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2010年3月31日 (水)

登場の歴史人物・800人突破記念~最多ベストテン!

 

3月に限らず、31日という日づけは旧暦にはない日づけなもので、近代史が苦手な私としては、おのずと書く事に限りが出るものでございます。

・・・と、一応、弁解をしておいて・・・

そう言えば、先日、このブログの「その日」の主役を飾ってくれた歴史人物が、800人めを数えまして、まぁ、とりあえずキリの良いところで、はて? それでは、「最多出場が誰なのか?」と思い、本日は、出演回数ベストテンとともに、手前味噌ではありますが、あらためて読んでいただきたい、その方に関するオススメのページをご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

  1. 徳川家康・・・312件
    【徳川家康・決死の伊賀越え】
    【徳川家康・征夷大将軍への道】
     
  2. 織田信長・・・274件
    【織田信長と黒人さん】
    【魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違】
     
  3. 豊臣秀吉・・・255件
    【古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味】
    【豊臣秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?】
     
  4. 源頼朝・・・105件
    【少年・頼朝逮捕!死罪から流罪へ】
    【阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡】
     
  5. 武田信玄・・・103件
    【信玄が父・信虎を追放したわけは?】
    【武田信玄・上洛~その真意と誤算】

     
  6. 石田三成・・・ 91件
    【石田三成はそんなに嫌われていたのかしら?】
    【関ヶ原前哨戦~杭瀬川の戦い】
     
  7. 明智光秀・・・86件
    【光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
    【本能寺~数時間のタイクラグを埋める物は?】
     
  8. 西郷隆盛・・・85件
    【西郷隆盛と勝海舟の会談~その内容は?】
    【西南戦争の西郷隆盛に勝算はあったか?】
     
  9. 上杉謙信・・・85件
    【上筋謙信・2度の上洛の意味は?】
    【七尾城攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」】
     
  10. 徳川慶喜・・・73件
    【大政奉還~徳川慶喜の思惑】
    【慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?】

もうすぐトップテン
  ● 上杉景勝・・・68件
    【上杉景勝・上洛・・・前の一大事】
    【ここに来て 千も救うか 天地人】

  ● 平清盛・・・66件
    【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
    【暴君ではない清盛のもう一つの顔】

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

こうして見ると、戦国多ぉ( ̄○ ̄;)!

しかも、さすがに三英傑はダントツです~

そんな中で、意外にも頑張ったのは頼朝さん・・・これは、自分自身でも意外でした。

目だつ大暴れをせずに、いつの間にやら点数を稼ぐ・・・まさに、頼朝さんらしい位置におられますねぇ。

とにもかくにも、源平・戦国・幕末・・・と、やはり事件の多い時代が、その出場回数も多いという事で納得ですね。

まぁ、景勝さんが多いのは、昨年の天地人のツッコミどころも多かったって事なのですが・・・

・・・と、
とりあえず、本日はキリの良いところで、一度まとめてみました。

この先、1000人・・・2000人?までいくわきゃないですが、
頑張って続けて参りますので、今後ともよろしくお願いしますo(_ _)oペコッ
 .

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2010年3月30日 (火)

物部守屋VS蘇我馬子~仏像投げ捨て事件

 

敏達天皇十四年(585年)3月30日、仏教に反対する物部守屋らが、塔・仏殿を焼き、仏像を川に捨てました。

・・・・・・・・・

『日本書紀』によれば・・・
欽明天皇十三年(552年)10月13日、朝鮮半島は百済(くだら)聖明王(せいめいおう)から、釈迦仏の金剛像1体と仏具・経典をセットにして贈られてきます。

『元興寺縁起』などによれば、それは538年の事とされ、未だにどちらが正解かの決定打はないものの、いずれにしてもこの6世紀の中頃までに、百済から仏教セット一式が贈られてきた事は確かで、これが教科書にも載る仏教伝来です。

この時期、不安な朝鮮半島の情勢の中、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)に圧迫されつつあった百済としては、日本との交易をさらに密にして、いざという時は味方についてもらいたいとの思惑がらみのプレゼントなわけです。

・・・で、ご存知のように欽明天皇は、居並ぶ臣下の者に尋ねます。
「礼(うやま)うべきや 不(いな)や?」

大臣(おおおみ)蘇我稲目(そがのいなめ)は、
「近隣諸国が皆やってまっせ! ウチだけ拝まんわけにはいきまへんやろ」

一方、大連(おおむらじ)物部尾輿(もののべのおこし)や、中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)らは、、
「わか国には、すでに固有の神がおられ、他の国の神を拝めば、国神(くにつかみ)がお怒りになるやもしれませぬ」

・・・で、結局、天皇はその仏像一式を稲目に与え、
「まずは、私的に拝んでみろ」
と、その効果のほどを試すかたちとなりますが、残念な事に、まもなく疫病が大流行・・・おびただしい死者の数にビビッた尾輿たちが、天皇に仏像の破棄を奏上し、彼らの手によって、日本最古の仏像は難波の掘江に捨てられます。

こうして、蘇我VS物部の構図ができあがるわけですが、ご存知のこの事件・・・実は同じ事件が2度あります。

時は、この1度目の事件から約30年後・・・それぞれの子供たちの世代になってからの事です。

西暦572年に、欽明天皇の後を継いで第30代天皇として即位した敏達(びたつ)天皇は、大連に尾輿の息子・物部守屋(もののべのもりや)を、大臣に稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)を任命します。

大連・大臣とは・・・
ともに、(むらじ)姓の豪族、(おみ)姓の豪族をそれぞれに束ねつつ、朝廷の最上位に位置にて天皇を助けるリーダー的存在・・・

これまでは、なんだかんだ言いながら、天皇の配下として朝廷の最上位に君臨していた物部氏に、蘇我氏が追いついたのもこの頃なのですが、これ、ひとえに先代の稲目と息子・馬子の天皇取り込み作戦のたまもの・・・。

まずは、稲目の娘二人=堅塩媛(きたしひめ)小姉君(おあねのきみ)欽明天皇の妃として皇室に送り込みます。

Sogavsmononobe330 そして、それぞれの子供が、
男の子の場合だと、天皇と他家の女性との間に生まれた女の子を娶り、後継者のイスに座る・・・

女の子の場合だと、天皇と他家の女性との間に生まれた男の子と結婚させ、子供を産む・・・当時は、兄弟でも、母親が違っていたら結婚の対象となりましたからね。

つまり、わずか2~3世代で、天皇家は、蘇我氏の血を受け継ぐ人だらけとなるわけです。

おかげで、有名な聖徳太子などは、父方のおじいちゃんも母方のおじいちゃんも欽明天皇という、「お年玉はどないなんねん!」「ランドセルは誰が買うてくれんねん!」という複雑な状況となってます。

次に、渡来人を篤く庇護して、その技術を導入する事・・・

以前、仏教伝来のページ(10月3日参照>>)で蘇我VS物部の全体像をサラッと書かせていただいているので、その内容と少し重なりますが・・・

そこでも書かせていただいたように、蘇我氏自身が、実は渡来系だったとも言われており、満智(まち)韓子(からこ)高麗(こま)稲目と、この稲目の曽祖父にあたる満智という人が、約5世紀頃の百済の国で国政を荷っていながら、国王の母親と不倫をしたために国を追われ日本にやってきた木満致(もくまち)という人物と同一人物ではないか?とも言われ、そこから蘇我氏が始まったとも・・・

その真偽はともかく、それまで政界の中枢にはいなかった蘇我氏ですから、古いしきたりにとらわれる事なく、どんどん外国からの技術推進派に回る事ができたわけです。

当時の渡来人たちは、軍事は坂上(さかのうえ)、芸能は平田氏、文筆は(ふみ)といったぐあいに、それぞれの専門的技術を氏ごとで専有して後継者を育成し、明日香葛城河内一帯の専用区域で暮らしていたわけで、彼らをまとめあげて朝廷とのパイプ役をやっていたのが蘇我氏という事なのです。

かの『日本書紀』にも・・・
「欽明天皇の時代に高句麗から送られてきた国書を、朝廷内の誰も読む事ができず、かつて船長(ふねのつかさ)に抜擢した事のある稲目の知り合いの帰化人・王辰爾(おうじんに)なる人物を呼び寄せてやっと読む事ができた」
なんて事が書かれていて、渡来人の知識や技術を必要とし、その仲介を稲目がやっていたであろう事が読み取れます。

一方の物部氏は、神代の時代から軍事や天皇家の祭祀を司る役どころですから、当然の事ながら、伝統を重んじる立場にあり、なんでもかんでも外国の技術を導入する事に反対する保守的な姿勢であったとされます。

冒頭に書いた仏教の導入に関しても、賛成する稲目と反対する尾輿は、まさにその構図の通りという事になります。

・・・で、前回の初の仏教伝来から約30年後の敏達天皇十三年(584年)、再び百済から弥勒石像がプレゼントされます。

今度は、以前の父・稲目の時より、チョイとばかり権力を握っている馬子さん・・・早速、渡来人の司馬達等(しばたつと)らに命じて、播磨(兵庫県)にて、すでに還俗(げんぞく・出家した僧が一般人に戻る事)していた僧・恵便(えべん)を呼び戻し、彼を師として、達等の娘・3人を尼にしました。

善信尼(ぜんしんに)禅蔵尼(ぜんぞうに)恵善尼(えぜんに)と・・・この3人の娘さんが、日本初の尼僧という事になるのですが、お家のためとは言え、世の空しさを感じたわけでもないのに、出家するのは、ちと気の毒な気がしないでもありませんが・・・

そんな事はおかまいなく、これをチャンスとばかりに、はりきる達等・・・翌年には大野の丘(奈良県橿原市)仏塔を建てて仏舎利を収め、大々的な法要も行います。

ところがどっこい、またもや疫病が大流行・・・

「やっぱり、日本の神様がお怒りや~!」
とばかりに、守屋&中臣勝海(なかとみのかつみ)ら保守派は敏達天皇に奏上・・・「仏法流布中止の詔(みことのり)の発令の後、敏達天皇十四年(585年)3月30日、3人の尼たちを捕らえて監禁するとともに、馬子と達等らが建立した仏塔を焼き払い、焼け跡から見つけた仏像を難波の掘江に投げ捨てたのです。

Naniwaike 豊浦寺跡(明日香村)にある難波池

ちなみに、書籍によっては、この難波の堀江を、「難波(大阪市)としているものもありますが、最初の仏教伝来の時に仏像を安置したとされる豊浦寺(とゆらでら・現在の向源寺)の一角には、難波池(なんばいけ)と呼ばれる池があり、地元の伝承では、ここが仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとされています。

しかし、今度の蘇我氏は、やっぱり強気!

それでも、断固として礼拝を続ける馬子に対して、敏達天皇も私的な信仰は許す事にして、拘束していた3人の尼たちも彼らのもとに返しますが、これに関しては、守屋のほうが、ちと不満・・・

同じ年の8月には、敏達天皇が崩御されますが、わずかに均等を保っていたこの天皇の死は、その殯宮(もがりのみや・遺体を安置する宮)での祭事の時、小柄な馬子が大きな太刀を差している姿を見た守屋が、
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
と嘲笑したのに対し、

緊張のあまり、震えながら弔詞を読む守屋を見た馬子が
「鈴をつけとしたら、よ~鳴ってオモロかったやろなぁ」
と、これまた嘲笑するという、あからさまな対立を生む事にもなりました。

かくして、古代の大事件の一つ、物部討伐(7月7日参照>>)・・・となるのですが、まずは、そのお話は、きっかけの人ともなる推古天皇のページをどうぞ>>
 .
 

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2010年3月29日 (月)

秀吉の小田原征伐・開始~オモシロ逸話

 

天正十八年(1590年)3月29日、羽柴秀次軍が山中城を、織田信雄らが韮山(にらやま)を攻撃し、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されました

・・・・・・・・・

天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いで、主君だった織田信長の息子・信雄を手なづけた後、彼に味方する徳川家康黙らせ(10月17日参照>>)・・・

さらに翌・天正十三年に四国を平定し(7月25日参照>>)、天正十四年から十五年にかけて九州を平定し(4月17日参照>>)、その間に、越後(新潟県)上杉景勝とも同盟を結んだ(6月15日参照>>)豊臣秀吉にとって、最後に残った大物は、北条早雲以来100年に渡って関東に君臨する北条氏・・・

ってな事で、その天正十四年と天正十五年に発布した『関東惣無事令』『奥両国惣無事令』(大名同士の私的な争いを禁止する)破りを大義名分に、北条氏の本拠地・小田原城に攻める小田原征伐が開始されたのが、本日3月29日なのですが、その経緯は、すでに書かせていただいているそれぞれのページ↓で見ていただくとして、本日は、あまり一般的な歴史やドラマでは語られないような小田原征伐開始に関連する逸話を、2・3ご紹介したいと思います。

・‥…その一

北条氏政の時代に、関東へと向かう途中の1人の僧侶が、小田原に泊まった事がありました。

その時、ちょうど新しく制定された法令が書かれた高札を見て一言・・・
「北条も、もう、終わりやな・・・国が滅び行く前兆が見える
と・・・

それを聞いて、不思議に思った奉行は、その僧侶を自宅に招き、お茶とお菓子でもてなしながら、じっくり、その理由について聞くのです。

まぁ、一般人がこんな事を言えば、叛逆分子として即!逮捕なんでしょうが、お坊さんだと「占い」の類とか、「忠告」の類のものになるんでしょうね

・・・で、早速、
「なぜ、国が滅びるなどと・・・何か、不可解な法令でもありましたか?」
と奉行・・・

「いや、法令はすべて正しく、もっともなものでしたよ」
ますます、疑問に思った奉行は
「では、なぜ???」

「いやいや、私は、30年前にも、ここ小田原に来さしてもろた事がおますねんけど、その時は、法令は5つしかおませんでした。

けど、今回、お邪魔してみたところ、法令が30にも増えてました。

殿様が立派なお人で人望があると、領民は皆、心穏やかに過ごせるので、法令が少なくても、違反する者があまり出ません。

ところが、殿様の人望がないと領民は不安になり、犯罪に走る者が多くなります。

そうなると殿様は、その犯罪を減らすために、さらに多くの法令を増やす事になるのですが、ほんだら、よけいに領民は不安になって、もっと有能な殿様に代わってほしいと思うようになり、現職のお殿様からは、心が離れていきます。

国を守るのは領民です・・・なので、もはやこの国の前兆が見えたと言うたんです。

・・・とは言え、ここで国を治める者らが、自らの行いを反省し、手直しして行けば、勢いのあった昔の頃の状況を取り戻せますやろうな」

この話を聞いた奉行は、しっかりとこの言葉を書きとめたと言います。

::::::::::::::::『武将感状記』正徳六年(1716年)刊行より

ひょぇ~~~耳が痛いゾ●●党・・・バラマキや郵便貯金の前にやる事やらねば!
 .

・‥…その二

この頃、徳川家康海道一の乗馬の名人という噂が広がっていたそうな。

・・・で、この小田原攻めの際、豊臣軍の先鋒として進んでいた丹羽長重長谷川秀一掘秀政の3人が、小高い山に差し掛かった時、ふと、下の谷を見下ろすと、家康の陣が手に取るように見えました。

「おいおい、これから、家康はんの馬に乗るところが見られるゾ!」
と、豊臣軍の兵士たちは興味津々です。

その谷には、川が流れていて、向こう岸に行くためには、細い橋を通らなくてはなりませんから、そこを馬に乗ったまま渡れるとしたら、相当な腕前という事になります。

現に、徳川の軍勢は、皆、騎乗したまま川を渡る事ができず、馬から下りて徒歩で渡っていたのです。

そこに騎乗のまま、橋のたもとまでやってきた家康・・・かたずを呑んで見守る豊臣の兵士・・・すると、家康は、サッと馬を下りて、配下の者に背負われて川を渡っていったのです。

「なんじゃ!アレ・・・アレが海道一の馬乗りの名人のする事か!」
と、兵士たちは大笑い・・・

しかし、彼らを率いていた3人の武将だけは笑わなかったのです。

「さすがは、乗馬の名人と言われるだけの事はあるな」
「ホンマモンの名人は、無理して危険をおかすような事はせんもんや」
と、感心しあったのでした。

:::::::::::::::::::::::::::::::::『頼宣卿言行録』より

確かに、F1レーサーや高橋レーシングチームが街中で暴走している話は聞かないからなぁ
 .
 

・‥…その三

小田原城攻めでの家康軍が、城の東側の攻撃をを受け持ち、そこかしこで各部隊が先頭の準備を整えている頃、内藤正成という武将だけは、まったく準備をせず、さらに東側に控える海に向かって歩いていきます。

そして、海辺に壊れた船がたくさんあるのを見つけて
「おい!あの壊れた船の板を集めて、わが陣まで運んどいてくれ」
と、自軍の兵士に命令しました。

それを見たまわりは・・・
「アイツ・・・ケチか!」
「壊れた板を集めてどないすんねん!」
「自分の領地にでも持って帰るつもりかww」
と、バカにしたように茶化します。

しかし、それにもめげず、正成は、せっせと板集めに没頭・・・

そんなある日、
「何とか、近場の曲輪を占領したいが、徳川の陣と曲輪の間に広がっている沼地が、それを阻んでいる・・・ここを渡る手立てはないものか!」
という話が持ち上がります。

すると、正成・・・
「私が集めた板を使っていかだを造り、沼地を渡って攻撃を仕掛けましょう」
と、あの古い板でいかだを造り、見事、曲輪を落としたという事です。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::『翁物語』より

正成さんという方・・・なかなかスルドイですなぁ。
 .
 

・‥…━━━☆

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2010年3月27日 (土)

めざせ!救民~大塩平八郎の乱2~爆死のあとに

 

天保八年(1837年)3月27日、去る2月19日に大坂にて勃発した乱の首謀者・大塩平八郎とその養子・格之助が、潜伏中の町屋を捕り方に囲まれ、自ら爆死しました。

・・・・・・・・・・

天保八年(1837年)2月19日の朝に勃発した大塩平八郎の乱・・・

Higasimatibugyousyooosakazyou980 最も激戦となったとされる東町奉行所付近・・・写真左の木の前にあるのが「東町奉行所跡・碑」、右奥の木々が大阪城です。

一時は300人を越える民衆が集まって大坂城近くまで迫ったものの、結局は、幕府には歯が立たず、夕方には散り散りになってしまった軍団・・・
8kenya600 首謀者の大塩平八郎と養子・格之助は人ごみに紛れて、天満橋八軒屋船着場から船で逃走しました(くわしくは2月19日のページで>>)

 
あっけなく乱が鎮圧されてしまったうえに、豪商から奪った米を庶民に分け与える事もできず、あまつさえ火事を起こして被害を大きくし、結局は、目的が達成できないまま、百姓一揆にも劣るような状況には、平八郎自身が一番、くやしかったに違いありませんが、それでも、逃走して命ながらえたそのワケは・・・

やはり、「これで何か変わるかもしれない」という思いでした。

誰も、はなから幕府を倒そうなどとは、思っていません。

「この騒ぎが江戸に伝わり、あのワイロまみれの実態を告発した密書が幕府中核に届いたなら、江戸で何かが起こり、変化があるかもしれない」・・・

おそらくは、そう思って大塩親子は隠れ家に身をひそめ、世間の様子を伺っていたのでしょうが、残念ながら、2月19日のページで書かせていただいたように、その密書は途中で開封され、宛先の江戸の幕閣に届く事はありませんでした。

挙兵から40日経った天保八年(1837年)3月27日、大坂市中の靭油掛(うつぼあぶらかけ)町の隠れ家に潜伏していた大塩親子を、大坂城代・土井利位(としつら)(7月2日参照>>)と家老・鷹見泉石(たかみせんせき)の率いる探索方がとり囲みます。

その事に気づいた大塩親子は、決意を固め、かねてから用意してあった爆薬に火をつけて、壮絶な爆死を遂げたのです。

焼け跡から引きずりだされた死体は、顔が識別できないくらい黒こげになっていたと言います。

幕府はこれで、乱が終結した・・・と安堵したに違いありません。

しかし、これからが幕府の予想を超える『大塩の乱・第二幕』の始まりだったのです。

挙兵に参加した人々の大半は、大坂の街中の者ではなく、周囲の村々の農民でしたから、大塩の大火で焼け出された人々は、いわば乱のとばっちりで、何の関係もなく火事にあってしまった大坂市中の町民たちです。

にもかかわらず、町民は誰一人として平八郎を恨むことなく、大塩親子がまだ潜伏中の頃などは、「たとえ賞金が銀百枚に増えようが大塩さんを売ったりするか!」といったようすでした。

世論がそんな風でしたから、誰の物とも判別できないような、あの大塩親子とおぼしき死体は、様々な憶測を呼ぶことになります

数日後には、早くもアノ死体は影武者のものだという噂が大坂市中に流れ、町奉行の市内巡回が中止になってしまうという事態がが起こります。

その後、平八郎の影は様々な所で出没するようになり、噂が噂を呼んで・・・
「平八郎は船に乗って清国(中国)へ逃亡した」
「いやシベリアに逃げた」
などの噂が飛び交います。

ちょうど、その頃、江戸湾深くにアメリカモリソン号が侵入してくるという事件もあり、
「平八郎はアメリカに助けられ一緒に幕府を攻めに来る」
という話まで、まことしやかにささやかれるようになります。

また、乱の前にばらまいたアノ『檄文』が、人から人へ伝わり、回りまわって、その文に刺激された国学者・生田万(いくたよろず)が、遠く越後(新潟県)柏崎で発起したり、大塩門弟と名乗る人物が摂津・能勢で兵を挙げたり・・・といった事が各地で起きるようになりました。

しかし、それにもかかわらず、どういうわけか翌年の天保九年(1838年)になっても、大塩一派への処刑はおこなわれる事はありませんでした。

多くの人は、そのことを不思議がり、
「大塩親子、昨年死せしは偽りにて、今以って生存するなり」
という謎の文まで出回り、その都度、幕府を震撼させました 。

しかたなく、幕府はその年の9月になって、やっと彼らの処刑を行いますが、その光景は異常なもの・・・十九のはりつけの柱には、たった一人を除いて、塩漬けの死体がぶら下げられていたのです。

当然、どれが誰の死体かすら判別できません。

その日、大坂飛田の処刑場に見物にきた人々は、はたして自分の見たものが、本当に平八郎の死体なのか?と逆に、生存説を信じ込む人が増えたなんて事にも・・・

徳川幕府にとって大塩親子は賊軍・・・なので、その後も必死になってあることないこと平八郎の悪い噂を流し続けますが、大坂市中の町民も、周辺の農民も、そのような中傷はガンと跳ね除けて、「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」という気持ちを強く持っていて、アノ『檄文』をひそかに隠し持って、永く手習いの手本にしたと言います。

天下の台所・大坂で、しかも元幕吏によって起こされたこの事件は、幕府にも、一般市民にも大きな影響をあたえました 。

Dscn3352a800 成正寺にある大塩親子の墓

とは言え、ストイックで直情的な性格でもあった平八郎・・・一方では、この乱は民衆のためというよりは、与力として功績を残したうえに陽明学にも精通し、多くの弟子を抱えていた彼には、揺るぎないプライドがあり、何度も幕府に提出した改革案を、ことごとく無視された事に対する個人的逆恨みであったという見方もあります。

しかし、私個人的には、生まれ育った場所を舞台に繰り広げられた一大ドラマ・・・やはり、「大塩はんは、ウチら庶民のために立ちあがりはったんや」と思いたいです。

明治維新をさかのぼること30年前の出来事・・・平八郎が生きていたらどのような維新を迎えた事でしょうね。

★大塩ゆかりの地へに行きかたは、本家HP【大塩平八郎の足跡をたどる】でどうぞ>>

・‥…━━━☆

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2010年3月26日 (金)

政治家・柳生宗矩~忘れえぬ剣豪魂

 

正保三年(1646年)3月26日、徳川将軍家の剣術指南役初代・柳生藩主・・・あの柳生十兵衛のお父さんとしても有名な剣術家・柳生宗矩が76歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)・・・通称・又右衛門(またえもん)は、永禄八年(1565年)に、新陰流(しんかげりゅう)の剣術家・柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の五男として生まれました。

五男という事は、彼の上に4人の男子がいた事になりますが・・・

長男の厳勝(よしかつ)は、元亀二年(1671年)、松永久秀(ひさひで)筒井順慶(じゅんけい)が戦った大和辰市(たつがいち)の合戦に久秀側として参戦するものの、重傷を負ってしまい、以後、介助者が必要な障害を持つ事となってしまいました。

次男・久斎と三男・徳斎出家・・・

四男・宗章(むねあきら)は、父から兵法を学び、まさに戦国の剣豪にふさわしい腕前となり、小早川秀秋に仕えていましたが、後に伊勢桑名に滞在中、合戦に巻き込まれて死亡します。

そんな中、父の宗厳が、京都に滞在中の徳川家康に招かれた文禄三年(1594年)、24歳の宗矩も父について謁見し、家康の前で柳生新陰流の極意『無刀取り』を披露します。

この『無刀取り』というのは、父・宗厳が新陰流を学ぶきっかけともなった秘術です。

宗厳が、まだ35歳の若き頃、剣聖の誉れ高い上泉信綱(かみいずみのぶつな)(9月20日参照>>)と手合わせをしたおり、あっと言う間に素手で木剣を奪い取られて、あっさりと敗退・・・これが新陰流・無刀取りの秘剣で、その後、信綱に弟子入りして新陰流を学んだ宗厳が、さらにアレンジを加えて完成させ、柳生新陰流の極意としていたものでした(4月19日参照>>)

信綱との立会いと同様に、素手の宗厳にあっさりとしてやられた家康は、その場で彼の弟子になり、彼に指南役を命じました。

しかし、その時、宗厳は68歳の高齢・・・そのため、すべての極意を継承している息子・宗矩を推挙し、宗矩が父に代わって士官する事となったのです。

こうして大きな一歩を踏み出した宗矩・・・しかし、あくまで父の代理だった彼は、すぐに指南役になれたわけではありませんでした。

まず、与えられた使命は、後方支援の雑用係・・・まもなく訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦を前にしての懐柔工作です。

京都にも大坂にも近い柳生という地の利・人脈の利を生かして、アノ手コノ手で1人でも多くの武将を東軍側へ・・・表には出ない縁の下の力持ちではありましたが、ご存知のように、家康が勝利した事によって、その功績が高く評価され、それまで、父の代にて失っていた柳生の旧領2000石を、再び手に入れる事ができたのです。

翌年の慶長六年(1601年)、31歳となった宗矩は、家康の後継ぎである秀忠剣術指南役に抜擢され、初めて本来の仕事を得ました。

やがて慶長十年(1605年)には、その秀忠が将軍となり、宗矩の役どころも、晴れて「将軍の剣術指南役」という事になりました。

続く慶長二十年(元和元年・1615年)の大坂の陣では、秀忠の旗本として参戦・・・特に、夏の陣では、大将・秀忠近くに迫った豊臣方の敵兵7名を、新陰流の見事な腕前で、あっという間に斬り伏せたのだとか・・・。

しかし、その夏の陣の直後、宗矩にとって後味の悪い事件が続けておきます。

まずは、大坂城の落城時に逃走し、京都に潜伏しているところを捕えられた佐野道可の事件・・・(くわしくは5月21日参照>>)

これは、大坂の陣にて、大坂方の主力の1人として采配を振るっていた佐野道可なる人物が、実は、毛利家と縁戚関係にある重臣・内藤元盛であったという事件です。

ご存知のように、大坂の陣では、毛利家は徳川方を表明・・・病気療養中の輝元の後を継いだ息子・秀就(ひでなり)の名代として参戦した毛利秀元は、鬼神のごとき奮戦で徳川家にご奉公しています(5月7日参照>>)

その一方で、身内とも言える重臣が大坂城にいたとなると、明らかな裏切り行為・・・しかし、捕らえられた道可は、一貫して、「個人的に毛利家を見限り、出奔してからの参戦」を主張し、そこに毛利家の関与がない事を訴えます。

その主張を証明するために、道可の二人の息子たちの証言を取ったのが宗矩でした。

二人の息子に面会した宗矩は、その誠実な人となりを確信し、この一件は、道可個人の寝返りと見て、息子たちにも、そして毛利家にもお咎めがなしとの判断を下し、道可の切腹を以って、この事件は解決となっていたのです。

ところが、その半年後・・・なぜか、輝元の命により、二人の息子は切腹させられてしまいます。

宗矩の力の及ばぬ毛利家内での出来事とは言え、「お咎めなし」との判断を下した彼としては、とても後味の悪い事件となりました。

さらに翌年、今度はあの坂崎出羽守事件が起こります。

ドラマでは、大坂夏の陣での千姫の救出劇とセットで描かれるこの事件ですが、その千姫のページ(2月6日参照>>)でも書かせていただきましたように、個人的には、救出劇そのもよりも、その後の千姫の縁談がらみであると思っています。

公家に太いパイプを持つ坂崎直盛が、秀忠に進言して、ほぼ決まっていた千姫の縁談を、家康の孫で本多忠政に嫁いでいた熊姫が、その持参金と将軍家の血筋ほしさに、わが息子・忠刻をゴリ押して、あれよあれよと言う間に決定してしまったというのが真相ではないかと・・・

もちろん、ほぼ決まっていた相手の公家に対して直盛のメンツは丸つぶれですから、出社拒否をしたくもなるというものです。

この時、幕府との一戦も辞さないとかたくなに抵抗する直盛に、「本人の首さえ提出すれば、罪一等を減じ、お家のお取り潰しはしない」という幕府の意向を以って、交渉に当たったのが宗矩でした。

宗矩は、怒り心頭で、その条件を拒否しまくる直盛を、なんとか説得して自害に持ち込ませたと言いますが、結局、幕府は、その後、坂崎家も取り潰してしまうのです。

一説には、直盛が自刃を拒否し続けたため、家臣が殺害して首を提出した事が、あとあとになってバレたから・・・とも言われますが、一方では、未だ幕府の基礎が固まっていないこの時代、抵抗した者に徹底した処分を下す事は、はなから決まっていたという話もあります。

後者の場合なら、宗矩は、「本人が切腹したら許す」という幕府のウソ約束の片棒を担いだ事になり、坂崎家の怨みも買う事になります。

やっぱり後味が悪い・・・

その事もあってか、宗矩は、残された家族へ自らの知行を分け与えたり、坂崎家臣の、今後の身の振り方を手配するなどのフォローも怠りませんでした。

やがて、3代将軍・家光の頃になると、ますます幕府で重用される宗矩・・・

寛永六年(1629年)には従五位下(じゅごいのげ)但馬守に任ぜられ、その3年後には、将軍独裁体制の一環として設けられた「総目付(そうめつけ)という諸大名を監視する役どころの1人となります。

もはや、剣豪の面影は消え、官僚となった宗矩でしたが、それはひとえに、職務に忠実なだけ・・・ご本人の中では、ひたすら剣の修行をしたあの頃と、何ら変わらない日々だったのかも知れません。

・・・というのも、
ある春のうららかな日・・・

小姓を伴い、庭の散歩をしていると、ふと、桜に目がいきます。

今を盛りに咲き誇る花に、うっとりと見とれる宗矩・・・
その背中を見ていた小姓が、ふと思います。

剣豪の名高い主君・宗矩・・・でも、「今、この瞬間なら、背後から襲い、一本とる事ができるかも知れない!」

・・・と、その後、散歩をやめ、足をとめて、何か考え込む宗矩・・・

「殿様、どうされたのですか?」

すると、宗矩は・・・
「いやいや、さっき、一瞬だけやけど殺気を感じたんや。
けど、まわりには誰もおれへんし、不思議な事もあるもんやと、その理由を考えとった」

背筋・・・ゾ~(A;´・ω・)アセアセ

怖くなった小姓は、先ほどの考えを正直に話て許しを乞いますが、当の宗矩は、咎めるどころか、逆に「そうだったのか~」と納得して、まったく怒る事もなかったのだとか・・・

むしろ、未だ衰えぬ剣豪としてのカンに、我が事ながらうれしかったのかも知れませんね。

やがて正保三年(1646年)正月・・・76歳になった宗矩は、江戸麻布の藩邸で倒れ、ひとりで起き上がる事も困難な状態となってしまいます。

病床で過ごす事2ヶ月・・・さすがの宗矩も、年齢が年齢なだけに2ヶ月も寝込むと、「もはや、これまでか」と、自身の命尽きる日の事を考えるようになります。

しかし、彼には、まだやり残した事がありました。

自身が著した『兵法家伝書』を、弟子である肥前小城(おぎ・佐賀県小城市)藩主・鍋島元茂に贈りたい!・・・

近くにいた側近で弟子でもある村川伝右衛門(でんえもん・『葉隠』の著者・山本常朝の叔父)に、自書に奥書を添えねば、元茂に贈るに贈れん!」と、その震える手をささえてもらい、自らの手で花押(武将の直筆サイン)を書き加えたと言います。

これを「宗矩の乱れ花押」と呼ぶらしいですが、残念ながら、私は未だ拝見した事がありません。(どこかにあるのかしらん?)

それからまもなくの正保三年(1646年)3月26日・・・宗矩は帰らぬ人となります。

思えば、殺人剣を揮ったのは、わずかに大坂夏の陣のあの時だけ・・・心やさしき政治家として生きた柳生宗矩・・・

しかし、その奥底に流れ、決して忘れる事がなかったのは、柳生新陰流・継承者としての誇りと若き日の剣豪魂だったという事なのでしょう。

 

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2010年3月25日 (木)

遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ

 

文政九年(1825年)3月25日、オランダ商館医シーボルトが第13代将軍・徳川家定に謁見しました。

・・・・・・・

シーボルトと言えば、やはり、ご禁制の日本地図を国外へ持ち出そうとして国外追放となったあのシーボルト事件・・・

このブログでは、この事件を摘発した公儀隠密間宮林蔵サイドのお話(5月17日参照>>)、また、他にもよく似た出来事があったにも関わらず、この事件だけが摘発された謎めいた部分のお話(9月25日参照>>)を書かせていただいておりますが、そう言えば、シーボルト自身については、あまり触れていなかったなぁ~

・・・という事で、本日は、シーボルトさん自身について、その人となりなどご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1786年、ドイツはバイエルン州のヴュルツブルグという町のお医者さんの家に生まれました。

その家庭環境からヴュルツブルグ大学の医学部に入学した彼は、専門の医学だけではなく、動物学や植物学・民族学などを精力的に学びます。

卒業後は、しばらく町医者として勤務していましたが、オランダの軍医となった事で、当時、交易のあった日本のオランダ商館の医師として長崎に派遣されたのです。

文政六年(1823年)8月11日に長崎に到着した彼の使命には、医師という事だけでなく、日本という国の調査も含まれていましたが、それが、スパイと呼べるかどうかというのは微妙なところではあります。

なんせ、スパイ行為は秘密裏に行われるものですから、その成果は表には出ません。

結局は、公に彼の残したものは、日本という国をヨーロッパに紹介するという範囲にとどまっています。

まぁ、その細かな調査の内容はともかく、当時は、たとえ交易のあるオランダと言えど、本来は出島から一歩も出る事は許されなかったわけですが、医者という職業であった彼は、その職業の重要性から、町へ出て、日本人の病人を診察する事も特別に許可されていようです。

そんな中、1年間の勤務で、長崎での信頼を得たシーボルトは、鳴滝に家を持つ事を許され、ここに『鳴滝塾(なるたきじゅく)を開設し、西洋医学を広める場所としました。

ここには、全国各地から意欲旺盛な若者が集まり、彼に教えを乞うとともに、シーボルト自身も、彼らから日本の事をいろいろと学びます。

一方で、この頃、シーボルトは日本人女性・楠本滝と知り合い、一目ぼれの末、結婚・・・そんなこんなの文政九年(1826年)、彼は江戸参府に同行する事となります。

さすがの彼も、自由に旅行する事などは許されていませんから、今回の江戸行きは、まさに、絶好のチャンス!

道すがら、植物を採取したり、動物の生態を観察したり・・・富士山の高さも測っていたと言います。

また、行く先々で、彼に西洋医学について教えを乞う日本人とも会いつつ、江戸に到着・・・文政九年(1825年)3月25日第13代将軍・徳川家定にも謁見したのです。

もちろん、江戸在住の日本人医師をはじめとする多くの人とも交流し、お互いの情報交換や、日本研究に役立つ品なども手に入れ、彼にとってはとても有意義な江戸参府でした。

翌・文政十年(1827年)には、奥さんとの間に娘のイネも生まれ、まさに充実した生活を送るシーボルトでしたが、幸せな日々は、そう長くは続きませんでした。

そう、オランダ商館医の仕事には、任期という物があります。

彼は、その任期満了に従って国に帰らなければなりませんが、日本人である奥さんと娘を連れていく事はできません。

文政十一年(1828年)・・・いよいよ別れの時が近づくシーボルト一家でしたが、それに追い討ちをかけたのが、冒頭に書かせていただいたシーボルト事件

国外追放・再渡航禁止の処分を受けた彼は、2度と日本に戻る事ができない・・・つまり、今回の別れが永遠の別れとなってしまう事になったのです。

しかし、天は彼らを見放してはいませんでした。

そうです。

世は、まさに幕末の動乱・・・攘夷派を一掃して、幕府が開国に傾いた安政六年(1859年)、以前の罪が許され、彼は再び長崎に来る事ができたのです。

実に30年ぶりの家族の再会・・・この間、シーボルトは国外追放になりながらも、娘・イネにたびたび手紙を送り、成長すればオランダ語学書なども送付して、お互いの交流を続けていたと言います。

イネにとっては、まだ記憶のない幼い頃に別れた父・・・しかし、その心は、遠く離れた異国で、しっかりとつながっていたのです。

その証拠と言えるのが、イネの進んだ道・・・父と同じ医学の道に進み、日本初の女医をめざす彼女の行動こそが、その30年間の親子の絆を伝えてくれています(6月20日参照>>)

この時、63歳になっていたシーボルトは、その30年間の時を埋めるように、娘・イネに西洋医学を伝授しています。

2度目の来日は、わずか3年間ではありましたが、親子にとっては実に有意義な日々だったに違いありません。

文久二年(1862年)、再び日本を去ったシーボルト・・・その4年後の1866年、母国・ドイツのミュンヘンにて、70歳の生涯を閉じました。

まるで、神様のプレゼントのような再来日・・・おかげで、シーボルトにとっては、長年の胸のつかえのとれた大往生だった事でしょう。

・・・と、感動物語で終らせておこうかどうか迷いつつ・・・「美しく終らせすぎ!」「なんで書かないの?」とのツッコミの嵐になる可能性もあるので、無粋ながらチョイとひとこと・・・

実はシーボルトさん・・・この2度目の来日の時に、妻・滝さんとイネが雇った新しい家政婦に手をつけ、子供まで作っちゃってます。

男・シーボルト63歳・・・まだまだ、やるネ!(v^ー゜)

 

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2010年3月24日 (水)

壇ノ浦で平家滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱のクライマックス壇ノ浦の合戦がありました。

・・・・・・・・・

ご存知、平清盛を頂点に栄華を誇った平家一門に対して、伊豆に流されていた源頼朝挙兵し、継いで兵を挙げた木曽(源)義仲京へと攻め上り、平家は西国へと都落ち・・・

やがて、源氏同士のウチワモメで義仲を討った頼朝の弟・源義経一の谷から屋島へと徐々に西へと追い詰められ、最終決戦となったのが、ここ壇ノ浦です。

一連の合戦の様子は、すでに書かせていただいておりますので、個々のお話は【平清盛と平家物語の年表】>>の後半部分で見ていただくとしても、本日の壇ノ浦合戦に関しての記事だけでも、
●合戦の様子【潮の流れと戦況の流れ】>>
●平家の勇将【平教経の最期】>>
●安徳天皇・入水【先帝の身投げ】>>
と、書かせていただいております。

中でも、清盛の娘・徳子と第80代高倉天皇との間に生まれ、わずか3歳にして第81代の天皇として即位するという平家全盛の象徴でもあった安徳天皇が、わずが8歳で海のもくずと消える名場面=「先帝の身投げ」は、お芝居やドラマでも定番となっています。

まだ、事態が理解できない幼い天皇に、亡き清盛の妻・二位の尼(時子)が、「波の下にも都がございます」と、なだめすかして、三種の神器のうちの一つ=草薙の剣を腰に差し、天皇を抱きかかえて入水するシーンは、何度見ても涙を誘います。

・・・とは、言え、これは『平家物語』をベースにした一般的な安徳天皇の最期・・・

そう、実はあります!生存説・・・

そう言えば、2005年の大河ドラマ=タッキー「義経」でも、なにやら入水したのは、いっしょに都落ちしていた弟のほう・・・って事になってたようですが、結局、その後、最後まで助かったほうの安徳天皇の出番がなかったので、「ならば、なんで?弟と入れ替わる設定にしちゃったの?」と、気になる展開になってましたね。

実際には、ともに西国に同行していた安徳天皇の弟は守貞(もりさだ)親王という方で、平家滅亡後は出家して入道親王となってましたが、この時、都に残った事で安徳天皇の次の天皇となったもう一人の弟=後鳥羽天皇が、後に、あの承久の乱(5月14日参照>>)を引き起こしちゃった事で、その系列は全員流罪となったので、かの守貞親王の皇子が第86代・後堀河天皇として即位するという事になってます。

・・・と、話を安徳天皇に戻して・・・

本日は、その安徳天皇生存説・・・あくまで、伝説の域を出ないものではありますが、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

・・・で、ここで、ご登場していただかねばならないのが平資盛(すけもり)さん・・・

この方は、あの清盛の長男・重盛の息子・・・平家物語では、平氏の横暴ぶりを象徴する出来事として登場する藤原基房(もとふさ)行列襲撃事件の張本人です。

以前、「清盛は暴君ではない!」と称した2009年2月19日のページ>>でも書かせていただきましたが、この時、実際に基房の行列を襲撃したのは、父・重盛・・・資盛は、自分で報復する事もできない、まだまだお坊ちゃんだったのです。

・・・と、このように、平家物語では悪役=清盛を印象づけるために、その対比として徹底したイイ人として描かれる重盛も、実際には、そんな清廉潔白ではなかったようですが、どちらが悪で、どちらが善かはともかく、清盛と重盛の間には政治的な対立があった事は確かなようです。

さらに、父・重盛は、あの鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)に関与した藤原成親(なりちか)の妹を妻とし、その息子・維盛(これもり・資盛の兄)も、同じく成親の娘を妻としていた事もあってか、清盛の死後も重盛の死後も、直系でありながら、維盛&資盛兄弟は、平家の主導権を握る事はありませんでした。

徳子づきの女官であった右京大夫とのロマンスもありながら、一方では後白河法皇との男同士のロマンスも囁かれ、都落ちの時には、先に安全地帯に避難した後白河法皇が、彼を手元に置こうと必死だったようですが、結局、法皇には会えず、資盛も平家一門の1人として、ともに西国へと落ちました。

しかし、一の谷から屋島へと進むドサクサで、兄の維盛はトンズラ(3月28日参照>>)・・・ますます肩身が狭くなる資盛に、ようやく、武将としてのスポットが当たります。

そう、伝説では、屋島の合戦の直後に、知将・平知盛(とももり・重盛の弟)の提案により、安徳天皇を擁した約1500名が別行動をとったというのです。

すでに兄が脱走した今となっては、なんだかんだで資盛が平氏・嫡流のトップ・・・その場で征夷大将軍に任命された彼は、安徳天皇を守りつつ、別働隊を率いて南海の果てへとくりだすのです。

にわかにカッコイイぞ!SUKEMORI~ヽ(´▽`)/

勝てば官軍とばかりに源氏側へつこうとする九州勢をよそに、志布志湾に入った彼らは肝属(きもつき)一族の援助を受けた後、さらに南へ・・・途中でその人数が300名ほどに減るという苦難を乗り越えながら、たどり着いたのは硫黄の臭気漂う鬼界ヶ島(きかいがしま)

そう、あの鹿ヶ谷の陰謀事件で俊寛(しゅんかん)が流されたあの島(3月2日参照>>)・・・ここで、天皇を託した資盛は、わずか数名の従者をつれて、奄美大島へ渡ったと言います。

奄美大島には、彼の墓や、彼を祀る大屯(おおちょん)神社なる神社もあるのだとか・・・。

一方、鬼界ヶ島の安徳天皇は、そこで櫛匣局(くしけのつぼね)という女性と結婚し、66歳まで生きたのだと・・・俊寛のページにも書かせていただきましたが、この鬼界ヶ島は、一説には現在の鹿児島県の硫黄島だったとも言われているのですが、第二次世界大戦直後には、その子孫だという長浜豊彦さんなる人物が、この硫黄島に住んでおり、島民からは「天皇さん」と呼ばれていたという話もあります。

・・・と、ここまで硫黄島の伝説をお話しましたが、実は安徳天皇生存説は、他にもあります。

対馬に渡ったとされる説では73歳まで生き、あの宗氏(3月23日参照>>)は、実は知盛の末裔ではなく、安徳天皇の子孫であるという事になってます。

また、これらの生存説には、当然、壇ノ浦で亡くなった天皇は替え玉で・・・というのがセットになってるわけですが、かの平家物語の「先帝の身投げ」の巻には・・・

Antoku 安徳天皇の姿として
「御髪(おぐし)黒うゆらゆらとして 御背中過ぎさせ給へり」
と、まるで女の子のような髪を長く垂らしたヘアスタイルをしていた事が書かれていて、その後、二位の尼と入水する直前になって
「山鳩色の御衣(ぎょい)に びんづら(みづら)結わせて給ひて・・・」
と、髪を左右に束ねて耳の両脇に垂らす少年の髪型に結いなおしているのです。

この事から、替え玉となったのは女の子で、平有盛(ありもり・重盛の四男)の娘ではなかったか?とも言われます。

とにもかくにも、そのほかにも、いくつかの伝説がある安徳天皇生存説ですが、いずれも、平和な暮らしの末に長寿を真っ当したという心和む結末となっています。

それは、やはり、周囲の身勝手な運命に翻弄させた幸薄いの天皇に対しての庶民の思いが反映されているに違いなく、せめて、伝説の中だけでも自由に、そして、人生を謳歌していただきたいと・・・きっと、誰もが、そう思ってしまうのでしょうね。

追記:ちなみに、一般の歴史では資盛さんも壇ノ浦で一門と運命をともにします。
つまり、今日がご命日(ToT)享年25歳・・・法皇の愛人という事だけで、美少年を想像してしまう私です

 

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2010年3月23日 (火)

秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智

 

慶長五年(1600年)3月23日、小西行長寺沢広高宗義智らが朝鮮に講和を求め、捕虜百六十人を送還しました。

・・・・・・・・・・・・

天草諸島を含む肥後(熊本県)4郡の領主・小西行長長崎奉行寺沢広高(正成・定政とも)対馬島主宗義智(そうよしとし)・・・

まさに、大陸への玄関口と言える3人ですが、これは、もちろん、あの豊臣秀吉朝鮮出兵の戦後処理です。

文禄元年(1592年)と慶長二年(1597年)の2度に渡って行われた大陸への出兵ですが(4月13日参照>>)、慶長三年(1598年)8月の秀吉の死という一大事により事態は急変・・・最後まで残っていた島津義弘隊が撤退を完了した11月25日を以って、悲惨な戦いは終わりを告げました(11月20日参照>>)

そして、文禄の役の時にも、講和に奔走した行長を中心に、大陸との関係修復のための交渉・・・となったわけですが、お気づきの通り、この慶長五年という年は、国内でも大変な事態となっています。

ご存知、関ヶ原の合戦です。

天下分け目と言われる本チャンの戦いこそ9月15日の一日でしたが、その暗雲は前年の石田三成・襲撃事件(3月4日参照>>)からモヤモヤ・・・

そして、大乱を予感させるのは、やはり、この慶長五年の4月1日の上杉景勝による徳川家康からの上洛要請を拒否した事件・・・(4月1日参照>>)

結局、この出来事から「上杉に謀反の疑いあり」とした家康が、会津に向け出兵し、留守になった伏見城を三成が攻撃(7月19日参照>>)した事によって関ヶ原へとなるわけですから、今回の慶長五年(1600年)3月23日一旦やりかけていた講和交渉も、その時点で小休止となってしまいます。

なんせ、この時の中心人物である行長は、西軍の主力として参戦し、ご存知のように、三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らとともに処刑されてしまいますから・・・(9月19日参照>>)

そして、ようやく、交渉が再開されるのが、翌・慶長六年(1601年)・・・事実上、政権を握った家康の要請で、宗義智が担当します。

実は、彼=義智も、関ヶ原では西軍に属していましたが、あの島津と行動ともにしていた事で、参戦しないまま敵中突破の背進となり(9月16日参照>>)、その後、一応のお咎めなしグループ(4月11日参照>>)に入っていたおかげで、彼も何とか無事に・・・

とは言え、行長の娘・マリアを正室としていた彼は、その奥さんと離縁して、この交渉に挑んだと言います。

マリアさんは、同じキリスト教徒を頼って長崎へと向かい、慶長十年(1605年)に、その長崎で亡くなったようですが、世は戦国・・・義智としても、苦渋の決断だったかも知れません。

平家の勇将・平知盛(とももり)(3月24日参照>>)の子孫として、それ以来、対馬を守ってきた17代目としては、お家存続を最優先に考えねばならなかったわけで、しかも、徳川との関係うんぬんだけでなく、これまで大陸との交易を大きな収入源としてきた対馬にとっては、この交渉も死活問題なのです。

しかし、国土のほとんどを戦場とされ、多くの犠牲を強いられた朝鮮側の疑念は、そうそう晴れる物ではなく、何度も話し合いの要請をしますが、その度に拒絶されてしまうのです。

やがて、家康が征夷大将軍に任ぜられた(2月12日参照>>)翌年の慶長九年(1604年)・・・文禄・慶長の役にも義兵を率いて参戦していた惟政(ユジョン)という僧が、『探賊使(たんぞくし)という名目で対馬に派遣されて来たのを、義智らの手によって、そのまま京都へ・・・

その翌年の3月に、伏見城での家康との対面を成功させます。

そして、事実上政権交代した日本側が、もはや悪意のない存在である事の証しとして、惟政を、1400名の捕虜とともに丁重に帰国させたのです。

さらに家康は、国内に向けては非公式だった、この惟政一行の訪問を、正式な朝貢使として扱う事で、日本という国の外交権を徳川家が掌握した事をアピール・・・未だ残る豊臣家の権勢への牽制も、しっかり行います。

とにもかくにも、ここで、ちょいとだけ道が開かれた外交交渉・・・やがて、慶長十二年(1607年)、『回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と名付けられた正式な外交使節が来航し、なんとか回復の兆しを見ました。

この間、かの義智は、両国の関係の改善を急ぐあまり、何度も国書を改ざんした・・・なんて事も言われていますが、改ざんの真偽はともかく、回復に尽力したのは確かで、そのがんばりは、李氏朝鮮側も、一定の評価をしていたようです。

この後、義智の宗氏は対馬藩として生き残りますが、朝鮮側は、年に一度の対馬藩の交易船の派遣を公認していますし、佐賀県の名護屋城博物館に残る『朝鮮通信使行列絵巻』には、彼ら通信使に随行する対馬藩士も描かれていますので、対馬藩がその交流の玄関口として、大いに活躍した事がうかがえます。

Tyousentuusin 朝鮮通信使行列絵巻(名護屋城博物館蔵)
5代将軍・徳川綱吉の時代の通信使を描いたものと言われます。

秀吉軍の朝鮮撤退から10年・・・奥さんと離婚してまで挑んだ大仕事。

義智さんにとって、この10年は、長かったのか?
あっと言う間だったのか?
どんな歳月だったのでしょうね(*゚ー゚*)
 .

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2010年3月21日 (日)

足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦

 

応仁二年(1468年)3月21日、応仁の乱における大きな衝突の一つである稲荷山攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・・・

戦国の幕開けとも称される応仁の乱ですが、そのゆえんとなるのが、日本を真っ二つに分けての大乱である事、東西の間で右往左往する将軍家の権威の失墜・・・など挙げられますが、もう一つ、「足軽」の登場というのも見逃せない特徴です。

前年の応仁元年(1467年)、明けてまもなくの1月17日に勃発した御霊合戦(1月17日参照>>)・・・管領家の一つである畠山氏に起こったこの後継者争いで口火を切った戦いは、4ヶ月後の5月、細川勝元山名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)という、時のツートップの参戦により応仁の乱へと突入します(5月20日参照>>)

その序盤で最も激戦となった相国寺の戦い(10月3日参照>>)で、西軍・朝倉孝景(たかかげ)の相国寺の陣地を取ったり取られたり・・・

しかし、その後は、少々お疲れ気味となったのか、小競り合いと小休止を繰り返しながら年を越し、乱は2年目に突入しました。

こうなると、双方ともに長期戦を念頭に置いての作戦変更・・・土塁を強化し、掘濠を構築し、という防御固めに出ます。

東軍が高さ20m以上もあるかと思われる物見櫓(ものみやぐら)を設置すると、今度は東軍が30m以上ありそうな物見櫓を設置(←子供か!)

その物見櫓から、少しでも敵を見つけようものなら、即座に投石を開始し、そのドサクサのまま、入り乱れてのグダグダ戦に突入・・・(←やっぱり子供や)

このグダグダというのは、「ヤル気がない」という意味のグダグダではなく、作戦も何もない素人集団がゴチャゴチャになって戦ってるみたいなというグダグダです。

そうなんです。
ここで、大いに活躍したのが後に足軽(あしがる)と呼ばれるようになる雑兵(ぞうひょう)集団です。

雑兵の存在自体は昔からありましたが、この時、大乱を聞きつけて、近隣の農村から喰いっぱぐれた農民くずれや無頼のやからが大量に、かつ、急激に都に集まって来たのです。

彼らの目的の多くは、東軍あるいは西軍に加担して戦で武功を挙げるなんて事ではなく、そのドサクサにまぎれて略奪行為を行う事・・・なるほど、それなら、大乱と聞いて怒涛のごとく集まってくるのもわからないではありません。

しかも、そんな彼らでも、集団となれば、武士に勝つ事さえある・・・そこに目をつけたのが、東軍・細川勝元・・・

Dscn6101a800 ←神幸道側の鳥居から見る・・・奥が稲荷山

 
元盗賊改め目付けの骨皮道賢(ほねかわどうけん)という、名前からしていかにも素性がわからなそうな男に、太刀を与えて仲間を集めさせ、伏見の稲荷山を占拠させたのです。

3月に入って、手下・約300名とともに稲荷山に陣取る道賢・・・彼らの目的は、東軍の後方支援です。

平安の昔から幕末までの歴史を見てもわかるように、ここ伏見一帯は、京の都の玄関口として最も注目すべき要所です。

彼らは、ここを拠点に、稲荷口東寺口など、洛中へと入る主要口に出没しては、西軍へと運び込まれる兵糧や武器などを奪うばかりでなく、民家への放火や略奪を繰り返し、京都の南側一帯を、ゲリラ的戦法で荒らしまわったのです。

鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たない軽装の彼らは、疾風(はやて)のように現れて疾風のように去っていく疾足(しっそく)部隊・・・なので、足軽

これにより、一たび白兵戦となれば、武士同士が名乗りを挙げての一騎打ちがカッコイイ~という従来の戦闘方法は激減する事となったのです。

しかし、当然の事ながら、西軍もこの状況を指を加えて見ているわけはいきません。

かくして応仁二年(1468年)3月21日、朝倉孝景以下、大量の兵士を導入して稲荷山に総攻撃を仕掛けたのです。

さすがに下京を暴れまわった彼らも、大量の正規軍相手にはひとたまりもなく、あっと言うまに散り々々となって、あえなく終了・・・

もともと、あっちこっちからかき集めた烏合の衆ですから、分が悪いとなるとその逃げ足も速い(まさに足軽・・・(゚ー゚;

当の道賢も、女装して逃亡しようとしたところを孝景に討たれてしまいました。

思えば、わずか1週間ほどの大将の椅子、わずか一日での鎮圧でした。

しかし、これで、足軽という存在の大きさを知った東軍は、すぐさま約300名の雑兵を集めて第2段を編制・・・一方の西軍も、負けじとばかりに疾足精鋭部隊を導入したのです。

以後、応仁の乱は、その大乱のイメージとはほど遠い、末端の足軽同士の小競り合いが中心となりますが、一方のトップのほうも、足利義視(よしみ・足利義政の弟)というキーマンがあっちへウロウロこっちウロウロとして、グダグダ感を倍増させてくれるのですが、そのお話はまた、いずれかの「その日」に書かせていただき泰と思います。

Inariyamapt900 稲荷山・中腹(四つ辻)からの眺望

ところで、室町時代の公卿・一条兼良(かねら)が記した『樵談治要(しょうだんちよう)によれば、
「京内外の社寺や格式ある寺院が荒れ果ててしもたのは、アイツら=足軽のせいや!
敵の立て籠もっとるとこはしゃーないとしても、そうやない所も破壊して放火して財産を略奪するなんか、白昼強盗やで!」

と、散々に書かれた足軽・・・

京の町に立った落首(らくしゅ・世情を風刺した落書の立て札)でも、「威張る」「稲荷」をかけて、
「昨日まで いなり(威張り・稲荷)まわりし 道源(道賢)も 今日骨皮となるぞかはゆき」とあったとか・・・

良くも悪くも彼らの登場で、合戦の様相は一転・・・時は戦国へと向かうのです。

・・・にしても「骨皮道賢が女装・・・」
名前だけで決めつけるのは、どうかとは思いますが、何となく「ゴッツイおっさんの女装」を想像してしまう私です。

めちゃめちゃ美形だったら(*_ _)人ゴメンナサイ
 

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2010年3月19日 (金)

豊臣に生まれ豊臣とともに眠った秀吉の城・長浜城

 

天正二年(1574年)3月19日、織田信長配下の羽柴秀吉が北近江長浜城に移り、初めて城持ち大名となりました。

・・・・・・・・・・

天正元年(1577年)8月・・・織田信長は、敵対する越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)に協力する北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を、小谷(おだに)城に破ります(8月27日参照>>)

その浅井氏の旧領・湖北三郡を賜ったのが、一連の朝倉との戦いに功績のあった(4月27日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉でした。

そして、まずは、その小谷城に入った秀吉でしたが、小谷城は琵琶湖から少し離れた山岳地帯にあり、冬は雪に覆われる典型的な戦国の山城です。

主君の信長と同様に、商業での交易を重視していた秀吉にとって、その小谷城の欠点は拠点とするには致命的・・・そこで秀吉は、琵琶湖東岸に位置する今浜に目をつけ、主君・信長の一字を貰って長浜と命名し、そこに、拠点となる城を築く事にします。

この築城に関しては、当時の絵図や古文書がほとんど現存しないために不明な点が多いものの、竹生島から多くの材木が運ばれ、領内からは、石仏や五輪塔にいたるまでの石材が確保されたなどという事が伝えられています。

新しい城下町での秀吉は、昔ながらの座を廃止し、楽市制を採用して商売を自由化し、税金の優遇措置なども積極的に行い、町を区画化して、町民による自治制度なども導入しました。

このような制度導入に喜んだ城下の人々は、皆、積極的に築城に協力したそうで、その姿は、平城ながらも、琵琶湖の湖水をそのまま掘とした本格的な水城だったと言います。

かくして天正二年(1574年)3月19日長浜城に入った秀吉は、以後、ここを拠点とします。

秀吉の狙い通り、ここ長浜は、湖上交通の中心となり、軍事・経済の双方にわたる支配を確保するとともに、その水運を利用して姉川の水利も掌握・・・そう、この姉川のほとりには、当時、鉄砲の生産では日本一を誇った国友があります。

これは、軍事的にも、経済的にも、大きな意味を持つものでした。

もちろん、この先、伏見城から大坂城へと三国無双の城を築きあげる秀吉自身にとっても、この長浜城は、初めての城というだけでなく、小さいながらも大きな意味を持つものだったのです。

やがて天正十年(1582年)、信長の死後の、あの清洲会議(6月27日参照>>)で主導権を握った秀吉の采配により、この長浜城は柴田勝家の配下の城となり、勝家は、ここを、甥の勝豊に守らせます。

しかし、そのわずか半年後の12月・・・秀吉は、思い出深いはずの、この長浜城を攻めるのです(3月11日参照>>)

そう、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦です(4月21日参照>>)

すぐに長浜城を開城させた秀吉は、ここを軍事拠点に勝家や、彼と共同戦線をはる神戸信孝(かんべのぶたか・信長の三男)との戦いに踏み込んだのです。

そして、ご存知のように勝家は滅び(4月24日参照>>)信孝も自刃に追い込まれ(5月2日参照>>)、再び、秀吉の配下となった長浜城には、天正十三年(1585年)、あの山内一豊(やまうちかずとよ)が入ります。

その後、天正十八年(1590年)の小田原の北条攻め(7月5日参照>>)で、北条氏が滅亡した後に一豊が掛川城主となったため、この長浜城は、秀吉のもとで頭角を現してきた石田三成(いしだみつなり)の配下となりますが、ご存知のように、石田三成の拠点は、少し南の佐和山城・・・そのため、荒廃した長浜城は真宗門徒の惣会所に利用されたりもしますが、その三成も、あの関ヶ原で敗れます(【関ヶ原の合戦の年表】参照>>)

やがて、慶長十一年(1606年)には、徳川家康の命により、家康の異母弟の内藤信成が入って大修理を行いますが、元和元年(1615年)・・・まさに、あの大坂の陣で豊臣家が滅亡(5月8日参照>>)したその年、信成の後を継いでいた息子の内藤信正が、摂津(大阪府)高槻城主となったのをきっかけに、長浜城は廃城となります。

その後は、湖北の支配権は、三成の後に佐和山城に入った井伊直政が新たに設けた彦根城へとゆだねられる事になり(2月1日参照>>)、長浜城の多くの木材や石材が、その建築材料として利用され、その姿は、完全に失われる事となります。

Dscn8437a800 長浜城・本丸跡と復元天守 

現在の長浜城は、昭和五十八年(1983年)、「秀吉の長浜城を再興したい!」という市民の希望を受けて、歴史博物館として再建されました。

二層5階の復元天守として生まれ変わった長浜城の外観は、冒頭に書かせていただいた通り、その詳細がわからないため、東京大学名誉教授の藤岡通夫氏の指導のもと、天正期の城郭を想定した設計となっているそうです。

館内では、湖北の歴史とともに、秀吉や国友の鉄砲鍛冶・・・また、湖北に縁が深い小堀遠州(こぼりえんしゅう)(2月6日参照>>)や、小谷落城の生き残りとも言える海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)についての展示が展開されています。

秀吉が持った初めての城・・・その思いを受けた長浜城は、豊臣とともに生まれ、豊臣とともに歴史の表舞台から去る事が、その運命だったのかも知れません。
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2010年3月18日 (木)

無骨な総大将~応仁の乱を率いた山名宗全

 

文明五年(1473年)3月18日、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱で西軍を率いた守護大名・山名宗全が70歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

山名宗全(やまなそうぜん)は、応永十一年(1404年)に山名時熙(ときひろ)の三男として生まれます。

この山名氏は、新田の流れを汲む家系ですが、あの南北朝の時には足利尊氏に従って功績を挙げた事から、室町時代初期の政権内で大きな力を持ち近畿山陰山陽の広範囲に渡ってに11ヶ国もの守護となり、当時の日本全国が60ヶ国ほどであった事から「六分一殿(ろくぶんのいちどの)・・・つまり、全国の6分の1を持ってると言われたほどの家柄でした。

しかし、あまりにも強大になった山名氏に脅威を抱いた3代将軍・足利義満の画策によって、同族同士で争う事となり(12月30日参照>>)、いつしか、その領地は3ヶ国ほどなってしまっていたのです。

それを盛り返したのが、宗全の父・時熙・・・何とか頑張って、侍所(さむらいどころ)の長官にまで上り、領地も、倍の6ヶ国に増やす事に成功したのです。

しかし、そんな山名氏をもとの六分一殿・・・いや、それ以上の全国トップクラスに押し上げるのが宗全、その人であります。

応永二十年(1413年)、わずか10歳で元服した宗全は、時の第4代将軍・足利義持の一字を賜り、山名持豊(もちとよ)と名乗ります。

・・・と、実は、この持豊が本名で、宗全は、いわゆる出家した後の法号なのですが、ややこしいので、本日は宗全さんで通させていただきます。

・・・で、そんな宗全さんは、亡くなった父の後を継いで、28歳にして山名氏の当主となりますが、冒頭に書かせていただいたように、彼は三男・・・

長兄は早くに亡くなっているので問題無しとしても、次男の持熙(もちひろ)という人が幕府の宿老も勤め、嫡子として後を継ぐ事が決まっていたのです。

ところが、兄・持熙の事が嫌いな第6代将軍・足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)鶴の一声で、家督は宗全が継ぐ事に・・・

・・・と、この義教さん、この人は知る人ぞ知る、あのくじ引き将軍です。

当時のくじ引きは、神のお告げみたいな物ですから、くじ引きで将軍になった事を、どうこう言うつもりはないのですが、この方は、その将軍としてのやり方が少々独裁的な人だったのです。

大きくなり過ぎた管領守護勢力を排除して、将軍自らが勢力を振るう事を理想とした義教は、管領家や守護の家督相続に介入し、宗家を潰して分家を重用したりして内紛を起させ、その勢力を削ぐように画策しました。

もちろん、そんな中で思うように行かなかった場合は、その武将を暗殺する事も・・・上記の、宗全が兄を差し置いて家督を相続したのも、その画策の一環なわけですが、とにもかくにも、その義教のおかげで、宗全は、しぶる兄を抑え、山名氏の当主となれたわけです。

そんな義教は、更なるラッキーを宗全にもたらしてくれます。

義教の恐怖的な政治に、「次は俺が排除されるんじゃないか?」と不安にかられた赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嘉吉元年(1441年)6月、義教を自宅に招いて宴を催し、その席で殺害してしまうのです。

世に言う嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)ですが、守護が将軍を殺害するという、この前代未聞の出来事を以って下克上のはじまりとも言われる事件・・・この時、将軍殺害の罪人となった満祐の討伐軍の主力となったのが宗全・・・

当時38歳・・・男盛りの宗全は、満祐を追って但馬(たじま・兵庫県)から播磨(はりま・同)に攻め込み、見事、自害させました。

これによって、播磨・美作(みまさか・岡山県)備前(びぜん・同)の3ヶ国を手に入れ、合計9ヶ国・・・名門管領家の細川家と並ぶ勢力となります。

・・・と、ここで登場した細川家・・・ご存知のように、後に応仁の乱で宗全率いる西軍と、相対する事になる東軍を率いるのが細川家の当主・細川勝元・・・。

しかし、この嘉吉の乱の後、しばらくは、すこぶる良好な関係が続きます。

宗全と勝元は26歳という親子ほどの歳の差がありますが、その年齢通り、この頃には、勝元は宗全の娘を嫁にとり、二人は、舅&婿殿の関係となっています。

さらに宗全の末っ子の豊久を、勝元が養子にするくらい仲が良かったのです。

名門育ちの勝元は、和歌や芸術にも才能あふれる貴公子で、かたや宗全は武術しか知らない根っからの武士・・・しかし、そんな趣味嗜好の違いをも越えてしまうほど、お互いの利害関係が一致し、両者ともに組んで他家を追い落とし、並び立つ者がいないほどの権勢を誇ります。

しかし、そうなると、不安になって来るのが、細川家を含む名門管領家の人たち・・・管領家とは、将軍の補佐役である管領になれる資格のある家柄の事で、細川斯波(しば)畠山の三家・・・これを「三管領」と言い、この家柄は特別な名門なわけです。

なので、それ以外の家柄の者が、その上を行く力を持つ事を良く思わないのは当然と言えば当然・・・さらに、ここに来て、将軍家も同じ思いとなります。

かくして、時の第8代将軍・足利義政は、細川家の分家の細川成之(しげゆき)とともに、一計を画策・・・宗全が討ち取った赤松満祐の甥・赤松則尚(のりひさ)を幕府に出仕させ、お家再興を認めてしまったのです。

ここに、山名氏と細川氏・・・大きな溝ができてしまいました

これが、応仁の乱の一つの要因となります。

もちろん、すでにブログで何度か書かせていただいているように、応仁の乱は、この山名と細川の対立だけでなく、かの管領家の斯波氏は斯波氏同志で、畠山氏も畠山氏同志で、その家族内でトップ争いをしているし(1月17日参照>>)、肝心要の将軍家も、義政の息子と弟で、その相続争いをしていたわけで(1月7日参照>>)、それぞれが、それぞれの利害関係で、あっちについたり、こっちについたりと、複雑にからみあっての応仁の乱勃発という事になるのですが・・・(5月20日参照>>)

かくして、京の都を焦土と化す大乱が展開されるわけですが、個々の戦いは、それぞれのページで見ていただくとして【室町時代・前期の年表】の後半部分をどうぞ>>)、本日は、宗全さんのご命日・・・

最初の頃は、京の洛中での戦いが中心だったのが、徐々に郊外へと広がり、摂津(大阪)南山城(京都府南部)などでは、地元の土豪や国人を巻き込んでの戦いとなる中、一方の中央では、おかしな事になってきます。

もともと、宗全は、義政の嫁・日野富子に頼まれて、次期将軍には、その息子の義尚(よしひさ)をつけるべくはじめたこの乱が、いつの間にやら、義尚のライバルの義視(よしみ)を将軍格に戴き、富子と義尚のいる花の御所を攻撃している自分・・・

乱の勃発から5年後の文明四年(1472年)正月・・・その不可思議さに、長引く乱を終らせたいと感じた宗全は、勝元に和議を提案します。

しかし、その和議の提案は、あの満祐の弟の孫にあたる赤松政則の反対によって潰されてしまいます。

和議が成立しなかった事に心を痛めた宗全は老齢にムチ打って自刃・・・その場では死にきれなかったものの、結局そのキズがもととなって、翌・文明五年(1473年)3月18日この世を去るのです。

一方の勝元も、政則の反対を抑えきれず、さらに戦乱を長引かせている事に責任を感じ、養子の勝之以下、家臣十余人とともに髻(もとどり)を切りますが、そんな事で乱が収まるわけもなく、傷心に打ちひしがれる中、宗全の死から、わずか2ヶ月余りで、彼も病死してしまうのです。

しかし、ご存知のように、両巨頭が亡くなっても、まだ乱は続き、結局、文明九年(1477年)、やっと11年の大乱の終止符を打つのですが、そのお話は、また別の機会にさせていただく事として・・・

ところで、天文二十一年(1552年)に成立したとされる『塵塚物語』には、宗全が、ある公家の邸宅に招かれた時、「昔はよかった・・・・」グチる大臣に言った言葉というのが書かれています。

「そうやって、先例にこだわって時代の流れを見はれへんから、武家にとって代わられるんでっせ。
昔の常識でいったら、俺らみたいな卑しい者が、おたくらみたいな高貴な人と、対等に話しする事なんて考えられませんやん。

これが、時代っちゅーもんです。

これから、俺なんかより、もっと悪い武士がどんどん出てきますやろ。
けど、昔の常識を持ち出してゴチャゴチャ言わんと、時勢をわきまえてくれはるんやったら、俺は、おたくらを全身全霊で守ります。」

確かに、芸術的才能のカケラもなく、無骨で、戦うしか能の無かった宗全だったかも知れませんが、そのぶん、時勢を読み、己の立場の何たるかを充分に理解して、常に、武士たる者の理想へと向かって生きていたのかも知れません。

戦いを終らせる事ができなかった、情けない自分に刃を突きたてたのも、宗全らしい最期だったのかも知れません。
 

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2010年3月17日 (水)

景虎VS景勝~御館・落城

 

天正七年(1579年)3月17日、上杉景虎の籠る御館が、上杉景勝の攻撃により落城しました。

・・・・・・・・・・・・

相模(神奈川県)北条氏康の七男として生まれながら、幼い頃に早雲寺というお寺に預けられ、西堂(せいどう)と呼ばれて修行に励み、このまま僧として一生を歩んでいくかに思えた少年は、ある時、三国同盟の一環として甲斐(山梨県)の武田信玄のもとに送られ、武田三郎と名乗ります。

天文二十三年(1554年)に結ばれた、その三国同盟とは、
信玄の嫡男・義信のもとに今川義元の娘が嫁ぎ、
義元の嫡男・氏真(うじざね)のもとに北条氏康の娘が嫁ぎ、
氏康の嫡男・氏政のもとに信玄の娘が嫁ぎというテレコテレコの政略結婚で固く結ばれた甲斐駿河(静岡県東部)相模(神奈川県)のアレです。

しかし、永禄三年(1560年)あの桶狭間織田信長の手によって義元が命を落とし、その後、信玄が駿河に進攻しはじめた事で、その同盟関係は崩れます。

信玄の駿河攻めに激怒する氏康は、当然、息子・氏政と結婚していた信玄の娘を離縁させますが、もちろん、かの武田三郎と呼ばれた彼も北条へと戻らせ、3人息子を亡くして落ち込む北条幻庵(氏康の叔父)の養子として北条三郎と名乗らせます。
(*史料が少ないため、武田へ入った事はなく、ここではじめて三郎を名乗ったとする説もあります)

ここで北条は、武田との同盟破棄とともに、逆に越後(新潟県)上杉謙信(当時は輝虎)と同盟関係になろうと、氏政の息子・国増丸(くにますまる)を養子に出す事にしますが、この国増丸が未だ5歳の幼子とあって、どうにもこうにも氏政が手放す事ができません。

そこで再度会議を設けて人選のしなおし・・・そして選ばれたのが、まだ幻庵の養子になったばかりの三郎でした。

元亀元年(1570年)4月、上野沼田城で三郎に面会した謙信は、「こんな僕(本人は愚老って言ってます)に三郎さんを譲ってくれて、来世でも自慢できますわぁ~」と大喜び!

若き日の自分が名乗っていた名前を彼に与えて、その月末には姪っ子と結婚させて、本拠地・春日山城の二の丸に住まわせます。

そう、この少年が上杉景虎(かげとら)です。

当時、
♪三郎殿と一夜契れば・・・♪
と杵歌に唄われたくらい、女の子にモテモテのイケメンだったとの評判の16歳・・・さぞかし、謙信のお気にも召した事でしょう。

こうして、信玄をけん制すべく、謙信と同盟を結んだ北条は、度々関東への出兵を要請したりしましたが、当時、北陸方面の攻略に力を注いでいた謙信は、あまり関東まで手が回らず・・・やがて氏康が亡くなって後を継いだ氏政の時代になって、謙信に期待できないと感じた氏政は、逆に武田とよしみを通じるようになります。

・・・て事は、上杉と北条は敵対関係に・・・しかし、謙信は景虎を北条に返す事はありませんでした。

その理由に関しては、かの同盟の時に交わした上野の支配権・・・これを有効にしておくため、完全に北条との縁を切りたくなかったから?とも、すでに、景虎に関東管領を継がせるという暗黙の了解みたいなのが、謙信の中にあったから?とも言われますし、すでに景虎が、上杉家での人望を得ていたからだとも言われます。

一方、その景虎のライバルとなる景勝ですが・・・
ご存知のように、彼は、謙信の姉・仙桃院(せんとういん)長尾政景(まさかげ)の息子・・・つまりは、景虎の妻となった謙信の姪っ子の兄もしくは弟という事になります(姪っ子の年齢がわからないので・・・)

この景勝が謙信の養子になったのは、父・政景が亡くなった直後の5歳の頃という話もあれば、喜平次顕景(きへいじあきかげ)から景勝へと名を改め、上杉弾正少弼(だんじょうしょうひつ)と称するようになった天正三年(1575年)という話もあり・・・もし、後者の場合だと、景虎との関係がすこぶる微妙ですが・・・。

しかし、さらに微妙だったのが、3人の養子の中でも後継者に近かったこの二人のうち、どちらに後を継がせるかを、謙信が表明しないまま倒れてしまった事・・・(3月13日参照>>)

天正六年(1578年)3月・・・まだ、謙信が息のある間に、春日山城の本丸と・武器庫・金蔵を占拠して、自らが後継者を宣言した景勝・・・一方、二の丸にいた景虎は、本丸に入れてもらえず、謙信に会う事も叶いませんでした。

間もなく謙信が亡くなると、景勝は景虎のいる二の丸を攻撃・・・しばらくは、もちこたえるものの、やがて、景虎は御館(おたて)へと移って、景勝との戦線に対峙します。

この御館は、謙信に関東管領職を譲った上杉憲政(のりまさ)の住まうところ・・・やはり、関東管領を継ぐのは自分である」という思いが、景虎にはあったものと思われます。

当の憲政も、景虎を受け入れているところを見れば、やはり、そのつもりがあったという事でしょうし、このあたりの景虎が、景勝らと互角に戦えるのも、古志長尾家の有力武将をはじめ、多くの者が、景虎の味方についていたからなわけで、それも、ある程度、景虎が後継者である事を、周囲が認めていた証拠とも言えます。

しかし、長期戦になると武器庫と金蔵をおさえている景勝側は強い!・・・金に物を言わせて、景虎の実家である北条と同盟関係にあった武田勝頼を寝返らせ、この一件に関与しないようにさせます。

残る景虎の頼みは、その実家の北条ですが、その援軍は上野坂戸城まで攻め込みながら間に合わず・・・

やがて、年が明けた天正七年(1579年)、景勝軍の包囲網で孤立した御館は、兵糧不足が深刻化し、離脱する者もあとを絶たなくなり、とうとう天正七年(1579年)3月17日、落城してしまったのです。

落城に際して、かの憲政は、景勝との和睦交渉をするため、人質として差し出すつもりの9歳になる景虎の息子・道満丸(どうまんまる)を連れて脱出し、春日山城へと向かいますが、その途中で、この二人は景勝側によって討たれてしまいます。

ここで、一旦は自刃を決意する景虎を、説得したのは、かの景勝の姉・もしくは妹とおぼしき女性・・・彼女は「ここで死んではいけません!逃げて、本意をまっとうしてください!」と、夫を逃亡させ、自らは、兄(弟)の軍勢に包囲されて炎上する御館にて自害したのです。

しかし、逃げた景虎が頼った鮫ヶ尾(さめがお)は、すでに景勝側に丸め込まれており、頼る場所のなくった景虎は、3月24日、北条から従えてきた家臣らとともに、その26歳の命を捨てたのです。

Kagekatuotatecc 上杉景勝・書状(新潟県立博物館蔵)

この御館の乱に関して、景勝が太田資正(すけまさ)(9月8日参照>>)に宛てた手紙によれば・・・
「昨年からのウップンを、やっと晴らせたぜ!」
とあり、この景虎との一戦に、景勝の私情が含まれている事をうかがわせます。

・‥…━━━☆

どうですか?

昨年の天地人と・・・
もちろん、ドラマの主役は景勝側の愛の人なので致し方ないところですが、描きようによって、こんなにも印象が違ってしまう事をわかっていただけたらうれしいです。
(このあたりの「天地人」の感想は2009年4月20日のページでどうぞ>>)
 

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2010年3月16日 (火)

幕府と家光を支えた知恵伊豆こと老中・松平信綱

 

寛文二年(1662年)3月16日、第3代将軍・徳川家光を支え、江戸時代初期の幕藩体制の確立に尽力した老中・松平信綱が、67歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

慶長元年(1596年)に、徳川家康の家臣・大河内久綱(おおこうちひさつな)の長男として生まれた松平信綱(まつだいらのぶつな)は、父の弟で、長沢(愛知県豊川市)松平家を継いでいた正綱(まさつな)養子となって松平姓となります。

2代将軍・徳川秀忠に嫡男・家光が生まれたのをきっかけに、家光付きの小姓となり、元服後は500石→800石へと増加され、家光が将軍となった後もつき従い、28歳で従五位下伊豆守に任官されます。

その後も、2000石→8000石→1万石と、とんとん拍子に出世街道まっしぐら・・・十年後の38歳には、合計3万石以上となり、とうとう老中になりました。

さらに、その5年後には、あの島原の乱を鎮圧した(2月28日参照>>)功績で、武蔵(埼玉県)川越藩6万石とともに老中首座の地位も獲得しました。

さらにさらに、家光の死後は、第4代将軍・徳川家綱を支え、振袖火事と呼ばれた明暦の大火の処理にも、その手腕を発揮します。

その明暦の大火では、ひょっとして、この火災は、江戸の町の区画整理をしたかった幕府の・・・と、ブログでは、ちょっとブラックな推理もご紹介しましたが、この時の幕府というのは、当然、そのトップにた信綱さんなわけですが・・・(1月18日参照>>)

そのページにも書かせていただいた信綱さんのニックネーム=知恵伊豆・・・もちろん、これは、幼い頃から才知に富んでいたと言われる信綱さんをイメージしたニックネームで、最初の官職である伊豆守と、知恵出ずるをかけて「知恵伊豆」なのですが、冒頭にも書かせていただいたように、この先、250年と続く徳川の幕藩体制を、ここまで強固にできたのには、やはり、知恵伊豆の知恵がかなり影響していると思います。

参勤交代に代表される幕藩体制の多くが、3代将軍の家光のところで確立される事で、かなり名君のイメージを受ける家光さんですが、以前も書かせていただいたように、その多くが、すでに2代将軍の秀忠の時代に、その土台となる物ができていたわけで(4月16日参照>>)、実のところ、家光さんに関しては、アホとまでは言いませんが、あの春日局(かすがのつぼね)いたれりつくせり子育てで、ちょっと、坊ちゃん育ち的な性格が見え隠れするところがあるのも確かなのです。

そんな家光の時代に、体制を確立する事ができたのは、やはり、補佐した知恵伊豆こと信綱さんあっての事・・・そんな彼には、「知恵伊豆」と呼ばれるゆえんとなるエピソードも、いくつか残ります。

・‥…━━━☆

未だ幼いある時、家光は、
『限りなく長き糸を巻きたる物』
を、手に持って現れ、居並ぶ小姓に向かって
「今すぐ、この長さを測れ!」
と、ご命令・・・

「限りなく長き糸」なのですから、当然、それを解きほどいて、いちいち計っていては、「すぐに!」というお坊ちゃまの命令へのお答えとはなりません。

で、flairピカ~ン!

「いい方法、あるよ!」
と、信綱・・・

「とりあえず、十尋(ひろ・1尋=約1.8m)の長さで糸を切って、その重さを秤で量って、次に残り全部の重さを量って、それが十尋分の何倍の重さになるか、ソロバンで計算すればいいんだよ」

今、聞けば、
「なんだ~、そんなの小学校で習うじゃん!」
と、思われるかも知れませんが、当時の武士から見れば、計算なんてものは卑しい商人のやる事という認識があり、武士たる者の勉学には入っていない物だったのです。

しかし、信綱さんは、すでに幼い時期から、この部分も、ちゃんとマスターしていたという事なわけです。

この能力は、大人になってからも偉観なく発揮され、信綱が担当するまでは、不正な水増しで暴利を得ていた鍛冶屋のごまかしを一発で見抜き、これまでの改築費用の多くを占めていた鉄製品の代価の見積もりを、一気に低額に変更させたという話もあります。

また、ある時、かの家光公が
「庭で、能をさせたいから、1刻(2時間)以内に、能舞台造って~~~」
仰せあそばした時・・・

本来なら土練りからはじめて、骨組みに塗りこみ、乾くまで1週間はかかる白土壁を、彼は、見事に2時間で建ててみせたと言います。

もちろん、ホンモノが造れるはずはなく、城内にある蔵から、白しっくいの扉を外し、それをズラリと並べて、一つ一つを(かすがい)で止めて固定した、見た目だけ完璧な能舞台だったのですが、家光様は、希望が叶って、かなりのご満悦だったとか・・・

さらに、寛永元年(1624年)、朝鮮通信使が江戸を訪問した時、その一行の中に『馬上才(ばじょうさい)と呼ばれる、馬の曲乗りをするシルク・ド・ソレイユ顔負けのエンターティナーがいる事を知った家光は、それを見るのを、とても楽しみにしていたのだそうです。

ところが、いざ、通信使との会見が近づいて、その日づけが決定されると、その日は、大名たちの登城の日と重なり、馬場が使えない事が判明・・・つまり、家光自身は、会社の駐車場となってる広場にサーカスの小屋を建てて見るつもりでいたのが、その日は、社員が全員出勤するので、駐車場は満杯で使えないって事・・・

・・・で、早速、
「八重洲岸八町の地を馬場に相定め(約872mの土地を馬場にして)、後先の境に違土居を築立よ(両端に食い違いに交差する堤防を築け)
と、無理難題・・・

馬場の場所を確保する事はともかく、堤防は・・・大量の土を運んで、それを堤防として形勢して、そこに芝生を植え・・・と、とても短期間で簡単にできる物ではありません。

命じられた普請奉行が途方に暮れる中、知恵伊豆登場・・・

まずは、大量の籠(かご)をかき集めて、それを堤のような形に整え(材木を台形に組んだ物を使用したとも)、そこに芝生を植えて、見事、期日までに注文通りの馬場を完成・・・家光は、無事、その馬場で、曲乗りをご覧あそばしたのだそうです。

さらに、信綱さんのスゴイところは、これらの事を、ただ単に上司の無理難題に、ごますり的に対応しているのではなく、その事業を行う時には、必ず、同僚や部下が働きやすい環境作りもセットで行っていたという事なのです。

そりゃ、そうです。

ただ単に、ご機嫌取りのため、家光の無理な注文に信綱が答えているだけなら、その指示を受ける同僚や部下も、「なんで、お前の出世のために、俺ら動かなアカンねん!」と不満ムンムンとなるところですが、それを思わせない、見事な采配を揮っていたという事のようなのです。

奥村保之なる人物が記した『事語継志録(じごけいしろく)によれば・・・
「何事も今日の事ばかりあらず、遠き慮(おもんばか)りをなしたまう」
目先の事ばかりを考えず、遠い先の事を見据える・・・

まぁ、味方の記した文献なんで、丸呑みはアレですが、
本日は信綱さんが主役なので、とりあえず褒めておきましょう( ̄▽ ̄)

それにしても、やはり・・・
長期政権を保つためには、このような方が必要なのでは?

どこかに、いませんかねぇ~平成の知恵伊豆・・・
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2010年3月15日 (月)

村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘

 

慶長五年(1600年)3月15日、高崎城下・烏川原にて、天道流・村上天流と馬庭天流・樋口定次による決闘が行われました。

・・・・・・・・・・・・・

時は戦国・・・まさに剣豪と呼ばれる武芸者たちの華やかなりし頃。

そう、慶長五年(1600年)と言えば、その年の9月に起こるのが、あの関ヶ原の合戦(関ヶ原の年表>>)・・・関ヶ原で態勢をつかんだ徳川家康が、その後の大坂冬&夏の陣(大坂の陣の年表>>)でトドメを刺してからは、はっきり言って、新参入の剣豪の出番なんて無きに等しい状態ですから、まさにこの頃がピークと言える時代です。

・・・で、剣豪と言えば、全国各地に武者修行の旅に出かけ、あちこちで立ち合いを行い・・・ってイメージが強いです。

もちろん、それは、全国各地の「強い」と評判の武芸者と試合する事によって、自分自身の腕を磨くのと同時に、その試合に勝って名誉を得る事・・・

しかし、当然の事ながら、名誉だけでは喰ってはいけないわけで、本来の目標は、その名誉を下敷きにして、どこかのとある場所で道場を開き、多くの弟子を抱えて、自身の流派を広めていく事・・・

そして、さらに、その上には、自分の、そして、弟子たちの活躍によって、その流派自体が「強い」との評判を受け、どこかしらの大名に仕官するという最大の目標があるわけです。

・・・で、当時、上野(群馬県)高崎(高崎市)城下にあったのが天道流道場・・・その道場主は常陸国(茨城県)出身の村上権左衛門こと村上天流(てんりゅう)と名乗っていた武芸者で、あの塚原卜伝(ぼくでん・卜傳(2月11日参照>>)の弟子の斉藤伝鬼(でんき・伝鬼坊・伝鬼房)新当流天道流を学んだとされていますが、その実力は不明です。

そんな彼が、この高崎に来たのは、慶長三年(1598年)の事・・・実は、この高崎は、その年に箕輪から移って来た井伊直政「高崎」と名付けたばかりの新興の町

いたる所で建築ラッシュに湧く新しい城下町は、そこかしこに活気が満ち溢れ、何かで一旗挙げようと意気込む人々も、続々と集まってきます。

天流も、その中の1人・・・もちろん、最終目標は井伊家への仕官ですが、同じ上野には、そんな天流のライバルと言える人物がいたのです。

それが、樋口又七郎定次(さだつぐ)・・・彼は、友松氏宗偽庵(うじむねぎあん)から念流(ねんりゅう)印可(いんか・師匠が弟子に与える許可)を受けて、故郷の上野馬庭村(まにわ・多野郡吉井町)で道場を開いており、その地名から馬庭念流(まにわねんりゅう)と呼ばれて、すっかり定着していました。

当時、評判の道場には、武士だけでなく、農民や町民までもが入門し、大勢の弟子たちで活気に溢れていたのです。

そう、道場を開くだけならともかく、井伊家への仕官となると、どうにもこうにも、この評判の人物が、天流にとっては、目の上のタンコブなワケで・・・。

その評判を打ち砕くには、なんとか他流試合に持ち込んで、その定次を倒す以外にありませんから、まずは、天流は門弟たちを使って、馬庭念流の悪口言いまくり作戦に出ます。

「馬庭念流なんか田舎兵法やで!」
「や~い、や~い、樋口肥桶(こえおけ)剣法」
(↑小学生か!)
と罵って、定次を挑発します。

しかし、大もとの念流自身が他流試合を禁止していますから、当然、定次が、そんな挑発に乗るわけもなく・・・

しかし、この悪口言いまくり作戦は、その後二年も続けられ、とうとう、門弟たちが我慢の限界に来てしまいます。

中には、自ら破門を申し出て、天流道場に斬り込もうという者まで現れ、その事を知った定次は、「弟子たちの暴走を食い止めるためには・・・」と、自らが、天流の挑戦を受ける事にしたのです。

この時、定次は、日頃から信仰している山名村(高崎市)八幡宮に、三日三晩に渡って参籠し、最後の夜に、「北向きの不動尊の御神木で木剣を作れ」という神のお告げを授かり、その通りに作った剣で御神木前の大石を打ち砕いたと言われ、その石は、今も「福石」「太刀割石(たちわりいし)と呼ばれて、その山名八幡宮に存在するのだとか・・・って、定次さん、けっこう本気ですやん!

かくして慶長五年(1600年)3月15日、村上天流と樋口定次は、高崎城下の烏川原(からすがわら)で立ち合う事となったのです。

ところが、勝負は始まってすぐに、もう、見えました。

「このままでは勝てぬ!!」
と思った天流は、長刀(なぎなた)に仕込んだ飛び出し剣一振り!!!

ギリギリかわした定次は、すかさず木剣を、天流の額めがけて打ち下ろします。

この一撃を、なんとか自らの木剣で受け止めた天流でしたが、力足りず、そのまま、自らの剣と、そこに十文字に合わさった定次の剣が、見事、天流の額を十文字に割り、その場で絶命してしまったのです。

つまり、今日は、天流さんのご命日でもあるわけです・・・って、このままでは、どう考えても天流さんがお気の毒です。

アホまるだしの悪口作戦を2年間も続ける事と言い、ケンカを売っといてアッサリと負けてしまうところと言い、まるで馬庭念流の惹き立て役のようです。

そう、実は、天流に関してのこれらの逸話は、ほとんど勝者である定次側の記録・・・負けた天流は、定次に挑んだ相手としての登場なので、どうしても、そうなってしまうのです。

確かに、定次自身は、他流試合をしてしまった事で、道場を弟に譲って引退し、その後、旅の途中に殺害されたという不幸な最期になったと言われていますが、このような剣豪の逸話は、やはり講談での語りが多く、結局は、勧善懲悪のヒーロー物語としてもてはやされる事になり、相手役は、どうしても仇役=悪役というキャラ設定になってしまいます。

流派自体は、どちらも、その伝統が、今もなお、若き剣士たちに受け継がれているのですから、おそらくは、勝った定次さんと同様に、天流さんも、並々ならぬスゴ腕の剣豪であったでしょうに・・・

いつしか、その強き武芸者ぶりが垣間見える逸話に出会いたいと願ってやまない今日この頃です。

定次さんについては、またいつか、定次さんを主役としたページを書かせていただくつもりなのですが、本日は、せっかく、天流さんを中心に書こうと思ったので、もう少しカッコ良くしたかったんですがねぇ・・・・(*≧ε≦*)
 
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2010年3月14日 (日)

東大寺・二月堂にまつわる奈良の昔話~良弁杉

 

今日は、3月14日・・・奈良東大寺・二月堂のお水取り(3月12日参照>>)、そのおたいまつも、いよいよ最終日です。

・・・という事で、本日は、その東大寺二月堂にまつわる、奈良の昔話をご紹介します。

・‥…━━━☆

昔、昔・・・
あるお母さんが、赤ん坊を連れて畑仕事に出ました。

「ここで遊んどきや」
と言って、太鼓や笛を持たせて、田んぼの端で遊ばしなから、田の草を刈っておりました。

ところが、田んぼの中ほどまで草を刈って、ふと見ると、赤ん坊の姿がありません。

「今まで、おったのに・・・」
と、慌ててあたりを探します。

あちこち走りまわっても、いっこうに見当たらず、途方に暮れて、ふと、東の空を見上げると、トンビが何やら黒い物をくわえて、向うに飛んでいくのが見えました。

そうです。
赤ん坊は、トンビにさらわれてしまったのです。

トンビは、田んぼを越え、畑を越え、山の向うまで飛んで行ってしまいました。

一方、その翌朝・・・東大寺・二月堂のお坊さんが、朝起きると・・・

「ウェ~ン、ウェ~ン」
と、 どこからともなく、子供の泣き声が聞こえます。

「どこや?」
と、思って、あたりを見回してみると、二月堂の前にある大きな杉の木のてっぺんに、赤ん坊がいるではありませんか!

そう、あのトンビが、さらってきた赤ん坊を二月堂の前の杉の木に、ちょこんと落していっていたのです。

お坊さんは、さっそく杉の木に登って、赤ん坊を降ろし・・・

「よしよし、大丈夫やったか?これも何かの縁やなぁ」
と言って、その赤ん坊を育てる事にしました。

やがて、その赤ん坊は、たいへん賢い小坊主に育ち、それから後も、たくさんの修行をして良弁という立派なお坊さんになりました。

・‥…━━━☆

このお話に出てくる良弁(ろうべん)という人は、持統三年(689年)に生まれて宝亀四年(774年)に死没したといわれている華厳宗(けごんしゅう)の僧で、通称・金鐘行者(こんしゅぎょうじゃ)と呼ばれた実在の人物です。

天平五年(733年)に羂索院(けんさくいん)を建立して仏像を造り金鐘寺(こんしゅじ)と称しました。

かの聖武天皇が良弁に帰依事から、天平十四年(742年)には、その金鐘寺が大和国分寺に指定されます・・・これが、現在の東大寺です。

つまり、良弁さんは、東大寺の初代の別当(べっとう・寺務を司る人)という事になります。

晩年には、僧正という高い位を授かっていますので、とんびが運んだかどうかはともかく、立派なお坊さんになられた事は間違いありません。

ちなみに、この良弁さんがちょこんと乗っかっていた杉が、あの二月堂の前にある大きな杉・・・現在も、この杉は良弁杉と呼ばれます。

2gatudouroubensugi600 二月堂と良弁杉

さらにさらに・・・
気になるアノ事・・・

伝説では、立派に成長した後、無事、お母さんと再会できた事になっていますので、くれぐれもご安心を・・・
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2010年3月12日 (金)

オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は?

 

先日、チョコッと「酢屋」の事を書かせていただいた木屋町(そのページはコチラから>>)のまち歩きのページなのですが、それを作っている途中、ふと、同日に撮影した桂小五郎像の事が気になりまして・・・

Dscn9413800

この銅像はけっこう有名なので、ご存知のかたも多いと思いますが、長州藩邸の跡地に建つ京都ホテル・オークラ・・・その縁から、ホテルの前には桂小五郎像が鎮座するわけですが、気になるのは、この桂小五郎像の目線・・・

Kogorouzouup 正面から見るとこんな感じなのですが、どう考えても目線が合いません。

体はやや左に向き、顔はやや右を向き、目線はその先のほうを見ている・・・

 

 
 

Katurakogorou22

 おそらく、この銅像のモデルとなったのは、若かりし頃の桂さんの、たぶん一番カッコイイと思われる(私見入ってます(゚ー゚;この写真→なのでしょうが、銅像の顔も体も正面に向けなかったその意図は・・・

って事になると、おそらくその真相は、作者である京都在住の彫刻家・江里敏明氏にお伺いするしかないのでありましょうが、その件についてオモシロイ話があるので、本日は、そのお話をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

このオークラ前の桂さん・・・

もとになったとおぼしき写真もそうですが、右手には刀をしっかりと持ち、左手は何やら太ももを握りしめたような雰囲気・・・とても凛々しく、どこかを見つめて、何やらデカイ事を考えていそうです。

実は、現在は洛北・岩倉にある妙満寺(みょうまんじ)というお寺・・・紀州の道成寺の鐘がある事でも有名なこの妙満寺ですが、このお寺は、昭和四十三年(1968年)までは、京都市役所の北側にあったのです。

京都市役所は、京都在住の方はご存知のように、ホテル・オークラから河原町通を挟んで西隣にあり、その妙満寺が建っていたところは、今も、市役所の一部のようになって、自転車置き場のように使用されています。

そして、かの小五郎像は、オークラ前と言っても、その西側に建っていて、もちろん、顔も西を向いています。

そう、
この桂小五郎の銅像は、かの妙満寺を見つめているのではないか?
と、都市伝説のように語られてしるのです。

時は幕末・安政五年(1858年)・・・ペリーの重圧の押されて開国をしてしまった幕府大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を京都に派遣して、開国に反対する尊王攘夷派の一掃を命じます。

世に言う安政の大獄です(10月7日参照>>)

この時、京都に入った間部は、かの妙満寺を宿舎として、国学者の長野主膳(しゅぜん)らに命じて、攘夷派志士を大量に逮捕・・・つまり、ここ妙満寺が安政の大獄の本拠地となったわけです。

当時は、藩主の名代として京都留守居役をこなしていた小五郎・・・おそらくは、藩邸と目と鼻の先の、この場所で行なわれた同志たちの苦悩が痛く心に突き刺さっていたに違いありません。

やがて安政の大獄を実施した井伊は、桜田門で水戸浪士に暗殺され(3月3日参照>>)、いつしか政情は逆転・・・朝廷内も尊攘派が実権を握り、幕府の公武合体派をしのぐ勢いを持ちはじめます。

そんな時、長州は、仕返しとばかりに、かの妙満寺を本陣とし、孝明天皇による2度の攘夷祈願(加茂神社と石清水八幡宮)を実現しました。

そして、とうとう、天皇自ら大和(奈良)へ行幸し、攘夷決行の旗揚げをするという強硬手段のダンドリも準備しますが、その計画が練られたのも、本陣とした妙満寺と長州藩邸・・・お寺と藩邸には、こんな深い関係があったんですね~。

ただ、ご存知のように、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)によって、かの孝明天皇の行幸も実現ならず、逆に長州は窮地に立たされる事となり、かの小五郎も「逃げの小五郎」とあだ名(5月26日参照>>)されるほど、その身の置き所がなくなるわけですが・・・

・・・と、これらの一連の出来事を見てみると、あの桂小五郎像が見つめているのは、元・妙満寺のあった場所」なんて、まことしやかに囁かれるのもわからないではありません。

歴史好きとしては、ロマンをかき立てられる一件です。

追記:できあがった本家・ホームページの幕末目線での散策コース【木屋町・祇園~ねねの道・幕末篇】も見てネ>>
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2010年3月11日 (木)

内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに天目山にて自害・・・戦国の世に武勇を誇った武田氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・・・・

天目山での戦いのくわしくは、2012年の3月11日【天目山…武田勝頼の最期】>>でご覧いただくとして、本日は、その時、勝頼と運命をともにした正室・桂林院殿を中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

彼女が、親子ほど年の離れた武田勝頼(かつより)のもとに嫁いできたのは天正五年(1577年)・・・わずか14歳の時でした。

Houzyoufuzincc 彼女の父親は相模国(神奈川県)を支配する北条氏の第3代当主・北条氏康(うじやす)・・・その名前が伝わっていない彼女は、この父親の関係から北条夫人、あるいは小田原御前などと呼ばれます。

ちなみに、冒頭に書かせていただいた桂林院殿というのは法号で、おそらく生存中は、そう呼ばれた事はなかったかと思いますので、本日は北条夫人と呼ばせていただきます。

そんな彼女・・・結婚相手の勝頼さんは、すでに32歳で、先妻との間に生まれた息子もすでに11歳となっていて、どちらかというと息子との結婚が似合いそうなお年頃だったわけですが、この結婚の2年前にあったのが、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・

実際には、一進一退の攻防戦だった可能性が高いですが、終った後の印象としては、やはり多くの重臣を失った武田が手痛い敗北を喰らってしまった感の拭えない戦いでした。

現に、その後、織田信長徳川家康は勢力を拡大しつつある・・・そこで、その家康をけん制するために、勝頼は、北条と同盟を結ぶ決意をし、その証しとしての政略結婚の相手が北条夫人だったわけです。

父・信玄以来の重臣の高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)も、
「この結婚で、勝頼さんは氏政(氏康の息子で第4代・北条当主)さんの妹婿・・・ここ3年ほど心配でたまらんかったけど、やっと安心して眠れるわ~」
と、大喜びするくらい、この結婚は、周囲に望まれた結婚でした。

2ヶ月後には、春の盛りの諏訪大社下社の落慶供養に家族で出かけ、ひとときの新婚生活を味わった二人でしたが、暗い影は、もう、すぐそこに迫っていたのです。

結婚からわずか1年後、あの越後(新潟県)上杉謙信が急死してしまいます(3月13日参照>>)

その後継者争いとして勃発したのが、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)・・・その後継者というのが、子供のいない謙信の養子として迎えられていた謙信の甥の上杉景勝(かげかつ)と、同盟の証しとして北条氏から養子に入っていた上杉景虎(かげとら)です。

その北条から養子に入った景虎という人が、先代・氏康の息子・・・つまり北条夫人の10歳年上の兄だったわけですから、当然の事ながら、勝頼ははじめ、この景虎を応援する立場をとっていました。

しかし、拠点である春日山城を占拠した景勝側は、そこにある巨額の軍資金に物を言わせての再三の交渉・・・やがて、勝頼は、自らの妹・菊姫と景勝との結婚を承諾し、同盟を結んでしまいます。

約1年間のスッタモンダの末、御館の乱は、景勝の勝利に終わり、景虎は自害・・・当然、北条と武田の同盟関係は崩れ落ち、いや、むしろ敵同士となってしまったわけです。

自分の夫と兄が戦闘状態に・・・と、ここで、戦国の世のならいとは言え、その立場が危うい事になる北条夫人ですが、実は、勝頼さん、夫人に実家に戻るように勧めています。

しかし、ここで、キッパリとそれを断ったのは彼女のほう・・・わずかな年月ではあるものの、すでに武田の女として生きる決意を固めていたという事でしょうか。

しかし、その2年後の天正九年(1581年)3月、勝頼は、隣国との要所であった高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)家康に奪われてしまいます(3月22日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この高天神城は、勝頼の誇りであり、武田の勢いを裏付けるシンボル的な存在でした。

しかし、その城を落とされた事によって、勝頼にも、そして武田の家臣たちの中にも動揺が走り、この頃から、武田に見切りをつけて寝返る者が多くなってきます。

そんなムードを払拭すべく、その年の12月には、新しく建築した新符城(しんぷじょう・山梨県韮崎市)に家族&家臣とともに移り住む勝頼・・・。

金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、城郭を造らなかった信玄から脱皮するような甲斐(山梨県)初の本格的な城郭でしたが、その引越しからわずか1ヶ月後の正月、信濃福島城主の木曽義昌が寝返ります。

この寝返りは、武田方に大きな痛手となります。

なんせ、この義昌の奥さんは、勝頼の妹・真理姫(真龍院)・・・それこそ、戦国の世のならいとは言え、「身内まで寝返るか!」というショックを、周囲に与えてしまった事は拭えません。

ここに来て、さらに離反は後を絶たなくなります。

そんな時、北条夫人は、その揺るぎない心を見せつけてくれます。

現在、山梨県にある武田八幡宮には、その年の2月19日の日づけで、北条夫人が夫・勝頼の武運を祈って捧げた自筆の願文が残っています。

Houzyoufuzinbuncc 北条夫人の願文(武田八幡宮蔵)

逆臣(義昌の事)の討伐に向かった夫の勝利と、相次ぐ離反をストップさせてくださいという願いとともに
「夫同様、私も悲しい・・・涙がとめどなく流れています」
と、切々と訴えています。

武田の菩提寺である恵林(えりん)快川(かいせん)和尚は、北条夫人の事を『芝蘭(しらん)に例えて、
「気高く慈愛に満ち、知らず知らずのうちにいつの間にか周囲の人を良い方向へと導いていく人」
と、その人となりを絶賛しています。

芝蘭とは、中国の孔子が発した一節で、蘭はフジバカマの事で、芝は霊之(れいし)という老木の根っこに寄生する菌によって何とも言えぬ香りを放つ、芳香剤として珍重される、あのレイシの事・・・つまり、目に見えない力を内に秘めているという事を言いたいのでしょう。

そうです。
「私は泣いています」
と、可憐で、か弱い言葉を発しながら、決して揺るがない信念のもと、勝頼とともに生きる・・・そこには、だた弱いだけの女の姿は見えてきません。

ところが、結局、この願文から半月もたたない3月3日、引っ越したばかりで、未だ準備の整わない新符城では、織田&徳川勢を防ぎきれないと判断した勝頼は、真新しい城に火を放って、重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼って、彼の岩殿城へと向かいます。

しかし、この城に近づいたところで・・・なんと、勝頼らに向かって矢が放たれます。

そう、すでに信茂も寝返っていたのです。

しかも、この状況を知った者は、一行の中からも、どんどん離反・・・いつしか、女子供を含めた50人くらいの団体になってしまった勝頼は、死に場所を求めて天目山へと向かいます。

この山麓の田野(たの・山梨県甲州市)という場所で、別れの宴会を催した勝頼は、この席で、またしても北条夫人に実家に帰るように説得しました。

この時、彼女はまだ、19歳・・・来年の大河の主役のお江さんを見てもわかるように(6月19日参照>>)、その状況でどんどん相手を代えていくのが政略結婚というもので、それが戦国の世のならいでもあり、男子とは別の形で、お家のために命を賭ける彼女たちの誇りでもあります。

しかし、
「手を取り合って三途の川を渡りましょう・・・そして、(生まれ変わって)もう一度会いましょう」
と、やはり、彼女の決意は固かった・・・。

ここで逃げていたら、おそらくは無事に脱出できた可能性は充分あったはず・・・ですが、

彼女は、ここまで従っていた者が一列に並ぶ中
「立派に自害した事を、しっかりと小田原に伝えてほしい」
と、黒髪を一筋、辞世に添えて渡しています。

♪黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒 ♪

この時、彼女の介錯の役を命じられていた土屋惣造(つちやそうぞう)という者が、そのあまりの美しさに身動きできずにいると、それを察した北条夫人は、自らの懐から懐剣を取り出し、それを口に含んで前面に倒れこんだと言います。

天正十年(1582年)3月11日・・・駆け寄った勝頼の胸で、彼女は静かに旅立ちました。

土深く秘めたる思い・・・そこはかとなく漂う目に見えぬ信念は、勝頼とともに散る事を選び、再び地中の奥深く眠りにつく事となりました。

・・・が、しかし、生まれ変わったあかつきには、その願い通り、また、勝頼さんと結婚する事ができたに違いありません。

いや、そうであってほしい・・・゚゚(´O`)°゚
 
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2010年3月10日 (水)

祝!平城遷都1300年=なんと大きな平城京

 

和銅三年(710年)3月10日、2年前に出された時の天皇・元明天皇の詔により、平城京に遷都されました。

・・・・・・・・・・・・

(なん)10(と)大きな平城京!

そうです!この2010年、平城遷都1300年に湧く奈良ですが、1300年前のまさに今日、平城京への遷都が行われたのです。

100年に一度のこの日・・・平城京を書かずして何を書く!

・・・と、はりきってはみたものの、これまでも、

などなど、おりに触れて書かせていただいて、今や何を書いてて何をまだ書いてないのかも危ういところではありますが、平城宮跡をはじめ、日々発掘される新発見によって、今現在も歴史が塗り替えられる出来事があるのが平城京です。

たとえば、昨年の暮に発表された【天平人の忘れ物】>>なんていう、謎が謎呼ぶ興味津々な発見もありました。

そんな中、現在の平城宮遺跡の呼び物の一つである、現地に復元された朱雀門・・・

現在の朱雀門は、平成十年(1998年)に復元された物で、絵図に残る平安京の朱雀門や法隆寺の中門を参考重層(2階建て)構造が採用されていますが、ここに来て、「単層(1階建て)であった可能性が高い」との見解が出てきています。

Dscn2273800jpg Suzakumons2cc
想像してみました

  現地の復元朱雀門(左)と勝手な想像図(右)

上記の通り、もはや記録に残らない以上、同時期で現存する建物や、後世の同じ名を持つ建物をヒントに想像するしかないわけですが、最も重要な史料となるのは、やはり現地の遺構・・・

そう、実は、現地に、この朱雀門の解体時に組んだ足場の跡が残っているのだそうです。

この穴の位置から推測すると、基壇(門の下の石造りの部分)の階段の長さが、現在復元されている物よりも短く、基壇の高さも復元の半分以下の75cmくらいであろうと想像でき、そうなると、その小さな基壇に重層で大きな朱雀門は不釣合いとなり、「この高さなら、単層がふさわしいであろう」という見解なわけです。

・・・とは言え、重層が単層だったとしても、その魅力にはなんら変わりなく、むしろ最新の研究のすばらしさに驚くばかりですが、アマチュア歴史好きの私としては、最近の教科書には、「平城京=へいじょうきょう」ではなく、「平城京=へいぜいきょう」とふり仮名がうたれているらしい事にも驚いてしまう世代です。

かくして、藤原不比等の思惑がらみながらも、春日山平城山生駒山に囲まれ、中国の四神相応の地(四神相応については【平安京誕生】>>で見てね)にぴったしカンカン絶好のロケーションでもあるこの奈良盆地に、和銅三年(710年)3月10日平城京が誕生したのです。

元明天皇の(みことのり)から、わずか2年・・・この期間に、工事が行われたと推定すると、のべ100万人、1日3000人の労力、木材は約30万㎡(現在の平均的住宅:2万4千戸ぶん)、瓦は数百万枚が必要だったと計算されているそうで、かなり大掛りな一大プロジェクトが短期間で行われた事がうかがえます。

さらに、驚くのは、ここに平城京が建設される以前には、少なくとも二つの古墳が存在していた事が現在の調査で明らかになっていますが、そのうちの一つ・市庭古墳は、前方後円墳だったのを、前方部分を切り取って円墳に・・・

もう一つの神明野古墳などは、跡形もなく破壊されて、その上に建設されているのです。

科学が発達した平成の世の中でさえ墳墓の上に都市を建設する事は避けたい気持ちですが、それこそ、前都の影を払拭したい新権力者の意図に基づいているのかも知れません。

ただ、以前も書かせていただいたように、平城京の華やかさとはうらはらに、建設工事にかりだされた一般の人達はたいへんだったみたいです。

何日もかかる都までの食料は自分で用意しなければならず、着いた先では、食料は出るものの、連日朝から夕方まで休みなしで建設作業に従事し、逃げ出した者は1日につき鞭で30回ずつ叩かれたうえ現場に引き戻されたそうです。

賃金は和同開珎で支払われたそうですが、そんなお金は都でしか通用しなかったため、遠い地方から来た人などは、地元へ帰るまでの食料が確保できずに、飢え死にしたり、過労で倒れたりした人がたくさんいたらしいです。

現在のように、一大プロジェクトが、そのまま一般庶民を潤すわけではない時代(今でも怪しいのもありますが( ̄◆ ̄;)・・・多くの人の努力のうえに、一大事業が成った事を心に持ちつつ、平城遷都1300年を祝おうではありませんか!
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2010年3月 9日 (火)

「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?

 

安政三年(1856年)3月9日、長崎下田などの開港地で、「絵踏み」が廃止されました。

・・・・・・・・・・・・・

織田信長の優遇(4月8日参照>>)から一転、豊臣秀吉の時代にご禁制(6月19日参照>>)となったキリスト教は、政権が徳川に代わろうとも何度も禁止令が出されつつ(12月23日参照>>)、やがて勃発した江戸幕府を震撼させる、あの島原の乱(2月28日参照>>)へと続き、ご存知のように、キリスト教を捨てる事ができない人々は、徐々に厳しくなる取締りに対抗すべく、隠れキリシタンとなっていきます。

そんな隠れキリシタンを見つけ出すために、江戸時代を通じて行われたのが絵踏み制度・・・キリシタンにとって敬うべき相手のキリスト像やマリア像が描かれた踏み絵」というお札のような物を踏ませるというアレです。

Fumiesa 絵踏み:シーボルト著「日本」より

しかし、江戸も幕末になって開国へと向かうと、当然の事ながらキリスト教を禁止したままではいかなくなって来ます。

未だ外国人宣教師が多くいた秀吉の時代に、彼らが犠牲になった(2月5日参照>>)事を見てもわかるように、このキリシタン禁止令は基本、外国人にも適用されますし、第一、彼らが信じてやまない宗教を邪教と認定していては、うまくいく交渉も、うまくいかなくなります。

いずれは大きな国際問題に発展するのは明白・・・そこで、出島のオランダ館の館長・ドンケル・クルチウスが長崎奉行の川村対馬守らに「絵踏み」の廃止を提案

かくして、安政三年(1856年)3月9日長崎や下田などの開港地で、「踏み絵」による「絵踏み」が廃止されたのです。

・・・とは言え、ペリーの後にやってくるハリスとの交渉の会議でも、踏み絵について話し合われた事が記録されていますので、長崎などでは比較的迅速に廃止になったものの、それが全国に伝わるまでにはしばらくの時間を要したようです。

規制の厳しかった津和野藩では、明治四年(1871年)に、マツという女性に絵踏みを強要し、彼女が断固拒否したという記録が残っていて、現在のところ、これが日本で最後の踏み絵の記録という事になっています。

その2年後の明治六年(1873年)の2月24日・・・新政府の太政官布告で、キリシタン禁制が廃止されて、やっとこさ正式に、弾圧の歴史に幕を閉じたのです。

そののち、横浜や神戸に次々と教会が建てられ、やがて明治二十二年(1889年)の大日本帝国憲法の発布によって信仰の自由が保証されるようになりました。

ところで、この絵踏みに使われていた踏み絵は、その後、いったいどうなったのか???

Fumiecc   踏み絵:東京国立博物館蔵→

幕府が把握している以外に、どのくらいの一般人が所持していたかどうかまではわかりませんが、絵踏みを実施していたのは幕府なので、その幕府の持っていた踏み絵というのは、それ以外のキリシタン関連の史料とともに、そのまま長崎県が引き取って管理する事になりました。

やがて、明治七年(1874年)に教部省に送られ、その後、事務的な移動にともなって内務省博物館へ・・・

さらに、その後、この博物館の管轄がコロコロ移動した事によって、管理する官庁も転々としますが、昭和二十二年(1947年)、この博物館が、文部省管轄の東京国立博物館となった事で、ようやく安住の地を得たのです。

踏むに踏めずに散っていた人々・・・

とりあえず踏んでおいて、あとから懺悔して許しを乞う人々・・・

様々な人々の様々な様子を真下から見てきた踏み絵は、今はもう、宗教の自由の旗の下、その役目を終え、東京国立博物館彫刻室の地下倉庫の片隅で、長い眠りにつきました。

もう、2度と呼び起こされる事もないでしょうが、それが踏み絵に描かれたマリア様にとって、一番うれしい事に違いありません。
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2010年3月 8日 (月)

島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼

 

天正十五年(1587年)3月8日、島津軍の攻撃で鶴崎城を奪われた吉岡妙林尼が、再び城を奪回しました。

・・・・・・・・・・

天正十四年(1586年)12月12日に島津からの総攻撃を受けた鶴崎城(大分県)の後日談です。

これまでのお話は、昨年の12月12日に書かせていただいた【島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼】>>を見ていただくとありがたいのですが、とりあえず、サラッとあらすじを・・・

時は天正十三年(1585年)・・・薩摩(鹿児島県西部)を支配する島津義久は、九州全土にその勢力を拡大すべく北上・・・10月に入って、たまりかねた隣国・豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)は、四国を平定したばかりの羽柴(豊臣)秀吉救援を依頼します(4月6日参照>>)

もとより、天下統一を狙う秀吉にとって、この救援依頼は渡りに船・・・早速、九州平定を目指して出兵し、一方の宗麟も、本拠地の臼木(うすき)配下の諸将を召集し、守備を固めます。

しかし、大友の領地内には、臼木城以外にも多くの支城があり、島津勢はその支城を次々と落としながら進軍・・・やがて、11月に鶴崎城を包囲するわけですが、先に書いた通り、城主の吉岡紀増(のります・統増)は、力部隊を連れて、主君の臼木城に出張中

やむなく、留守を預かる紀増の母(祖母とも)吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)自らが、女子供と百姓兵を率いて迎え撃つ事となりますが、彼女に見事な采配で、島津勢は何度となく苦渋を味わいます。

しかしながら、鶴崎城は城とは言えど未だ屋敷に毛が生えた程度の小さな城・・・大軍に包囲された以上、待てど暮らせど秀吉の援軍が到着しない状況では、籠城するのにも限りありという事で、妙林尼は全員の命の保証を条件に城を明け渡したのです。

・‥…━━━☆

島津勢を率いる伊集院久宣(いじゅういんひさのり)野村文綱(のむらふみつな)白浜重政(しらはましげまさ)らは、すでに多くの犠牲者を出している事もあって、すんなりとこの和睦を了解し、妙林尼には城下の一角に屋敷を与えて幽閉し、威風堂々と鶴崎城へと入城しました。

ところが、敗戦の将であるはずの妙林尼・・・意外にも、その屋敷で囚われ人とは思えない生活をします。

さすがに、彼女は負けたのですから、与えられた屋敷から自由に出歩く事などはできませんが、逆に、彼らを呼ぶ事はできます。

そう、何かにつけて妙林尼は伊集院らを自らの屋敷に呼んで、美しく着飾った侍女たちに相手をさせて、飲めや唄えの大宴会を催すのです。

ともに飲んでは、酔いにまかせて一緒に今様をデュエット!

求められれば、こっけいな踊りも披露し、徐々に両者はうち解けていきます。

やがて、ほのかな友情まで芽生えてくる始末・・・

前回のページにも書かせていただいたように、この妙林尼さん・・・史料が少なく、しかも文献によって城主・紀増の母となっていたり、祖母となっていたり、まちまちなので、その年齢がはっきりしません

城主の紀増さんが、この頃は、未だ10代後半か20歳過ぎくらいの若者だったと考えられていますので、妙林尼さんが母だとすれば30歳過ぎ・・・祖母だとすれば50歳過ぎくらいであろうと思われますから、両者に生まれた友情のような物も、母なら、まさに恋であるでしょうし、祖母なら、母子のそれに似ているという展開になっていきます。

とにかく、「お互い、なぜ、今まで敵味方であったのだろう」と思うくらい仲良くなってしまいます。

しかし、明けて天正十五年(1587年)・・・「いよいよ、もう、まもなくの所に、秀吉の援軍が駆けつけ、ほどなく島津勢への攻撃をしかけるであろう」という情報が、鶴崎城にも舞い込んできます。

それは、島津本隊からの知らせで、「新しい作戦、新しい編制に態勢を整えるため、一旦、本隊へと合流せよ」との命令でもあったため、伊集院らは、鶴崎城をあとにし、一旦、撤退する事となりました。

ここで、妙林尼は、伊集院らに言います。

「ここまで、あなたたちと親しくなってしまったわたくしは、もう、吉岡には戻れませぬ・・・ぜひとも、ご一緒に、島津の陣までお連れください」と・・・

伊集院たちは小躍りして大喜び・・・やれ馬を用意しろ!」「いや、輿だ!」と、大騒ぎに・・・

かくして天正十五年(1587年)3月8日
「とにもかくにも、出立のお祝いとして、まずは、宴の席を・・・」
と、またまたお得意の酒盛りを催し、しこたまお酒を振舞います。

そして、「あと片付けを済ませたら合流いたしますので、今、しばしのお別れを・・・」と、彼らを見送り、別れを惜しむ妙林尼でしたが、ここで、かねてから手はずを整えていた伏兵を、彼らの行く手にしのばせておいたのです。

そう、実は、先日の城の明け渡しは、秀吉の援軍が、未だ到着の気配がなかったための時間稼ぎ・・・このまま、全員が討死か飢え死にするのであれば、そこで一旦、城を明け渡し、時期を見計らって奪い返そうという作戦だったのです。

やがて、予想以上に酒を飲まされ、千鳥足の島津勢が、乙津(おとづ)に差し掛かった頃、付近に潜んでいた吉岡軍が一斉に襲撃します。

すっかりと気を許していた島津兵は、抵抗する間もなく、あれよあれよと・・・伊集院と白浜は討ち取られてしまいました。

野村だけは、深手を負いつつも何とか命からがら・・・

しかし、指揮者を失った島津勢は、大混乱におちいり、乙津川で溺れ死ぬ者、討たれる者多数・・・何とか助かった者も、ただ、ひたすら、薩摩を目指して逃走する以外にありませんでした。

こうして、再び、島津から鶴崎城を奪い返した妙林尼・・・翌日、この日、討ち取った63の首級を、宗麟のいる臼木城に送り届けたと言います。

もちろん、主君の宗麟は、「尼の身でありながら、アッパレな忠節!」と、彼女の武功を大絶賛し、息子(あるいは孫)の紀増も大感激!

一説には、現在も大分市鶴崎地区に伝わる盆踊り・鶴崎踊は、この時の妙林尼たちの酒宴での踊りを再現したもの・・・という言い伝えもあるのだとか・・・

ただ・・・後に、島津を完璧に屈服させた秀吉が、「ぜひとも、その勇猛な彼女に恩賞を与えたい」と面会を望みましたが、彼女は、固辞し続け、決して、秀吉には会わなかったと言います。

ひょっとしたら、島津の誰かさんとの間に芽生えていたほのかな恋・・・あるいは友情は、ホンモノだったのかも・・・

戦国の世に咲き、男をしのぐ強さを見せた一輪の花は、本当は、もっとひっそりと咲いていたかったのかも知れません。
 

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2010年3月 6日 (土)

歴史上屈指!無敵の将軍・立見尚文

 

明治四十年(1907年)3月6日、幕末の桑名藩出身で、明治新政府の陸軍大将として活躍した立見尚文が63歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

みなさんは、「無敵の将軍」と聞くと、歴史上の誰を思い浮かべますか?

戦国なら・・・
上杉謙信?武田信玄?織田信長?豊臣秀吉?徳川家康?
もっと前だと源義経?さらに坂上田村麻呂?

しかし、いずれも若い時に1度や2度は負け戦を経験していたり、謙信と信玄などは、勝ったんだか負けたんだかわからない泥沼に突入してますし、義経に至っては最後の最後に敗戦となってしまっています。

ところが、ここに、多くの歴史専門家が名を挙げる・・・つまり、知る人ぞ知る不敗の名将がいるのです。

それが、本日の主役・・・幕末から明治に活躍した立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)です。

弘化二年(1845年)、伊勢(三重県)桑名藩士・町田伝太夫の子として江戸藩邸に生まれた尚文は、少年期から江戸の昌平坂(しょうへいざか)学問所で学びます。

やがて安政六年(1859年)、幼い藩主候補に代わって桑名藩を継ぐべく美濃(岐阜県)高須藩から婿養子にやってきた松平定敬(さだあき)(7月12日参照>>)が藩主の座につくと、その小姓として仕えます。

元治元年(1864年)に、その定敬が京都所司代に任命されると、尚文は、藩の周旋方(しゅうせんかた・交渉役)となり、その関係から薩摩藩の西郷隆盛大久保利通との交流も深まり、多感な尚文も、このあたりで大いに見聞を広めた事でしょう。

その後、幕府陸軍に出向して、フランス式の兵学を学びますが、この時、彼を教えたフランス人教官が「ナポレオン時代のフランスに生まれていたら、彼は、30歳になるまでに将軍になっていただろう」と言ったなんて逸話も残っているくらいなので、やはり、尋常じゃない何かを秘めていたんでしょうね。

やがて勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に敗れた徳川慶喜(よしのぶ)が自ら謹慎の姿勢に入っても、尚文は抗戦を訴え、桑名藩の飛び地のあった越後(新潟県)柏崎に向かいます。

そう、北越戊辰戦争です(4月25日参照>>)

この時、すでに新政府軍の物となっていた朝日山を奪回すべく長岡城を出陣した長岡藩家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)を支援すべく駆けつけた桑名藩の精鋭・雷神隊を率いていたのが、誰あろう尚文です。

あの鳥羽伏見以来、ほとんど無傷で北上して来た新政府軍に手痛い敗北を食らわした朝日山争奪戦(5月13日参照>>)、奇兵隊出身の時山直八(ときやまなおはち)を討ち取ったのは、彼ら雷神隊だったのです。

同じ奇兵隊出身で、当時、総督府下参謀だった山県有朋(やまがたありとも)が、この先の明治の世となった後も、尚文の昇進をことごとく邪魔するのは、この朝日山での敗北と時山の死が、尾を引いていたのでは?と言われるくらい、新政府にとってはショッキングな敗北だったわけです。

そうです・・・冒頭に、尚文さんの事を「知る人ぞ知る」・・・つまり、一般的にはあまり知られていないと書かせていただきましたが、それは、上記の通り、彼が、負け組の幕府側の人だからなのです。

「もし、彼が、勝ち組の薩摩か長州の人だったら、おそらく西郷さんをしのぐ有名人になっていただろう」と考える立見ファンも少なくないのですよ。

・・・とは言え、やがて会津藩庄内藩も降伏してしまうと、当然の事ながら、尚文も降伏するしかありません。

しばらくの謹慎生活を送った後、やがて司法省に出仕して下級判事などを務めていた彼を、時代が再び表舞台へと押し上げます。

各地で起こり始めた士族の叛乱です。

それまで、負けた賊軍の出身者として冷たくあしらわれていた尚文でしたが、ご存知のように、士族の叛乱とは・・・
佐賀の乱(2月26日参照>>)=佐賀
神風連の乱(10月24日参照>>)=熊本
秋月の乱(10月27日参照>>)=福岡
萩の乱(10月28日参照>>)=山口
そして、最終かつ最大な・・・
西南戦争(1月30日参照>>)=鹿児島
へと向かうわけですが・・・

見ての通り、官軍の中でも薩長土肥(さっちょうどひ)と称された雄藩のうち三つも・・・こうなったら、「朝敵だ!」「賊軍だ!」なんて言ってられません。

あの西郷相手に戦うのですから、とにかく、腕のある者を抜擢しなければ・・・

なりふり構わぬ明治政府の要望で、尚文は、陸軍へと呼び戻され、西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮し、大いに活躍します。

さらに日清戦争でも、陸軍少将として歩兵第10旅団を指揮して統率力を発揮した尚文でしたが、何と言っても、彼の名声を最高潮に押し上げたのが日露戦争(2月10日参照>>)でした。

日露戦争の山場の一つでもある奉天(ほうてん)会戦(3月10日参照>>)・・・その1ヶ月半前の1月25日に、日本軍の最西端を守る秋山好古(よしふる)率いる支隊に、攻撃を仕掛けて来たロシア軍・・・

最西端で守りが手薄という事もあり、当日は大量の積雪があった事もあり、たちまちのうちに危機的状態となる秋山隊・・・

黒溝台(こっこうだい)会戦と呼ばれるこの戦いで、「即座に秋山隊を救援せよ!」との命を受けた尚文は、第8師団(弘前)を率いて出立しますが、なんせ、多勢に無勢・・・2万程度の支隊と援軍だけでは、とてもじゃないが、9万のロシア軍に対抗できず、黒溝台も奪われ、第8師団自身も窮地に陥ります。

ところが、そんなこんなの1月28日夜・・・
尚文は、師団の総力を挙げて夜襲を決行します。

前代未聞の2万人の夜襲です。

明けて29日の朝・・・見事に黒溝台を奪回したのです。

ここで、ロシア軍は、未だ充分戦える状況であるにも関わらず撤退を開始します。

この撤退に関しては、黒溝台を奪回されたから・・・というのではなく、単にロシア側が撤退命令を出しただけだとも言われていますが、その理由については、未だ不明・・・

ただ、尚文とともに戦った弘前の兵士たちの間には、「立見がいたから、ロシアは戦いを避けたのだ」と、長く語られていたのだそうです。

翌年、賊軍出身であるにも関わらず、陸軍大将にまで上りつめた尚文・・・しかし、その翌年の明治四十年(1907年)3月6日63歳で永眠します。

63歳で死去・・・という事は、その2年前の日露戦争の時は61歳・・・

その年齢にも関わらず、極寒の大地で、常に先頭に立って指揮をとっていたという尚文・・・故郷に戻った弘前の兵士が、彼の勇姿を長く語り継いだのも、わかるような気がしますね。
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2010年3月 5日 (金)

日本初は世界初?初めてのスチュワーデス物語

 

昭和六年(1931年)3月5日、東京航空輸送が、2月5日に実施した日本初のエアガール採用試験の結果を発表した事で、本日、3月5日は『スチュワーデスの日』という記念日なのだそうです。

ちなみに合格者は140人中、たった3人だったそうです。

・・・・・・・・・・

日本航空の一件も記憶に新しい航空業界ですが、当時、エアガールと呼ばれた彼女たちの事が表舞台に登場するのは、昭和六年(1931年)が明けてまもなくの頃・・・

  • エアガール求む:
    東京、下田間の定期航空旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。
    希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町飛行館4階へ

という内容の募集広告が新聞に掲載されたのだそうです。

東京航空輸送社による、初めてのスチュワーデスの募集でした。

それまで、立川の軍用飛行場の一部を借りて営業していた民間飛行機が、羽田の東京飛行場完成にともない、この先を見据えた大々的な募集となったようですが、2月5日に行われた試験では、面接試験まで行われたようで、やはり「容姿端麗」というのは原則のようですね。

応募者の大部分が官公私立高女在学中で、中には女子大生もいたという事なので、花形職業という点でも今と変わりないのかも知れません。

Toukyouhikouzyou330 昭和六年当時の東京飛行場(東京空港整備事務所・蔵)

もともと、その前年の昭和五年(1930年)に、アメリカボーイング社8人の女性乗務員を採用したのが、スチュワーデスの元祖とされていますが、この時の募集要項では、「年齢:25歳以下、体重:50kg以下、身長:162cm以下」となっており、やはりここでも容姿差別か???と思いきや、これは、単に、飛行機が小型なので、なるべく小さい、体重の軽い人を採用しようとした結果のようです。

ただし、アメリカのスチュワーデス募集には、上記以外で、最優先の条件が・・・

それは、「看護婦資格を持っている事」・・・

実は、あまり機密性がよくない当時の飛行機では、機内は嘔吐・失神の嵐・・・

今なら、一気に飛んでいくサンフランシスコ⇔シカゴ間で、13回も離陸&着陸をくりかえして飛行し、その間に機内の時計のゼンマイをまいたり、到着後には、飛行機を格納庫押し込む仕事も彼女らの仕事だったのだとか・・・

つまり、ボーイング社が募集したスチュワーデスは、今、スチュワーデスと聞いて思い描く仕事とは、ちょっと違う職種の彼女たちだったのです。

そう、実は、現在のようなスチュワーデス・・・これは、昭和六年(1931年)3月5日に採用された、日本の彼女たちが、世界初という事になるわけです。

欧米が、彼女たちのようなサービス重視の乗務員を採用するのは、半年~1年後と言いますから、日本人の商魂はなかなかのものですね。

ちなみに、今回採用された彼女たちは、4月1日から実際に勤務する事になりますが、あまりにも狭い機内での作業と、それにともなわない給料設定だったため、4月29日には全員がやめてしまったそうです。

なんせ、この頃の女性の平均月給が28円くらいだった中、彼女たちが4月の1ヶ月間働いた月給がわずか16円~17円・・・今だと時給:400円???これではお気の毒です。

やむなく、東京航空輸送社は、給料を大幅アップして、再びエアガールを募集する事となります。

ところで、本日が『スチュワーデスの日』という記念日なので、冒頭がら「スチュワーデス」と書かせていただいておりますが、ご存知のように、このスチュワーデスという呼び方は、もう一つのエアガールとともに、現在では使用されていません。
(もちろん、容姿端麗もいけません(゚ー゚;

今では、客室乗務員、あるいはキャビンアテンダント(Cabin Attendant)=CAと呼ばれていますが、これは、男女雇用均等法に伴い、男女の区別のない呼び方に・・・という事なのでしょうが、実は、エアガールもスチュワーデスもキャビンアテンダントも、欧米では使われていない呼び方なのです。

欧米(英語圏)では、フライトアテンダント(Flight Attendant)もしくは、キャビンクルー(Cabin Crew)というのが一般的・・・。

考えて見れば、最初の呼び方であるエアガールの時点で、ボーイングの看護婦寄りとは異なり、未だ世界には存在しない新しい職業だったわけですから、日本人がオリジナルな名称をつけて呼んでも良いわけで、今もオリジナルな呼び方をするのは、その名残り・・・いや、世界初という誇りなのかも知れませんね。
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2010年3月 4日 (木)

戦国武将と茶の湯の流行

 

元亀二年(1571年)3月4日、織田信長が京の町衆を集めて東福寺で茶会を開きました。

・・・という事で、本日は、戦国武将と茶の湯について、少し書かせていただきます。

・・・・・・・・・

すでに、このブログでも書かせていただいております通り、お茶という物は、鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)というお坊さんが、中国から持ち帰ったのが、最初というのが定番となっておりますが(2006年10月31日参照>>)、一方では、あの奈良時代の僧・行基(ぎょうき)(2月2日参照>>)が飲んだという伝説も伝わっているのだとか・・・

静岡県にある法明寺というお寺のご本尊は、その行基が彫ったとの話なのですが、その仏様を彫っている最中、何とも言えぬ睡魔に襲われた行基さん・・・「アカン!もう、寝てまう~」っと思ったとき、近くにいたおばあさんが、何かを煎じた物を持ってきます

それを一口飲むと、あら不思議・・・またたく間に目がさえて意識もはっきり!!

おかげで、行基は、その仏像を完成させる事ができたのですが、そのおばあさんが持ってきた物が、静岡に自生していたお茶だった・・・との事。

まぁ、あくまで伝説なので、アレですが、それがお茶でなかったとしても、同じような効果のある葉っぱを煎じて飲むという事は、昔からあったのかも知れません。

とにもかくにも、栄西さんが持ち帰ったお茶は、禅寺の僧の間で、目覚まし&覚醒の薬として伝えられていく事になるのですが、そんなお茶の一大転換期が、室町時代のはじめ=南北朝時代に大流行した闘茶です。

これは、お茶を飲んで、その産地を当てるという物で(くわしくは2008年10月31日参照>>)、要するに賭け事なわけですが、それまでは薬として飲まれていたお茶が、金銭がらみとは言え、飲むことを楽しむという風に変わった瞬間でした。

また、以前は貴族や権力のある武将など、一部の人だけの楽しみだったお茶が、徐々に庶民の間にも広まっていったのも、この頃からのようです。

京都東寺には、応永十年(1403年)と言いますから、南北朝も合一された第3代・足利義満の時代の記録という事になりますが、道覚(どうかく)という人が、東寺の門前で茶店を開く事を願い出て、許可されたという話が残っているのだそうです。

参拝に来る人相手に、一服いくらでお茶を出すお店・・・これが、商売として成り立つという事は、すでに、皆が手軽に飲んでいたという事ですからね。

・・・とは言え、このような庶民が気軽に飲むお茶と、もう一つ、別ルートでお茶が発展し、それが、茶道という文化芸術の域に達して大流行するという事も、ご存知の通りです。

禅の精神と融合し、それまでの高級な中国製の茶道具をやめ、同じ中国製でも、粗末な器に侘びさびの境地を追求する、いわゆる茶の湯の創始者として有名なのは村田珠光(しゅこう)という人物・・・

その後、その弟子の武野紹鷗(たけのじょうおう)の手によって発展し(10月29日参照>>)、さらに、あの千利休によって完成されるわけですが、そんな茶の湯は、まずは、堺の商人の間で流行し、その後、戦国武将の間で大流行します。

茶の湯に限らず、ものが流行する要因という物は、今も昔も様々にあるわけですが、あえて、代表的な理由をあげてみると、この茶の湯の場合は3つの要因が考えられます。

まず、一つめは、純粋に癒し・・・

あの豊臣秀吉「茶の湯は慰(なぐさ)みにて候」と言っているように、ホッとするし、落ち着くし・・・これは、現在でも、午後のティータイムなんて、大いに共感できるところでもあります。

二つ目は、ステータス・・・

戦国武将として、中国の歴史書や兵法を学ぶのは当たり前・・・でも、これはお互いの戦術を披露する事にもなるので、たとえ、その知識を自慢したくても、あまり相手に手の内を見せるわけにはいかない・・・

そこで、教養の高さを示すのに用いられたのが歌・連歌のうまさだったわけですが、それとともに、この茶の湯も、教養の高さ、センスの良さを自慢できるアイテムとなったわけです。

特に、戦国後半に多く登場する出自の怪しい武将にとっては、公家や都人に対するコンプレックスを跳ね除けるためにも、必要不可欠となります。

そして、最も重要な三つ目は、社交性・・・

多くの場合、茶会の後には、2次会とも言える酒盛りがセットになっているうえ、その合間には、囲碁や将棋が行われたりもしましたから、とにかく、そにに参加した武将同士が仲良く交流する事ができる。

しかも、同じ茶碗を回し飲みする茶の湯は、それだけで、連帯感が生まれる物ですし、その後の飲み会となると、親密感もハンパないわけです。

今は、そうでもなくなりましたが、少し前の一時期、ゴルフがサラリーマンのステータスとなった事を思い返しても、まさにピッタリ・・・

爽やかな風吹くグリーンを、ともに廻って癒され、一緒にお風呂に入って汗を流して連帯感を養い、その後の飲み会でグンと盛り上がる・・・しかも、ちょっぴり高級感のあるところまでそっくりです。

ただ・・・趣味に没頭するとなると、高価な道具が欲しくなるのも人の常・・・

それまで、鷹狩などの動的な趣味が中心だった織田信長などは、「天下を握る者が天下の名器を持つもの」とばかりに、近畿はもちろん、全国から、名器狩りとも言えるほどの凄まじさで「いい仕事」の品を集めました。

まぁ、もちろん、これは、単に欲しかったというよりは、「俺は、これを手に入れる事ができるんだゾ!」という周囲へのアピールでもあったわけで、こっちは、どちらかというと、ポルシェに乗ってる若社長ってな感じでしょうか。

私としてはカウンタックがイイです( ̄▽ ̄)タイガーマスクが乗ってたので・・・

茶の湯については【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】もどうぞ>>
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2010年3月 3日 (水)

赤報隊・相楽総三 諏訪に散る2

 

慶応四年(1869年)3月3日、新政府軍により「ニセ官軍」と発表されていた赤報隊の相楽総三が下諏訪にて処刑されました。

・・・・・・・・・・

赤報隊(せきほうたい)相楽総三(さがらそうぞう)については、すでに3年前の今日・【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る】(2007年3月3日参照>>)と題して書かせていただきました。

その時に、個人的に相楽さんに抱くイメージとしては、「1月に花咲いて3月に散った真っ赤な落ち椿のようだ」と、真紅の落ち椿のイラストも書かせていただきましたが、そのイメージは今も変りません。

今回は、以前のそのページと内容かぶってますが、まだブログ1年めの初心者だった頃に書ききれなかった相楽さん本人の事を中心に、前回のそのページと合わせて見ていただければ幸いです。

・‥…━━━☆

天保十年(1839年)に江戸赤坂の郷士・小島兵馬(ひょうま)の四男として生まれた相楽総三は、本名を小島四郎左衛門将満(まさみつ)と言い、当時は小島四郎と呼ばれていました。

小島家は、もともと下総(しもうさ・千葉県)相馬郡椚木(くぬぎ)新田の豪農で、父の兵馬が江戸へ出て旗本相手の金貸し業を営み、かなりの富を得ていたようです。

裕福な家に育った総三は、やはり幼い頃から高等な教育を受けていたとみえ、20歳の頃には、すでに100人の門弟相手に、国学や兵学を論じていたと言いますから大したもんです。

やがて文久元年(1861年)の23歳の頃から、尊王攘夷運動に参加するようになり、父から5000両という大金を得て、慷慨隊(こがいたい)なる浪士&農民中心の私費隊を結成して旗揚げするものの、この蜂起は失敗し、しばらくは実家でおとなしく・・・この時期は尊王攘夷運動からも撤退します。

次に活発に動き始めるのは、慶応二年(1866年)・・・

当時、拠点を京都に移していた総三は、西郷隆盛と知り合う事となり、その下で薩邸浪士隊を結成して総裁となり、例の幕府に対する様々なテロ行為(12月25日参照>>)に暗躍する事となります。

本人が相楽総三と名乗りはじめるのもこの頃です。

そして慶応四年(1869年)正月3日の勃発した鳥羽伏見の戦いに勝利し(1月5日参照>>)、官軍となった薩長軍・・・総督府附属という形で、その鋒となって東征する役割を荷うため、1月8日に結成されたのが赤報隊です。

以前も書かせていただいたように、この時に総三の提案した「年貢を半減させる」という公約が採用され、総三率いる1番隊は、東山道を東へ進み、2月6日には信濃(長野県)下諏訪(しもすわ)まで達し、道々で「年貢が半分になる」の高札を掲げて鳴り物入りで進軍し、新政府軍に民衆の心を惹きつける事に成功しています。

もともと、この赤報隊は、先鋒と言えど、敵軍と真っ向から戦う先鋒ではなく、官軍の嚮導隊(きょうどうたい)・・・つまり、次に本隊がすんなり通れるための道案内というか地ならしというか、とにかく、これから本隊が進む道筋の民衆に「官軍スゴイ」「新政府・期待大」のイメージを植えつける事にあるのですから、彼らの使命は、100%成功とも言える、見事な物だったわけです。

ところが、総三らが未だ進軍中の1月29日、突如として新政府は『年貢半減令』を取り消し、赤報隊に京都へ戻るよう指示します。

2007年にも書かせていただいたように、すでに豪商から高額の資金提供を受けている新政府にとって、「年貢半減」なんて公約は、はなから果たせるはずがなかったのです。

かくして、未だ近くにいて速やかに連絡を受けた2番隊&3番隊は、すぐに京都に戻るのですが、最前線まで進んでいた総三の1番隊には、連絡が遅れたと・・・。

しかし、2月9日に諏訪にて連絡を受けた総三が、翌・10日に、まずは単独で帰還しようと隊を離れたところ、もう、14日には討伐軍が襲撃するという手際の良さには、何やらうさん臭さを感じずにはいられません。

そう、この1番隊の撤退の遅れが、新政府に口実を与えてしまったのです。

「1番隊は、総督府の統制から離れて命令に従わず、単独行動している」・・・つまり「ニセ官軍である」と・・・

事情が呑みこめていない総三は、一旦、隊に戻り、動揺する隊士たちに、「落ち着いて(総督府からの)知らせを待とう」と呼びかけます。

やがて3月1日、新政府は「相楽率いる1番隊を正規の薩摩軍に附属させるので・・・」という文書で総三を誘い出し、その言葉を信じてやってきた彼を、その場で逮捕!

そして、何の説明もしないまま、慶応四年(1869年)3月3日、官軍参謀の進藤帯刀によって相楽総三は斬首され、その首はさらし首となりました。

最後に、自らの処分を聞いた総三は、何一つ弁明するでもなく、命惜しさに騒ぐでもなく、黙って、その処分を受けたと言います。

彼の汚名が晴らされるのは、その死から60年後の昭和三年(1928年)・・・正五位が授けられ、維新という大事を成すための犠牲となった事が、やっと認められたのです。
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2010年3月 2日 (火)

鬼界ヶ島に1人ぼっち~俊寛の悲しい最期

 

治承三年(1179年)3月2日、2年前に発覚した鹿ヶ谷の陰謀で流罪となっていた俊寛が、流刑先の鬼界ヶ島にて、その生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

「おごる平家を打倒せん!」と、法勝寺の執行・俊寛(しゅんかん)法師鹿ヶ谷(ししがたに)山荘にて集会を開いたメンバーは、後に日本一の大天狗の異名をとる後白河法皇に、藤原氏の復権を願う大納言・藤原成親(なりちか)成経(なりつね)の父子、平家ながらも主役になりきれない平康頼(やすより)、先の平治の乱で亡くなった信西の乳母の子・西光・・・

治承元年(1177年)6月1日に発覚したこの事件を鹿ヶ谷の陰謀と言いますが、そのくわしい経緯は5月29日のページ>>で見ていただくとして、このメンバーの中で、後白河法皇のみが助かり、主犯格とみなされた成親・西光は斬られ、残った俊寛・成経・康頼の3名が、発覚から2日後の6月3日、鬼界ヶ島(きかいがしま)への流罪となりました。

この鬼界ヶ島については、現在の鹿児島県の、硫黄島だとも喜界島とも言われ、その喜界島には俊寛のお墓なる物もある一方で、密かに脱出したという説もあり、真偽入り乱れておりますが、本日のところは『平家物語』に沿ってお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

人もまばらで耕す田もなく、島の中央の高い山には常に硫黄が充満しているので硫黄ヶ島とも呼ばれるこの鬼界ヶ島に流された3名・・・そこで粗末な小屋を建て、木の芽を摘み、海岸で貝を拾っては食糧とし、いつか都に戻れる日を夢見ながら、励ましあって暮らしてしましたが、やがて流刑から1年後、その島に船が現れ、大赦の文面が読み上げられます。

「このたび中宮の安産祈願のため大赦が行われる。
少尉成経、康頼法師の2名は赦免となり都に帰るつもりでしたくをせよ」

中宮とは、高倉天皇の中宮・・・つまり、平清盛の娘・徳子の事で、彼女が妊娠し、その安産祈願のため、重罪を許すという事です。

あわてて、その文書を見せてもらい、自分の目で確かめる俊寛・・・何度読み直しても、その文面の中に、自分の名前がありません。

「包み紙に書いてあるのか?」と、包み紙を見ても、やはり3名のうち2名の名前しかありません。

そう言えば、他の二人のところには、都から安否を気遣う手紙も来ていたけれど、俊寛のところには一度も来た事がありません。

「もはや縁者もいなくなったのか」と嘆きつつ、「3人は同じ罪のはずやのに、なんで僕だけ・・・書記が書き間違えたんと違いますのん?」と使者に詰め寄っても、もう、どうしようもありませんでした。

俊寛は、成経にすがりついて・・・
「だいたい、お前のオヤジがツマラン謀反を企てるから、こないな事になったんやさかい、他人事やと思とったらアカンで。
なぁ、都までとは言わんさかいに、せめて九州まで連れてってくれへんか」

と頼みますが、
「そうしたいのはやまやまですけど、3人ともが島からおらんようなった事がわかったら、もっとエラい事になるかも知れませんがな。
僕が都に戻ったあかつきには、清盛はんのご機嫌とって、なんとか俊寛さんも戻れるようにしますさかいに、これまで通り、希望を持って待っといて下さい」
と・・・。

『さるほどに 纜(ともづな)解いて船出ださんとしければ 僧都(そうづ)船に乗りては下(お)りつ、下りては乗つつ、あらまし事をぞし給いける』
いかにも、一緒に連れて行ってほしそうに、船に乗っては下り、下りては乗る俊寛をよそに、綱を解いた船を沖へと押し出します。

船を追って腰まで海に浸かり、胸まで浸かり、やがて背丈が立たなくなって、船にすがりつき、「見捨てないで~~」と叫ぶ俊寛の手を使者が払いのけ、とうとう船は出て行きます。

俊寛は、しかたなく岸にあがって・・・
『幼き者の乳母(めのと)や母を慕うように足摺りをして(じだんだを踏んで)、「これ乗せて行け、これ具して(連れて)行け」とて、をめき叫べども・・・』
空しく、白波が立つだけでした。

やがて、船は見えなくなり、日が暮れても、俊寛は小屋へは戻らず、その足を波に濡らすにまかせ、呆然と立ったまま・・・その夜は、そこで明かしてしまうほどでした。

しかし、成経の「待っといてください」の言葉にわずかな希望を持って、俊寛は生きる事にします。

そして1年後・・・再び、この島を訪れる者がありました。

俊寛のもとで下働きをしていた有王という者で、幼い頃から俊寛が可愛がっていた少年でした。

彼は、大赦があるという話を聞いて、船が到着する鳥羽まで出向いていったものの、俊寛の姿は見当たらず、聞けば、「誰かわからんけど、1人だけ残されたらしいでぇ」との噂・・・何とか情報を得られないものかと、六波羅あたりをウロウロしますが、何の情報も得られない事から、いてもたってもいられず、俊寛に会いに行く決意をしたのでした。

今は人目を忍んでいる俊寛の娘に会い、彼女の手紙をたずさえて・・・摂津(大阪)から長い長い船旅の末、やっと薩摩(さつま)に到着した後、再び船に乗り、追いはぎに衣服をはぎとられながらも、娘の手紙だけは、髪を束ねた中に入れて隠し、こうして、何とか鬼界ヶ島にたどりついたのです。

しかし、いざ、島へ来てみても、俊寛がどこにいるのかもわかりません。

やっと人を見つけて
「ここに、都から流されてきた俊寛という人はいませんか?」
とたずねますが、誰も答えられません。

やっとの事で、得た情報も、
「そう言や、そんな人が、時々、このへんをフラフラしてるけど、今はどこにいるんだか」
てな、頼りないもの・・・

有王は、しかたなく、「高いところに行けば、何か発見できるかも」と山に登ってみますが、何もなく、やがて海岸に下りて、再びあてもなく歩く・・・こうして何日かが過ぎたある朝、磯のほうから、蜻蛉(かげろう)のように痩せ衰えた者が、よろよろと歩いて来ます。

もとは法師だったらしく、髪が逆立って空に伸び、針ネズミのように伸びた毛先には、海草やら雑草やらがからみついて、まるで荊(いばら)をかぶっているよう・・・。

痩せて関節は露出し、もはや着ている物も絹なのか木綿なのかも見分けがつかず、片手に海草を持ち、片手には漁師から貰った魚を持ち、どこかへ行こうと歩いてはいるものの、おぼつかず、なかなか前へと進めません。

「さすがに、これほどみすぼらしい人は、都でも見た事がない」と思う有王でしたが、その人物こそ、捜し求めていた俊寛でした。

「ここに有王が参っております!多くの困難を乗り越え、やっとここまで・・・」

あまりの事に俊寛は、その場で倒れるほどでしたが、少し落ち着いてから、その後は、積もる話に我も忘れるほどでした。

「昨年、二人が戻った時も、その前も、その後も、手紙一つけぇへんのは、誰も何も、僕の事は言ってはくれへんのかい?」
と、聞く俊寛に、もはや身内はすべて処刑されてしまった事、わずかに生き残っていた幼い息子が天然痘で亡くなり、そのショックで妻も亡くなり、今は、娘が1人だけ・・・その娘の手紙をなんとか持ってきた事を告げる有王・・・

娘の手紙には
「有王とともにお帰りください」と・・・

そして、俊寛は、誰に言うでもなく、独り言のように話しはじめます。

「こうして、恥をしのんで生きていたのも、もう一度、妻子に会いたいを思えばこそ・・・今となっては、娘だけが気がかりやけれど、もう12歳、何とか悲しみながらも生きていけるやろ。このうえ、生きながらえて、辛い姿を見せるほうが、情け知らずというもんや!」

その日から、食を断った俊寛・・・ただひたすら阿弥陀の名号を唱え、死に臨んで心乱れる事なく、祈りとともに・・・

やがて有王が島に来てから23日めの治承三年(1179年)3月2日小さな小屋の中、やせ衰えた姿で息をひきとりました。

享年37歳・・・

そのそばで、泣きたいだけ泣いた有王・・・しばらくして、はたと立ち上がり、きりりと、何かを決意したようなそぶりを見せたかと思うと、小屋を壊して遺体の上に覆いかぶせ、さらに、近くの小枝を集めて火を放ちました。

「このままお供すべきところではありますが、残された姫君の行く末をお守りするため、もうしばらくお待ちくださいませ」

焼けた中から骨を拾い集めて布にくるみ、商人の船に乗せてもらって再び本土へと立ち戻った有王は、急ぎ娘のもとへと行き、一部始終を話して聞かせました。

ほどなかく、娘は尼となり、奈良の法華寺へ・・・

一方の有王は、主人の遺骨を胸に、高野山へと入り、法師となって全国行脚をしながら、俊寛の菩提を弔ったという事です。
 

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2010年3月 1日 (月)

建て直し不可能?水野忠邦の天保の改革

 

天保五年(1834年)3月1日、水野忠邦が老中に就任しました。

・・・・・・・・・

水野忠邦(みずのただくに)は、肥前国(佐賀県)唐津藩主・水野忠光(ただあきら)の次男として寛政六年(1794年)に江戸藩邸で生まれました。

後を継ぐはずだった兄が亡くなり、世継ぎとなった忠邦が文化四年(1807年)、父の死去にともない家督を継いで、奏者番(そうじゃばん・城中の儀式の管理)という役職についた時は未だ19歳・・・この奏者番は、このあと大坂城代老中へと進んでいくエリートコースの出発点となっている事もあって、彼もまた夢多き若者であった事でしょう。

ところがドッコイ・・・唐津藩には、代々、隣接する長崎の警固という重要な任務が与えられていて、唐津藩主である彼は、たとえ奏者番になっても、その上への出世は望めない事がわかります。

何とか、中央政府に躍り出て腕を振るいたい忠邦・・・「なんも唐津にこだわる事ないやん!」とばかりに、同じ石高:6万石の浜松への転勤を打診します。

なんせ、浜松は岡崎城と並んで、神君・家康公のお膝元で、出世城とも噂されるほど、そこ出身の幕閣が多い事でも知られていました。

しかし、肥沃な田地に恵まれていた唐津は、登録されている石高は6万石でも、実質的には20万石の収入があったと言われ、浜松への移転は大幅な収入減となるため、反対者も多くいたのですが、そんな事おかまいなしに、当時、御用人をしていた同族の水野忠成(ただあきら)猛アピール!!

なんせ、実質20万石が表向き6万石なのですから、使える袖の下はいくらでもあったのです。

やがて文化十四年((1817年)、アピールし続けた甲斐あって、浜松への転封に成功・・・その後も、忠成らに接待攻勢&ワイロ攻勢で運動し続け、文政八年(1825年)には大坂城代、その翌年には京都所司代、さらに文政十一年(1828年)には西の丸老中へと大出世しますが、この間に使った接待費は2千両以上になったとか・・・。

かくして、その6年後の天保五年(1834年)3月1日、41歳にして、見事、念願の本丸老中の座を獲得したのです。

その5年後の天保十年(1839年)には、老中首座となって、とうとう幕閣のトップとなった忠邦・・・しかし、この時、将軍はすでに第12代・徳川家慶(いえよし)となっていましたが、その父で先代の家斉(いえなり)が、未だ西の丸で睨みをきかせていて、忠邦の思うようにはいきませんでした。

いわゆる大御所政治と呼ばれる時代です。

以前も書かせていただいたようにこの家宣さん・・・側室40人に子供55人という徳川将軍一の記録を持つ人(1月7日参照>>)

それが、悪いというわけではありませんが、何となく、細かい事にこだわらない雰囲気が漂わないでもありません。

家斉の大御所政治は、その通りの放漫財政・・・商人の経済活動が活発になって都市中心の庶民の暮らしも賑やかになりましたが、その反面、無宿者や博徒が横行し、治安の悪さも最高潮に達していました。

そこに来て天保三年頃からの大凶作=天保の大飢饉です。

各地で打ち壊しが起こる一方で、一部の豪商が米を買占め、値段の高騰を計るも、幕府は何の対策をするでもなく、逆に、地方の米を江戸に送ったりなんか・・・そこで、勃発したのが、天保八年(1837年)の大坂町奉行・元与力による叛乱=大塩平八郎の乱です(2月19日参照>>)

この元幕府側の人間の叛乱は、全国に波紋を呼び、幕府を震撼させました。

やがて訪れた天保十二年(1841年)5月15日、かの家斉の死を受けて、いよいよ忠邦が改革に乗り出します・・・世に言う天保の改革です。

まずは、家斉の寵臣と呼ばれていた取り巻きの排除です。

若年寄林忠英御側御用取次水野忠篤新番頭格美濃部茂育(もちはる)の3人を「三佞人(ねいじん)と称してクビにし、その後も、彼ら同様のワイロ&接待政治を悪として、自分の事は棚に上げっぱなしで、クリーンな政治に取り組みます。

内の改革が終った後、いよいよ一般庶民への改革がはじまります。

この年の5月23日付けで関東の農村に発布された「奢侈(しゃし)禁止令」と、10月15日付けで江戸の出された「奢侈を禁止する町触」=要するに倹約令です。

べっ甲や金銀をあしらった豪華な装飾品はもちろんの事、華美な着物なども禁止・・・贅沢な食事もダメなら高級なお菓子もダメ・・・町奉行所の中には市中取締掛なる機関まで新設したのですから、忠邦もかなりの本気モード!

ところが、ここで登場するのが、本来その任務を遂行すべきはずの北町奉行・・・ご存知・遊び人の金さんこと遠山景元(かげもと)、そして同じく南町奉行矢部定謙(さだのり)

彼らは、実際に町で人々を取り締まる立場にあって「本当に華美な生活や贅沢が腐敗や治安悪化の根源となっているんだろうか?」という疑問にぶち当たり、「町の賑わいを消してしまっては、善政とはいえないのでは?」といった感じの意見書を忠邦に提出します。

結局は却下されてしまう、この意見書ですが、このお話が、あの時代劇のヒーロー・遠山の金さんを産んだとも言える逸話です。

しかも、忠邦がその器を見込んで、わざわざ長崎奉行から勘定奉行に大抜擢した田口喜行(よしゆき)が就任からわずか1ヶ月後に、長崎でのワイロまみれの政治が暴露されて失脚しちゃうし・・・(なんか、似たような話、今も聞くなぁ( ̄○ ̄;)!

その後も、都市の浄化と農村復興のために故郷へのUターンを強制する「人返し法」は不評、株仲間が物価を上げているとして株仲間を解散させれは物流機能がマヒしてしまい、かえって物価高に・・・やることなすこと裏目に出ます。

そして、決定打は、「上知令(あげちれい・土地没収)・・・これは、幕府の直轄地を江戸10里四方と大坂4里四方に集中させようとしたものですが、当然のごとく、大名や旗本の猛反対で、すぐに撤回され、結局は、忠邦の立場が孤立するという結果だけが残り、天保十四年(1843年)の9月に万事休す・・・御役御免となりました。

それにしても、江戸三大改革と言われる暴れん坊吉宗享保の改革(6月18日参照>>)松平定信寛政の改革(6月19日参照>>)、そして今回の天保の改革・・・

その後の歴史を知ってる私たちから見れば、「よくも、まぁ、毎度毎度失敗するにも関わらず、よく似た倹約令ばっか出して、経済を低迷させたもんだ!」と思ってしまいますが、今回の忠邦さんだって、夢にまで見た幕政の舞台で、おそらく、真剣に考えて、真剣に政治を行ったに違いなかったはず・・・

そう、実は、これは江戸幕府がどうしても譲れなかった農業主義という原則・・・すでに、貨幣経済と商業資本主義の発展を止める事ができないにも関わらず、未だその体制を変えない幕府自身が、崩れかけた幕藩体制に拍車をかけて、もはや、夢多き老中の手腕を発揮しても、どうしようもないところへ来てしまっていたのかも知れません。

結局、この体制から抜け出そうと、いちはやく下級の武士からの人材登用をはかって藩政改革に乗り出した薩摩藩長州藩などの雄藩が独自の力を持つ事になり、世は、まさに、幕末へと突入していくのです。
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