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2010年1月27日 (水)

明治に始まった日本人移民の苦悩

 

明治十八年(1885年)1月27日、第1回の官約ハワイ移民927名の皆さんが日本を出発したという事で、本日は、アメリカへと移民された皆さんの苦悩について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

人口が多いのに職が少ない・・・当時のお国の事情もあって、明治時代の初期から、多くの日本人が、海外に出稼ぎに行きました。

その中でもハワイはダントツで、現在でもハワイ州での日系人の比率はハンパなく多いです。

明治の末までに約30万人近い日本人が大規模農地の労働者として移住したと伝えられるハワイ移民ですが、ハワイがアメリカ合衆国に併合された事にともなって、その中からアメリカ本土へと移住する人が徐々に増えはじめます。

その頃になると、日本から直接アメリカ本土へと移住する人も少なくなかったわけですが、実際には、当時のアメリカは契約労働者の移住を禁止していました。

しかし、自由渡航だと言って入国し、そのまま定住してしまう人が後を絶たない状況・・・しかも、この頃の彼らは、定住と言っても、骨を埋めようという気は毛頭なく、完全に出稼ぎ気分でしたから、「郷に入れば郷に従え」の気持ちもまったくなく、アメリカ社会に溶け込もうともしませんでしたから、徐々に現地の人たちに煙たがられるようになっていくのです。

ただし、彼らは、安い賃金で真面目に働く・・・いや、むしろ、これがまたアメリカ人自身の雇用不安をあおりました。

なんだか、バブル景気の頃に日本にやって来たアジア系の人々にそっくりですね~。

さらに、この頃の日本人の移住が、サンフランシスコに集中していた事から、やがて、サンフランシスコの市民大会日本人移民の制限が話し合われるようになりますが、ここで、一つの事件が勃発します。

その発端となったのは、明治三十九年(1906年)4月18日に起こったサンフランシスコ大地震という天災なのですが、その時に、多くの建物とともに、市内の学校も焼失してしまった事から、市教育局から、「日本人の生徒は、中国人街の東洋人学校へ転校せよ」との命令が出たのです。

しかし、当時のサンフランシスコ市内の日本人学童は、全部合わせても100人程度・・・全体から見れば微々たる人数で、これが、日本人を一般の学校から締め出そうと考えた、先の市民運動を受けての処置である事は明白です。

早速、時の上野李三郎領事が猛抗議・・・これを受けて、この問題は中央で話し合われる事となり、時の大統領・ルーズベルトとの間で、「先のサンフランシスコ市の処置を撤回する変わりに、日本側も労働目的の渡航を厳しく制限するように」という約束がなされました。

やっと、一安心・・・と思いきや、これで、直接の渡航はなくなったものの、約束の網の目をくぐって、一旦ハワイを経由してやってきたり、すでに定住している人が家族を呼んだり・・・しかも、この頃の日本は「産めよ増やせよ」の時代ですから、現地での出産の数もハンパなく、結局、移民の増加に歯止めがかかる事はなかったのです。

そのため、日本人を排斥しようという運動が下火になる事はなく、やがて大正二年(1913年)には、カリフォルニア州で、「定住日本人に対する土地所有禁止」の法案が制定されてしまいます。

そこで、大正八年(1919年)には、パリ平和会議において、国際連盟の規約の中に「人種差別撤廃」の項目を入れるよう日本側から要求が出されますが、これが受け入れられなかったばかりか、日本人排斥の運動は、さらにアメリカ全土へと広がっていきます。

そして、とうとう大正十三年(1924年)、アメリカ政府は『排日移民法』を制定して、日本人の移民を完全に禁止したのです。

・・・と書けば、なにやら、アメリカ側からのひどく一方的な処置のように聞こえますが、実は、この法案が提出された時には、アメリカの中でも「それは厳しすぎる」として、先のルーズベルト大統領のところで約束された紳士的な協定を重要視する議員もたくさんいたのです。

ところが、当時の駐米大使・埴原正直が、
「こんな法案が成立したら、日米の関係がややこしい事になるでぇ~」
的な、ちょっと挑発する言い方で対抗してしまったために、それを受ける形で一気に成立してしまったのです。

個人を攻撃するつもりはありませんが、まさに、「郷に入れば郷に従え」・・・習慣の違い、意志疎通の不備による言葉の行き違いの結果でした。

さらに、その後の日本が日中戦争を起していく中で、アメリカ本土にいた日本人移民は、更なる肩身の狭い思いを味わう事になるのです。

やがて勃発した太平洋戦争の戦時下で、アメリカ本土に住む11万人の日系人が強制収容所に入れられたという話は有名ですが、そんな日本人への差別を一掃させたのは、ほかならぬ、移民の子供たち・・・そう、日系2世たちです。

彼らが、進んで志願兵となって最前線で戦い、並々ならぬ軍功を挙げ、アメリカへの忠誠心を見せつけてくれたおかげで、戦後のアメリカでは、日系人に対する偏見が見事に掻き消され、現在のようになったわけです。

見知らぬ土地に行って、未開なる農地を開拓する・・・ただ、それだけでも、大変な苦労が想像できますが、そこに両国の政治的な要素がのしかかる・・・

名もなき人々の苦悩の上に、今の日米関係がある事を、日本にいる私たちも、決して忘れてはならないと思います。
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コメント

こんにちわ、茶々様。
現在 私は発展途上国の東南アジアで会社を興し格闘中です。まさに格闘。私は命を懸けて現地人と戦っています。「なぜ戦うの?」という質問があるとは思いますが、それは『日本人の道徳』と『現地人の道徳』があまりにもかけ離れているために衝突が起こります。『郷に入れば郷に従え』という言葉がありますが、自分の道徳感を貫こうとした時には相手には受け入れてもらえないし、相手の道徳感は私にとっては非常に抵抗があるものなので受け入れる事は出来ません。
私はよく思うのですが過去にハワイ、ブラジルに渡った日本人・・・言葉、文化、天候、道徳が違う異国の地で戦った古人を尊敬してなりません。現在は多くの国で日系3世の方がそれなりに事業を築き、多くの方が成功しています。
>名もなき人々の苦悩の上に
・・・まさしくその通りだと思います。

今日の記事はいつもに増して『元気』をもらいました。今日も茶々様に『感謝』です。

投稿: DAI | 2010年1月27日 (水) 13時59分

DAIさん、こんばんは~

実は、記事を書きながらDAIさんの事を思い浮かべておりました。

そして、アメリカに住んでいる伯母と中学時代の友人と・・・

国内の転勤でさえ、知らない土地だとあんなに不安なのに、海外となるとどんなに大変なんだろうと、深く考えました。

>『元気』をもらいました。

なんて、言っていただけるとうれしいです。

投稿: 茶々 | 2010年1月27日 (水) 18時52分

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