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2010年1月13日 (水)

土木工事の英雄・玉川兄弟~子孫の末路は?

 

承応二年(1653年)1月13日、徳川幕府により、江戸六上水の一つ・玉川上水の工事実施の命が下されました。

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もともと江戸の町は、湿地と台地からなる水の乏しい土地で、最初は神田川赤坂のため池で市民の飲料水をまかなっていましたが、町の発展とともに急激に人口が増え始めたため、とても、それだけでは足らなくなり、まずは神田上水が建設されます。

やがて、それでも水不足となってしまい、今度は承応二年(1653年)1月13日、幕府から新しい玉川上水の開発命令が下されたのです。

多摩川の水を上流の羽村で取り、四谷まで素堀(すぼり)というむき出しの堀で引き、そこから、地下にもぐって地中の石の樋(とい)によって江戸の町に分けるという計画でしたが、その中で、羽村から四谷・大木戸までの約48kmの区間を請け負ったのが、庄右衛門(しょうえもん)清右衛門(せいえもん)という兄弟でした。

ところが、工事が上高井村のあたりまで来た時、幕府から工事の費用として渡されていた六千両を使い果たしてしまい、やむなく兄弟は、その事を幕府に報告しますが、「とにかく、完成したらどうにかうまい事するので、今のところは、自費で工事を続けてくれ」と言われてしまいます。

そこで、しかたなく、手持ちの二千両と、屋敷を売った千両・・・合計・三千両の私費を投じて工事を続け、同じ承応二年11月15日、ついに大木戸までの掘割を完成させたのです。

この大事業成功のおかげで、二人は苗字帯刀を許されて200石を賜り、これ以降は玉川姓を名乗る事となり、玉川兄弟と呼ばれます。

同時に、玉川上水役に任じられた兄弟は、水銀(みずぎん・水道代)徴収や水路の修理・管理を担当する事になりました。

さすがに美談・・・大した出世と言いたいところですが、兄弟には、あまりうれしくありません。

・・・というのも、上記の水道代・・・コレ、彼らは徴収するだけで、その代金自体は、幕府の収入なわけです。

それなのに、修理などの維持管理は、彼らの仕事・・・つまり、知行の200石から捻出しなければならないわけです。

確かに、幕府から知行を貰ってる以上、そういう事になるのでしょうが、それなら、200石は、ちと安すぎ・・・とても、それで、維持管理をまかなえる物ではありませんでした。

そこで、兄弟は、その水道代も二人の収入として、それによって上水関係の出費のすべてをまかなうようにしたいという事を訴え、万治二年(1659年)に、その訴えが認められます。

ところが、そこから彼らの人生がおかしくなってしまったのです。

それは、この水道代の金額・・・これが、年間400両ほどあったという事なのです。

この400両という金額が、現在のお金に換算してどれほどの物かは微妙ですが、後に、この半額の200両で、上水に関する維持修理など、その他もろもろのすべてを請け負う業者が現れている所から見て、おそらく、半分の200両以下で、その業務を真っ当する事ができ、残り半分以上ほどは、彼ら玉川兄弟の丸儲け・・・

10両盗めば首が飛ぶと言われた時代(12月3日参照>>)に、経費を差し引いても、年間200両以上のお金が、必ず入るとなると、人生が狂ってくるのも、わからないでもありません。

ただ、さすがに、苦労した初代の頃には、さほど目立った様子もなかったのですが、やはり、問題は2代目・3代目・・・これらの事は、その最初の苦労を知らない彼らの子孫へと受け継がれていくわけですから・・・

元文四年(1739年)には、早くもよからぬ噂が立ちはじめます。

「ワイロを持ってくる武家や町人のところに優先して給水している」
「庄右衛門家は、上水の点検をやらないばかりか、修理の道具もまともに揃えないケチぶり」
「そのワリには清右衛門家が、食べるに困るほどの困窮ぶりなのは、そのお金を湯水のごとく、贅沢な遊びに使っているからだ」
などなど・・・

上記のうち、2番目は良いか悪いかは別として、あくまで経営のやり方、3番目は個人の趣味嗜好に寄るところも大きい話ですが、1番目のワイロによる差別は、明らかに犯罪・・・

さすがに、町奉行所のほうも、「噂だ」と知らぬ顔はできず、調査に乗り出しますが、その結果は、見事クロ(←やってたんかい!(#`皿´)/

結局、両家とも閉門のうえ上水役は解任・・・さらに庄右衛門家は江戸所払い(追放)の刑に処せられてしまいました(5月17日【江戸の刑罰イロイロ】参照>>)

私費を投じての大事業の成功は、当時の江戸町民の間でも、美談として大いに脚光を浴び、一時は英雄ともてはやされた玉川兄弟・・・

平成となった今も、羽村市の上水出発地点には、玉川兄弟の銅像が建っていて、桜の名所となっているそうですが、その一族の末路は、悲しいものとなってしまったようです。

現在でも、宝くじの高額当選者のその後は悲喜こもごもだそうですから、大金を持った人間の心とは、なんて弱いもの・・・負けないためにも、しっかりとした気持ちでいたいものです。

ちなみに、わが家の年末ジャンボは、わずかに、最高3000円の当たりのみで終ってしまいましたので、しっかりする事もないとは思いますが・・・(ρ_;)
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

ありがとうございました(。・w・。 )

投稿: | 2013年10月 8日 (火) 14時33分

内容が「良かった」という事でしょうか?
それならウレシイです。

投稿: 茶々 | 2013年10月 9日 (水) 02時46分

分かりやすく参考になりました~。

投稿: 朱風 | 2016年8月 2日 (火) 11時37分

朱風さん、こんにちは~

そう言っていただけるとありがたいです。

投稿: 茶々 | 2016年8月 2日 (火) 15時39分

茶々さん、ご無沙汰です。
へぇ〜、あの兄弟の子孫って、そういう事になっていたのですか。
どうりで、玉川性の人が見当たらない訳だと納得した、羽村に生まれ育って50数年のとーぱぱでした。

投稿: とーぱぱ | 2017年3月 5日 (日) 02時26分

とーぱぱさん、こんにちは~

おぉ!地元のお話だったのですね(*^-^)

それにしても…人生が変わるほどの大金を手にすると、やはり人間は弱い物なのでしょうね~

投稿: 茶々 | 2017年3月 6日 (月) 16時14分

自分ガチの玉川兄弟の子孫で羽村に先祖代々の墓ありますが、貧乏ですよw
先祖が丸儲け、子孫が貧乏w
因果応報ですかねw
でみ、水は人にとっては欠かせないものなので、功績は認めてますがね

投稿: | 2017年4月23日 (日) 13時53分

>自分ガチの玉川兄弟の子孫で…

そうなんですか?
ホントに…スゴイ功績です。
誇りに思って良いご先祖様だと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2017年4月24日 (月) 01時13分

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