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2010年2月12日 (金)

徳川家康・征夷大将軍への道

 

慶長八年(1603年)2月12日、徳川家康が京都・伏見城にて将軍宣下を受け、初代・江戸幕府将軍となりました。

・・・・・・・・・・・・

天下分け目の関ヶ原から3年・・・【関ヶ原の合戦の年表】参照>>

上記のように、あの関ヶ原の合戦「天下分け目」と、一般的に称されるところから、あまり歴史に興味のない方から見れば、あの関ヶ原が、豊臣VS徳川の戦いで、それに勝利した家康が、当然のごとく征夷大将軍となり、当然ごとく江戸幕府を開いて天下人となったような印象があります。

ほとんどのドラマで、そのように描かれるので致し方ないところではありますが、実際には、関ヶ原から将軍宣下まで、そして、幕府を開いて徳川の世を確立するまでには、そこかしこに散らばったチャンスを見逃さず、様々な策略&戦略を張りめぐらし、見事に自分の有利な方向へと導いた家康のスゴ腕があったわけです。

そもそもは、先日書かせていただいたばかりの豊臣秀吉朝鮮出兵(1月26日参照>>)・・・慶長三年(1598年)の8月、秀吉の死とともに終わりを告げたこの朝鮮出兵で、実際に大陸へと渡海しなかった家康は、その力を温存する事ができ、さらに、豊臣家内の分裂というオマケまでついたわけですが・・・。

その海外遠征後のドタバタは、翌年3月の前田利家の死で爆発(3月4日参照>>)・・・この時の石田三成襲撃事件では、石田三成を保護しながらも謹慎処分にする事で、豊臣内の亀裂をうまく残したまま、自分が、武将の長として采配を振るえる立場にある事を、さりげなく主張・・・

それまで五大老のトップであった利家亡き前田家に謀反の疑いをかけて押さえ込んだ後、翌・慶長五年(1600年)4月には、やはり五大老の1人である越後(新潟県)上杉景勝に謀反の疑いをかけます(4月1日参照>>)

景勝の、城を修復したり軍備を整えたりするのが謀反なら、家康が、勝手に大名同士の婚姻を結んだり、諸大名の領地の増減に関与したりするのも約束やぶりなわけですが、自分の約束やぶりは棚の上に置いといて、家康は、その上杉を征伐するために、居座っていた伏見城をあとにします。

・・・で、家康の約束やぶりを許せなかったのが謹慎中の三成・・・家康が東北へ出張しているすきをチャンスと見て、その留守となった伏見城を攻撃します(7月19日参照>>)

昨年の大河ドラマ「天地人」でも描かれていたように、ここで、上杉が家康をおびき出しておいて、留守のうちに三成が挙兵するというシナリオは、三成と直江兼続(なおえかねつぐ)の共謀だったというお話もありますが、それに関しては、未だ証拠となる文献も残っておらず、今のところは、あくまで噂です(4月14日参照>>)

そして、遠く関東で、三成の挙兵を聞いた家康・・・すぐさま進路を西へと向け、畿内へと戻りますが、その戻った家康と、迎え撃つ三成がぶつかった所が関ヶ原です。

三成にとっては、豊臣家内で約束やぶりを繰り返す家康を倒すための戦い・・・そのために、五大老のうち毛利輝元宇喜多秀家を味方につけ、年長の輝元に西軍の総大将を頼んでいるわけです。

一方の家康にとっても、豊臣家内の亀裂の火種となっている三成とその一派を倒す戦で、あくまで、その立場は豊臣家の家老・・・家老のトップとして、家内のトラブルをおさめるという姿勢だったわけです。

つまり、関ヶ原は天下分け目の戦いではなく、豊臣家内のトップ争い・・・それは、家康が勝利した後も同じでした。

合戦に勝利して反対勢力を一掃し、戦後の人事の決定権を握った事で、名実ともにトップの座を射止めた家康ですが、それは、あくまで豊臣家の家老として・・・その上には、亡き秀吉の遺児=後継者の豊臣秀頼がいます。

家康はじめとする諸大名の主君が、その後も秀頼である事はかわりなく、大名たちの正式な挨拶などは、まず秀頼・・・そして家康というのが、未だ続いていたわけです。

家康にとっても、関ヶ原で味方してくれた加藤清正福島正則といった武将たちは豊臣恩顧の武将ですから、ここであからさまに、「目標は打倒!豊臣」なんて姿勢を見せたら、彼らもどのような態度に出るかわかりません。

関ヶ原で処分した多くの対抗勢力配下の浪人たちと一緒になり、またまた、大きな反家康勢力ともなりかねませんから、ここは慎重に・・・あくまで、豊臣を立てつつ、次の行動に移ります。

Ieyasusyougunsengecc 家康が征夷大将軍に任ぜられた記録文書(日光東照宮蔵)

それが、慶長八年(1603年)2月12日将軍宣下・・・

「征夷大将軍になったのだから、ここで、もう天下を掌握・・・トップになったでしょう?」と、思いきや、これが意外とクセモノ・・・

そうです。
源氏どころか、武家の出身でもなかった秀吉は、征夷大将軍になる事なく、関白から太政大臣で、その生涯を終えています。

そこがミソ・・・
秀吉がならなかった征夷大将軍なのですから、家康がなったとしても、豊臣家をないがしろにしたわけではありません。

しかも、幸いな事に、この時、かの秀頼は、わずか11歳・・・「主君・秀頼様がご成長されるまで、政権をお預かりいたします」というポーズをとったわけです。

天下の代行という地位を明確にさせるために、朝廷に働きかけ征夷大将軍の称号を得る・・・それでいて、一方では、この年の7月には、その秀頼と、自らの孫娘・千姫を結婚させ(7月28日参照>>)、あくまで自分が中継ぎ投手であるかのごとく振る舞います。

この頃は、豊臣家も、恩顧の大名たちも、すっかりそのリリーフぶりを信じていたのでは?

そんな暗黙の了解が破られるのは、2年8ヶ月後・・・

慶長十年(1605年)2月24日、家康の三男・徳川秀忠は、突如として10万もの兵を連れて江戸を発ち、3月21日、京都に入ります。

何のための上洛から知らされておらず、大坂城では、「すゎ!」と軍備が固められた・・・なんて話もありますが・・・

そうです。
そのまま伏見城に入った秀忠・・・4月16日、家康は2代将軍を、この秀忠に譲ります(4月16日参照>>)

ここで、この将軍というポストが、徳川家から徳川家へ譲られるもの・・・決して、豊臣には行かない事を内外に宣言したわけです。

10万を引き連れての上洛・・・しかも、その嫁は秀頼の母・淀殿の妹・であり、秀頼の嫁・千姫の父でもある・・・

もはや、手の打ちようのない状況に、大坂方はがく然としたでしょうが、それでも、まだ秀頼の地位が落ちたわけではありません。

現に、未だ、「病気見舞いだ」「なんたら祝いだ」と言っては、秀頼のもとを訪問する大名も数多くいたのです。

まぁ、要するに保険ですけど・・・

豊臣政権であろうが、徳川政権であろうが、諸大名たちは、どちらでも生き残っていくための保険をかけていたわけですが、そんな状況に、さらにクサビを打ち込むのは、やはり、家康さん・・・

この後、見事に天皇家を取りこんで、最後の総仕上げの大坂の陣へと向かうわけですが、その前に・・・

そんな一般的な見方とは一線を画す、この頃の徳川と豊臣の関係についての興味深い話【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】>>もお楽しみください。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

羽柴茶々さま。
いつも楽しく拝見させていただいております。
質問なのですが、関が原の合戦は”豊臣家内のトップ争い”とあります。ではなぜ、合戦後に豊臣家の領地は削られたのでしょう? (400万石→70万石)。トップは豊臣家で変わらないはず。以前から不思議でした。茶々さん、何か知っていますか?

投稿: いんちき | 2010年2月12日 (金) 12時33分

関が原の戦いから将軍宣下までの約2年半を、来年はどう描くのでしょうね。昨年の様な「スッ飛ばし」はないと思いますが。何せ来年は、主人公の「婚家」が中盤以降はメインですから。

いつも気になるんですが、浅井三姉妹を「茶々姫」・「初姫」・「江姫」とは、大河ドラマ(のナレーション)ではめったに呼ばない事です。どうして「姫」が付かないのか、理由がわかりますか?
来年は「姫付け」になるかな?

投稿: えびすこ | 2010年2月12日 (金) 13時03分

いんちきさん、こんにちは~

>ではなぜ、合戦後に豊臣家の領地は削られたのでしょう?

う~ん、難しいですね~
この時の家康は飴とムチをものすごくうまく使っています。
戦後間もなくの9月27日には、大坂城を訪れて秀頼と淀殿に会い、戦勝の報告とともに豊臣家への忠誠を誓っていますが、一方では、この日から家康は大坂城西の丸に居座り、秀忠を二の丸に入れて、言わば占拠してしまっています。
この両面の使い分けは、それこそ、家康の横で間近に見てないと真相はわからないかも知れませんので、あくまで私的な、一つの意見としてお聞きください。

家康は、戦後の領地没収や加増の作業を自ら行いますが、本来、これは豊臣家のトップの仕事・・・そこを、あくまで代行というていでやったわけですが、それこそ、没収されたほうも増えたほうも豊臣家の家臣なわけです。

戦闘に至るまでは両方に大義名分があろうとも、勝敗が決まった以上、負けた方は豊臣家内を騒がせた叛逆分子であり、勝った方は、豊臣家のためにそれを抑えたという事で、領地が移動するわけですが、以前、秀吉の朝鮮出兵のところでも触れましたが、秀吉が天下統一した段階で、日本の国土のほとんどが、誰かしらの領地であって、もう、分け与える新たな土地はなかったと思います。

まして内紛となれば、勝った側の恩賞は、負けた側から取るしかないわけですが、難しいのは秀頼の領地・・・と言っても、くわしい配分までは知らないのですが、家康が秀頼から没収?した領地の多くは、秀頼のというよりは豊臣家の直轄地ではなかったかと・・・

つまり、秀頼から没収したというのではなく、功績のあった武将に恩賞与えるのに(与える領地がないので)豊臣家の持ってる分から与えたという形をとったのではないかと・・・

そのカムフラージュとして、子飼いの加藤清正などや身内の小早川秀秋などを優遇して、主君からその臣下へと移動したみたいに、ゴマかしていたのではないかと思うのですが、それでも、わかる人にはわかると思うので、自信はありませんが・・・

長々と書いて申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2010年2月12日 (金) 14時16分

えびすこさん、こんにちは~

ホントですね。

千姫・濃姫・・・二人とも結婚してるのに・・・

逆に、お市の方は、市姫とは言わない

なんででしょうね???
来年、楽しみです。

投稿: 茶々 | 2010年2月12日 (金) 14時21分

茶々様
ご丁寧にありがとうございます。

以前から、「どさくさにまぎれて領地を削った」みたいな説明に納得がいきませんでしたが、茶々様の説にはうなずけるものがあります。重箱の隅をつつくような質問を投げかけて申し訳ございませんでした。

投稿: いんちき | 2010年2月13日 (土) 06時45分

昔から…天下を取った三人を端的に表した戯れ歌に、織田が搗き、羽柴がこねし天下餅、座るがままに喰らう徳川。ってのが有りますが、中々どうして家康さん…天下餅を食べるのに苦労してますね。天下餅を美味しく食べるため、炙り餅にする為の炭火を熾したり、黄粉やアンコを用意したり、絡み餅で食べられるように大根おろしを擦ったり、お雑煮で食べられるように出汁を用意したりと案外一番苦労したのは家康さんだったのかも知れませんね。

投稿: マー君 | 2010年2月13日 (土) 13時06分

いんちきさん、お返事ありがとうございました。

結局は、ドサクサにまぎれて取っちゃったって事でしょうし、それをやっても誰も文句が言えないほど家康の力は強大になってたとは思いますが、日頃、豊臣家への忠誠を誓うポーズをとっていた家康が、あからさまにやるとは思えないし、さすがに豊臣恩顧の武将も黙ってないでしょうから、そういう(お答えに書いたような)たてまえでゴマかしたのではないかと・・・

確かに、どの本を見てもソコの部分はスルーで、私も以前から気になってました。

>重箱の隅をつつくような・・・

いえいえ、とんでもない・・・
いい質問だと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2010年2月13日 (土) 14時05分

マー君さん、こんにちは~

確かに、家康の時には、すでに餅はつきあがっていたと思いますが、それをいかにおいしく、そして次の世代に残せるかで苦労したと思います。

投稿: 茶々 | 2010年2月13日 (土) 14時07分

お返事ありがとうございます。ところで、この日って…徳川慶喜が江戸城を退出した日でも有ったんですよね。他の人のブログに書いてあって、へぇ〜って思いました。初代の家康さんが将軍宣下を受けた日と、最後の将軍である慶喜さんが江戸城を後にした日が一緒と言うところに歴史の皮肉を感じさせられますね。

投稿: マー君 | 2010年2月14日 (日) 10時42分

マー君さん、こんばんは~

そうですね。
このブログでも、何度か書かせていただいていますが、あらためて考えると、歴史のイタズラのように思ってしまいますね。

投稿: 茶々 | 2010年2月14日 (日) 18時27分

家康の将軍就任で秀忠が将軍継嗣となり、江さんが次期将軍正室と確定しましたが、この時点で31歳ですね。経歴を考えると夢のようですが、今年の大河ドラマでは江さんからどんな感想が出るんでしょうか?周囲の人の反応も見たいです。

2000年以降の大河ドラマでは、北大路さんが7人目の家康になるんですね。最近では2年に1回登場しますね。

投稿: えびすこ | 2011年7月 2日 (土) 09時31分

えびすこさん、こんばんは~

ファーストレディになってからの江さんこそ、描き甲斐がありますから期待大ですね。

投稿: 茶々 | 2011年7月 2日 (土) 20時11分

「千思万考」を見ました。泰平の時代に向けた下地をならす事が「秀忠の仕事」だったんですね。秀忠を演じた西田敏行さんが11年前に言った事は、「つなぎ役に徹する」事でした。でも「本格政権」になってからは政治手腕を発揮しています。老中なども協力者ですが。徳川家康は「乱世の世の政治」は得意でしたが、「泰平の世の政治」は秀忠(+家光)向きだったのかな?戦さを知らない次世代が苦労しないように、「政情不安で乱世再燃となり、戦さが起きそうな時勢」にならないようにしたのが、秀忠ですね。
今年の向井くんふんする秀忠(今はまだ生意気盛りの思春期の少年)の事を、「ネクラ」だとか「性格が悪い」、「愛嬌がない」などと、視聴者は鵜呑みにしない事ですね。私が思うに徳川秀忠は高倉健さんの様な人だったのかも。つまり(ある意味で)「不器用な男性」。

投稿: えびすこ | 2011年7月 3日 (日) 14時27分

えびすこさん、こんにちは~

2009年4月16日>>のページにも書かせていただいてますが、私は秀忠さんこそ、江戸300年の基礎を築いた方だと思っています。

もっとスポット当たっても良いかも…

投稿: 茶々 | 2011年7月 3日 (日) 17時24分

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