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2010年3月 1日 (月)

建て直し不可能?水野忠邦の天保の改革

 

天保五年(1834年)3月1日、水野忠邦が老中に就任しました。

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水野忠邦(みずのただくに)は、肥前国(佐賀県)唐津藩主・水野忠光(ただあきら)の次男として寛政六年(1794年)に江戸藩邸で生まれました。

後を継ぐはずだった兄が亡くなり、世継ぎとなった忠邦が文化四年(1807年)、父の死去にともない家督を継いで、奏者番(そうじゃばん・城中の儀式の管理)という役職についた時は未だ19歳・・・この奏者番は、このあと大坂城代老中へと進んでいくエリートコースの出発点となっている事もあって、彼もまた夢多き若者であった事でしょう。

ところがドッコイ・・・唐津藩には、代々、隣接する長崎の警固という重要な任務が与えられていて、唐津藩主である彼は、たとえ奏者番になっても、その上への出世は望めない事がわかります。

何とか、中央政府に躍り出て腕を振るいたい忠邦・・・「なんも唐津にこだわる事ないやん!」とばかりに、同じ石高:6万石の浜松への転勤を打診します。

なんせ、浜松は岡崎城と並んで、神君・家康公のお膝元で、出世城とも噂されるほど、そこ出身の幕閣が多い事でも知られていました。

しかし、肥沃な田地に恵まれていた唐津は、登録されている石高は6万石でも、実質的には20万石の収入があったと言われ、浜松への移転は大幅な収入減となるため、反対者も多くいたのですが、そんな事おかまいなしに、当時、御用人をしていた同族の水野忠成(ただあきら)猛アピール!!

なんせ、実質20万石が表向き6万石なのですから、使える袖の下はいくらでもあったのです。

やがて文化十四年((1817年)、アピールし続けた甲斐あって、浜松への転封に成功・・・その後も、忠成らに接待攻勢&ワイロ攻勢で運動し続け、文政八年(1825年)には大坂城代、その翌年には京都所司代、さらに文政十一年(1828年)には西の丸老中へと大出世しますが、この間に使った接待費は2千両以上になったとか・・・。

かくして、その6年後の天保五年(1834年)3月1日、41歳にして、見事、念願の本丸老中の座を獲得したのです。

その5年後の天保十年(1839年)には、老中首座となって、とうとう幕閣のトップとなった忠邦・・・しかし、この時、将軍はすでに第12代・徳川家慶(いえよし)となっていましたが、その父で先代の家斉(いえなり)が、未だ西の丸で睨みをきかせていて、忠邦の思うようにはいきませんでした。

いわゆる大御所政治と呼ばれる時代です。

以前も書かせていただいたようにこの家宣さん・・・側室40人に子供55人という徳川将軍一の記録を持つ人(1月7日参照>>)

それが、悪いというわけではありませんが、何となく、細かい事にこだわらない雰囲気が漂わないでもありません。

家斉の大御所政治は、その通りの放漫財政・・・商人の経済活動が活発になって都市中心の庶民の暮らしも賑やかになりましたが、その反面、無宿者や博徒が横行し、治安の悪さも最高潮に達していました。

そこに来て天保三年頃からの大凶作=天保の大飢饉です。

各地で打ち壊しが起こる一方で、一部の豪商が米を買占め、値段の高騰を計るも、幕府は何の対策をするでもなく、逆に、地方の米を江戸に送ったりなんか・・・そこで、勃発したのが、天保八年(1837年)の大坂町奉行・元与力による叛乱=大塩平八郎の乱です(2月19日参照>>)

この元幕府側の人間の叛乱は、全国に波紋を呼び、幕府を震撼させました。

やがて訪れた天保十二年(1841年)5月15日、かの家斉の死を受けて、いよいよ忠邦が改革に乗り出します・・・世に言う天保の改革です。

まずは、家斉の寵臣と呼ばれていた取り巻きの排除です。

若年寄林忠英御側御用取次水野忠篤新番頭格美濃部茂育(もちはる)の3人を「三佞人(ねいじん)と称してクビにし、その後も、彼ら同様のワイロ&接待政治を悪として、自分の事は棚に上げっぱなしで、クリーンな政治に取り組みます。

内の改革が終った後、いよいよ一般庶民への改革がはじまります。

この年の5月23日付けで関東の農村に発布された「奢侈(しゃし)禁止令」と、10月15日付けで江戸の出された「奢侈を禁止する町触」=要するに倹約令です。

べっ甲や金銀をあしらった豪華な装飾品はもちろんの事、華美な着物なども禁止・・・贅沢な食事もダメなら高級なお菓子もダメ・・・町奉行所の中には市中取締掛なる機関まで新設したのですから、忠邦もかなりの本気モード!

ところが、ここで登場するのが、本来その任務を遂行すべきはずの北町奉行・・・ご存知・遊び人の金さんこと遠山景元(かげもと)、そして同じく南町奉行矢部定謙(さだのり)

彼らは、実際に町で人々を取り締まる立場にあって「本当に華美な生活や贅沢が腐敗や治安悪化の根源となっているんだろうか?」という疑問にぶち当たり、「町の賑わいを消してしまっては、善政とはいえないのでは?」といった感じの意見書を忠邦に提出します。

結局は却下されてしまう、この意見書ですが、このお話が、あの時代劇のヒーロー・遠山の金さんを産んだとも言える逸話です。

しかも、忠邦がその器を見込んで、わざわざ長崎奉行から勘定奉行に大抜擢した田口喜行(よしゆき)が就任からわずか1ヶ月後に、長崎でのワイロまみれの政治が暴露されて失脚しちゃうし・・・(なんか、似たような話、今も聞くなぁ( ̄○ ̄;)!

その後も、都市の浄化と農村復興のために故郷へのUターンを強制する「人返し法」は不評、株仲間が物価を上げているとして株仲間を解散させれは物流機能がマヒしてしまい、かえって物価高に・・・やることなすこと裏目に出ます。

そして、決定打は、「上知令(あげちれい・土地没収)・・・これは、幕府の直轄地を江戸10里四方と大坂4里四方に集中させようとしたものですが、当然のごとく、大名や旗本の猛反対で、すぐに撤回され、結局は、忠邦の立場が孤立するという結果だけが残り、天保十四年(1843年)の9月に万事休す・・・御役御免となりました。

それにしても、江戸三大改革と言われる暴れん坊吉宗享保の改革(6月18日参照>>)松平定信寛政の改革(6月19日参照>>)、そして今回の天保の改革・・・

その後の歴史を知ってる私たちから見れば、「よくも、まぁ、毎度毎度失敗するにも関わらず、よく似た倹約令ばっか出して、経済を低迷させたもんだ!」と思ってしまいますが、今回の忠邦さんだって、夢にまで見た幕政の舞台で、おそらく、真剣に考えて、真剣に政治を行ったに違いなかったはず・・・

そう、実は、これは江戸幕府がどうしても譲れなかった農業主義という原則・・・すでに、貨幣経済と商業資本主義の発展を止める事ができないにも関わらず、未だその体制を変えない幕府自身が、崩れかけた幕藩体制に拍車をかけて、もはや、夢多き老中の手腕を発揮しても、どうしようもないところへ来てしまっていたのかも知れません。

結局、この体制から抜け出そうと、いちはやく下級の武士からの人材登用をはかって藩政改革に乗り出した薩摩藩長州藩などの雄藩が独自の力を持つ事になり、世は、まさに、幕末へと突入していくのです。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

江戸の三大改革の失敗が幕府の農業主義政策から商業資本主義政策への脱却が出来なかったからだとすると、現代の日本の政情不安は逆に、あまりにも偏った経済優先の商業主義にあるように思えませんか?。若人は田舎を捨て、山村では誰も手入れをしなくなった山が雑木や竹に覆われて見るも無惨な状況。また田畑も荒れ放題で、いざ耕すとなると大変な労力を要す。海辺の町では皆、船を捨て漁師が居なくなる。政府には子供手当なんかより、今後の食料自給率アップの為にも、また若者の雇用促進の為にも農林水産業従事者が増えるような施策をお願いしたいモノです。

投稿: マー君 | 2010年3月 1日 (月) 16時56分

マー君さん、こんばんは~

この平成の世も、何とか建て直していただきたいですね~

投稿: 茶々 | 2010年3月 2日 (火) 00時24分

「江戸三代改革」中で最も財政(内需抑制)緊縮度が大きいはずの、水野改革が失敗したのは時代の流れに逆らえない所まで、ご指摘のとおりの経済構造の変化がありますね。
江戸時代後半の「GDP」が現代ほど大きく伸びなかった要因に、人口が増えなかったと言う事情もありますね。これは今と昔では事情が違うので単純に比較できませんが。
今と違い民間レベルでは、「内需拡大」と言う発想がなかったと言われます。政策としては「内需拡大」と「税収増」はあるんですが。

1990年代後半の橋本行革は、財政改善のための増税で不況になり、もろくも頓挫して2年半で終りましたが、これと似ていますね。

投稿: えびすこ | 2010年3月 2日 (火) 08時51分

えびすこさん、こんばんは~

「歴史はくりかえされる」ですね

投稿: 茶々 | 2010年3月 3日 (水) 02時08分

私は、作家の井沢元彦氏同様この水野忠邦の事が大嫌いで全く評価してません。忠邦関しましては、去年11月下旬に亡くなられた忠邦と天保時代研究の第一人者ある青木美智男氏にする浜松藩での忠邦の評判が悪く、忠邦とともにが改革とは名ばかりの横暴な悪政を敷き民衆弾圧をし、最後には、忠邦を裏切った鳥居耀蔵に共に行った不正を忠邦の後任に老中首座に就任した阿部正弘によって裁かれ浜松藩から山形藩に著罰的に移動いう形で出て行く際、浜松藩で大暴動が起こったそうです。理由は忠邦が老中昇進の為の上役に賄賂提供の為の御用金の過剰な取り立て事の借金の返済を踏み倒し事と過剰な年貢米の取り立ての保障しない出て行こうとしたからです。耀蔵に蛮社の獄によって自殺に追い込まれた渡辺崋山の日記による忠邦は「金の無い品凡な領民は女房と娘を女郎屋に売って金を作れ」と言って過剰に取り立てたり、特産品の野菜を作って収入を得ていた農民には「そのような特産品の野菜は贅沢品だから、作ってはならん変わりに米を作れ、作って作ってまくれ、出来なかったのたれ死ね」と自分達の貴重な収入源の野菜作りは禁止され、変わりにしなれない米作りをやらされるのだから、不満が爆発しなのも不思議じゃない、それ対する借金の返済と保障もしないで踏み倒して出て行こうとするから大暴動が起こっておかしくないです。あの松平定信はちゃんと領民に借金の返済と保障してました。ちなみに、後から、後任に浜松藩に入ってきた井上家が忠邦が領民達に作った借金の肩代わりをすることで暴動は収まり、領民達は街頭に出って酒樽の鏡を割って忠邦のも失脚と追放を喜んだそうです。

投稿: 歴史通 | 2014年1月24日 (金) 22時23分

歴史通さん、こんにちは~

やはり、幕府自体が立て直し不可能…終焉へと向かって行っていたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年1月25日 (土) 13時59分

ねえさん、家斉の漢字が違いまっせ

投稿: 通りすがり | 2015年2月12日 (木) 01時35分

通りすがりさん、こんばんは~

ワォ!ホントだ!
見つけていただいてありがとうございますm(_ _)m
訂正させていただきました。

投稿: 茶々 | 2015年2月12日 (木) 02時17分

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