« 秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智 | トップページ | 遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ »

2010年3月24日 (水)

壇ノ浦で平氏滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱のクライマックス壇ノ浦の合戦がありました。

・・・・・・・・・

ご存知、平清盛を頂点に栄華を誇った平家一門に対して、伊豆に流されていた源頼朝挙兵し、継いで兵を挙げた木曽(源)義仲京へと攻め上り、平家は西国へと都落ち・・・

やがて、源氏同士のウチワモメで義仲を討った頼朝の弟・源義経一の谷から屋島へと徐々に西へと追い詰められ、最終決戦となったのが、ここ壇ノ浦です。

一連の合戦の様子は、すでに書かせていただいておりますので、個々のお話は【平清盛と平家物語の年表】>>の後半部分で見ていただくとしても、本日の壇ノ浦合戦に関しての記事だけでも、
●合戦の様子【潮の流れと戦況の流れ】>>
●平家の勇将【平教経の最期】>>
●安徳天皇・入水【先帝の身投げ】>>
と、書かせていただいております。

中でも、清盛の娘・徳子と第80代高倉天皇との間に生まれ、わずか3歳にして第81代の天皇として即位するという平氏全盛の象徴でもあった安徳天皇が、わずが8歳で海のもくずと消える名場面=「先帝の身投げ」は、お芝居やドラマでも定番となっています。

まだ、事態が理解できない幼い天皇に、亡き清盛の妻・二位の尼(時子)が、「波の下にも都がございます」と、なだめすかして、三種の神器のうちの一つ=草薙の剣を腰に差し、天皇を抱きかかえて入水するシーンは、何度見ても涙を誘います。

・・・とは、言え、これは『平家物語』をベースにした一般的な安徳天皇の最期・・・

そう、実はあります!生存説・・・

そう言えば、2005年の大河ドラマ=タッキー「義経」でも、なにやら入水したのは、いっしょに都落ちしていた弟のほう・・・って事になってたようですが、結局、その後、最後まで助かったほうの安徳天皇の出番がなかったので、「ならば、なんで?弟と入れ替わる設定にしちゃったの?」と、気になる展開になってましたね。

実際には、ともに西国に同行していた安徳天皇の弟は守貞(もりさだ)親王という方で、平家滅亡後は出家して入道親王となってましたが、この時、都に残った事で安徳天皇の次の天皇となったもう一人の弟=後鳥羽天皇が、後に、あの承久の乱(5月14日参照>>)を引き起こしちゃった事で、その系列は全員流罪となったので、かの守貞親王の皇子が第86代・後堀河天皇として即位するという事になってます。

・・・と、話を安徳天皇に戻して・・・

本日は、その安徳天皇生存説・・・あくまで、伝説の域を出ないものではありますが、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

・・・で、ここで、ご登場していただかねばならないのが平資盛(すけもり)さん・・・

この方は、あの清盛の長男・重盛の息子・・・平家物語では、平氏の横暴ぶりを象徴する出来事として登場する藤原基房(もとふさ)行列襲撃事件の張本人です。

以前、「清盛は暴君ではない!」と称した2009年2月19日のページ>>でも書かせていただきましたが、この時、実際に基房の行列を襲撃したのは、父・重盛・・・資盛は、自分で報復する事もできない、まだまだお坊ちゃんだったのです。

・・・と、このように、平家物語では悪役=清盛を印象づけるために、その対比として徹底したイイ人として描かれる重盛も、実際には、そんな清廉潔白ではなかったようですが、どちらが悪で、どちらが善かはともかく、清盛と重盛の間には政治的な対立があった事は確かなようです。

さらに、父・重盛は、あの鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)に関与した藤原成親(なりちか)の妹を妻とし、その息子・維盛(これもり・資盛の兄)も、同じく成親の娘を妻としていた事もあってか、清盛の死後も重盛の死後も、直系でありながら、維盛&資盛兄弟は、平家の主導権を握る事はありませんでした。

徳子づきの女官であった右京大夫とのロマンスもありながら、一方では後白河法皇との男同士のロマンスも囁かれ、都落ちの時には、先に安全地帯に避難した後白河法皇が、彼を手元に置こうと必死だったようですが、結局、法皇には会えず、資盛も平家一門の1人として、ともに西国へと落ちました。

しかし、一の谷から屋島へと進むドサクサで、兄の維盛はトンズラ(3月28日参照>>)・・・ますます肩身が狭くなる資盛に、ようやく、武将としてのスポットが当たります。

そう、伝説では、屋島の合戦の直後に、知将・平知盛(とももり・重盛の弟)の提案により、安徳天皇を擁した約1500名が別行動をとったというのです。

すでに兄が脱走した今となっては、なんだかんだで資盛が平氏・嫡流のトップ・・・その場で征夷大将軍に任命された彼は、安徳天皇を守りつつ、別働隊を率いて南海の果てへとくりだすのです。

にわかにカッコイイぞ!SUKEMORI~ヽ(´▽`)/

勝てば官軍とばかりに源氏側へつこうとする九州勢をよそに、志布志湾に入った彼らは肝属(きもつき)一族の援助を受けた後、さらに南へ・・・途中でその人数が300名ほどに減るという苦難を乗り越えながら、たどり着いたのは硫黄の臭気漂う鬼界ヶ島(きかいがしま)

そう、あの鹿ヶ谷の陰謀事件で俊寛(しゅんかん)が流されたあの島(3月2日参照>>)・・・ここで、天皇を託した資盛は、わずか数名の従者をつれて、奄美大島へ渡ったと言います。

奄美大島には、彼の墓や、彼を祀る大屯(おおちょん)神社なる神社もあるのだとか・・・。

一方、鬼界ヶ島の安徳天皇は、そこで櫛匣局(くしけのつぼね)という女性と結婚し、66歳まで生きたのだと・・・俊寛のページにも書かせていただきましたが、この鬼界ヶ島は、一説には現在の鹿児島県の硫黄島だったとも言われているのですが、第二次世界大戦直後には、その子孫だという長浜豊彦さんなる人物が、この硫黄島に住んでおり、島民からは「天皇さん」と呼ばれていたという話もあります。

・・・と、ここまで硫黄島の伝説をお話しましたが、実は安徳天皇生存説は、他にもあります。

対馬に渡ったとされる説では73歳まで生き、あの宗氏(3月23日参照>>)は、実は知盛の末裔ではなく、安徳天皇の子孫であるという事になってます。

また、これらの生存説には、当然、壇ノ浦で亡くなった天皇は替え玉で・・・というのがセットになってるわけですが、かの平家物語の「先帝の身投げ」の巻には・・・

Antoku 安徳天皇の姿として
「御髪(おぐし)黒うゆらゆらとして 御背中過ぎさせ給へり」
と、まるで女の子のような髪を長く垂らしたヘアスタイルをしていた事が書かれていて、その後、二位の尼と入水する直前になって
「山鳩色の御衣(ぎょい)に びんづら(みづら)結わせて給ひて・・・」
と、髪を左右に束ねて耳の両脇に垂らす少年の髪型に結いなおしているのです。

この事から、替え玉となったのは女の子で、平有盛(ありもり・重盛の四男)の娘ではなかったか?とも言われます。

とにもかくにも、そのほかにも、いくつかの伝説がある安徳天皇生存説ですが、いずれも、平和な暮らしの末に長寿を真っ当したという心和む結末となっています。

それは、やはり、周囲の身勝手な運命に翻弄させた幸薄いの天皇に対しての庶民の思いが反映されているに違いなく、せめて、伝説の中だけでも自由に、そして、人生を謳歌していただきたいと・・・きっと、誰もが、そう思ってしまうのでしょうね。

追記:ちなみに、一般の歴史では資盛さんも壇ノ浦で一門と運命をともにします。
つまり、今日がご命日(ToT)享年25歳・・・法皇の愛人という事だけで、美少年を想像してしまう私です

 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智 | トップページ | 遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ »

源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん。こんにちは。

源義経や明智光秀ら、生存説っていろいろあるんですね。

投稿: いんちき | 2010年3月24日 (水) 18時14分

いんちきさん、こんばんは~

このブログでも、一度、「生存説」でくくったまとめの目次みたいなのを作ってみようかと思うくらい沢山の生存説を紹介させていただいてますが、やはり、それは、英雄の証しであり、悲劇のヒーロー&ヒロインの証しという物なのでしょうね。

権力者の記録で綴られる歴史の中で、ある意味、庶民の声が、一番反映されている出来事かも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年3月24日 (水) 20時09分

法王の愛人・・・ほう・・当時は珍しくなかったんですよね・・生存説や替え玉説って「なんだかかわいそうだからそうだといいな、生きてたら面白いな、」なんていつの時代も考える人がいるのかな。時には「生きてたかも。そして自分はその子孫かも」なんて思う困った輩もいるかもなぁ(今も)でも、有吉佐和子さんは丹念に研究されて「和宮さまは替え玉」と確信して和宮様御留という小説を書かれたんですよね。ひょっとして中にはホントに替え玉もいたりして・・・と、思うのも楽しいですね。

投稿: Hiromin | 2010年3月24日 (水) 21時47分

Hirominさん、こんばんは~

生存説や替え玉説には、やはり、こうであってほしいという庶民の願望があるのでしょうね。

和宮さまの場合は、個人的には「本物であってほしいなぁ」と思いますが・・・

投稿: 茶々 | 2010年3月25日 (木) 00時26分

すけもりはそれなりに強いです。佐藤継信は彼に、倒されたという人もいます。

投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 16時24分

ゆうとさん、こんばんは~

一般的には佐藤嗣信を倒したのは平教経とされますね。

大河ドラマ「義経」では資盛で、場所もお寺でした。

投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 19時38分

楠木誠一郎さんの『源義経は名探偵!!―タイムスリップ探偵団と源平合戦恋の一方通行の巻―』を読んだら、安徳天皇の生存説が気になり読んでみましたo(*^▽^*)o
このような実話なのかわからない歴史の謎ってっとっても好きです((w´ω`w))
面白かったです♡ 頑張ってくださいね~(*^-^)

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

あと…、もしよろしければTwitterの私のアカウントをフォローして頂きたいですヾ(´ε`*)ゝ
私は@booklove です( ^ω^ )

投稿: みたらしだんご | 2013年8月26日 (月) 19時06分

みたらしだんごさん、こんばんは~

謎が多いぶん妄想のし甲斐があって、とても楽しいですね。

投稿: 茶々 | 2013年8月27日 (火) 01時15分

あの、すいません。平知盛を清盛の弟と表記してありますが、4男ですよ!

投稿: ブルーワイン | 2015年1月23日 (金) 23時11分

ブルーワインさん、こんばんは~

アッ!ホントですね。
「清盛の弟」→「重盛の弟」です。
見つけていただいて、ありがとうございましたo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2015年1月24日 (土) 02時43分

はじめまして。鹿児島に在住しておりますものです。安徳天皇の生存説を唱えて頂きありがとうございます。私は、安徳天皇の末裔とされております。事実、私のご先祖様のお墓には菊の御門が入っており、系譜も宮内庁から発行(ただし、抜粋された略式のもので、正本は本家と名乗る分家に持ち逃げされた為に、宮内庁に申し出て、調査後に再発行) まだ、名を明かす事は出来ませんが、生存説のお礼を申し上げます。

投稿: 薩摩の末裔 | 2016年12月20日 (火) 06時32分

はじめまして。鹿児島に在住しておりますものです。安徳天皇の生存説を唱えて頂きありがとうございます。私は、安徳天皇の末裔とされております。事実、私のご先祖様のお墓には菊の御門が入っており、系譜も宮内庁から発行(ただし、抜粋された略式のもので、正本は本家と名乗る分家に持ち逃げされた為に、宮内庁に申し出て、調査後に再発行) まだ、名を明かす事は出来ませんが、生存説のお礼を申し上げます。

投稿: 薩摩の末裔 | 2016年12月20日 (火) 06時34分

薩摩の末裔さん、こんばんは~

コメントを残していただき、ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2016年12月21日 (水) 01時32分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/33910538

この記事へのトラックバック一覧です: 壇ノ浦で平氏滅亡・・・の後に~安徳天皇・生存説:

« 秀吉の朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智 | トップページ | 遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ »