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2010年1月31日 (日)

大河ドラマ・龍馬伝では幼馴染の弥太郎ですが

 

今年の大河ドラマ『龍馬伝』も第4回が過ぎ、視聴率もなかなか好評のようです。

一部ニュースでは、
香川照之さん演じる岩崎弥太郎が「汚すぎる」と、三菱からブーイングなんて話もありましたが、自分の会社の創始者ともなれば、ちょっとでもかっこよく描いて欲しいと思うのは、致し方ないところであります。

ただ、アレはどちらかというと香川さんの演技力のなせるワザ・・・という感じもします。

福山ファンには申し訳ないですが、私の中では完全に福山龍馬より目立ってますし、弥太郎=主人公でもイイと思うくらいのナイスなキャラです。

そして、ドラマはあくまでフィクションですので、ストーリーをおもしろくするための創作も必要ですし、そもそも、先日の【坂本龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました】>>でも書かせていただいたように、坂本龍馬の史料自体が少ないので、現在の龍馬のイメージのほとんどが小説で造られた物・・・そのために、司馬遼太郎さんは、自身の小説の主人公を、坂本龍馬とせずに坂本竜馬という、あえて生前の本人が書いた事のない表記にして、小説の中の龍馬は、あくまで、ご自身の描く龍馬のイメージであるという事を、さりげなく伝えていらっしゃるのでしょう。

ただ、いつも言わせていただいているように、ドラマの良し悪しとは別に、「今のところ史実では、こうなんだよ」新しい発見があると歴史は変わりますので、あくまで、今のところですが・・・)という事は知っておいたほうが良いと思いますので、今回もツッコミを入れさせていただきます。

ただし、昨年の天地人では、早くも2~3回めあたりで、ツッコミ度満載でしたが、さすがに『龍馬伝』は、そこまでは・・・

・・・とは言え、やはり強調しておかねばならないのは、龍馬と弥太郎の出会い・・・

ドラマでは、幼馴染のように描かれ、先々週の第3回では、ともに江戸へ行こうとしたりしていましたが、記録として残っている龍馬と弥太郎の出会いは、後藤象二郎に見出された弥太郎が、土佐藩の商務組織・土佐商会長崎留守居役に抜擢された(10月9日参照>>)慶応三年(1867年)の3月頃・・・弥太郎が長崎に行ってからです。

龍馬が近江屋で暗殺されるのが、同じ慶応三年の11月15日ですから(暗殺の経緯は本家HP:京阪奈ぶらり歴史散歩【坂本龍馬・暗殺犯を推理する】へどうぞ>>別窓で開きます)、実際には、わずか8ヶ月ほどのお付き合いという事になります。

その年の5月に、正式に土佐商会の主任になった弥太郎は、あの海援隊の隊士の給料や運営費を手渡す役目だったので、そこで急激に親しくなったようです。

最初のうちは意気投合して、当時の人物論などを語りながら飲み明かし、「アイツ、いい奴なんだよなぁ~(゚ー゚)」なんて事が、弥太郎の日記にも書かれていますが、その関係も、徐々に、ギクシャクしてきます。

・・・というのも、とにかく海援隊は、次から次へと問題を起こし、弥太郎は常にその尻拭をさせられる・・

中でも、一番の問題は金銭面・・・そもそも、象二郎が弥太郎を大抜擢したのも、その秀才ぶりとともに、経営者としての資質を見抜いたからで、その根底には商業を以って国を発展させたいという意欲があったわけですが、その気持ちとはうらはらに、海援隊からは、度々、資金の請求が来るのです。

弥太郎としては、その度に言うがままにお金を渡していては、経営が成りたたないわけで、「もう、これ以上は・・・」と断る・・・

すると海援隊は、「天下に尽力する者に対して、金を惜しむなど、何たる事か!」と怒鳴り込む・・・

それだけではなく、他者とのモメ事も起します。

4月23日には、あのいろは丸衝突事件(11月15日参照>>)・・・この時の事故処理の交渉にあたったのも象二郎と弥太郎でした。

さらに、大変だったのは、7月6日に起こったイギリス軍艦・イカロス号事件・・・

これは、長崎の花街で、酔っ払って路上で熟睡していたイカロス号の水兵を、何者かが襲撃して殺害した事件なのですが、目撃者などの証言から海援隊隊士に疑いがかかります。

イギリス公使・パークスの訴えを聞いた長崎奉行所に、土佐藩の代表者として呼び出された弥太郎は、もちろん、「彼らの中に疑わしい者はいない」と無実を主張しますが、奉行所からは、「とりあえず、捜査するので、現在停泊中の海援隊の帆船・横笛を出航させないように」との連絡を受けます。

弥太郎は、隊士たちに説明し、横笛の所有者であった薩摩藩の了解も得て・・・と、事件解決に向けて奔走するのですが、なんと、その日の夜に、横笛は無断で出航してしまうのです。

「無実であるなら、それこそ奉行所の支持に従って、おとなしくしているべき」と思っていた弥太郎の面目まるつぶれです。

もちろん、激怒する奉行所は、早速、弥太郎を呼び出し、命令違反に対する謝罪を要求・・・しかたなく、弥太郎は奉行所に頭を下げる事になったわけですが、この話を聞いた龍馬は、奉行所との交渉を戦争に例え、「士気のない弥太郎めが!敗走しやがって・・・」とボロカスの手紙を書いています。

当然、龍馬に続いて、海援隊隊士からもに非難ゴウゴウ・・・結局、そんな弥太郎に土佐藩から召還命令が出たりなんかして・・・

・・・と、各自の心の内はともかく、これらの記録や手紙を見る限りでは、自由奔放すぎる龍馬に、律儀な弥太郎さんが振り回されっぱなし・・・てな雰囲気ですが、ドラマのキャラクターとしては、逆に弥太郎さんのほうが個性的な感じで、今のところ、龍馬に迷惑をかけっぱなしの設定となってますから、はてさて、この先どのような展開になりますやら・・・楽しみです。

ところで、もう一つ・・・

第4回の最後に登場した、黒船を見て、慌てふためく一般市民・・・これは、以前にもブログに書かせていただきましたが、それまでにも外国船は何度も来てるので、多分あんなには驚いてませんが、まぁ、それも、ドラマならアリかも知れません。
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2010年1月29日 (金)

神器なし指名なし~前代未聞の後光厳天皇の即位

応安七年(文中三年・1374年)1月29日、南北朝時代北朝・第4代の天皇である後光厳天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・・

天皇が二人いて、元号が二つあって・・・と、とにかく、ややこしい南北朝時代

そんな、ややこしい南北朝時代に、特にややこしい前代未聞の即位をした天皇が、北朝・第4代:後光厳(ごこうごん)天皇です。

その前代未聞さをわかっていただくため、少し前の時代から順を追って、駆け足で紹介させていただきます(以前upした皇室系図ですが・・・参考まで

 
Nanbokutyoukeizu2cc まずは鎌倉時代にあった兄弟間の皇位継承のため、大覚寺派持明院派の2流に分かれた天皇家・・・幕府が間に入った話し合いの末、この先、モメないように、交代々々で皇位を継ぐ事になっのですが、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が、倒幕を決意して笠置山に籠り(8月27日参照>>)楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに挙兵します。

しかし後醍醐天皇が、この元弘の変(9月28日参照>>)に失敗して捕えられた事で、一旦、光厳(こうごん)天皇へと皇位が譲られますが、その後、配流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏新田義貞の寝返りを得て、鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、光厳天皇を廃して、自らが政権を握り、ご存知の建武の新政を行います(6月6日参照>>)

ところが、武士の力を得てこそ行えた政変にも関わらず、後醍醐天皇の行った新政が、あまりにも天皇中心であったため、尊氏が反発・・・湊川で正成を破り(5月25日参照>>)、入京します。

 
京都を制圧した尊氏は先の光厳天皇を復権した後、その弟の光明(こうみょう)天皇が北朝第2代天皇となり、光厳天皇は上皇となって院政をとります。

ここで、尊氏が室町幕府を開いた事で、比叡山の延暦寺に逃げていた後醍醐天皇は「もはや、これまで」と和睦を申し入れて、とりあえず仲直り・・・この時、後醍醐天皇は三種の神器を持って京に入り、これを光明天皇に渡します。

しかし、ほとぼり冷めた後醍醐天皇が、またまた京都を脱出し、「渡した三種の神器はニセ物だよ~ん」と、吉野の山にて朝廷を開いたため(12月21日参照>>)、ここから後醍醐天皇の南朝と、光明天皇+尊氏の北朝とに分かれます。

そして、北朝では光明天皇から光厳上皇の皇子へと皇位が譲られ、北朝第3代・崇光(すこう)天皇となります。

この間に、南朝は、後醍醐天皇が崩御して、その皇子の第97代・後村上天皇へと皇位が継承されますが、崇光天皇の即位から1年目にして、尊氏と、その弟・直義の間で凄まじい兄弟ゲンカが勃発・・・観応の擾乱(かんおうのじょうらん)10月26日参照>>)と呼ばれるこのゴタゴタで、尊氏は息子・義詮(よしあきら)とともに京都を脱出して、なんと南朝へと鞍替えします。

そして、南朝という立場で関東へと出陣し、弟・直義を倒した尊氏・・・一方、その父から、留守となった京都の守りを任されてした義詮は、後村上天皇に「俺らも南朝になったんやから和睦しようよ」と呼びかけます。

これは、あくまで、尊氏の留守の間だけの時間稼ぎの提案だったわけですが、その気になった後村上天皇は、崇光天皇を廃位して、ただ1人の天皇となり、北朝の持っていたニセ物かも知れない三種の神器も手に入れ、とりあえず一旦、南北朝は一つになります。

ところが、かりそめの平和はすぐに崩れてしまいます。

まもなく、ただ一人の天皇として京都に向かう後村上天皇の警固という名目で、完全武装して京都に進攻した南朝勢力は、京都に制圧こそ、義詮にはばまれて結局はできなかったものの、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまったのです(3月24日参照>>)

慌てたのは、父・尊氏から、すでに将軍職を譲られて第2代将軍となっていた義詮・・・。

そうです・・・これで、北朝には天皇がいない事になってしまったわけです。

さらに、困った事には、上記のように、代々の上皇も連れ去られてしまっています。

実は、天皇というのは、先代の天皇が次代の天皇を指名するというのが慣わし・・・天皇が争乱に巻き込まれて都落ちしたりした特別の場合であっても、上皇・・・つまり、天皇経験者が指名する事になっていて、これが崩された事は、ほとんどありません。

平家とともに都落ちし、三種の神器を持ったまま壇ノ浦で散ったあの安徳天皇の時も、後白河法皇が孫の後鳥羽天皇を指名しています。

この時でさえ、三種の神器が揃わなかった事で、「異例の即位」と言われたほどですが、今回は三種の神器も無ければ、指名する上皇・法皇もいないわけです。

もちろん、これは、朝廷を立てて幕府を開いているという北朝の大義名分を奪ってしまおうという南朝の作戦でした。

さぁ、どうする?義詮・・・武家政権と言えど、天皇なしでは、室町幕府の正統性は保てません。

そこで、義詮は、やむなく、崇光上皇の弟で、すでに仏門に入る準備をしていた弥仁(いやひと・みつひと)を呼び寄せ、さらに、今は亡き後伏見上皇の妃であった広義門院(こうぎもんいん)に指名をお願い・・・弥仁王の即位には賛成するも、自らが上皇の代理を務める事を拒む広義門院でしたが、そこを押し切る義詮。

もちろん、女院の命による即位も前例がないもの・・・この強引な即位には、北朝・公卿の間からも反対が起こりますが、義詮は、後継ぎがいなくなった時、群臣たちによって越前(福井県)から迎えられた天皇=継体(けいたい)天皇を持ち出して、「これが先例だ!」として、正平七年・文和元年(1352年)8月27日、即位を強行したのです。

継体天皇とは第26代の天皇・・・あの伝説まるだしの武烈天皇の次の天皇ですよ( ̄○ ̄;)!(2月7日参照>>)

どんだけ古い前例なんだ?って感じですが、この前代未聞の即位をしたのが、後光厳天皇なのです。

しかも、即位しても、まだまだ、安定は得られませんでした。

康安元年(正平十六年・1361年)に、楠木正儀(まさのり)細川清氏(きようじ)ら南朝軍が大挙して京都に進攻した時には、義詮とともに近江へ逃げたり・・・

この時は、わずか4歳だったあの足利義満(12月30日参照>>)は、京都の建仁寺にかくまわれたりしましたが、その義満が第3代将軍を継ぐ頃には、南朝の勢力も衰えはじめ、やっと室町幕府も安定します。

学問を好み、和歌や琵琶も得意だったという後光厳天皇も、その頃には、やっとこさ、心落ち着けて、自ら絵筆をとって草木や鳥獣を描き、それに歌を添えて楽しんだという事です。

・・・とは言え、応安四年(建徳二年・1371年)には、息子の後円融(ごえんゆう)天皇(4月26日参照>>)に皇位を譲り、院政をしきましたが、その即位には、すでに京都に戻っていた崇光上皇に皇子との後継者争いなども微妙にあり、はたして本当に心が休まったかどうか・・・

そして、その皇位継承から3年後の応安七年(文中三年・1374年)1月29日天然痘にかかり、37歳という若さでこの世を去りました。

『新千載(しんせんざい)和歌集』には、

♪なおざりに 思ふ故かと 立ち帰り
  治まらぬ世を 心にぞ問う ♪

と、自らの政治姿勢を反省するような後光厳天皇の歌が収められていますが、

「いえいえ、あなたのせいだけではありませんよ!自分を責めないで!」
と言ってさしあげたいくらい、周囲の動乱に巻き込まれた後光厳天皇の生涯でした。
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2010年1月28日 (木)

古事記編さんに関わった稗田阿礼ってどんな人?

 

和銅五年(712年)1月28日、太安万侶が古事記を編さんし、元明天皇に献上しました。

・・・・・・・・・・・

すでに2007年の今日・1月28日に、『古事記(こじき)の事、そして、それを編さんして献上した太安万侶(おおのやすまろ)についても、少し書かせていただいたのですが(2007年のページを見る>>)、そこにも書かせていただいたように、この太安万侶自体が謎の人物・・・

昭和五十四年(1979年)という、長い歴史から見れば、つい最近に、お墓が発見された事によって実在の人物であった事と亡くなった日づけが確認されたくらいです。

このブログでは、そのご命日とされる日に、SF的妄想満載【古事記をSFとして読めば・・・】>>というページも書かせていただいておりますが、本日は、『古事記』の編さんに関わった、もう一人の重要人物稗田阿礼(ひえだのあれ)についてのお話を・・・

・‥…━━━☆

「時有舎人
 姓稗田 名阿礼 年是二十八
 為人聡明
 度目誦口
 払耳勒心
 即 勅語阿礼
 令誦習帝皇日継及
 先代旧辞」

これは、古事記の序文に書かれている稗田阿礼に関する部分ですが・・・

「その時、1人の舎人(とねり)がいた
 姓は稗田 名は阿礼 歳は28歳
 大変頭が良く、
 目に見た物は即座に言葉にでき、
 一度聞いた事は忘れない
 すぐさま
(天武)天皇は阿礼に命令を下した
 『帝皇日継
(ていおうひつぎ・帝記』と
 『先代旧辞
(せんだいのくじ・旧辞)』を読んで覚えよ」

・・・と、上記の内容はこんな感じ・・・稗田阿礼については、たった、これだけしかありません。

そして、この稗田阿礼が発した言葉を、太安万侶が書き留めたのが『古事記』というわけですが、宮廷に仕えていた官人であるはずの太安万侶でさえ謎なのですから、たったこれだけしか登場しない稗田阿礼にいたっては、まさに、謎だらけ・・・男か女かさえわかっていません。

最近では、記紀があまりにも藤原一族・有利に書かれている事から、「稗田阿礼=藤原不比等」説なる新説も登場しているようですが、その説は特別として、昔からの研究で導き出された結果では、「おそらく女性であろう」というのが一般的です。

では、これだけの文章で、いかにして女性と解釈するのか?

短い文章ではありますが、この文章を読んだだけで、一つ不可解な事がありますよね。

そう、『帝皇日継』『先代旧辞』稗田阿礼に読ませて覚えさせ、それを太安万侶が書き留めたという部分です。

なんで、わざわざ覚えさせて、それを口伝えで話し、書き留めるのか?

『帝皇日継』と『先代旧辞』が、そこにあるなら、はなから太安万侶がそれを写せば良いのです。

万が一、それが、わけのわからない古代文字かなんかで、稗田阿礼だけが読めて、太安万侶が読めなかったのだとしても、稗田阿礼が読んでるしりから、そのそばで書き留めたらよいものを・・・わざわざ覚えて・・・

これは、つまりは、『帝皇日継』と『先代旧辞』という書物が、すでに、そこには無かったのではないか?と考えるのが自然です。

話の内容を、より正当化したいために、あたかも、そこに、正統な歴史書である『帝皇日継』と『先代旧辞』なる書物が存在して、それを丸々書きとめたように見せかけただけで、実は、稗田阿礼なる人物が、もともと知っている口伝えの伝承を書きとめたという事ではないでしょうか?

ここで、注目すべきは、稗田阿礼という名前・・・現在の奈良県大和郡山市には稗田町という町がありますが、ここは、代々、稗田氏という一族の居住地であったので、その名前がついているわけです。

・・・で、この稗田という姓が、メチャメチャ珍しい姓だった事で、この稗田阿礼という人物も、ここの出身であろうと推測されるわけですが、では、その稗田氏とは何者か?

ここに『西宮記(さいきゅうき)という書物があります。

これは、醍醐天皇の皇子である源高明が、平安時代に記したとされる宮中の儀式の解説書のような物・・・様々な儀式のやり方や記録が書かれているのですが、その中に・・・

「猿女は縫殿寮の解に依りて内侍奏して之を補す」
・・・と猿女(さるめ)という役職?の欠員補充縫殿寮(ぬいどのりょう・宮廷の人事部)が決めていた事が書かれていますが、その裏書には、延喜二十年(920年)10月14日の出来事として、先日亡くなった稗田福貞子の替わりに、稗田海子なる人物を補充したと書かれています。

また、天暦九年(955年)1月25日にところには、猿女に3名の欠員が出たため、右大臣の命令によって、やはり縫殿寮が、「誰かいませんか?」大和(奈良県)の住人に打診している事も記されています。

つまり、この大和の稗田氏は、代々、この猿女なる役職で宮廷に仕えていた一族である事がわかります。

では、この猿女???

記紀神話にくわしい方は、もう、おわかりでしょう。

あの天照大神(アマテラスオオミカミ)天岩戸(あまのいわと)隠れのシーンで、半裸になって踊り狂って大騒ぎをし、天照大神にちょっとだけ岩戸を開けさせた女神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)・・・

彼女は、記紀神話にチョコチョコ出てきますが、大きく活躍するのは、この天岩戸隠れのシーンと、天邇岐志国邇岐志天津日高子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)天孫降臨(てんそんこうりん)のシーン。

かのニニギノミコトが、おばぁちゃん=アマテラスオオミカミの「地上を治めてきんしゃい」との命令を受けて、天上の高天原(たかまがはら)から、地上へと降臨するわけですが、この時、途中の雲の中に怪しい神の姿が・・・

結局は、この神は猿田毘古神(サルタビコノカミ)という国神(くにつかみ・地の神)で、下界への道案内をしようと待っていたのですが、なにぶんニニギノミコトらは初対面・・・なので、「ちょっと、どんなんか見てきます」と言って、最初に、このサルタビコに声をかけたのが、ニニギノミコトのお供をしていたアメノウズメノミコト・・・

それが縁で、アメノウズメさんはサルタビコさんに生涯仕える・・・つまり、どうやら二人は結婚したらしいんですね。

・・・で、この時から、アメノウズメさんは、ダンナの名を継ぐ猿女君(さるめのきみ)と呼ばれ、以来、その一族の女性が猿女君と名乗って宮中に仕える=女系の世襲となったと記紀にはあります。

・・・で、先ほどの猿女が稗田一族の女子に受け継がれていく事を踏まえれば、稗田阿礼も、この猿女として宮廷に仕える女性なのではないか?という事になるわけです。

『古事記』は、『日本書紀』と違って、近い時代の出来事は、心なしかあっさりと書かれ、神話の時代の事が、活き活きと描かれている事が多いように思いますし、その神話の時代の事は、要所々々に歌などを配置して、叙事詩的な雰囲気がする・・・

そこで、更なる妄想的推測を承知で、アメノウズメが、あの天岩戸の一件から、芸能の神である事を踏まえるならば、ひょっとして、彼女たち=猿女も唄って踊る事を務めとしていたのではないかと・・・

つまり、自分たちの一族の成り立ち=ご先祖様の伝説を壮大な叙事詩にのせて唄い踊りながら代々伝えていく一族だったと・・・

これならば、話の時代が活き活きと描かれている事も、天岩戸と天孫降臨という重要なシーンでアメノウズメが活躍する事も、そして、何より、稗田阿礼が、その物語を知っていた事も、すべてうなずけます。

さらに・・・奈良時代を頂点に衰退気味となり、徐々にその名前が歴史から消えていく猿女ですが、その末裔と思われる人が・・・

それが、以前、このブログでも書かせていただいた謎の人・猿丸太夫(さるまるだゆう)(4月18日参照>>)・・・「なんや、猿がいっしょなだけやん!」と言わないでね(゚ー゚;

そのページでも書かせていただいたように、猿丸太夫は個人ではなく、吟遊詩人のように、歌を唄い各地を巡りながら神事を行っていた複数の人たちの総称かも知れないのです。

能・狂言や歌舞伎の元祖となった猿楽に猿がつくのも、あながち無関係とは言えないかも知れません。

もちろん、稗田阿礼は1人ではなく、複数いたのかも・・・

・・・と、妄想はふくらみますが、これはあくまでも推測ですので、ご注意を・・・
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2010年1月27日 (水)

明治に始まった日本人移民の苦悩

 

明治十八年(1885年)1月27日、第1回の官約ハワイ移民927名の皆さんが日本を出発したという事で、本日は、アメリカへと移民された皆さんの苦悩について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

人口が多いのに職が少ない・・・当時のお国の事情もあって、明治時代の初期から、多くの日本人が、海外に出稼ぎに行きました。

その中でもハワイはダントツで、現在でもハワイ州での日系人の比率はハンパなく多いです。

明治の末までに約30万人近い日本人が大規模農地の労働者として移住したと伝えられるハワイ移民ですが、ハワイがアメリカ合衆国に併合された事にともなって、その中からアメリカ本土へと移住する人が徐々に増えはじめます。

その頃になると、日本から直接アメリカ本土へと移住する人も少なくなかったわけですが、実際には、当時のアメリカは契約労働者の移住を禁止していました。

しかし、自由渡航だと言って入国し、そのまま定住してしまう人が後を絶たない状況・・・しかも、この頃の彼らは、定住と言っても、骨を埋めようという気は毛頭なく、完全に出稼ぎ気分でしたから、「郷に入れば郷に従え」の気持ちもまったくなく、アメリカ社会に溶け込もうともしませんでしたから、徐々に現地の人たちに煙たがられるようになっていくのです。

ただし、彼らは、安い賃金で真面目に働く・・・いや、むしろ、これがまたアメリカ人自身の雇用不安をあおりました。

なんだか、バブル景気の頃に日本にやって来たアジア系の人々にそっくりですね~。

さらに、この頃の日本人の移住が、サンフランシスコに集中していた事から、やがて、サンフランシスコの市民大会日本人移民の制限が話し合われるようになりますが、ここで、一つの事件が勃発します。

その発端となったのは、明治三十九年(1906年)4月18日に起こったサンフランシスコ大地震という天災なのですが、その時に、多くの建物とともに、市内の学校も焼失してしまった事から、市教育局から、「日本人の生徒は、中国人街の東洋人学校へ転校せよ」との命令が出たのです。

しかし、当時のサンフランシスコ市内の日本人学童は、全部合わせても100人程度・・・全体から見れば微々たる人数で、これが、日本人を一般の学校から締め出そうと考えた、先の市民運動を受けての処置である事は明白です。

早速、時の上野李三郎領事が猛抗議・・・これを受けて、この問題は中央で話し合われる事となり、時の大統領・ルーズベルトとの間で、「先のサンフランシスコ市の処置を撤回する変わりに、日本側も労働目的の渡航を厳しく制限するように」という約束がなされました。

やっと、一安心・・・と思いきや、これで、直接の渡航はなくなったものの、約束の網の目をくぐって、一旦ハワイを経由してやってきたり、すでに定住している人が家族を呼んだり・・・しかも、この頃の日本は「産めよ増やせよ」の時代ですから、現地での出産の数もハンパなく、結局、移民の増加に歯止めがかかる事はなかったのです。

そのため、日本人を排斥しようという運動が下火になる事はなく、やがて大正二年(1913年)には、カリフォルニア州で、「定住日本人に対する土地所有禁止」の法案が制定されてしまいます。

そこで、大正八年(1919年)には、パリ平和会議において、国際連盟の規約の中に「人種差別撤廃」の項目を入れるよう日本側から要求が出されますが、これが受け入れられなかったばかりか、日本人排斥の運動は、さらにアメリカ全土へと広がっていきます。

そして、とうとう大正十三年(1924年)、アメリカ政府は『排日移民法』を制定して、日本人の移民を完全に禁止したのです。

・・・と書けば、なにやら、アメリカ側からのひどく一方的な処置のように聞こえますが、実は、この法案が提出された時には、アメリカの中でも「それは厳しすぎる」として、先のルーズベルト大統領のところで約束された紳士的な協定を重要視する議員もたくさんいたのです。

ところが、当時の駐米大使・埴原正直が、
「こんな法案が成立したら、日米の関係がややこしい事になるでぇ~」
的な、ちょっと挑発する言い方で対抗してしまったために、それを受ける形で一気に成立してしまったのです。

個人を攻撃するつもりはありませんが、まさに、「郷に入れば郷に従え」・・・習慣の違い、意志疎通の不備による言葉の行き違いの結果でした。

さらに、その後の日本が日中戦争を起していく中で、アメリカ本土にいた日本人移民は、更なる肩身の狭い思いを味わう事になるのです。

やがて勃発した太平洋戦争の戦時下で、アメリカ本土に住む11万人の日系人が強制収容所に入れられたという話は有名ですが、そんな日本人への差別を一掃させたのは、ほかならぬ、移民の子供たち・・・そう、日系2世たちです。

彼らが、進んで志願兵となって最前線で戦い、並々ならぬ軍功を挙げ、アメリカへの忠誠心を見せつけてくれたおかげで、戦後のアメリカでは、日系人に対する偏見が見事に掻き消され、現在のようになったわけです。

見知らぬ土地に行って、未開なる農地を開拓する・・・ただ、それだけでも、大変な苦労が想像できますが、そこに両国の政治的な要素がのしかかる・・・

名もなき人々の苦悩の上に、今の日米関係がある事を、日本にいる私たちも、決して忘れてはならないと思います。
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2010年1月26日 (火)

朝鮮出兵~秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?

 

文禄二年(1593年)1月26日、文禄の役・・・いわゆる豊臣秀吉朝鮮出兵の前半戦で、碧蹄館(ビョクジェグァン)の戦いがありました。

・・・とは言え、この戦いの経緯については、まだまだ書き足りないものの、一応、昨年の1月26日に書かせていただきましたので、ソチラ=2009年1月26日のページ>>でご覧いただくとして、本日は、この文禄の役も含め、朝鮮出兵にて渡海しなかった大物=徳川家康について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・

もともと、この秀吉の朝鮮出兵の理由自体が、様々に語られ、未だ明確な答えのない謎とされる物です。

  • 一介の百姓から天下人へとのし上がってもなお、おさまる事のなかった名誉欲
  • さすがの秀吉も寄る年なみには勝てず、その判断が狂った
  • 長男・鶴松の死によって冷静さを失った
  • 弟・秀長(1月22日参照>>)、続いて千利休(2月28日参照>>)というストッパーが亡くなった事で、誰も秀吉を止める事ができなかった
  • 大航海時代を迎えた世界情勢で先手を打たないと、日本や明(中国)も植民地になる可能性があった?(10月12日参照>>)

さらに、2007年3月26日のページでは、「もはや、分配が不可能となった領地の問題」ではないか?という事も書かせていただきました(3月26日参照>>)

もちろん、これらの複数の理由が微妙にからみ合った結果という事もありますし、あるいは、まったく別の理由なのかも知れませんが、とにかく、ここで、秀吉の朝鮮出兵は決行されました。

そして、それが、結果的に負け戦になった事で、現地で先頭に立って戦った武勇に長けた武闘派の武将加藤清正など)と、その戦いぶりを判断する監督の役回りをしていた文治派の武将石田三成など)との間に大きな亀裂を生む事になり、後の豊臣家分裂の火種となった事も確かです(3月4日参照>>)

そんな中で、関東からはるばる九州の名護屋まで、大量の兵とともにやって来ていたにも関わらず、実際に渡海しなかった徳川家康は、自らの兵を温存する事ができ、その後の豊臣家内の対立を利用して、その地位を高める事に成功したうえ、結果的に、その豊臣家をも滅ぼす事ができたわけです。

ここで、家康も渡海して、多大な被害を被っていたなら、そう、うまくはいかなかった可能性大なのですが・・・

ただ、この朝鮮出兵の時は、秀吉の要請によって、実際に家康も九州へ行っているわけですから、そこで、渡海の命令が出ていたなら、当然、家康は、朝鮮半島に渡らねばならず、これは、ひとえに、秀吉の命令が出なかった・・・つまり、秀吉が、家康を渡海させなかったわけで、家康が、そうしたわけではなく、むしろ、命令が出ない以上、もし半島に行きたかったとしても、勝手には行くわけにはいかないのです。

・・・で、秀吉は、なぜ、家康を渡海させなかったのか?
これを、ラッキーと見る場合もあるようですが、もちろん、それは、結果論です。

上記の通り、結果的に朝鮮出兵が無益な負け戦となったために、多くの傷ついた武将たちの中で、無傷だった家康が、力を温存できたのです。

・・・で、ここで注意しなければならないのは、秀吉の朝鮮出兵に関する記録のほとんどが、やはり、結果論であるという事です。

秀吉は、朝鮮出兵の際に、「大陸を征服したあかつきには、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇に、(みん・中国)の皇帝になってもらい、甥で後継者の秀次を、明の関白にしてやる」と言っていたとされていますが、この言い分が、朝鮮軍&明軍の兵力を軽視した荒唐無稽な話で、多くの武将たちも、心の中では出兵には反対していた・・・なんていうのも、要は、後に書かれた記録なわけです。

もともと都合の悪い事が書かれている文献を抹消するのも、戦国のお抱え作家の常とう手段ですから・・・。

最初にあげた、朝鮮出兵の様々な理由についてもそうです。

子供を失っておかしくなったとか、歳をとって歯止めがきかなくなったとか・・・なにか、周囲が猛反対しているにも関わらず、秀吉がとち狂ったように出兵したような言い回しも、まずは敗戦ありきで書かれている可能性大なのです。

現在でも、ある話です。

何かのプロジェクトに失敗すると、「最初っから、ダメだと思ってたんだよね~」なんて言う人が、あっちからも、こっちからも登場する・・・なんて事が・・・。

しかし、終ってみれば、無謀でしか無かったと反省するような事でも、実際にプロジェクトを推進しているその時は、真剣に考えたうえ、「できるかもしれない」と思いながら挑んでいる事が多々あるはずです。

考えてもみて下さい。

当時の日本という国は、それぞれの大名が別々に治める別の国・・・秀吉は、信長から受け継いだ領地とともに、一つ一つ傘下に治めていったのです。

四国へも渡海して、九州へも渡海して・・・確かに、大陸へのその距離は、四国や九州と比べ物にはなりませんが、当時は、四国にも九州にも橋は架かっていません。

「いやいや、さすがに言葉が違う外国なんだから…」と、お思いかも知れませんが、国語の授業で共通語を習う現在でも、流暢な方言で話されるお年寄りを見ると、「外国語に聞こえる」事も多々あり・・・て事は、当時は、言葉も今ほど通じなかったわけで、ひょっとしたら、秀吉にとっての大陸は、四国や九州の延長上にあり、多くの武将たちも、皆、秀吉と同じように考えていた可能性はないでしょうか?

そう考えると、秀吉が家康を渡海させなかった理由が、見事に浮かび上がってきます。

もし、朝鮮出兵が成功していたら・・・

長期の渡海組で、その中心となったのは、豊臣秀勝(秀吉の甥で養子)小早川秀秋(こばやかわひであき・秀吉の妻・おねの甥で養子)宇喜多秀家(うきたひでいえ・秀吉が後見人を務めた猶子・養子並)・・・と、いずれも、秀吉に最も近い、いわば身内・・・

さらに、加藤清正福島正則小西行長といった秀吉子飼いの西国の大名・・・

そうです。

成功したあかつきには、彼らにド~ンと恩賞が下り、身内の大名たちの領地が軒並み多くなるのです。

東国の武将の中でも、上杉景勝伊達政宗が渡海しているのは、やはり、秀吉から見て、今後も、味方になってくれるであろうと睨んだからにほかならないでしょう。

だから、家康には渡海の命令を出さなかった・・・もし、大陸で武功を挙げて、これ以上に、アブナイ家康の領地を増やす事なんて、させたくなかったって事なのかも・・・

家康と、もう一人、大物でありながら、秀吉が渡海させなかった人物が、あの前田利家・・・ご存知のように、彼もまた、膨大な領地を、すでに持っています。

文禄元年(1592年)3月に、朝鮮出兵のため、全国から京都に集まって来た諸大名のうちの先発隊が、九州に向けて出陣する際、その豪華絢爛な出陣行列の先頭を行ったのは前田利家隊、2番目が徳川家康隊、3番目が伊達政宗隊でした(3月17日参照>>)

そう、家康と利家・・・この二人は秀吉にとって、「こんな大物も、俺の配下なんだゾ」と皆に自慢したい人物だった半面、これ以上大きくなってほしくなかった人物だったという事なのです。

・・・で、結果的にラッキーとも見える家康の居残りは、ラッキーでも不思議でもなく、秀吉の計画のもとに行われた、必然的な出来事という事になります。

もちろん、これもあとづけの結果論かも知れませんが・・・
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2010年1月25日 (月)

夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行

 

明治二十四年(1891年)1月25日、肥前(佐賀県)唐津藩主(世嗣とも)で、末期の江戸幕府・老中として活躍した小笠原長行が70歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

人間、誰しも、その人生の中に、千載一遇のチャンスという物があります。

天下に手が届いた戦国の三英傑織田信長豊臣秀吉徳川家康などは、そのチャンスが人生の中で何度も訪れ、それを的確に自分の物にした感がありますが、普通は、そうそう、そんなチャンスが訪れる物ではなく、また、訪れても、的確につかむ事のできない物であります。

今回ご紹介する小笠原長行(おがさわらながみち)さん・・・彼も、なんとなく、その一世一代のチャンスをつかみきれなかった1人ように思います。

・‥…━━━☆

文政五年(1822年)に唐津藩主・小笠原長昌(ながまさ)の長男=嫡子として生まれた長行でしたが、父が亡くなった時には、わずか2歳だったために、家臣たちの策略によって「病気で後を継げない」と幕府に報告されてしまいます。

・・・というのも、唐津藩は、長崎という重要地点をその領地としています。

2歳の幼子を藩主として立てれば、「とても治めきれないだろう」と、幕府から別の場所への転封を命令されるかも知れません。

しかし、誰もが察しがつくように、江戸時代を通じての長崎はとても儲かる場所・・・手放したくないのは誰しも同じです。

そこで、他家から養子をもらって後継ぎとし、2歳の長行の順番を後回しにしたわけです。

結果的に、長行は4人の養子の後に唐津藩を継ぐという長い回り道をする事になるのですが、逆に、その頭脳明晰さが、早くから幕府の目に止まる事となります。

嘉永六年(1853年)のペリー来航以来、混迷を極める幕府が、譜代大名に新たな人材を求め、なんと、長行は、部屋住みの身分(後継ぎでもなく独立もしてない中途半端な状態)のまま、奏者番から若年寄、そして老中格にまで大抜擢されるのです。

そして、長行が、その期待通りの才能を見せ付けてくれるのは、その後まもなく・・・文久二年(1862年)に起こった生麦事件(8月21日参照>>)での処置です。

これは、江戸から戻る途中の島津久光薩摩藩主・島津茂久の父)の隊列を横切ったイギリス人を、無礼討ちと称して斬った事件・・・

これに激怒したイギリスが、幕府と薩摩藩に対し、謝罪と賠償金を要求するのですが、その時の幕府側の交渉を行ったのが長行・・・

「艦隊を動員して徹底的に抵抗するぞ!」と宣言する薩摩藩を尻目に、彼は、とっとと処理して、ほぼ独断で賠償金を支払ってしまいます。

これには、幕府内からも反対意見が多数ありました。

そう、時は、未だ攘夷(じょうい・外国を排除)の嵐が吹き荒れている時代です。

当の薩摩も、本気で攘夷を決行しようと考え、長州も、そして、朝廷さえも攘夷を要求し、困った第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、しかたなく翌・文久三年(1863年)5月10日を以って攘夷を決行する約束までしちゃった時期です。

しかも、あの一橋(徳川)慶喜(よしのぶ・後の15代将軍)も、すでに開港した港の、再びの閉鎖を朝廷に約束してしまっていました。

しかし、このあとの行動を見る限り、長行だけは、「攘夷なんてできっこない」事を、すでに見抜いていたようで、それで、賠償金あっさり承諾だったのです。

文久三年(1863年)5月、先の閉港はもちろん、攘夷そのものが不可能である事を知らしめるため、長行は、官僚・水野忠徳(ただのり)井上清直(きよなお)を誘い、幕府の様式歩兵隊の精鋭・約1600名を率いて海路大坂へ・・・

もちろん、目標は入京・・・京都に入って、不可能な無理難題を押し付けて来る朝廷内の攘夷派を一掃して、朝廷の大勢を一気にくつがえし、未だ京都に足止めされている家茂を江戸に連れ帰ろうというのです。

そう、ご存知の八月十八日の政変(8月18日参照>>)・・・この2ヶ月前に、長行は、単独で、このクーデターを決行していたのです。

ところが、この一件が、八月十八日の政変ほど知られていないのは、お察しの通り、失敗に終ったからなのですが、その経緯は・・・

枚方から、京都を目指した長行ご一行・・・まで来たところで、京都でこのニュースを聞いて、慌ててやって来た在京の老中や若年寄らに制止され、その説得に応じて淀に留まってしまったのです。

そんなもの、蹴散らして京都に入り、禁門を抑えて、1発ど~んとやってしまえば良かったのですが、長行は、それをしませんでした。

在京の幕臣との意志疎通がなされていなく、彼の単独であった事も致命的だったかも知れません。

もちろん、彼の単独であったかどうかも、不明と言えば不明で、この一件の責任をすべて長行になすりつけた結果、記録的に単独となっているのかも知れないのですが・・・

そして、そこには、彼の生い立ちも影響していた事でしょう。

幼すぎたゆえ、順番こそ後回しにされたとは言え、長行は藩主の息子・・・この先、登場する維新の英傑たちのように、底辺の苦渋を味わった経験はありません。

これが、下層出身の西郷隆盛大久保利通といった人たちなら、なりふりかまわずとことん行ったかも知れませんが、坊ちゃん育ちの彼には、それができませんでした。

その間にも、本来なら幕府側であるはずの京都守護職松平容保(かたもり)や、京都所司代松平定敬(さだあき)も、もはや、朝廷の意向を幕府に伝える役どころと化し、淀に留められた長行は、徐々に孤立していまいます。

結局、長行は、主君である家茂によって老中を解任されてしまうのです。

かくして、長行のクーデターは終わりを告げました。

その後、許されて、慶応元年(1865年)には再び老中となり、外国御用取り扱いも兼任し、第二次長州征伐(四境戦争)では、小倉口の全軍指揮を任されますが、もはや、以前の勢いもなく・・・(7月27日参照>>)

彼は、この文久三年の5月で燃え尽きたのでしょうか・・・

・・・とは言え、後に勃発した戊辰戦争では、養父の勘当を蹴散らしてもなお、函館戦争まで参戦し、最後まで幕府への忠誠をつらぬいたというのは、彼なりの最後の意地だったのかも知れません。

そんな長行の最期は70歳・・・明治二十四年(1891年)1月25日自宅で静かに息を引き取りました。

♪夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢
  浮世は夢の 夢ならぬ夢 ♪

長行の辞世と伝えられるこの一句を見るだけで、その才能の非凡さと、千載一遇のチャンスを逃した、あの日の思いが伝わってくる気がしてなりません。
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2010年1月23日 (土)

無血開城の影で幻となった勝海舟の二つのシナリオ

 

慶応四年(1868年)1月23日、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府が、今後の方針を決定する作戦会議が開かれました。

・・・・・・・・・・

連続の幕末で恐縮ですが・・・

慶応四年(1868年)の1月3日に勃発した鳥羽伏見戦い(1月3日参照>>)も、1月5日には、戦場に錦の御旗が掲げられ(1月5日参照>>)、官軍となった薩長の士気は挙がり、逆に、賊軍となった幕府の士気は低下・・・

さらに、翌・1月6日に、幕府軍の大将である将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大坂城を単独で脱出した事で、幕府の敗北が決定的となります(1月6日参照>>)

やがて、その勢いのまま、東海道と東山道の二手に分かれて東上する官軍・・・

それを、幕府軍が迎え撃ったと言えば、あの元新撰組近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)勝沼戦争(3月6日参照>>)くらい・・・

それも、近藤が出遅れて戦場に間に合わず、官軍のほぼ完全勝利に終っていますから、官軍は、戦いらしい戦いをほとんどする事なく、江戸へと迫ったわけです。

しかも、すでに3月6日の駿府城・着陣の時点で、来たる3月15日の江戸総攻撃も決定していました

結局、その総攻撃寸前の3月13日と14日の2日間に渡って行われた東征大総督府参謀西郷隆盛と、幕府陸軍総裁勝海舟歴史的会談によって、翌・3月15日の総攻撃中止が決定(3月14日参照>>)、やがて江戸城の無血開城となるわけですが・・・

この間、薩摩から徳川家へと嫁いでいたあの天璋院(てんしょういん)篤姫が、徳川家存続を願う手紙を西郷に送った(2008年4月11日参照>>)、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんとなった孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が、朝廷との和解に奔走したり(1月17日参照>>)と、とにかく、徳川家存続のために、ただ、ひたすら恭順な態度でいわけです。

・・・とは言え、さすがに最初の最初から、幕府はこの方針だったわけではありません。

大坂城で戦線離脱したとは言え、慶喜も幕府の将軍・・・もし、本気で戦うなら、手助けしようという外国勢力もあり、再起をはかろうと思えば、充分に可能である事も承知でした。

・・・で、今後の幕府の進むべき道を話し合う作戦会議が行われたのが慶応四年(1868年)1月23日だったのです。

そこでは、勝海舟による勝利への作戦が提案されました。

まずは、幕府海軍の持つ艦隊を駿河湾に集結させてから、清見関(きよみがせき・静岡市清水区)周辺に、少数のおとりの兵を展開させます。

やって来た東征軍に、そこで、わざと負けてみせると、勢いに乗じた東征軍は、大軍を繰り出してくるに違いない。

そこで、大軍を待ち構え、海上の軍艦から一気に砲撃を開始・・・海岸沿いに密集した集団を大砲が狙い撃ちするというわけです。

次に、一旦、壊滅状態となったその東征軍を尻目に、艦隊は大坂湾へ移動・・・ここで、西の薩摩や長州、東の東征軍との連絡を絶つべく京都を孤立させれば、幕府の勝利は間違いないというシナリオです。

しかし、この勝の案には「ただし・・・」という付録がついていました。

そうなれば、当然、新政府はイギリスに助けを求めるに違いなく、外国を巻き込んだ大戦になる可能性がある・・・

そうです。

先ほど、「慶喜がその気になれば、手助けしようという外国勢力もある」と書かせていただきましたが、幕府を支援しようと慶喜に近づいていた、その外国勢力というのはフランス。

逆に、新政府に味方しようとしていたのが、イギリスだったのです。

内乱による国の乱れ・・・そこに乗じて介入する外国勢力。

この勝の意見を採用するかしないかは、もちろん将軍である慶喜にゆだねられるわけですが、この外国勢力・介入は、慶喜が最も回避したいシナリオでした。

やがて、この日の会議から半月ほどが過ぎた2月11日、慶喜は一世一代の決断をします。

「戦いが長引いて泥沼化すれば、中国の二の舞となり、この国は崩壊して万民を苦しめる事になるのは明白・・・そのような罪を重ねて、天が許すわけがない」

無抵抗な恭順を貫き通すという幕府の姿勢が決定した瞬間でした。

この慶喜の宣言を聞いた幕臣たちは、皆、涙を流し、速やかに解散したと言います。

かくして翌・12日、慶喜は江戸城を後にして上野・寛永寺に入り、以後、自ら、謹慎生活に・・・。

そして、篤姫や和宮など、使えるコネはすべて使って、戦う意志がない事をアピールしていくわけですが、その慶喜の意志を汲んで、勝も、江戸城無血開城に向けての条件を固めるべく、西郷のもとに、山岡鉄舟(てっしゅう)を派遣(2007年4月11日参照>>)するのです。

・・・とは言え、さすがは勝さん・・・万が一、3月15日の江戸総攻撃を回避できない時を想定しての対策も練っていました。

幕府が事前に得た情報によれば、3月15日、東征軍は江戸市中に火を放ち、自ら背水の陣を敷いて、江戸城へまっしぐらに攻めかかる作戦であるというのです。

ならば・・・と勝が考えた作戦は・・・

向こうが火を放つというなら、東征軍が江戸市中に入る前に、こちらが火を放ち、東征軍の進撃を防ご・・・そのために、火消しの頭や任侠の親分などを集めて、万が一の時は、火をつける事を事前に頼んでいたのです。

しかし、それだけだと、東征軍が火を放ったのも同じ・・・結局は、江戸市民を巻き込んでしまいますから、もし、その作戦が決行されるときには、房総沖にありったけの船を集めておいて、出火と同時に、その船を江戸川へと入らせ、逃げ遅れた難民を救出する手はずも整えていました。

上記のように、この東征軍の江戸総攻撃の中止が決定したのは、前日の西郷と勝の会談での出来事ですから、当然、前日までには、これらの準備は、完了していた事になります。

財政難の幕府にとって、この準備は、かなりの出費だったようですが、これは、勝さんお得意のハッタリ・パフォーマンスでもありました。

向こうの江戸総攻撃の作戦がコチラにわかるという事は、コチラの準備も向こうに知られる可能性もある・・・いや、むしろ、これだけの準備をして会見に挑んでいる事を知らしめて、会談を有利に進めようと考えたようです。

結果的に、江戸は火の海にならずに済んだわけですから、この出費は無駄ではなかったという事なのかも知れません。

無抵抗を決断する前の幕府勝利のシナリオ・・・
江戸総攻撃を想定した迎撃のシナリオ・・・

ともに実現されず、幻となった勝海舟の二つのシナリオですが、それこそが、江戸城無血開城という、他に例を見ない政権交代を実現させたのです。
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2010年1月22日 (金)

前代未聞!藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇

 

昭和十六年(1941年)1月22日、最後の大名とも呼ばれた請西藩の第3代藩主・林忠崇が94歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

林忠崇(はやしただたか)は、嘉永元年(1848年)、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)藩主・林忠旭(ただあきら)の五男として生まれ、20歳の時に家督を継ぎ、第3代藩主となりました。

請西藩は、わずか1万石の小禄ではありましたが、祖先が真心を尽くして徳川(松平)将軍家に仕えた功績から、毎年、正月元旦には、最初に将軍からの盃を賜る名誉を持つ家柄で、そのぶん忠崇が将軍家を思う気持ちもひとしおでした。

文武両道に優れ、将来は幕府を背負って立つ器と噂された忠崇の、運命が変わるターニングポイントは、藩主になってわずか1年後に訪れます。

慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に始まった戊辰戦争・・・その後、東に向かった官軍と、それを迎える幕府軍も、西郷隆盛勝海舟劇的な会見(3月14日参照>>)によって直接対決が回避され、4月11日には江戸城無血開城(4月11日参照>>)となりました。

ただ、この無血開城によって、江戸の町を火の海にする事は避けられましたが、負けを認めた以上、当然の事ながら、この時点での徳川家の存続は風前の灯火・・・官軍の主流が、北陸・東北へと進む中、幕府の一員として納得のいかない一部の者が抵抗を続けます。

江戸幕府・最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の護衛として上野・寛永寺にいた彰義隊(しょうぎたい)は、慶喜が水戸にて謹慎中の身となっても、なおも寛永寺に籠り、5月15日には、包囲した官軍との間で上野戦争となります(5月15日参照>>)

さらに、上野戦争で敗れた彰義隊の一部が振武軍(しんぶぐん)と名を変え、5月23日には飯能戦争へ突入(5月23日参照>>)となるのですが・・・

そんな幕府の武士による抵抗と前後して、やはり慶喜のもとで遊撃隊(ゆうげきたい)として鳥羽伏見の戦いを駆け抜けた人見勝太郎(ひとみかつたろう)伊庭八郎(いばはちろう)が、若き藩主・忠崇を訪ねてきたのは4月28日の事でした。

もちろん、日頃の忠崇の幕府=将軍への篤い思いを知っての訪問・・・「徳川家の存続を目指して、ともに戦いましょう」という事です。

忠崇は考えます。

わずか1万石の請西藩・・・とても官軍を相手に戦える軍事力はありません。

しかも、忠誠を誓う将軍・慶喜は水戸で謹慎して恭順姿勢・・・藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になる・・・

そして、忠崇は決断します。

閏4月3日を以って、なんと、59人の藩士を連れて、自らが脱藩・・・浪人の身となって遊撃隊とともに参戦するのです。

藩主の脱藩!

もともと佐幕派(尊王に対する幕府側)だった請西の領民たちですから、藩主が立てば、自分たちだって、ともに玉砕する気持ちは持っていましたが、その領民のために、自ら脱藩して戦おうとする藩主に大いに感銘・・・この前代未聞の出来事に、彼らの出陣を見送る村人は、皆、道ばたに土下座して、その武運を祈ったと言います。

こうして、戊辰戦争に挑んだ忠崇でしたが、中心人物である人見が留守の間に勃発した箱根戦争(5月27日参照>>)では、小田原藩の寝返りに遭い、奮戦空しく、撤退する事に・・・熱海で、かの人見と合流した忠崇は、箱根で重傷を負った伊庭を品川沖に停泊中だった榎本艦隊に預け、長岡城奪回作戦を展開中の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(7月24日参照>>)を応援するため、東北へと向かいます。

ウデに覚えのある忠崇は、一連の戦いでも最前線に立って戦う姿勢を見せますが、さすがに家臣たちに「殿様は後方で・・・」と、たしなめられたりもしています。

しかし、ご存知のように、東北での戦いは、連戦連敗となってしまいます。

やがて9月に入って、頼っていた米沢藩・仙台藩が相次いで降伏すると、もはや手を組んで戦う相手もなくなりました。

そんな時、忠崇は、徳川家の存続と慶喜の命が保障された(5月24日参照>>)事を知ったのです。

実際には、5ヶ月前の閏4月29日に決定していた事ですが、各地を点々としていた彼の耳には入っていなかったようです。

このニュースを聞いた忠崇は、
「もともとの願いが叶った以上、この先の抵抗は私利私欲の無意味な戦い・・・戦いのための戦いになる」
と、あっさりと降伏します。

この決断一つをみても、彼が優秀な人物である事がわかります。

なんせ、脱藩して賊軍としておかみに抵抗したのです。
おそらく、死を覚悟しての投降・・・

自らの死を目の前にして、うろたえて悪あがきする事なく、冷静に先を読むわずか21歳の青年は、家臣と引き離され、新政府によって監禁される事になります。

しかし、幸いな事に切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(1872年)に釈放され、晴れて自由の身となりました。

・・・とは、言え、忠崇の人生は、ここからが苦労の連続でした。

そう、彼が脱藩したおかげで、林家の家名は存続しましたが、当然の事ながら、当主は甥の忠弘が継いでいますから、彼は、何もないゼロからのスタート。

維新直後は、たとえ、幕府側で戦った過去があっても、一国の大名=藩主なら、華族という特権が与えられていたわけですが、彼には、それが適用されません。

裸一貫となった忠崇は、なんと、地元で開拓農民として、元自分が治めた、その地を自らの手で耕すのです。

その心を思うと、とてもお気の毒な思いがしますが、やはり、それは、元領民たちも同じ・・・あまりにも気の毒に思った誰かの口利きで東京府の下級官員となりますが、それはそれで、忠崇には、何か引っかかる物があったのでしょうか、わずか2年でその仕事をやめ、今度は、函館にて物産商の番頭として働きます。

その後も、大阪で役所の書記をやったり・・・と職を転々としながらの20年・・・普通の没落武士より、はるかに苦悩の日々を送った事でしょう。

そんな彼の汚名が晴らされるのは明治二十六年(1893年)・・・林家の嘆願がようやく聞き入れられ、林家への復帰が許されるとともに、華族の一員となったのです。

晩年は次女・ミツさんと暮らし、ようやく平凡な生活ができるようになった上、94歳の長寿を真っ当したおかげで、大名経験者で最後の人となり、ときおりは、戊辰戦争の生き証人として、マスコミからインタビューを受けるなど、おおむね幸せな生活を送られていたようです。

こうして、昭和十六年(1941年)1月22日94歳の大往生を迎えた忠崇ですが、彼の時世の句というのは、実は21歳のあの時に詠んだもの・・・

そう、官軍に降伏して、一旦、死を覚悟したあの時です。

♪真心の あるかなきかは ほふりだす
  腹の血潮の 色にこそ知れ  ♪

なんとも、武士らしい、覚悟あふれる句です。

そして、もう一つ・・・彼が晩年に詠んだ句があります。

♪琴となり 下駄となるのも 桐の運 ♪

世襲の是非、親の七光りが目に付く今日この頃・・・確かに、2代目・3代目にも優秀な人はいるでしょう。

しかし、一般とは、スタートの時点で違うその得々人生・・・主君のために、その世襲を捨て、底辺の下駄となった彼の人生は、単なる3代目では味わえない有意義なものだったに違いありません。

あの若き日の決断が間違いではなかった事を、晩年の句が証明しているような気がします。
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2010年1月21日 (木)

自分大好き~勝海舟の人生語録

 

明治三十二年(1899年)1月21日、幕末には幕府の最高幹部として、維新後は海軍大輔・参議などで大活躍した、あの勝海舟が77歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

幕末・維新の大スターである勝海舟(かつかいしゅう)については、さすがに、このブログでも何度か書かせていただいておりますし、すでに皆様も、ご存知の事と思いますが・・・

などなど・・・
上記以外にも、いくつか書いておりますが、いずれにしても、そのエピソードを見る限り、かなりのハッタリ屋で自信家で、自分大好きの匂いがプンプンする人です。

老後のインタビューで、昔を懐かしみながら語った語り口も「どや!俺ってスゴイやろ?」という感じで、まるで、周囲がすべて能無しだったような言い方が、鼻につく印象もしますが、皆に自慢したくなるほどの大事をなした事も確かです。

おそらく、彼の話を聞く人も、
「おじいちゃん、もう、こうなったら、好きに威張ってチョーダイ」
と、その“エェカッコ”も許せるほどの大人物だったわけですから。

本日は、そんな海舟の生涯・・・と言いたいところですが、もはや、有名な人ですので、今回は、あまり歴史には登場しそうにない、エピソードというか語録というか・・・という感じの物を、いくつかご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

『無殺生』
直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝だったといわれる海舟ですが、その腕をふるう事は生涯なかったようです。

遊びとしての猟も嫌い、武士の付き合いでどうしてもやらねばならない時は、わざとはずしていたのだとか・・・

暴漢に襲われた時も、彼を守って賊を斬ったボディガードの岡田以蔵(いぞう)に、「殺人はよくない」と言ったと言いますが、さすがに、黙って斬られるのもどうかと思いますが・・・まぁ、彼の言い分だと「敵が多い事は、はなから承知」なのだそうです。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

『ひと目見てわかる』
初めて会う人間も、一発で、その人物を見抜けるのだそうです。

とりあえず、会ってすぐに一喝!
その驚いた様子を見て、どのような人物かを見極めていたのだとか・・・

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『ケチ』
若い頃、極貧の生活をしていた海舟は、裕福になった晩年になっても、10銭や20銭という安価で書をしたため、そのお金をコツコツと貯めていたのだとか・・・

側近が、「それは、あまりにもセコイのでは・・・」
との意見を言うと
「苦労して貯めた金は長持ちする」
との事・・・確かに、ありがたみが増して、なかなか使えない物です。

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『無頓着は長寿のもと、長寿は大事のもと』
「天下の大事をなすためには、寿命が長くなくてはいけない」のだそうです。

確かに、幕末・維新では、「この人が、もう少し長く生きていたら・・・」と思う事fがよくあります。

「そのために長生きしろ」
というのを、長生きした海舟が言うのですから、ごもっとも・・・

・・・で、その秘訣としては、
「ものごとに、こだわらない事」

確かに、徳川にも新政府にも心砕いた、その柔軟な精神は、彼の良きところでもあります。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:

そんな海舟が、明治三十二年(1899年)1月21日、77歳で亡くなる時の最期の言葉「コレデオシマイ」だったという話は有名ですが、

今回のページの最後として、彼が、その生涯を通じて、好んで使ったり書き残したりした言葉・・・『六然(りくぜん)をご紹介します。

自処超然(じしょちょうぜん)
  1人の時は物にとらわれず
処人藹然(しょじんあいぜん)
  二人の時は相手を楽しませ
無事澄然(ぶじちょうぜん)
  何もない時は澄んだ水の心持ちで
有事斬然(ゆうじだんぜん)
  何かある時は思い切って
得意淡然(とくいたんぜん)
  絶好調な時はあっさりと
失意泰然(しついたいぜん)
  落ち込んだ時は平然と

言葉そのものは、中国の物で、すべての四文字の終わりが「然」という文字で、六つあるので『六然』・・・

こんな言葉を生涯の指針としていたとは・・・
江戸っ子丸出しで、ちょっとばかり軽い感じのする海舟さんの、真面目な部分を垣間見た気がしますね。
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2010年1月20日 (水)

坂本龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました

今日は、、先日、京都に行ったお話・・・

ブームに乗っかるわけではないですが、ちょっと私用で出掛けたもので、京都の三条から四条まで、龍馬の時代に思いを馳せながら、高瀬川沿いの木屋町を散策してきました。

Dscn8688a800 現在の高瀬川

そこで、つくづく思うのは、幕末のアノ頃との景観の違い・・・

とは、言え、個人的には、あまりこだわりません。

その歴史の舞台に実際に立って、同じ空間に包まれる事こそ至福の時なので、周囲がどのように変わっていても、私にとっては行く事こそが最大の目的

でないと、史跡巡りはできません。

場合によっては○○跡という跡だらけの場合もあるわけですし、あの東大寺・大仏殿でさえ、江戸時代の建物で、聖武天皇のソレではないわけですし、京都は応仁の乱で焦土と化し、ほとんどの建物は、それ以降の物なのですから・・・。

この木屋町あたりも、ご多分にもれず、その面影を残す場所は少ないわけですが、そういう場合は、在りし日の姿を想像しながら、その変貌ぶりを楽しむのも一興です。

考えてみれば、粋なお茶屋の並ぶ通りは、その時代では最先端の繁華街だったわけで、古き良き日本を思い描くようなスローな光景ではなく、むしろ雑踏と人通りに満ちたファンキーな場所だったわけですから、そこを歩く人の気持ちの持ちようというのは、逆にコチラのほうが近いかも知れません。

いや、むしろ、それこそ京都が古の都ではなく、現役の都市である証拠とも言えるわけです。

とは言え、やっぱり歴史好きとしては、その時代の物が残っていると、ちょっとテンションが高くなるものではありますが・・・お恥ずかしい。

・・・と、そんなこんなを考えながら、三条大橋を東から西へと渡ります。

時代の流れを感じながら・・・

Suyatizu 三条大橋のたもとにあった高札場(幕府の掲示板)は、スタバの駐輪場と化し、
あの池田屋は、少し前まではパチンコ屋だったのが、歴史ブームの影響で「池田屋」と名付けられた海鮮料理屋さんに・・・

土佐藩藩邸小学校に、
坂本龍馬中岡慎太郎の最期の場所・近江屋コンビニに、

その中岡の住まいは油とり紙を売るお店になり、
古高俊太郎の隠れ家(6月5日【池田屋騒動】参照>>)料理屋さんへと変化・・・

そんな中で、唯一、当時の面影を残したまま現存するのが「酢屋」です。

Dscn8680800 酢屋

京都に来た龍馬ファンの方々が訪れる、有名なゆかりの場所となると、霊山にあるお墓か、伏見の寺田屋か・・・と言ったところですが、

お墓は、その名の通りお墓なので、龍馬が亡くなった後に建てられたもの・・・寺田屋は、残念ながら、明治以降の建築である事が確定となりました(1月23日参照>>)

・・・となると、「酢屋」は、まさに唯一つ現存する生存中の龍馬ゆかりの場所という事になるのでしょうが、お墓や寺田屋よりは、あまり知られていないのか、中に入ると、私1人でした。

まぁ、おかげで、係りの方の説明もゆっくりと聞く事ができ、展示物も独り占め、説明後には、私のツマラン質問にも答えていただけるというラッキーな環境での拝観となりました。

ところで、現在の私たちが描く龍馬像というのは、ほとんどが小説の世界で確定されたイメージです。

ずいぶん前のご命日の日に【坂本龍馬・暗殺の謎の謎】(2006年11月15日参照>>)と題して、チョコッと触れさせていただきましたが、龍馬は、その政治活動のほとんどを、脱藩浪士・不逞浪士の立場で行っているので、明確な行動の記録というのが、ほとんど残っていないのが現状です。

なんせ、逃げ隠れしながら暮らしているわけですから、「どこにいる」「何をしている」のが、公になるはずがないわけです。

当時は、何をやってるかわからない不逞浪士の1人だった龍馬像も、幕末が過ぎ、明治の世となり、さらに時代が進むにつれて、龍馬自身や周囲の人たちの手紙や日記などが徐々に発見され、それらの点と点をつなぎあわせて、志士の1人としての龍馬像が浮かび上がり、それを名作家と呼ばれる人たちが、見事な小説として書き上げたり、感動ドラマにしたりして、現在の龍馬像となったのです。

そんな龍馬が、暗殺のちょっと前まで滞在していたのが「酢屋」・・・

ここは、享保六年(1721年)から続く材木屋さんで、現在の当主は10代目・酢屋嘉兵衛さん・・・現在も、材木ひとすじで、1階は木製の小物類などを販売するお店となっていて、2階が、龍馬関連の展示ギャラリーとなっています(拝観:500円)。

幕末当時は、6代目が当主を務めておられましたが、その頃は、大坂から伏見・京都へと通じる高瀬川の輸送権を与えられていたので、運送業もこなしておられました。

Takasegawameizi4800 明治時代の高瀬川

ちなみに高瀬川は、物資の輸送を船で行うために造られた人工の川で、川の要所々々に船入という入江が設置され、そこに船を泊めて荷物を上げるようになっていました。

Fynadamari5a900zu 酢屋の目の前には、五之船入というのがあり、当時は、現在ある駐車場(写真の真ん中の建物)の所が、その荷上げの場所となっていたのです。

志士たちが語る新しい世の中に理解を示す6代目から、酢屋の2階を借りた龍馬は、ここに海援隊の京都本部を置き、龍馬のほかにも、陸奥宗光(むつむねみつ)長岡謙吉など、数多くの隊士が、ここ酢屋に投宿していました。

故郷の姉・乙女さんに宛てた慶応三年(1867年)6月24日づけの龍馬の手紙では、「今、酢屋というところでお世話になってま~す」と書かれている事から、暗殺される少し前までは、龍馬は酢屋にいたのだろうとされています。

ちなみに、ここで才谷と名乗っていた龍馬が、2階の出格子から、船入に向けてピストルの試し撃ちをしていたというエピソードも残っています。

そんな酢屋さんの建物は、現役でお商売されている以上、もちろん、修復もされていますが、天井の梁の部分が、見事に当時のまま残されており、「龍馬も夜寝るときには、この天井を見たのかなぁ」とつくづく・・・(やっぱミーハーか?(゚ー゚;

昭和八年の修復の時には、その天井裏に隠すように置かれていた『海援隊日記』なる物が発見され、そこには、龍馬暗殺の犯人に関する情報集めに、残された隊士たちが奔走する様子が、細かく書かれているのだとか・・・

実は、その暗殺の後、天満屋事件(12月7日参照>>)を引き起こす陸奥が、その襲撃計画を練ったのも、この酢屋の2階・・・維新後に、酢屋を訪れた陸奥が、感激の涙を流したという話もうなずけますねぇ。

そんな『海援隊日記』は、普段は非公開なれど、毎年、龍馬さんのご命日の11月15日から2週間ほどの間だけ公開されるとの事なので、要チェックですぞ。

ただし、酢屋さんの2階ギャラリーは水曜定休なので注意してくださいね。

せっかくのブームなのですから、
「メディアの作ったブームになんか乗るか!」
なんて肩肘はらずに、これキッカケで訪れながらも、本当の龍馬の素顔に触れてみるのも良いかも知れませんよ。

酢屋以外の周辺史跡も含めて、木屋町・祇園から清水までを幕末目線で散策するコースを、本家のHP:京阪奈ぶらり歴史散歩にupしていますのでよろしかったら【木屋町・祇園~ねねの道・幕末篇】へどうぞ>>
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2010年1月19日 (火)

こうして、大坂は「天下の台所」になった!?

 

本日は、なぜ、大阪=大坂が、「天下の台所」と呼ばれるようになったのか?というお話です。

・・・・・・・・・・・

昨日の明暦の大火のお話の中で、江戸の町は・・・
「あの徳川家康が優秀なブレーン・天海とともに、見事な都市計画で造り上げた城下町・・・」
という事を書かせていただいたところ、

いつも、コメントをくださるDAIさんから、
「しかし、商品の取引市場は大阪?江戸近郊に作らず なぜに大阪なんですかね?京都に近いから?それでも大阪で売買したものを江戸に更に運ぶ・・・。2度手間で西と東で戦いが起こった時に食料の確保が・・・なんて考えてしまうんですが・・・」(1月18日のコメント参照>>)
というコメントをいただき、

その事については、以前から、記事として書いてみたいと思っておりましたので、コメント欄ではなく、こうして、一つのページとして書かせていただく事にしました。

・・・とは言え、この「天下の台所」という言葉自体は、江戸が政治都市だったのに対して、大坂が経済都市であった事を、わかりやすく表現しているのであって、本当に江戸時代を通じて、大坂が「天下の台所」という表現をされていたかどうかは、定かではありません。

ただ、天保十三年(1842年)の『諸色取締之儀ニ付奉伺候書付』という書面に、「世俗諸国の台所と相唱・・・」と出てきますので、少なくとも、その頃には・・・

・・・という事で、本日の内容は「なぜ?天下の台所と呼ばれたのか?」というよりは、「江戸に幕府がありながら、なぜ?大坂が経済都市だったのか?」という内容になりますが、しばらくお付き合いくださいませ。

・‥…━━━☆

・・・で、その一番の要因は、やはり、すでに豊臣時代に、大坂が経済の中心としての機能を身につけていた事にあると思います。

以前、大坂の町割について書かせていただきましたが、そのページで述べたように、町の大きさこそ、江戸時代にグンと大きくなったとは言え、現在でも、なんとなく、その境界線がわかってしまうくらい、豊臣時代の町が、残っているのが大阪です(9月8日参照>>)

それは、豊臣秀吉が築いたとされる太閤下水が、この平成の世でも一部機能している事からも、わかります。
(★太閤下水については、本家HP:京阪奈ぶらり歴史散歩の太閤下水のページへ>>別窓で開きます

豊臣を滅ぼし、その大坂城を徹底的に破壊して、まったく新しい城に造り替えた徳川家康も、その町並みには、ほとんど手をつけず、豊臣時代の町の外側に、徳川の大坂の町を造ったという感じだったのではないでしょうか?

豊臣時代に、すでに諸大名の米の保管用倉庫=蔵屋敷が建ち、物資の集散の場所として機能していた大坂・・・

これを、江戸で幕府を開いたのだから江戸に・・・と移動できなかったのには、さらに、当時の税徴収のシステムを考えまければなりません。

当時の税の徴収方法・・・それは、年貢です。

そう、地元の農民から徴収するのは、お米であって、現金ではない・・・つまり、各地の殿様は、自分とこの領地から徴収した年貢米を、お金に換える必要があったわけです。

・・・かと言って、自分とこの領地内の商人で、藩の年貢のすべてを現金に換えてくれるような大商人はいないわけです。

もちろん、江戸にも・・・幕府だって、お米を換金しないとやっていけないのです。

政治の機能が遷ったと言っても、都市機能のすべてが、江戸に移転するわけではありませんから、当時、すでに、大坂・堂島にあった米市場は、そのまま、大坂にあったし、年貢を現金に換えてくれるような大商人は、未だ大坂にいるわけで、彼らが、その本拠地を、江戸に移転するかしないかは、彼らの心次第です。

もちろん、先に書いたように、大名や旗本の蔵屋敷も、江戸に幕府が開かれた時点で、すでに大坂にありましたし・・・

ここで、それらの年貢米や物資の流通機能がオソマツな物だったら、ひょっとしたら、豪商は徐々に、江戸に移転し、それとともに、大名の蔵屋敷も、移転したのかも知れませんが、ここで、もう一つの重要な要因・・・海運の発達があげられます。

元和五年(1619年)、の商人が、紀州(和歌山県)の船を使って、江戸へ物資を運んだ事にはじまるとされる菱垣廻船(ひしがきかいせん・貨物船の事)・・・

寛永年間(1624年~1643年)には、大坂北浜の商人が江戸にて問屋=つまり、江戸出張所を造り、その航路も定期航路として、見事に大坂⇔江戸間を結んでいたのです。

しかも、その間、寛永十六年(1639年)の、百万石を有する大手換金藩=加賀藩を皮切りに始まった北前船のルートは、さらに寛文十二年(1672年)には西廻りの航路として確立され、ますます大坂が流通の拠点となったのです。

同時期の幕府の様子を見てみると・・・

関ヶ原に勝利した家康が、征夷大将軍になったのは慶長八年(1603年)。

その後を継いだ二代目将軍・徳川秀忠が豊臣を倒した大坂夏の陣が元和元年(1615年)・・・ここで、武家諸法度禁中並公家諸法度などの法整備をします(4月16日参照>>)

やがて、3代目将軍・徳川家光のもとで、五人組制度がはじまるのは元和九年(1623年)で、さらに、参勤交代の制度が定まるのが寛永十二年(1635年)です。

ここで、やっと政治的な基礎が固まったと思いきや、2年後の寛永十四年(1637年)には、島原の乱(10月25日参照>>)が勃発し、「幕府、大丈夫?」という風が吹いたりなんかします。

この大坂&江戸の出来事の流れを見る限りでは、幕府が江戸での政治的基盤を固める前に、商人が大坂で経済の基盤を固めてしまったというのが現状ではないでしょうか?

一旦、固まった物は、よほどの事がない限り移動しません・・・まして、海運の発達で、江戸⇔大坂が気軽に行き来できていたのですから・・・

それでも、初めのうちは、各大名の蔵屋敷の物資を管理する蔵元は、各藩の役人が派遣されて行っていたのですが、やはり武士は商いベタ・・・いつしか、商売に慣れている商人に頼むようになり、町人蔵元と呼ばれる彼らによって、蔵の中の物資の保管や、出納の管理がされるようになります。

Yodoya600 淀屋橋のたもとにある淀屋の屋敷跡

中之島に架かる淀屋橋の名前のもととなった、ご存知の豪商・淀屋は、この町人蔵元となって、莫大な財産を築く事になります。

また、米の売却代金を保管して藩への出納や送金を行う掛屋、蔵の米を、役人の代理人となって受け取って売却する札差(ふださし)なども登場します。

もちろん、総責任者は各藩の留守居役がこなしますが、藩に損害を与えない限りは、その資金をを自由に運営する事ができたほど、任されていたのですから、町人蔵元や掛屋は、そのウデ次第で多大な利益を挙げる事ができたわけです。

ただし、江戸時代を通じて、蔵屋敷は、大坂だけではなく、江戸にもあり、長崎にもあり、大津敦賀といった交通の要所にも置かれていました。

しかし、やはり、大金が動くのは大坂・・・こうして、大坂は「天下の台所」となった?という事なのではないでしょうか?
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2010年1月18日 (月)

江戸都市伝説・振袖火事~明暦の大火の謎

 

明暦三年(1657年)1月18日、江戸本郷丸山町の本妙寺から出火し、またたく間に江戸の町のほとんどを焼き尽くした明暦の大火がありました。

・・・・・・・・・・・・

大名屋敷から江戸城本丸まで焼き尽くした大火・・・若くして亡くなった娘の供養のために、その振袖を燃やした火が、お寺の屋根に飛び火したのが原因という事で、この明暦の大火は、別名・振袖火事と呼ばれました。

この火事のあらましや、振袖にまつわる因縁話は、すでに2007年の1月18日に書かせていただいているので、そちらでご覧いただくとして・・・
(2007年1月18日【げにおそろしきは振袖火事】を見る>>)

実は、この振袖火事に関する都市伝説は、その若い娘の因縁話だけではないのです。

いや、むしろ、その因縁話は、真実を隠すために、わざと流された可能性すらあるのです。

以前のページでも書かせていただいたように、ほとんど焼け野原となった江戸の町は、まったく新しい都市計画のもと、火災に強い町を造るべく、この大火をきっかけに生まれ変わったわけですが、当然、そこには、武士も町民もなく、大名屋敷や寺社、遊郭などが、皆、郊外へと移転されたのですが、なぜか、火元である本妙寺は移転することなく、かなり早い段階で再建され、しかも、その後、寺格も昇進しているのです。

後に、明和九年(1772年)に起こった目黒行人坂の火事明和の大火(2月29日参照>>)の火元となった大円寺再建許可が、出るのに50年もかかった事を思えば、とても不可思議です。

さらに、午後2時頃に一旦鎮火したにも関わらず、また別の所から火の手があがり、2度目の出火では多くの大名屋敷が被害に遭っています。

・・・で、ここから考えられるのは、この火災は放火が原因で、しかも、犯人はひとりではない・・・
いや、むしろ組織的な放火???

そこで、直後から囁かれた噂が「叛逆分子・放火説」です。

明暦三年と言えば、あの由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱(7月23日参照>>)から、わずか6年後・・・記憶に新しい事件を思い出し、幕府に不満を持つ叛逆分子による叛乱と、江戸の町民が考えるのも無理はありません。

また、火事の最中や直後には、どさくさにまぎれて盗みや略奪など、文字通りの火事場泥棒が多発した事もあって、その噂は、またたく間に江戸に広がり、人々に不安を与えたようです。

つまり、この叛逆分子による放火の噂をかき消すために、幕府は「本妙寺が火元である」と発表し、その汚名を着てくれた本妙寺を優遇したというわけです。

しかし、都市伝説は、それだけでは終わりません。

この放火説・・・犯人は、叛逆分子ではなく、幕府そのものというのもあります。

それは、この火事の後に行われた見事な区画整理・・・

確かに、江戸の町は、あの徳川家康が優秀なブレーン・天海とともに、見事な都市計画で造り上げた城下町ではありますが、予想以上に発展した町が、予想以上の人口増加を招いたため、空いてる所に次々と家が建ち、もはやパンパンの状態・・・というのが当時の江戸。

そこで、ちゃんとした区画整理のもと、新しい都市計画で新しい町を造りたいけど、いちいち、郊外への移転の手はずを整えねばならないし、まだまだ使える大名屋敷などの建物を壊さなきゃならない・・・「それなら、いっその事、焼けてしまえば話が早い」というわけです。

当時、幕府の中心にいたのは知恵伊豆とよばれた老中・松平信綱(3月16日参照>>)・・・やりそうかも知れません。

しかし、もし、幕府の計画的な放火なら、江戸城まで燃やしてしまうっていうのは、ちょっと引っかかる物があります。
(まぁ、そこまで、火をコントロールする事ができなかっただけかも知れませんが・・・)

・・・と、そこで、第三の説

実は、本妙寺の記録によれば、火事のあった年から、毎年、老中・阿部忠明から、「供養料」という名目で、米・10俵が、本妙寺に寄贈されているというのです。

しかも、この毎年の供養料は、関東大震災のあった大正時代まで続いていたというのですから、ハンパじゃありません。

幕府は、この火事の後に、供養のための回向院(えこういん)を建立していますし、幕府が倒れた維新後の大正時代までとなると、この阿部さんの寄進は、幕府の一員としてではなく、阿部さん個人の寄進という事になります。

250年以上も???
個人的に???

実は、この阿部さんのお住まいは、本妙寺の間近・・・そう、ひょっとしたら、火元は阿部邸であったかも知れないとい事なのかしら?

時の老中の失火によって、江戸の町が焼け野原に・・・しかも江戸城まで焼いちゃったとなれば、幕府の信用もガタ落ちですし、もちろん阿部さんの責任も問われるでしょう。

そこで、近所の本妙寺に、その汚名をかぶってもらって・・・という事なのかも知れません。

以上、明暦の大火にまつわる江戸版・都市伝説・・・

果たして、本当の出火原因は・・・
叛逆分子による放火なのか?
幕府の区画整理なのか?
阿部ちゃんの失火なのか?

もちろん、本当に本妙寺が火元で、本当に振袖を燃やしてた可能性もありますが・・・

どれを信じるか、
すべてを信じないかは・・・あなた次第です。
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2010年1月16日 (土)

世界最大の陵墓の主?~仁徳天皇

 

仁徳天皇八十七年(399年?)1月16日、第16代・仁徳天皇が83歳で崩御されました

・・・・・・・・・・・

仁徳天皇と言えば、まず思い出すのは、あの大きな御陵・・・。

大阪は堺市にある百舌鳥古墳群の中にある一番大きな大山古墳・・・全長480m高さ35m、築造には、のべ180万人以上の人が関わったとされる世界一の古墳が、仁徳天皇陵だとされています。

・・・とは、言え、お察しの通り、仁徳天皇は、未だ神話の世界から脱したばかりの頃の天皇ですので、1代前の第15代応神天皇との同一人物説もあり、真実のほどは、定かではありませんが、とりあえずは、このブログには、ほぼ初登場という事なので、記紀を基本に、一般的に知られている仁徳天皇像をご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

第15代応神天皇が亡くなった後、後継者となるのは、やはり、皇太子の兎道稚郎子(うじのわきつらこ)が順当なところでした。

しかし、彼には兄がいる・・・この兄は、幼い時から聡明で、しかも、かなりのイケメン、さらに、ここまで、弟を補佐しながら、見事に国事をこなしてきた経歴もあります。

なので、兎道稚郎子は、是非とも、その兄に皇位についてもらいたいと申し出るのです。

その兄というのが、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・後の仁徳天皇)でした。

しかし、大鷦鷯尊は大鷦鷯尊で、「父の決めた事に従うのが道理」と言って、弟の申し出を断り続けます。

ところが、お互いに譲り合っている間に、もう一人の兄(おそらく、この人が長男)大山守命(おおやまもりのみこと)が、弟である皇太子を殺害して、皇位を奪い取ろうと計画します。

事前に、この計画を知った二人は、ともに協力して、迫り来る大山守命を迎撃し、見事!討ち取りました。

しかし、それでも、お互いに皇位を譲り合っていたところ、三年目にして兎道稚郎子が自殺・・・やむなく、残った大鷦鷯尊が、西暦313年頃の1月3日、第16代・仁徳天皇として即位したのです。

Dscn1451600 ★高津宮の宮殿があったとされる高津宮(こうづぐう)
高津宮のくわしいい場所は、姉妹サイト=京阪奈ぶらり歴史散歩上町台地のページへ>>

 

 

 

 

 
即位した仁徳天皇は、難波(なにわ)高津宮(たかつのみや)に都を遷しますが、その宮殿には、上塗りもなく、飾りつけもなく、屋根の茅さえもきちんと切りそろえられていなかったそうです。

これは、それらを整備するためには、また人手を狩りださねばならず、そうなると農地の耕作や、機織りをしている人民の手をわずらわす事になるので、天皇が、私的な事で、人民を召集する事を避けたためなのだとか・・・

そして、即位から4年経ったある日、仁徳天皇が高殿に登って、国を一望すると、各民家から煙が上がっていない・・・天皇は心を痛めます。

なんせ、これまで、神功皇后三韓征伐(9月5日参照>>)の出兵にはじまり、先代の応神天皇の時代には、大陸との交流が頻繁に行われ、確かに多くの大陸文化が日本に渡来はしましたが、そのぶん、財政は苦しい物となり、庶民の生活も困窮していて、もはや、焚くお米にも困っていたのです。

「都の近くでさえ、こんな状況なら、おそらく地方はもっと大変だろう」
そこで、仁徳天皇は、向こう三年の課税を停止し、庶民の苦しみを和らげようと考えました。

もちろん、困窮しているのは天皇家も同じですから、天皇は、その日から、着ている物は破れるまで着用し、履いてる物は擦り切れるまで履き、宮殿の屋根や垣根が壊れても修理もせず、雨漏りし放題、星空見え放題の生活を送ります。

やがて、三年後、再び高殿に登って、庶民の暮らしぶりを眺めると、家々のあちこちから、ゆうげのための煙が上がっています。

Nintokutakatusss1800 「民のかまどは・・・・」と喜び中の仁徳天皇(高津宮蔵)

それを見た天皇は、
「民のかまどは賑わいにけり」
と、大いに喜んだのです。

国力が回復し、安定してくると、生産力を高めるべく、天皇は、土木工事に力を入れます。

毎度毎度大暴れする淀川の氾濫を防ぐため、日本最古の土木工事と言われる茨田堤(まんだのつつみ)(6月25日参照>>)を造ったり、肥沃な大地にするための排水路(堀江)を造ったり、さらに、当時は、未だ大きな入江となっていた大坂湾の周辺の流通促進のため、日本最古の橋=猪甘津橋(いかいつのはし・後の鶴橋)(6月18日参照>>)も造りました。

そして、前天皇の時代には、貢物を贈って交流をしてきていた新羅(しらぎ)が、貢物を惰ったために起こった紛争では、竹葉瀬(たけはせ)田道(たじ)という兄弟を遠征させて、新羅軍を破ったとも・・・

また、中国の歴史書『宋書(そうしょ)には、5世紀頃の倭王として、5人の日本の王らしき人物が登場しますが、現在のところ、その中の(さん・賛)という人物が、仁徳天皇の事と考えられており、中国と盛んに交流していた事もうかがえます。

記紀では、そんな仁徳天皇を、困窮した者を救い、病む者を見舞い、身寄りのない者に恵みを与えたため、国はよく治まり、古事記では83歳とされる、その死に際して、国民は何日も目をはらして泣いたと記しています。

・・・と、このまま読めば、「こんな名君は他にない」ってほどの名君で、とても、そのまま信じられる物ではありませんが、仁徳天皇が造ったかどうかはともかく、現実に茨田堤とおぼしき史跡は残り、猪甘津橋は鶴の橋と名を変え、大正時代まで存在していました。

記紀神話は、戦前に天皇賛美のプロパガンダとして使用されたために、戦後は、その反動で一転「作り話」と称されるようになりました。

そのため、仁徳天皇と聞いても、あの大きな古墳を思い出すだけの乏しい印象となってしまっています。

しかし、そこには、堤や橋や堀江の大事業を行った伝説の王が確かにいて、8世紀の人々は、その大いなる王に仁徳という名をおくったという歴史があります。

すべてが、作り話と一蹴してしまう前に、古代の人々が後世に伝えようとした、その心情を思いつつ、日本建国の壮大な叙事詩に浸ってみるのも一興かも知れません。
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2010年1月15日 (金)

幕府の未来が見えた?~安藤信正・坂下門外の変

 

文久二年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士ら6名が、老中・安藤信正を襲撃して負傷させた坂下門外の変がありました。

・・・・・・・・・・・・・

安藤信正は、文久二年(1819年)に陸奥(むつ)磐城平(いわきたいら)の第4代藩主・安藤信由(のぶより)の嫡男として江戸藩邸で生まれました。

弘化四年(1847年)に父の死を受けて第5代藩主となって磐城藩を継ぎ、嘉永四年(1851年)には寺社奉行、安政五年(1858年)には若年寄となります。

翌・安政六年(1859年)に、時の大老井伊直弼(いいなおすけ)が決行した安政の大獄(10月7日参照>>)では、その直弼とともに水戸藩の徳川斉昭(なりあき)らを含む、尊攘派の取り締まりに奔走しました。

その後、万延元年(1860年)に老中に昇進しますが、その直後に起こったのが、あの桜田門外の変井伊直弼の暗殺です(3月3日参照>>)

そのページでも書かせていただいたように、やはり、暗殺の引き金となったのは、安政の大獄での処置・・・尊王攘夷に熱心だった水戸藩の関係者が、多数処分を受けた事に怒った水戸脱藩浪士・17名と薩摩脱藩浪士・1名による犯行でした。

その時、行方不明になっていた首を受け取った井伊家では、先に届いていた胴体と、その首を縫い合わせ、「重傷を負っただけ」という事にして、約1ヶ月間、その死を隠した・・・という話もさせていただきましたが、この事を仕切ったのが信正でした。

事件の後、彦根藩邸を訪れた信正は、首が縫い付けられた直弼の遺体を前に、まるで生きているように話しかけたと言います。

なんで???
と思ってしまいますが、実は、直弼を重病としたまま、次男の井伊直憲(なおのり)への家督相続のダンドリをつけ、その後、死亡を発表させたのです。

そうです。
もし、現役の大老職にある主君が討たれたとなれば、彦根藩士たちが黙っていません。

仇討ちなんて事になったら、相手は御三家の水戸・・・あの初代・徳川家康の頃からの譜代筆頭の家臣である井伊家と御三家の水戸が争うなんて事になったら、いったい幕府はどうなってしまうのでしょう?

それでなくても、尊攘派が、こうしてテロ行為に走っているというのに・・・。

信正の機転で、井伊家のメンツを保ち、藩士たちの怒りをセーブさせたのです。

この直弼の死後、信正は、同じく老中の久世広周(くぜひろちか)とともに、幕政の担い手となって活躍します。

真っ二つとなった日本を、何とか一つにまとめようとした直弼の遺志を継ぎながらも、なるたけ波風立たない方法を模索し、時の天皇である第121代・孝明天皇の妹・和宮と、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)を結婚させる公武合体(こうぶがったい)(8月26日参照>>)を実現させた幕府側の人間は信正です。

また、アメリカ領事館の通訳であったヒュースケンが、攘夷派に殺害された事件も、彼が処理に当たり、円満解決へと導いています。

対外的には、不利な金銀の交換率で結ばれた通商条約で、金が流出しないようにと対策を練りました。

とにかく信正は、幕府の安定、庶民の安心を目標に、政策を遂行していったように思います。

しかし、攘夷派から見れば、そもそも通商条約を結んで、外国と協調をとっている事自体が許せませんし、公武合体にしても、明らかな政略結婚を無理強いして、幕府の安定を計っているとしか思えないわけです。

そんなこんなの文久二年(1862年)1月15日午前8時頃・・・上元(じょうげん・三元と呼ばれる年中行事の一つ・7月11日参照>>祝賀のために江戸城に登城しようとする信正の行列が、坂下門外に差し掛かったところで、水戸脱藩浪士・6名が襲いかかりました。

坂下門外の変と呼ばれる事件です。

ところが、あの桜田門外以降、厳重になった警備は、信正の供回りだけでも数十名ほどおり、わずか6名だけでは、とてもじゃないが、暗殺が成功するはずもなく、まもなく、6名とも討ち果たされます。

しかし、混乱に乗じての篭の外からの一刺しが、運悪く信正の背中をとらえ、彼は軽傷を負ってしまいました。

・・・とは言え、この時も信正は冷静に行動しています。

信正自らが坂下門まで行き、常駐している番役に、事のなりゆきを的確に説明し、「血のついた不浄の装束では、登城する事はできない」として、江戸城には入らず、屋敷へと戻ったのでした。

この後、未だ療養期間中に、イギリス公使・オールコックと包帯姿で会見した信正・・・彼を見たオールコックは、政治家として義務を果たそうとするその姿勢と、武士の誇りに満ちた立ち居振る舞いに感激したと言います。

しかし、敵は、思わぬところに潜んでいました。

先にも書かせていただいたように、信正は、篭の後ろから突き刺された事で、背中に傷を負っていましたが、これが「武士の恥だ」と非難されるのです。

「堂々と敵に向かってこそ武士」
「背中傷は武士の屈辱である」

と・・・

しかも、それを言い出したのは、すでに幕政の中心から退きつつあった大御所的立場の武士たちだったのです。

結局、これをきっかけに、信正は老中を退任し、失脚します。

幕末維新の頃は、「どちらが良い」「どちらが悪い」と、歴史好きの中でも意見が分かれるところですが、尊攘派であれ、倒幕派であれ、幕府側であれ、その時代を生きた本人たちは、皆、日本のより良き未来を夢見て奔走したのです。

そんな中で、冷静に事変を見つめ、適切な判断力と政治手腕で、何とか幕府を維持したまま、より良い方向へ持って行こうとした信正は、幕府側の人間として、とても頑張った人だと思います。

なのに、そういった政治手腕はまったく評価せず、政治と関係のない所で足の引っ張り合いをする・・・なんだか、100年経った今でも、同じような事をやってる気がするのは、私だけでしょうか。

一所懸命に頑張ってる人を、つまらない事を以って中途半端な形で失脚させる・・・ひょっとしたら、幕府の運命は、ここで尽きていたのかも知れません。
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2010年1月14日 (木)

峰の嵐か松風か~高倉天皇と小督の悲恋物語

 

治承五年(1181年)1月14日、第80代・高倉天皇が21歳の若さで崩御されました

・・・・・・・・・・・

高倉天皇は、第77代・後白河天皇の第7皇子・・・わずか8歳での即位でした。

後白河天皇の後を継いだ第1皇子の第78代・二条天皇が、在位わずか8年で亡くなってしまい、二条天皇の皇子である第79代・六条天皇が、その後を継いだのですが、わずか4年で、今回の高倉天皇へ交代・・・

しかも、この時、先の六条天皇は、まだ5歳でした。

5歳の天皇から8歳の天皇への交代劇・・・誰が考えても、そこには、周囲の大人の意向が反映されている事はミエミエです。

すでに亡くなったとは言え、未だ政界に残る二条天皇の側近たちは、天皇自らが政治に腕を振るう天皇親政を推し進めていて、そんな彼らが擁立したのがその息子の六条天皇だったわけです。

しかし、もちろん、その天皇親政に反対する人も・・・それが、院政を行いたい後白河法皇(天皇・上皇)平清盛

その二人が、二条天皇派を牽制するために即位させたのが高倉天皇・・・というわけです。

さらに、即位から3年後の承安元年(1171年)には、11歳になった高倉天皇のもとに、15歳になった清盛の娘・徳子が入内・・・翌年には中宮となって、さらに治承二年(1178年)には、二人の間に待望の皇子・言仁親王(ことひとしんのう・後の安徳天皇)も誕生します。

しかし、上記の高倉天皇即位の頃には、強力タッグを組んでいた後白河法皇と清盛も、この皇子誕生の前年には、あの鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(5月29日参照>>)が発覚したりして、すでに、その関係には、亀裂が生じてしました。

やがて、完全に実権を握った清盛は、治承三年(1179年)の11月に、後白河法皇の院政をストップさせて鳥羽殿に幽閉・・・(11月17日参照>>)

さらに翌年には、まだ20歳の高倉天皇を退位させて、徳子が産んだ自らの孫・言仁親王に後を継がせます。・・・わずか1歳2ヶ月の天皇・・・第81代の安徳天皇です。

親父と舅に人生振り回され続けの高倉天皇ですが、その性格は、穏やかでやさしい人だったという事なので、さぞかし、両父親の間に入って、心を痛めておられた事でしょう。

『平家物語』には、そんな高倉天皇の悲恋の物語があります。

この物語自体は、清盛の横暴さを強調するための、平家物語作者の創作である可能性が高いお話なのですが、有名な美しいお話なので、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

かの高倉天皇が、すでに亡くなっている葵の前という女性を思い続け、暗く悲しい生活を送っている事を心配した中宮・徳子は、彼女のほうから進んで、小督(こごう)という女性を、女官として天皇のもとへと差し向けます。

小督は、中納言・藤原成範(なりのり)の娘で、ものすごい美人・・・

早速、右少将の冷泉隆房(れいぜいたかふさ)という男が、彼女に恋をして、たちまちのうちにいい関係になります。

彼は、代々、皇室の近臣として仕える家柄で、風流をたしなみ和歌も詠む、申し分ない男でしたが、ただ一つ・・・彼は、すでに妻子持ち。

もちろん、この頃の結婚は、例のごとく通い婚ですし、愛妾なども当然の時代ですから、普通はさほど問題はないのですが、この奥さんというのが、あの清盛の四女だったから、ちとマズイ・・・。

隠れ隠れ付き合っていた二人ですが、そこに、さらに大きな問題が・・・

そう、かの高倉天皇が、小督に夢中になっちゃたのです・・・美人の宿命と言えば、宿命ですが、考えて見れば、こっちも、奥さんは清盛の娘・・・。

二人の娘の婿殿のハートを射止められ、怒り心頭の清盛は、小督が生きている以上、この問題は解決しないと踏んで、小督を密かに殺害しようとまで考えます。

二人の男性からの気持ちに悩み、さらに身の危険を感じた小督は、夜にまぎれて宮中を抜け出し、どこかに身を隠してしまいます。

さて、困ったのは、恋こがれる高倉天皇のほうです。

早速、源仲国(みなもとのなかくに)というを呼び寄せ、
「嵯峨のあたりにいる片折戸(かたおりど)をつけた家にいるとの噂を聞いた・・・探してきてくれないか?」
と、頼みます。

天皇の泣きはらした姿を気の毒に思う仲国は、必死で嵯峨野一帯を探します。

片折戸の家を見つけては、「ここにいないか?」と家人に尋ねてみますが、いっこうに見つかりません。

やがて、日が暮れ、空には美しい月がかかります。
季節は秋・・・

もはや、あてもありませんが、天皇を命を受けて、手ぶらで帰る事もできません。

その時・・・
「そうだ!こんな月の美しい夜には、その光に誘われて法輪寺へ行かれたかも知れない」と、ワラをも掴む気持ちで、嵯峨野から桂川を渡った向こうにある法輪寺へと馬を歩かせていると、渡月橋のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきます。

峰のあらしか 松風か
尋ぬる人の 事の音
(ね)
おぼつかなくは 思へども
駒を早めて 行くほどに
片折戸をしたる内に
琴をぞ弾きすまされたる

控えて これを 聞きかれば
少しもまがふべうもなき
小督殿の爪音なり

Yorunotogetukyouccs    
夜の渡月橋・・・嵐山花灯路にて

耳をすませて、よく聞くと、確かに『思夫恋』という曲・・・
「この琴は、確かに小督の琴・・・
この月の美しい夜に、この曲を選んで奏でるとは、なんと優雅な・・・」

宮中で、何度も、小督の琴に合わせて、笛を奏でた事のある仲国が、笛を取り出してそっと吹き、戸をたたくと、琴の音がやみました・・・間違いなく小督です。

しばらくして応対に出た家人を説得して、最初は会う事さえ拒んでいた小督に、なんとか面会できた仲国・・・

小督が言うには、
「もう、ここにもいられないと思い、明日には、大原の奥に身を隠すつもりでいましたが、最後の夜となったこの月の美しい夜に、是非とも琴をせがまれて、弾いていたところでした」
との事・・・。

そんな小督に、仲国は天皇からの手紙を差し出すとともに、天皇の落ち込んだ姿、泣き泣き過ごす毎日を必死に伝え、なんとか小督を説得し、密かに、宮中の人目につかない所に住まわせ、そこに天皇が密かに通うという毎日を過ごしていました。

しかし、やはり人の噂には戸が立てられない物・・・いつしか、この事が清盛の耳に入ってしまいます。

「小督が宮中から姿を消したというのは、ウソだったのか!」
と激怒する清盛は、小督が2度と宮中へ出入りできないよう、ムリヤリ出家させ、清閑寺(じょうかんじ)へと追放したのです。

確かに、一時は尼になろうか?とも考えた小督ですが、自ら希望してなるのと、ムリヤリならされるのでは、やはり、その心情は違います。

まだ、23歳という若さで、心にそぐわない余生を送ることになってしまった彼女の心はいかばかりであったでしょうか。

そして、この事件からほどなく・・・
治承五年(1181年)1月14日高倉天皇は21歳という若さで、この世を去ったのです。

・‥…━━━☆

先にも書かせていただいたように、この小督の一件自体は、架空の出来事だったとしても、打算渦巻く政界の中で、心優しい高倉天皇が、心痛に苦しみ、その命を縮めていったのは確かかも知れません。
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2010年1月13日 (水)

土木工事の英雄・玉川兄弟~子孫の末路は?

 

承応二年(1653年)1月13日、徳川幕府により、江戸六上水の一つ・玉川上水の工事実施の命が下されました。

・・・・・・・・

もともと江戸の町は、湿地と台地からなる水の乏しい土地で、最初は神田川赤坂のため池で市民の飲料水をまかなっていましたが、町の発展とともに急激に人口が増え始めたため、とても、それだけでは足らなくなり、まずは神田上水が建設されます。

やがて、それでも水不足となってしまい、今度は承応二年(1653年)1月13日、幕府から新しい玉川上水の開発命令が下されたのです。

多摩川の水を上流の羽村で取り、四谷まで素堀(すぼり)というむき出しの堀で引き、そこから、地下にもぐって地中の石の樋(とい)によって江戸の町に分けるという計画でしたが、その中で、羽村から四谷・大木戸までの約48kmの区間を請け負ったのが、庄右衛門(しょうえもん)清右衛門(せいえもん)という兄弟でした。

ところが、工事が上高井村のあたりまで来た時、幕府から工事の費用として渡されていた六千両を使い果たしてしまい、やむなく兄弟は、その事を幕府に報告しますが、「とにかく、完成したらどうにかうまい事するので、今のところは、自費で工事を続けてくれ」と言われてしまいます。

そこで、しかたなく、手持ちの二千両と、屋敷を売った千両・・・合計・三千両の私費を投じて工事を続け、同じ承応二年11月15日、ついに大木戸までの掘割を完成させたのです。

この大事業成功のおかげで、二人は苗字帯刀を許されて200石を賜り、これ以降は玉川姓を名乗る事となり、玉川兄弟と呼ばれます。

同時に、玉川上水役に任じられた兄弟は、水銀(みずぎん・水道代)徴収や水路の修理・管理を担当する事になりました。

さすがに美談・・・大した出世と言いたいところですが、兄弟には、あまりうれしくありません。

・・・というのも、上記の水道代・・・コレ、彼らは徴収するだけで、その代金自体は、幕府の収入なわけです。

それなのに、修理などの維持管理は、彼らの仕事・・・つまり、知行の200石から捻出しなければならないわけです。

確かに、幕府から知行を貰ってる以上、そういう事になるのでしょうが、それなら、200石は、ちと安すぎ・・・とても、それで、維持管理をまかなえる物ではありませんでした。

そこで、兄弟は、その水道代も二人の収入として、それによって上水関係の出費のすべてをまかなうようにしたいという事を訴え、万治二年(1659年)に、その訴えが認められます。

ところが、そこから彼らの人生がおかしくなってしまったのです。

それは、この水道代の金額・・・これが、年間400両ほどあったという事なのです。

この400両という金額が、現在のお金に換算してどれほどの物かは微妙ですが、後に、この半額の200両で、上水に関する維持修理など、その他もろもろのすべてを請け負う業者が現れている所から見て、おそらく、半分の200両以下で、その業務を真っ当する事ができ、残り半分以上ほどは、彼ら玉川兄弟の丸儲け・・・

10両盗めば首が飛ぶと言われた時代(12月3日参照>>)に、経費を差し引いても、年間200両以上のお金が、必ず入るとなると、人生が狂ってくるのも、わからないでもありません。

ただ、さすがに、苦労した初代の頃には、さほど目立った様子もなかったのですが、やはり、問題は2代目・3代目・・・これらの事は、その最初の苦労を知らない彼らの子孫へと受け継がれていくわけですから・・・

元文四年(1739年)には、早くもよからぬ噂が立ちはじめます。

「ワイロを持ってくる武家や町人のところに優先して給水している」
「庄右衛門家は、上水の点検をやらないばかりか、修理の道具もまともに揃えないケチぶり」
「そのワリには清右衛門家が、食べるに困るほどの困窮ぶりなのは、そのお金を湯水のごとく、贅沢な遊びに使っているからだ」
などなど・・・

上記のうち、2番目は良いか悪いかは別として、あくまで経営のやり方、3番目は個人の趣味嗜好に寄るところも大きい話ですが、1番目のワイロによる差別は、明らかに犯罪・・・

さすがに、町奉行所のほうも、「噂だ」と知らぬ顔はできず、調査に乗り出しますが、その結果は、見事クロ(←やってたんかい!(#`皿´)/

結局、両家とも閉門のうえ上水役は解任・・・さらに庄右衛門家は江戸所払い(追放)の刑に処せられてしまいました(5月17日【江戸の刑罰イロイロ】参照>>)

私費を投じての大事業の成功は、当時の江戸町民の間でも、美談として大いに脚光を浴び、一時は英雄ともてはやされた玉川兄弟・・・

平成となった今も、羽村市の上水出発地点には、玉川兄弟の銅像が建っていて、桜の名所となっているそうですが、その一族の末路は、悲しいものとなってしまったようです。

現在でも、宝くじの高額当選者のその後は悲喜こもごもだそうですから、大金を持った人間の心とは、なんて弱いもの・・・負けないためにも、しっかりとした気持ちでいたいものです。

ちなみに、わが家の年末ジャンボは、わずかに、最高3000円の当たりのみで終ってしまいましたので、しっかりする事もないとは思いますが・・・(ρ_;)
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2010年1月12日 (火)

雪にまつわる大阪の昔話「雪鬼」~在原業平と交野の君

 

天気予報では、今日は、全国的に寒い一日になるそうですが、お正月も過ぎたこの頃から、まさに本格的な冬・・・寒さも一段と厳しくなる季節です。

今日は、そんな季節にぴったりの昔話を一つ・・・

それは、現在の大阪府枚方市に伝わるお話。

平安の昔、現在の大阪府枚方市・交野(かたの)付近は、交野ヶ原と呼ばれていて、第50代・文徳天皇の皇子の惟喬親王(これたかしんのう)の別荘・渚の院があり、そのあたり一帯は天皇家専用の狩場になっていました。

今も枚方市には、という地名や禁野(きんや・お狩場には一般の人は立ち入り禁止だったので)という地名も残っています。
禁野の場所については、3月1日【陸軍禁野火薬庫大爆発~枚方平和の日】でどうぞ>>)

ちなみに余談ですが、大河ドラマ『功名が辻』で知られる山内一豊が、豊臣秀吉から最初にもらった領地が禁野だと言われています。

・・・とは、言え、枚方市は、毎年、夏になると、何度も、全国一の気温をはじき出す事でも有名で、その回数と不快指数を含め、日本で一番暑い夏・・・なんて事も言われています。

そんな枚方に、こんな雪にまつわる冬物語が残っているとは、思ってもみませんでした。

しかも、その主人公は、『伊勢物語』のモデルとして有名な平安のモテモテ男・在原業平(ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)なのです。

それは、その業平が、惟喬親王のお供をして交野ヶ原に狩に来た事から始まります。

・‥…━━━☆

ある冬の寒い日に、業平は例のごとく交野ヶ原で狩を楽しんでいましたが、にわかに雪が降ってきて、あたりはみるみる真っ白な銀世界に・・・。

そうなるとどこがどこだか解からなくなり、業平は道に迷ってしまいました。

途方にくれながら、さまよい歩いていると、丘をくだったところに、押しつぶされそうなあばら家を見つけました。

トントンとその家の扉を叩き、「狩に来て雪に見舞われて困っている。助けてくれないか」と申しいれます。

「こんなむさくるしい所で良ければ・・・」と、若い女が招き入れてくれました。

囲炉裏にあたって暖をとり、ご飯や汁や酒を振舞ってもらって、ふと落ち着いてマジマジと見ると、その彼女はこの世の者とは思えない絶世の美女!

とても、こんなあばら家にひとりで住んでいるとは思えず、名前や身分を尋ねましたが、女の方は微笑むだけで、いっこうに答えませんでした。

次の日も、その次の日も雪は降りやまず、業平は家から一歩も出られまません。

こうなると、平安の色男、美人の彼女をコマさないはずがありません。

彼女のほうも相手が都で一番のイケメン業平ですから、言い寄られて、悪く思うわけがありません。

こうして、雪がやんでも、業平は都へ帰らず、交野ヶ原の彼女の家で仲むつまじく暮らしていましたが、さすがにいつまでもそこにいるわけにはいきません。

業平は、彼女を奥方に迎えたいと、「一緒に都で暮らそう」と誘いますが、彼女は「わたしは、交野ヶ原でないと生きられない田舎者、どうか都へはお一人でお帰り下さい」と泣くばかり・・・

しかし、「もはやこの女なしでは生きられない」と思った業平は、強引に誘い、女を奥方に迎えいれました。

そして、都で彼女は『交野の君』と呼ばれ、その目を見張る美しさ、奥ゆかしい立ち居振る舞いに、みな感心するばかりでした。

しかし、幸せいっぱいのはずの交野の君ですが、その表情は日に日に暗く、その体はみるみる痩せていきます。

お医者さんに診てもらっても、その原因はわかりません。

業平も心配してやさしく声をかけますが、交野の君は「交野ヶ原に帰れば元気になります」というだけでした。

やがて冬が去り、暖かい春がおとづれ・・・ある日、業平がいつものように交野の君の病室へお見舞いに行くと、布団がぐっしょり濡れていて、寝ているはずの交野の君の姿がどこにもありません。

当然、業平は、必死で彼女を探しますが、その行方はどうしてもわかりませんでした。

その夜、泣く泣く眠りについた業平は、交野の君の夢を見ます

夢の中で、交野の君は、業平に、いつもの微笑みをうかべて、やさしくほんとうの事を語りはじめました・・・

彼女は、ほんとうは、人間ではなく、交野ヶ原に何百年も住む雪の精で、木枯らし吹く野山でないと生きられないこと、
そしてあの日、業平と恋におちてしまい別れられなくなって都まで来てしまったこと・・・

そうです・・・春になり暖かくなって交野の君の体は解けて流れてしまったのです。

そして最後に
「今、私は交野ヶ原に戻ってすっかり元気になりました。
私に会いたくなったら、雪がしんしんと降る夜、交野ヶ原で、業平様のつけてくださった交野の君という名前を呼んでください。
私はいつでもあなたの前に人間の姿になって現れますから・・・。」

と言い残しました。

それからの業平は、毎年、雪の降り積もる季節になると、交野ヶ原に狩に行ったということです。

・‥…━━━☆

冒頭に書かせていただいたように、枚方は日本一暑い場所ですが、交野市との境めにある津田には、合併する以前の昭和十五年(1940年)まで、氷室村という村がありました。

今も、全国に残る氷室という地名は、その昔、平安貴族たちが楽しんだ、夏のひんやりスイーツ=カキ氷(8月5日参照>>)のための氷を、取り出し保存する場所であったと言われています。

この枚方の氷室も、そういう場所だったのかも知れません。

平安の昔、枚方にも、こんな伝説が残るほど雪が降っていたなんて(*゚ー゚*)・・・ロマンチックです。

・・・て、平安時代は、今より温暖化してたんじゃぁ?(7月3日【平安時代は今より温暖化だった?】参照>>)

まぁ、伝説・昔話なんですから、細かい事は気にしないで、ロマンチックな二人の恋に、どっぷり浸る事にいたしましょう。
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2010年1月11日 (月)

浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語

 

天平五年(733年)1月11日、奈良時代前期に活躍した天皇家の女官で、光明皇后の母である橘三千代が、推定68歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

現在、約12万はあるだろうと言われている日本人の苗字・・・

明治のはじめに「国民全員に苗字をつけなさい」との政府からのお達しによって、国民全員が苗字を名乗るようになってからは、苗字と姓の区別もなくなりましたが、もともとは、(かばね)氏・素性を表す一族の呼び方で、苗字多くなり過ぎた氏・素性を家族単位で判別するために名乗った物である事は以前も書かせていただきました。(2月13日【氏・素性と苗字の話】参照>>)

そのページにも書いたのですが、現在にも残る多くの苗字が、上記の通り、家族単位の識別のために、自らが勝手に名乗った物なわけですが、その中に源平藤橘(げんぺいとうきつ)という貴種(きしゅ)と呼ばれる姓があります。

なぜ、貴種と呼ばれるか?
それは、この4つの姓が、勝手に名乗った物ではなく、天皇から賜った姓だからです。

その中で、(みなもと)(たいら)は、ご存知のように、もともと天皇家の人・・・つまり、天皇の子供は何人もいるけど、皆を天皇家のままにしておくと人数がとんでもない事になるので、天皇の位を継ぐ可能性のある一部の人だけを皇室に残して、第2皇子や第3皇子などに、源や平の姓を与えて臣下としたのです。

そして、残りの・・・これは、天皇家ではなく、側近の豪族に与えられた姓です。

藤は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が賜った藤原という姓です。

彼は、ご存知、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺するクーデターを起こし(6月12日参照>>)大化の改新を行った人物・・・つまり、天皇家に多大な貢献をした事で、近臣の鎌足が、特別な「藤原」という姓を賜ったわけです。

・・・で、最後の(たちばな)・・・長い前置きとなりましたが、やはり天皇家に仕え、藤原ともう一つ、多大な貢献をした事で「橘」という特別な姓を賜ったのが、本日の主役・橘三千代(たちばなのみちよ)県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。

ちなみに、今回のお話とは関係ありませんが、戦国時代に、第107代・後陽成(ごようぜい)天皇から、羽柴秀吉が賜った「豊臣」という姓も賜姓です(12月19日参照>>)

・・・とは言え、この県犬養三千代さん、もともとエリートだったわけではありません。

父は県犬養東人(あがたいぬかいのあずまびと)という、従四位下という記録が残っているだけの人物で、もともと県犬養氏が、代々、天皇家の大蔵の番をする家系だったので、彼も、そのような役職についていたのでしょう。

そんな父の兄とおぼしき県犬養大伴(おおとも)という人が、あの壬申の乱の時に(10月19日参照>>)、数少ない大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)最初っからの味方であった事で、乱に勝利して実権を握った天武天皇の下で、正三位という位を貰い、この人が県犬養氏の出世頭でした。

そんな三千代ですから、結婚したのもいつの事だかわからないのですが、第30代・敏達(びたつ)天皇の4世の孫・美努(みの)との間に、長男・葛城(かつらぎ)王を天武十三年(684年)にもうけた記録が残っているので、それ以前には結婚していたという事でしょう。

ダンナである美努王という人も、皇族とは言え、4世もの孫となると、その数はメッチャ多いわけで、よほどの才能がない限り、大した出世は望めない地位だったわけで、現に、この人は、ほとんど歴史に出てきません。

しかし、このうだつの上がらないダンナのおかげで、彼女は、まず、第一歩のチャンスを掴みます。

それは、出産です。

彼女が出産したと同時期に、天皇家では軽皇子(かるのみこ)という皇子が生まれます。

この事で、彼女は、その軽皇子の乳母という地位を得たのです。
いい時に、仕込んでくれました~。

この軽皇子は、天武天皇とその皇后・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)との間に生まれた草壁皇子の息子・・・もちろん、母の鵜野讃良皇女は、この草壁皇子に皇位を継がせたかったわけですが、草壁皇子が早くに亡くなってしまったため、鵜野讃良皇女は、自らが即位して第41代・持統天皇となって、幼い軽皇子が成長するのを待ったのです。

つまり、この軽皇子は、すでに将来、天皇になる事が決まったも同然の大切な皇子だったのです。

・・・で、ここからが彼女の実力発揮!

このブログでも、以前、あの豊臣秀吉(10月17日参照>>)、そして坂本龍馬(11月15日参照>>)、まれに見る「人たらし」である事を書かせていただきましたが、おそらくは、この三千代さんも、歴史に残る人たらしだったのではないかと思います。

「人たらし」とは、人を騙すというのではなく、その話術と雰囲気で、いつの間にやら相手を自分のペースに引き込み、いつの間にやら味方につけてしまうといった感じのものです。

この時代の史料が少ないため、彼女の細かなエピソードがわからず、秀吉や龍馬のように目だちませんが、その出世ぶりを見る限り、かなりの腕前だと思いますねぇ。

彼女は、乳母という立場で、ものの見事に周囲の女性たちの信頼を獲得していくのです。

上記の通り、軽皇子の即位のために、中継ぎとして踏ん張ったのが女帝・持統天皇・・・その後は、もちろん成長した軽皇子が、第42代・文武(もんむ)天皇として即位しますが、彼が25歳という若さで亡くなってしまうため、その息子・(おびと)皇子が成長するまで、文武の母が第43代・元明天皇として、さらに、その皇女が第44代元正天皇(11月17日参照>>)として中継ぎ即位します。

つまり、それだけ、文武天皇の周囲の皇族は、女性が多くいたわけですが、女は女同志とばかりに、三千代は彼女らのハートをがっちりとキャッチして、乳母として養育係としての地位を不動の物としていったのです。

さらに、この期間・・・夫・美努王との間に作為(さい)牟漏(むろ)女王という男女2人の子供をもうけておきながら、いつの間にやら、うだつの上がらない夫を捨て、出世の見込める政界のキレ者と深い仲になるのです。

それが、あの藤原不比等(ふひと)・・・。

もちろん、この頃は、結婚と言っても、今のように同じ屋根の下に暮らすという物ではなく、夫が妻のもとへ通う「通い婚」ですから、夫から見れば、「通ってる間だけが夫婦」で、妻から見れば、「明日、通って来なくなれば、その関係も終るかも・・・」という不安定な物なので、たとえ、美努王と不比等がかぶってる期間があったとしても、今ほど「不倫」「不倫」と騒ぐような物ではなかったのです(1月27日参照>>)

自らの娘を天皇に嫁がせたいため、皇室に信頼の篤い三千代と接近する不比等、うだつの上がらない夫に見切りをつけて、上り調子の政治家と一緒になりたい三千代・・・

以前、不比等さんのご命日にも書かせていただいたように(8月3日参照>>)、二人の恋は、もはや、何もかも忘れて突進していくような若い恋ではなく、自らの立場と利害関係を見据えた大人の恋だったのです。

しかも、またまたグッドタイミングで彼女は子供を出産します。

それは、その不比等の娘・宮子が、三千代の尽力もあって、見事、文武天皇夫人となり出産した先の首皇子・・・その首皇子の誕生と同じ頃に、不比等との娘・安宿媛(あすかべひめ)を出産して、またまた、乳母兼養育係の座をゲット!

この出産から、7年後の和銅元年(708年)には、時の天皇・元明天皇の大嘗祭(おおにえのまつり・即位した天皇が初めて行う新嘗祭)新嘗祭については11月23日参照>>)の時、酒宴の席で、三千代は天皇から「天皇の命を受け、昼夜を忘れて何代にも渡って、よく働いてくれました」との言葉とともに、杯に浮く橘を賜りました。

「橘は植物の中でも最高で人にも好かれる。
枝は冬に負けずに繁栄し、葉はしぼむ事がない。
実は珠玉のように光り、金銀とともにあっても美しい・・・汝の姓を、橘の宿禰
(すくね)と改めよ

この日から三千代は、橘三千代と呼ばれる事になります。

やがて、16歳になった首皇子は、その安宿媛をお妃に迎え、24歳で天皇に即位します。

それが、第45代・聖武天皇・・・母が皇室出身ではない初めての天皇です。

そして、皇后となったのは他ならぬ安宿媛=光明皇后・・・彼女も、皇室出身ではない初めての皇后です。

三千代から見れば、亡き夫の孫が天皇になり、実の娘が皇后になる・・・見事な出世です。

もちろん、彼女には、光明皇后以外にも、先の身努王との間に生まれた子供もいるわけですが、この子供たちの出世のバックアップも怠りません。

まずは、娘の牟漏女王を、不比等の息子の1人・後に北家と呼ばれる事になる房前(ふささき)に嫁がせています。

平安時代に、藤原全盛の時代を築く藤原道長は、この北家の人なので、ある意味天下取ったゾ~!って感じですね。

こうして、人たらしの肝っ玉母さんは、子供たちの出世を見守りながら、天平五年(733年)1月11日当時としては大往生の年齢で、この世を去ります。

おそらくは、自らの波乱万丈の人生を振り返るとともに、子供たちの永遠の幸せを願って、逝かれた事でありましょうが、残念ながらも、この後、亡き夫の藤原の子供たちと、自らの橘の姓を継いだ子供たちとの間で、壮絶な政権争いが起こるとは・・・世の中、皮肉なものですが、そのお話は、2007年7月4日【闇に消えた橘奈良麻呂の乱】でどうぞ>>
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2010年1月 9日 (土)

維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺

 

明治四年(1871年)1月9日、長州藩士として明治維新に尽した広沢真臣が暗殺されました。

・・・・・・・・・・

長州藩士・柏村安利(かしわむらやすとし)の四男として生まれた広沢真臣(ひろさわさねおみ)・・・はじめは、同じ長州藩士の波多野直忠の養子となって波多野姓を名乗り、のちに藩の命令で広沢姓となりますが、今日のところは、広沢真臣さんで通させていただきます。

長州藩校の明倫館で学び、ペリー来航の時代から、尊王攘夷派尊王攘夷については藤田東湖のページで>>)として活躍した広沢は、やがて京都における長州藩の事務方として桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞(げんずい)らの下で働くようになります。

ところが、元治元年(1864年)7月19日に起こった蛤御門はまぐりごもん・禁門)の変(7月19日参照>>)・・・この変の後の藩内のゴタゴタで、一時、投獄されてしまいます。

しかし、その年の暮、あの高杉晋作功山寺で挙兵してクーデターを決行(12月16日参照>>)、藩内の保守派を一掃した事で、再び藩政の中核として返り咲く事となりました。

やがて起こった長州征伐(5月22日参照>>)の時には、幕府の長州征討軍との講和会議に出席し、幕府側の勝海舟と交渉・・・その後の一連の倒幕活動では、桂の右腕になって長州と薩摩との連絡係としても活躍しました。

その活躍ぶりは、維新が成った後、その(この頃は木戸孝允)より先に、長州藩士としてはじめてに参与の地位を得た事でもわかります。

そんな有能な維新の立役者だった広沢・・・しかし、幕末・維新の動乱が、未だ消える事ない明治四年(1871年)1月9日東京麹町の自宅で、睡眠中に刺客に襲われ、わずか39歳の生涯を終えたのです。

すでに明治の世になったとは言え、2年前の明治二年(1869年)1月には、思想家の横井小楠(しょうなん)(1月5日参照>>)が・・・、同じ年の秋には兵学者の大村益次郎が京都で襲撃され(9月4日参照>>)翌年に死亡と、未だ要人の暗殺が次々と起こっていました。

そして、ここに来て広沢の暗殺・・・

広沢の更なる活躍に期待していた明治天皇は、「早急に犯人を逮捕するように」との詔勅(しょうちょく・天皇の公的意思表示)を出されるほどに、事件解決に関心を持たれました。

たて続けに起こった要人の暗殺に天皇の詔勅・・・当然の事ながら、警察機関は、そのメンツを懸けて犯人を追う事になります。

まずは、反政府の立場をとっていた者の多かった久留米柳川熊本藩士たち・・・怪しい者を片っ端から次々と取調べを行いますが、一向に犯人は見つかりません。

取調べを受けた人数も80人を越える大捜査の中、最終的に逮捕されたのは、あの暗殺の夜、広沢の横に寝ていた愛人の女性でした。

彼女は、広沢とともに襲撃されるも、軽傷を負っただけで、その場から逃げ出していたのです。

この時代ですから、彼女は激しい拷問を受け、自白を強要されますが、結局、彼女が自白したのは、「真臣以外に、その使用人とも不倫関係にあった」という事だけでした。

警察の威信がかかってます。
・・・で、今度、逮捕されたのは、愛人の愛人だったその使用人・・・。

またもや、執拗に繰り返される拷問ですが、ついに、その使用人の自白を得る事はありませんでした。

「自白がないと罪には問えない」
とする司法省と、
「何とか早く犯人を確定したい」
警察・・・

そこで、取り入れられたのが陪審員(ばいしんいん)です。

陪審員制度は、すでに幕末の頃から、海外使節団などからの報告で日本に伝わってはいましたが、「日本での実施は難しい」として、明治憲法には採用されなかった制度です。

しかし、どうにもこうにも折り合いがつかないこの事件に対して、何とか決着をつけるために、部外者に裁判を傍聴させて、有罪か無罪かを多数決で決めようというのです。

この時は、官僚から12人が選ばれて陪審員を務めたという事ですが、「多数決って・・・しかも全員が政府側の人間でいいのか?」と、ちょっと疑問に思ってしまいますが、使用人の彼は、すでに5年間もの長きに渡って容疑者として拘束されており、もう、決着のつけようがなかったのかも知れません。

・・・で、結果は「無罪」!
使用人くんは、晴れて放免される事になります。

また、この間に、実行犯は誰であれ、暗殺する限りは、広沢に恨みを持つ人物か、敵対する人物であろうという事で、木戸孝允にも疑いの目が向けられていたのだとか・・・

以前は、広沢とともに倒幕に奔走した木戸でしたが、ここに来て、なにやら意見の食い違いがあり、広沢との関係に暗雲が立ちこめていたからなのだそうですが、結局、警察が内偵を行った程度で、事件は迷宮入りとなってしまいます。

現在のところ、やはり、明治新政府に反発する不平士族による犯行との見方が一般的ですが、すべては藪の中・・・残念ながら、事件は未解決のままとなっております。
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2010年1月 8日 (金)

江戸時代には藩も鎖国も無かった?~歴史用語の妙

 

すでに、このブログでチョコっと書かせていただいているので、ご存知の方は、すでにご存知の事なのですが、上記の表題の通り、「江戸時代には藩は無かった」んです。

・・・と言っても、もちろん、それぞれの地方はあります。

いや、むしろ、江戸時代は、独立国家の集合体のような物で、それぞれの地方は別の国となっていて、それを中央で幕府がまとめているといった感じ・・・現在よりもはるかに境界線がはっきりした物だったでしょう。

そうです。
そのそれぞれの地方を呼ぶ時の「藩」という言い方が無かったのです。

幕末に活躍する薩摩藩長州藩会津藩などという呼び方・・・なので、もちろん、時代劇などで、よく登場する、侍のセリフの「我が藩の財政は・・・」なんて言い方もしなかったワケです。

「藩」という名称が、初めて正式文書に登場するのは、明治二年(1869年)6月17日の版籍奉還(はんせきほうかん)の発布の時(6月17日参照>>)・・・この時に、各領地を治めていた、いわゆる殿様を、藩知事(はんちじ)という役職に任命して、明治政府の下で、以前と同じように治めさせたので、この藩知事という役職名から、各領地を「藩」と呼ぶようになったわけです。

・・・で、その2年後の明治四年(1871年)7月14日に、あの廃藩置県(はいはんちけん)が発布(7月14日参照>>)されて、文字通り、「藩」が廃止されて、「県」となります。

つまり、日本の歴史上、それぞれの地方を、正式に「藩」という呼び方で呼んでいたのは、わずか2年と1ヶ月という事になります。

意外と短い期間だったんですね~

実は、こんな風に、現在、私たちが使っている歴史用語や、時代劇に出て来る呼び方は、実際には、その時代には使われていない」なんて事が多々あるんですね~

たとえば、「鎌倉幕府」なんて言い方も、明治になってからの名称ですし、新聞のルーツと言われる「瓦版」も、瓦版と呼ばれるようになったのは幕末頃で、江戸時代のほとんどが「読売(よみうり)という名前で呼ばれていました(2月21日参照>>)

また、最近になってよく言われるのは「鎖国は無かった」なんていう言い方・・・。

それも、そのはず、この「鎖国」という言葉は、ケンベルという外国人の書いた『日本誌』という本を、蘭学者でオランダ通詞の役職にあった志筑忠雄(しづきただお)という人物が、享和元年(1801年)に翻訳した際に、『鎖国論』という表題にした事からできた造語なのです(3月29日参照>>)

享和元年(1801年)と言えば、あの伊能忠敬(いのうただたか)が全国を測量してた頃で(9月4日参照>>)、すでに、近海に外国船がチラホラやってきていた頃・・・ちなみに、長崎港にイギリス軍艦が侵入してくる、有名なフェートン号事件が起こるのは文化五年(1808年)です。

ご存知のように、江戸時代を通じて、日本は長崎の出島で交易をしていました(4月2日参照>>)し、ヨーロッパの国の中で、オランダの独占となったのは、どちらかと言えば、彼らヨーロッパの事情・・・

ヨーロッパの対東南アジア貿易で、まずはイギリスが出遅れて、ポルトガルとオランダの間で日本との交易の奪い合いがあり、それにオランダが勝利して、独占権を獲得したという事なのです。

その外国の事情に対し、幕府は、幕府で、対外貿易の権利を独占したいし、銀の流出も防ぎたいので、オランダ一本の方が好都合だったからそうしたという感じで、あえて肩肘張って「外国の文化は絶対入れない!」なんてやってたわけではないのです。

なので、言い回しとしては「貿易保護政策」、あるいおは「貿易引き締め政策」といったニュアンスの物だったワケですが、この志筑という人が、当時の幕府の対外政策に反対の立場をとっていた人だったので、批判の意味を込めて、当時の対外政策の事を、少しオーバーな「鎖国」という言葉で表現したのです。

その表現が正しかったかどうかはともかく、その後、文政元年(1818年)には浦賀に英国船はやって来るわ、文政八年(1825年)には外国船打ち払い令は出るわ、やがて、やって来る欧米列強の開国要求に攘夷(じょうい)の嵐の中、弱腰の幕府に反対する人々の間で、「鎖国」という、少しオーバーな表現が定着していったというのがホントのところではないでしょうか。

こうして見ると、歴史用語は「後々、そう呼ばれるようになった」みたいな部分があって、なかなかにオモシロイです。
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2010年1月 7日 (木)

室町幕府・崩壊の張本人~足利義政

 

延徳二年(1490年)1月7日、室町幕府・第8代将軍の足利義政が55歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

初代将軍・足利尊氏(たかうじ)によって開かれた室町幕府は、第3代将軍・足利義満の時代(12月30日参照>>)全盛を迎えるも、そこを頂点にやや下り気味・・・

モメにモメた後、くじ引きで将軍の座を射止めた第6代将軍・足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)は、もはや独立国家状態になっている関東を、力で押さえ込もうとしますが永享の乱:2018年2月10日参照>>)、その強引なやり方に恐れをなした赤松満祐(あかまつみつすけ)暗殺されるという事態に・・・嘉吉の乱・6月24日参照>>)

この将軍が一武将に暗殺されるという事件の勃発は、まさに戦国へのカウントダウン・・・

本日の主役・足利義政(あしかがよしまさ)は、その殺された義教の息子です。

・・・とは言え、彼には義勝という兄がおり、亡き父・義教の後を継いで第7代将軍となったのは、その義勝でした。

しかし、義勝が、わずか10歳で亡くなってしまったため、義政が家督を継いで後継者となり、その後、しばらくして第8代将軍に就任したのです。

そして、将軍就任から2年後に待っていたのは、嫁取り・・・

3代将軍の義満が、天皇家に仕える女官・日野宣子(ひののぶこ)を重用し、その日野家から正室を迎えて以来、将軍の正室は日野家からというのが定番となっていたのですが、そんな日野家から、義政の正室としてやってきたのが、あの日野富子(ひのとみこ)です。

時に、義政21歳、富子16歳・・・年齢的には、なかなかお似合いの初々しいカップルですが、当の2人はそうはいかない・・・

まぁ、本人たちの意思に関係のない政略結婚ですから、心通わないのは仕方ありませんが、義政には、すでに複数の側室がおり、特に今参局(いままいりのつぼね)という女性に夢中です。

この今参局という人・・・実は、義政の乳母で、彼に性の手ほどきをした女性・・・(おそらく、かなり年上)

もちろん、奈良・平安の昔から、高貴なお方には、こういう女性が手ほどきするのは、当時の常識なワケですが、普通は、手ほどきは手ほどきだけで、その後は男性のほうが若い女性のほうに夢中になっちゃうはずなのですが、義政と今参局の関係はそうではなかったのです。

2人の間には、女の子も生まれ、乳母から側室に昇進した今参局は、性だけでなく政にも口出すほどの権力を持ち、京都市中には「けだし政(まつりごと)は三魔に出ずるなり」なんて落書があったほど・・・

三魔(さんま)とは、今参局=御今の“ま”、寵臣・有馬持家“ま”、同じく寵臣の烏丸資任(からすますけとう)“ま”・・・この“ま”のつく3人を三魔と呼んだのです。

それくらい今参局には、権力があったという事・・・もちろん、新妻の富子に入り込む余地などありませんでした。

ところが、どっこい、入り込む余地がないならあきらめるどころか、入り込む余地のない所に、グヮ~ンと無理やり隙間を作って入り込んじゃうのが富子の性格・・・

兄・日野勝光(かつみつ)と組んで、徐々にその勢力を拡大しながら、ついに長禄三年(1459年)、義政との間に男子を出産します。

「本当は女の子なのに男子を公表した」ともっぱらの噂のいわくつきの子供ですが、義政自身は
「後継ぎができたヽ(´▽`)/」と大喜び。

どうやら、義政さん、すでにこのあたりから、できるだけ早く政治の舞台から引退して趣味の世界に走りたいとの願望があったようです。

ところが、その子は、生まれてすぐに死んでしまいます。

そして、どこからともなく「これは今参局が呪いをかけたせいだ」という噂が流れはじめます。

「どこからともなく」って、あ~た、富子に決まってんでしょうが!
・・・て、言いたいところですが、なにぶん、証拠不十分で起訴できません。

ところが、噂の出所は、わからないまでも、すっかりこの噂を信じちゃった義政さん・・・それだけ、後継ぎの死がショックだったとも言えますが、大した取調べもしないまま、あれだけ大好きだった今参局を、琵琶湖の沖島へと流罪にしてしまいます。

しかも、哀れな今参局は、まもなく島で死亡・・・富子が刺客を放ったとも、無実を訴える彼女が自ら命を絶ったとも言われます。

とにかく、これでライバル1人を葬り去った富子でしたが、その後しばらく、義政との間には子宝が恵まれない状態が続いていた寛正六年(1465年)、義政の側室の1人・宮内卿局(くないきょうのつぼね)男子を出産!・・・富子、絶体絶命のピンチとなります。

ところが、不屈の富子さん・・・「その子は義政の子ではなく、宮内卿局が近臣と密通してできた子供である」と言いだし、しかも、その言い分がまかり通って、その子は、不義の子として排除されてしまったのです。

またまたショックの義政さん・・・「だって、早く、後継ぎに政治を譲りたいんだモン」との思いのあまり、ここで、仏門に入っていた異母弟を還俗(げんぞく・出家した人が一般の世間に戻る事)させ、養嗣子にして義視(よしみ)と名乗らせ、自らの後継者とします。

「あぁ、良かった~、これで、後は弟に正式に譲るだけ」
と、思いきや、ここで、富子さんご懐妊~~

しかも、生まれた子供は男の子・・・後の義尚(よしひさ)です。

以前にも、書かせていただきましたが、改めて、はっきり言います。
これが、応仁の乱(5月20日参照>>)の発端となるのです。

もちろん、これだけではなく、そこに、もともと家内で家督争いをしていた管領家畠山氏斯波(しば)が、東西に分かれてそれぞれに味方し、さらに、それぞれを擁護する山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)細川勝元という大物が加わり、全国の大名がそれぞれに従うという、日本真っ二つの大乱となってしまうわけですが・・・

ところが、それでも、一刻も早く、趣味に走りたい義政・・・未だ、応仁の乱真っ只中である文明五年(1473年)、わずか9歳の息子・義尚に将軍職を譲り引退します。

さすがに、あまりに歳が若い事もあって、実際に全権をゆだねるのは、二年ほど経ってからですが、それでも11歳という若い将軍でした。

「これで、やっと趣味の世界に生きられるヽ(´▽`)/」と義政は思ったかも・・・。

この頃の大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)の日記(4月1日参照>>)に・・・
「男たちが戦い疲れて酒をかっ喰らってる間に、天下の政治は富子が仕切ってる
てな、悪口を書かれるほど、富子中心に世の中が動いていたわけですが、それじゃ、今日の主役・義政さんは、結局、強い嫁と回りに振り回されただけ?
何をやってたの?

と言いたいところですが、義政さんも、ちゃんと、やってます。

その一番が、勘合貿易の復活・・・一時ストップしていた貿易を復活させる事によって、幕府の財政も潤い、守護大名や管領も大儲けし、義政の時代の前半は、かなり経済が安定していたのです。

ところが、残念ながら、この後、趣味に走った義政さん・・・その成果を、全部趣味に費やしてしまいました。

建築・庭園・・・あの書院造四畳半の部屋、現在の和風建築に息づく「わび」「さび」

Dscn5533a800 義政の持仏堂=東求堂(とうぐどう・国宝)・・・日本最古の四畳半があります(銀閣寺内)

ご存知、現在、京都にある銀閣寺は、引退した義政が住んだ元・東山山荘で、彼の築いた東山文化は、今も、世界に誇れる日本の文化ですが、諸大名にその造営を命令し、大々的な工事を行い、結局は、財政難を導いてしまい、文化的には、大きな財産を残しながらも、
「応仁の乱の火種」
「室町幕府崩壊を招いた張本人」

としての汚名を着せられる事に・・・

もちろん、これだけ出過ぎる奥さんがいれば、義政さんが趣味に走った気持ちもワカランではありませんが・・・・

延徳二年(1490年)1月7日義政は、未だ、やりたい事がいっぱいの東山山荘を残して、55歳の生涯を閉じました。

もう一方の応仁の乱の火種となった異母弟の義視が、ちょうど、一年後の同じ日に亡くなる(2008年1月7日参照>>)のは運命のイタズラといったところでしょうか。

残した文化が、すばらしいだけに、その汚名は、ちょっと残念ですね。

金閣寺と銀閣寺については、6月27日【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】へどうぞ>>
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2010年1月 6日 (水)

やるね!良寛~70歳のラブソング

 

天保二年(1831年)1月6日、曹洞宗の僧で歌人・書家でもあった良寛が74歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

良寛(りょうかん)さんと言えば、小さい頃、学校の図書室にあった絵本で見た、子供たちと一緒に手毬(てまり)をついているおじいちゃん僧の姿しか思い浮かびませんねぇ。

ある時、村の子供たちとかくれんぼをしていて、良寛は田んぼにうまく隠れた・・・
ところが、そのうちに夕方になって、子供たちは次々と家に・・・もちろん、鬼だった子も・・・
翌朝早く、田んぼにやって来た農夫が、良寛を見つけて驚くと、
「し~~、そんなに大声を出したら、見つかってしまう」
と、言ったのだとか。

また、ある時は、自らが住む、庵の床下からタケノコが生えて来ると
「かわいそうに」
と、床に穴を開け、それが成長して屋根にまで伸びると、今度は屋根に穴を開けた・・・なんて、

しかし、こんな浮世離れした雰囲気で子供たちと遊んでいるだけで、後世に名を残すとは、とても思えないわけで・・・
「いったい何をした人なんだろう?」
今更ながらではありますが、考えてみました・・・

良寛は越後(新潟県)出雲崎の名主の子として生まれ、18歳の時に、隠居した父の後を継いで名主見習いとなりますが、間もなく逃げるように家を出て、そのまま尼瀬光照寺へ飛び込み、出家してしまいます。

その後、その光照寺を訪れた国仙(こくせん)和尚に憧れて弟子となり、和尚とともに、瀬戸内は備中(岡山県)玉島にある円通寺にて11年間を過ごします。

・・・と言っても、11年間、ずっと円通寺に滞在していわけではなく、諸国行脚(あんぎゃ)が禅僧の修行の一つでもあるわけですから、あくまで円通寺が基点という事で、どちらかと言えば、中国・四国や京都など、旅をして過ごす事のほうが多かったようです。

そんなある日、旅先で、恩師である国仙和尚が危篤であるとの知らせを聞き、とるものもとりあえず、円通寺へと急ぎ戻ります。

和尚は病に倒れ、確かに弱々しく見えましたが、元気に良寛を迎えてくれ、円通寺の境内に草庵を建て、そこに住むようにと、詩を送ったのです。

♪良(りょう)や愚の如く 道転(うた)た寛(ひろ)
 騰々任運(とうとうにんうん) 誰が見るを得ん
 為に附す 山形爛藤
(さんぎょうらんとう)の杖
 到
(いた)る処(ところ)壁間午睡(へきかんごすい)の閑(かん)
「良寛よ、お前はアホに見えるけど、その道(悟り)は広い。
その、物事にこだわらず、すべてを自然に任せる境地は、ワシ以外にはわからんやろなぁ。
せやから、ワシ愛用の杖を与える。
どこに行こうとも、この杖を壁に立てかけて昼寝でもしとったらえぇがな」

この詩とともに、良寛は和尚から印可(いんか)を受けます。

印可とは、悟りを開いた事の証明というか許可というか・・・とにかく、ここで和尚の弟子から、一人前の禅僧と認めてもらったわけです。
良寛、32歳の時でした。

そう、これこそが良寛の魅力・・・

冒頭に書かせていただいたように、良寛は僧であるとともに、歌人でもあり書家でもあり、その作品は高い評価を受けています。

しかし、それに酔って贅沢な暮らしをするのではなく、小さな庵を基点に諸国を歩き、自然になすがままに生きる・・・

そもそも、彼が18歳で出家した理由も、名主という封建社会の一員となる事に耐えられなかったからではないか?と言われています。

江戸時代の名主とは、その縦社会の権力機構の末端を荷う政治家といった感じ・・・上の者に抑えられ、こびへつらいながら、下の者からは容赦なく税徴を収する

良寛の生涯を見る限り、そのような事ができる人ではなかったでしょう。

彼が、ともに遊んだ子供たちは、言わば底辺にいる貧しい村の子供たち・・・そんな子供たちに笑顔を与え、ともに暮らす究極のスローライフ・・・

書家として名を馳せた後も、高名な人物からの書の依頼は断っておきながら、子供たちから「この凧の字を書いて~~」とせがまれると、喜んで書いたと言います。

国仙和尚だけが見抜いた良寛の魅力は、何もないところに何かがあるすばらしさ・・・。

印可を受けた後、円通寺を離れて、またまた諸国行脚の旅に出た後、故郷に戻って、小さな庵で暮らしていた57歳のある日、良寛は漢詩を書きつけます。

♪花無心招蝶
  蝶無心尋花
  花開時蝶来
  蝶来時花開♪

「花は無心に蝶を招き
 蝶は無心に花を尋ねる
 花が開く時に蝶は来て
 蝶が尋ねる時に花が開く」

これこそが良寛の生き方なのでしょう。

やがて、その三年後、良寛のもとにしなやかな蝶が迷い込んで来ます。

奥村マスという武士の娘で、18歳で医者に嫁いだものの、五年で離縁され、その傷心の中で出家して、貞心尼と号す尼僧となっていた女性でしたが、30歳の時に、良寛の評判を聞き、弟子になりたいと庵を訪ねて来たのです。

たまたま旅に出て留守をしていた良寛に、手土産として持参した手づくりの手毬と和歌を残して、一旦帰ります。
♪これぞこの ほとけの道に 遊びつつ
 つくやつきせぬ みのりなるらむ  ♪

旅先で、この噂を聞いた良寛も、「和歌を詠む尼僧など、いくらでもいる」と、さして興味を持たなかったのですが、庵に戻って実物を見るなり、気が変わります。
♪つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを
 とをとおさめて またはじまるを  ♪

♪つきてみよ♪「来なよ!」
どうやら、良寛さん、一発で恋に落ちたようです。

時に良寛70歳・・・月の美しい夜に、初めて会った2人は・・・

♪君にかく あい見ることの うれしさも
 まださめやらぬ 夢かとぞおもふ  ♪貞心尼

♪ゆめの世に かつもどろみて 夢をまた
 かたるも夢よ それがまにまに  ♪良寛

おいおい!スローライフは?(゚Д゚)

いやいや、蝶が舞い込んで来た時は、いつでも花開くのですから、これが自然という物なのかも知れません。

さらに、貞心尼が諸国行脚に出ていて、長く会えない時などは
♪君やわする 道やかくくる このごろは
 まてどくらせど 音づれもなき  ♪良寛

なんて、情熱的~~ヽ(´▽`)/
もはや、良寛の恋の花も開きっぱなし!

しかし、残念ながら、この恋は、わずか四年で幕を閉じます。

天保二年(1831年)1月6日良寛は74歳の生涯を閉じるのです。
もちろん、最期は貞心尼に看取られて・・・

貞心尼さんを、「老いた良寛を惑わせた、とんでもない女狐」なんて、考え方もあるようですが、今日のところは、良寛さんが、70歳にして初めて夢見た淡い恋として、ハッピーエンドで終らせてあげたいです。
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2010年1月 5日 (火)

龍馬もまねた~横井小楠の明治維新のシナリオ

 

明治二年(1869年)1月5日、幕末の儒学者で、越前(福井県)にて藩政顧問となり、後に明治新政府の参与として活躍した横井小楠が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

横井小楠(よこいしょうなん)・・・幕末好きの方なら、おそらくご存知の重要人物ですが、一般的には、あんまり、そのお名前を聞かないですね~。

しかし、この小楠さんは、あの勝海舟が、西郷隆盛とともに「天下で恐ろしい2人」として、その名前を挙げた人物・・・

さらに、坂本龍馬の言葉として有名な「日本を洗濯する」という事を彼に教え説いたのも、この小楠さん・・・そう聞くと、が然、どんな人物だったのか?、興味が沸いてきますねぇ。

今回の主役・横井小楠は、文化六年(1809年)に肥後・熊本藩士の次男として生まれました。

その家系は、桓武平氏の流れを汲み、鎌倉時代の執権として事実上天下を掌握した、あの北条氏の末裔・・・なので、本名は平時存(たいらのときひろ)で、北条平四郎時存とも言われますが、今回は横井小楠さんのお名前で呼ばせていただきます。

幼い頃から秀才の誉れ高かった小楠は、江戸に遊学する機会を与えられますが、お酒がらみの喧嘩で帰郷・・・その後、朱子学を学ぶための私塾を開いて、学政一致(学問と政治の一致)経世安民(民のための政治)を唱えて幕政を批判しますが、熊本藩では、彼の思想がまったく受け入れられず、近畿や北陸などを渡り歩きました。

そして、越前(福井県)にて、後に、彼が、理想の上司と仰ぐ事になる福井藩主・松平春嶽(しゅんがく・慶永)と出会います。

熊本では、相手にされなかった小楠の論理は、福井では、むしろ重用され、福井藩から頼まれて、藩校創設の指となる「学校問答書」なども書き送っていますし、藩政の指導役となって生糸の大量輸出も成功させました。

その土台となったのが、万延元年(1860年)に、小楠自身が著した『国是三論(こくぜさんろん)・・・経世救民殖産興業通商交易などによる民富論的富国策=つまり、産業の発達を促進し、交易によって富を得て、民衆が裕福になってこそ国も繁栄するという事を説いた物で、坂本龍馬の「船中八策」や、維新後の「五箇条の御誓文」(3月14日参照>>)の基礎にもなった名著です。

やがて、それは、参勤交代制度の廃止人材簡抜(かんばつ・選りすぐり)海軍建設通商貿易の奨励などをうたった『国是七条』に・・・

さらに、国益の確定・正しい生活様式・善悪を見抜く自由な言論の保証・学校の振興・士民への慈愛などが含まれた『国是十二条』に発展していきますが、その基本精神が、「武士は商人となって領民のための公僕(民衆に仕える)の役割となるべきである」という小楠の考えにあったため、見ようによっては、武士の身分や特権を否定する物として、一部の武士から反感を買う事になります。

そこで、起こってしまったのが、文久二年(1862年)の小楠暗殺未遂事件です。

その時、友人との酒宴の真っ最中だった小楠は、刺客に襲撃され、慌てて、刀を置いたまま命からがら逃げ出しますが、この事が、「武士の魂を捨てた」として非難ゴウゴウ・・・熊本藩から士籍剥奪処分となってしまいます。

武士の特権もさることながら、まだまだ、武士道精神もまかり通っていた頃なんですねぇ・・・つくづく、熊本に縁のない人だヮ。

武士でなくなった小楠の生活は困窮を極め、6人の家族を抱えて借金取りに追われる毎日・・・しかし、そんな彼を救ったのも、小楠を恩師と仰ぐ、かの春嶽でした。

春嶽は、小楠の生活費を心配して援助するだけでなく、熊本藩主に手紙を書いて、小楠の士籍復帰を嘆願したりもしてくれますが、当の熊本では法と先例を盾に拒否され、逆に、「熊本に戻れば士道忘却の罪で死刑になるゾ」と言われ、身の安全が保証されるまで小楠を保護する事を決意するのでした。

そんな小楠が龍馬に出会ったのは、この頃・・・元治元年(1864年)から翌年にかけてです。

上記のように、生活に困窮していた小楠に、勝海舟からの贈り物を届けるために、訪問し、時世について語り合ったと言います。

この時、冒頭に書かせていただいた「日本を洗濯」の思いを説いた他にも、当時、海軍塾塾頭となって、自信満々イケイケムードだった龍馬に「乱臣賊子(らんしんぞくし)となるなかれ」「調子に乗りすぎて危険分子とみなされないようにね」と注意を促しています。

逆に、龍馬のほうは、小楠に「大久保利通らの芝居をゆっくり見ててください・・・そして、利通らが行き詰ったらアドバイスをお願いします」と言ったのだとか・・・

ただ、ご存知のように、この時の小楠の思想に感銘を受けて「船中八策」を考案した龍馬も、乱臣賊子のほうは、うまくいかなかったようですね。

やがて、維新を迎えた小楠は、新政府に参与を命じられます。

この時の参与のメンバーは・・・
木戸孝允(たかよし)長州
小松帯刀(たてわき)薩摩
大久保利通薩摩
広沢真臣(さねおみ)長州
後藤象二郎土佐
福岡孝弟(たかちか)土佐
副島種臣(そえじまたねおみ)肥前(佐賀)
由利公正(ゆりこうせい)越前

維新に功績のあった薩長土肥(さっちょうどひ)と、龍馬の推薦のあった由利(4月28日参照>>)に混じって、士籍を剥奪された肥後人の小楠・・・しかも、まわりは親子ほど歳の違う参与たちですから、還暦を迎えたばかりの彼も、さぞかし腕が鳴った事でしょう。

もちろん、資本主義の世の中になっても、小楠の「経国安民」の精神は変わりません。
「良心を以って事にあたる」
「民のために公僕になれ」

しかし、新たな国際国家を目指すための、歴史や伝統の見直しとともに、欧米化を推進した彼の手法は、キリスト教への加担による国の否定開国を進めてキリスト教化していると受け取られ、またもや反感を買う事に・・・

かくして明治二年(1869年)1月5日、参内の帰り道の京都にて、十津川郷士らの手によって、小楠は暗殺されます。

後の裁判が大混乱となってしまったため、結局は、先の反感を持った勢力と実行犯のつながりには不明の点が多く、事件自体も後味の悪い物になってしまうのが残念ですが・・・。

それにしても、幕末・維新の頃は、龍馬をはじめ「この人がもっと生きていたら・・・」と思う死に出会いますが、この小楠さんの死も、その一つ

維新のシナリオを描き、議会政治の基礎を作り、国民のための政治を目指した横井小楠・・・小手先ではないスケールの大きな国単位の改革は、スケールの大きな人物によって成し遂げられるもの。

国民が裕福になってこそ、国は繁栄する・・・今こそ、小楠のような政治家が求められているような気がします。
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2010年1月 4日 (月)

京の冬の旅~第44回・非公開文化財特別公開へ行こう

 

昨年は、その終了間近に、いつもは見る事のできない退耕庵勝林寺伏見稲荷・お茶屋を訪れた事を書かせていただいた京の冬の旅・・・

その時にも、少し書かせていただきましたが・・・
年間を通じて観光客の多い京都も、初詣のピークも過ぎた1月半ば頃から3月半ば頃まで、唯一のオフシーズンを迎えるという事で、その時期にも多くの人が訪れるようにと開催されるイベント京の冬の旅・・・

いくつかのイベントが行われますが、やはり歴史好きの私が、いつも注目するのは、上記の通り、いつもは見られないお宝や、入れないお寺を公開してくださる「非公開文化財特別公開」です。

今年、44回目を迎えるこの特別公開は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」に合わせて、幕末にゆかりのある場所などが厳選された魅力的な物で、平成二十二年1月9日から3月22日まで、初公開を含む14箇所の寺社が、各所・600円という均一の拝観料で見られるのです。

中でも、オススメは、私も昨年拝見させていただいた東福寺塔頭の退耕庵・・・
(昨年の退耕庵のページはコチラ>>)

ここには、あの石田三成安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、関ヶ原の合戦の作戦を練った茶室・作夢軒があるという事で、やはり大河関連で昨年も公開されたのですが、実は、鳥羽伏見の戦いの時に、東福寺に長州藩の本陣がおかれた事で、ここは幕末ゆかりの場所でもあるのです。

Taikouan500 寺内の展示は、品川弥次郎ゆかりの品や、戊辰戦争の版画など、昨年とは違う展示になるようですが、もちろん、かの茶室も見せていただけるそうなので、昨年見逃した戦国ファンにもうれしい・・・ちなみに、ここは、普段は檀家さんしかは入れないお寺なので、この機会に必見です。

さらに、やはり以前ブログでご紹介した宝鏡寺・・・
そのページでも書かせていただいたように、ここも、普段は非公開で、年に2回の人形展の期間のみですが、今回はこの特別公開の最終日が、春の人形展の期間内である事で、1月の公開から、そのまま人形展に突入して、人形展終了の4月3日までの公開となります。

Dscn6398800 秋の宝鏡寺

この宝鏡寺は、歴代の皇女が住持を務めた事から百々(どどの)御所とも呼ばる皇室ゆかりのお寺で、あの和宮さまが度々訪れ、一時は住まわれた場所・・・幼い頃の和宮さまが遊ばれたお庭も拝見できます。
(宝鏡寺・紹介のページはコチラ>>)

もちろん、退耕庵・宝鏡寺以外の場所も、それぞれ魅力的・・・。

以下、上記の2ヶ所を含めて、全14ヶ所と、そのゆかりをご紹介します。

  • 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
     会津藩主・松平容保の本陣・・・(新撰組誕生の際、近藤勇が容保に謁見した部屋があります)
  • 知恩院・三門 (2月24日参照>>)
     薩摩藩・島津久光の宿所
  • 清水寺・成就院 (2月3日参照>>)
     月照(西郷隆盛と入水自殺を計った:11月16日参照>>ゆかり
  • 東福寺・退耕庵
     上記の通り品川弥次郎ゆかりの品
  • 東福寺・即宗院
     薩摩藩の島津氏久の菩提寺で輿入れ途中の篤姫が立ち寄ったり、西郷隆盛が月照と倒幕計画をねったり
  • 泉涌寺・御座所(ござしょ)霊明殿
     孝明天皇の葬儀が行われた皇室御用達の休憩場所
  • 実相院(じっそういん)
     岩倉具視が謹慎生活をおくった場所で、幕末の詳細な記録もある代々の坊官が綴った「実相院日記」が残ります。
  • 宝鏡寺(ほうきょうじ)
     上記の通り、和宮ゆかりの場所
  • 相国寺・承天閣(しょうえてんかく)美術館
     金閣寺・銀閣寺の名宝を展示
  • 仁和寺 金堂・霊宝館
     仁和寺宮(鳥羽伏見の戦いの官軍の大将)ゆかりの場所
  • 壬生寺・本堂
     ご存知、新撰組の調練場・・・壬生浪士ですから
  • 東寺・五重塔
     鳥羽伏見の戦いで官軍の本宮が置かれました。
  • 東寺・小子房(こしぼう)
     平安時代かた続く後七日御修法の儀式で使われる建物です。
  • 醍醐寺・霊宝館
     通常は春と秋にしか公開されない霊宝館で初公開を含む展示品

さぁ、始まりは1月9日から・・・もう、間もなくです。

14ヶ所中3ケ所以上を巡るとプレゼントが貰えるスタンプラリーもありですから、是非この機会にどうぞ

もちろん、私も(どこかに)行きます( ̄ー ̄)ニヤリ
 

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2010年1月 2日 (土)

鳥羽伏見の戦いの大坂湾で~初の様式海戦

 

慶応四年(明治元年・1868年)1月2日、大坂湾へと入った幕府軍艦・開陽丸が、湾内に停泊中の薩摩藩船・平運丸に砲撃しました。

・・・・・・・・・・・・・

ご存知、幕末の戊辰戦争の序盤戦・鳥羽伏見の戦い・・・

倒幕をもくろむ薩摩(鹿児島県)長州(山口県)から、その矛先をかわし、新体制の中でも、このまま徳川幕府が主導権を握る体制に持っていくべく、第15代江戸幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還します。

ふりあげたコブシの下ろし所が無くなった薩長は、王政復古の大号令というクーデターを決行し、新体制に幕府の居場所がない事を宣・・・さらに、江戸市中の治安を乱すテロ行為を行い、倒幕の戦争へと持っていこうと幕府を挑発します。

やがて、その挑発に乗ってしまった幕府が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちするに至って、大坂城にいた慶喜は、慶応四年(明治元年・1868年)1月1日「討薩の表(とうさつのひょう)を発します。

「討薩の表」とは、「朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩の重臣たちを引き渡さなければ罰する」という物で、事実上の宣戦布告・・・翌1月2日、この「討薩の表」を朝廷に届けるべく、1万5000の幕府軍が大坂城を進発したのです。

伏見街道鳥羽街道の二手に分かれて京をめざす幕府軍・・・一方、それを阻止すべく立ちはだかるのは、薩摩長州土佐(高知県)

翌・1月3日の正午頃・・・「朝廷の許可がないと通せない」とする薩長軍と、「通せ」とすごむ幕府軍との押し問答の末、強行突破しようとした幕府軍に、薩摩が砲撃を加えた事で、戦闘が開始されますこれが、鳥羽伏見の戦いなのですが、その経緯は下記の通り・・・くわしくは、それぞれのページへのリンクからどうぞ

慶応三年(1867年)
 ●10月14日・大政奉還>>
 ●12月 9日・王政復古の大号令>>
 ●12月25日・薩摩藩邸・焼き討ち事件>>
慶応四年(1868年)
 ● 1月 1日・「討薩の表」を発す
 ● 1月 2日・幕府軍が大坂城を出発
 ● 1月 3日・鳥羽伏見の戦い・戦闘開始>>
 ● 1月 5日・薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍に>>
 ● 1月 6日・敗戦の報を聞いた慶喜が大坂城を脱出
 ● 1月 8日・慶喜を乗せた開陽丸が大坂を出航>>
 ● 1月 9日・大坂城・炎上>>
 ● 1月11日・アメリカ兵・射殺事件>>

・・・となり、これ以降は、慶喜はひたすら恭順の態度をとり、合戦の舞台は関東・北陸。東北へと移動します。(3月6日:勝沼戦争>>)

・・・で、実は、この鳥羽伏見の戦いの時、大坂湾上でも、日本初の様式海戦となる幕府軍と薩摩軍の海戦が行われていたのです。

それも、鳥羽伏見の勃発より早い1月2日・・・1万5000の幕府軍が大坂城を出発したその日の出来事です。

そもそもは、その1週間ほど前の年の暮れに起こった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件・・・上記にも書かせていただいた、その事件の時に、テロ行為を行っていた薩摩の浪士たちは、身の危険を感じ、薩摩藩船・翔鳳丸(しょうほうまる)に乗って、江戸を脱出したのです。

「逃がしてなるものか!」
と、その翔鳳丸に砲撃しながら追撃したのが、幕府艦隊の旗船・開陽丸(かいようまる)でした。

この開陽丸は、慶応三年の3月に幕府が手に入れたオランダ製の帆船で、排水量=2590t、全長=72.8m、蒸気機関で走る時は10ノット(時速15.8km)の速さを持ち、26門の大砲を備えた最新最強の軍艦です。

余談ですが、後に、北海道で蝦夷共和国を設立させ、最後まで新政府に対抗する榎本武揚(えのもとたけあき)を、「新政府に無謀な戦いを挑んだ」と考える人もおられるようですが、榎本は、江戸城無血開城の時に、この開陽丸以下8隻の幕府軍艦とともに蝦夷へ脱出しており、青函トンネルのないこの時代、新政府は、新たに最新鋭の船(ストーンウォール号)を手に入れるまで、蝦夷に渡る事すら危うかったわけで、当時としては、あながち無謀とも言えないのです(3月25日参照>>)

それくらい、幕府の持つ艦隊は、世界に誇れるレベルの物・・・開陽丸は、その旗船ですから・・・

・・・で、逃げた翔鳳丸を追って、大坂湾へとやってきた開陽丸・・・艦長は、もちろん、榎本です。

そこには、薩摩藩船の平運丸(へいうんまる)春日丸が控え、そばには、あの翔鳳丸が停泊していました。

かくして慶応四年(明治元年・1868年)1月2日開陽丸は平運丸に向け、砲撃を開始します。

翌・3日には、さらに、翔鳳丸と春日丸にも砲撃・・・これが、日本史上初の様式による海戦となったのです。

この時、開陽丸は翔鳳丸と春日丸に対して25発の砲弾を放ち、一方の春日丸も18発を返しますが、双方ともに大打撃を受ける事はありませんでした。

やがて、最もスピードの遅い翔鳳丸に狙いを定めた開陽丸・・・砲撃を続けて追い込み、耐え切れなくなった翔鳳丸は阿波(徳島県)由岐(ゆき)にて自爆しました。

乗っていた薩摩の兵士は、なんとか浜に上陸するも、ほとんどが負傷していたと言います。

ちなみに、開陽丸よりスピードが速かった事で、なんとか振り切った春日丸には、後に連合艦隊を率いる東郷平八郎の若き日の姿があったのだとか・・・彼には、この海戦も、大きな経験となった事でしょう。

こうして、平運丸と春日丸には逃げられたとは言え、もともと江戸から追い続けていた翔鳳丸を撃破した榎本らは士気も上々・・・ところが、そんな、彼らのもとに、鳥羽伏見での幕府軍の敗戦の一報が届きます。

今後の作戦について、思うところのあった榎本は、慶喜に謁見するため、あわてて大坂湾へと戻り、すぐさま上陸して、一路、大坂城へと向かったのです。

そころが、なんと、その間に慶喜は、密かに大坂城を脱出して、逆に大坂湾へ・・・そして、停泊していた開陽丸に乗船して、江戸城に戻ってしまうのです。

なんてドラマチックなすれ違い・・・
男女ならね゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

スカを喰らわされた榎本は、その怒りをぶつけるかのように、大坂城に残された品々や軍資金を持てるだけ持って、別の船=富士丸に乗船して江戸へと向かうのでした。

んん~~慶喜さんったらお茶目・・・と、見てる側は思いますが、当の榎本さんは、このすれ違い劇に、さぞかし、はらわたが煮えくりかえった事でしょうね。

ドラマでは、あまり描かれない鳥羽伏見の海戦でした。
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2010年1月 1日 (金)

ぶろぐ河原の落書2010~新年のごあいさつ

 

この頃 都にハヤル物
デフレ 円高 派遣切り

離カツ 婚カツ 肉食女子が
草食男子に 群がって
夢見る夢子のオトメンが
今日も弁当を自作する

維新以来の政変で
何かが変わると期待して
じっと様子を見たけれど
小泉さんのチャイルドが
小沢ガールになっただけ

事業仕分けも良いけれど
やっぱり 世界一がいい
世界一が良いけれど
アニメの箱はいりません

仏像ガールに歴ドルと
歴史は流行ってほしいけど
流行ってほしくない物は
新型インフル のり塩事件

不況の嵐が吹き荒れて
ぼやきばかりの一年も
明けたからには 心機一転

日本の夜明けは近いぜよ
準備万端 虎視眈々
チャンジのチャンスを狙いましょう

Aranamicc

明けましておめでとうございますm(_ _)m

まずは、いつものように、建武の新政を風刺した二条河原の落書っぽく、昨年の世相を振り返り、新年のご挨拶をさせていただきました。

新年早々ご訪問いただき、ありがとうございます。
おかげさまで、このブログも4度目のお正月を迎えました。

いつも、ご愛読、感謝します。

暦女ブームは、そろそろ??かも知れませんが、歴史好きは永久に不滅です!
どうか今年も、おつきあい下さいね。

よろしくお願いしま~す( ̄▽ ̄)
 

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