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2010年3月 2日 (火)

鬼界ヶ島に1人ぼっち~俊寛の悲しい最期

 

治承三年(1179年)3月2日、2年前に発覚した鹿ヶ谷の陰謀で流罪となっていた俊寛が、流刑先の鬼界ヶ島にて、その生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

「おごる平家を打倒せん!」と、法勝寺の執行・俊寛(しゅんかん)法師鹿ヶ谷(ししがたに)山荘にて集会を開いたメンバーは、後に日本一の大天狗の異名をとる後白河法皇に、藤原氏の復権を願う大納言・藤原成親(なりちか)成経(なりつね)の父子、平家ながらも主役になりきれない平康頼(やすより)、先の平治の乱で亡くなった信西の乳母の子・西光・・・

治承元年(1177年)6月1日に発覚したこの事件を鹿ヶ谷の陰謀と言いますが、そのくわしい経緯は5月29日のページ>>で見ていただくとして、このメンバーの中で、後白河法皇のみが助かり、主犯格とみなされた成親・西光は斬られ、残った俊寛・成経・康頼の3名が、発覚から2日後の6月3日、鬼界ヶ島(きかいがしま)への流罪となりました。

この鬼界ヶ島については、現在の鹿児島県の、硫黄島だとも喜界島とも言われ、その喜界島には俊寛のお墓なる物もある一方で、密かに脱出したという説もあり、真偽入り乱れておりますが、本日のところは『平家物語』に沿ってお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

人もまばらで耕す田もなく、島の中央の高い山には常に硫黄が充満しているので硫黄ヶ島とも呼ばれるこの鬼界ヶ島に流された3名・・・そこで粗末な小屋を建て、木の芽を摘み、海岸で貝を拾っては食糧とし、いつか都に戻れる日を夢見ながら、励ましあって暮らしてしましたが、やがて流刑から1年後、その島に船が現れ、大赦の文面が読み上げられます。

「このたび中宮の安産祈願のため大赦が行われる。
少尉成経、康頼法師の2名は赦免となり都に帰るつもりでしたくをせよ」

中宮とは、高倉天皇の中宮・・・つまり、平清盛の娘・徳子の事で、彼女が妊娠し、その安産祈願のため、重罪を許すという事です。

あわてて、その文書を見せてもらい、自分の目で確かめる俊寛・・・何度読み直しても、その文面の中に、自分の名前がありません。

「包み紙に書いてあるのか?」と、包み紙を見ても、やはり3名のうち2名の名前しかありません。

そう言えば、他の二人のところには、都から安否を気遣う手紙も来ていたけれど、俊寛のところには一度も来た事がありません。

「もはや縁者もいなくなったのか」と嘆きつつ、「3人は同じ罪のはずやのに、なんで僕だけ・・・書記が書き間違えたんと違いますのん?」と使者に詰め寄っても、もう、どうしようもありませんでした。

俊寛は、成経にすがりついて・・・
「だいたい、お前のオヤジがツマラン謀反を企てるから、こないな事になったんやさかい、他人事やと思とったらアカンで。
なぁ、都までとは言わんさかいに、せめて九州まで連れてってくれへんか」

と頼みますが、
「そうしたいのはやまやまですけど、3人ともが島からおらんようなった事がわかったら、もっとエラい事になるかも知れませんがな。
僕が都に戻ったあかつきには、清盛はんのご機嫌とって、なんとか俊寛さんも戻れるようにしますさかいに、これまで通り、希望を持って待っといて下さい」
と・・・。

『さるほどに 纜(ともづな)解いて船出ださんとしければ 僧都(そうづ)船に乗りては下(お)りつ、下りては乗つつ、あらまし事をぞし給いける』
いかにも、一緒に連れて行ってほしそうに、船に乗っては下り、下りては乗る俊寛をよそに、綱を解いた船を沖へと押し出します。

船を追って腰まで海に浸かり、胸まで浸かり、やがて背丈が立たなくなって、船にすがりつき、「見捨てないで~~」と叫ぶ俊寛の手を使者が払いのけ、とうとう船は出て行きます。

俊寛は、しかたなく岸にあがって・・・
『幼き者の乳母(めのと)や母を慕うように足摺りをして(じだんだを踏んで)、「これ乗せて行け、これ具して(連れて)行け」とて、をめき叫べども・・・』
空しく、白波が立つだけでした。

やがて、船は見えなくなり、日が暮れても、俊寛は小屋へは戻らず、その足を波に濡らすにまかせ、呆然と立ったまま・・・その夜は、そこで明かしてしまうほどでした。

しかし、成経の「待っといてください」の言葉にわずかな希望を持って、俊寛は生きる事にします。

そして1年後・・・再び、この島を訪れる者がありました。

俊寛のもとで下働きをしていた有王という者で、幼い頃から俊寛が可愛がっていた少年でした。

彼は、大赦があるという話を聞いて、船が到着する鳥羽まで出向いていったものの、俊寛の姿は見当たらず、聞けば、「誰かわからんけど、1人だけ残されたらしいでぇ」との噂・・・何とか情報を得られないものかと、六波羅あたりをウロウロしますが、何の情報も得られない事から、いてもたってもいられず、俊寛に会いに行く決意をしたのでした。

今は人目を忍んでいる俊寛の娘に会い、彼女の手紙をたずさえて・・・摂津(大阪)から長い長い船旅の末、やっと薩摩(さつま)に到着した後、再び船に乗り、追いはぎに衣服をはぎとられながらも、娘の手紙だけは、髪を束ねた中に入れて隠し、こうして、何とか鬼界ヶ島にたどりついたのです。

しかし、いざ、島へ来てみても、俊寛がどこにいるのかもわかりません。

やっと人を見つけて
「ここに、都から流されてきた俊寛という人はいませんか?」
とたずねますが、誰も答えられません。

やっとの事で、得た情報も、
「そう言や、そんな人が、時々、このへんをフラフラしてるけど、今はどこにいるんだか」
てな、頼りないもの・・・

有王は、しかたなく、「高いところに行けば、何か発見できるかも」と山に登ってみますが、何もなく、やがて海岸に下りて、再びあてもなく歩く・・・こうして何日かが過ぎたある朝、磯のほうから、蜻蛉(かげろう)のように痩せ衰えた者が、よろよろと歩いて来ます。

もとは法師だったらしく、髪が逆立って空に伸び、針ネズミのように伸びた毛先には、海草やら雑草やらがからみついて、まるで荊(いばら)をかぶっているよう・・・。

痩せて関節は露出し、もはや着ている物も絹なのか木綿なのかも見分けがつかず、片手に海草を持ち、片手には漁師から貰った魚を持ち、どこかへ行こうと歩いてはいるものの、おぼつかず、なかなか前へと進めません。

「さすがに、これほどみすぼらしい人は、都でも見た事がない」と思う有王でしたが、その人物こそ、捜し求めていた俊寛でした。

「ここに有王が参っております!多くの困難を乗り越え、やっとここまで・・・」

あまりの事に俊寛は、その場で倒れるほどでしたが、少し落ち着いてから、その後は、積もる話に我も忘れるほどでした。

「昨年、二人が戻った時も、その前も、その後も、手紙一つけぇへんのは、誰も何も、僕の事は言ってはくれへんのかい?」
と、聞く俊寛に、もはや身内はすべて処刑されてしまった事、わずかに生き残っていた幼い息子が天然痘で亡くなり、そのショックで妻も亡くなり、今は、娘が1人だけ・・・その娘の手紙をなんとか持ってきた事を告げる有王・・・

娘の手紙には
「有王とともにお帰りください」と・・・

そして、俊寛は、誰に言うでもなく、独り言のように話しはじめます。

「こうして、恥をしのんで生きていたのも、もう一度、妻子に会いたいを思えばこそ・・・今となっては、娘だけが気がかりやけれど、もう12歳、何とか悲しみながらも生きていけるやろ。このうえ、生きながらえて、辛い姿を見せるほうが、情け知らずというもんや!」

その日から、食を断った俊寛・・・ただひたすら阿弥陀の名号を唱え、死に臨んで心乱れる事なく、祈りとともに・・・

やがて有王が島に来てから23日めの治承三年(1179年)3月2日小さな小屋の中、やせ衰えた姿で息をひきとりました。

享年37歳・・・

そのそばで、泣きたいだけ泣いた有王・・・しばらくして、はたと立ち上がり、きりりと、何かを決意したようなそぶりを見せたかと思うと、小屋を壊して遺体の上に覆いかぶせ、さらに、近くの小枝を集めて火を放ちました。

「このままお供すべきところではありますが、残された姫君の行く末をお守りするため、もうしばらくお待ちくださいませ」

焼けた中から骨を拾い集めて布にくるみ、商人の船に乗せてもらって再び本土へと立ち戻った有王は、急ぎ娘のもとへと行き、一部始終を話して聞かせました。

ほどなかく、娘は尼となり、奈良の法華寺へ・・・

一方の有王は、主人の遺骨を胸に、高野山へと入り、法師となって全国行脚をしながら、俊寛の菩提を弔ったという事です。
 

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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。またまたお邪魔させていただきます。
さて、この流刑になった面子を見ているといろいろな人脈が浮かび上がって面白いものがあります。
成経さんは、叔母が平重盛(清盛嫡子)の妻で、成経の妻が平教盛(清盛弟)の娘。流刑中には舅の援助を受けていたようですし、赦免に関しても舅の後援があったとも言われています。
康頼さんは、頼朝の父義朝の尾張の墓を整備していていて後に頼朝から感謝されたようです。
そして問題の俊寛さんですが、なんと俊寛の姉妹が平頼盛(清盛弟)の正妻だそうです。
その頼盛の妻は八条院の乳母子で、頼盛は妻の縁を通じて八条院、そして後白河法皇に接近していたようです。そしてその当時も清盛と頼盛の関係はあまりよろしくなかったようです。
このような関係が俊寛の赦免停止に影響したという説もあるようです。

余談ですが、最近は「鹿ケ谷事件」に関する見直しもあって、この事件が「平家打倒陰謀」の面より、「院近臣と比叡山の対立」の影響の方が強かったのではないかとの味方が提示されているようです。

長文コメント失礼しました。

投稿: さがみ | 2010年3月 2日 (火) 22時11分

さがみさん、こんばんは~

そうですね。
鹿ヶ谷の一件は、悲喜こもごも・・・
流刑に関してもさまざまありますが、今回は平家物語に沿って書かせていただきました。

投稿: 茶々 | 2010年3月 3日 (水) 02時21分

kか悲しいけど、反平家なので、ざまあみろの意見も...

投稿: ゆうと | 2012年4月 9日 (月) 18時28分

ゆうとさん、こんばんは~

私としては、ちょっと可哀そうな気がします。

投稿: 茶々 | 2012年4月 9日 (月) 23時32分

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