« 祝!平城遷都1300年=なんと大きな平城京 | トップページ | オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は? »

2010年3月11日 (木)

内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに天目山にて自害・・・戦国の世に武勇を誇った武田氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・・・・

天目山での戦いのくわしくは、2012年の3月11日【天目山…武田勝頼の最期】>>でご覧いただくとして、本日は、その時、勝頼と運命をともにした正室・桂林院殿を中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

彼女が、親子ほど年の離れた武田勝頼(かつより)のもとに嫁いできたのは天正五年(1577年)・・・わずか14歳の時でした。

Houzyoufuzincc 彼女の父親は相模国(神奈川県)を支配する北条氏の第3代当主・北条氏康(うじやす)・・・その名前が伝わっていない彼女は、この父親の関係から北条夫人、あるいは小田原御前などと呼ばれます。

ちなみに、冒頭に書かせていただいた桂林院殿というのは法号で、おそらく生存中は、そう呼ばれた事はなかったかと思いますので、本日は北条夫人と呼ばせていただきます。

そんな彼女・・・結婚相手の勝頼さんは、すでに32歳で、先妻との間に生まれた息子もすでに11歳となっていて、どちらかというと息子との結婚が似合いそうなお年頃だったわけですが、この結婚の2年前にあったのが、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・

実際には、一進一退の攻防戦だった可能性が高いですが、終った後の印象としては、やはり多くの重臣を失った武田が手痛い敗北を喰らってしまった感の拭えない戦いでした。

現に、その後、織田信長徳川家康は勢力を拡大しつつある・・・そこで、その家康をけん制するために、勝頼は、北条と同盟を結ぶ決意をし、その証しとしての政略結婚の相手が北条夫人だったわけです。

父・信玄以来の重臣の高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)も、
「この結婚で、勝頼さんは氏政(氏康の息子で第4代・北条当主)さんの妹婿・・・ここ3年ほど心配でたまらんかったけど、やっと安心して眠れるわ~」
と、大喜びするくらい、この結婚は、周囲に望まれた結婚でした。

2ヶ月後には、春の盛りの諏訪大社下社の落慶供養に家族で出かけ、ひとときの新婚生活を味わった二人でしたが、暗い影は、もう、すぐそこに迫っていたのです。

結婚からわずか1年後、あの越後(新潟県)上杉謙信が急死してしまいます(3月13日参照>>)

その後継者争いとして勃発したのが、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)・・・その後継者というのが、子供のいない謙信の養子として迎えられていた謙信の甥の上杉景勝(かげかつ)と、同盟の証しとして北条氏から養子に入っていた上杉景虎(かげとら)です。

その北条から養子に入った景虎という人が、先代・氏康の息子・・・つまり北条夫人の10歳年上の兄だったわけですから、当然の事ながら、勝頼ははじめ、この景虎を応援する立場をとっていました。

しかし、拠点である春日山城を占拠した景勝側は、そこにある巨額の軍資金に物を言わせての再三の交渉・・・やがて、勝頼は、自らの妹・菊姫と景勝との結婚を承諾し、同盟を結んでしまいます。

約1年間のスッタモンダの末、御館の乱は、景勝の勝利に終わり、景虎は自害・・・当然、北条と武田の同盟関係は崩れ落ち、いや、むしろ敵同士となってしまったわけです。

自分の夫と兄が戦闘状態に・・・と、ここで、戦国の世のならいとは言え、その立場が危うい事になる北条夫人ですが、実は、勝頼さん、夫人に実家に戻るように勧めています。

しかし、ここで、キッパリとそれを断ったのは彼女のほう・・・わずかな年月ではあるものの、すでに武田の女として生きる決意を固めていたという事でしょうか。

しかし、その2年後の天正九年(1581年)3月、勝頼は、隣国との要所であった高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)家康に奪われてしまいます(3月22日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この高天神城は、勝頼の誇りであり、武田の勢いを裏付けるシンボル的な存在でした。

しかし、その城を落とされた事によって、勝頼にも、そして武田の家臣たちの中にも動揺が走り、この頃から、武田に見切りをつけて寝返る者が多くなってきます。

そんなムードを払拭すべく、その年の12月には、新しく建築した新符城(しんぷじょう・山梨県韮崎市)に家族&家臣とともに移り住む勝頼・・・。

金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、城郭を造らなかった信玄から脱皮するような甲斐(山梨県)初の本格的な城郭でしたが、その引越しからわずか1ヶ月後の正月、信濃福島城主の木曽義昌が寝返ります。

この寝返りは、武田方に大きな痛手となります。

なんせ、この義昌の奥さんは、勝頼の妹・真理姫(真龍院)・・・それこそ、戦国の世のならいとは言え、「身内まで寝返るか!」というショックを、周囲に与えてしまった事は拭えません。

ここに来て、さらに離反は後を絶たなくなります。

そんな時、北条夫人は、その揺るぎない心を見せつけてくれます。

現在、山梨県にある武田八幡宮には、その年の2月19日の日づけで、北条夫人が夫・勝頼の武運を祈って捧げた自筆の願文が残っています。

Houzyoufuzinbuncc 北条夫人の願文(武田八幡宮蔵)

逆臣(義昌の事)の討伐に向かった夫の勝利と、相次ぐ離反をストップさせてくださいという願いとともに
「夫同様、私も悲しい・・・涙がとめどなく流れています」
と、切々と訴えています。

武田の菩提寺である恵林(えりん)快川(かいせん)和尚は、北条夫人の事を『芝蘭(しらん)に例えて、
「気高く慈愛に満ち、知らず知らずのうちにいつの間にか周囲の人を良い方向へと導いていく人」
と、その人となりを絶賛しています。

芝蘭とは、中国の孔子が発した一節で、蘭はフジバカマの事で、芝は霊之(れいし)という老木の根っこに寄生する菌によって何とも言えぬ香りを放つ、芳香剤として珍重される、あのレイシの事・・・つまり、目に見えない力を内に秘めているという事を言いたいのでしょう。

そうです。
「私は泣いています」
と、可憐で、か弱い言葉を発しながら、決して揺るがない信念のもと、勝頼とともに生きる・・・そこには、だた弱いだけの女の姿は見えてきません。

ところが、結局、この願文から半月もたたない3月3日、引っ越したばかりで、未だ準備の整わない新符城では、織田&徳川勢を防ぎきれないと判断した勝頼は、真新しい城に火を放って、重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼って、彼の岩殿城へと向かいます。

しかし、この城に近づいたところで・・・なんと、勝頼らに向かって矢が放たれます。

そう、すでに信茂も寝返っていたのです。

しかも、この状況を知った者は、一行の中からも、どんどん離反・・・いつしか、女子供を含めた50人くらいの団体になってしまった勝頼は、死に場所を求めて天目山へと向かいます。

この山麓の田野(たの・山梨県甲州市)という場所で、別れの宴会を催した勝頼は、この席で、またしても北条夫人に実家に帰るように説得しました。

この時、彼女はまだ、19歳・・・来年の大河の主役のお江さんを見てもわかるように(6月19日参照>>)、その状況でどんどん相手を代えていくのが政略結婚というもので、それが戦国の世のならいでもあり、男子とは別の形で、お家のために命を賭ける彼女たちの誇りでもあります。

しかし、
「手を取り合って三途の川を渡りましょう・・・そして、(生まれ変わって)もう一度会いましょう」
と、やはり、彼女の決意は固かった・・・。

ここで逃げていたら、おそらくは無事に脱出できた可能性は充分あったはず・・・ですが、

彼女は、ここまで従っていた者が一列に並ぶ中
「立派に自害した事を、しっかりと小田原に伝えてほしい」
と、黒髪を一筋、辞世に添えて渡しています。

♪黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒 ♪

この時、彼女の介錯の役を命じられていた土屋惣造(つちやそうぞう)という者が、そのあまりの美しさに身動きできずにいると、それを察した北条夫人は、自らの懐から懐剣を取り出し、それを口に含んで前面に倒れこんだと言います。

天正十年(1582年)3月11日・・・駆け寄った勝頼の胸で、彼女は静かに旅立ちました。

土深く秘めたる思い・・・そこはかとなく漂う目に見えぬ信念は、勝頼とともに散る事を選び、再び地中の奥深く眠りにつく事となりました。

・・・が、しかし、生まれ変わったあかつきには、その願い通り、また、勝頼さんと結婚する事ができたに違いありません。

いや、そうであってほしい・・・゚゚(´O`)°゚
 
.

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 祝!平城遷都1300年=なんと大きな平城京 | トップページ | オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は? »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

ここらの話は、天地人でシッカリ押さえなアカン話やと思いますわ。何や知らん、与六の父ちゃんの再婚相手出してきてホームドラマを見せたり、千利休の娘に福島政則を投げ飛ばさせてドタバタ劇見せたり、真田の娘と信長のイチャイチャぶりを見せたり…余計な話が多くて、こういう肝心なエピソードが入ってないのは残念ですわ。

投稿: マー君 | 2010年3月11日 (木) 12時17分

武田、北条、今川の3家はかなり複雑に縁戚関係を築いて、時には手を組み、時には手を切る…の連続でしたね。ところでNHK大河ドラマで、武田家滅亡の経緯にくわしく触れた事ってあるでしょうか?20年見てますが、記憶にないですね。

マー君さんのご指摘に関連して。
兼続の父が再婚相手との間に設けた、(直江兼続の)末弟が登場しなかったのは、いまだに腑に落ちませんね。末弟がいないと現在の樋口家が存在しないので。この件でご子孫の承諾を、NHKが取っていたはずと思うのですが?もし承諾を取っていないなら問題。

投稿: えびすこ | 2010年3月11日 (木) 17時56分

マー君さん、こんばんは~

今となっては懐かしい・・・天地人のような大河は、もう2度と見られないかも知れません。

高坂弾正が出てきたと思ったら、翌週には、跡形もなく消滅・・・せめて死ぬシーンくらいほしかったです。

投稿: 茶々 | 2010年3月11日 (木) 19時01分

えびすこさん、こんばんは~

直江家が断絶したのであって、樋口家はそのまま続いてますからね。

あのドラマの描き方では、どっちもなくなったかに見えるほど、樋口家に関しては描かれてなかったですね。

投稿: 茶々 | 2010年3月11日 (木) 19時06分

茶々様 お久しぶりです!

戦国の悲劇ですね><北条・武田・上杉と、親父(氏康・信玄・謙信)のときに隆盛した家の末路はどれも悲惨ですが、中でも名門武田は一番悲惨ですよね。 本能寺がもう少し早かったら上杉みたいに生き残って…は無理だったでしょうね…家康さん辺りが「脱糞の恨み!」とさくっと、もしくは鬼武蔵が。 夫を残して生き残ったお市様と夫とともに自害した北条夫人、どちらが辛かったでしょうね… いや比べらませんよね涙 来世に報われたと切に願いたいです><          ネット上では天地人はもはやネタドラマですね笑ある意味強烈なインパクトを残していきましたから^^

投稿: ryou | 2010年3月12日 (金) 11時45分

ryouさん、こんばんは~

良い来世を迎えていただきたいですね。

天地人は・・・
もはや、目標には世界征服を掲げておきながら、実際の手段は幼稚園を襲うショッカーの世界です。
愛すべきキャラですね。

投稿: 茶々 | 2010年3月13日 (土) 01時47分

茶々さん。こんばんわ。
武田勝頼を主人公に大河ドラマでやってほしいと思うんですけど。無理ですかね。

投稿: いんちき | 2010年3月13日 (土) 06時22分

いんちきさん、こんばんは~

武田勝頼・・・やってほしいですよね~

でも、最近の路線では、あまり悲劇的なのはやってくれないのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年3月13日 (土) 23時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/33721804

この記事へのトラックバック一覧です: 内に秘めたる烈女魂~勝頼の妻・北条夫人桂林院:

« 祝!平城遷都1300年=なんと大きな平城京 | トップページ | オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は? »