« 足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦 | トップページ | 壇ノ浦で平家滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説 »

2010年3月23日 (火)

秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智

 

慶長五年(1600年)3月23日、小西行長寺沢広高宗義智らが朝鮮に講和を求め、捕虜百六十人を送還しました。

・・・・・・・・・・・・

天草諸島を含む肥後(熊本県)4郡の領主・小西行長長崎奉行寺沢広高(正成・定政とも)対馬島主宗義智(そうよしとし)・・・

まさに、大陸への玄関口と言える3人ですが、これは、もちろん、あの豊臣秀吉朝鮮出兵の戦後処理です。

文禄元年(1592年)と慶長二年(1597年)の2度に渡って行われた大陸への出兵ですが(4月13日参照>>)、慶長三年(1598年)8月の秀吉の死という一大事により事態は急変・・・最後まで残っていた島津義弘隊が撤退を完了した11月25日を以って、悲惨な戦いは終わりを告げました(11月20日参照>>)

そして、文禄の役の時にも、講和に奔走した行長を中心に、大陸との関係修復のための交渉・・・となったわけですが、お気づきの通り、この慶長五年という年は、国内でも大変な事態となっています。

ご存知、関ヶ原の合戦です。

天下分け目と言われる本チャンの戦いこそ9月15日の一日でしたが、その暗雲は前年の石田三成・襲撃事件(3月4日参照>>)からモヤモヤ・・・

そして、大乱を予感させるのは、やはり、この慶長五年の4月1日の上杉景勝による徳川家康からの上洛要請を拒否した事件・・・(4月1日参照>>)

結局、この出来事から「上杉に謀反の疑いあり」とした家康が、会津に向け出兵し、留守になった伏見城を三成が攻撃(7月19日参照>>)した事によって関ヶ原へとなるわけですから、今回の慶長五年(1600年)3月23日一旦やりかけていた講和交渉も、その時点で小休止となってしまいます。

なんせ、この時の中心人物である行長は、西軍の主力として参戦し、ご存知のように、三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らとともに処刑されてしまいますから・・・(9月19日参照>>)

そして、ようやく、交渉が再開されるのが、翌・慶長六年(1601年)・・・事実上、政権を握った家康の要請で、宗義智が担当します。

実は、彼=義智も、関ヶ原では西軍に属していましたが、あの島津と行動ともにしていた事で、参戦しないまま敵中突破の背進となり(9月16日参照>>)、その後、一応のお咎めなしグループ(4月11日参照>>)に入っていたおかげで、彼も何とか無事に・・・

とは言え、行長の娘・マリアを正室としていた彼は、その奥さんと離縁して、この交渉に挑んだと言います。

マリアさんは、同じキリスト教徒を頼って長崎へと向かい、慶長十年(1605年)に、その長崎で亡くなったようですが、世は戦国・・・義智としても、苦渋の決断だったかも知れません。

平家の勇将・平知盛(とももり)(3月24日参照>>)の子孫として、それ以来、対馬を守ってきた17代目としては、お家存続を最優先に考えねばならなかったわけで、しかも、徳川との関係うんぬんだけでなく、これまで大陸との交易を大きな収入源としてきた対馬にとっては、この交渉も死活問題なのです。

しかし、国土のほとんどを戦場とされ、多くの犠牲を強いられた朝鮮側の疑念は、そうそう晴れる物ではなく、何度も話し合いの要請をしますが、その度に拒絶されてしまうのです。

やがて、家康が征夷大将軍に任ぜられた(2月12日参照>>)翌年の慶長九年(1604年)・・・文禄・慶長の役にも義兵を率いて参戦していた惟政(ユジョン)という僧が、『探賊使(たんぞくし)という名目で対馬に派遣されて来たのを、義智らの手によって、そのまま京都へ・・・

その翌年の3月に、伏見城での家康との対面を成功させます。

そして、事実上政権交代した日本側が、もはや悪意のない存在である事の証しとして、惟政を、1400名の捕虜とともに丁重に帰国させたのです。

さらに家康は、国内に向けては非公式だった、この惟政一行の訪問を、正式な朝貢使として扱う事で、日本という国の外交権を徳川家が掌握した事をアピール・・・未だ残る豊臣家の権勢への牽制も、しっかり行います。

とにもかくにも、ここで、ちょいとだけ道が開かれた外交交渉・・・やがて、慶長十二年(1607年)、『回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と名付けられた正式な外交使節が来航し、なんとか回復の兆しを見ました。

この間、かの義智は、両国の関係の改善を急ぐあまり、何度も国書を改ざんした・・・なんて事も言われていますが、改ざんの真偽はともかく、回復に尽力したのは確かで、そのがんばりは、李氏朝鮮側も、一定の評価をしていたようです。

この後、義智の宗氏は対馬藩として生き残りますが、朝鮮側は、年に一度の対馬藩の交易船の派遣を公認していますし、佐賀県の名護屋城博物館に残る『朝鮮通信使行列絵巻』には、彼ら通信使に随行する対馬藩士も描かれていますので、対馬藩がその交流の玄関口として、大いに活躍した事がうかがえます。

Tyousentuusin 朝鮮通信使行列絵巻(名護屋城博物館蔵)
5代将軍・徳川綱吉の時代の通信使を描いたものと言われます。

秀吉軍の朝鮮撤退から10年・・・奥さんと離婚してまで挑んだ大仕事。

義智さんにとって、この10年は、長かったのか?
あっと言う間だったのか?
どんな歳月だったのでしょうね(*゚ー゚*)
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦 | トップページ | 壇ノ浦で平家滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/33894286

この記事へのトラックバック一覧です: 秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智:

« 足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦 | トップページ | 壇ノ浦で平家滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説 »