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2010年1月 7日 (木)

室町幕府・崩壊の張本人~足利義政

 

延徳二年(1490年)1月7日、室町幕府・第8代将軍の足利義政が55歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初代将軍・足利尊氏(たかうじ)によって開かれた室町幕府は、第3代将軍・足利義満の時代(12月30日参照>>)全盛を迎えるも、そこを頂点にやや下り気味・・・

モメにモメた後、くじ引きで将軍の座を射止めた第6代将軍・足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)は、もはや独立国家状態になっている関東を、力で押さえ込もうとしますが永享の乱・2月10日参照>>)、その強引なやり方に恐れをなした赤松満祐(あかまつみつすけ)暗殺されるという事態に・・・嘉吉の乱・6月24日参照>>)

この将軍が一武将に暗殺されるという事件の勃発は、まさに戦国へのカウントダウン・・・

本日の主役・足利義政(あしかがよしまさ)は、その殺された義教の息子です。

・・・とは言え、彼には義勝という兄がおり、亡き父・義教の後を継いで第7代将軍となったのは、その義勝でした。

しかし、義勝が、わずか10歳で亡くなってしまったため、義政が家督を継いで後継者となり、その後、しばらくして第8代将軍に就任したのです。

そして、将軍就任から2年後に待っていたのは、嫁取り・・・

3代将軍の義満が、天皇家に仕える女官・日野宣子(ひののぶこ)を重用し、その日野家から正室を迎えて以来、将軍の正室は日野家からというのが定番となっていたのですが、そんな日野家から、義政の正室としてやってきたのが、あの日野富子(ひのとみこ)です。

時に、義政21歳、富子16歳・・・年齢的には、なかなかお似合いの初々しいカップルですが、当の2人はそうはいかない・・・

まぁ、本人たちの意思に関係のない政略結婚ですから、心通わないのは仕方ありませんが、義政には、すでに複数の側室がおり、特に今参局(いままいりのつぼね)という女性に夢中です。

この今参局という人・・・実は、義政の乳母で、彼に性の手ほどきをした女性・・・(おそらく、かなり年上)

もちろん、奈良・平安の昔から、高貴なお方には、こういう女性が手ほどきするのは、当時の常識なワケですが、普通は、手ほどきは手ほどきだけで、その後は男性のほうが若い女性のほうに夢中になっちゃうはずなのですが、義政と今参局の関係はそうではなかったのです。

2人の間には、女の子も生まれ、乳母から側室に昇進した今参局は、性だけでなく政にも口出すほどの権力を持ち、京都市中には「けだし政(まつりごと)は三魔に出ずるなり」なんて落書があったほど・・・

三魔(さんま)とは、今参局=御今の“ま”、寵臣・有馬持家“ま”、同じく寵臣の烏丸資任(からすますけとう)“ま”・・・この“ま”のつく3人を三魔と呼んだのです。

それくらい今参局には、権力があったという事・・・もちろん、新妻の富子に入り込む余地などありませんでした。

ところが、どっこい、入り込む余地がないならあきらめるどころか、入り込む余地のない所に、グヮ~ンと無理やり隙間を作って入り込んじゃうのが富子の性格・・・

兄・日野勝光(かつみつ)と組んで、徐々にその勢力を拡大しながら、ついに長禄三年(1459年)、義政との間に男子を出産します。

「本当は女の子なのに男子を公表した」ともっぱらの噂のいわくつきの子供ですが、義政自身は
「後継ぎができたヽ(´▽`)/」と大喜び。

どうやら、義政さん、すでにこのあたりから、できるだけ早く政治の舞台から引退して趣味の世界に走りたいとの願望があったようです。

ところが、その子は、生まれてすぐに死んでしまいます。

そして、どこからともなく「これは今参局が呪いをかけたせいだ」という噂が流れはじめます。

「どこからともなく」って、あ~た、富子に決まってんでしょうが!
・・・て、言いたいところですが、なにぶん、証拠不十分で起訴できません。

ところが、噂の出所は、わからないまでも、すっかりこの噂を信じちゃった義政さん・・・それだけ、後継ぎの死がショックだったとも言えますが、大した取調べもしないまま、あれだけ大好きだった今参局を、琵琶湖の沖島へと流罪にしてしまいます。

しかも、哀れな今参局は、まもなく島で死亡・・・富子が刺客を放ったとも、無実を訴える彼女が自ら命を絶ったとも言われます。

とにかく、これでライバル1人を葬り去った富子でしたが、その後しばらく、義政との間には子宝が恵まれない状態が続いていた寛正六年(1465年)、義政の側室の1人・宮内卿局(くないきょうのつぼね)男子を出産!・・・富子、絶体絶命のピンチとなります。

ところが、不屈の富子さん・・・「その子は義政の子ではなく、宮内卿局が近臣と密通してできた子供である」と言いだし、しかも、その言い分がまかり通って、その子は、不義の子として排除されてしまったのです。

またまたショックの義政さん・・・「だって、早く、後継ぎに政治を譲りたいんだモン」との思いのあまり、ここで、仏門に入っていた異母弟を還俗(げんぞく・出家した人が一般の世間に戻る事)させ、養嗣子にして義視(よしみ)と名乗らせ、自らの後継者とします。

「あぁ、良かった~、これで、後は弟に正式に譲るだけ」
と、思いきや、ここで、富子さんご懐妊~~

しかも、生まれた子供は男の子・・・後の義尚(よしひさ)です。

以前にも、書かせていただきましたが、改めて、はっきり言います。
これが、応仁の乱(5月20日参照>>)の発端となるのです。

もちろん、これだけではなく、そこに、もともと家内で家督争いをしていた管領家畠山氏斯波(しば)が、東西に分かれてそれぞれに味方し、さらに、それぞれを擁護する山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)細川勝元という大物が加わり、全国の大名がそれぞれに従うという、日本真っ二つの大乱となってしまうわけですが・・・

ところが、それでも、一刻も早く、趣味に走りたい義政・・・未だ、応仁の乱真っ只中である文明五年(1473年)、わずか9歳の息子・義尚に将軍職を譲り引退します。

さすがに、あまりに歳が若い事もあって、実際に全権をゆだねるのは、二年ほど経ってからですが、それでも11歳という若い将軍でした。

「これで、やっと趣味の世界に生きられるヽ(´▽`)/」と義政は思ったかも・・・。

この頃の大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)の日記(4月1日参照>>)に・・・
「男たちが戦い疲れて酒をかっ喰らってる間に、天下の政治は富子が仕切ってる
てな、悪口を書かれるほど、富子中心に世の中が動いていたわけですが、それじゃ、今日の主役・義政さんは、結局、強い嫁と回りに振り回されただけ?
何をやってたの?

と言いたいところですが、義政さんも、ちゃんと、やってます。

その一番が、勘合貿易の復活・・・一時ストップしていた貿易を復活させる事によって、幕府の財政も潤い、守護大名や管領も大儲けし、義政の時代の前半は、かなり経済が安定していたのです。

ところが、残念ながら、この後、趣味に走った義政さん・・・その成果を、全部趣味に費やしてしまいました。

建築・庭園・・・あの書院造四畳半の部屋、現在の和風建築に息づく「わび」「さび」

Dscn5533a800 義政の持仏堂=東求堂(とうぐどう・国宝)・・・日本最古の四畳半があります(銀閣寺内)

ご存知、現在、京都にある銀閣寺は、引退した義政が住んだ元・東山山荘で、彼の築いた東山文化は、今も、世界に誇れる日本の文化ですが、諸大名にその造営を命令し、大々的な工事を行い、結局は、財政難を導いてしまい、文化的には、大きな財産を残しながらも、
「応仁の乱の火種」
「室町幕府崩壊を招いた張本人」

としての汚名を着せられる事に・・・

もちろん、これだけ出過ぎる奥さんがいれば、義政さんが趣味に走った気持ちもワカランではありませんが・・・・

延徳二年(1490年)1月7日義政は、未だ、やりたい事がいっぱいの東山山荘を残して、55歳の生涯を閉じました。

もう一方の応仁の乱の火種となった異母弟の義視が、ちょうど、一年後の同じ日に亡くなる(2008年1月7日参照>>)のは運命のイタズラといったところでしょうか。

残した文化が、すばらしいだけに、その汚名は、ちょっと残念ですね。

金閣寺と銀閣寺については、6月27日【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】へどうぞ>>
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

今参局は乳母ではなく、「侍女」であった説もあり、年齢は「少し年上」程度とも言われます。今日の記事を読むと話がメロドラマそのもので、16年前にこれを大河ドラマ(花の乱)で放送しています。
「戦国時代突入」の理由として、応仁の乱で加勢した有力大名などが、さまざまな事情を抱え、それが一気に表面化して全国に飛び火して、紛争の絶えない状態になったと言われます。大規模な戦いで中央政府の幕府が弱体化して、諸大名への統制がほぼ不可能になった様です。
将軍の跡目争いだけなら、その後100年も将軍の統制が利かない、と言うのはありえないからです。

投稿: えびすこ | 2010年1月 7日 (木) 17時41分

義政=東山文化のイメージが強いですが、応仁の乱で京都中が焼け野原になり貴重な文化遺産になったかもしれない多数のモノが灰燼に帰してしまったのは残念。女性に振り回される人だったのかな。でも銀閣寺という素晴らしい建物を造ってくれ(当時の人は困ったかもですが)往時をしのぶことが出来、未来の私たちとしては「ありがとね」って感じがしてしまいます。

投稿: Hiromin | 2010年1月 7日 (木) 20時29分

えびすこさん、こんばんは~

今参局は、15~6歳くらい年上ではないか?という事らしいですが、いずれにしても、医療が発達していない時代に、普通に子供を産める年齢なので、私たちが想像するほと年上ではないのかも知れませんね。

>応仁の乱で加勢した有力大名などが、さまざまな事情を抱え・・・

なんたって、最初の合戦は、御霊神社の畠山ですからね。
北陸の富樫も身内で東西に分かれた口ですもんね。
こっちは、加賀の一向一揆にヤラれちゃいますが・・・

投稿: 茶々 | 2010年1月 8日 (金) 00時09分

Hirominさん、こんばんは~

>貴重な文化遺産になったかもしれない多数のモノが灰燼に帰してしまった・・・

そうですよね。
京都市中で、焼けずにすんだのは千本釈迦堂くらいですもんね。
東寺やらの昔の姿も、見てみたかったです。

東山文化も、それはそれで貴重ですが・・・

投稿: 茶々 | 2010年1月 8日 (金) 00時13分

茶々さん こんばんは!

文化の隆盛期は政治が堕落しているって言われているときが多いってテストの評論で読んだ事があるような。元禄や化政然り。そして財政難に(笑)
まあ義政さんの気持ちも分かります。あれだけ幕府がぐだぐだな状態だったら嫌にもなりますよ、親父も殺されてるし、奥さんがとんでもないし、逃げたくもなります。ただそういう意味では将軍の器ではなかったのかもしれませんね。実朝さんと気が合うかも(笑)

投稿: ryou | 2010年1月18日 (月) 18時04分

ryouさん、コメントありがとうございます。

>実朝さんと気が合うかも(笑)

そうですね。
実朝も
「どうせ、僕には政治させてくれないんでしょ(# ̄З ̄)」
と、スネてたような雰囲気ですね。

投稿: 茶々 | 2010年1月18日 (月) 19時40分

今話題の「応仁の乱」を読んだら、富子は当初「義視殿が将軍?いいわよ。善尚が将軍になるまでの中継ぎなら。」という考えで、妹と結婚させたりそれなりに仲良くやろうとしていた。
応仁の乱の引き金を引いたのは「嫡男の義尚様を将軍にして、その系統から今後も将軍を出し続けたい。見返りに幕府での発言権をアップさせたり甘い汁を吸ったりしたい派」と「今後は義視様の系統から将軍を出したい。見返りにこれまで無縁だった権力を握りたい・義尚派が抱き込んだ生意気な新興勢力山名(義尚派)を押さえ込んで既得利権を守りたい派」「将軍様と富子様の方針はすでに決まって、義視様もそれで良いと言っているんだからガタガタ抜かすんじゃあない!派(代表・細川)」の三派閥の抗争であり、富子も義政も彼らの思惑に巧みに踊らされてしまった…と書かれていて非常に驚きました。
これが真実なら富子も義政も被害者ですよね…。(為政者なので、小物に踊らされたこと事態が罪になるかも知れませんが。)
歴史を学ぶ難しさを改めて思い知らされた気分です。

投稿: パイナップル | 2017年7月15日 (土) 16時48分

パイナップルさん、こんばんは~

そうですね。
主軸が将軍家の後継ぎ問題だけでは無く、様々に枝分かれしてるので、とてもややこしいですね。
そのぶん、様々な考え方があり、それを考えていくところがオモシロイのだと思います。

投稿: 茶々 | 2017年7月16日 (日) 03時12分

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