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2010年1月 9日 (土)

維新動乱の未解決事件~広沢真臣・暗殺

 

明治四年(1871年)1月9日、長州藩士として明治維新に尽した広沢真臣が暗殺されました。

・・・・・・・・・・

長州藩士・柏村安利(かしわむらやすとし)の四男として生まれた広沢真臣(ひろさわさねおみ)・・・はじめは、同じ長州藩士の波多野直忠の養子となって波多野姓を名乗り、のちに藩の命令で広沢姓となりますが、今日のところは、広沢真臣さんで通させていただきます。

長州藩校の明倫館で学び、ペリー来航の時代から、尊王攘夷派尊王攘夷については藤田東湖のページで>>)として活躍した広沢は、やがて京都における長州藩の事務方として桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞(げんずい)らの下で働くようになります。

ところが、元治元年(1864年)7月19日に起こった蛤御門はまぐりごもん・禁門)の変(7月19日参照>>)・・・この変の後の藩内のゴタゴタで、一時、投獄されてしまいます。

しかし、その年の暮、あの高杉晋作功山寺で挙兵してクーデターを決行(12月16日参照>>)、藩内の保守派を一掃した事で、再び藩政の中核として返り咲く事となりました。

やがて起こった長州征伐(5月22日参照>>)の時には、幕府の長州征討軍との講和会議に出席し、幕府側の勝海舟と交渉・・・その後の一連の倒幕活動では、桂の右腕になって長州と薩摩との連絡係としても活躍しました。

その活躍ぶりは、維新が成った後、その(この頃は木戸孝允)より先に、長州藩士としてはじめてに参与の地位を得た事でもわかります。

そんな有能な維新の立役者だった広沢・・・しかし、幕末・維新の動乱が、未だ消える事ない明治四年(1871年)1月9日東京麹町の自宅で、睡眠中に刺客に襲われ、わずか39歳の生涯を終えたのです。

すでに明治の世になったとは言え、2年前の明治二年(1869年)1月には、思想家の横井小楠(しょうなん)(1月5日参照>>)が・・・、同じ年の秋には兵学者の大村益次郎が京都で襲撃され(9月4日参照>>)翌年に死亡と、未だ要人の暗殺が次々と起こっていました。

そして、ここに来て広沢の暗殺・・・

広沢の更なる活躍に期待していた明治天皇は、「早急に犯人を逮捕するように」との詔勅(しょうちょく・天皇の公的意思表示)を出されるほどに、事件解決に関心を持たれました。

たて続けに起こった要人の暗殺に天皇の詔勅・・・当然の事ながら、警察機関は、そのメンツを懸けて犯人を追う事になります。

まずは、反政府の立場をとっていた者の多かった久留米柳川熊本藩士たち・・・怪しい者を片っ端から次々と取調べを行いますが、一向に犯人は見つかりません。

取調べを受けた人数も80人を越える大捜査の中、最終的に逮捕されたのは、あの暗殺の夜、広沢の横に寝ていた愛人の女性でした。

彼女は、広沢とともに襲撃されるも、軽傷を負っただけで、その場から逃げ出していたのです。

この時代ですから、彼女は激しい拷問を受け、自白を強要されますが、結局、彼女が自白したのは、「真臣以外に、その使用人とも不倫関係にあった」という事だけでした。

警察の威信がかかってます。
・・・で、今度、逮捕されたのは、愛人の愛人だったその使用人・・・。

またもや、執拗に繰り返される拷問ですが、ついに、その使用人の自白を得る事はありませんでした。

「自白がないと罪には問えない」
とする司法省と、
「何とか早く犯人を確定したい」
警察・・・

そこで、取り入れられたのが陪審員(ばいしんいん)です。

陪審員制度は、すでに幕末の頃から、海外使節団などからの報告で日本に伝わってはいましたが、「日本での実施は難しい」として、明治憲法には採用されなかった制度です。

しかし、どうにもこうにも折り合いがつかないこの事件に対して、何とか決着をつけるために、部外者に裁判を傍聴させて、有罪か無罪かを多数決で決めようというのです。

この時は、官僚から12人が選ばれて陪審員を務めたという事ですが、「多数決って・・・しかも全員が政府側の人間でいいのか?」と、ちょっと疑問に思ってしまいますが、使用人の彼は、すでに5年間もの長きに渡って容疑者として拘束されており、もう、決着のつけようがなかったのかも知れません。

・・・で、結果は「無罪」!
使用人くんは、晴れて放免される事になります。

また、この間に、実行犯は誰であれ、暗殺する限りは、広沢に恨みを持つ人物か、敵対する人物であろうという事で、木戸孝允にも疑いの目が向けられていたのだとか・・・

以前は、広沢とともに倒幕に奔走した木戸でしたが、ここに来て、なにやら意見の食い違いがあり、広沢との関係に暗雲が立ちこめていたからなのだそうですが、結局、警察が内偵を行った程度で、事件は迷宮入りとなってしまいます。

現在のところ、やはり、明治新政府に反発する不平士族による犯行との見方が一般的ですが、すべては藪の中・・・残念ながら、事件は未解決のままとなっております。
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コメント

こんにちは。
木戸ファンとしては容疑者扱いされるのは心外ですね~。

兄弟が亡くなったより悲しいと日記に書き、下級官員が事件解明に熱心では無いとたびたび苦情を言ったりしたそうです。
意見の食い違いで暗殺するなら、大久保利通をやっといた方が遙かに…(笑)

投稿: 花曜 | 2010年1月 9日 (土) 14時13分

花曜さん、こんばんは~

書くの忘れてましたが、最後まで捜査を続行するように提言したのも木戸さんですもんね。

たぶん、木戸さんではないと私も思います。

>意見の食い違いで暗殺するなら、大久保利通を・・・

確かに・・・
征台の時には、かなり怒ってたと思いますww

投稿: 茶々 | 2010年1月 9日 (土) 17時34分

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