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2010年2月 4日 (木)

早すぎた尊王攘夷~天狗党の最期

 

慶応元年(1865年)2月4日、敦賀・来迎寺の刑場にて、武田耕雲斎・以下、天狗党の面々が処刑されました。

・・・・・・・・・・・・・・

ペリー黒船来航(6月3日参照>>)以来、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を敬い外国を討つ)佐幕(さばく・幕府を支持)かで揺れる日本国内・・・そんな中、水戸学の聖地だった水戸藩で、尊王攘夷の魁(さきがけ)となって蜂起したのが天狗党でした。

天狗党については、これまで度々書かせていただいてますので、まだの方は、是非とも、この機会に、順を追って読んでいただくとありがたいです。

上記の通り、関東各地で転戦した天狗党でしたが、保守派に牛耳られた水戸藩の現状と、尊王攘夷の精神を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に会いに京都へと行軍します。

ところが木ノ芽峠を越えた新保宿(福井県敦賀市)で、ここを守る金沢藩から、その慶喜が天狗党討伐軍の総督となっている事を知らされ、「主君筋に弓をひく事はできない」と、やむなく降伏を決意したのです。

・‥…━━━☆

12月21日、総大将・武田耕雲斎(こううんさい)の書いた降伏状が、やっとこさ受理された天狗党ですが、その思想は違えど、彼らの、純粋に国を思う気持ち、武士としてのき然とした態度に心打たれた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)は、彼らを罪人としてではなく、客人待遇で接待し、敦賀の3ケ所の寺に分宿させて、その後の処置を待ちました。

しかし、年が改まった慶応元年(1865年)1月18日、天狗党への待遇は一変します。

かねてから、天狗党の討伐を諸藩に指示していた幕府名代・田沼意尊(おきたか)に引き渡され、その田沼が、彼らの処分を一任される事になったのです。

真ん中に用をたすための大きな壷が置かれただけの、真っ暗な肥料用の土蔵に4~50人ずつ押し込められ、耕雲斎ら主要メンバー以外は、皆、足かせがはめられるという屈辱の待遇・・・

やがて、2月1日に形ばかりの取調べが行われた後、わずか3日後の慶応元年(1865年)2月4日から、順に処刑が開始されたのです。

土蔵から引っ張り出された後、敦賀の町外れにある来迎寺へ連れて行かれ、境内に掘られた5ヶ所の穴の前に、並んで座らされたところを次々に斬られ、遺体はその穴の中に投げ込まれていく・・・そう、彼らは、武士として切腹する事さえ許されなかったのです。

これは、総大将の武田耕雲斎も、発起人の藤田小四郎も、大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)も同じでした。

ただ、彼ら主要メンバーは、その首だけを塩漬けにされ、水戸へと運ばれましたが・・・。

  • 死罪=352人
  • 遠島=137人
  • 追放=187人
  • 水戸渡し=130人
  • 永厳寺(えいげんじ)預かり=11人

結果・・・最後まで天狗党に属し、金沢藩から幕府に引き渡された818名のうち、わずか1名を残し、817名が刑に服すという悲惨なものでした。

ちなみに、その1名というのは、農民であった夫と息子の天狗党参加を聞き、自ら行軍に付き添った57歳の市毛みえという、ここまで残ったただ1人の女性でしたが、蔵から出された後、水戸へと送られますが、そこで牢に入れられた後、衰弱したために、故郷の村へと戻され、まもなく死亡したとの事・・・。

ここに、天狗党は消滅します。

しかし、犠牲者は彼ら天狗党だけではありませんでした。

天狗党の態度に感銘を受け、慶喜との間を取り持とうと奔走した、あの金沢藩の永原甚七郎です。

天狗党を幕府に引き渡すのは、藩として当然の事で致し方ないのですが、自分がなまじ武士の情けをかけて客人待遇で接した事によって、「天狗党に、叶わぬ希望を抱かせてしまったのではないか?」と、彼は悩み続けるのです。

もし、甚七郎が、幕府側に立つ人間として、厳しく彼らに接していたら、彼らは降伏などせず、一旦撤退して再起できたのではないか?という事・・・

現に、以前書かせていただいたように、最終決断の会議では、軍師の兵部から、「このまま、さらに西へと山口まで撤退して、同盟(丙辰丸の盟約)を結んでいる長州とともに起つ!という案も出ていたわけです。

「そんな彼らの判断を鈍らせたのは、自分の安易なやさしさだったのではないのか?」と・・・

第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、第二次長州征伐を朝廷に打診するのは、天狗党の処刑からわずか3ヵ月後(5月22日参照>>)・・・その半年後には薩長同盟が成立(1月21日参照>>)、さらに半年後には、なんとその長州が幕府相手に勝利します(7月27日参照>>)

もしも、天狗党が長州へ向かっていたら・・・甚七郎が心を痛めたのも無理はありません。

せめてもの償いに・・・と甚七郎は、自らの家の菩提寺に「水府義勇塚(すいふぎゆうづか)という慰霊碑を建立したりしますが、その心の傷が癒える事はなく、最後には精神異常となって亡くなってしまいます。

一方では、彼らの処刑の様子を聞いた慶喜や水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)は、「安心したよ」と、ただただ、天狗党の騒ぎが収まった事のみに興味を示したご様子でしたが・・・

斬首の太刀取りを命じられた福井藩が、それを断ったというほど悲惨な処刑は、人々に恨みを残す結果となり、天狗党の争乱は、これで終る事なく、まして、戊辰戦争で終る事もなく続いてしまうのです。

明治の世となって、年少ゆえに死罪を免れた天狗党の生き残りが、次々と預かり刑から戻り、「明治は元治より残虐」と称される復讐劇の幕が切って落とされる事になるのですが、そのお話は、水戸藩内の騒乱が終結する10月6日のページ【天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争】>>で見ていただくといたしまして・・・。

ところで、以前、天狗党がブログ初出の時に(12月17日参照>>)、そのおおまかな経緯とともに、武田耕雲斎の辞世をご紹介させていただきました。

♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても
 (かおり)は君が 袖にうつらん ♪  武田耕雲斎・辞世

「いつか、この思いをわかっていただきたい!」 いや、「わかっていただけるに違いない」との思いを込めて・・・耕雲斎の願った梅は、その香りを移すどころか、維新という立派な実となったわけですが・・・
 

一方、最後まで抵抗を主張しながらも、総大将・耕雲斎の意に従って、ともに降伏した大軍師・山国兵部の辞世は・・・

♪ゆく先は 冥土の鬼と 一(ひ)と勝負 ♪  山国兵部・辞世

最後まで戦おうとした彼らしい辞世です。      
 

そして、もともと最初に天狗党を立ち上げた藤田小四郎の辞世は・・・

♪かねてより 思いそめにし 真心(まごころ)
 今日大君
(たいくん)に つげて嬉しき ♪  藤田小四郎・辞世

その死を前にして恨み言一つ残さず、その願いが叶わずとも、話を聞いてもらっただけで満足だと・・・

わずか24歳の未来ある若者に、このような辞世を残させる時代とは・・・

またしても、多くの悲しみの上に大事が成る事を、決して忘れてはいけないのだと痛感させられます。
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コメント

先生!天誅組に関しても書いてもらえませんか?自分で調べてもなかなか出てこないで困っています。
その中の一人が自分の親戚なもので・・・
(;^_^A アセアセ・・・

投稿: 桃色熊 | 2010年2月 5日 (金) 11時36分

桃色熊さん、こんにちは~

>その中の一人が自分の親戚なもので・・・

おお、これはこれは・・・

天誅組については【討幕の先駆け・天誅組~吉村寅太郎の最期】>>でサラッと書かせていただいた程度で、私も、これからまだまだお勉強・・・いつになるやらわかりませんが、長~い目で見てやっておいて下さい。

投稿: 茶々 | 2010年2月 5日 (金) 13時55分

卒爾ながら、

討つもはた 討たるるもはた あはれなり
 おなじ御国の ためと思へば

たしか天狗等の誰かにこんな時世の歌があったやうに記憶しているのですが・・・。
ウロ覚えでゴメンナサイ。

投稿: 通りすがりA | 2010年3月 4日 (木) 22時40分

通りすがりAさん、こんばんは~

>討つもはた・・・

はい、それも武田耕雲斎さんの辞世です。
死を前に、何首か詠まれたようです。

投稿: 茶々 | 2010年3月 4日 (木) 23時13分

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