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2010年2月23日 (火)

新撰組・誕生のきっかけ~清河八郎の宣言

 

文久三年(1863年)2月23日、江戸で募集した浪士組を率いて上洛した清河八郎が、浪士たちの前で、尊王攘夷の意思を宣言しました。

・・・・・・・・・・

ご存知、嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)で、開国攘夷(じょうい・外国を排除する)かの真っ二つに分かれた日本・・・

翌年、再び来日したペリーに押され日米和親条約を結んだ幕府でしたが、次の課題=日米通商条約次期将軍問題で、幕府の中も真っ二つとなります。

時の将軍は第13代・徳川家定でしたが、彼に子供がいなかったため、次期将軍として擁立されたのは、紀州徳川家茂(いえもち・当時は慶福)と、水戸藩主・徳川斉昭の息子で、一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)・・・これは、そのまま開国派と攘夷派でもありました。

ここで、一つ・・・上記の2度目のペリー来航で結ばれた和親条約で、なにやら、一気に日本が開国へ・・・という風に勘違いしてしまいますが、重要なのは次の、通商条約のほうです。

和親条約は、言わば「アメリカに対して敵対心がない」という事を表明しただけで、「だから何をする」という風な事が決定されたわけではありませんが、通商条約は、その名の通り「交易する」という事ですから、その重みはぜんぜん違います。

ここで、天皇の勅許(ちょっきょ・天皇の許可)が出ないまま、日米通商条約の調印に踏み切ったのが、安政五年(1585年)に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)です。

この直弼が紀州派であり、大奥も味方につけていた事から、次期将軍は家茂に決定し、反対派の一橋派=攘夷派を一掃するために安政の大獄(10月7日参照>>)が決行されますが、強烈な弾圧が反感を買ったため、万延元年(1860年)3月に井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

ここで、通商条約調印の一件以来、朝廷との関係に大きな溝を感じていた幕府は、将軍・家茂と、時の天皇・第121代孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚を進め(8月26日参照>>)公武合体(皇室と幕府が合体)を図ります。

一方、あの紀州派と一橋派がモメにモメていた頃から、江戸から遠く離れて幕府の統制がゆるい京都は、天皇がおわす都という事もあって、攘夷派の溜まり場となっていて、彼らによる、佐幕派(幕府を応援)公武合体派への、「天誅(てんちゅう)と称する暗殺&襲撃事件が多発しはじめていました。

そこで、幕府は京都の治安を守るための京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保(かたもり)を任命・・・やがて、その容保が約1000騎の精鋭を連れて京都に入ったのは、文久二年(1862年)の12月24日の事でした。

・・・と同時期に、幕府の政事総裁職松平春嶽(しゅんがく・慶永)老中板倉勝静(かつきよ)らによって武闘集団=浪士組の結成が決定されます。

この浪士組は、ガチガチの佐幕派であった庄内藩の、郷士出身の清河八郎の提案による物でしたが、翌・文久三年(1863年)の3月に、将軍・家茂の上洛が予定されている幕府としては、京都の治安維持は急務・・・早速、この清河の案に飛びついて、隊士の募集を行ったのです。

その任務は、「将軍の上洛に先駆けて京都へと入って治安を守るとともに、将軍の身辺警護をする」という物で、採用されたあかつきには、1人につき十両二人扶持・・・つまり、十両の一時金を貰ったうえに米一升が毎日支給される(1人分が一日五合でした)、しかも、ここで活躍すれば、後々、幕臣に取り立てられるかもしれないというオマケ付き!

文久三年(1863年)2月4日と5日の2日間に渡って、小石川の伝通院で行われた、いわゆる採用試験には、近隣の若者・230名余りが集まったと言います。

その中にいたのが、江戸・市谷天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇・・・もちろん、同郷の土方歳三沖田総司もいました。

彼らは剣客として刀は差していましたが、身分は町人や農民・・・しかし、以前、近藤さんのご命日(4月25日参照>>)に書かせていただいたように、そんな彼らには武田の子孫という誇りもあって、「いつか武士となって国に忠義を尽くしたい」という思いが強く、今回の浪士組の募集は、またとないチャンスだったわけです。

ちなみに、一昨日書かせていたばかりの山南敬助(やまなみけいすけ)(2月21日参照>>)も、天然理心流ではありませんが、当時、試衛館に居候していた縁から、近藤らと一緒に応募しています。

・・・とは言え、浪士隊の募集に参集したのは、彼らのように、ある程度、志を持った者ばかりではなく、博徒くずれや喰いっぱぐれた坊さんなど、とにかく食い扶持を見つけるだけの輩も多くいたわけで、2月8日に江戸を発って中山道から木曽路を進む彼らの姿は、まるで亡者の行列のように、グダグダ感満載だったようです。

かくして文久三年(1863年)2月23日、京都に到着した彼らは、壬生(みぶ)新徳寺に本営を置き、それぞれ、お寺や郷士の家に分宿する事となり、やっとひと息・・・

・・・と、思いきや、その夜、とんでもない事が起こります。

ここまで、彼らを引率してきたのは、この浪士組の提案者でもある清河と、取締役の山岡鉄太郎(後の鉄舟)だったわけですが、その清河が、本営の新徳寺にて、主だった者を集めて、「この度の上京は、尊王攘夷の先鋒となるための上京である!」と宣言し、朝廷に提出する同様の内容の建白書に、速やかに署名しろと言い出したのです。

実は、彼=清河は、すでに江戸にて尊王攘夷を論ずる「虎尾(こび)の会」といのを結成しているガチガチの攘夷派・・・かの山岡も、そこに通う攘夷派だったのです。

事のなりゆきから、その建白書に署名した近藤でしたが・・・なんか変???(と、思うのは私だけ??)

もちろん、この清河の宣言を知った老中・板倉はカンカンで、すぐに、浪士組の江戸帰還を命令します。

清河は、この集めた浪士組を使って、江戸にて尊王攘夷活動をするつもりであったため、浪士組ごと、すんなりと江戸へと戻るのですが、ここで、彼らと別れて、京都に残ったのが、近藤とその仲間たち8人と水戸派の浪士だった芹沢鴨(せりざわかも)(9月18日参照>>)とその仲間たち5人・・・合計13人でした。

彼らは、何よりも将軍中心に考えた結果の居残りでした。

そもそも、この3月の将軍・家茂の上洛は、和宮との結婚の時の条件でもあった「10年以内の条約破棄か攘夷の実行」について、朝廷と話し合うための上洛ですから、そこで、朝廷からの「攘夷の決行」の命令を将軍が受ければ、幕府ごと攘夷となるのですから、このまま京都に残り、将軍の警護をしつつ動向を見ようと考えたわけです。

この選択が、彼らの運命を変えました。

江戸に戻った清河は、もはや幕府の援助が得られないため、浪士組の者を使って、裕福な商人たちから、半ば脅迫めいた強引な資金調達を行い、さらに外国人の襲撃計画も立てた事から危険視され、4月13日に暗殺されてしまいます。

一方の近藤らは、「将軍が京都に滞在している間だけでも・・・」と、京都守護職の容保に嘆願し、なんとか「会津藩お預かり」の約束をとりつけ、その名前を、江戸に戻った浪士組に対して、京都に残った浪士組として壬生浪士組と称します。

ご存知、後の新撰組の誕生です。
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コメント

こんにちわ~、茶々様!
でたぁ~、清河八郎さん(^ω^)
幕末好きの私の中でこの人ほど不思議ちゃんはいません。将軍警護の為に浪士組を結成し、京に上り手のひらを返して江戸にトンボ帰り。で、暗殺されたんですが・・・何がしたかったのかは不明。もちろん誰がさせたのか?も不明。私は清河を操っていた人間がいると思っています。だって、不審行動ばかりなので・・・。
茶々様、どう 思われます?

投稿: DAI | 2010年2月23日 (火) 13時49分

DAIさん、こんばんは~

やっぱ、ヘンですよね?

おっしゃる通り、誰かが後ろにいて、何かをやる途中だったのかもしれませんね。

もし、無事に果たしていたら、攘夷の先駆けとして名を連ねたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年2月24日 (水) 01時36分

茶々様こんばんは~

たしか山岡鉄舟の文献では、尊皇攘夷党の署名に坂本龍馬もありました。
私には、坂本龍馬も勝海舟に操られていたのでは?という感じが拭えないのですが...
江戸無血開城のときの鉄舟も、海舟の都合の良いように事実関係を報告されたのを知っていて、本人は名誉に執着がないのであえて深く追求せず、自分の弟子が激怒したのを諌めたエピソードがあります。
後に二人は親友になるようですね。

自然に見て、立場上、最も不自然で上手く立ち回ったのが海舟ではないでしょうか?

因みに、西南戦争直前の西郷や、大久保暗殺直前の二人の浪士が訪れたりと、二心のない鉄舟の周りには、かつての敵味方や色々な人物が心情を吐露しに来て面白いです。
慶喜や明治天皇にも信頼されてたみたいですし。

また禅修業の話もいくつか愉快なエピソードが残っているようです。
一刀斎直伝小野派一刀流と中西派一刀流浅利又七朗義明を継いで、無刀流を創始した際も、禅に基づいて、心の外に刀無し、心で以て心を打つ、心外無刀流なのだ、と言っています。
白隠の再評価にも一役買っていたようですね。

鉄舟ファンなので、色々書きたくなって、ゴメンナサイ...

投稿: 達田にゃん | 2013年5月 1日 (水) 20時33分

達田にゃんさん、こんばんは~

おっしゃる通り…山岡鉄舟は魅力的な人ですからね~

投稿: 茶々 | 2013年5月 2日 (木) 01時20分

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