

しかも、平安時代のはじめに一旦失脚していた大伴氏の善男を信頼して重用し、大納言にまでに推したのが清和天皇であったにも関わらず、その善男が犯人となった事で、天皇は良房に気をつかったのか?、事件から5ヵ月後の貞観八年(886年)8月、良房を正式に摂政としました(8月19日参照>>)

名実ともに、臣下の摂政の誕生です。

その後、貞観十四年(872年)に良房が亡くなると、良房の兄の子で養子となっていた藤原基経(もとつね)が摂政となり、藤原氏栄華の基礎を築く事になるのです。

清和天皇のほうは、貞観十八年(876年)11月に、息子の第57代・陽成(ようぜい)天皇に譲り、3年後の元慶三年(879年)に出家して、その翌年の元慶四年(880年)12月4日31歳という若さでこの世を去ったのです。

ところで、この清和天皇の御陵・・・どこにあるかご存知でしょうか?

たとえば、桓武平氏の祖となる、同じ平安期の第50代・桓武天皇陵は、京都の伏見・・・京阪電車の丹波橋駅近くにあります。

同じ伏見には、第122代の明治天皇桃山御陵もあり、いずれも、歩くに苦にならない距離の最寄り駅から、玉砂利の敷き詰められた参道が続き、容易にお参りができるようになってます。

エラそうに「どこにあるか知ってますか?」というワリには、実は、私も現地には行った事ないんですが、清和天皇の御陵は、亀岡から嵐山へと流れる保津川沿いから北へ3~4km山に入った水尾という集落の近くの水尾山にあります(普通の地図にも載ってるので確認してみてください)

以前、ご紹介したJR保津峡駅(12月3日参照>>)・・・この無人駅が唯一の最寄り駅で、さらにここから北の山奥に3~4kmという事です。

もちろん、集落には住民の方もおられるのですから、最寄り駅から不便・・・という言い方は失礼かも知れませんが、車の免許を持たない私としては、やはり、なかなか行けない場所であります。

子孫の皆さんの豪華メンバーを考えると、当然、「なぜ?ここに?」という疑問を抱きますが、実は清和天皇ご自身が希望された場所なのです。

陽成天皇に皇位を譲った清和天皇が出家した・・・と上記させていただきましたが、これが、かなりのマジ出家で、何日間も断食する荒行や、山野を行く修行にあけくれたのだそうで、そんな中、当時は、俗世間とはかけ離れたような陸の孤島とも言えるこの水尾にて、里の人の暖かさや、心の美しさに触れ、「この地で最期を迎えたい」とおっしゃったのだとか・・・。

容姿端麗で聡明だったという清和天皇・・・若い頃は多くの女性と浮名を流したようですが、それも、聡明であるがゆえのジレンマ?

退位後に荒行に挑んだのも、藤原氏の勢力に圧されて、思う存分に政治的手腕を発揮できなかったジレンマだったのかも知れません。

藤原氏全盛の時代への道を切り開いた天皇は、ひょっとしたら、別の未来を夢見ていたのかも・・・

やがて、清和天皇が亡くなってから7年後の仁和三年(887年)、かの基経は、史上初の関白の座につく事になりますが、そんな貴族全盛を抑えて、武士として政界のトップに立つ事になるのは、誰あろう清和天皇の子孫たちなのですね。
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コメント

清和天皇は確か即位した時点では「最年少の天皇」ではないでしょうか?
「摂政」の役職は現在でも制度上は残っております。置かれる条件は、女性が天皇である時か天皇が未成年である時で、皇族が公務を代行できるとなっています。
おりしも、後年に藤原道長が太政大臣に就任した日でもありますね。

投稿: えびすこ | 2009年12月 4日 (金) 18時13分

えびすこさん、こんばんは~

>おりしも、後年に藤原道長が太政大臣に就任した日でもありますね

そうですね。
そして藤原道長が亡くなった日でもあります。

投稿: 茶々 | 2009年12月 4日 (金) 18時35分

水尾山、地図を見てみましたが、本当に都から隔たった僻地 という感じがしました。
でも、中心を離れたところであったが為に、時代が下っても壊されたり動かされたりすることもなく、残り続ける という恩恵(?)を蒙ることになったのかもしれませんよね、
それに、関東では、日光なんて、東京からは遠い 栃木の山の中、です。
そこに行く為の日光街道があり、JRも私鉄もあり、又、大きなホテルもありますけれども ー ー ー。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年12月 6日 (日) 12時33分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

何か、不便なところだからこそ、よりいっそう清和天皇の心情が垣間見える気がしてなりません。

投稿: 茶々 | 2009年12月 7日 (月) 01時05分

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