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2010年3月25日 (木)

遠く離れても親子の絆~シーボルトとイネ

 

文政九年(1825年)3月25日、オランダ商館医シーボルトが第13代将軍・徳川家定に謁見しました。

・・・・・・・

シーボルトと言えば、やはり、ご禁制の日本地図を国外へ持ち出そうとして国外追放となったあのシーボルト事件・・・

このブログでは、この事件を摘発した公儀隠密間宮林蔵サイドのお話(5月17日参照>>)、また、他にもよく似た出来事があったにも関わらず、この事件だけが摘発された謎めいた部分のお話(9月25日参照>>)を書かせていただいておりますが、そう言えば、シーボルト自身については、あまり触れていなかったなぁ~

・・・という事で、本日は、シーボルトさん自身について、その人となりなどご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1786年、ドイツはバイエルン州のヴュルツブルグという町のお医者さんの家に生まれました。

その家庭環境からヴュルツブルグ大学の医学部に入学した彼は、専門の医学だけではなく、動物学や植物学・民族学などを精力的に学びます。

卒業後は、しばらく町医者として勤務していましたが、オランダの軍医となった事で、当時、交易のあった日本のオランダ商館の医師として長崎に派遣されたのです。

文政六年(1823年)8月11日に長崎に到着した彼の使命には、医師という事だけでなく、日本という国の調査も含まれていましたが、それが、スパイと呼べるかどうかというのは微妙なところではあります。

なんせ、スパイ行為は秘密裏に行われるものですから、その成果は表には出ません。

結局は、公に彼の残したものは、日本という国をヨーロッパに紹介するという範囲にとどまっています。

まぁ、その細かな調査の内容はともかく、当時は、たとえ交易のあるオランダと言えど、本来は出島から一歩も出る事は許されなかったわけですが、医者という職業であった彼は、その職業の重要性から、町へ出て、日本人の病人を診察する事も特別に許可されていようです。

そんな中、1年間の勤務で、長崎での信頼を得たシーボルトは、鳴滝に家を持つ事を許され、ここに『鳴滝塾(なるたきじゅく)を開設し、西洋医学を広める場所としました。

ここには、全国各地から意欲旺盛な若者が集まり、彼に教えを乞うとともに、シーボルト自身も、彼らから日本の事をいろいろと学びます。

一方で、この頃、シーボルトは日本人女性・楠本滝と知り合い、一目ぼれの末、結婚・・・そんなこんなの文政九年(1826年)、彼は江戸参府に同行する事となります。

さすがの彼も、自由に旅行する事などは許されていませんから、今回の江戸行きは、まさに、絶好のチャンス!

道すがら、植物を採取したり、動物の生態を観察したり・・・富士山の高さも測っていたと言います。

また、行く先々で、彼に西洋医学について教えを乞う日本人とも会いつつ、江戸に到着・・・文政九年(1825年)3月25日第13代将軍・徳川家定にも謁見したのです。

もちろん、江戸在住の日本人医師をはじめとする多くの人とも交流し、お互いの情報交換や、日本研究に役立つ品なども手に入れ、彼にとってはとても有意義な江戸参府でした。

翌・文政十年(1827年)には、奥さんとの間に娘のイネも生まれ、まさに充実した生活を送るシーボルトでしたが、幸せな日々は、そう長くは続きませんでした。

そう、オランダ商館医の仕事には、任期という物があります。

彼は、その任期満了に従って国に帰らなければなりませんが、日本人である奥さんと娘を連れていく事はできません。

文政十一年(1828年)・・・いよいよ別れの時が近づくシーボルト一家でしたが、それに追い討ちをかけたのが、冒頭に書かせていただいたシーボルト事件

国外追放・再渡航禁止の処分を受けた彼は、2度と日本に戻る事ができない・・・つまり、今回の別れが永遠の別れとなってしまう事になったのです。

しかし、天は彼らを見放してはいませんでした。

そうです。

世は、まさに幕末の動乱・・・攘夷派を一掃して、幕府が開国に傾いた安政六年(1859年)、以前の罪が許され、彼は再び長崎に来る事ができたのです。

実に30年ぶりの家族の再会・・・この間、シーボルトは国外追放になりながらも、娘・イネにたびたび手紙を送り、成長すればオランダ語学書なども送付して、お互いの交流を続けていたと言います。

イネにとっては、まだ記憶のない幼い頃に別れた父・・・しかし、その心は、遠く離れた異国で、しっかりとつながっていたのです。

その証拠と言えるのが、イネの進んだ道・・・父と同じ医学の道に進み、日本初の女医をめざす彼女の行動こそが、その30年間の親子の絆を伝えてくれています(6月20日参照>>)

この時、63歳になっていたシーボルトは、その30年間の時を埋めるように、娘・イネに西洋医学を伝授しています。

2度目の来日は、わずか3年間ではありましたが、親子にとっては実に有意義な日々だったに違いありません。

文久二年(1862年)、再び日本を去ったシーボルト・・・その4年後の1866年、母国・ドイツのミュンヘンにて、70歳の生涯を閉じました。

まるで、神様のプレゼントのような再来日・・・おかげで、シーボルトにとっては、長年の胸のつかえのとれた大往生だった事でしょう。

・・・と、感動物語で終らせておこうかどうか迷いつつ・・・「美しく終らせすぎ!」「なんで書かないの?」とのツッコミの嵐になる可能性もあるので、無粋ながらチョイとひとこと・・・

実はシーボルトさん・・・この2度目の来日の時に、妻・滝さんとイネが雇った新しい家政婦に手をつけ、子供まで作っちゃってます。

男・シーボルト63歳・・・まだまだ、やるネ!(v^ー゜)

 

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コメント

こんにちわ、茶々様。
シーボルトが娘のイネさんと再会し、彼女が医学を志している事を知った時の彼が感じた事を想像するだけで・・・今日の話は『エエ 話やなぁ~』とウルウルしながら読んでいましたが、最後にオチが・・・┐(´д`)┌ヤレヤレ

投稿: DAI | 2010年3月25日 (木) 12時52分

DAIさん、こんにちは~

生まれた赤ちゃんが弟さんなのか?妹さんなのか?は存じあげないのですが、その事を知ったイネさんは、けっこうおかんむりだったようです。

そうそうドラマのようにはいきませんね。

投稿: 茶々 | 2010年3月25日 (木) 13時57分

たきさんは遊女さんだったんですか。そして国際結婚、離別、再婚、再会、そして・・・滝さんの境遇と年齢からそれほど目くじらを立てなかったかも、という気がしますが、娘さんにしてみれば自分の辛い過去もあって「パパの馬鹿!」と思ったかも。イネさんは生涯独身だったのですか?温かい家庭は持てなかったんでしょうか?この時代のハーフの方は大変だったでしょうね。

投稿: Hiromin | 2010年3月25日 (木) 23時16分

Hirominさん、こんばんは~

やっぱ娘から見るとねぇ~~
父親はやっぱかっこよくいてほしいですもんね。

イネさんのページ>>でも書かせていただきましたが、大村益次郎とのロマンスがありながらも生涯独身で、心ならず出産した女の子は、女手ひとつで立派に育てて、その娘さんも、やはりお医者さんと結婚しています。

投稿: 茶々 | 2010年3月25日 (木) 23時45分

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