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2010年2月17日 (水)

豊臣の最期を見据える城~家康の駿府城

 

慶長十二年(1607年)2月17日、徳川家康駿府城の築城を天下普請で開始しました。

・・・・・・・・・

ちょうど、先日の【徳川家康・征夷大将軍への道】(2月12日参照>>)の続きのようなお話になりましたね。

そのページでお話させていただいたように、関ヶ原の合戦の後、征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府・初代将軍となった徳川家康でしたが、そのわずか2年後に、三男の秀忠に将軍職を譲り、この将軍というポストが、代々徳川家で世襲されていく物である事を見せつけました。

将軍職を退いた家康は大御所と呼ばれるようになりますが、もちろん、隠居とは名ばかりで、実際にはガッツリ実権を握り、秀忠のサポート・・・いや、皇室で言うところの院政のような形態をとります。

こうして、名実ともに徳川の世となったわけですが、それでも、まだ、腐っても鯛(個人的には腐ってないと思ってますが…)・・・豊臣が徳川の配下になったわけではありませんでした。

この時点で、すでに家康が、完膚なきまでに豊臣家をぶっ潰すつもりであったのか?、それとも、一大名としてなら存続を許すつもりでいたのか?はわかりませんが、とにかく、当座の目標は、かの秀吉の遺児・豊臣秀頼を、自らの前に膝まずかせる事・・・でないと、安心できません。

この頃、家康は、亡き秀吉の正室・おね(高台院)を通じて、「秀頼公も、他の大名と同様に伏見城に出仕するように」と再三に渡って要求しますが、大坂方はガンとしてはねつけ、むしろ、「そっちが、大坂城へ出仕しなさい!」くらいの勢いで、折れた家康が、秀忠の弟・忠輝を大坂城に派遣したりなんかして、一応、波風立てぬよう心がけます。

しかし、一方では、この先、約300年に渡る江戸幕府の基礎づくりに励みます。

その代表格が、江戸にそれぞれの大名の屋敷を建築させ、その妻子や重臣を江戸に詰めさせて、藩主に国許と江戸を往復させる、あの参勤交代制度と、公共土木事業の推進・・・ともに、各大名たちの大きな負担となる事で、その力が強大になる事を防ごうという物です。

冒頭に書かせていただいた「天下普請」とは、この公共土木工事の事・・・たとえば、江戸城などは、実際には徳川家の私城なわけですが、その建築のほぼ全経費を各大名のサイフから出させています。

「お前はココ!」「お前はココ!」という風に担当場所を決めて、材料費から建築費、人件費・・・果てはその人足の昼飯代まで、各大名が支払う形で建築が進められていったのです。

もちろん、お城だけではなく、戦乱で焼失した神社仏閣の修復も、公共土木事業として行われました。

・・・で、そんな中の今回の駿府城・・・息子に将軍職を譲った家康は、そのまま江戸城に残る事も可能でしたが、別の場所に隠居城を築く事にします。

『当代記』によれば、「廿日(はつか)、駿府に至り着御(ちゃくぎょ)、来年彼の地に普請あるべきとて、その様子順見(じゅんけん)したまう」と、慶長十一年(1606年)3月20日の事として、家康自らがその候補地を見て廻った事が記されています。

Sunpu900b 東照社縁起絵巻に描かれた駿府城(日光東照宮・蔵)

また、完成後に江戸・増上寺の僧に語った話として・・・

  1. 駿府は子供の時に住んでた思い出の地やねん
  2. 富士山が後ろにあるよって、冬が暖かく、老後には最適!
  3. 米がおいしいやん
  4. 大井川・安倍川・富士川に囲まれ、北東には箱根山という天然の要害
  5. 大名らが江戸に行く時に、挨拶しやすいやん

と、駿府の地を終の住まいに選んだ条件を述べています。

1は、あの今川での人質時代の話でしょうが、天下を掌握した今となっては、成功して金持ちになった人の貧乏自慢と同じで、笑い話として消化できていたんでしょうね。

あと、2と3に関しては、まぁ、老後の楽しみ・・・単なる好みのような物ですが、重要なのは4と5・・・

天然の要害というのは、もちろん城として重要な事ですが、もはや、頂点に立った家康が天然の要害ににこだわった理由は、ただ一つ・・・未だ、目の上のタンコブの大坂=豊臣の存在でしょう。

そして5の江戸に行く時・・・そう、家康にとって、大名の挨拶なんて、どうでも良く、そのホンネは、まさに大坂方が江戸に攻めようとした時に、ここ駿府は重要な防御の場となる・・・です。

家康は、この時から、駿府に拠点を置きながらも、1年のうち2ヶ月ほどは江戸に滞在するという事をくりかえし、駿府と江戸の意見の食い違いが起きないように注意しながら、秀忠との二極政治を行います。

これも、ひとえに、誰もが認める権力と実力を持っていながら、主君と称する一族が存在する微妙な関係を、表面的には静かに、それでいて、いかにして終止符を打つかを見極めるため・・・駿府の築城は、家康にとって最後の戦国の城だったのかも知れません。

かくして、築城から7年後、家康の矛先が大坂へと向けられる事になります・・・ご存知、大坂夏の陣ですが、大坂の陣については【大坂の陣の年表】でどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

昨日までの日記の拍手が機能していません!
不思議だ・・・・

投稿: 桃色熊 | 2010年2月17日 (水) 18時38分

桃色熊さん、ありがとうございます。

いろいろやってみます。

投稿: 茶々 | 2010年2月17日 (水) 23時17分

大丈夫でした!過去ページも拍手が復活しています!
(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ

投稿: 桃色熊 | 2010年2月18日 (木) 10時43分

桃色熊さん、ご心配かけてすみませんでしたm(_ _)m

とりあえず、困った時にいつもやる「ブログの再構築」っていうのをやりまして、それでなおったのか?それとも、たまたまだったのか?よくわかりませんが、とりあえず、正常に反映されるようになって良かったです。

ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2010年2月18日 (木) 21時04分

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