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2010年2月27日 (土)

武勇の八幡太郎義家が冷遇されたワケは?

康平六年(1063年)2月27日、前九年の役安倍貞任を破った源義家が出羽守に任ぜられました。

・・・・・・・・・・

源義家(みなもとのよしいえ)は、藤原道長の四天王と呼ばれた河内源氏の祖・源頼信(よりのぶ)の長男・頼義(よりよし)の息子として長暦三年(1039年)に生まれます。

母は、上野介(こうずけのすけ)を務めた平直方(なおかた)の娘で、頼義の武勇に惚れこんだ直方が、「ぜひ!わが娘を・・・」と望んだ結婚だったようです。

7歳になった義家は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう・八幡市)で元服し、以後、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)と呼ばれます。

Dscn1301a800 石清水八幡宮

そんな義家が、父について東北の地にやって来たのがいつの事なのかは定かではありませんが、前九年の役が勃発してから数年後の天喜五年(1057年)の黄海(きのみ)の戦に出陣している事から、少なくともその頃・・・19歳くらいの時には、父のもとで奮戦していたようです。

義家の父・頼義は、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平安のはじめに、阿弖流為(あてるい)の軍勢を破って以来(11月5日参照>>)、平定したとは言えど、何かと不穏な空気が拭えない東国に、都から派遣されてきた陸奥守(むつのかみ)でした。

・・・で、当時の最大勢力であった安倍一族とのモメ事を発端に始まった前九年の役では、亡き父・安倍頼時(あべのよりとき)の後を継いで奮戦する安倍貞任(さだとう)と義家による、和歌の伝説なども生まれつつも(9月17日参照>>)衣川の戦いで敗れた安倍一族は、ここで滅亡する事となります。

戦いに勝利して帰京を果たした父・頼義は伊予守(いよのかみ)に任ぜられ、続いて康平六年(1063年)2月27日、息子・義家も出羽守(でわのかみ)に任ぜられたのです。

しかし、本来なら、父を継承する陸奥守・鎮守将軍の座が欲しかった義家・・・
不満を漏らしたからなのか?
それとも、義家自身が希望したのか?

とにかく、出羽守から越中守(えっちゅうのかみ)となった義家・・・このため、父も子も、東北から離れる事となり、彼らのいなくなった東北の地は、前九年の役で頼義らに協力した清原氏の清原武則(きよはらたけのり)鎮守将軍に抜擢されたのです。

その後、父・頼義は承保二年(1075年)に88歳の長寿を真っ当し、家督を継いだ義家は、しばらくの間、公家や貴族のガードマンという地味な仕事についてます。

やがて、再び義家が東北の地にやって来るのは永保三年(1083年)9月・・・45歳の時でした。

やっと念願の陸奥守兼鎮守将軍に任ぜられたのです。

あの安倍一族を破ってから20年・・・義家がずっと望んでいたからなのか?
何となく不穏な空気が流れ始めた東北の地に、朝廷が警戒したのか?

その予想通り、まもなく、かの清原氏同志の内紛が始まります。

これが後三年の役と呼ばれる戦い(11月14日参照>>)

この清原氏同志の内紛を何とか収めようと、清原清衡(きよひら)に味方して、義弟の清原家衡(いえひら)を倒した義家でしたが、この個人的とも言えるお家騒動に、都から派遣されている鎮守将軍が介入した事に朝廷は激怒・・・義家は陸奥守を解任され、京へと戻されます。

しかも、新たな荘園を持つ事も禁止という冷たい処置を受けてしまいます。

やがて承徳二年(1098年)・・・60歳を越えた義家に、ようやく少しの光が差します。

やっとこさ、正四位下(しょうしいのげ)を賜り、武士として初めて院昇殿(いんしょうでん・上皇のいる院御所の殿上に行ける事)が許されました。

もちろん、彼の数々の武勇が報われたわけですが、それでも公家の中には、「武勇は認めるけど、昇殿まで許さなくっても・・・」と不満も漏らす者も多くいました。

「命賭けて頑張ってんのに、なんで???」

実は、将軍という名を聞いて「おぉ・・・(*゚▽゚)ノと憧れのまなざしとなるのは、後に、源頼朝→足利尊氏→徳川家康と、武家の棟梁がその名を継いで、はじめて名誉の代名詞となったわけで、その(昇殿を許された)最初の人である義家は、彼ら子孫から見て、「武家の棟梁・八幡太郎の流れを汲む・・・」と、自慢の対象となりますが、その八幡太郎自身は、未だ、貴族から見て、差別感の拭えない従者に過ぎなかったのです。

それは、昨年の最後の日=12月31日に書かせていただいた「軍事=悪(ケガレ)という考え方からです(12月31日参照>>)

後に、義家が亡くなった時にも、「屋敷から鬼が出てきて連れて行ったんだ」とか、「あれだけ人を殺したんだから、きっと地獄に落ちるよね」などと公家たちが噂しあってたのだとか・・・。

しかし、結果的に義家に官位を与え、昇殿を許したのは、彼ら武士の持つ武力への恐れとともに、その武力があるからこそ自分たちの身が守られている事を、朝廷も気づいていたからに他ならないのです。

軍事はケガレなのか?
正義の鉄槌なのか?

おそらく、これは永遠に答えにたどり着く事のない難問なのかもしれませんが、誕生以来、ずっと、このように、公家から冷遇されていた武士・・・

それを、見事に払拭したのが、八幡太郎から数えて4代目の、あの頼朝・・・彼は、幕府という、「もはや独立国?」と言っても過言ではないくらいの、まったく新しい政権・制度を作りあげて、武士を、その労力に見合う正統な地位に押し上げたわけです。
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2010年2月26日 (金)

本当に極悪人?観応の擾乱に散った高師直

 

正平六年(観応二年・1351年)2月26日、南朝に降った足利直義打出浜の戦いで敗れた高師直らが、護送中に謀殺されました。

・・・・・・・・・

Kibamusyazou ちょっと前までは、『足利尊氏像』として教科書に載っていたおなじみの肖像画・・・

今では、誰かわからないため『騎馬武者像』として掲載されているようですが、どうやら最近では、この肖像画の主が、高師直(こうのもろなお)であろうというのが有力なようです。

源氏の棟梁・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の末裔とも言われる(こう)の1人として生まれた高師直は、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)側近として、その名を挙げます。

その後、ともに鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇決別した尊氏(12月11日参照>>)とともに南北朝を戦い、室町幕府のもとで新たに設けられた執事(しつじ)という役職につきます。

この執事という役職は、後に細川氏が継いで管領(かんれい)と名を変える将軍のサポート役の役職です。

正平三年(1348年)の四条畷(しじょうなわて)の戦いでは、あの楠木正成(くすのきまさしげ)を破って、まさに室町幕府成立の立役者となった師直ですが、やはり、師直さんの話となるとアノ話を避けて通る事はできませんよね。

このブログでも、他の方のページでチラチラ出てきていたお話なので、少し内容カブリますが、やはり有名なお話なので・・・

・‥…━━━☆

上記のように軍人として超一流だった師直さん・・・英雄、色を好むじゃありませんが、女性スキャンダルに関してもトップクラスです。

特に有名なのは、あの『太平記』に書かれた出雲隠岐の守護・塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)・夫婦とのお話・・・

高貞の奥さんがメッチャ美人だとの噂を聞いた師直・・・そのスケベ心がうずかないわけがありません。

天下の名作家・吉田兼好に頼んで、一世一代のラブレターを代筆してもらい、彼女に送り届けますが、貞女である奥さんは、その封すら切らずに、即、ゴミ箱へ・・・

「この役立たずめが!」と散々兼好を罵った後に、今度は歌の名人に頼んで歌を造ってもらい、彼女に送付・・・しかし、これも見事に断られてしまいます。

そうなると、さらに恋心はつのるもの・・・もう、いてもたってもいられなくなった師直は、なんと塩冶夫婦の自宅に侵入!

奥さんづきの女官を買収し、彼女の入浴シーンをのぞき見・・・湯気にかすむ彼女の姿は、よく見えないぶん、よけいに想像が膨らみます。

「もう、アカン!!」
何が何でも彼女を手に入れたくなった師直は・・・
「そうだ!夫がいなきゃいいんだ!」

とばかりに、「高貞に謀反の疑いがある」無実の罪をでっちあげます。

身の危険を感じた夫婦は、ともに手をとって逃亡を謀りますが、追手に囲まれ、もはや絶体絶命・・・夫をかばった奥さんは殺され、妻の死を知った高貞も自害してしまいます。

ところが、当の師直は、この一件に反省するどころか、ますますお盛んになる一方・・・公家の娘を次々に口説いては、一夜限りの恋を楽しんでいたのだとか・・・

しかも、その中には、皇后にも上がるか?というほどの身分の高い女性もいたと言いますが、さすがに、この話の通りだと、師直さん、とんでもない悪人ですよね~

おかげで、300年後には、更なる極悪人として再び脚光を浴びます

そう、あの江戸の大ヒット『仮名手本忠臣蔵』・・・忠臣蔵は、あの赤穂浪士の討ち入をモデルにしたお話・・・今で言うところの「事実をもとにしたフィクションです」ってヤツですが、さすがに小説なので、実在の人物名を出す事はできませんから、主人公の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の役名は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)となってます。

そして、ご想像の通り、敵役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)が役名:高師直(こうのもろのう)で、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が役名:塩冶判官(えんやはんがん)・・・これは、吉良家が高家(こうけ・江戸幕府の儀式などを行う役職の家系)だった事、赤穂が塩の名産地であった事にもかかっているという見事な造りとなっていて、この名作のおかげで、ますます師直さんの印象は悪くなる事に・・・

・・・とは言え、度々このブログでも書かせていただいているように、こういう絵に書いたような悪人の場合・・・特に、好色系の話に関しては、多大なる創作が含まれている可能性大です。

ただ、師直さんの場合は、なかなかの汚名を返上できるような史料がない事も確か・・・。

しかし、この師直さんが命を落す事になる観応の擾乱(かんおうのじょうらん)という戦い(くわしい経緯は10月26日参照>>)・・・そもそもは、室町幕府の初代将軍となった尊氏と、その片腕として政務をこなす弟の直義の関係が崩れ、直義が南朝に寝返った事から勃発したわけですが・・・

確かに、武闘派で直感的な師直と、冷静沈着な政治家タイプの直義との間に、何かしらの敵対心もあったでしょうしモメてもいたでしょうが、結局は、将軍である尊氏が出した「直義討伐命令」に、師直は側近(執事)として従ってともに戦ってただけで、個人的に行動していたわけではありません。

最初は、勝利して直義を追い詰め、出家に追い込む・・・その後、直義の養子である直冬の討伐に向かう途中の2月17日、留守を見計らって脱出した直義軍に、摂津国・打出浜(うちではま)の戦いで、尊氏軍は敗れてしまいます。

・・・で、負けた尊氏は、側近の師直と、その弟・師泰(もろやす)の二人が出家する事を条件に、弟・直義と和睦したのです。

そして、その条件通りにちゃんと出家して道勝と号した師直が京都へと護送される・・・ところが、その護送の途中の武庫川(むこがわ・兵庫県伊丹市)あたりで、直義配下の上杉能憲(よしのり)によって、正平六年(観応二年・1351年)2月26日一族もろとも騙まし討ちされて滅亡するのです。

「出家を条件に和睦やなかったんかい!凸(`Д´メ)」
と、師直命がけのツッコミが聞こえてきそうです。

この結果を見る限りでは、とても極悪人の最期とは思えないのですが・・・

武闘派で激しく、あとに退かない性格は敵も多かったかも知れませんが、その性格は、ある意味、武将としては必要な部分でもあります。

結局、その直義も、一年後のまったく同じ日に病死するのは、運命のイタズラか、はたまた・・・

いつか、師直さんの汚名を晴らせる日が来ますように・・・(-人-)
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2010年2月25日 (木)

昭和の歌王~斉藤茂吉の強烈ラブレター攻撃

 

昭和二十八年(1953年)2月25日、大正から昭和にかけて、短歌同人誌『アララギ』の中心人物として活躍した歌人で医者でもある斉藤茂吉が70歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

明治十五年(1882年)、山形県に住む守谷伝衛門熊次郎という人物の三男として生まれた斉藤茂吉(もきち)でしたが、守谷家は、彼が小学校を卒業しても、その先へは進学できないほどの経済状態でした。

やむなく、そのままお寺に弟子入りする予定であった茂吉少年は、親戚の医師・斉藤紀一の養子となって、東京開成中学校に入学・・・

その後、正則英語学校を卒業した後、第一高等学校(現在の東京大学教育学部)に入学します・・・!!(゚ロ゚屮)屮優秀だったんですね~

その頃、正岡子規(まさおかしき)『竹の里歌』に出会い、短歌を志すようになります。

やがて、歌人で小説家でもあった伊藤左千夫(さちお)の門下生となるかたわら、東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)を卒業し、巣鴨病院に勤務しながら、短歌同人誌『アララギ』を主宰したのです。

さらに、大正三年(1914年)の32歳の時、養父・紀一の娘であった13歳年下の輝子と結婚した後、長崎医学専門学校(長崎大学医学部)に入って、ヨーロッパ留学して、帰国後は焼失した青山脳病院を復興し、昭和二年(1927年)には、45歳でその青山脳院の院長となります。

この間、歌の方でも、『赤光(しゃっこう)』『あらたま』などの歌集を世に送り出し、歌の道でも医学の道でも、燦然たる地位を獲得した茂吉さん。

・・・と、まじめで家庭的で、順風満帆の申し分な人生を謳歌していた茂吉さんでしたが、51歳になった昭和八年(1933年)、そんな人生を一変させる大事件が起こってしまいます。

事の発端は、若い男性のダンス教師が、上流階級のマダムたちを集めて主催していたダンス教室・・・

手取り足取り、ダンスを教えていたまでは良かったのですが、生徒である、そのマダムたちと不倫の関係を築き、金銭的な援助を受けていた事が発覚・・・逮捕された男性教師の口から、次々と、そのターゲットとなったマダムたちの名前が挙がり、この時代ですから、不貞を行った有閑マダムとして、マスコミの格好の話題となります。

そうです。

この不倫していたマダムの中に、茂吉の奥さん・輝子さんの名前が・・・

茂吉=ショ~ック!((゚゚дд゚゚ ))

もちろん、輝子は「事実ではありません!」と否定しますが、まじめ一筋で生きてきた茂吉は、もはや彼女を信じる事ができません。

結局、心臓に異常をきたし、倒れてしまうまでに・・・やむなく、二人は別居状態に・・・

とは、言え、離婚はしていません。

一応、婿養子なので、気をつかったのかしら?
それとも、まじめに、奥さんの事が大好きだからこそショックだったのかしら?

しかし、その翌年・・・早くも、2度目の茂吉さんの、大転換期が訪れます。

彼が尊敬してやまない正岡子規の33回忌の歌会で、『アララギ』の会員だった永井ふさ子という女性と知り合います。

彼女は、まだ、うら若き24歳・・・しかも、メッチャ美人!

ふさ子に一目ぼれした茂吉は、今や1人暮らしとなった自宅に彼女を招いて、親切丁寧に歌の指導・・・彼女も、『アララギ』の会員なのですから、茂吉のファンならずとも、嫌いなわきゃないわけので、喜んで指導を受けに来ます。

やがて、茂吉の猛烈アピールに、彼女もノックアウト・・・二人は、男女の関係になります。

75歳で25歳の女性をゲットした一休さん(11月30日参照>>)しかり・・・
70歳で30歳の女性にラブソングを贈り続けた良寛さん(1月6日参照>>)しかり・・・

まじめに生きてきた人ほど、こういう時には燃え上がるものです。

「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」
「あなたの電話の声は実に懐かしい。かぶりつきたいような声です」

こんなキョーレツなラブレターを、書きも書いたり150通以上・・・

さらに、恋しさのあまり、彼の思いはラブレターだけではおさまりませんでした。

一緒にいる時は、良いのですが、彼女が、自分の知らない所で、別行動をとっている事が心配で心配でたまらない茂吉は、そんな日は、彼女の自宅の前で待ち伏せ・・・一日の行動を事細かく聞いたりなんぞします。

あまりの嫉妬深さ・・・てか、ストーカーまがいの行為に怖くなったふさ子は、故郷に戻ってお見合いをし、別の男性との結婚を決意します。

ところが、茂吉さん・・・
自分は離婚する気がないので、彼女の結婚に反対はしないものの、今度は・・
「そのカレとは、今日どんな事をした」
「カレとのキスはどうだったか」

など、二人の様子を、いちいち手紙で聞いてくる始末・・・

これで、精神的苦痛を味わったふさ子は、とうとう寝込んでしまい、結局、結婚も破談になってしまいます。

しかし、これだけ熱烈にふさ子さんを愛していたにも関わらず、やはり、最後まで離婚しなかった茂吉さん・・・よくわからない人です。

太平洋戦争が終った昭和二十年(1945年)頃からは、病院の院長も辞職し、病気にもなった事で、以前のような強烈感はなくなりますが、歌の事がわかる人に言わせると、その凄まじい恋愛感も、病床の孤独感も、見事に歌に生かされているのだとか・・・

本職の医学のみならず、その生涯において、17冊の歌集を発表し、17907種もの歌を詠み、柿本人麻呂や源実朝らの研究にもすばらしい成果を残した斉藤茂吉・・・天才とは、凡人には、よくわからないものなのかも知れません。
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2010年2月24日 (水)

三門の特別公開と知恩院の七不思議

 

現在、「京都冬の旅2010」というイベント(くわしくは1月4日参照>>)の一貫として特別公開されている知恩院の三門へ行ってまいりました~

Dscn9206a800

以前の2月3日のページを見ていただいた方は、お解かりだと思いますが、その時に、八坂神社での豆まきに没頭していたため、ギリアウトで拝観できず(2月3日参照>>)、再度挑戦してきたわけです。

でも、これで良かったです。

一部妄想にふけりながら、またもや坊さんを質問攻めにし、見たい所を徹底して見ていたら、なんだかんだで3時間ほど、知恩院内をウロウロしてました(#~o~#)

閉門ギリギリで入っていたら、こうは、いかなかったですから・・・満足、満足

・・・とは言え、三門の堂内はもちろん、楼上からの景色の撮影もNGなので、以下はパンフレットからの転載という事でご勘弁を・・・(*以下、このページの写真は、すべてクリックして大きくして見ていただけます)

Tioinsanmonin1a75
三門・内部↑と景色→

Tioinsanmonout1

ところで、知恩院を訪れた事がある方・・・何か気になりませんでしたか?

Dscn9311a800 たとえばコレ→

これは、知恩院の北の端にある黒門を入った所ですが、まるでお城のような石垣に、お城のような道筋です。

Dscn9209a800 また、三門をくぐって振り返ると・・・やはり右側に石垣が見えます。

実は、もともとは承安五年(1175年)に法然が草庵を結んだ事が知恩院の発祥なのですが、慶長八年(1603年)に徳川家康が永代菩提所とした事で、現在の知恩院のような大きな伽藍となったのは、家康とその息子・秀忠の時代・・・つまり、ここは二条城に次ぐ、第二の城を想定して造られたのです。

三門からの京都一望は、景色を楽しむ物ではなく、見張りのため・・・ここは、いざという時、徳川を守るためのお寺だったのです。

ちなみに、知恩院には「知恩院の七不思議」というのがあります。

Tiointizucc 知恩院七不思議の場所

今回は、三門の特別公開という事で、普段は非公開の三門にある五味金右衛門夫婦の像も拝見させていただきましたので、とりあえず、ここで、その七不思議をご紹介させていただきます。

ただし、現在非公開の物、撮影NGの物は、パネル展示からのお写真拝借となってます。

Tioinsanmongomi1白木の棺 (非公開:現在・特別公開中)
三門を建てた大工・五味金右衛門夫婦の像で、三門の床下から発見されました。

 

Tioinkasa ②忘れ傘 (公開中)
左甚五郎が魔よけのために置いたと言われる忘れ傘・・・知恩院を火災から守っているのだとか・・・

 

Dscn9277a800 ③鴬張りの廊下 (公開中)
歩くと心地よい音のする廊下・・・忍者よけとも言われます。 
 

 

Tioinsyakusi2 ④大杓子 (現在・非公開)
2.5mある、すべての人を救う一切衆生救済を表しています。

 

 

 

Tioinneko3600 ⑤三方正面真向きの猫 (現在・非公開)
狩野信政・筆・・・どこから見ても睨まれてます。

 
 

 

 

Tioinsuzume3 ⑥抜け雀 (現在・非公開)
襖の雀があまりによく描けていたため、どこかに飛び立っちゃったんですって!

 

 

 

Dscn9315a800 ⑦瓜生石 
(公開中・・・てか道)
黒門の前の道にある石で、その昔、ここから瓜が伸び、一夜にして花が咲いて瓜が繁ったのだそうです。

 

以上、現在は、来年の法然上人八百大遠忌に向けて、修復中の場所もある知恩院ですが、三門の特別公開を機会に訪れてみられてはどうでしょうか?

最後に、知恩院の中心的存在の国宝・御影堂・・・晴れ女の面目躍如で、空が青いゾ~(゚▽゚*)

Tioinmieidou800
 

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2010年2月23日 (火)

新撰組・誕生のきっかけ~清河八郎の宣言

 

文久三年(1863年)2月23日、江戸で募集した浪士組を率いて上洛した清河八郎が、浪士たちの前で、尊王攘夷の意思を宣言しました。

・・・・・・・・・・

ご存知、嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)で、開国攘夷(じょうい・外国を排除する)かの真っ二つに分かれた日本・・・

翌年、再び来日したペリーに押され日米和親条約を結んだ幕府でしたが、次の課題=日米通商条約次期将軍問題で、幕府の中も真っ二つとなります。

時の将軍は第13代・徳川家定でしたが、彼に子供がいなかったため、次期将軍として擁立されたのは、紀州徳川家茂(いえもち・当時は慶福)と、水戸藩主・徳川斉昭の息子で、一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)・・・これは、そのまま開国派と攘夷派でもありました。

ここで、一つ・・・上記の2度目のペリー来航で結ばれた和親条約で、なにやら、一気に日本が開国へ・・・という風に勘違いしてしまいますが、重要なのは次の、通商条約のほうです。

和親条約は、言わば「アメリカに対して敵対心がない」という事を表明しただけで、「だから何をする」という風な事が決定されたわけではありませんが、通商条約は、その名の通り「交易する」という事ですから、その重みはぜんぜん違います。

ここで、天皇の勅許(ちょっきょ・天皇の許可)が出ないまま、日米通商条約の調印に踏み切ったのが、安政五年(1585年)に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)です。

この直弼が紀州派であり、大奥も味方につけていた事から、次期将軍は家茂に決定し、反対派の一橋派=攘夷派を一掃するために安政の大獄(10月7日参照>>)が決行されますが、強烈な弾圧が反感を買ったため、万延元年(1860年)3月に井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

ここで、通商条約調印の一件以来、朝廷との関係に大きな溝を感じていた幕府は、将軍・家茂と、時の天皇・第121代孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚を進め(8月26日参照>>)公武合体(皇室と幕府が合体)を図ります。

一方、あの紀州派と一橋派がモメにモメていた頃から、江戸から遠く離れて幕府の統制がゆるい京都は、天皇がおわす都という事もあって、攘夷派の溜まり場となっていて、彼らによる、佐幕派(幕府を応援)公武合体派への、「天誅(てんちゅう)と称する暗殺&襲撃事件が多発しはじめていました。

そこで、幕府は京都の治安を守るための京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保(かたもり)を任命・・・やがて、その容保が約1000騎の精鋭を連れて京都に入ったのは、文久二年(1862年)の12月24日の事でした。

・・・と同時期に、幕府の政事総裁職松平春嶽(しゅんがく・慶永)老中板倉勝静(かつきよ)らによって武闘集団=浪士組の結成が決定されます。

この浪士組は、ガチガチの佐幕派であった庄内藩の、郷士出身の清河八郎の提案による物でしたが、翌・文久三年(1863年)の3月に、将軍・家茂の上洛が予定されている幕府としては、京都の治安維持は急務・・・早速、この清河の案に飛びついて、隊士の募集を行ったのです。

その任務は、「将軍の上洛に先駆けて京都へと入って治安を守るとともに、将軍の身辺警護をする」という物で、採用されたあかつきには、1人につき十両二人扶持・・・つまり、十両の一時金を貰ったうえに米一升が毎日支給される(1人分が一日五合でした)、しかも、ここで活躍すれば、後々、幕臣に取り立てられるかもしれないというオマケ付き!

文久三年(1863年)2月4日と5日の2日間に渡って、小石川の伝通院で行われた、いわゆる採用試験には、近隣の若者・230名余りが集まったと言います。

その中にいたのが、江戸・市谷天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇・・・もちろん、同郷の土方歳三沖田総司もいました。

彼らは剣客として刀は差していましたが、身分は町人や農民・・・しかし、以前、近藤さんのご命日(4月25日参照>>)に書かせていただいたように、そんな彼らには武田の子孫という誇りもあって、「いつか武士となって国に忠義を尽くしたい」という思いが強く、今回の浪士組の募集は、またとないチャンスだったわけです。

ちなみに、一昨日書かせていたばかりの山南敬助(やまなみけいすけ)(2月21日参照>>)も、天然理心流ではありませんが、当時、試衛館に居候していた縁から、近藤らと一緒に応募しています。

・・・とは言え、浪士隊の募集に参集したのは、彼らのように、ある程度、志を持った者ばかりではなく、博徒くずれや喰いっぱぐれた坊さんなど、とにかく食い扶持を見つけるだけの輩も多くいたわけで、2月8日に江戸を発って中山道から木曽路を進む彼らの姿は、まるで亡者の行列のように、グダグダ感満載だったようです。

かくして文久三年(1863年)2月23日、京都に到着した彼らは、壬生(みぶ)新徳寺に本営を置き、それぞれ、お寺や郷士の家に分宿する事となり、やっとひと息・・・

・・・と、思いきや、その夜、とんでもない事が起こります。

ここまで、彼らを引率してきたのは、この浪士組の提案者でもある清河と、取締役の山岡鉄太郎(後の鉄舟)だったわけですが、その清河が、本営の新徳寺にて、主だった者を集めて、「この度の上京は、尊王攘夷の先鋒となるための上京である!」と宣言し、朝廷に提出する同様の内容の建白書に、速やかに署名しろと言い出したのです。

実は、彼=清河は、すでに江戸にて尊王攘夷を論ずる「虎尾(こび)の会」といのを結成しているガチガチの攘夷派・・・かの山岡も、そこに通う攘夷派だったのです。

事のなりゆきから、その建白書に署名した近藤でしたが・・・なんか変???(と、思うのは私だけ??)

もちろん、この清河の宣言を知った老中・板倉はカンカンで、すぐに、浪士組の江戸帰還を命令します。

清河は、この集めた浪士組を使って、江戸にて尊王攘夷活動をするつもりであったため、浪士組ごと、すんなりと江戸へと戻るのですが、ここで、彼らと別れて、京都に残ったのが、近藤とその仲間たち8人と水戸派の浪士だった芹沢鴨(せりざわかも)(9月18日参照>>)とその仲間たち5人・・・合計13人でした。

彼らは、何よりも将軍中心に考えた結果の居残りでした。

そもそも、この3月の将軍・家茂の上洛は、和宮との結婚の時の条件でもあった「10年以内の条約破棄か攘夷の実行」について、朝廷と話し合うための上洛ですから、そこで、朝廷からの「攘夷の決行」の命令を将軍が受ければ、幕府ごと攘夷となるのですから、このまま京都に残り、将軍の警護をしつつ動向を見ようと考えたわけです。

この選択が、彼らの運命を変えました。

江戸に戻った清河は、もはや幕府の援助が得られないため、浪士組の者を使って、裕福な商人たちから、半ば脅迫めいた強引な資金調達を行い、さらに外国人の襲撃計画も立てた事から危険視され、4月13日に暗殺されてしまいます。

一方の近藤らは、「将軍が京都に滞在している間だけでも・・・」と、京都守護職の容保に嘆願し、なんとか「会津藩お預かり」の約束をとりつけ、その名前を、江戸に戻った浪士組に対して、京都に残った浪士組として壬生浪士組と称します。

ご存知、後の新撰組の誕生です。
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2010年2月22日 (月)

枚岡・梅林と暗峠越え奈良街道inお陰参り

 

一昨日、暗峠(くらがりとうげ)越え奈良街道を歩いて参りました~

・・・と言っても、本当は、このお話は、全行程制覇してからブログなりホームページになり書かせていただくつもりだったのですが、この道沿いにある枚岡(ひらおか)神社に立ち寄ったところ、まさに梅の季節・・・

Hiraokabairin2330 振り向けば・・・梅の向こうにかすむ大阪

梅林で有名な枚岡神社の梅の写真を、「今、載せずに、いつ載せる!」と、あわてて今日、書かせていただく事にしました。

Dscn9106a150 Dscn9104150

実は、わたくし、今年に入ってから、月イチペースで「お陰参り」に挑戦しております。

「お陰参り(おかげまいり)というのは、ご存知の方も多いでしょうが、江戸時代に流行った不思議現象の一つ伊勢参りの事です。

もちろん、普通に伊勢神宮にお参りするのは、「伊勢参り」なわけですが、不思議現象の「お陰参り」と称されるのは、江戸時代に4度ほどある、急激に、かつ、爆発的に、その時期にだけ、皆がこぞって伊勢参りに出かけた現象の事です。

記録に残っているのは・・・
第1回=慶安三年(1650年)
第2回=宝永二年(1705年)
第3回=明和八年(1771年)
第4回=天保元年(1830年)の4回です。

だいたい六十年に一度ですが、なぜにこのようにな自然現象的な物が発生したのかは、未だ謎・・・とにかく、急にそうなるのです。

天保の時などは、阿波(徳島県)で、いきなり子供たちが「お伊勢参りがしたい!」と言いだし、早速、翌日、20人から30人の子供がこぞって出かけ、その後も、子は親に、妻は夫に知られず、抜け出すようにお参りに出かけた事から「抜け参り」とも言われ、「お陰でさ、するりとな、抜けたとさ」と唄いはやしながら行列を組んで進んで行くのです。

おおむね2~3ヶ月で2~300万人・・・最大の流行となった天保の時には、3ヶ月で420万人以上の人出があったと言われていますが、ご存知の天保の大飢饉が深刻になるのは天保三年あたりからですから、それが原因でもなさそうなのです。

・・・とは言え、専門家の方が研究に研究を重ねても、未だ謎である迷宮入りの現象に悩み続けてもなんなので、その「お陰参り」よろしく、旧街道を通って、徒歩にて伊勢参りに行こうというわけです。

Isemitinori00a2aaz900 「お陰参り」行程(今回は黄色部分)

・・・で、先月は、江戸時代の出発点だった大阪の玉造(たまつくり)稲荷神にて、やはり江戸時代の旅人と同様に、旅の無事を祈って出発し、松原宿(大阪府松原市)の花園ラクビー場あたりまで歩きました。

そして、今回の2回目・・・その松原宿から、暗峠越えの奈良街道を歩いて南生駒までと行ってきたわけです。

枚岡神社は、その道筋にあります。

Hiraokabairinp900 枚岡神社・梅林

もちろん、この次には、南生駒から奈良まで行き、奈良からは南に下って上ツ道(山辺の道)を通って桜井へ行き、そこからは伊勢本街道を通って伊勢神宮まで、13回に分けて行きます・・・江戸時代のように、毎日歩けば約2週間ってとこですね。

それにしても、今回の奈良街道のクライマックスでもある暗峠・・・なめてましたΣ(゚д゚;)

Kuragari1a900 スゴッ!スゴ過ぎるゾ暗峠( ̄○ ̄;)!

改めて、先人に敬意を表します・・・スゴイです、昔の人・・・
写真をみていただければわかりますが、メチャメチャ急坂・・・しかも、これが、かなりの距離続きます。

これを、子供も登ったかと思うと・・・

Kuragari0a330 石畳も美しい暗峠・到着!手前は大阪、向こうは奈良

とにかく、無事、リタイアせずに・・・
峠を越えたら、その向こうには奈良一望の絶景が待っていましたヽ(´▽`)/

Kuragari3800 あれが奈良や~~!気分最高!

昔の人も、この景色を見て、「あれが奈良や~~」と叫んだ事でしょうね。

そんなこんなを考えながら・・・この先も良い旅になりますようにo(*^▽^*)o
続きは、また、報告しますね!

★追記
枚岡神社に単独で行く場合は、近鉄奈良線・枚岡駅から・・・駅のすぐ前に鳥居が見えます。
3月1日には「梅花祭」(下記ポスター参照↓)も行われるそうなので、ぜひどうぞ!

Hiraokahanayoridango800
花より団子いや「焼き餅」
Hiraokabairinp600

 

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2010年2月21日 (日)

新撰組・山南敬助の心の内は・・・

 

慶応元年(1865年)2月21日、発足時から新撰組に加わっていた山南敬助が脱走を謀りました。

・・・・・・・・

幕末に大活躍したご存知、新撰組・・・

文久三年(1863年)の八月十八日の政変(8月18日参照>>)、翌・元治元年(1864年)の池田屋騒動(6月5日参照>>)と、まさに絶頂期を迎えていた新撰組・・・

さらに蛤御門(はまぐりごもん・禁門)の変(7月19日参照>>)から長州征伐(11月12日参照>>)の気運高まる中、その絶好調の新撰組で、しかも総長という立場の山南敬助(やまなみけいすけ)が、「局中法度」で禁止されている脱走を謀り、その罪で、2日後の23日に切腹に追い込まれるという事件は、隊士たちに大きなショックを与えた事でしょう。

・・・というのも、この山南さんという人は、とても温厚な人柄で、人間関係も実にうまくこなし、隊士たちからも「さんなんさん」と呼ばれて親しまれ、壬生(みぶ)界隈でも「いい人」と評判・・・沖田総司(おきたそうじ)などは、まるで本当の兄のように慕っていた人物でした。

しかも、江戸の試衛館(しえいかん・近藤勇の剣術道場)時代からの同志で、あの芹沢鴨(せりざわかも)の粛清で(9月18日参照>>)近藤勇(こんどういさみ)が局長になってからは、総長という重要なポストも任される信頼関係にあったのです。

そんな山南さんが、禁止事項の中でも最も重罪な脱走を・・

しかも、なにやら、その行動も謎めいています。

慶応元年(1865年)2月21日、脱走した彼が、追っ手である沖田に追いつかれたのが、京都から、わずか12kmしか離れていない大津(滋賀県)・・・その大津の宿に泊まっているところを発見されているのです。

もう少し行けば、街道は東海道中山道に別れ、さらに先は北国街道も待っています。

そうなれば、どっちに逃走したのか?
その探索は広範囲になり、明らかに捕まる確立が低くなるのに、彼は、なぜ、大津にて宿をとったのでしょう?

それには、「大幹部の立場にいる自分なら、捕まっても切腹になならない」と考えていたとも言われますが、その原因となる物は、もっと深く、ずっと以前からあったと思われます。

そもそも、脱走の直接の起爆剤となったのは、その直前に決定し、3月10日には決行される事になっていた新撰組の西本願寺への移転・・・この移転の話は、土方歳三(ひじかたとしぞう)が提案した物で、このところ現実味を帯びてきた第二次長州征伐(5月22日参照>>)のために、局長の近藤自らが江戸へ赴いて隊士を募り、藤堂平助伊東甲子太郎(いとうかしたろう)一派(11月18日参照>>)を含む、多くの隊士を獲得した事で、大所帯の新撰組となり、広い西本願寺の集会所を屯所として借りる事になったという物です。

しかし、仏教に篤い山南は、西本願寺の僧らを巻き込む事をヨシとせず、それに反対していたのです。

確かに、時期はピッタリですが、おそらく、これは単なる引き金・・・

というのも、彼は幹部でありながら、かの池田屋事件にも、蛤御門にも、まったく姿を見せていません。

もともと、その柔軟な性格から、尊王攘夷派の意見も理解するところのあった山南さん・・・どうやら、ここのところ朝廷と幕府の溝が大きくなり、ただひたすら佐幕へと傾いていく新撰組に違和感を感じていたのではないでしょうか?

そんな中で、度々意見の食い違いを見せいたものの、それが受け入れられる事もなく、ついに、自らの脱走と切腹を以って、新撰組のあり方に抗議をしたのではないか?という事です。

・・・とは言うものの、これはあくまで推測・・・ご本人の心の内は、ご本人にしかわかりません。

ゆえに、尊攘派とつながりを持っていた伊東に感化されたとも・・・

また、上記の重要事件に登場しない=活躍の場がなかったという事で、新撰組でも1・2を争う剣の腕を持つ彼が、近藤や土方に遅れをとる事で、コンプレックスが芽生えていたのではないか?など、その推理は諸説あります。

とにもかくにも、自室に置手紙を残して脱走した事により、なんなく発見されてしまった山南・・・

屯所に連れ戻された後も、その人柄から、新撰組内部でも「何とか穏便に・・・」の声があがったようですが、「断じて許し難し」とする土方の意見に近藤も同意し、切腹という処置が決定したと言われます。

Dscn2966a800その死に際して、「何か言いたい事はあるか?」永倉新八に聞かれた山南は、「明里に手紙を渡してほしい」と頼みます。
(山南が切腹した部屋が残る旧前川邸→)

明里(あきさと)とは、島原の遊女だった女性で、彼が身請けして、その世界から足を洗わせた人・・・つまり、恋人だった人です。

その日、使いの者は、すぐに明里のもとへと走りますが、運悪く彼女は留守・・・切腹の時間が刻々と迫る中、もはや、「間に合わない!」と思った瞬間、屯所に走りこんで来た明里と、山南は、格子越しにわずかの対面を果たせたのだとか・・・

かくして脱走から2日後の慶応元年(1865年)2月23日山南は切腹・・・山南の指名により、その介錯をした沖田は、しばらくの間、土方とは口を聞かなかったと言います。

しかし、烏合の衆の新撰組・・・その規律を守るためには、副長も鬼になるしかなかった事でしょう。

いつの日か、山南さんの心の内がわかる史料が発見され、鬼の副長との理解を深める事ができますようにと願ってやみません。

*旧前川邸への行き方は、本家ホームページでどうぞ>>別窓でひらきます
 .

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2010年2月19日 (金)

戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[後編]

 

かくして、戊辰戦争の恨みを越えて、その恋を実らせた大山巌(おおやまいわお)山川捨松(やまかわすてまつ)・・・その結婚披露宴という形で、華々しく鹿鳴館デビューを飾った捨松。

★今回のお話は昨日の続きです・・・まだの方は、先に昨日のページ>>を読んでいただくとありがたいですm(_ _)m

・‥…━━━☆

未だ「女性は家を守る時代」の明治・・・日本人には好奇な目で見られる身のこなしも、外国人から見ると、むしろ洗練された立ち居振る舞いなわけで、得意の英語・フランス語・ドイツ語を駆使して外国人と積極的に会話する捨松は、アメリカ仕込みの社交ダンスも見事なものだったそうで、まさに鹿鳴館の華となります。

そんな中、アメリカ留学中に看護婦免許も取得していた捨松は、医療にも関心があり、ある時、共立病院へ参観に出かけます。

ところが、どの病室を見ても看護婦の姿が見えません。

その頃の日本には、まだ看護婦という職業もなかったわけですが、それならば、その看護婦を養成しなければなりません。

しかし、病院の高木兼寛博士が言うには、
「養成しようにも資金がありません」

「では、私が何とかします!」
と、持ち前の活発さで引き受けたはよいが、さすがに陸軍卿の妻でも、おいそれと、そんな大金が集まるはずもありません。

・・・で、flairピカ~ン! 捨松さんひらめきました。

アメリカで見聞きしたチャリティバザー・・・捨松の呼びかけで、日本で初めてのバザーが鹿鳴館にて開催されたのです。

その準備もさることながら、バザー当日も、彼女は自ら売り場に立ち、3日間の開催で得た金額は1万6000円・・・これは、当時の価値にして、もう一軒、鹿鳴館を建てる事ができるほどの金額だったと言います。

これらをすべて共立病院に寄付した捨松・・・その資金をもとに、2年後には日本初の看護学校が設立されています。

また、自らは軍人の妻となってしまった事で、教育の最前線に立てなくなってしまった捨松は、ともにアメリカ留学した津田梅子に、その夢をたくし、彼女が設立した英語塾を全面的にバックアップ・・・彼女らが理想とする女子教育を目指して、生涯に渡って協力し合う事となります。

しかし、そんな彼女にあらぬ噂が立てられます。

なんと、「お抱えの御者(ぎょしゃ・馬車で馬をあつかう人)と不倫をしている」と・・・

実は、コレ、彼女だけではありません。

いつの時代もスキャンダルは庶民の好物・・・「夜ごと開催される鹿鳴館の華やかな舞踏会において、男女入り乱れてのあんな事やこんな事を・・・」女性雑誌がこぞって書きたてたのです。

もちろん、中には事実もあったでしょうが、そのスキャンダルのほとんどは事実無根・・・しかし、活字という物は恐ろしい物で、書きたてられているうちに、いつしか本当の事のように見る人は思ってしまうもの・・・

これには、本来、不平等条約を改正させるために、外国に追いつき追い越せとやっていた鹿鳴館が、いつしか、庶民とは無縁の上流階級の遊び場と化してしまっていた事への批判も込められていたのでしょうが、結局、捨松は、この噂のために、自ら社交の場から身を退く事となります。

さらに、もう一つ、根も葉もない噂が彼女を襲います。

昨日のページにも書かせていただいたように、巌が捨松と結婚した時には、亡くなった先妻との間に、すでに3人の娘がありました。

その長女という人が、結核にかかり20歳の若さで亡くなってしまうのですが、その彼女をモデルとした小説が大ヒットするのです。

有名な小説なので、ご存知の方も多いかも知れませんが、徳富蘆花(とくとみろか)の書いた『不如帰(ほととぎす)という小説です。

その作品の中で、主人公の浪子は、若い身空で結核という病に犯され、最愛の夫とも引き裂かれ、実家に戻ればいじわるな継母にいじめられ、失意のままこの世をを去るのですが、もちろん、これは小説なので、そのストーリーは創作です。

実際に、その巌の長女にとって捨松は、なさぬ仲の継母ですが、その関係はいたって良好・・・調子の良い時はともに旅行にも出かけ、調子の悪い時はアメリカ留学でつちかった看護婦の知識を生かして精一杯の看病をしていたのです。

しかし、小説を読んだ読者の中には、それを本当の事だ思う人も少なくなく、彼女へのバッシングが始まります。

中には、誹謗中傷を書き込んだ手紙を送りつけて来る人もいたのだとか・・・

晩年の捨松は、この酷評に悩まされ続ける事になるのですが、当の作者は、まったくの知らぬ存ぜぬ・・・

結局、小説が発表されて19年も経った大正八年(1919年)になって、ようやく雑誌のインタビューにて「小説を、よりおもしろくするためには、継母を悪人に描くしかなかった」と、重い口を開いて謝罪したという事ですが、そのインタビューから、まもなくの大正八年(1919年)2月18日・・・捨松は、当時大流行していたスペイン風邪に倒れ、60歳の生涯を閉じたのです。

梅子とともに女子教育に、そして赤十字の発展にも尽力する一方で、あらぬ噂に翻弄された捨松・・・しかし、唯一の救いは、いつも、どんな時も、彼女を信じ、愛してくれた夫・巌の存在であった事でしょう。

捨松が、小説のようないじわるな継母でない事を、一番よく知っているのは夫である彼・・・

陸軍きっての実力者でありながら、出世欲がなかったと言われる巌は、彼女より3年早くに亡くなりますが、二人は、最後まで仲睦まじいおしどり夫婦だったようです。

その西洋好きから、日本人で初めてルイ・ヴィトンの顧客になった人と言われる巌さん・・・愛する奥様に何かプレゼントしてさしあげたのでしょうか?
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2010年2月18日 (木)

戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[前編]

 

大正八年(1919年)2月18日、鹿鳴館の華と称され、明治の知識人&教育者として活躍した大山捨松が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

すでに、来年は、上野樹里さん主演の「江~姫たちの戦国」に決定しているNHK・大河ドラマですが、ここ何年かの女性ターゲット路線の大河でいくなら、「是非とも、この方を主役にしていただきたい!」と思う人が、この大山捨松(おおやますてまつ)さんです。

彼女の人生は、波乱万丈でありながらも夫の愛に満ち、その博愛精神で教育に福祉にと大活躍する・・・そのうえ社交界の華としての煌びやかさも・・・

彼女なら、血で血を洗う戦国の世に生きた策略好きの武将を「愛の人」に描いてまで女性視聴者の獲得に走らなくても、そのままの姿で充分に共感を得る事ができると思うのですが・・・まぁ、知名度的なインパクトというのもあるのかも知れません。

・・・で、今回の捨松さん・・・旧姓を山川、幼名をさき(咲子)と言い、幕末の会津藩家老の家に生まれた、もともとはお姫様です。

彼女が生まれる少し前に父親が亡くなってしまった事から、祖父の兵衛重英(ひょうえじげひで)や長兄の山川大蔵(おおくら・浩)が父親代わりとなって育ちますが、その平穏な暮らしが一変するのが、あの会津戦争でした。

この時、兄の大蔵は「智恵山川 鬼佐川」と、あの佐川官兵衛(さがわかんべえ)と並び称される大活躍で、籠城戦を指揮した人物(8月29日参照>>)・・・妹の彼女も、わずか9歳ながら、弾薬運びや負傷兵の看護をしながらの籠城戦を経験します。

やがて、ご存知のように会津若松城は陥落(9月22日参照>>)、新政府から「朝敵(ちょうてき・国家の敵)のレッテルを貼られた会津藩は、斗南(となみ)と名を変え、極寒の下北へと移る事になります。

以前、【永岡久茂の思案橋事件】(10月29日参照>>)のところでも少し書かせていただきましたが、この下北への移住は、「会津流刑」=「藩ごと流刑にされた」と称されるくらい過酷な物で、もはや、代々家老の家柄も、一藩士も区別なく、皆が困窮を極めるという悲惨な状況でした。

山川家でも、飢えて死ぬ前に「末っ子のさきは里子に出そう」なんて話も出ていた明治四年(1871年)・・・またしても、彼女の人生が一変します。

その時、ちょうどアメリカ視察から帰国したばかりの北海道開拓使次官・黒田清隆(8月23日参照>>)は、その視察で、「次世代を荷う子供たちを優秀な人材に育てるためには、優秀な母親が必要である」という事を痛感し、このすぐあとに行われる岩倉具視(いわくらともみ)渡米使節団に、女子留学生の同行を提案・・・すぐに募集をかけたのです。

そうです。

彼女は、この女子留学生に応募して見事合格・・・というより、この時代に、かわいいわが子、まして女の子を遠く離れたアメリカへ行かせようなんて人は、そうそういるわけがなく、朝敵となって過酷な運命にあったからこそ、国費での留学に、その名誉挽回を懸けたとも言える応募でした。

この時、さき・12歳・・・家族は、「捨てたつもりで手放す末娘の帰りを待っている」という意味を込めて、彼女の名を「捨松」と改めさせて見送りました。

ちにみに、一緒に渡米した女子留学生には、後に津田塾大学となる英語塾を創設するあの津田梅子(11月12日参照>>)もいました。

やがて23歳で帰国するまでの11年間という一番多感な時期を、捨松はアメリカで過ごし、その感性は磨かれ、見る物聞くものを吸収する事となり、最終的には、学生総代の1人に選ばれるほどの優秀な成績でカレッジを卒業し、さらに最後の1年間で看護学校にも通って、看護婦免許まで取得します。

しかし、10代で結婚するのが当たり前だったこの時代・・・いざ帰国してみると、「もう行き遅れ」と呼ばれるうえに、ほとんど日本語も忘れ、立ち居振る舞いも西洋風になってしまっていた彼女は、好奇の目にさらされるだけで、その才能を発揮できるような職場もなく、留学時に抱いていた「女子教育の発展に努めたい」との希望は、見事に打ち砕かれてしまいます。

ところが、まもなく、そんな彼女に縁談が舞い込んできます。

・・・と言っても、いわゆるお見合い、あるいは親同士が決めたといった物ではなく、実に彼女らしい見事な恋愛結婚です。

ただ、周囲のお膳立て・・・というのはありました。

すでに行き遅れのレッテルが貼られた外国帰りの彼女を、やはり、ヨーロッパに留学の経験があり、「西洋かぶれ」と噂される男へ、何とかひき合わせようと、お互いの友人&関係者がダンドリを組んだのです。

それが、捨松と同じ女子留学生としてアメリカに渡った永井繁子結婚披露宴でした。

その披露宴で、友人の思惑通りに、見事、捨松に一目惚れしたのが大山巌(いわお)・・・薩摩藩出身で参議陸軍卿となっていた彼は、すでに3人の娘の父親でしたが、前妻を病気で亡くしていて、その亡き妻の父親が、子煩悩な彼に何とか良い後妻を・・・と願っていたのです。

しかし、そんな二人の結婚を、捨松の兄・大蔵は猛反対!

そう、薩摩藩だった巌は、あの会津籠城戦で薩摩砲隊を指揮していた人物(8月23日参照>>)・・・つまり、若松城に砲弾を撃ち込んだ張本人です。

さすがに「敵だから」とは言えないため、「ウチは賊軍の家臣なんで・・・」と丁重に断る山川家に対して、巌は「僕も賊軍の身内です」と・・・、実は、彼は、あの西郷隆盛の従兄弟です。

この時、すでに明治十五年(1882年)・・・あの西南戦争(1月30日参照>>)では、政府の一員として涙を呑んで、政府に弓引く西郷と戦った巌ですが、親戚である事には変わりありません。

やがて、断っても断っても、めげずにやって来る巌のあまりの熱心さに、徐々にかたくなな心をやわらげる山川家・・・結局、「本人(捨松)の気持ちによっては・・・」という事になり、この話は、そのまま捨松に伝えられます。

ここで、普通のお姫様&お譲様なら、父親代わりの兄の意見を聞き「お兄様がおっしゃるなら・・・」となるところですが、さすがの捨松は、そうは言いませんでした。

かの披露宴では、巌は捨松を見初めていましたが、捨松は気にもとめていなかったので、巌の事をほとんど知りません。

「知らない人との事を、どうこう決める事なんてできません!会ってお話してみないと・・・」と、なんと、彼女のほうから巌をデートに誘ったのです。

11年のブランクゆえ、未だ明治・日本のしきたりに収まりきれない捨松と、西洋のしきたりに精通してレディファーストも心得、親子ほども年の離れた包容力でガッチリと受け止める巌・・・鹿児島と福島という方言バリバリの二人は、英語で会話をし、またたく間に意気投合したと言います。

やがて捨松は、「家族がどんなに反対しても、私、あの人と結婚する~!」と友人に話すくらいに巌に夢中になります。

かくして明治十六年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松の婚儀が行われました。

しかし、この新婚ホヤホヤの彼と彼女には、もう一つ大きな仕事がありました。

それは、この20日後に、鳴り物入りで完成した鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)・・・日本という国を欧米に近づけ、何とか諸外国から一人前として認められたうえで、不平等な条約を改正しようと、張り切って完成させたばかりのこの鹿鳴館で、大山夫婦は披露宴を行うという大役をこなすのです。

こうして華やかな鹿鳴館デビューを飾った捨松は、その美貌と、アメリカ仕込みの立ち居振る舞いで、外国人からも認められる鹿鳴館の華となるのですが、彼女の人生は、このまま順風満帆とは言い難く・・・

・・・と、本日は、彼女のご命日なので、捨松さんの生涯という雰囲気で書こうと思っていましたが、記事が長くなってきましたので、基本、一話完結のこのブログでありますが、本日は前編とさせていただき、後編は明日書かせていただく事にします。

では、コチラからどうぞ>>
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2010年2月17日 (水)

豊臣の最期を見据える城~家康の駿府城

 

慶長十二年(1607年)2月17日、徳川家康駿府城の築城を天下普請で開始しました。

・・・・・・・・・

ちょうど、先日の【徳川家康・征夷大将軍への道】(2月12日参照>>)の続きのようなお話になりましたね。

そのページでお話させていただいたように、関ヶ原の合戦の後、征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府・初代将軍となった徳川家康でしたが、そのわずか2年後に、三男の秀忠に将軍職を譲り、この将軍というポストが、代々徳川家で世襲されていく物である事を見せつけました。

将軍職を退いた家康は大御所と呼ばれるようになりますが、もちろん、隠居とは名ばかりで、実際にはガッツリ実権を握り、秀忠のサポート・・・いや、皇室で言うところの院政のような形態をとります。

こうして、名実ともに徳川の世となったわけですが、それでも、まだ、腐っても鯛(個人的には腐ってないと思ってますが…)・・・豊臣が徳川の配下になったわけではありませんでした。

この時点で、すでに家康が、完膚なきまでに豊臣家をぶっ潰すつもりであったのか?、それとも、一大名としてなら存続を許すつもりでいたのか?はわかりませんが、とにかく、当座の目標は、かの秀吉の遺児・豊臣秀頼を、自らの前に膝まずかせる事・・・でないと、安心できません。

この頃、家康は、亡き秀吉の正室・おね(高台院)を通じて、「秀頼公も、他の大名と同様に伏見城に出仕するように」と再三に渡って要求しますが、大坂方はガンとしてはねつけ、むしろ、「そっちが、大坂城へ出仕しなさい!」くらいの勢いで、折れた家康が、秀忠の弟・忠輝を大坂城に派遣したりなんかして、一応、波風立てぬよう心がけます。

しかし、一方では、この先、約300年に渡る江戸幕府の基礎づくりに励みます。

その代表格が、江戸にそれぞれの大名の屋敷を建築させ、その妻子や重臣を江戸に詰めさせて、藩主に国許と江戸を往復させる、あの参勤交代制度と、公共土木事業の推進・・・ともに、各大名たちの大きな負担となる事で、その力が強大になる事を防ごうという物です。

冒頭に書かせていただいた「天下普請」とは、この公共土木工事の事・・・たとえば、江戸城などは、実際には徳川家の私城なわけですが、その建築のほぼ全経費を各大名のサイフから出させています。

「お前はココ!」「お前はココ!」という風に担当場所を決めて、材料費から建築費、人件費・・・果てはその人足の昼飯代まで、各大名が支払う形で建築が進められていったのです。

もちろん、お城だけではなく、戦乱で焼失した神社仏閣の修復も、公共土木事業として行われました。

・・・で、そんな中の今回の駿府城・・・息子に将軍職を譲った家康は、そのまま江戸城に残る事も可能でしたが、別の場所に隠居城を築く事にします。

『当代記』によれば、「廿日(はつか)、駿府に至り着御(ちゃくぎょ)、来年彼の地に普請あるべきとて、その様子順見(じゅんけん)したまう」と、慶長十一年(1606年)3月20日の事として、家康自らがその候補地を見て廻った事が記されています。

Sunpu900b 東照社縁起絵巻に描かれた駿府城(日光東照宮・蔵)

また、完成後に江戸・増上寺の僧に語った話として・・・

  1. 駿府は子供の時に住んでた思い出の地やねん
  2. 富士山が後ろにあるよって、冬が暖かく、老後には最適!
  3. 米がおいしいやん
  4. 大井川・安倍川・富士川に囲まれ、北東には箱根山という天然の要害
  5. 大名らが江戸に行く時に、挨拶しやすいやん

と、駿府の地を終の住まいに選んだ条件を述べています。

1は、あの今川での人質時代の話でしょうが、天下を掌握した今となっては、成功して金持ちになった人の貧乏自慢と同じで、笑い話として消化できていたんでしょうね。

あと、2と3に関しては、まぁ、老後の楽しみ・・・単なる好みのような物ですが、重要なのは4と5・・・

天然の要害というのは、もちろん城として重要な事ですが、もはや、頂点に立った家康が天然の要害ににこだわった理由は、ただ一つ・・・未だ、目の上のタンコブの大坂=豊臣の存在でしょう。

そして5の江戸に行く時・・・そう、家康にとって、大名の挨拶なんて、どうでも良く、そのホンネは、まさに大坂方が江戸に攻めようとした時に、ここ駿府は重要な防御の場となる・・・です。

家康は、この時から、駿府に拠点を置きながらも、1年のうち2ヶ月ほどは江戸に滞在するという事をくりかえし、駿府と江戸の意見の食い違いが起きないように注意しながら、秀忠との二極政治を行います。

これも、ひとえに、誰もが認める権力と実力を持っていながら、主君と称する一族が存在する微妙な関係を、表面的には静かに、それでいて、いかにして終止符を打つかを見極めるため・・・駿府の築城は、家康にとって最後の戦国の城だったのかも知れません。

かくして、築城から7年後、家康の矛先が大坂へと向けられる事になります・・・ご存知、大坂夏の陣ですが、大坂の陣については【大坂の陣の年表】でどうぞ>>
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2010年2月16日 (火)

騙して奪った小田原城~北条早雲の奇襲作戦

 

明応四年(1495年)2月16日、伊勢新九郎盛時が、扇谷上杉家の重臣・大森藤頼が守る小田原城を奪取しました。

・・・・・・・・

・・・と言いたいところですが、これには9月説もあり、翌年の明応五年説もあり・・・で、結局、今のところは「文亀元年(1501年)あたりまでには奪っていたであろう」というアバウトな雰囲気ではありますが、とりあえずは、今日、2月16日の日づけで書かせていただきます。

・・・で、この本日の主役・伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき・長氏)さんとは、あの北条早雲(ほうじょうそううん)の事です。

このブログでも何度か書かせていただいているように、北条氏が北条を名乗り始めるのは二代目の氏綱(うじつな)からですし、早雲という名も、出家後に名乗る号は(早雲庵)宗瑞(そうずい)なので、本人は一度も北条早雲とは名乗ってないわけなのですが、まぁ、その名が有名なので、とりあえず本日は早雲さんで通させていただきます。

そんな早雲さん・・・50歳を過ぎてから頭角をあらわした所から、中年の星とも言われる大器晩成とされていましたが、もともと誕生日もよくわからず、最近では、これまでの予想年齢よりは24歳若い説も登場・・・

名前も、以前は長氏が主流だったのが、最近では、冒頭の盛時と表記される事が多く、さらに、以前は、下克上の代表と言われた前半生の不遇の時代も、実は、もともと伊豆の素浪人などではなく、その母親の兄にあたるのが、あの応仁の乱のきっかけともなった伊勢貞親(さだちか)(1月21日参照>>)で、はなから室町幕府に代々仕える血筋であり、早雲も10代の頃から将軍の奉公衆として仕えていたというのが主流となりつつあります。

しかも、あの戦国の幕開けともされる堀越公方を破った伊豆討ち入り(10月11日参照>>)でさえ、「もはや公方は二人もいらん!」と考えた、幕府中央部の後押しによる成功とされ、ここに来て、その戦国武将としてのイメージは大きく変わりつつあるのですが・・・

・・・とは、言え、自らの武勇で領地を切り取って拡大した戦国大名の中で、最後に天下を取った徳川を除けば、5代=100年に渡って広範囲に君臨したのは北条氏くらい・・・あの斉藤道三だって、織田信長だって、豊臣秀吉だって、ここまで長くは続かなかったわけで、その初代となった早雲が、戦国屈指の人物である事には変わりないでしょう。

・・・で、この後、北条氏が代々本拠地にした小田原城・・・本来なら、この小田原城を奪取!なんていう重要事項は、早雲の人生の中で、1位・2位を争って特筆すべき事だと思うのですが、意外にスルーされる場合も多々あり・・・

・・・というのは、冒頭に書いた通り、その日づけどころか、時期すら曖昧で、その詳細となると、ほとんどわかっていないのが現状なのです。

なので、ノンフィクションとして北条早雲を紹介する場合には、この頃に、小田原城を手に入れたとしか言いようがないわけですが、そこは、やはり、軍記物で展開される戦国独特の手に汗握るストーリーも捨てがたいわけで、本日は、ひょっとして創作かも知れないという前提のもと、北条早雲の小田原奇襲作戦物語を・・・

・‥…━━━☆

・・・で、先に書かせていただいた延徳三年(1491年)、もしくは明応二年(1493年)10月11日に、堀越公方足利茶々丸を追放して伊豆を手に入れた早雲・・・(10月11日参照>>)

この頃の早雲は、関東管領の扇谷(おうぎがやつ)上杉家に与(くみ)していましたが、その当主である上杉定正は、あの太田道灌(どうかん)(4月8日参照>>)亡き後、西相模に大森氏頼(うじより)を配置し、東相模に三浦時高を配置して関東南西部を統治し、さらに勢力を拡大しつつありました。

しかし、明応三年(1494年)に入って、当主の定正どころか氏頼・時高と・・・次々とこの世を去ります。

どうやら、この三家での家督争いの激化が原因のようなのですが、そのチャンスを見逃さないのが早雲・・・氏頼の後を継いだ息子・大森藤頼(ふじより)に、せっせと贈り物を送り、よしみを通じて安心させます。

そして、ころあいを見計らって・・・
「ウチで、鹿狩りをしてたんやけど、どうやら、そっちの方に逃げ込んでしもたみたいですねん。
獣を追い出す人足を、そちらの箱根山にも入れたいんですけど、よろしおまっしゃろか?」

と、声をかけます。

自らがいる韮山城と藤頼のいる小田原城との間にある箱根山にも係りの者を配置しないと、獲物が逃げてしまう・・・というのです。

もちろん、これまでの交流で、安心しきっていた藤頼は、二つ返事でOK!

明応四年(1495年)2月16日・・・狩装束を身にまとい勢子(せこ・鳥獣を駆り立てる者)犬飼(いぬかい・猟犬担当者)に扮した武士が、1000頭の牛とともに箱根山に入ります。

一方で小田原近くの石橋米神湯本伏兵(ふくへい・潜ませた兵)を配置・・・夜になって箱根山の兵が、連れていた牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけ、ともに連れて行った犬を放って、一斉に(とき)の声を挙げます。

犬におびえた牛は右に左に山中を駆け回り、暗闇を一掃せんがばかりの灯りが小田原城の背後に迫ります。

・・・と同時に、各地に配置した伏兵が町屋に火を放ち、一斉に小田原城下へと攻め寄せて、城下は大混乱に・・・。

さらに、一部の兵が城内に侵入して、中から城門を開け、怒涛の如き軍勢が城内になだれ込み、城内の大森様ご一行も大混乱におちいり、藤頼は命からがら・・・とるものもとりあえず、逃げるだけで精一杯だったのだとか・・・

こうして、わずか一夜にして小田原城を手に入れた早雲・・・その城郭は、この先、北条氏の拠点として華麗に変貌していく事となります。

ところで、この牛に松明・・・あの木曽義仲倶利伽羅(くりから)峠の合戦(5月11日参照>>)で実行したと言われる火牛の計(かぎゅうのけい)は、まさに軍記物の王道と言った感じで、実際に可能なのかどうなのかも微妙なところではありますが、古くは、中国の戦国時代にも登場するこの作戦を、早雲が知っていて、小規模ながらやった可能性もゼロではないわけで、今日のところは「ありえへん!!!(゚ー゚;」と一蹴せず、手に汗握る戦国ロマンに浸ってみようではありませんか。
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2010年2月15日 (月)

王政復古・錦の御旗を作った玉松操の苦悩

 

明治五年(1872年)2月15日、幕末期の国学者で、岩倉具視の右腕として活躍した玉松操が、63歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

藤原北家の流れをくむ公家・阿野家の分家である山本家に生まれた玉松操(たままつみさお)・・・本名を山本真弘(まひろ)と言います。

京都は醍醐寺の僧となり、大僧都法院という位にまで上りますが、寺内で訴えた僧律の改革が受け入れられず、還俗(げんぞく・出家した人がもとの一般人に戻る事)して山本毅軒(きけん)と名乗り、さらに玉松操と称します。

・・・と言っても、おそらく、あまりお馴染みのお名前ではないと思います。

ただ、司馬遼太郎さんの『加茂の水』の主人公であるという事なので、知る人ぞ知る有名人ってトコでしょうか。

しかし、玉松さんの名前は知らなくとも、
あの【王政復古の大号令】(12月9日参照>>)原文を考えた人・・・
あの【錦の御旗】(1月5日参照>>)デザインを考えた人・・・
と、聞けば、が然、どんな人物だったのか、知りたくなってきますよね~。

・・・で、寺を出て、俗世間に戻った玉松さん・・・京都で、国学者の大国隆正(おおくにたかまさ)に学んだ後、私塾を開いて勤王の精神を説きます。

やがて、そこに通っていた弟子の1人から紹介されたのが、かの岩倉具視(いわくらともみ)・・・この出会いが彼の人生を大きく変えます

幕末の動乱期、岩倉と行動をともにした玉松は、王政復古の(ちょく・天皇のお言葉)を起草する時に、その官職や制度のベースとなる物を、かの後醍醐天皇建武の新政(6月6日参照>>)にではなく、初代・神武創業にするべきと岩倉にアドバイスし、自ら書き上げた格調高い文面は、居並ぶ公卿や大名のド肝を抜きました。

そして、何と言っても特筆すべきは、長州藩士の品川弥次郎との強力タッグでおこなった官軍プロモーション作戦!

Tobafusimimihata 先にも書かせていただいた、1月5日に鳥羽伏見の戦場にひるがえった【錦の御旗】>>・・・そのページにも書かせていただいたように、この錦の御旗は、官軍となった薩長軍の士気を高め、賊軍となった幕府を落ち込ませました。

もちろん、戦場に錦旗がかかげられる事の効果を充分に理解しての事です。

・・・で、おもしろいのは、この錦の御旗・・・

あの後鳥羽上が起こした承久の乱(5月14日参照>>)や、後醍醐天皇鎌倉幕府を倒そうとした時にかかげられた記録があり(4月8日参照>>)、もちろん、自軍が天皇の軍である事を、仲間に、そして敵に知らしめる、いわゆる宣伝効果を狙ったものですが、実は、上記の記録はあるものの、そのデザインがわからなかったため、玉松がデザインした、現在に伝わる菊の花をあしらった物を3ヶ月ほど前から準備し、薩長軍の切り札として、ギリ、鳥羽伏見に間に合わせたわけです。

玉松のデザインした錦の御旗は、かの品川弥次郎が作詞大村益次郎が作曲(祇園の芸者さんに頼んだとも)したと言われる♪トコトンヤレ節♪を奏でながら進む、東征大総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の隊列の先頭にひるがえり、進軍ルートに集まった庶民を歓喜の渦に巻き込みながら、威風堂々の行軍を続け、ほぼ、戦う事なく、江戸にまで到着しています。

♪宮さん 宮さん 御馬の前に
 ひらひらするのは何じゃいな
 トコトンヤレナ
 あれは朝敵征伐せよとの
 錦の御旗じゃ 知らないか
 トコトンヤレナ ♪

 (有名なこの歌詞は2番です)

道を行く東征軍は、♪トコトンヤレ節♪の歌詞を書いたビラをばら撒きながら、「徳川の政治に不満のある者は本陣へ来い!」と呼びかける・・・テレビやラジオの無い時代に、それは、ものスゴイ宣伝効果だった事でしょう。

しかし、ここで、ちょっと気になる事があります。

以前、光格天皇御所千度参り(11月18日参照>>)ところでも、チョコッと書かせていただきましたが、確かに江戸時代は、天皇家は幕府に無断で何かをする事は禁止されていましたから、そのような制約から解放される事は望んでおられたかも知れませんが、はたして、宮中で、姫君のようにお育ちになった、少年・明治天皇(11月3日参照>>)が、薩長がめざした維新の理想を、同じく理想とされていたかどうかというのは微妙なところではあります。

もちろん、そのお心の内は、ご本人にしかわかりませんが、皇子から武人への明治天皇の変貌は、順応な精神をお持ちの明治天皇だから成しえる事ができましたが、もし、他のかただったら、こうはうまくいかなかったかも知れません。

そうです。
この維新のシナリオは、明らかに薩長など新政府軍の考えたシナリオで、いわゆる天皇の政治利用・・・上記の錦の御旗や♪トコトンヤレ節♪は、完全に天皇を前面に推しだした宣伝効果を狙った新政府軍の、良くも悪くも策略なわけです。

そこのところが、国学者の玉松には、何か引っかかる物があったのかも知れません。

これだけ協力を惜しまなかった岩倉と、維新後は袂を分かつ事になります。

西洋に追いつけ追い越せとばかりに、欧米化主義を採用した新政府に対して、大学寮(漢学所)を国学中心の大学官(皇学所)を統合する事を求めたり、政府の方針に逆行する保守的な立場を取るようになります。

もちろん、そうなると、文明開化をめざす政府内に、その居場所はなくなり、政策とは離れて皇国学を指導する立場となりますが、結局、東京には居場所がなく、京都に戻ってまもなくの明治五年(1872年)2月15日病に倒れ、63歳の生涯を終えました。

その生涯、ドップリと国学に浸っていた玉松にとって、倒幕はあっても(こんな)維新は無かった・・・という事なのでしょうか?

岩倉とともにめざした新しい世の中が、自分の描いていたビジョンとは違っていた・・・王政復古&錦の御旗という、維新屈指の名案を残した玉松にとって、その振り返った人生は、いかなる物だったのでしょうか?
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2010年2月14日 (日)

尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院のご乱行

 

元文四年(1739年)2月14日、第4代尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院が75歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

本寿院(ほんじゅいん)さんと聞くと、2008年大河ドラマ「篤姫」高畑さんを思い出してしまいますが、今回の本寿院さんは、第3代尾張藩主徳川綱誠(つななり)さんの側室となって、第4代藩主・徳川吉通(よしみち)さんをお産みあそばした本寿院さんです。

・・・と、「第3代も第4代も、よく知らないのに、その嫁とか母とかって言われても・・・」と、お思いでしょうが、ご安心下さい、私も綱誠さん・吉通さん・・・よく知りません。

知っているのは、以前、このブログでご紹介した、あの暴れん坊の8代将軍・徳川吉宗に刃向かった第7代尾張藩主・徳川宗春(10月8日参照>>)さんのお父さんが綱誠さん・・・つまり、宗春さんは吉通さんの異母弟という事くらいです。

おふたりの事に関しては、おいおい勉強させていただく事にして、本日の主役の本寿院さん・・・知る人ぞ知る有名人なのですが、実は、あまりよろしくない、ご乱行で有名な方なのです。

もともとは、尾張藩同心の坂崎勧右衛門の娘(異説あり)で、お福というお名前だったそうですが、それが、もう、メチャメチャな美人・・・で、それを見初めた綱誠さんが、身分が低いのも気にせず側室に迎えたわけです。

そんな彼女が夫(つまり綱誠さん)を亡くしたのは、まだ35歳の時・・・当然ながら、髪を落として本寿院と号し、その後は夫の菩提を弔いながら、静かな余生を送るのが、武家のならわしであったわけですが、彼女は、ちょっと違っていました。

彼女が産んだ息子=吉通が、第4代尾張藩主となった事で、江戸藩邸に住み、藩主の生母として絶大な権力を握り、その自由を謳歌する事になったのです。

尾張藩御畳奉行を務めていた朝日文左衛門重章(さひぶんざえもんじげあき)という人の日記=『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)によれば・・・

「本寿院様 貪欲絶倫・・・御気に入れば誰によらず召して婬戯す」

ひぇ~!!Σ(`0´*)
「婬=みだら」「戯=たわむれ」あそばす・・・。

寺社詣でに行けば、一泊どまりで坊さんと・・・
芝居見物に行けば、当然、役者と・・・

町人・芸人・相撲取り・・・ありとあらゆる男性を相手に・・・もちろん外でだけでなく、屋敷に呼んで・・・ってのもアリです。

しかも「御金を拝領すること多し」・・・って事は、相手の殿方にお金を渡していたと・・・

さらに、彼女を常々診察していた医者にまで恋文を送りますが、これまで、何度も、誰の子供かわらない堕胎の手術をさせられていた彼は、恐ろしさのあまり転職した、なんて話も・・・

これだけでも、藩主の母たる人がなんと言うご乱行を・・・となるのですが、さらに『趨庭雑話(すうていざつわ)という書物には、尾張から新たに江戸藩邸勤務になった藩士のチェックもしていたのだとか・・・

新人を湯殿に呼んで、裸にし、モノの大小をチェック・・・
もちろん、気に入ったイケメンがいたら、
その場でheartア・ジ・ミ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)

これだけのご乱行を、一藩士が書き残しているとなると、相当、藩内でも噂になっていたのでしょうが、やはり、藩主の生母という事で、誰も注意できなかったんでしょうかね?

・・・とは、言え、さすがに藩内だけの噂なら、隠し通せましたが、いつしか、これらのご乱行が幕府の知るところとなり、とうとう、本寿院さん・・・年貢の納め時がやってきます。

宝永二年(1705年)6月・・・41歳の彼女は蟄居(ちっきょ・自宅の一室で謹慎)を命じられ、しばらく幽閉された後、名古屋へと送られ、城下の御下(おした)屋敷に閉じ込められてしまいます。

その後、元文四年(1739年)2月14日75歳で亡くなるまで、34年間に渡る幽閉生活という淋しい余生を送る事になります。

・・・と、一般的に言われている通りの事を書かせていただきましたが、先日書かせていただいた【平安の好色一代男・花山天皇】(2月8日参照>>)しかり、江戸を通じての最大の大奥スキャンダル【絵島事件】(3月5日参照>>)しかり・・・この手の話には、どーも、ウラがありそうに思えてなりません。

もともと『趨庭雑話』などは、人から聞いた話をおもしろおかしく書くゴシップ本のような物ですから、あの新人チェックの一件も、どこまで信用できる物かわかりませんし、『鸚鵡籠中記』には、「藩主の吉通が大酒飲みでヒドイ」てな事や、重臣を批判するような事も書かれている・・・

そうです。

藩主の生母という立場でおわかりのように、本寿院さんには、かなりの発言権があった・・・どうやら、彼女は、藩政にも口を挟める立場にあり、そのあたりも積極的にこなしていた人のようなのです。

ひょっとして、彼女のご乱行の噂を流した人、それを書き残した人たちが、吉通さん母子と、その取り巻きを排除したいと思っていた人たちだとしたら・・・

ただ、残念ながら、今のところ、これに対抗できるような文献は発見されていません。

なので、彼女のご乱行は、おそらく本当というのが定説・・・しかし、万が一、それが事実無根の濡れ衣なのだとしたら、いつか、彼女の汚名は晴らされる日が来る事を願ってやみません。

34年間の幽閉生活の中、あまりの寂しさに、彼女は、屋敷の庭の大木によじ登り、奇声を発していた・・・なんて事を聞くと、ついつい、本寿院さんの味方をしてしまう私です。
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2010年2月12日 (金)

徳川家康・征夷大将軍への道

 

慶長八年(1603年)2月12日、徳川家康が京都・伏見城にて将軍宣下を受け、初代・江戸幕府将軍となりました。

・・・・・・・・・・・・

天下分け目の関ヶ原から3年・・・【関ヶ原の合戦の年表】参照>>

上記のように、あの関ヶ原の合戦「天下分け目」と、一般的に称されるところから、あまり歴史に興味のない方から見れば、あの関ヶ原が、豊臣VS徳川の戦いで、それに勝利した家康が、当然のごとく征夷大将軍となり、当然ごとく江戸幕府を開いて天下人となったような印象があります。

ほとんどのドラマで、そのように描かれるので致し方ないところではありますが、実際には、関ヶ原から将軍宣下まで、そして、幕府を開いて徳川の世を確立するまでには、そこかしこに散らばったチャンスを見逃さず、様々な策略&戦略を張りめぐらし、見事に自分の有利な方向へと導いた家康のスゴ腕があったわけです。

そもそもは、先日書かせていただいたばかりの豊臣秀吉朝鮮出兵(1月26日参照>>)・・・慶長三年(1598年)の8月、秀吉の死とともに終わりを告げたこの朝鮮出兵で、実際に大陸へと渡海しなかった家康は、その力を温存する事ができ、さらに、豊臣家内の分裂というオマケまでついたわけですが・・・。

その海外遠征後のドタバタは、翌年3月の前田利家の死で爆発(3月4日参照>>)・・・この時の石田三成襲撃事件では、石田三成を保護しながらも謹慎処分にする事で、豊臣内の亀裂をうまく残したまま、自分が、武将の長として采配を振るえる立場にある事を、さりげなく主張・・・

それまで五大老のトップであった利家亡き前田家に謀反の疑いをかけて押さえ込んだ後、翌・慶長五年(1600年)4月には、やはり五大老の1人である越後(新潟県)上杉景勝に謀反の疑いをかけます(4月1日参照>>)

景勝の、城を修復したり軍備を整えたりするのが謀反なら、家康が、勝手に大名同士の婚姻を結んだり、諸大名の領地の増減に関与したりするのも約束やぶりなわけですが、自分の約束やぶりは棚の上に置いといて、家康は、その上杉を征伐するために、居座っていた伏見城をあとにします。

・・・で、家康の約束やぶりを許せなかったのが謹慎中の三成・・・家康が東北へ出張しているすきをチャンスと見て、その留守となった伏見城を攻撃します(7月19日参照>>)

昨年の大河ドラマ「天地人」でも描かれていたように、ここで、上杉が家康をおびき出しておいて、留守のうちに三成が挙兵するというシナリオは、三成と直江兼続(なおえかねつぐ)の共謀だったというお話もありますが、それに関しては、未だ証拠となる文献も残っておらず、今のところは、あくまで噂です(4月14日参照>>)

そして、遠く関東で、三成の挙兵を聞いた家康・・・すぐさま進路を西へと向け、畿内へと戻りますが、その戻った家康と、迎え撃つ三成がぶつかった所が関ヶ原です。

三成にとっては、豊臣家内で約束やぶりを繰り返す家康を倒すための戦い・・・そのために、五大老のうち毛利輝元宇喜多秀家を味方につけ、年長の輝元に西軍の総大将を頼んでいるわけです。

一方の家康にとっても、豊臣家内の亀裂の火種となっている三成とその一派を倒す戦で、あくまで、その立場は豊臣家の家老・・・家老のトップとして、家内のトラブルをおさめるという姿勢だったわけです。

つまり、関ヶ原は天下分け目の戦いではなく、豊臣家内のトップ争い・・・それは、家康が勝利した後も同じでした。

合戦に勝利して反対勢力を一掃し、戦後の人事の決定権を握った事で、名実ともにトップの座を射止めた家康ですが、それは、あくまで豊臣家の家老として・・・その上には、亡き秀吉の遺児=後継者の豊臣秀頼がいます。

家康はじめとする諸大名の主君が、その後も秀頼である事はかわりなく、大名たちの正式な挨拶などは、まず秀頼・・・そして家康というのが、未だ続いていたわけです。

家康にとっても、関ヶ原で味方してくれた加藤清正福島正則といった武将たちは豊臣恩顧の武将ですから、ここであからさまに、「目標は打倒!豊臣」なんて姿勢を見せたら、彼らもどのような態度に出るかわかりません。

関ヶ原で処分した多くの対抗勢力配下の浪人たちと一緒になり、またまた、大きな反家康勢力ともなりかねませんから、ここは慎重に・・・あくまで、豊臣を立てつつ、次の行動に移ります。

Ieyasusyougunsengecc 家康が征夷大将軍に任ぜられた記録文書(日光東照宮蔵)

それが、慶長八年(1603年)2月12日将軍宣下・・・

「征夷大将軍になったのだから、ここで、もう天下を掌握・・・トップになったでしょう?」と、思いきや、これが意外とクセモノ・・・

そうです。
源氏どころか、武家の出身でもなかった秀吉は、征夷大将軍になる事なく、関白から太政大臣で、その生涯を終えています。

そこがミソ・・・
秀吉がならなかった征夷大将軍なのですから、家康がなったとしても、豊臣家をないがしろにしたわけではありません。

しかも、幸いな事に、この時、かの秀頼は、わずか11歳・・・「主君・秀頼様がご成長されるまで、政権をお預かりいたします」というポーズをとったわけです。

天下の代行という地位を明確にさせるために、朝廷に働きかけ征夷大将軍の称号を得る・・・それでいて、一方では、この年の7月には、その秀頼と、自らの孫娘・千姫を結婚させ(7月28日参照>>)、あくまで自分が中継ぎ投手であるかのごとく振る舞います。

この頃は、豊臣家も、恩顧の大名たちも、すっかりそのリリーフぶりを信じていたのでは?

そんな暗黙の了解が破られるのは、2年8ヶ月後・・・

慶長十年(1605年)2月24日、家康の三男・徳川秀忠は、突如として10万もの兵を連れて江戸を発ち、3月21日、京都に入ります。

何のための上洛から知らされておらず、大坂城では、「すゎ!」と軍備が固められた・・・なんて話もありますが・・・

そうです。
そのまま伏見城に入った秀忠・・・4月16日、家康は2代将軍を、この秀忠に譲ります(4月16日参照>>)

ここで、この将軍というポストが、徳川家から徳川家へ譲られるもの・・・決して、豊臣には行かない事を内外に宣言したわけです。

10万を引き連れての上洛・・・しかも、その嫁は秀頼の母・淀殿の妹・であり、秀頼の嫁・千姫の父でもある・・・

もはや、手の打ちようのない状況に、大坂方はがく然としたでしょうが、それでも、まだ秀頼の地位が落ちたわけではありません。

現に、未だ、「病気見舞いだ」「なんたら祝いだ」と言っては、秀頼のもとを訪問する大名も数多くいたのです。

まぁ、要するに保険ですけど・・・

豊臣政権であろうが、徳川政権であろうが、諸大名たちは、どちらでも生き残っていくための保険をかけていたわけですが、そんな状況に、さらにクサビを打ち込むのは、やはり、家康さん・・・

この後、見事に天皇家を取りこんで、最後の総仕上げの大坂の陣へと向かうわけですが、その前に・・・

そんな一般的な見方とは一線を画す、この頃の徳川と豊臣の関係についての興味深い話【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】>>もお楽しみください。
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ブログ開設・5年目に突入!

 

何を隠そう(隠してないが・・・)、本日は、このブログを開設した記念日であります。

思い起こせば、2006年2月12日・・・何のコンセプトもなく、突然始めたブログですが、4年間の長きに渡って続けてくる事ができましたのも、いつも訪問してくださる皆様のおかげであります。

・・・で、その最初の日に書いたのが、「徳川家康が征夷大将軍になった」という記事・・・

しかし、その時は、さすがの歴史好きも、ここまで、このブログに歴史の事ばかり書くとは思っても見ず、たまたま、その日であったために書いた、とても歴史ブログとは思えない内容・・・

以前から、「何とかしなければ・・・」と思いつつ、本日やっと、同じテーマの記事を書いた次第です。

・・・で、5年目に突入した今年の目標は・・・

もう、毎年書いておりますが、長く続けていくためにも、今年こそ、少しペースを落として、「書きたい時に書く」という風に持っていきたいと思っています。

コメント等で「毎日、楽しみにしています」と言ってくださると、とてもうれしくて励みとなり、「今日は何を書こうか!」と腕まくりするのですが、ついつい、こちらのブログを優先するあまり、本家のホームページのほうが、なかなか更新できないでいます。

さらに、さすがに5年目となると、その日の出来事にも、まだまだ書きたい事がいっぱいある日と、書きたい出来事は書いちゃったよという、日づけによっての差が出てきている事も確か・・・

もちろん、そういう日は、日づけにこだわらない歴史のウラ話なども、どんどん書いていきたいと思っておりますが、この先、末永く続けていくためにも、「肩肘張った無理な体勢ではいけない」といういい意味での余裕を以って、ブログに向かい合って行こうと思っています。

これまで、応援してくださった皆様・・・
そして、新たに訪問してくださった皆様・・・

趣味の歴史ブログでありますので、間違いやトンデモ説など、多々あろうかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

これからも、ご一緒に、歴史を楽しんでいきましょう!
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2010年2月11日 (木)

神官生まれの剣聖~塚原卜伝の極意

 

元亀二年(1571年)2月11日、新刀流の開祖で、剣聖とうたわれる戦国時代の剣豪・塚原卜伝が83歳でこの世を去りました

・・・・・・・・・・

その生涯で、真剣勝負=19回合戦=37回のうち、負けは無し!
・・・どころか、1ヵ所も疵を受ける事無く、矢疵のみ6ヵ所・・・討ち取った敵は212人!

見事な戦績です。

最近こそ、あまり聞かなくなりましたが、少し前は、剣豪の代表格として講談でももてはやされ、数多くの逸話に彩られた人物で、あの剣豪将軍・室町幕府13代足利義輝(よしてる)(11月27日参照>>)師匠としても有名ですね。

塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)は、鹿島神宮祝部(はふりべ・神職)の首座であった吉川左京覚賢あきかた)の次男として生まれ、最初は朝孝(ともたか)と名乗りました。

鹿島には、もともと、神官の中に7人の刀術に秀でた者がいましたが、これを京八流に対して鹿島七流と称して継承していて彼も、その剣術を継承する家柄だったのです。

この鹿島氏には、鹿島城を中心に33の支城がありましたが、その中の一つ・塚原城の城主に世継ぎがいなかった事から、彼が養子となって入り、塚原新右衛門高幹(たかもと)と名乗ります。

ちなみに、卜伝というのは後に剃髪してから名乗った僧号ですが、ややこしいので、今回は卜伝さんで通させていただきます。

・・・で、もともと、神妙剣(しんみょうけん)を継承する家柄であるうえ、養祖父の土佐守安幹(やすとも)の手ほどきも受け、さらに天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)の創始者である飯篠家直(いいざさいえなお・長威斎)(4月15日参照>>)からは、秘剣・(ひとつ)太刀まで伝授されたと言われています。

そんなんですから、もはや16歳くらいの頃から近隣では卜伝の相手になるような者もおらず・・・そうなれば、さらに腕を磨くために、諸国を巡っての、お決まりの武者修行という事になります。

卜伝は、永正二年(1505年)の17歳を皮切りに、生涯に3度、合計:26年間を、武者修行の旅に費やしています。

その中では伊勢に長期滞在して国司の北畠具教(とものり)(11月25日参照>>)に剣術を教えたり、先ほどの義輝、さらに細川幽斎などにも・・・

そして、こういった有名人には、本来は弟子のうちの1人にしか伝授してはいけない、あの秘剣・一の太刀を、ちゃっかりと授けちゃってるとこなんか、意外に商売人・・・。

いや、商売人というよりは、戦国時代なのですから、策略家と言うべきでしょうか。

なにしろ、生き馬の目を抜く戦国時代、いくら腕が達ても、剣だけでは生き抜いてはいけません。

冒頭の戦績は、剣術とともに、その兵法を熟知し、策略に長けていた事を物語っているのです。

ある時、卜伝は柑村織部(かんむらおりべ)という左太刀の達人と立合いをする事になりますが、もちろん、事前に敵の情報を調査しまくり・・・で、その調べによれば、織部は左右どちらかの片手斬りで、相手に致命傷を与えるらしいとの事。

そこで、卜伝は、「片手斬りは卑怯な方法であるから、自分との立ち合いの時にはしないように」と、何度も何度も、しつこいくらいに使いを走らせました。

そう、実は、これで、「これほど片手斬りを怖がってるヤツなんて、たいした事ないな・・・」織部を油断させたのです。

・・・で、本番は、バッチリ・・・開始直後に顔面割りで卜伝の勝利!

また、ある時、蹴りクセのある馬の背後を通ろうとした兵士が、その馬に蹴られそうになり、とっさに身をかわして事なきをえましたが、卜伝は、そのすばらしい身のこなしを褒める事なく、一言・・・「お前は未熟だ!」と、叱責します。

「じゃぁ、どうするのが良いんですか!」と詰め寄る兵士に、卜伝は、まず馬をつないだ後、そこから遠い位置を通って行ったのです。
「こうしておけば、はなから蹴られない」と・・・。

さらに、今度は、武者修行に出た時の話・・・

近江(滋賀県)坂本から舟に乗って琵琶湖を渡っている最中、同じ舟に武者修行中の武芸者が乗っていました。

「俺は、立ち合いで負けた事がない!」と自慢話をし始める男・・・その話を聞いてるうちに、だんだんと、うっとぉしくなってきます。

声はデカイし、ツバは飛ばすし、態度はエラそうだし・・・

そこで、卜伝・・・「俺も、剣術では負けた事がないよ!」と、男を挑発します。

「剣術は何流だ?」と聞くので、
「無手勝流だ!」と答える卜伝・・・

「ならば、この場で、ひと勝負!」
という事になり、船頭に頼んで、近くの無人島へ・・・

相手が先に上陸したのを確認した卜伝は、船頭が手にしていた櫂を、ヒョイと手にとって島を一突きします。

小さな舟は、男を無人島に残したまま、一気に沖へ・・・

地団駄を踏んでわめき散らす男を置き去りにして
「これが無手勝流の極意なり!

・・・って、剣は???
剣はいったいどこで使う???
と、ツッコミたくなるくらい、策略に長けた逸話が目だつ卜伝さん・・・

「剣は人を殺す道具ではなく、活かす道である」by卜伝

きっと強いからこそ、その腕を奮わない・・・まさに、剣聖ですね。

ちなみに、宮本武蔵が卜伝の力量を計ろうと、食事中のところを背後から襲い、卜伝が囲炉裏の鍋ぶたを手にして防いだという講談で有名な逸話は、残念ながら、後の創作・・・

なんせ、武蔵は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦に参加した時は、まだ10代のはずですから、元亀二年(1571年)2月11日にお亡くなりになった卜伝さんとは、イタコの口寄せ以外で出会える事はなさそうなので・・・(。>0<。)
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2010年2月10日 (水)

鳥羽伏見から会津戦争へ~松平容保の決意

 

慶応四年(1868年)2月10日、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜が、会津藩主・松平容保に江戸城への登城を禁止しました。

・・・・・・・・・・

時は幕末・・・倒幕の気運高まる中、大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)を行って、薩摩(鹿児島県)長州(山口県)振り上げたこぶしを回避しようとする第15代江戸幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・

しかし、薩長は王政復古の大号令(12月9日参照>>)を発して、あくまで幕府を倒すつもりです。

そんな中、江戸市中でテロ行為を繰り返していた薩摩藩に対して(12月25日参照>>)朝廷から薩摩討伐の許可を得ようと大坂城から京都へ向かう幕府の行列・・・その行列を京都へ入れるまいと立ちはだかった薩長との間で勃発したのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。

その鳥羽伏見の戦いの3日目・・・薩長軍では錦の御旗が掲げられて官軍となった事で士気は挙がりますが、一方の幕府軍は賊軍となった事で士気も低下(1月5日参照>>)・・・手痛い敗北を知った慶喜は、単独で大坂城を抜け出し、海路、江戸城へと戻ってしまいます(1月6日参照>>)

この時、慶喜に従って、ともに江戸に戻った、わずか数名の付き添いの中にいた1人が、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)です。

彼は、文久二年(1862年)に京都守護職に就任・・・その後、元治元年(1864年)2月には陸軍総裁職に任ぜられ、その年の4月には再び京都守護職となり、京都の治安を守る任務に当たっていたです。

彼の配下となっていた新撰組が、京都の町に暗躍していた多くの尊王攘夷派の志士を取り締まっていたのは、皆様もよくご存知の事・・・(6月5日【池田屋騒動】参照>>)

ただ、今回の大坂城脱出に関しては、後に「庭でも散歩するのかと思って、(慶喜に)気軽について行ったら、どんどん城門を出てしまった」と、容保本人が語っているらしいので、おそらくは、慶喜の単独の意思であると思われます。

かくして慶喜が去った大坂城は炎上し、入城した官軍の指揮下に置かれます(1月9日参照>>)

そして、1月12日に浜御殿に上陸したその後の慶喜は、ご存知のように、ただひたすら新政府に対する恭順な姿勢で、徳川の存続を訴える事になります(1月17日参照>>)

一方の容保は、恭順な姿勢をとりながらも、藩内の軍制改革を行い、軍備を整え、万が一の抗戦にも備えます。

もちろん、この間に、新政府は慶喜らを朝敵として追討命令を下してします。

ただひたすら恭順な慶喜と、恭順の一方で抗戦の準備も整える容保・・・ここに、その方針の違いを感じたのか、慶応四年(1868年)2月10日慶喜は、容保に対して、江戸城への登城を禁止したのです。

悪く言えば、トカゲのしっぽ切り・・・「慶喜が、容保を見捨てた」という事になりますが、事が重大なだけに、ここで慶喜個人を責める事は避けたいと思います。

こうして、主君・慶喜と袂を分かつ事になった容保・・・未だ雪深い奥州街道を下り、23日には会津へと帰国します。

容保と同様に朝敵とされた桑名藩主の松平定敬(さだあき・容保の弟)(7月12日参照>>)は、すでに桑名藩が、世継ぎを立てて新政府に降伏してしまっていたため、ロシア船で越後(新潟県)へと逃亡した後、陸路にて会津に入りました。

もちろん、弟だけではありません・・・鳥羽伏見の戦いを経て、東へ東へと進む新政府軍に対して、慶喜の恭順な態度に納得できない、未だ幕府を支持する者たちが、続々と会津へと入ってきます。

これまでも、いくつか書いておりますが、江戸無血開城(1月23日参照>>)がなった後にも抗戦していた彰義隊(しょうぎたい)(5月15日参照>>)遊撃隊(ゆうげきたい)(5月27日参照>>)などの生き残りも、どんどん集結していきます。

・・・が、この間にも、抗戦を回避するチャンスはいくつかあったのです。

未だ江戸無血開城がなされてもいない3月29日・・・新政府軍の奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督に任じられた九条道孝(くじょうみちたか)は、仙台城へと入り、仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)に、会津討伐を求めます。

この時の新政府は、会津と、そしてその会津と同盟を結ぶ庄内藩に対して、徹底的な処置を行う事を目指していたのです。

その要求に、やむなく、一部の兵を国境へと向かわせ、会津藩と銃撃戦など行う仙台藩でしたが、内心、それほど乗り気ではありません。

なんだかんだで、東北の諸藩は、意外と結束が固かったのです。

立場は、新政府側についていた仙台藩も、長年隣国としてよしみを通じて来た会津には、それなりの情もあり、庄内藩も含めて、何とか寛大な処置をしてもらえないものか?というのがホンネでした。

そこで、閏4月11日、東北14藩の重臣が仙台藩領の白石城(宮城県白石市)に集結し、かの容保も同意しての『会津藩救済の嘆願書』が作成され、仙台・米沢両藩から奥羽鎮撫総督府へと提出されたのです。

ところが奥羽鎮撫総督府・・・下(しも)参謀の世良修蔵(せらしゅうぞう)が、それを受け取るどころか、逆に、その嘆願書に名を連ねた東北諸藩へ、会津討伐の催促をしたのです。

「もはや新政府には、会津攻撃を回避する意志はない!」

会津が、守りから攻撃に転じた瞬間でした。

かくして9日後の閏4月20日・・・嘆願書を握りつぶした世良が、福島城外で仙台藩士たちに殺された(4月20日参照>>)のと同時に、田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲します。

いよいよ会津戦争の幕が上がります・・・・が、このお話の続きは、やはり、白河口攻防戦が行われる5月1日のページでどうぞ>>
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2010年2月 9日 (火)

日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦

 

明治三十七年(1904年)2月9日、日本の連合艦隊が、仁川沖と旅順港にてロシア艦隊に砲撃しました。

・・・・・・・・・・・・

明治三十七年(1904年)2月10日に、日本からロシアへの宣戦布告という事で、以前、日露戦争に至る経緯をおおまかに書かせていただきましたが(2007年2月10日参照>>)、日本側が最後通牒(つうちょう)を手渡した御前会議が開かれたのは、その6日前の2月4日でした。

満州から撤退しないロシアに対して、日本は、満州をロシアの勢力圏と認める代わりに、朝鮮半島を日本の勢力圏を認める満韓交換論(まんかんこうかんろん)を提示してロシアとの交渉にあたりますが、ロシアはこれを拒否・・・

開戦への気運高まる中の2月4日、宮中御座所にて、大臣・元老の列席のもと開かれた御前会議で、ロシアに対する国交断絶と開戦を意味する最後通牒が、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)から、駐日ロシア公使・ローゼンに手渡されたのです。

この時、そのローゼンは、「国交断絶ってどういう意味?戦争するって事?」と、かなりうろたえた様子だったという事なので、おそらく、ロシアにしてみれば、まさか、アジアの東の端っこの小国が、大国・ロシアに戦いを挑んでくるとは思ってもみなかったという事かも知れません。

すでに、開戦前の軍儀にて、大まかな作戦が決定していた日本軍・・・

Nitirotizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

陸軍は、第1軍が朝鮮半島を占領し、第2軍が満州南部から遼陽(りょうよう)に攻め上りロシア軍の主力部隊を撃破する。

海軍は、旅順(りょじゅん)ウラジオストックを根拠地とするロシア太平洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を握る。

これを受けて、すでに佐世保に集結していた連合艦隊は、かの御前会議の翌日の2月5日、出航を開始します。

まずは、主力部隊が旅順に向け出撃・・・

続いて瓜生外吉(うりうそときち)率いる第4艦隊が、韓国の主著・漢城(ソウル)近くの仁川(じんせん)港へ向けて出撃します。

この時、すでに仁川港には、イギリス・フランス・イタリア・アメリカの軍艦とともに、日本の巡洋艦・千代田も停泊中・・・一方のロシアも巡洋艦のワリャーグコレーツが港内に停泊していました。

出航の翌日の2月6日、先の御前会議での最後通牒受けて戦争状態に入った日本とロシア・・・翌・7日に、千代田は、一旦、仁川港を出て、沖合いに到着した瓜生率いる艦隊と合流し、さらに翌日の8日、艦隊は仁川に向けて航行を始めます。

一方、旅順へと向かった連合艦隊・主力部隊も、8日・午前6時頃には旅順沖に到着・・・まずは、10隻の駆逐艦にて、様子を見つつ行動開始・・・

この間に仁川沖の瓜生艦隊は、小競り合いの中、陸軍部隊が仁川上陸に成功しています。

夜になって、旅順港外へ到着した駆逐艦は、日づけが変わろうとする真夜中、港内に突入して、停泊するロシア艦隊に向けて夜襲を開始・・・その日の昼には、主力部隊も合流して本格的な攻撃が行われました。

その頃には、仁川に上陸した陸軍部隊のうち第1軍の第12師団2000名余りが漢城に入ったのを先頭に、第1軍主力部隊が続々と上陸し、韓国政府との間で、駐留権獲得の交渉に入る一方で、海上の瓜生艦隊は、ロシア艦隊との戦闘に入ります。

この仁川港外での海戦では、ロシア側のワリャーグが日本側の砲撃で大破した後沈没・・・それを見たコレーツも、自ら火薬庫に火を放って自爆し、日本側の一方的な勝利となりました。

しかし、一方の旅順では、そう簡単にはいきませんでした。

なんせ、旅順港は鉄壁の要塞・・・少し、港を出てきたロシア艦隊に対し、至近距離から砲撃を加える連合艦隊ですが、その間にも旅順の要塞からは、大砲が火を吹きます。

射程距離内にいた旗艦・三笠をはじめ、多数の艦船が被害を被る中、それを承知のロシア艦隊は、港を大きく離れる事なくしばし交戦し、30分もたたないうちに港内に戻ってしまいます。

結局、その日の戦闘は日本・ロシアともに致命傷もなく終わり、それ以来、ロシア艦隊は港からピクリとも動きません。

さらに、2月14日にも連合艦隊は攻撃を仕掛けますが、ロシア側が港を出ない以上は、要塞からの攻撃を受ける事になり、日本側は手出しできません。

やむなく、連合艦隊は、狭い旅順港の入り口を閉鎖する『旅順閉塞作戦』を決行する事になるのですが、そのお話は、有名な広瀬少佐の逸話とともに、3月27日のページへどうぞ>>・・・
 

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2010年2月 8日 (月)

平安の好色一代男~花山天皇の奇行の裏に

 

寛弘五年(1008年)2月8日、第65代・花山天皇が崩御されました

・・・・・・・・・・

まさに平安華やかなりし頃、浮名を流しまくり、スキャンダル発覚しまくりの第65代花山(かざん)天皇・・・

伯父にあたる円融(えんゆう)天皇が第64代天皇として即位した時に、わずか生後10ヶ月で皇太子に任命されていた師貞(もろさだ)親王・・・その親王が円融天皇の退位を受けて、第65代花山天皇として即位したのは、17歳の時でした。

女の子の場合は「鬼も十八 番茶も出花」なんて言葉がありますが、男の子の場合はなんて言うんだろう???

「男ざかり」・・・なんて言うのは、もう少し年齢が上ですし、その意味も、仕事をバリバリこなすといった雰囲気ですから、ちょと違う・・・

とにかく、17歳の花山天皇・・・「女」という文字を書いただけでも反応しちゃうほどの世代だったわけで・・

なんと即位式の最中に、かいがいしく式典の準備をこなす下級の女官に一目ぼれ・・・そのまま高御座(たかみくら)高御座については本家HPの京都御所公開のページへ>>>別窓で開きます)の中に引っ張り込んで、その場で一発・・・もとい、その場でおあそばしたくらい血気盛んなお年頃だったのです。

いや、花山天皇の場合は、血気盛んなお年頃では済まないほど長期に渡っての女性スキャンダル・・・どこそこのお屋敷にカワイ娘ちゃんいると聞けば恋文を渡し、誰それの奥さんが美人だと聞けばチョッカイを出し・・・

てな事をやりながらも、即位と同時に入内した皇后・怟子(しし・よしこ)を愛し、寝ても冷めてもラブラブ状態ながら、翌年、彼女がお腹に赤ちゃんを宿したまま亡くなってしまうと、突然家出をして行方不明となり、即日出家という一大事を起してしまいます。

そのため、わずか2年で退位して従兄弟の第66代一条天皇に皇位を譲って法皇となり、仏道修行に励んだにも関わらず、欲求はさらに噴出しまくり・・・

母方の叔母に手を出したかと思えば、すぐに飽きて弟へ譲り、乳母子の中務を妊娠させてる間に、その娘も妊娠・・・巷では、その皇子たちは「母腹宮」「女(むすめ)腹宮」なんて呼ばれたってな話も・・・

そして、とうとう長徳二年(996年)には、内大臣・藤原伊周(これちか)に、衣の袖を矢で射られるという殺人未遂され事件も引き起こしてしまいます。

実は、伊周さん・・・この頃、今は亡き太政大臣・藤原為光(ためみつ)の娘にゾッコンで、じばしば屋敷に通っていたのですが、その屋敷に花山法皇も通っている事を知り、
「出た!好色一代男!俺の女に何すんねん!」
とばかりに、弟の隆家とともに従者を連れて、彼を襲撃したのです。

が、しかし、これは伊周の勘違い・・・花山法皇が狙っていたのは、同じ屋敷に住む妹のほうでした。

さすがに、襲われた花山法皇のほうもバツが悪いので、この話は示談・・・いや、内密に済ましていたのですが、法皇襲撃なんて一大事がバレないわけもなく、結局、伊周と隆家の二人は流罪となってしまいました。

そんなこんなの女性スキャンダルに始まり、例の即位式では、「冠が重い!(`Д´)/」と言って怒ったり、狭い清涼殿の庭で馬を乗り回して周囲を困らせたりの奇行が目立ったという花山天皇・・・

ゆえに、わずか2年の在位となったとも言われますが、一方では、花山天皇は、和歌や絵画・建築・工芸などに非凡な才能を発揮し、彼が仏道修行中に巡礼した場所は、今も西国三十三箇所巡礼として継承されるくらいの法力を身につけたとも言われます。

いったい、どっち???

現存する文献のほとんどには、花山天皇のスキャンダラスな奇行が書かれていますので、あくまで推論ですが、花山天皇の奇行には、彼が、そうせざるをえなかった、ドロドロした政権争奪戦があった事も確かなのです。

以前書かせていただいた藤原良房(よしふさ)基経(もとつね・養子)父子・・・臣下として初めて摂政&関白をいう地位をゲットした藤原北家の生き残りの彼ら・・・(8月19日参照>>)

あの藤原不比等(ふひと)の4人の息子による北家南家式家京家の4家による政権争奪戦に勝ち残った北家の彼らが、この先、平安の政権を独占する事になるのですが、そうなると起こるのは・・・そう、今度は、その北家内での兄弟による骨肉の争いです。

先の基経の息子・藤原忠平が摂政・関白を務めていた頃の天皇は第61代朱雀(すざく)天皇・・・地方で平将門の乱(11月21日参照>>)藤原純友の乱(12月26日参照>>)があった時代ですが、朱雀天皇と忠平の関係はうまくいっていました。

その忠平の息子が左右大臣の兄・実頼(さねより)と弟・師輔(もろすけ)・・・この頃には朱雀天皇の弟・村上天皇が、第62代天皇として関白や太政大臣を置かず天皇自らが政治を行う親政をやっていましたが、とりあえず左右大臣という高位置をキープしているのでOK!・・・

しかし、ここで、村上天皇が師輔の娘・安子(あんし・やすこ)を皇后にして、二人の間に生まれた皇子を皇太子にしたために、兄より弟の師輔がやや権力を握るようになります。

その皇太子が、第63代冷泉(れいぜい)天皇として即位しますが、この天皇が障害があって病弱だった(そのワリには62歳まで生きてる)事と、その兄弟のちょっとした亀裂につけこんで、源高明(たかあきら)が冷泉天皇の弟・為平(ためひら)親王を擁立しようとしたとして失脚安和の変・3月25日参照>>)・・・そのどさくさで冷泉天皇は、わずか2年で退位させられ、まだ11歳の弟・守平(もりひら)親王が第64代・円融天皇として即位します。

ややこしいですが、とにかく、はっきり言って藤原の兄弟の強い弱いで天皇が決まってる感のする交代劇である事は、うすうすおわかりいただけると思います。

・・・で、冒頭に書かせていただいたように、この円融天皇が即位した時に、皇太子となったのが、本日の主役の花山天皇なわけですが、この頃は、先の師輔の息子・伊尹(これただ)兼通(かねみち)兼家(かねいえ)の藤原三兄弟が、権力を握っていたわけで、もちろん、この花山天皇の皇太子もその外戚(母方の父)伊尹の後押しありきです。

しかし、この円融天皇の在位中に伊尹は亡くなり、弟の兼通・兼家の間で争うように娘を円融天皇のもとに入内させ、子供ができたのが兼家の娘の方で・・・。

さらに兼通もその娘も亡くなって、こうなったら、早い事、自分の娘の生んだ子供を天皇にしたくてたまらないのが、最後に生き残った弟・兼家・・・って事になります。

しかし、この時は、すでに皇太子に師貞親王=花山天皇が決まっていますから、とりあえず円融天皇に退位してもらって花山天皇の即位となったわけですが、花山天皇の外戚の伊尹は、すでに亡くなっているわけですから・・・

そうです。

花山天皇が即位した時点で、すでに一番権力を握っている兼家は、自分の孫を天皇にしたくてたまらなかったって事になります。

・・・で、その即位から2年後の寛和二年(986年)6月23日、愛する怟子さんを亡くして落ち込む花山天皇に、兼家の三男・道兼(みちかね)が囁きかけます。

「お気の毒に・・・悲しいでしょう。僕が一緒に出家しますので、ともに寺へ行きませんか?」

傷心の花山天皇は、やさしくしてくれた道兼にすっかり心を許し、天皇の証しである三種の神器を皇太子の懐仁(やすひと)親王に預けて、道兼に導かれるまま宮殿を脱出し、一路、元慶寺(げんぎょうじ・花山寺)へ・・・即日出家してしまいます。

ところが、寺に着いてまもなく、「さすがに無断では問題になるので、父の兼家に事情を説明して来ます」と、去って行った道兼は、待てど暮らせど戻っては来ない・・・

「騙された!(≧ヘ≦)
と気づいた花山天皇ですが、もはや、あとの祭り・・・これが、先に書いた花山天皇出家事件の真相のようです。

次期天皇は、その懐仁親王が第66代一条天皇として即位します・・・もちろん、この一条天皇が兼家の孫です。

さらに、花山天皇排除の功労者=道兼は、ちゃっかり関白に・・・

ただ、まもなく亡くなったので、その後は、この道兼の弟が実権を握る事になります。

その弟こそが、あの望月が欠ける事もない幸せを謳歌する藤原道長です。

ひょっとして花山天皇の奇行は、藤原氏に作られた物なのかも・・・

もし、本当に数々のスキャンダルを起していたとしても、花山天皇の気持ちもわからんではない・・・確かに、だからと言って、女遊びや奇行に走ってイイってわけじゃありませんが、ちょっとだけ、お気の毒な気がしてしまいます。
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2010年2月 7日 (日)

信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人・蒲生氏郷

 

文禄四年(1595年)2月7日、織田信長豊臣秀吉に仕え、前田家に次ぐ大大名にまで出世した蒲生氏郷が40歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪限りあれば 吹かねど花は 散るものを
  心短き 春の山風   ♪
   蒲生氏郷 辞世

「限りあるものやねんから、そんなに吹かんでも(いずれ)花は散るって・・・(せやのに)春の山風は短気なんやから・・・」

これは、本日の主役・蒲生氏郷(がもううじさと)の辞世とされる歌です。

もし、本当にこれが正真正銘の氏郷さんの辞世の句だとしたら、何となく、謎を投げかけるような雰囲気ではありませんか?

まだ、死にたくないのに、誰かによって死に追いやられた・・・みたいな?

もちろん、その誰かは、実在の人物ではなく、神様、あるいは運命のような物で、「まだまだ、俺はやりたい事があるのに~!」というくやしさからの叫び・・・という事もありますが・・・

一方では、やはり、その年齢の若さや急な死であった事も相まって、かなり昔から暗殺説が囁かれているのも確かなのです。

  • 九戸の乱の采配の時の氏郷のあり余る器量に主君の秀吉が脅威を抱いた。
  • 朝鮮出兵の時に秀吉が自ら渡海しようとすると、氏郷が「僕が行くので、殿様はここで・・・」と言ったのを、秀吉が出兵批判と解釈した。
  • キリスト教に対する姿勢の違い(氏郷はキリシタンで洗礼も受けてます)
  • 秀吉が氏郷の妻・冬姫(信長の次女)を欲しがった。
  • 氏郷の茶の師匠・千利休を秀吉が死に追いやった事での確執。

などなどの理由で、秀吉自ら、あるいは、主君・秀吉のために石田三成が手を下したなんて話がちらほら・・・

また、秀吉亡き後の覇権を考えて、三成と直江兼続(なおえかねつぐ)の共謀説など、様々に囁かれていますが、いずれも噂の域を越えない物で、現在では、おそらく病死・・・医師による「吐血」「下血」の記録も残るところから大腸がんや胃がんなどの消化器系統のがんであろうというのが定説となっています。

・・・とは言え、氏郷の死に、あの三成と兼続が絡んでいるなら、それはそれで興味深いのですが(1月10日参照>>)、このブログではほぼ初登場の氏郷さん・・・未だ、あの葛西大崎一揆の時の、カッコイイ伊達政宗の引き立て役としてしかお目見えしていないので(2月4日参照>>)、今日のところは、その人となりなど、ご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

弘治二年(1556年)に、近江南部に勢力を誇った六角承禎(じょうてい=義賢)の重臣・蒲生賢秀(がもうかたひで)の嫡男として蒲生郡日野城に生まれた氏郷・・・その運命が、大きく変わるのは永禄十一年(1568年)の事でした。

その主家である六角氏が、織田信長に敗れた事によって、父・賢秀は、信長傘下となる事とし、その証しとして氏郷を岐阜の信長のところへ、人質として送ったのです。

ところが、この若者の優秀さを一目で見抜いた信長さん・・・自らの娘・冬姫と結婚させ、自ら烏帽子親となって元服させ、当時の信長の官職・弾正忠(だんじょうのちゅう)の一字を与え、忠三郎賦秀(やすひで)と名乗らせます。

信長の死後に主君となる秀吉からも、何と、羽柴という姓を貰って羽柴飛騨守(ひだのかみ)氏郷と名乗っています。

ちなみに、この賦秀の「秀」、氏郷の「郷」は、あのムカデ退治から平将門・討伐まで、その勇猛ぶりには事欠かない俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に由来する物で、『蒲生系図』では蒲生家の祖という事らしいです。

いくつかの文献に出てくる俵藤太の武勇伝は、蒲生家・家伝がもとネタで、藤太が龍神の化身と出会ったとされる瀬田の橋を渡る時には、子孫たちは皆、下馬して笠を脱いで渡ったと言いますから、その子孫というのが真実かどうかはともかく、蒲生家の人々の間には、そのように伝わっていて、おそらく氏郷も、幼い頃からご先祖様の武勇伝を聞き、「自分も格ありたい」と心躍らせた事でしょう。

それにしても、六角氏の家臣だった彼が、信長の娘を嫁さんに貰い、羽柴の姓を貰い、日野城主6万石だった父の後継から、伊勢12万石、会津42万石・・・さらに、その会津で加増されて、最終的には徳川・毛利・前田と並ぶ92万石の大大名に出世する・・・その魅力はいったい何だったんでしょうか?

実は、この氏郷さん・・・その悪口を、ほとんど聞きません。

昨日の友は今日の敵、親兄弟でさえ争い、勝者となった者は敗者の悪口を書きまくる戦国の世にあって、この方だけは別格・・・それはひとえに、その性格の良さ。

どうやら氏郷さん・・・この人にこそ「愛」の兜をかぶって欲しかったと思えるほどイイ人のようです。

そのイイ人ぶりは親譲りのようで、あの信長が命を落とした本能寺・・・この本能寺の変の時、父・賢秀は安土城で留守を預かっていたのですが、その死を聞いても財宝一つパクる事なく速やかに城を後にし、息子・氏郷との連携プレーで、見事、残された信長の家族を日野城にかくまい、明智光秀の誘いを断り続けて、亡き主君への忠義を貫き通したのだとか・・・(2017年6月2日参照>>)

また、秀吉の世となってから、そのお伽衆に取りたてられた六角義賢(ろっかくよしかた・承禎)の子が秀吉に謁見した際には、すでに、その六角氏が200石に落ちぶれていて、一方の氏郷は100万石に近い大大名であったにも関わらず、かつての主君であった義理を立て、その太刀持ちをかってでただけでなく、自ら風呂焚きをしてもてなしたのだとか・・・

『茶道四祖伝書(さどうしそでんしょ)という書物では、日本一気が短いのは細川忠興で、日本一気の長い人は氏郷であったとしているし、彼に洗礼を授けたあのオルガンティーノ神父「知恵と寛大さを併せ持つ人」と、彼を絶賛しています。

会津に来てまもなくの頃には、元領主の伊達政宗から刺客が送られて来た事もありましたが、それを見つけた氏郷は、討ち取るどころか、「その忠義の心、あっぱれ!」丁重にもてなして帰らせたなんて事も・・・

さらに、信長の経済政策ぶりを尊敬していた氏郷は、自らの領地でも楽市楽座を行い城下町の整備と発展に尽くしましたが、最初の領地である日野城下の商人が、氏郷が伊勢に転封となれば松坂へ引越し、会津に来れば会津に・・・と、ずっと彼を頼ってついて来ていた事をみても、いかに一般庶民から信頼されていたかがわかります。

さらにさらに・・・まだあります。

氏郷が新しい家臣を召抱えると、必ず言っていた言葉があったそうなのですが、それが・・・
「戦場では、わが軍の銀の兜の侍がいつも一番に乗り出すから、ソイツに遅れんようにガンバレよ!」と・・・

そう、もちろん、その銀の兜の侍は氏郷本人・・・

彼は、そんなイイ人でありながら、一たび戦場に立てば、誰よりも先に立って戦い、いくつもの弾丸を受けながらも不思議と無傷・・・武人としての強さとともに運の強さも持っていた武将でした。

そして、あの千利休が、細川忠興や古田織部(おりべ)を差し置いて、無類の名碗と称された「早船」を彼に与えた事や利休七哲の筆頭に挙げられる事から、茶道などの芸術にも優れていた事がわかります。

まぁ、その利休が切腹した時に、養嗣子の少庵かくまったのも氏郷なんですが・・・。

・・・と、どこかダメなところはないのかい?
と、探してみると・・・ありました!ありました!

「氏郷に知行割り(部下への領地配分)を任せてはならない」という噂が・・・

どうやら、彼にやらせると、功績のあった者に異常に多くの知行を与えてしまうのだとか・・・って、これも結局イイ人だって事ではないか!

さらに、自分の蒲生という姓も、功績のあった者にどんどん与えてしまっていて、あの前田利家から「希少な姓を乱発すんな!」なんて怒られたり・・・

・・・で、結局、氏郷さんのダメなところは、冒頭に書いた伊達政宗にまんまとしてやられる所くらいのようです。

しかし、そんな憎まれない乱世のスーパーマンも、戦場での運を病では発揮できず文禄四年(1595年)2月7日40歳という若さで亡くなってしまいます。

思えば、彼の唯一の汚点は、その、あまりにも早い死の影響で、この後、わずか3代・・・彼の孫の代で蒲生家が断絶してしまう(8月18日参照>>)という事くらいでしょうか。

茶道の秘伝書『山上宗二記やまのうえそうじき)には、「三十までは師に倣い、三十半ばから固を出し、四十から我流を押し出せ」という極意が記されています。

まさに、男・四十・・・茶の道に限らず、これからが氏郷にとって、その我流を、思う存分発揮できるに違いありませんでした。

できるなら、あと十年・・・緩やかな春風の下で、花を咲かせて欲しかった・・・そうすれば、あの関ヶ原も無かったのかも知れません。

氏郷の死を知った秀吉は、人目もはばからず号泣したと言いますが、秀吉ならずとも、その死を惜しみたい名将です。
 .

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2010年2月 5日 (金)

i2i Web拍手の導入について・・・

 

申し訳ありません。

本日は歴史のお話ではなく、このブログに関してのお話です。

このブログは、以前から「ブログ村」というランキングサイトに参加させていただいており、多くの方の応援をいただいておりました。

ここで、「ランキングサイト」をご存知ない方のために、少しだけご説明を・・・

「ブログ村」に限らず、ランキングサイトというのは、それぞれの個々のブログに、そのランキングサイトへのリンク(バナー)を設置し、閲覧してくださる皆様が、そのリンク(バナー)をクリックすると、そのブログへの応援の意味でのポイントが入り、そのポイントの多い少ないで人気度を計り、ランキングとして運営しているサイトです。

「ブログ村」の場合はコレ→にほんブログ村 歴史ブログへです。

・・・で、そもそもは、このブログにきてくださる皆様の反応を知りたくて参加させていただきました。

コメントなど残していただける方は、直にその反応が伝わってきて、大変うれしい物ですが、コメントにはやはり、ハードルというか敷居が高い部分があります。

「コメント残すほどじゃないけど、いつも見てますよ」って感じの方の反応を知りたくて、これまで「ブログ村」さんでお世話になっており、私自身も、その「ブログ村」で、ともに参加している多くの歴史ブログを拝見させていただいておりました。

しかし、本来の目的ではないとは言え、ランキングという物があると、多少は、その順位が気になってしまうのが人の常(修業が足りん(/□≦、))・・・

しかも、もはや相互応援の嵐と化し、本当の人気を反映しているとはいい難い状態のランキング・・・

相互応援=ブログの運営者同志が約束してお互いのブログを訪問し、そこのバナーをクリックし合う行為で、ブログ村はもちろん、通常のランキングサイトでは、規約で禁止されている行為…「あし@」や「おき手紙」などに代表される訪問者を特定できるブログパーツを利用されてる場合が多いです。
(もちろん、マジメに正直にランキングに参加されているブログ運営者さんもたくさんいらっしゃいますので、誤解の無いように…)

そんなランキングの上下に一喜一憂するのも疲れてしまっていたところ、この度「i2i Web拍手」という物がある事を知り、設置させていただく事にしました。

これなら、本来の目的である閲覧者の皆様の反応もわかりますし、何と言っても、どのページを見て応援してくださったのかがわかり、しかもそれを、自分のブログ内での人気ページとしてランキングできるのです。

左サイドバーに設置している「人気記事ランキング」は、ページが表示された回数=アクセス数によるランキングですから、「拍手・応援」のランキングだと、また違う結果が楽しめるのでは?という期待もあります。

:「i2i Web拍手」は、一般的な「Web拍手」とは違い、他のサイトとの人気をランキングするのではなく、そのブログ内の個別のページの人気をランキングする物です)

ただ、これまで、「ブログ村」で応援してバナーをクリックしていてくださった皆様、また、「ブログ村」を介して閲覧してくださってる皆様に、何の連絡もなく、「ランキング不参加としてWeb拍手に切り替える」事は大変失礼にあたるのではないか?と、今日、このページを書いております。

「ブログ村」をやめるわけではありません・・・ランキングに参加しないというだけですので、これからも、ブログ村内の「歴史>日本史カテゴリ」に所属し、トラコミュなど他のコンテンツで、私自身も楽しませていただくつもりです。

これまで、応援してくださったやさしい皆様・・・
これからも、引き続き、応援をよろしくお願いします。

今回、設置しました「i2i Web拍手」は、一つのページに対して、24時間に一度「応援クリック」ができるそうです。
(まだ設置したばかりで、よくわかってない(゚ー゚;

「よかった」と思っていただいたページで、右サイドバーにあります“拍手!!”という場所をクリックしていただくと、それが1票となり、積み重なった結果がランキングとして表示されます。

ではでは、皆様、今後とも「今日は何の日?徒然日記」よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ

早速ですが、試しに拍手を・・・ww(゚ー゚)
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★追記:とか言いながらも、2年間という冷却期間をおいて、現在は、新たな気持ちでランキングに復帰しましたので、なんだかんだでコチラも応援していただくと、
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「i2i Web拍手」について

 

ブログに来てくださる皆さまの中で、コメントなど残していただける方は、直にその反応が伝わってきて、大変うれしい物ですが、やはりコメントには、ハードルというか敷居が高い部分があります。

なんとか、「コメントを残すほどじゃないけど、いつも見てますよ」って感じの方の反応を知りたいな・・・と思っていたところ、この度「i2i Web拍手」という物がある事を知り、設置させていただく事にしました。

これなら、「拍手!!」の部分を、クリックしていただくだけで、閲覧者の皆様の反応もわかりますし、何と言っても、どのページを見て応援してくださったのかがわかり、しかもそれを、自分のブログ内での人気ページとしてランキングできるのです。

左サイドバーに設置している「人気記事ランキング」は、ページが表示された回数=アクセス数によるランキングですから、「拍手・応援」のランキングだと、また違う結果が楽しめるのでは?という期待もあります。

今回、設置しました「i2i Web拍手」は、一つのページに対して、24時間に一度「応援クリック」ができます。

また、他のサイトとの人気をランキングして競う一般的な「Web拍手」とは違い、「i2i Web拍手」は、そのブログ内の個別のページの人気をランキングする物です

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それが1票となり、積み重なった結果がランキングとして表示されます。

もちろん、クリックした後にどこか別のページに飛ぶという事もありませんので、ご安心ください。

ではでは、皆様、今後とも「今日は何の日?徒然日記」よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ
 . 

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2010年2月 4日 (木)

早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期

 

慶応元年(1865年)2月4日、敦賀・来迎寺の刑場にて、武田耕雲斎・以下、天狗党の面々が処刑されました。

・・・・・・・・・・・・・・

ペリー黒船来航(6月3日参照>>)以来、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を敬い外国を討つ)佐幕(さばく・幕府を支持)かで揺れる日本国内・・・そんな中、水戸学の聖地だった水戸藩で、尊王攘夷の魁(さきがけ)となって蜂起したのが天狗党でした。

天狗党については、これまで度々書かせていただいてますので、まだの方は、是非とも、この機会に、順を追って読んでいただくとありがたいです。

上記の通り、関東各地で転戦した天狗党でしたが、保守派に牛耳られた水戸藩の現状と、尊王攘夷の精神を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に会いに京都へと行軍します。

ところが木ノ芽峠を越えた新保宿(福井県敦賀市)で、ここを守る金沢藩から、その慶喜が天狗党討伐軍の総督となっている事を知らされ、「主君筋に弓をひく事はできない」と、やむなく降伏を決意したのです。

・‥…━━━☆

12月21日、総大将・武田耕雲斎(こううんさい)の書いた降伏状が、やっとこさ受理された天狗党ですが、その思想は違えど、彼らの、純粋に国を思う気持ち、武士としてのき然とした態度に心打たれた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)は、彼らを罪人としてではなく、客人待遇で接待し、敦賀の3ケ所の寺に分宿させて、その後の処置を待ちました。

しかし、年が改まった慶応元年(1865年)1月18日、天狗党への待遇は一変します。

かねてから、天狗党の討伐を諸藩に指示していた幕府名代・田沼意尊(おきたか)に引き渡され、その田沼が、彼らの処分を一任される事になったのです。

真ん中に用をたすための大きな壷が置かれただけの、真っ暗な肥料用の土蔵に4~50人ずつ押し込められ、耕雲斎ら主要メンバー以外は、皆、足かせがはめられるという屈辱の待遇・・・

やがて、2月1日に形ばかりの取調べが行われた後、わずか3日後の慶応元年(1865年)2月4日から、順に処刑が開始されたのです。

土蔵から引っ張り出された後、敦賀の町外れにある来迎寺へ連れて行かれ、境内に掘られた5ヶ所の穴の前に、並んで座らされたところを次々に斬られ、遺体はその穴の中に投げ込まれていく・・・そう、彼らは、武士として切腹する事さえ許されなかったのです。

これは、総大将の武田耕雲斎も、発起人の藤田小四郎も、大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)も同じでした。

ただ、彼ら主要メンバーは、その首だけを塩漬けにされ、水戸へと運ばれましたが・・・。

  • 死罪=352人
  • 遠島=137人
  • 追放=187人
  • 水戸渡し=130人
  • 永厳寺(えいげんじ)預かり=11人

結果・・・最後まで天狗党に属し、金沢藩から幕府に引き渡された818名のうち、わずか1名を残し、817名が刑に服すという悲惨なものでした。

ちなみに、その1名というのは、農民であった夫と息子の天狗党参加を聞き、自ら行軍に付き添った57歳の市毛みえという、ここまで残ったただ1人の女性でしたが、蔵から出された後、水戸へと送られますが、そこで牢に入れられた後、衰弱したために、故郷の村へと戻され、まもなく死亡したとの事・・・。

ここに、天狗党は消滅します。

しかし、犠牲者は彼ら天狗党だけではありませんでした。

天狗党の態度に感銘を受け、慶喜との間を取り持とうと奔走した、あの金沢藩の永原甚七郎です。

天狗党を幕府に引き渡すのは、藩として当然の事で致し方ないのですが、自分がなまじ武士の情けをかけて客人待遇で接した事によって、「天狗党に、叶わぬ希望を抱かせてしまったのではないか?」と、彼は悩み続けるのです。

もし、甚七郎が、幕府側に立つ人間として、厳しく彼らに接していたら、彼らは降伏などせず、一旦撤退して再起できたのではないか?という事・・・

現に、以前書かせていただいたように、最終決断の会議では、軍師の兵部から、「このまま、さらに西へと山口まで撤退して、同盟(丙辰丸の盟約)を結んでいる長州とともに起つ!という案も出ていたわけです。

「そんな彼らの判断を鈍らせたのは、自分の安易なやさしさだったのではないのか?」と・・・

第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、第二次長州征伐を朝廷に打診するのは、天狗党の処刑からわずか3ヵ月後(5月22日参照>>)・・・その半年後には薩長同盟が成立(1月21日参照>>)、さらに半年後には、なんとその長州が幕府相手に勝利します(7月27日参照>>)

もしも、天狗党が長州へ向かっていたら・・・甚七郎が心を痛めたのも無理はありません。

せめてもの償いに・・・と甚七郎は、自らの家の菩提寺に「水府義勇塚(すいふぎゆうづか)という慰霊碑を建立したりしますが、その心の傷が癒える事はなく、最後には精神異常となって亡くなってしまいます。

一方では、彼らの処刑の様子を聞いた慶喜や水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)は、「安心したよ」と、ただただ、天狗党の騒ぎが収まった事のみに興味を示したご様子でしたが・・・

斬首の太刀取りを命じられた福井藩が、それを断ったというほど悲惨な処刑は、人々に恨みを残す結果となり、天狗党の争乱は、これで終る事なく、まして、戊辰戦争で終る事もなく続いてしまうのです。

明治の世となって、年少ゆえに死罪を免れた天狗党の生き残りが、次々と預かり刑から戻り、「明治は元治より残虐」と称される復讐劇の幕が切って落とされる事になるのですが、そのお話は、水戸藩内の騒乱が終結する10月6日のページ【天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争】>>で見ていただくといたしまして・・・。

ところで、以前、天狗党がブログ初出の時に(12月17日参照>>)、そのおおまかな経緯とともに、武田耕雲斎の辞世をご紹介させていただきました。

♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても
 (かおり)は君が 袖にうつらん ♪  武田耕雲斎・辞世

「いつか、この思いをわかっていただきたい!」 いや、「わかっていただけるに違いない」との思いを込めて・・・耕雲斎の願った梅は、その香りを移すどころか、維新という立派な実となったわけですが・・・
 

一方、最後まで抵抗を主張しながらも、総大将・耕雲斎の意に従って、ともに降伏した大軍師・山国兵部の辞世は・・・

♪ゆく先は 冥土の鬼と 一(ひ)と勝負 ♪  山国兵部・辞世

最後まで戦おうとした彼らしい辞世です。      
 

そして、もともと最初に天狗党を立ち上げた藤田小四郎の辞世は・・・

♪かねてより 思いそめにし 真心(まごころ)
 今日大君
(たいくん)に つげて嬉しき ♪  藤田小四郎・辞世

その死を前にして恨み言一つ残さず、その願いが叶わずとも、話を聞いてもらっただけで満足だと・・・

わずか24歳の未来ある若者に、このような辞世を残させる時代とは・・・

またしても、多くの悲しみの上に大事が成る事を、決して忘れてはいけないのだと痛感させられます。
 .

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2010年2月 3日 (水)

祇園の豆まきと西郷さんが見た成就院の庭

 

先日、このブログでもご紹介した
京都冬の旅~第44回非公開文化財特別公開
(1月4日参照>>)

今年は、清水寺成就院(じょうじゅいん)知恩院三門金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)東山の3ケ所を攻めようと、ハリキッって出かけたまでは良かったのですが・・・

すっかり忘れてました~
昨日は、2月2日・・・そう、あの八坂神社では、2日と3日の2日間に渡って節分行事が行われるのだった(゚ー゚;

境内に入った途端!
「平日なのに、なんで、こんなに人が多いんだ?」
と、思った瞬間・・・正面に「福豆○○円」の文字が・・・

それでも、今日は、別の目的があるので、祇園さんは素通りしようかと思ったものの、ふと、イベント内容に目をやると、「舞妓さんによる舞の奉納がある」というではありませんか!

Yasakamaiko170 「これは見なければ!」
と、ついつい・・・

やっぱ、ホンモノの舞妓さんはステキですねぇ

今日も、舞妓体験をしているお嬢様方を何人か見かけましたが、やっぱり、空気というか・・・まわりに吹く風が違うんですよね~

とは言え、それは舞妓体験しているお嬢様方が悪いわけではありません。

Yasakasetubun4a800舞妓体験しているお譲様方は一般の方なのですから、そこはかとない雰囲気なんて出せるわけがありませんから、仕方の無い事です。

 

その後、「舞妓さんを見たら、チャッチャと行こう」と思っていたにも関わらず、その後は無意識のうちに福豆ゲットに走ってしまいました残念ながらゲットできませんでしたが・・・

Yasakamamemaki2800

優雅な舞いにしばし酔い、福豆ゲットに興奮し・・・なかなか、うれしい寄り道だったと思いながら、ねねの道を通って清水寺へ・・・

目的の成就院は、清水寺の塔頭(たっちゅう・寺院の敷地内にある高僧が隠退後に住した子院)なので清水の仁王門から左手に向かいます。

もちろん、普段は非公開・・・私はずっと前から、ここのお庭を見たかったのです。

Zyouzyuina900 清水寺成就院

室町時代に創建された成就院ですが、度重なる戦乱で焼失し、現在の建物は、江戸初期の物・・・第3代江戸幕府将軍・徳川家光が建立した物です。

しかし、それからは、まったく変わらぬまま・・・奇跡的に残った豊臣秀吉椿水鉢加藤清正敷石に、小堀遠州が設計を加えた見事な庭園は、樹木の刈り込みさえも、その時代のままなのです。

なぜ、「そのまま」を強調するか?

実は、ここは、幕末、尊王派の武士と朝廷のパイプ役となって活躍した月照(げっしょう)が暮らした場所・・・すでにブログにも書かせていただいておりますが、その月照さんは、あの西郷隆盛命の恩人でもあり、ともに入水自殺を計った人物です(11月16日参照>>)

運命のイタズラか、西郷は命をとりとめ、月照は亡くなってしまいますが、生前の二人はともに尊王の志を、この庭を見ながら語ったに違いないのです。

月照と西郷の見た景色・・・それが見たかったのです。

Tukinoniwa2800 「月の庭」撮影禁止ですのでポスターの写真でご辛抱を・・・

成就院のこの庭園は、「月の庭」と呼ばれます。

もともと、京都には「雪月花(せつげつか)の三つのお庭が別々のお寺にあったのですが、「雪の庭」を持つお寺は移転して、そのお庭は別の物となりました。

「花の庭」を持つお寺は、明治の廃仏の波に呑まれてなくなってしまい、現存するのは、この「月の庭」だけとなりました。

・・・と、この「月の庭」、その名前からして「さぞかし仲秋の名月などは、月が美しく見えるのだろうなぁ」と、思いきや、庭園は北向きでお月様は見えないのです。

実は、このお庭・・・月の影を楽しむ「月の庭」なのだそうです。

夜になって月が上り、一晩かけて移動する・・・
それとともに、この庭の指す影が変化する・・・
一晩かけて、月影の移動を愛でる・・・
なんとも、風流なお庭です。

紅葉の名所でもある庭園は、秋の夜にひっそりと公開される事もあるそうなので、イベント要チェックですぞ!

・・・と、浸っている場合ではない!
この特別公開は、参加社寺が均一の1ヶ所600円で拝観できるとともに、その拝観時間の終了も均一・・・

拝観受付が午後4時までで、拝観が4時半まで!

「せっかくだから・・・」と清水の舞台に踊り出て、音羽の滝でひしゃくを振り回していたおかげで、もはや、時間がない!(汗)

とっくの昔に金戒光明寺は諦めて、知恩院の三門にひた走る茶々C= C= C= C=┌( ・_・)┘→→→
3時58分!ギリギリセーフ__(-o-)__と思いきや

Tioinsyuryou330 ガ~~ン!閉めるの早っ!(・oノ)ノ

Yasakasetubun600
まぁ、豆まき見たし・・・お庭見たし・・・
ヨシとしましょうv(~o~)v
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2010年2月 2日 (火)

「龍馬伝」の龍馬にひとこと言いたい!

 

一昨日の今日で恐縮ですが、日曜日の大河ドラマ「龍馬伝」第5回・「黒船と剣」を見終えて思うところがあり、書かせていただきます。

・・・と言っても、番組批判ではありません。

ドラマを見て、人それぞれ感動する場所も「オャッ?」と思う場所も違うわけですから、あくまで、ワタクシ個人の感想で、「私は、こう思いましたが、皆さんはどう?」ってな感じでとらえていただくとありがたいです。

・‥…━━━☆

今回のあらすじとしては・・・
江戸にて剣術修行の毎日を送る龍馬が、海岸べりで噂の黒船を目の当たりにして、その大きさにただ驚き、腰もぬかさんばかりの衝撃受けて、「黒船相手なら剣など役に立たない・・・剣術を修行する意味があるのか?」と悩み始める
・・・という感じの内容です。

・・・・・・・・・・・

・・・で、番組の初版の部分では、未だその黒船を見ていない段階の龍馬が、故郷の父に手紙を送るのですが、その最後に・・・
「この先、戦になるかも知れませんが、そうなったら(自分は)異人の首を取って(それを手土産に)故郷に帰ります」
と書きます。

息子の頑張りに喜ぶ家族ですが、ただ1人・乙女ねーやんだけは
「お前が戦争をしたがってるとは思えん。あれはウソじゃろ?」
てな、手紙を送りかえしてきます。

・・・で、いつも書いております通り、私はいたって近代史が苦手・・・幕末も未だ勉強中で、龍馬の手紙に関しても、有名どころは拝見しておりますが、すべてを知っているわけではありませんので、番組を見ている時は、このシーンを見ても、「ふ~ん」っというだけで何も感じませんでした。

そんな中、見終わってから、色々と調べてみますと、あの「異人の首を取って・・・」と書いた勇ましい龍馬の手紙は、今も現存するホンモノとの鑑定を受けている龍馬最古の手紙だそうで、その返事として登場した乙女ねーやんの「ウソじゃろ?」というのは、現存しない・・・つまり、作家さんの創作という事を知りました。

それと聞くと、にわかに造り手の意図というかコンセプトのような物が見え隠れしてきます。

本来、歴史の世界では、ホンモノと鑑定された手紙に書かれている事は「本当の事である」との前提で考えていくのが一般です。

もちろん、そのため(古事記や日本書紀のよう)に見誤ってしまう事もあるのでしょうが、証拠となるべき物を、最初から疑がってかかっていては、お話が進んではいきませんから・・・

なので、この場合でいくと・・・この段階での龍馬は、「外国と戦って異人さんの首を取ってやる!」くらいの武士らしい精神を持っていたであろうと想像する事になるのですが、作家さんは、それを「ウソじゃろ?」と否定した・・・いや、否定したかったという事なのです。

私は、自身の描いた勝手なイメージで歴史人物を妄想したいがために、小説という物をほとんど読まないので、有名作家さんが、この頃の龍馬をどのように描いていらっしゃるのか?一般的にどのようなイメージなのか?という事を知りませんが、ワタクシ個人的には、先の龍馬の手紙を知る以前から、この頃の龍馬は武士道精神まっしぐらで、外国勢力に対してヤル気満々だったように想像しています。

それでないと「江戸への剣術修行」の意味が根底から崩れてしまいます。

しかし、このドラマでは、今回の手紙だけでなく、その前の「江戸で剣術頑張ってます!」の龍馬の手紙にも、乙女ねーやんは「お前は世の中を見るために江戸へ行ったんじゃろ!」と、その剣術まっしぐらの姿勢を批判するがごとき手紙を返していて、少々違和感を感じていたのです。

史実通りだと、この先、剣術では免許皆伝となり、千葉道場の後継者的な立場であった佐那子と婚約までする龍馬が(11月15日参照>>)、その剣術を、本気で修行する気もないのに、江戸に出たいがための道具として使ったのだとしたら、千葉道場にも剣術に対しても、これほど失礼な事はありません。

さすがの人たらしも、それをやっちゃぁいけないと思うのです。

いや、むしろ、それだと、人として尊敬に値しません。

個人的には、この頃の龍馬は、剣術&武士道まっしぐらで、「この腕で外国を蹴散らしてやる!」と思っている・・・もちろん、これは単なる殺戮好きではなく、日本を守りたい!という一心で・・・

そして、この先の様々な体験、様々な出会いで、徐々にその考えが変わっていくところこそが見どころのように思っていたのですが・・・

なんとなく、最初っから「戦争回避」「平和が一番」と思っていたような、結果論的な設定が、どうも気になるのです。

その個人的な思い込みの根拠となるのが、あの勝海舟との出会いです。

龍馬は海舟を殺すつもりで会いに行きながら、彼と話し込んでるうちに考えが変わり、いきなりの弟子入り・・・この有名な話が頭をよぎるのです。

この場面を、ドラマでどのように描かれるのかはわかりませんが、これを一貫性がないと言えば酷評となり、柔軟な性格なのだと言えば高評という事になるのですが、私は、この柔軟な姿勢こそが龍馬の魅力のように思います。

しかし、ドラマでは、あたかもこの先の「薩長同盟」「船中八策」が見えているがのごとく、平和主義」「戦争ギライ」の龍馬が最初からの一貫のように描かれているのが気になってなりません。

また、大きな黒船を見ただけで、「剣術修行の意義」が揺るぐところも、ちょっと気になります。

剣術修行とは、ただ強くなって相手を倒す事だけが目的ではないはず・・・そこには、他の柔道や合気道にもある精神的な修行も含まれているはずです。

・・・でないと、この平成の世の中で、剣道や柔道などの武道を習おうという人はいませんが、むしろ、「こんな世の中だからこそ、武道を通じて、精神的な強さを身につけたい」と思う人が、たくさんいるはずだと思うのです。

確かに、大きな大砲をいくつも備えた黒船に、刀で対抗する事は無謀なのかも知れませんが、それと修行の意義とは別のもの・・・それで、修行する意味がなくなるのだとしたら、それこそ剣術が単なる殺人の道具であると言ってるようなもので、剣術に失礼なのではないかと・・・

まぁ、この件に関しては、ドラマでも、おそらく、この後、千葉道場に戻る事になるであろう事が予想できます(桂小五郎にも怒られてたし)ので、それこそ、その柔軟な性格で、その失礼な部分は解決してくださるとは思いますが・・・

ただ、またぞろ天地人の白々しい平和主義愛の押し売りが展開されるのではないかと不安気味の今日この頃・・・

以上、本日は、私的な意見の披露におつきあいくださってありがとうございましたo(_ _)oペコッ
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2010年2月 1日 (月)

近江佐和山城~石田三成から井伊直政へ・・・

 

慶長六年(1601年)2月1日、徳川家康が、井伊直政近江佐和山城への国替えを命じました。

・・・・・・・・・・・

慶長六年(1601年)2月1日・・・そう、あの関ヶ原の合戦の軍功による恩賞と言うべき国替えです。

徳川四天王の1人に数えられる井伊直政は、関ヶ原では、敵中突破で背進する島津隊を追って、負傷しながらの大活躍・・・(9月16日参照>>)

その後、小早川秀秋ら寝返り組を中心に編成された東軍で、関ヶ原の西軍の中心人物であった石田三成の居城・佐和山城を攻め落とします(9月17日参照>>)

そして、戦後・・・古来より畿内の守りの要所だった、この佐和山を直政に与えたというわけです。

この佐和山がいかに重要であったかは、その歴史を見ればわかります。

古くは鎌倉時代の初期・・・近江源氏・佐々木定綱の六男・時綱がここに館を構えます。

その後、佐々木氏湖南の六角氏湖北の京極氏に分かれて対立した事で、佐和山は、その境界線となり、ここを舞台に数々の攻防戦が繰りひろげられるのです。

やがて、戦国時代になると、京極氏に代わって浅井氏が湖北の実権を握るようになりますが、やはり、浅井と六角の攻防戦でも、ここは重要拠点とされています。

その後、織田信長の攻めによって浅井長政が倒されてから(8月27日参照>>)、この佐和山城を守るのは丹羽長秀となります。

信長が、重臣・長秀を・・・聞いただけでも、ここが、信長の時代でも重要であった事が感じとれます。

さらに、信長の後に天下を掌握した豊臣秀吉も、最も信頼のおける石田三成を佐和山城主としたのですから・・・。

戦国時代に大物が城主となった事で、佐々木氏の頃は館程度だったこの佐和山城は、しだいに整備されていき、三成の頃には、山上に本丸を持ち、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの建物が連なる壮大な物となっていました。

東山道に面して大手を開き、二重に形成された堀の内には武家屋敷が並び、三成の善政によって城下町も発展していました。

堅固で壮大な外観のわりには、城の内部の調度品などが質素だったという事は、昨年の天地人がらみでお話させていただきましたが(9月7日参照>>)、結局、関ヶ原から逃亡した三成は、この城に戻る事なく捕縛され、留守を守っていた父・正継や兄・正澄以下、2800名余りの家臣たちが、落城とともに命を落しました。

そして合戦後に、この佐和山城を与えられのが直政・・・で、上野国(群馬県)高崎城から移転して佐和山に入城した直政でしたが、そのわずか1年後、関ヶ原の傷がもとで、帰らぬ人となります(2008年2月1日参照>>)

そのご命日が、なんと慶長七年(1602年)2月1日・・・まさに、ぴったりの1年後に、なにか因縁めいた物を感じないでもありませんが、そんな事を考えるのは昔も今も同じ・・・やはり、ありました!怨霊・三成の噂・・・

佐和山に入った井伊の家臣たちは、この城で討死した三成の家臣や女性の霊に悩まされ続けたそうですが、その真偽はともかく、直政の死後、彼から今後の事を頼まれていた家老・木俣守勝(きまたもりかつ)によって、徳川家康城の移転が打診され、佐和山の西方2kimのところにある小ぶりな山・彦根山に新たな城を築く事になります。

それが、彦根城です(11月14日参照>>)

・・・とは、言え、実際の移転理由は、怨霊というよりも、時代の変化による物であったでしょう。

冒頭に書かせていただいたように、佐和山城は中世の典型的な山城・・・個人戦に近かった合戦の様相は、もはや大量の足軽を投じての団体戦となり、鉄砲や大砲を駆使して行う物に変わりつつある中、険しい山の上に建てられた複雑な城よりも、壮大な城郭を持つ要塞としての城を、時代は必要としていたのかも知れません。

もちろん、その時代の変化は、豊臣から徳川へと移る時代の変化でもありました。

彦根城の建築材料とするためか、徹底的に破壊された佐和山城には、現在は、わずかな石垣が残るだけ・・・草木が生い茂る状態となり、ファンにとっては、戦国の栄枯盛衰を感じさせてくれる恰好の場所となっています。

Sawayamahonmaru900 佐和山城・本丸址

そう・・・いくら、最近は、三成が人気だからと言っても、佐和山には、煌びやかな模擬天守は建ててほしくないかも・・・三成には、この雰囲気がふさわしいと個人的には思います。

歴史の波に飲み込まれて永遠の眠りについた佐和山城は、三成の思いとともに、このまま静かに眠っていていただくのが良いのではないかと思います。

彦根城&佐和山城に行った時のお話は10月6日のページでどうぞ>>
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