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2010年3月 9日 (火)

「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?

 

安政三年(1856年)3月9日、長崎下田などの開港地で、「絵踏み」が廃止されました。

・・・・・・・・・・・・・

織田信長の優遇(4月8日参照>>)から一転、豊臣秀吉の時代にご禁制(6月19日参照>>)となったキリスト教は、政権が徳川に代わろうとも何度も禁止令が出されつつ(12月23日参照>>)、やがて勃発した江戸幕府を震撼させる、あの島原の乱(2月28日参照>>)へと続き、ご存知のように、キリスト教を捨てる事ができない人々は、徐々に厳しくなる取締りに対抗すべく、隠れキリシタンとなっていきます。

そんな隠れキリシタンを見つけ出すために、江戸時代を通じて行われたのが絵踏み制度・・・キリシタンにとって敬うべき相手のキリスト像やマリア像が描かれた踏み絵」というお札のような物を踏ませるというアレです。

Fumiesa 絵踏み:シーボルト著「日本」より

しかし、江戸も幕末になって開国へと向かうと、当然の事ながらキリスト教を禁止したままではいかなくなって来ます。

未だ外国人宣教師が多くいた秀吉の時代に、彼らが犠牲になった(2月5日参照>>)事を見てもわかるように、このキリシタン禁止令は基本、外国人にも適用されますし、第一、彼らが信じてやまない宗教を邪教と認定していては、うまくいく交渉も、うまくいかなくなります。

いずれは大きな国際問題に発展するのは明白・・・そこで、出島のオランダ館の館長・ドンケル・クルチウスが長崎奉行の川村対馬守らに「絵踏み」の廃止を提案

かくして、安政三年(1856年)3月9日長崎や下田などの開港地で、「踏み絵」による「絵踏み」が廃止されたのです。

・・・とは言え、ペリーの後にやってくるハリスとの交渉の会議でも、踏み絵について話し合われた事が記録されていますので、長崎などでは比較的迅速に廃止になったものの、それが全国に伝わるまでにはしばらくの時間を要したようです。

規制の厳しかった津和野藩では、明治四年(1871年)に、マツという女性に絵踏みを強要し、彼女が断固拒否したという記録が残っていて、現在のところ、これが日本で最後の踏み絵の記録という事になっています。

その2年後の明治六年(1873年)の2月24日・・・新政府の太政官布告で、キリシタン禁制が廃止されて、やっとこさ正式に、弾圧の歴史に幕を閉じたのです。

そののち、横浜や神戸に次々と教会が建てられ、やがて明治二十二年(1889年)の大日本帝国憲法の発布によって信仰の自由が保証されるようになりました。

ところで、この絵踏みに使われていた踏み絵は、その後、いったいどうなったのか???

Fumiecc   踏み絵:東京国立博物館蔵→

幕府が把握している以外に、どのくらいの一般人が所持していたかどうかまではわかりませんが、絵踏みを実施していたのは幕府なので、その幕府の持っていた踏み絵というのは、それ以外のキリシタン関連の史料とともに、そのまま長崎県が引き取って管理する事になりました。

やがて、明治七年(1874年)に教部省に送られ、その後、事務的な移動にともなって内務省博物館へ・・・

さらに、その後、この博物館の管轄がコロコロ移動した事によって、管理する官庁も転々としますが、昭和二十二年(1947年)、この博物館が、文部省管轄の東京国立博物館となった事で、ようやく安住の地を得たのです。

踏むに踏めずに散っていた人々・・・

とりあえず踏んでおいて、あとから懺悔して許しを乞う人々・・・

様々な人々の様々な様子を真下から見てきた踏み絵は、今はもう、宗教の自由の旗の下、その役目を終え、東京国立博物館彫刻室の地下倉庫の片隅で、長い眠りにつきました。

もう、2度と呼び起こされる事もないでしょうが、それが踏み絵に描かれたマリア様にとって、一番うれしい事に違いありません。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

幕府の命によって、全国の大名領地でも踏み絵は行われたのでは?。そうだとすると、大名家の数だけ踏み絵は有ったのでしょうね。

投稿: マー君 | 2010年3月 9日 (火) 17時47分

マー君さん、こんばんは~

大浦天主堂にも一つあると聞きましたが・・・

いったい、全国でいくつくらいあった物なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年3月 9日 (火) 19時17分

教科書に載ってたような立派なモノは数個でしょうね。山間部や田舎の小さな藩では、板切れや布に絵を描いたモノを使うか、御禁制になる前に国内に入ってきてたマリア像やキリスト教絵画を利用してたんじゃないでしょうか。

投稿: マー君 | 2010年3月10日 (水) 09時08分

マー君さん、こんばんは~

そうですね。
地方は、どんな感じだったんでしょう?
気になります。

投稿: 茶々 | 2010年3月10日 (水) 20時26分

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