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2010年4月30日 (金)

いにしえの奈良の都の八重桜~平成の世に咲き誇る

 

♪いにしへの 奈良の都の 八重桜
  今日九重
(ここのへ)に 匂ひぬるかな ♪

「詩花(しか)和歌集」にある伊勢大輔(いせのたいふ)の歌です。

百人一首の61番目にも収められているところから、ご存知の方も・・・

いや、あの
♪あをによし 奈良の都は 咲く花の・・・♪
と、並んで、奈良を詠んだ歌の代表格とも言える超有名な歌ですよね。

作者の伊勢大輔は、第66代・一条天皇の中宮であった藤原彰子(しょうし)に仕えた女房・・・そう、あの紫式部や和泉式部の同僚です。

もちろん、大輔も、彼女らに負けず劣らずの才女で、彰子中宮を囲んでの文化サロン=勉強会のスターでありました。

歌の意味は・・・
「その昔、奈良の都に咲いた八重桜が、今日は、この平安の都の宮中(九重)に咲き匂っているわ!」てな感じ。

実は、この日、時の天皇=一条天皇のもとに、奈良は興福寺の境内に咲く霊木として名高い八重桜の一枝が献上されたのです。

ちょうどその時に、一条天皇のそばにいた大輔に、天皇が
この桜を題材に、いっちょ詠んでみてよ!」
と、歌をご所望・・・
で、大輔が、即興で詠んだ歌が、この歌だとの事です。

Dscn0447a800

その桜は、もともと、春日大社の神体山から、第45代・聖武天皇の時代に平城京へ・・・さらに、興福寺の境内に移植されていた物で、それはそれは霊験あらたかな霊木で、その場所は、すでに平安の頃から、奈良の名所として人々に親しまれ、江戸時代や明治初年の「奈良・名所絵図」にもしっかり描かれています。

とは言え、この八重桜、一般的な、いわゆる八重桜ではなく「ナラノヤエザクラ」という一つの品種なわけで、繁殖力が弱く、一時は絶滅したかと思われていた物・・・

それが、近年になって、わずかに3樹だけ自然に生えている事が確認されました

もちろん、「奈良・名所絵図」に描かれたその位置に、歌に詠まれたその桜は、今も、咲き誇っているのです。

・・・で、昨日、その勇姿を見て参りました。

・・・と言っても、この桜を見に来るのは、すでに4度目・・・1度目は4年前の早春で、2度目は一昨年の正倉院展・開催中の秋・・・

Dscn0344a600 どちらも桜の季節ではなかったので、3度目の正直とばかりに・・・
実は、6日前にも行っております。

 
しかし、今年は、皆様ご存知の寒い春・・・「きっと咲いてる」と思って行った6日前は、まったくのつぼみ状態で(←写真左)、「今年は、もうダメかな?」と、一度は、諦めたのですが・・・

その6日前の時に、「鹿よけ」との事で、周囲に金網を張る準備がされていて、「ひょっとしたら、来年は、そばに近づけないのではあるまいか!」という不安にかられ、急遽、本年2度目の桜見物におもむいたわけです。

・・・で、昨日は・・・
見事に、咲いておりました~~!

Yaezakura11a800 右側の桜のそばにあるのが「天然記念物」と書かれた石碑です

ただ、来年どころか、この1週間で、すでに金網が完成しており、6日前は行けた「天然記念物」と書かれた石碑のところには、近づけないようになってしまってしました~~残念!

でも、大切な天然記念物の桜の安全のためですから・・・しかたないです。
いや、むしろ、「ハデハデな色の金網ではなく、黒の目立たない金網にしてくださってありがとうございます」と言いたいくらい、周囲の風景になじんでいる金網で、少し、安心しました。

Narayaezakuratizucc さて、その八重桜の場所ですが・・・

東大寺の大仏殿の、ちょうど真裏にある道を北へ・・・左手に正倉院を見ながら、さらに進んで、「奈良奥山ドライブウェー」の入り口のちょっと手前。

右手の知足院というお寺への入り口の階段へと向かう細い道へ曲がり、さらに、その途中にある道を右・・・

 
Dscn0437600 坂を登ると、こんな感じ→で見えてきます(地図にある印がその桜です)

★明治になるまでは、現在の奈良公園一帯が興福寺の境内だったんですよ
(11月4日参照>>)

 

 

聖武天皇が見た桜・・・
平安貴族が歌に詠み、
江戸時代の名所絵図に描かれた桜・・・

いにしえの桜が、今年も花を咲かせ、
その勇姿と香りを、さも誇らしげに・・・

「途中、荒廃して代替わりしている」なんて噂もありますが、
そんな噂は聞かなかった事にして、
悠久の歴史ロマンに浸ってみようではありませんか!
 .

周辺の散策ルートは、本家HP「奈良歴史散歩」の『奈良坂から正倉院へ…』のページ>>でどうぞ
 

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2010年4月29日 (木)

私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣

慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日、豊臣方の大和郡山城・奪取に戦端が開かれた大坂夏の陣において、和泉南部の井で、徳川方の浅野長晟の軍勢とぶつかった塙団右衛門直之が討死しました。

・・・・・・・・・・・

関ヶ原の合戦に勝利して征夷大将軍になって江戸幕府を開いて(2月12日参照>>)・・・もはや天下を手中に収めたかに見える徳川家康の最後の敵は、豊臣秀吉の後を継いで大坂城に君臨する遺児・豊臣秀頼・・・

秀頼が寄進した京都・方広寺の鐘銘(7月21日参照>>)、家康がイチャモンをつけたところから始まった大坂冬の陣は一応の和睦となりましたが(12月19日参照>>)、それもつかの間、翌・慶長二十年(元和元年・1615年)3月15日、京都所司代板倉勝重(かつしげ)から「大坂方に謀反の企てアリ」の報告を受けた家康は、翌・4月4日に、名古屋の息子の婚儀に出席するという名目で駿府を出発・・・10日には京都に入りました。

続く21日には、すでに家康から将軍職を譲られて2代将軍となっていた徳川秀忠も京都に入り、いよいよ、一触即発の状況となります。

戦端が開かれたのは4月26日・・・

圧倒的な兵力の差に、「ただ籠城していたのでは戦況を有利に進められない」と判断した豊臣方の籠城軍・主将格の大野治長(はるなが)は、先手を打たんと、自らの弟・大野治房(はるふさ)と、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000に大和郡山城を落させます(4月26日参照>>)

ここに、大坂夏の陣の火蓋が切られました。

続いて、たたみかけるように翌・27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ちます。

さらに、2日後の慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日、和泉路を行く治房隊は、樫井(かしい・泉佐野市)にて、徳川方に属する紀州(和歌山県)浅野長晟(ながあきら)軍とぶつかったのです。

この戦いで活躍したのが、本日の主役=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)です。

ご存知の方も多いでしょうが、先の後藤基次とともに講談本でもてはやされた滅びのヒーロー・・・その豪快な生き様から、根強いファンの多い戦国武将です。

織田信長や秀吉にも仕えたと言いますが、彼が表舞台に登場するのは、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(4月21日参照>>)の1人・加藤嘉明(よしあき)に仕えてから・・・

しかし、その配下の鉄砲大将として参加した関ヶ原の合戦で、主君・嘉明からの「負け戦に見せかけて敵をおびき出せ」との命令を、「そんなズッコイ事できるかい!」と逆らい、真正面からさんざんに鉄砲を撃ちまくって帰還しました。

当然、怒り爆発の嘉明・・・「お前は大将の器やない!鉄砲隊を任せた俺が間違てたわ!o(゚Д゚)っとさんざんに怒られてしまいます。

しかし、自分の戦い方に信念を持つ団右衛門のほうも怒りはおさまらず・・・とうとう屋敷の書院の大床に、
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」
(ついとどまらずこうなんのやすい たかくてんをとぶいちかんおう)
「こんなキッタナイ水に留まってられるかい!俺は空高く飛ぶ自由なカモメなんじゃ!」
と、初の女性宇宙飛行士・テレシコワを彷彿とさせる名文句を書いた紙をデカデカと貼り付け、そのまま出奔・・・

それを見た嘉明は、さらにヒートアップ!
団右衛門を「奉公構(ほうこうがま)え」の処分に・・・

この奉公構えというのは、かの後藤基次が、やはり元主君だった黒田長政にやられたのと同じで(5月6日参照>>)、元主君が「コイツはアカンやつですから、仕官を希望してきても雇わんように・・・」と、周辺の武将に根回しする・・・いわゆる「お前、ほすゾ!」ってヤツです。

やはり、基次と同じく、知らずに雇った福島正則(まさのり)が、奉公構えの話を聞いて、慌てて解雇する・・・なんて一幕もあったようですが、だからこそ、今回の合戦に向けて大量の浪人を募集した大坂城へとやってきていたわけです。

そんな団右衛門さん・・・以前書かせていただいたように、自分を奉公構えにした元主君・嘉明への怨みを晴らすべく、先の大坂冬の陣では、「夜討ちの大将」の異名を取る大活躍でした(12月16日参照>>)

今回の樫井の戦いでも、自ら、先鋒をかって出ます(2013年4月29日参照>>)

しかし、この日は雨上がりで霧が深かった・・・団右衛門の相手となった浅野配下の亀田高綱(たかつな)は、見通しをよくするために市街を焼き払い、銃撃隊を潜ませて、彼らを待ち伏せします。

そこへ現われた団右衛門ら・・・いきなりの鉄砲に、先頭の数名が倒れる中、ひるむ事なく進む団右衛門は、自らが先頭にたって突撃を開始します。

あまりの猛攻に、亀田隊は後退・・・ほどなく到着した川の堤を盾に防戦します。

しかし、勢いに乗る団右衛門隊は、この堤も占拠し、さらに隊を二つに分けて押し進み、浅野軍の先鋒に大打撃を与えます。

そのまま樫井の市街地へと突入した団右衛門らは、激しい白兵戦を展開しますが、白兵戦となると、しだいに数に勝る浅野軍が有利に・・・

得意の十文字槍を繰り出して奮戦する団右衛門でしたが、圧倒的な数の兵を次から次へと繰り出す浅野軍・・・気づけばそこは敵兵に囲まれ、味方は、自分一人だけ・・・

大きくを息をついてまわりを見据え、再び縦横無尽に駆け回る団右衛門に、「槍ではかなわぬ!」と見た浅野配下の多胡助左衛門(たごすけざえもん)は、ジリジリと弓を引き、狙いを定め、至近距離から一矢・・・

放たれた矢は、団右衛門の太ももを射抜き、思わず落馬してしまいますが、その攻撃で助左衛門の存在に気づいた団右衛門は、すかさず槍で一突き・・・助左衛門が弓でそれを払ってかわしたところを、後ろから近づいた八木新左衛門(やぎしんざえもん)なる武将に槍で突かれてしまいました。

おびただしい出血の中、それでも新左衛門を討たんと立ち向かう団右衛門の気迫に、回りを囲む敵兵は、思わず息を呑みます。

しかし、さすがの団右衛門も、その流血の多さに、ここで力尽き・・・倒れたところ、首を取られたのでした。

男・塙団右衛門直之・齢五十・・・ここに、その豪快な人生を終えます。

中夏依南方 留命数既群 一生皆一夢 鉄牛五十年
「南国のような夏に 命留めた者たち・・・
 人生って一瞬の夢のようやん by鉄牛五十年」

逸話によれば、新左衛門の突きに倒れた時、その流れる自らの血で、懐紙に書きとめた辞世だと言います。

鉄牛とは、嘉明から奉公構えにされ、仕官をあきらめて京都にて出家した時に号した僧としての団右衛門の名前・・・しかし、帯刀しながら托鉢(たくはつ・僧が鉢を持って辻に立ったり家を訪問したりして米や金銭を得る事)するその姿には、やはり、武士を捨てきれなかった団右衛門の思いを感じます。

果たして、最後の最後に、彼の脳裏に浮かんだのは、
縦横無尽に駆け巡った戦場か、
はたまた、夢を追って修行した京の町並みか・・・

かくして、
京街道を北東から、
大和路を南東から、
2手に分かれた徳川軍本隊が難攻不落の大坂城に迫るのは、5月6日の事でした(5月6日参照>>)
 .

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2010年4月28日 (水)

謎の彫刻師・左甚五郎

 

慶安四年(1651年)4月28日、江戸時代初期に活躍した彫刻師・左甚五郎が57歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

・・・と言っても、架空の人物説まである謎の人物です。

Tioinkasa日光東照宮「眠り猫」を代表に、江戸初期の神社仏閣などには、左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品と称される物がいくつかあるものの、その経歴や人となりなどはまったくわからず、人物像が浮かんで来ないのです。

(写真は、京都・知恩院にある「左甚五郎の忘れ傘」=甚五郎が魔よけのために置いていったと言われています)

現在確認される中では、延宝三年(1675年)に黒川道祐(どうゆう)なる人物が著した『遠碧軒(えんぺきけん)記』という文献が、比較的早くに書かれた物で、、
「左の甚五郎と云もの 栄徳が弟子にて細工を上手にす
今の北野の社のすかしほりもの
ならびに豊国の社頭のほりもの 竜は栄徳が下絵にて彫れり
それゆへに見事なり
左の手にて細工を上手にしたるものなり」

と・・・

「北野社や豊国社の彫刻をほどこした左ききの人」
という事しかわかりません。

・・・で、現在のところ、この左甚五郎に関して、最もくわしいのは、この甚五郎から数えて7代目の子孫にあたるという左光挙(こうきょ)さんの調査結果・・・

さすがに、ご本人のご先祖様という事だけあって、丹念に調べ上げておられます。

甚五郎は文禄三年(1594年)に播磨(兵庫県)明石に生まれ、13歳の時に、京都伏見の禁裏大工棟梁遊佐法橋(ゆさほっきょう)与平次という人物に弟子入りします。

その後、根来寺東照宮上野寛永寺の造営にたずさわり、寛永十一年(1634年)に、大工頭として讃岐(香川県)高松藩主・生駒高俊に仕えます。

当時の名を宗恵と号した甚五郎は、その後、いったん京都へ戻った後、再び高松藩に客人棟梁として迎え入れられ、慶安四年(1651年)の4月28日亡くなったという事だそうで・・・。

しかし、これには異論もあります。

江戸時代の百科事典『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)には、
「飛騨の甚五郎と称せられたるを のちの左と誤りとなへしも知るべかざる」
とあり、甚五郎は飛騨の匠(たくみ)であり、讃岐の甚五郎とは別人であるという物です。

飛騨は、奈良・平安の頃の昔から木工技術者を多く輩出している場所で、言わば伝統産業・・・

そんな中で、当時は甚五郎と名乗る、飛騨出身の職人が複数おり、左甚五郎は、その中に1人ではないか?というのです。

また、そこから、彼ら飛騨の匠たちのそれぞれの逸話が統合され、いつしか左甚五郎という1人の人物のように語られるようになったとも言われます。

落語や講談では、それらの逸話を、さらにおもしろおかしく脚色するわけで、今となっては原型を見るのも難しい・・・って事に・・・。

Dscn1303800 欄間が左甚五郎の作といわれる石清水八幡宮(京都)の本殿

しかし、芸術家や職人さんにとって、作り出した作品こそが命・・・自身が、どのような人物で、どのような人生を送ったかは、おそらく関係ないはずです。

思えば、その人物像は、まったく謎のまま、伝説だけが語られ、作品が見事に残る・・・

これなら、あの世の甚五郎さんも、きっと満足しておられる事でしょう。

写楽と同様に、謎に包まれたままのほうが、その魅力も増すというものですね。
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2010年4月27日 (火)

郵便の父・前島密の功績

 

大正八年(1919年)4月27日、「郵便の父」として知られる前島密が85歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

維新の動乱期、大久保利通(としみち)が推し進めた「大坂遷都案」(1月19日参照>>)をバッサリ斬り捨て、「東京遷都論」を展開した事でも知られる前島密(ひそか)・・・首都になりそこねた大阪府民としては、ちょっとうらめしいお方ではありますが、近代日本の郵便制度を確立させた功績は、やはり、すばらしいものですね。

Maezimahisoka400 越後(新潟県)の豪農・上野家の次男として生まれた密・・・幼名は房五郎(ふさごろう)と言います。

幼い頃から、誰もが認める優秀さで、本人は医者を目指して、12歳の時に江戸へ出ます。

医学の他にも英語を習い、毎日勉強に励む彼でしたが、あのペリーの黒船を見たのをきっかけに、学問の方向性を変えます。

数学、経済学、航海術・・・その目標は、新しい国家建設に必要な知識の習得へと変わったのです。

やがて、慶応二年(1866年)、縁あって幕臣の前島家の養子となり、前島来輔(らいすけ)と名乗ります。

幕臣ですから、維新後は静岡藩で開業物産掛(かかり)の業務を務めていたのですが、明治三年(1870年)、近代国家建設に役立つ人材を求めていた新政府の目に止まり、大蔵省改正掛への勤務を命じられます。

ここは、上司として大隈重信(おおくましげのぶ)渋沢栄一が所属する重要部署・・・日本が近代国家へと生まれ変わるための制度改革を行うところで、所属メンバーは、海外経験者や外国奉行所勤務者などのエリートばかりでした。

そんな中で、彼は、鉄道建設の概算や経営計画などを担当して成果をあげます。

その実績もあって、鉄道建設の借款(しゃっかん・国と国とのお金の貸し借り)契約を結ぶという任務を命じられ、イギリスへと向かう事になるのですが、同時に外国の郵便制度を調査する事も、彼に課せられた大きな任務でした。

1年足らずの滞在の後、翌・明治四年に帰国した彼は、現地で目の当たりにした知識を生かして、早速、明治四年3月1日から、東京・京都・大阪の3都市での、郵便事業のスタートに取り掛かりますが、まずは、江戸時代から続く飛脚制度の廃止・・・

それまでは民営だった郵便制度を、この日から1年かけて全国津々浦々まで、国営で事業展開される事になります。

ちなみに、この明治四年3月1日を新暦になおすと西暦1871年4月20日なる事から、毎年、4月20日は『郵政(逓信)記念日』という記念日なのだそうです。

平成の今となっては、国営が良いのか?民営が良いのか?
意見の分かれるところでもありましょうが、この明治の世での国営化は、絶対に必要な事だったのです。

・・・というのも、ご存知の方も多いかも知れませんが、江戸時代の飛脚という物は、かなりの高額だったわけで、よほどのお金持ちしか、その制度を利用できなかったのです。

前島密が目指したのは、誰もが気軽に利用できる安価の郵便制度・・・しかも、民であろうが官であろうが、区別のない同一料金で、日本全国すべての場所に届けられる事・・・。

ただ、手紙の中には、秘密にしたい大事な手紙もある・・・
大事な手紙ならば、それが相手に届いたかどうかが気になる・・・
さらに、大事な内容ならば、一刻も早く知らせたい時がある・・・

しかし、安価を売りに発足する統一料金の制度では、できるサービスにも限りがあります。

そこで、彼が考えたのが「速達」「書留」・・・今、現在も使われているこの名称は、この前島密が命名した物なのです。

もちろん、「郵便切手」という名前も前島さんの命名・・・

この切手についても、何回も使われる事を防ぐには、どうしたら良いかという所での苦労があり、はじめは、薄くて弱い「玉川唐紙」という紙に印刷して、なんとが防いでいたのですが、後に、アメリカ旅行の途中、乗っていた船のアメリカ人船長に、「消印」という物がある事を聞き、以後は、その「消印」が採用される事になったのです。

さらに、明治八年(1875年)には郵便為替郵便貯金も誕生・・・同じ年には外国へ手紙を出せるシステムも構築し、世界に誇れる近代的な郵便制度となったのです。

何よりも、庶民の利便性を一番に考え、何もないところからのスタートで郵便制度を確立させた前島密は、自らが命名した1円切手の顔として、現在も活躍中です。

郵政民営化の是非が問われる平成の今・・・今度は貯金の限度額を上げるの上げないのと・・・
 

論争をくりかえしている議員の皆様!
それは、本当に、
庶民の利便性を一番に考えた制度ですか?

とにもかくにも、前島さんに恥ずかしくないような、平成の郵便制度を構築していただきたいと思います。
 .
 

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2010年4月26日 (月)

松川合戦で活躍する岡左内~そのケチ的ポリシー

 

慶長六年(1601年)4月26日、白石城を出陣じた伊達政宗と、迎え撃つ上杉景勝配下の武将らがぶつかった松川の戦いがありました。

・・・・・・・・・

あの関ヶ原の合戦と同日に、西軍に属する上杉景勝(うえすぎかげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)が、東軍に属する最上義光(もがみよしみつ)の領地へと侵攻した事で東北の関ヶ原とも呼ばれる長谷堂の戦い(9月16日参照>>)

しかし、その天下分け目の関ヶ原が、わずか半日で決着がついてしまった事から、やむなく、長谷堂城を落せないまま、上杉軍は米沢へと帰還する事となります(10月1日参照>>)

しかし、東北における東軍勢力は、最上だけではありません。

いや、最上なら、未だ単独で上杉を相手にできるほどの大国ではなかったかも知れませんので、むしろ上杉にとっては、コチラのほうが強敵・・・それが、あの伊達政宗(だてまさむね)です。

関ヶ原前後の一連の合戦において、徳川家康からの協力要請を受けた政宗は、すでに関ヶ原の2ヶ月前の7月に、上杉領の北の端にある白石城を落としたのを皮切りに、関ヶ原で大勢が決着した後も、福島城をはじめとする上杉領への侵攻をくりかえしていたのです(8月12日参照>>)

なんせ、政宗にとっては、自らが合戦に勝利して拡大しつつあった領地を、豊臣秀吉政権時代の小田原征伐への参加の遅れ(6月5日参照>>)で大幅カットされてしまったわけで、ここは一つ、関ヶ原の東軍勝利の勢いに乗じて、旧領回復へと持ち込みたい気持ちもわからないではありません。

かくして慶長六年(1601年)4月16日、再び福島城を攻撃すべく白石城を出陣した政宗・・・これを迎え撃つべく福島城を出陣したのは、福島城代・本庄繁長(ほんじょうしげなが)をはじめとする諸将。

両者は、慶長六年(1601年)4月26日松川でぶつかったのです。

・・・とは言え、この松川の戦いは、複数の文書に複数の記述があり、その日づけも内容も少しずつ違っていたりもします。

その中で、『改正三河後風土記』『東国太平記』『会津陣物語』の3者に、その日づけが4月26日と明記されていますので、本日、書かせていただいたわけです。

かなりの激戦となった後、結局は、政宗が兵を退く事になる、この松川合戦ですが、この日、その大将・政宗に斬りかかり、太刀を交えて大活躍する福島城兵の岡左内(さない)という武将・・・実は、今日は、この人物の事を書きたかったのです。

長い前置き、失礼しましたo(_ _)oペコッ

・‥…━━━☆

上杉の前には、あの蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)に仕えていた岡左内・・・その優れた武勇から、数々の武功を挙げて、やがては1万石にまでのし上がります。

しかし、彼には変なクセがあったのです。

それは、座敷に大判・小判を敷き詰めて、その上に寝転び、一枚一枚を眺めたり、アチラの一つを手に取ってひっくり返しては、また、コチラの一つを手にとって・・・と、この状況をただひたすら繰り返しながら、うっとりと過ごす。

これが、彼の至福の時だったのです。

もちろん、これらの大判・小判は、一発で手に入れたものではありません。

まだ、その知行が150石に満たない頃から、草履などを作っては、同僚や家来・・・果ては配下の町人にまで売って、コツコツと貯めて、徐々に大きくしていった物なのです。

とりわけ、身分が低い武将にとっては、副業や内職も当然なのですが、ある程度出世すれば、普通は、そのような事はしなくなるもの・・・

しかし、上記の通り、そのお金を溜め込んで観賞するのが趣味の左内ですから、そのケチぶりは、いくら出世しても収まりはしないわけです。

「武功の誉れ高いのに、浅ましい趣味で恥ずかしくないんかいな!」
「こないだは、最近は誰も着んような着物着とったで!」
「しかも、それ、裾がすりきれとったで!みっともない」
「よっぽど、金を使うのが惜しいんやろなぁ」
と、周囲からも非難ゴウゴウでしたが、本人はいっこうに気にせず、やはり、毎日のように、大判・小判との戯れのひとときを味わい続けていたのです。

ところが、ある日、いつものごとく、よだれを流しながら(←これは想像( ̄ー+ ̄)至福の時を過ごしていたとき、自らの領地内で領民同士のモメ事があり、一触即発の流血騒ぎになりかねない状況というのを耳にした左内・・・その仲裁をすべく、慌てて館を飛び出します。

そして、そのまま、なんと昼夜ぶっ続けで2日間に渡って、両者の言い分を聞きつつ説得をして、ようやく収拾に向かった事を確認して、やっと家路につくのですが、実は、この間、屋敷のあの部屋に大判・小判を敷き詰めたままにしていた事を、まったく忘れていのだとか・・・

一部始終を目撃していた者たちは、上に立つ者としてのその仲裁の見事さにも驚いたものの、あのケチの殿様が、お金の事を忘れていた事にも、大いに驚いたと言います。

そう、実は、彼は、ただのケチではなかったのです。

蒲生家に仕えていた時には、馬1頭=金1枚が相場のところを、金7枚の値段がついた名馬を揃えて見せたり、後に上杉に仕えていたこの関ヶ原の頃には、会津に引っ越したばかりで、資金がなかった主君のために1万貫をサッと差し出したと言います。

それが、左内のポリシーだったのです。

お金は、いざという時のために貯めるもの・・・
そして、いざという時には惜しみなく使うもの・・・

なんか、大判小判に転がってる姿を忘れてしまうくらいカッコイイ~(゚▽゚*)

ムダな金を使うなんて失敗は犯さないってか!
岡左内だけに・・・チャンチャン( ´艸`)
 .

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2010年4月25日 (日)

江戸初期・最大の謎~大久保長安の懲罰事件

 

慶長十八年(1613年)4月25日、徳川家康配下で、佐渡金山などを開発した大久保長安が69歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

この大久保長安(ながやす)さん・・・もともとは、武田家の家臣でした。

あの天目山の戦い(2008年3月11日参照>>)武田勝頼以下、武田氏を滅亡に追い込んだ織田信長は、執拗に、その残党狩りを行ないます。

一部の残党には抵抗した者もいましたが、そのほとんどは圧倒的な兵力の差に、ただただ身を隠して逃げ回らねばなない状態・・・。

先代・信玄からの家臣である長安も例外ではなく・・・
なので、この頃の彼の消息は不明・・・

そんな不遇の生活から開放されたのが、武田滅亡から3ヶ月後に起こった本能寺の変(6月2日参照>>)・・・肝心の信長が亡くなってしまったのですから、その家臣は「武田の残党」どころの騒ぎではありません。

すぐさま畿内にかけつけて、事の真相を把握しなければ!

ここで、命拾いした長安・・・というのも、信長死亡のドサクサに乗じて甲斐(山梨県)を手に入れた徳川家康は、武田の残党狩りどころか、むしろその配下の者たちを自らの軍に引き入れる事を積極的に行ったからです。

これは、家康が信玄の軍事や政治のやり方を尊敬していたからだとも言われますが・・・

とにもかくにも、あの「武田の赤備え(あかぞなえ)を、そっくりそのまま井伊直政に受け継がせて「井伊の赤備え」にしたり(10月29日参照>>)「甲州水軍」徳川の水軍にしたり(11月7日参照>>)・・・

そんな中で、特に厚遇で登用されたのが長安でした。

それには、甲斐の地に館を建てて家康に献上したからだとも、桑木の風呂をプレゼントしたからだとも言われますが、実際のところは、やはりその才能・・・鉱山や治水に関する技術のすばらしさをかわれたものと思われます。

こうして徳川の一員となった長安は、大久保忠隣(ただちか)の配下となり、忠隣に気に入られた長安は、ここで、その姓を大久保としています(これまで大蔵→土屋でした)

家康の政権になった後も、幕府直轄地の統治に、その手腕を発揮するとともに、石見や佐渡、伊豆などの鉱山の開発にも貢献します。

徳川幕府の草創期に欠かせない人物として重要された長安は、最終的には120万石相当に達したと言われるほどに上りつめます。

しかし、慶長十八年(1613年)4月25日・・・長安の病死によって、徳川の態度は豹変します。

まずは、長安の葬儀の中止

そして、莫大な遺産の没収

さらに、遺子7名の切腹親類縁者の改易・・・

いったい、なぜに???

それには、彼が、あまりにも寄せられた信頼ゆえ、金山をはじめとする様々なものの管理・統轄権を与えられていた事を良い事に、不正な蓄財をくり返し、私腹を肥やしていたというのが、一般的な見方のようですが、その証拠となる物も存在せず、確かに裕福ではありましたが、不正かどうかは今ひとつつかめず、実際には多くの謎がひしめき合っています。

有力視されている別の説では、彼の直属の上司である大久保忠隣と政治的に対立関係にあった本多正信(ほんだまさのぶ)との権力抗争に巻き込まれてしまったのではないか?と・・・。

つまり、本当のターゲットは忠隣だけれど、忠隣側を弱体化させるために、まずは長安の不正蓄財をでっちあげて粛清を行ったのでは?という事です。

現に、この後、ほどなく忠隣自身も失脚の憂き目に遭っています

また、長安が、その莫大な財力を生かして幕府転覆をたくらんでいた・・・という説もあります。

あの伊達政宗遣欧使節派遣(8月26日参照>>)を影で支援し、家康の6男=松平忠輝将軍に据えた新しい幕府の構想を練っていたとか・・・

まぁ、上記のように金山などの統轄を一手に引き受けていた長安には、実際には、その石高以上の収入があり、それが、幕府直轄領に影響を与えるほどになっていたとも考えられ、謀反をたくらむウンヌンよりも、それが、すでに幕府の脅威となっていたという事もありますしね。

・・・と、本来ならブログに書く以上、ここで、自分なりの見解などを提示せねばならないところではありますが・・・申し訳ありませんm(_ _)m

この一件に関しては、未だ私見がまとまらず、恥ずかしながら、今回は、「江戸幕府初期最大の謎としてご紹介する」という形で、このページをまとめさせていただきたいと思います。

今後、何か思うところがあれば、その時に、再び書かせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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2010年4月23日 (金)

柴田勝家&お市・最後の宴~北ノ庄城・炎上前夜

 

天正十一年(1583年)4月23日、先日の賎ヶ岳の合戦に敗れた柴田勝家の籠もる越前北ノ庄城を、前田利家を先鋒とする羽柴秀吉が包囲しました。

・・・・・・・・・

織田信長亡き後、その三男の神戸信孝を抱え込んだ織田家重臣・柴田勝家と、次男の織田信雄を抱え込んだ羽柴(豊臣)秀吉による事実上の信長・後継者争い賎ヶ岳(しずがたけ)の合戦・・・(4月21日参照>>)

勝家側として参戦するも、途中で戦線を離脱した前田利家を味方につけた秀吉は、彼を先鋒に据え、勝家の本拠地・越前(福井県)北ノ庄城に迫ります(2009年4月23日参照>>)

手痛い敗北を喰らって、途中途中で離脱者を出し、すでに全員合わせても約3000ほどの人員となっていた勝家軍・・・

天正十一年(1583年)4月23日北ノ庄城の広間に家臣を集めた勝家は、
「俺が戦場から逃げ帰って城に入ったんは戦の運であって、死ぬのが怖かったわけやないねや。
けど、このまま死んで、君らの親戚や家族が、臆病者の家臣として侮辱を受けたりするとしたら、柴田家にとってこれほど不名誉な事はないさかいに・・・」

と、家臣たちに秀吉へ降伏するように勧めました。

多くの家臣が離脱する中、やはり、一部の旧臣たちは、このまま最後まで勝家とともに行動する事を望みます。

城の四方を囲む敵兵の、灯りもほの暗いその夜・・・残ってくれた80名ほどの家臣を本丸天守に集めた勝家は、ありったけのお酒を以って最後の宴を催します。

「あの猿面冠者(さるめんかじゃ)のせいで、こないになってしもたんはくやしいけど、こうなった以上は、思う存分に酒を酌み交わして、明日は浮世に別れを告げて、夜明けの雲の露と消えようやないかい!」
家臣に語りかける勝家・・・

そこには、家臣のほかに、妻・お市の方3人の娘、女房や尼僧など、身分を問わずに同席して、若い妓女にお酌をさせ、楽器を奏でて舞いを舞う・・・

この世の見納めとばかりに、ド派手に踊り狂うさまは、まるで、戦勝祝いのようだったと言います。

やがて、家臣たちも酔いつぶれ、宴の余韻を引きながらも静かなひとときが訪れます。

結婚して、わずか7ヶ月・・・61歳の勝家と31歳?のお市。

「なぁ、君は信長さんの妹やねんから、あのアホ猿にとっても主君筋・・・きっと大事に扱ってくれるやろうから、このまま3人の姫を連れて、ここを出たほうがええと思うんやけど・・・」
と勝家は、お市の方を説得・・・

しかし
「去年の夏に結婚して、今、こうなったのも運命・・・もう、覚悟はできてます。
出て行くやなんて、考えもしません・・・けど、3人の娘はまだまだ未来がある身ですよって、逃がしてやりたいと思います」

この夜、お市の方が前夫・浅井長政との間にもうけた3人の娘たちは城を出されます。

長女=茶々・・・後の淀殿です。
次女=・・・後に京極高次の妻となります。
そして、
三女=小督・・・後に徳川秀忠の妻となる来年の大河の主役・お江さんです。

Katuieoiti 勝家夫婦辞世の和歌を詠ずる図(絵本太閤記より)

白々と明ける運命の夜・・・

無事に脱出した娘たちの将来に思いを馳せながら、お市の方は、死出の旅路への歌を詠みます。

さらぬだに (うち)ぬるほども 夏の夜の
 夢路をさそう ほととぎすかな  ♪

「それでなくても短い夏の夜が終わちゃった・・・ほととぎすが誘うから、そろそろ逝かなくっちゃ」

妻の歌に勝家が答えます

夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
 雲井にあげよ 山ほととぎす  ♪

「アッと言う間やったけど、俺らの生きた証しとして、この名を高めてくれよ!ほととぎす」

そして勝家は、そばにいた留守居役の中村文荷斎(ぶんかさい)に、その歌を見せます。

文才のあった彼に、その返歌を求めたのです。

おもうどち (うち)つれつつも 行道(おくみち)
 しるべやしでの 山ほととぎす  ♪

「思うんですけど、お二人の行く先では、きっと、ほととぎすが道しるべとなってくれますよ」

(*ほととぎすは、黄泉の国へと導く鳥とされていました)
(*歌の訳には私的解釈が含まれてます)

その歌に満足したように深くうなずく勝家・・・ほのかに微笑むお市

やがて、静かなあけぼのを破るように、秀吉の総攻撃が開始されるのは午前4時の事でした。

完全に内容がかぶってますが(*´v゚*)ゞ、以前に【勝家&お市の方の最期】という記事も書いていますので、よろしければどうぞ>>
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2010年4月22日 (木)

真田家・佐久間象山ゆかりの妙心寺大法院・公開中!

 

本日は、現在、特別公開中大法院をご紹介します。

大法院は、JR京都駅から山陰線(嵯峨野線)で4番目にあるJR花園駅・・・有名な臨済宗大本山・妙心寺塔頭(たっちゅう・本山などの大きな寺に付属する寺)です。

Daihouin1a800 妙心寺塔頭・大法院

特別公開中・・・という事は、、、そうです、ここは、普段は非公開のお寺。

この大法院の一番の見どころが、客殿を囲むように広がる「露地庭園」と呼ばれるお庭で、春は目にしみる青葉秋は目に焼きつく紅葉が自慢なのです。

Daihouinp12a1000 大法院の露地庭園

なので、春の今頃と、秋の紅葉の季節のみ、そっと公開されるのです。

「露地」とは、茶室に付随するお庭の事で、茶道とも深い関わりがあります。

お庭は、仏教の清浄世界をあらわしていて幽玄をかもしだす演出・・・そんなお庭を心豊かに眺めながら、一服のお茶をいただき、和むひとときを味わう・・・

Daihouinp31a1000 優雅なひととき・・・且坐喫茶

「且坐喫茶(しゃざきっさ)・・・
座って、お茶をいただいて、お庭を眺めて、そして心静かに仏教の世界へ・・・
というのが、大法院の禅の心なのです。

Dscn0031600 なので、拝観には、お茶とお菓子がつき、お庭に面した広いお部屋にて接待していただけます。

これで、拝観料が600円・・・

下世話な話で恐縮ですが、私・・・びっくりしました。

 

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中学1年生の春以来・・・もはや、●十年とお寺巡りをしてきましたが、拝観にお茶とお菓子がついて600円のところは初めてです。
大抵、お札一枚いります。

値段の問題ではありませんが、そこに、この大法院さんが、いかにお庭とお茶の関係を重視しておられるかが、あらわれている気もします(←個人的感想です)

また、ここ大法院は、あの真田家ゆかりのお寺でもあります。

関ヶ原の合戦の時、父・真田昌幸と弟・真田幸村(信繁)苦渋の決別をした長男・真田信之(信幸)・・・

このブログでは、その犬伏の別れ(7月21日参照>>)と、奥さんの小松姫の話(7月25日参照>>)で登場する信之さんは、人気バツグンの弟・幸村に隠れて、ドラマなどではあまりスポットが当たる事のない人ですが、当然の事ながら、信之さんなくしては真田家の存続もありえなかった重要人物です。

Nagahime130 その信之さんが、孫娘・長姫に、自らの菩提寺の建立を依頼してお亡くなりに・・・これが、この大法院のはじまりなのです。

その信之さんの法名が「大法院殿徹岩一明大居士」・・・ここから、大法院の名もつけられました。

さらに時代が下がり、初代・信之から数えて第8代目・松代藩主となった真田幸貫(ゆきつら)・・・この幸貫の儒臣として仕えたのが、あの幕末の風雲児・佐久間象山(しょうざん)です。

その縁から、この大法院には、象山のお墓もあり、そのゆかりの品々も多く残ります。

さぁ、今回の特別公開は5月10日まで(9時~16時)・・・
お茶とお菓子をいただきながら、幽玄の庭園で無我の境地に・・・

このGW、そんな、ひとときを味わってみてはいかがですか?

Daihouintenp2980s また、近くの花園大学歴史博物館では、「大法院展」が開催中で、初公開を含む、真田家&佐久間象山ゆかりの寺宝文化財が展示されているようですから、せっかく行かれるのでしたら、そちらもチェックしてみてはいかがでしょうか?

 

 
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花園大学歴史博物館(無聖館4階)
●「大法院展」は6月10日まで
●開館:10時~16時(日曜と大学休講日は休館)
●入館料:無料

 

*妙心寺大法院へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「きぬかけの道」でどうぞ>>(別窓でひらきます)
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「行ってみたい!」なんて思っていただけましたら
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2010年4月21日 (水)

秀吉・賤ヶ岳の間に長宗我部元親・讃岐を平定

 

天正十一年(1583年)4月21日、長宗我部元親讃岐引田表で、羽柴秀吉方の仙石秀久を破りました。

・・・・・・・・

天正十一年(1583年)4月21日と言えば、あの柴田勝家羽柴(豊臣)秀吉の間で行われた賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦・・・(2011年4月21日参照>>)

事実上の織田信長の後継者争いとなった、この有名な合戦では、勝家とのこう着状態の中(3月11日参照>>)美濃(岐阜県)伊勢に兵を向けた秀吉と、その手薄になった所を攻めた勝家と勝家の動きを察知して、中国大返しさながらに、猛スピードで帰還する秀吉・・・と、そのお話はソチラのページで見ていただくとして

本日のところは、まさに、その同じ日に起こった別の合戦=引田表(ひけたおもて)の戦と、その経緯について・・・

・‥…━━━☆

そもそもは、天正三年八年(1575年)・・・
長年の夢だった土佐(高知県)全土を平定した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、当時、中国に勢力を伸ばしつつあった信長とよしみを通じます。

「土佐平定後は四国制覇だ!」とばかりに、阿波(あわ・徳島県)讃岐(さぬき・香川県)への侵攻を開始する元親でしたが、そこに何かと敵方を支援するのが、あの中国の雄=毛利です。

・・・で、毛利の援軍もあって苦戦を強いられていた元親にとっては、その毛利と対抗すべく、中国に侵攻している信長と手を結ぶのは、ごくごく自然な事・・・

元親が、信長配下の明智光秀の家臣・斉藤利三(としみつ)の妹を妻にしていた事もあって、この時の信長は、あっさりと
「四国は切り取り次第」
つまり、「自分で戦って勝ち取った四国の領地は、勝手に自分の物にしてイイヨ」というお墨付きまで、元親に与えています。

しかし、そんな友好関係が、長く続く事はありませんでした。

元親の勢いにビビる伊予(愛媛県)西園寺公広(さいおんじきんひろ)は、信長に援軍を求めると同時に、「アイツ(元親)は将来、信長はんの敵になるヤツでっせ」と、チクリ攻撃。

さらに、信長ベッタリの三好康長(みよしやすなが)や、十河存保(とごうまさやす)などの周辺の武将から救援を求められた信長は天正九年(1581年)、元親に「土佐と阿波南部をやるさかいに、伊予と讃岐は、アイツらにやったってくれや」と、前言撤回の要求を突きつけます

しかし、もはや勢いのある元親・・・しかも、四国の領地は、自らの力で取った物で、信長から与えられた領地でもないのですから、そんな要求を呑むはずもありません。

「そんなありえへん言い分・・・びっくりするワ!」
と、完全拒絶!

この時には、間に入ろうと努力した光秀からの使者もやってきて説得にあたりますが、元親の決意は固く、信長との一戦を覚悟で、要求を拒否しました。

かくなるうえは、信長も黙ってられませんから、翌・天正十年(1582年)5月、三男・神戸信孝(かんべのぶたか)と重臣・丹羽長秀(にわながひで)を中心に四国征伐軍を編成・・・今、まさに、長宗我部・討伐へと乗り出そうとします。

元親、絶体絶命のピンチ!

・・・というのも、5月という季節です。

ご存知のように、信長の持つ軍隊は、いつでも戦える正規軍・・・一方の元親の軍は、その多くが一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる半農半士の軍団ですから、まもなく、いや、もう始まってるかも知れない田植えの季節に、とてもじゃないが全軍を借り出して戦う事などできなかったのですから、もう、完全に風前のともしびだったワケです。

そして、まさに、四国征伐軍が出陣する予定だった6月2日の早朝・・・あの大事件が起こります。

そうです、本能寺の変です(6月2日参照>>)

このあまりのタイミングの良さに、「本能寺の影には、斉藤あり」なんて事も囁かれています。

そう、元親の奥さんの兄・斉藤利三による主君・光秀への働きかけによって、光秀が決意した(6月11日参照>>)・・・なんてね。

この説は、今になって囁かれ始めたものではなく、
『長宗我部譜』にも、
「四国違変によりて斎藤殃(わざわ)ひがその身に及ぶを思ひ 明智をして謀反せしめんと・・・」と、

『元親記』にも、
「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによつてなり 明智殿謀反のこといよいよ急がれ・・・」
などと記されています。

その真相は今以って藪の中ですが、とにもかくにも、信長の死によって、その四国征伐が露と消えたわけです。

ここで、この勢いのまま侵攻をつづけようとする長男・信親(のぶちか)「待った!」をかけた父・元親は、再びの軍儀を重ねた末、信長の元へ馳せ参じた康長に代わって阿波勝瑞(しょうずい)を守る存保を攻撃・・・存保は讃岐虎丸城へと逃走し、9月21日には阿波を平定します(9月21日参照>>)

・・・で、ご存知のように、この間、一方の秀吉は、信長への謀反を起した光秀を山崎の合戦(6月13日参照>>)で破り、清洲会議にて主導権を握り(6月27日参照>>)三男・信孝+織田家重臣・勝家と対立・・・って事になるのですが、秀吉が勝てば、信長と同様に四国に来襲する事は明白と感じた元親は、この時は、勝家側に立ちます。

やがて、虎丸城に入った存保の救援要請を受けた秀吉は、配下の仙石秀久(せんごくひでひさ)四国へと派遣し、讃岐の防備を固めますが、すかさず、長宗我部軍が虎丸城に迫り、周辺の農地を破壊して、この先の食糧を確保できない作戦を展開・・・

一方の秀久は、2000余の兵を率いて、近くの引田城へと移動しますが、それを追撃すべく行動を開始する長宗我部軍・・・天正十一年(1583年)4月21日両者は讃岐引田表で合戦となるのです。

しかし、冒頭に書いた通り、この日は、あの賤ヶ岳と同じ日・・・目の前の勝家との戦いに主力をすえる秀吉ですから、秀久の率いる軍は、わずか2000ほど、一方の元親は、当然コチラに全力投球ですから、この時の軍勢は約2万・・・

残念ながら、到底、秀久に勝ち目はなく、圧倒的な兵力差の前に多くの兵を失い、秀久は淡路へと逃げ帰る事に・・・

援助のなくなった虎丸城は、まもなく明け渡され、存保は畿内へと逃走・・・

こうして、元親は讃岐を手に入れたのです。

残る四国は、いよいよ伊予だけ・・・って事になるのですが、そのお話は、また、元親が伊予を押さえて四国統一を果たす10月19日のページでどうぞ>>
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2010年4月20日 (火)

承久の乱に翻弄された幸薄き帝~仲恭天皇

 

承久三年(1221年)4月20日、第85代・仲恭天皇が即位しました。

・・・・・・・・・

仲恭(ちゅうきょう)天皇・・・何もわからないまま、まだ4歳で天皇となり、わずか70日余りで退位

しかも、そのなりゆきから廃位となり、明治までは、歴代天皇系図からも排除されていた天皇です。

この仲恭天皇、その御名を懐成(かねなり)親王といい、第84代順徳天皇を父に、第82代後鳥羽天皇を祖父に持つおかた・・・

そう、後鳥羽天皇と言えば、あの承久の乱です。

建仁二年(1202年)、すでに第1皇子の土御門(つちみかど)天皇に皇位を譲って、天皇から上皇となっていた後鳥羽上皇は、本格的に院政を開始し、朝廷の復権を願って、様々な政策に乗り出します。

その甲斐あって、八条女院領長講堂領など、広大な皇室荘園領を得た後鳥羽上皇は、その経済力を武器に、西国の武士や御家人を「北面の武士」「西面の武士」(院の警護をする武士)などに組み込む事に成功します。

ここで強気の後鳥羽上皇・・・武力行使にあまり積極的でない土御門天皇を退位させて、積極的で気性の激しい第3皇子の第84代順徳天皇を即位させます。

そんなこんなしているうちに、建保七年(承久元年・1219年)には、第3代鎌倉幕府将軍・源実朝(さねとも)が暗殺される(1月27日参照>>)という事件が起こります。

これで、源氏の直系が耐えてしまった幕府の実権は、執権をこなしていた北条氏の北条義時が握る事になりますが、この時点での幕府御家人が敬愛するのは、あくまで源氏の将軍であって、北条氏の下にいる事をヨシとしない武士も大勢いたわけです。

これが、最大のチャンスと睨んだ後鳥羽上皇・・・乱の準備にとりかかります。

この父の幕府討伐計画に積極的に参加したい順徳天皇は、すでに皇太子に立っていた息子=懐成親王に天皇の座を譲り、自らは上皇となって、5月に予定されている挙兵に参加する事にしたのです。

かくして承久三年(1221年)4月20日、順徳天皇の第1皇子・懐成親王が、わずか4歳で、第85代・仲恭天皇として即位・・・翌5月14日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣(法皇や上皇の命令)を全国に下したのです。

しかし、ここで有名な、あの北条政子の涙の演説です(5月14日参照>>)

朝廷から見下されつづけた武士の地位を高めた夫・源頼朝の功績を主張するとともに、将軍とその配下の武士の結束を誘発する見事な演説に、東国の武士たちは、逆に奮い立ち、19万もの大軍となって京に押し寄せます。

上皇の配下にいるのは、西国の少数の武士だけ・・・なのに、「朝廷の院宣に刃向かうヤツなどいるもんか!」とたかをくくっていた上皇側は、あっさりと敗北してしまいました。

負けた後鳥羽上皇は隠岐へ配流、順徳上皇も佐渡へ配流、直接関与しなかった土御門上皇は、自ら志願して土佐に退きました(10月11日参照>>)

朝廷に味方した西国の武士の領地は、幕府配下の東国の武士の物となり、その支配はむしろ拡大・・・さらに幕府は、京都にて天皇の動向を見張る六波羅探題(ろくはらたんだい)なるものを設置、結果的に、ますます武士の力が強くなり、政治は完全に幕府の物となってしまったのです。

その最たるものが、仲恭天皇の廃位です。

上記の通り、仲恭天皇はわずか4歳ですから、乱に関わるもへったくれもない年齢ですし、実朝亡き後、幕府が公家から迎えていた第4代将軍は九条頼経(藤原・よりつね)という、仲恭天皇の従兄弟にあたる人物でしたから、ここに、幕府が口出しするとは・・・。

なんせ、その時の仲恭天皇は、乱の難を逃れて、その母の実家である九条家に身を寄せていたのですから・・・

しかし、お察しの通り、その将軍も形ばかりのもの・・・従兄弟もへったくれも関係なく、仲恭天皇は、わずか70日余りで退位させられ、第80代高倉天皇の孫=つまり、あの源平の合戦で壇ノ浦に散った安徳天皇(3月24日参照>>)の弟の息子を第86代後堀河天皇として即位させたのです。

しかも、退位させただけでなく、廃位までさせてしまうとは、まさに朝廷も予想外・・・つまりは、彼の天皇はなかった事にされちゃったわけです。

そのため、当時は「半帝」「九条廃帝」などと呼ばれていた仲恭天皇・・・乱の後は、そのまま九条邸に住み、文歴元年(1234年)、わずか17歳でこの世を去ってしまうという、幸薄いにもほどがある涙涙のその生涯・・・

永らく、かの名前で呼ばれ、歴代天皇からも抹消されていた仲恭天皇ですが、その名誉は、明治三年(1870年)、第122代明治天皇によって回復されます。

あの壬申の乱で負けた弘文天皇(7月22日参照>>)
藤原仲麻呂の乱がらみで廃帝とされた淳仁天皇(10月23日参照>>)
とともに、やっと仲恭天皇という諡(おくりな)を得たのです。

名前の案としては、幼いという意味を持つ「冲」の文字を使った冲恭天皇という案もあったと言いますが、最終的に第85代仲恭天皇に決まったようです。

時代に翻弄された幸薄い天皇・・・明治になって少しは、お心が晴れたのでしょうか?
だと、いいですね。
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2010年4月19日 (月)

男・柳生宗厳~68歳でつかんだ大きな一歩

 

慶長十一年(1606年)4月19日、柳生新陰流の開祖として知られる柳生宗厳が80歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)・・・先日の3月26日に書かせていただいた柳生宗矩(むねのり)のお父さんです。

その宗矩さんのページで、お父さんの事や兄弟(つまり宗厳さんの子供)の皆さんの事を少し書いてしまったので、内容が重なる部分があると思いますが、ご了承くださいませ。

・‥…━━━☆

柳生美作守家厳(みまさかのかみいえよし)の嫡男として生まれた宗厳・・・通称を新介または新左衛門と言い、晩年に石舟斎と号します。

嫡男として順調に一家の主となった宗厳ですが、この頃の柳生家は、かなりの弱小豪族・・・そのために、戦国の世では、その時々で、次々と主君を変え、生き抜いていかねばなりませんでした。

しかも、なかなか良い主君にも恵まれず、長い時間不遇の日々を味わうのですが、そんな中でも剣術の修行にはげみ、その腕だけは磨き続けます。

新当流戸田(冨田)などの極意を次々と身につけ、やがて剣豪として、その名は知られていく事になるのですが、やはり、武将として活躍する場はありませんでした。

そして宗厳:35歳・・・永禄六年(1563年)夏、奈良に済む宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)なる人物から、
「今、ウチの宝蔵院に、上泉信綱(かみいずみのぶつな)っちゅーカリスマ剣豪が滞在中やよって、ちょいと指導してもろたらどうや?」
との知らせが届きます。

上泉信綱とは、あの天下の武田信玄に落とされた上野(こうずけ・群馬県)箕輪城を、主君・長野業盛(なりもり)を補佐して、最後まで抵抗した人物(9月3日参照>>)・・・

その後、信玄からの「家臣にならないか?」誘いを断って武者修行の旅に出、途中途中で念流蔭流神道流などの流派を習得し、それらを統合した独自の流派=新陰流を起し、いまや剣聖の名をほしいままにする有名人だったのです。

早速、宝蔵院へと向かう宗厳・・・

しかし、「相手をしてほしい」と願い出る宗厳を、信綱は、まったく取り合ってくれません。

何度も食い下がるうち、
「ならば、疋田がお相手をする」
と・・・

この疋田とは、疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)と言って、彼もまた箕輪城で信玄と戦った仲間・・・やはり、落城後に信綱とともに武者修行に出て、現在はその高弟という立場だったのです。

「俺かて、近畿一の腕前やねんゾ!ナメやがって(#`皿´)
と、少々おかんむりの宗厳・・・

信綱の態度に腹わたが煮え繰り返りながらも、木刀の剣先に意識を集中し、景兼を真正面に見据えて構えます。

「柳生君!その構えで、ええんか?」
景兼がポツリ・・・

宗厳、静かにうなづいて、立会いは始まりました。

・・・と言うが早いか、アッと言う間に1本取られ、ナニクソと向かっていって、あっさり2本目・・・ものの見事にヤラれてしまいます

しかし、宗厳にも、自称・近畿一のプライドがあります。

トップの信綱との立ち合いなしに、おめおめと帰れません。

さらに、何度も何度も、信綱との立ち合いを懇願する宗厳・・・「ならば、ひと勝負するか~」と、信綱が重い腰をあげ、やっと相手をしてくれる事に・・・

ところが、なんと、今度は素手で、なんなく木刀を奪い取られ、あっさりと目の前に突きつけられてしまいました。

新陰流・秘剣=無刀取りでした。

このワザに感動した宗厳・・・その場で、信綱に弟子入り、彼らを柳生の里に招いて、本格的に新陰流を学びはじめたのです。

それは、もう、休む事なく毎日・・・

やがて、新陰流のすべてを伝授された宗厳は、信綱から印可状(いんかじょう)を授与され、「今後は、おのれ独自の無刀取りを編み出すように」
との課題を与えられ、それを最後に信綱らは、柳生を去りました。

その後、大和(奈良)国内を二分しての戦いとなった松永久秀VS筒井順慶との合戦では久秀の配下として奮戦しますが、40歳の時には馬から落ちて宗厳自身が重傷を負ったり、さらに、その五年後には、長男とともに出陣した合戦で、息子が銃弾に倒れ、以後、不自由な暮らしを強いられるほどの重傷を負ってしまうという不幸続きの日々・・・さらに、主君としていた久秀は織田信長に滅ぼされてしまいます(10月10日参照>>)

久秀亡き後、大和の国は、その敵対の相手であった順慶のものとなりますが、それまでの経緯もあり、宗厳は、順慶の配下となる事はありませんでした。

そんなこんなの文禄三年(1594年)4月・・・宗厳は、やっと世に出る幸運に恵まれます。

誰かの家臣となって、合戦で武功を挙げる事はなくとも、さすがに数々の流派を身に着けて、その剣豪としての名声は高まっていましたから、「一度、その腕前を見たい」と、京都に滞在中の徳川家康からのお声がかかったのです。

長男は、上記の通り、もはや剣術は不可能・・・次男・三男は出家し、四男は浪々中であった宗厳は、手元にいた五男の又右衛門宗矩(またえもんむねのり)を従えて、家康に謁見します。

「自ら相手をする!」
と、張り切る家康・・・

『玉栄拾遺(ぎょくえいしゅうい)によれば、
「神君(家康)・・・木刀を持ちたまい
宗厳これを執るべしと上意あり
すなわち公
(宗厳) 無刀にて執ちたまう
そのとき神君 うしろへ倒れたまわんとし
上手なり 向後 師たるべしとの上意・・・」

あの日、宗厳自身が信綱にしてやられた無刀取り・・・それを見事にアレンジして、新たな無刀取りを完成させ、あの時の信綱同様、家康の刀を、あっという間に素手で取り上げ、家康をスッテンコロリンさせたわけです。

大喜びの家康は、すぐに宗厳と師弟の誓約書を交わします。

そして、当然、剣術指南役を命じるのですが、宗厳は、この時、すでに68歳・・・高齢を理由に指南役を辞退し、代わりに、ともに連れていた息子・宗矩を推薦したのです。

こうして、柳生一族は大きな一歩を踏み出したのでした。

続きのお話は、息子・柳生宗矩さんのページでどうぞ>>
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2010年4月17日 (土)

九鬼嘉隆と長久手の戦い~もう一つのシナリオ

 

天正十二年(1584年)4月17日、志摩九鬼嘉隆羽柴秀吉の配下となり、渥美郡和地に放火しました。

・・・・・・・・・・

九鬼嘉隆(くきよしたか)率いる九鬼一族は、南北朝の時代より伊勢志摩から熊野灘一帯を制する海賊・・・織田信長長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で頭角を現し、石山本願寺戦では、あの鉄甲船を完成させて(9月30日参照>>)毛利の水軍を撃破しました(11月6日参照>>)

しかし、その後、信長が本能寺で倒れ、その信長の死とともに、嘉隆全盛の時代にも陰りが出始めます。

事実上の信長の後継者争いとなった神戸信孝(信長の三男)柴田勝家VS羽柴(豊臣)秀吉の戦い(3月11日参照>>)では、勝家に味方したようではありますが、ご存知のように信孝&勝家は敗北・・・勝家は居城・北ノ庄城にて自刃し(4月24日参照>>信孝も自刃に追い込まれます(5月2日参照>>)

しかし、秀吉がその後も九鬼水軍を必要とした事で所領は安堵され、なんとか生き残り、秀吉の配下となったわけです。

そう・・・天正十二年(1584年)4月と言えば、再びの後継者争い=小牧長久手の戦いの真っ只中という事になります。

先の信孝&勝家との戦いの時には、秀吉に協力して弟の信孝を攻めた織田信雄(のぶお・のぶかつ・信長の次男)が、秀吉の対抗馬である徳川家康に協力を求めて、ともに秀吉に挑んだ、一連の戦い・・・

まずは、3月13日の【犬山城攻防戦】>>で信雄方の最前線・犬山城を奪取した秀吉軍でしたが、3月17日の【羽黒の戦い】>>で、手痛い敗北・・・その後、しばらくのにらみ合い【小牧の陣】>>が続いた後、三河へと奇襲したのが4月 9日の【長久手の戦い】>>・・・

その後、後半戦の6月15日【蟹江城攻防戦】>>と続くのですが、嘉隆が秀吉の傘下となった事が明らかとなった天正十二年(1584年)4月17日は、まさに、この長久手の戦いの直後という事になります。

その4月9日のページにも書かせていただいたように、この長久手の戦いは、先の羽黒の戦いで命からがらの敗北を喰らった森長可(ながよし)が、汚名返上とばかりに秀吉に自ら提案したもの・・・この一連の戦いに出てきた家康が留守にしている本拠地=三河に奇襲をかけるという作戦でした。

奇襲攻撃なのですから、当然、敵にはバレないように秘密裏に行軍していたところを、すでにこの作戦に気づいていた家康方に、逆に、その隊列を奇襲され、その長可も、事実上の大将として指揮をとっていた池田恒興(つねおき)命を落す結果となってしまったのです。

・・・というのが定説なのですが・・・。

もちろん、今も、一般的にはそのように考えられていますが、最近では、また別の見方が出てきているようです。

・・・と言いますのも、秀吉が、この4月8日付けで、あの丹羽長秀に送った手紙というのがありまして、そこには、この長可らの三河侵攻は、かなり用意周到なる準備のもとに行われた事が書かれているのだそうです。

つまり、奇襲作戦なので秘密裏に・・・というのではなく、道中では砦などの普請も行いつつ、いくつかの戦闘もくりかえしつつ、堂々と三河へ侵攻していた可能性がうかがえるのです。

さらに、この時、侵攻する彼らの行動に合わせて、海から三河を攻める計画もあったとか・・・もちろん、この海からの攻撃の準備をしていたのが、九鬼嘉隆だというのです。

だと、すれば、今回の嘉隆による渥美郡和地への放火も、長久手の戦いに連動したものという事なのでしょう。

後半戦となった蟹江城攻防戦では、滝川一益とともに尾張から上陸した嘉隆らが、城を一旦占領し、小牧山の家康と長島の信雄の連絡路を断ちますが、家康もすぐに配下の水軍を派遣・・・

嘉隆は、敵水軍の提督・間宮信高を討ち取りますが、戦況自体はおもわしくなく、撤退を余儀なくされてしまい、最終的に蟹江城は奪回されてしまいます。

ただし、一連の小牧長久手の戦いで負け戦の多かったにも関わらず、ここで力技をやめて人たらし作戦に出た秀吉によって、家康は、その配下となる事になってしまうのですが・・・(10月17日参照>>)

もし、長可らの三河侵攻に連動した嘉隆の水軍の侵攻も計画されていたのだとしたら、この三河入りは、以前から言われているような、
「秀吉は、さほど乗り気ではなかったところを、池田恒興らに推されて、しぶしぶその作戦を取り入れた
というのではなく、小牧の陣に見るような膠着状態を打開するための家康おびき出し作戦として、むしろ秀吉が積極的に行った可能性が高くなるわけですが・・・

果たして、その真相はいかに・・・
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2010年4月16日 (金)

武田信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言

 

天正四年(1576年)4月16日、武田勝頼が父信玄葬儀を甲斐恵林寺にて行いました。

・・・・・・・・・・

去る元亀四年(1573年)4月12日、三河野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去った武田信玄・・・

「三年間は、この死を隠し、内政に努めよ」
との有名な遺言に反して、領地拡大に没頭した後継者=武田勝頼も、さすがに、盛大な本葬ばかりは、その遺言通り、三年間待ったようですね。

そもそも・・・
天文十一年(1542年)、隣国・諏訪(すわ・長野県中部)を治める諏訪頼重(すわよりしげ)を攻め滅ぼした信玄は、その娘を側室に娶ります(6月24日参照>>)

諏訪御寮人(すわごりょうにん)と呼ばれた彼女が、結婚から四年後に生んだ男の子が勝頼です。

信玄が力づくで征服した諏訪地方に残る怨念を納め、武田の傘下として安定した領国運営を行う事・・・それが、二人の間に生まれた勝頼の生まれながらの使命だったわけです。

そのため、信玄の息子の中で、ただ1人だけ、武田家の通字(男子の名前に代々使用する文字)である「信」の文字を使わずに、諏訪家が名乗る「頼」の文字を持つ名前=勝頼だったのです。

永禄五年(1562年)には、高遠城主となり、その名も諏訪勝頼・・・つまり、彼は、完全に諏訪家の跡取りだったのです。

ところが、永禄八年(1565年)、後継者の座が約束されていたはずの長男・義信(よしのぶ)が、父・信玄への謀反をくわだてたとして幽閉され、その2年後に自刃してしまいます(10月19日参照>>)

次男・信親は生まれつき目が不自由で海野氏を継いだ後に出家の身、三男・信之も早く(定説では11歳頃)に亡くなってしまっていた信玄の息子たち・・・よって、四男の勝頼に後継者の座が回って来る事になります。

元亀二年(1571年)、父・信玄から指名された諏訪勝頼は武田勝頼となり、高遠城から、武田家の本拠地である躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移ります。

しかし、信玄がそう思っていたように、多くの家臣が、これまで「後継者は義信」という認識であり、勝頼は、あくまで諏訪の人というイメージが、どうしても拭いきれなかったのです。

しかも、それらの思いが払拭されないうちのわずか2年後に、信玄の死が訪れてしまうのです。

実は、この死の間際、冒頭に書かせていただいた有名な遺言のほかに、信玄は、もう一つ遺言を残していました。

それは・・・
「勝頼は信勝(勝頼の長男)が16歳になりしだい家督を信勝に譲り、以後は後見人になる事・・・それと、『風林火山』の旗は使用せず、『諏訪法性(すわほっしょう)の兜』のみの着用を認める」
というものでした。

では、やっぱり、勝頼は、単なる中継ぎ・・・幼い信勝が成人するまでの仮の当主という事だったのでしょうか?

いえいえ、信玄には、意外と勝頼がデキル息子だという事はわかっていたようなのです。

なんなら、今すぐにでも、自分は第一線から退いて、勝頼を前面に押し出してもかまわないくらい・・・

しかし、家臣たちがそうではない事も充分理解していたのです。

つまり、これは、未だ反対意見を持つ家臣たちへのポーズなのでは?・・・

もちろん、真相はご本人に聞くしかないのですが・・・
もはや、自分自身が、そう長くはない事を悟った信玄は、とりあえず家臣たちを納得させるために、上記のような遺言を・・・

そして、「幼い義勝が16歳になるまでには、きっと勝頼がうまくやってくれて、家臣たちも認める武田の当主となるであろう」という考えだったのではないか?と思います。

その事は、勝頼自身もわかっていたようで、だからこそ、父の遺言を破ってまで、領地の拡大に奔走したのでしょうし、結果、父も落とせなかった高天神城を落とし(5月12日参照>>)、武田の領地は、この勝頼の時代に最大となったわけですし・・・。

しかし、信玄の読みは完全に裏目に出ました。

信玄が、あたかも勝頼を中継ぎ投手のような発言をした事によって、古くからの重臣たちは、かえって勝頼を軽く見るようになってしまったのです。

現在、京都大学総合博物館には、この頃の様子がうかがえる勝頼の起請文なる文書が残ります。

Katuyorisyozyou3 内藤昌豊宛て武田勝頼血判起請文(京都大学総合博物館蔵)

信玄以来の重臣・内藤昌豊宛てに書かれた書状には、
「君の悪口を言うてる者を探し出して、ちゃんと処分するし・・・」
「君の意見は、今後も聞くよって・・・」

などと、おおよそ、主君が家臣に対して誓うような内容でない事が書かれ、しかも、そこには勝頼の血判まで・・・

父の代からの重臣たちと、何とかわかり合えるようになろうとする、勝頼の涙ぐましい努力が伝わって来るようです。

しかし、残念ながら、勝頼と家臣の間に空いた大きな溝が、未だ埋まる事ない状態で、かの長篠の合戦に突入してしまったのです(5月16日参照>>)

(自分が)生きているように偽装しろ」
「勝頼は孫が成人するまでの中継ぎ」

果たして、この遺言は名将・信玄としては、どうだったのでしょうか?

なにやら、デキる息子も、デキる家臣をもが、この遺言のために、その良い面を理解できないままとなってしまったような気がしてなりません。

かの長篠の敗戦から約1年後の天正四年(1576年)4月16日・・・その父の葬儀を盛大に行った勝頼の心は、いかばかりであった事でしょう。

追記:
武田の滅亡=勝頼の最期については…
●『甲陽軍鑑』ベースの最期(2008年3月11日参照>>)
●『常山紀談』ベースの最期(2012年3月11日参照>>)
でどうぞm(_ _)m
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2010年4月15日 (木)

京都・仁和寺の御室桜が満開!

 

昨日、桜満開仁和寺に行って参りました~

仁和寺は第69代宇多天皇が、先代・光孝天皇の意思を継いで建立したお寺で、退位後30余年も住まわれたところであります。

なので、御室御所(おむろごしょ)という別名でも呼ばれます。

宇多天皇と言えば、父君が、藤原基経(もとつね)の推しによって異例の55歳での即位(8月26日参照>>)となった影響で、すでに源氏の姓を賜り、臣下としての人生を送っていたところを、いきなり皇太子となって、あれよあれよという間に天皇にもなっちゃった、歴史上ただ1人の皇室返り咲き天皇・・・

即位後まもなく、その基経とのゴタゴタで心を痛めていたところを、よき相談相手となってくれたのが、あの菅原道真(すがわらのみちざね)で、道真の出世は、宇多天皇なくしてはありえなかったという親密な関係の人でもあります(1月25日参照>>)

そんな波乱万丈の人生を送った宇多天皇も、おそらく、この仁和寺の御殿では、ホッとひと息つかれる事もあったのでしょうね。

Ninnazip1a1000仁和寺御殿の宸殿・南庭

仁和寺の御殿には、今も、南庭に右近の橘&左近の桜を配した宸殿が建ち、その光景は御所のよう・・・さらに、北側の庭園からの五重塔の眺めもすばらしいです。

Dscn0161a600 ・・・とは言え、
本日の主題は、・・・

遅咲きで有名な仁和寺の桜は「御室(おむろ)桜」と呼ばれ、人の背丈を少し越えるほどの高さに絢爛な花を咲かせるのが特徴・・・

まさに、目の前の桜越しに見る五重塔は、言葉を失うほどです。

Toukyoomuro1 東居の筆による「都百景」には、今と変わらぬ御室桜の下での花見の様子が描かれていて、その歴史の古さも感じます。

幕末の万延元年(1860年)、植物採集のために日本を訪れたイギリス人・ロバート・フォーチュンは、花を愛でる事を楽しむ日本人の多さに驚き、滞在中に起こった英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)に対して、「この平和な国が欧米列強の仲間入りをするための代償」などと書き残しています。

Dscn0148a800今も変らぬ光景が・・・

少なくとも目の前の戦争に怯える事はない平成の日本・・・さらに100年後、いや千年後も、この光景が永遠に続くことを願うばかりですね。

Ninnazip8a1000御室桜と五重塔(仁和寺)
 

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2010年4月14日 (水)

萩の乱近し~前原一誠と木戸孝允と品川弥二郎と

 

明治九年(1876年)4月14日、に戻って不穏な空気をみせる前原一誠品川弥二郎が説得しました。

・・・・・・・・・・

すでに、このブログに登場している萩の乱・・・

お話が前後して恐縮ですが、その半年前の出来事です。

長州(山口県)の下級武士の家に生まれた前原一誠(いっせい)は、高杉晋作らとともに四境戦争(長州征伐)を戦い、その後の戊辰戦争でも活躍した功績で、明治新政府において参議兵部大輔(ひょうぶだいふ)を経験しますが、病気を理由に明治三年(1870年)に帰郷しました。

実際には、病気ではなく、軍事に関しての意見が中央とは合わなかったという事ですが、萩に戻ってからの前原は、ひとときの平穏な日々を送ります。

しかし、明治六年(1873年)・・・ご存知の征韓論による明治六年の政変(10月24日参照>>)が起こり、西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平らが一気に辞職してしまいます。

もともと命がけで戊辰戦争を戦ったにも関わらず、逆に、四民平等となって武士の特権も家禄(武士の給料)をも奪われて不満モンモンの士族(もと武士)たち・・・しかも、中央政府の役人は私腹を肥やす事ばかりに夢中になり、一部の勝ち組だけが得をしている現状の中で、わずかな希望を託していた人物たちの辞職に、もはや爆発寸前です。

この時、辞職した西郷や江藤はもちろんですが、以前に中央政府にいた経験のある前原も、いつなんどき彼ら不平士族にかつがれ、叛乱の中心人物になりかねません。

未だ中央政府に残る木戸孝允(きどたかよし・桂小五郎)にとって、同郷の前原の同行が気になります。

翌・明治七年(1874年)、木戸は自ら萩に赴いて前原をなだめ、さらに翌・明治八年には、彼を東京に呼んで、政府への復帰をうながしますが、前原は、その話を断って萩に帰り、反政府の立場を明らかにするのです。

前原は、旧藩校の明倫館(めいりんかん)に同士を集めて自論を展開・・・彼に賛同する不平士族たちの人数は日に日に増えていくばかりでした。

そして、いよいよ明治九年(1876年)・・・

年が明けてまもなく、前原のもとに、西郷隆盛と桐野利秋の配下の者と名乗る二人の男が現われます。

彼らの話によれば・・・
「西郷たちは、いずれ決起するので、是非とも協力してほしいと言っている」
と言います。

「もし、協力してくれるならば、その証しとして銃を進呈したい」
とも・・・

もともと、上記の通り、その立場を明白にしている前原は、あっさりと協力を承諾しますが、これが、実は、政府側のスパイ・・・

前原の真意を知った木戸は、何とか叛乱を思いとどまらせるべく、ともに松下村塾で学んだ学友を、彼のもとに派遣します。

それが、長州藩の足軽の子として生まれ、やはり高杉晋作らと英国公使館の焼き討ち(12月12日参照>>)にも参加、戊辰戦争もともに戦った品川弥二郎(しながわやじろう)だったのです。

明治九年(1876年)4月14日、前原のもとを訪れた品川は、
「薩摩との事は、もう、バレてまっさかいに、疑いを持たれるような事はやめといてください」
と、心からの説得・・・

「バレてしまった以上は致し方ない」
とばかりに、前原は4月18日の日付けで、品川宛の誓書をしたためます。

「進退極まる様なる愚なる事は、万々仕(つかまつ)らず候(そうろう)
つまり、
「窮地に追い込まれるようなバカなまねはしません」
などの内容を書き、自らの非を認めて謝罪したのでした。

これには、品川君は大喜び・・・

早速、東京にいる木戸に
「前原君は、僕の説得に応じて降伏し、誓詞を書いてくれたので、これで安心です」
と、すなおな感想とともに報告していますが、それを受け取った木戸のほうは、前原があまりにもあっさりと降伏した事に、かえって疑いを持ったようです。

案の定、この時の降伏は、単なる時間稼ぎだったわけで・・・。

このやりとりの半年後の10月24日に勃発した熊本士族の叛乱神風連の乱(10月24日参照>>)

その3日後に勃発した福岡での士族の叛乱秋月の乱(10月27日参照>>)・・・

これらの叛乱に同調して、前原が行動を起すのは、翌・10月28日の事・・・これが萩の乱と呼ばれる士族の叛乱です(10月28日参照>>)

何とか前原を圧し止めたいと奔走した木戸の思いは、いかばかりであったでしょうか?

幕末期は「逃げの小五郎」と噂され、何かと、自分だけは要領よく立ち回った感のある木戸さんですが、この頃の秩禄処分(ちつろくしょぶん・武士の給料を廃止)には、終始一貫して反対の姿勢をとっていました。

もちろん、明治維新となって徴兵制となった以上、それまでの江戸時代には軍隊の役割であった武士はいらなくなるわけで、仕事もしないのに給料を払い続けるわけにもいきませんが、かと言って、いきなり全廃するわけにもいきませんから、段階を踏んで、徐々に減らしていくという政策を、新政府は打ち出していたわけです。

当然、木戸も、最終的に家禄をなくすというのは理解していますが、他に何の対策もせずに、急速に進めていく事に反対していたのです。

武士という者は、武人であるとともに、高い教養も身につけていますから、それらの優秀な人材を、今後の国家運営に役立てられるように、その道を開いてやるのが政府の責任とまで思っていたようです。

しかし、木戸の反対を押し切る形で、家禄は全面撤廃されます。

それが、明治九年の8月・・・まさに、前原らの決起の寸前でした。

もちろん、各所で書かせていただいているように、これらの士族の叛乱は、家禄の撤廃や武士の特権を奪われた事だけが原因ではありません。

腐敗した政府に正義の鉄槌を・・・の意味も込められていましたが、困窮する毎日の生活が、それに拍車をかけた事は否めません。

木戸は、後に起こる西郷の西南戦争(1月30日参照>>)の時も、自らが「説得に行く!」と言っていましたが、残念ながら病に倒れ、西郷への説得は実現しませんでした。

木戸さんが、死の間際に、うなされるように言った言葉・・・
「西郷!いいかげんにしろ!」

この木戸さんの、なんともくやしい思いは、すでに、この日の前原の時間稼ぎから、すでに始まっていたのかも知れません。
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2010年4月13日 (火)

巌流島の決闘~佐々木小次郎の実態

 

慶長十七年(1612年)4月13日、宮本武蔵佐々木小次郎による船島(向島)での決闘・・・世に言う「巌流島の決闘」があり、武蔵が小次郎を倒しました。

・・・・・・・・・・・

一昨年の4月13日に書かせていただいたページでは、宮本武蔵の実像・虚像のついての話に終始してしまったため(2008年4月13日を見る>>)、本日は、そのお相手である佐々木小次郎さんについて書かせていただきますね。

・・・とは言え、この小次郎さん・・・すでにご存知の方も多いと思いますが、その実在さえ危ぶまれる謎の人であります。

そもそも、その生まれた年どころか、場所さえも特定されていません。

いくつかの伝説がある中で、有力候補として現地に銅像が建てられている場所だけで3ケ所・・・福井県福井市浄教寺町、同じく越前市北坂下、山口県岩国市横山

中には、近江(滋賀県)の戦国大名・六角義賢(ろっかくよしかた)とその側室との間に生まれたご落胤説もあり、その場合は近江観音寺が生誕地、なんて事も言われます。

その中で、最も有力視されているのが、浄教寺説なのですが、それは、武蔵の伝記『二天記(にてんき)に、最もくわしく小次郎の事が書かれているからなのですが、その『二天記』自体が、武蔵の死後100年も経った後に弟子が書いた物なので、あの吉川英治さんでさえ「多分、ウソだろう」とおっしゃるシロモノ・・・

しかも、武蔵本人が書いた『五輪書(ごりんのしょ)には、小次郎は登場しません。

なので、たとえ実在の人物だったとしても、その姿は、完全に武蔵の引き立て役としての登場・・・しかし、そう言っていてもはじまらないので、とりあえずは、その『二天記』に沿ってお話をさせていただきますと・・・

越前・宇坂庄(うさかのしょう)浄教寺村に生まれた小次郎は、同じ村の出身で中条流を極めた小太刀の名人・冨田勢源(とだせいげん)(7月23日参照>>)の弟子となります。

しかし、小次郎は小太刀を教えてもらうというよりは、さらに小太刀のワザを磨きたい勢源の練習相手をさせられ、そのために本人は長い木刀を持って、常に稽古をさせられていたのだとか・・・

ところが、長身で体格も良かった小次郎は、師匠の相手をするうち、いつしか、小次郎が師匠を稽古台にして、そのワザを習得し、師匠をしのぐ腕になってしまったのです。

ある時、門弟同士の練習試合・・・相手は、師匠・勢源の弟・景政(かげまさ)

しかし、ただ向かい合っただけの時点で、もはや勝負あったと思わせるくらいの気迫の違いに目がテンになる師匠・・・その予想通り、小次郎が振り下ろした太刀先は、一瞬にして反転して斬りあげられ、そのスピードについて行けない景政を尻目に、立会いは終わりました。

浄教寺町近くには一乗谷川という川があり、少しさかのぼると一乗滝という滝があるのだそうで、小次郎は、その滝周辺に飛び交う燕(つばめ)を見て、この秘剣を編み出したとか・・・これが、ご存知「虎切(こせつ)こと「つばめ返し」の技です。

その夜、小次郎は、師匠・勢源のもとを去るのです。

「物干し竿」と称される長太刀を背負い、その流派を「巌流(がんりゅう)と名付け、西国の名だたる剣客を打ち負かしつつの武者修行・・・いつしか、その名は一円に轟く事になったのです。

やがて、その名声を聞いた豊前・小倉藩30万石藩主・細川忠興(ただおき)に庇護される事となり、兵法指南役として仕える一方で、城下に巌流の道場も構えます。

そんな時に、小倉にやって来たのが、かの宮本武蔵・・・とにかく名声が欲しい武蔵は、決闘を申し込み、藩主の許可を得ます。

かくして慶長十七年(1612年)4月13日辰の上刻(午前7時頃)、小倉の沖合いに浮かぶ(舟)島での決闘が行われるのです。

しかし、ご存知の通り、ゆっくりめの起床に、ゆっくりめの朝食をとった武蔵は、約束の時間に一刻(2時間)遅れ・・・この間、床机に座ったまま、待ち続ける小次郎は苛立ちを隠せません。

「待ちかねたゾ!武蔵!」
ようやく現れた武蔵を見て、小次郎は鞘から長太刀を抜き、鞘を海中に投げ捨てます。

・・・で、武蔵、
「小次郎、敗れたり! 勝者何ぞ その鞘を捨てん」
の名ゼリフです。

武蔵の挑発でタイミングを狂わされた小次郎・・・その打ち出す秘剣は、もはや、効き目もなくカラ振りし、逆に、武蔵の振り下ろした(かい)に脳天を打ち砕かれて倒れこみます。

そこを武蔵・・・すかさず、再び櫂を振り下ろし、ろっ骨を砕きとどめを刺しました。

武蔵・29歳・・・対する小次郎は・・・
残念ながら、ドラマに登場するような、若いイケメン君ではなく、たとえ『二天記』の記述が事実としても、鐘捲自斎(かねまきじさい)からの剣術の免許を取得している事を踏まえ、少なくとも50歳を越えた年齢であったとされています。

  • 細川家の記録には、小次郎の名前がない。 
  • 勢源の流派にも中条流にも小次郎の名前がない。 
  • 『五輪書』にも出て来ない。

・・・と、存在をも疑わせる事も多々あり・・・さらに、例え実在の人物であったとしても、

  • 当時の船島=巌流島は、岩礁のような物で、とても決闘を行えるようなスペースはなかった。 
  • 武蔵が弟子をいっぱい連れて来て、すでに初老の小次郎を皆でボッコボコにした。

などなど・・・様々な噂が取りざたさせる巌流島の決闘ではありますが、もし、本当であるならば、本日は、小次郎さんのご命日という事なので、若くてカッコイイお姿を想像しつつ、その生涯に思いを馳せてみるのも良いかも知れません。
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2010年4月12日 (月)

龍馬伝の「よくわからない」&加尾ちゃんへの手紙

 

久しぶりに大河ドラマ「龍馬伝」に、ちょいとだけツッコミを入れさせていただきます。

もともと、ドラマや小説はフィクションだと思っていますので、江戸で立ち上げたはずの土佐勤皇党が、地元・土佐で立ち上がってた事になっていたとしても、昨年の「天地人」のように、よほどの荒唐無稽な創作でない限り、専門家ではない私は、あまり気にならないので、それはいいとしても、創作したならしたで、そのフォローはちゃんとしていただきたいというのはあります。

「つじつまを合わせる」とでも言いましょうか・・・「ここで、こうしたから、こうなった」という事をちゃんと説明していただきたいと・・・なんだか、よくわからないままの事が多すぎる気がしてなりません。

第1が、あの脱藩です。

ドラマでも、少し触れてはいましたが、脱藩は、命がけ・・・さらに、本人にみならず、家族や一族にだって迷惑をかけるのです。

なのに、ドラマの中での龍馬の脱藩理由が、今ひとつわからない・・・世間一般的に、歴史家の方や龍馬好きの方々がおっしゃる脱藩理由は、様々ありますし、それこそ、本人に聞いてみないと明確な答えとはならないものですが、そうではなくて、あくまでドラマの中での脱藩理由です。

推理小説などもそうですが・・・
実際の事件では、犯人の気持ちなんてわかりっこないし、たとえ裁判で明らかとなっても、何となく引っかかりがあってスッキリしないものですが、推理小説や刑事ドラマが見事、スッキリと解決されるのは、犯人の心の内が描かれているからであって、それjこそが、小説やドラマのおもしろいところです。

個人的な意見ではありますが、歴史小説や歴史ドラマも、そこが見どころだと思ってます。

実際には、どうかわからない主人公の心の内を、見事に描き出して、「こう思ったからこんな行動をとった」作家さんの思うところを語って、見ている側をスッキリさせてくれるものだと思っていたのですが、今回は、どうも、わからない???

沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)が脱藩したと聞いた途端に、脱藩計画的なものが書かれた紙を家族が見つけ、そんな一大事を本人とろくに話し合いもしないまま、とっとと賛成するのには、それなりの理由が必要だと思いますが、その説明がまったくなされていないのでは??

もちろん、そこの部分が飛んでいるために、本人の気持ちもわからないままです。

さらに脱藩後、九州等を旅した龍馬に、久しぶりに会った岩崎弥太郎が・・・
「あいつは、風貌も性格も変わっていた」
って、言ってましたが、どこで、どんな経験をして変わったのかが、まったく描かれません

以前にも、【「龍馬伝」の龍馬にひとこと言いたい!】(2月2日参照>>)で、「龍馬の心の変化が最大の見せ場だ」と書かせていただきましたが、その最大の見せ場を、すっ飛ばして、変化した事だけを報告されても、なかなか、納得できるものではありません。

ぜひとも、この先の海援隊がらみの時期に、弥太郎との思い出話などで、明らかにしていただく事を願うばかりです。(その時ために、とってあるなら、何も言う事はありませんです)

・・・とは言え、武市半平太岡田以蔵の関係の描き方は、個人的には大好きですね。

徐々にブラックな本性を表してきた武市さんが、ただただガンバル子の以蔵の性格を逆手にとって、殺人マシーンに変えてしまうところは、もともと佐藤健くんのファンである個人的好みを差し引いても、なかなか、良いシーンだと思います。

ところで、今回(第十五回)で、公家に嫁いだ藩主の妹の侍女として京都にいた幼馴染の平井加尾さんが土佐に帰ってしまったという事で、ドラマでは描かれなかった逸話を一つ・・・

文久元年(1861年)の9月13日付けで、龍馬は加尾に1通の手紙を出しています。

近代史にうとい私でも知っている手紙なので、かなり有名だとは思っているのですが、やはり原本が残っていないからなのか、ドラマには登場しませんでしたね。

とにかく、文久元年と言えば、土佐勤皇党が立ち上がった年で、龍馬が、まだ脱藩する前・・・ドラマで言えば先々?週の第一部(なんで分けてあるのかも不明ですが・・・)の最後あたりの頃の事でしょうか。

「先づ々々御無事とぞんじ候
 天下の時勢切迫致し候に付、
 一、高マチ袴
 一、ブツザキ羽織
 一、宗十郎頭巾
 外に細き大小一腰各々一ツ
 御用意あり度存上候
九月十三日 坂本龍馬
平井かほどの  」

これだけの短い手紙です。

高まち袴というのは乗馬用の袴で、ぶっさき羽織というのも乗馬に便利な羽織・・・ただ、宗十郎頭巾というのは、目だけを出してすっぽりかぶる、今でいうところの目だし帽のようなもので、時代劇などで、身分の高い武士(主に悪代官とか)が、なにやら怪しい所に出入りする時にかぶってる、いかにも怪しいヤツです。

平井家の文書によると、これを受け取った加尾さんは、親戚への土産にかこつけて反物を購入し、衣装は自作で用意・・・短刀は手元にあった物をそのまま準備し、大刀は、龍馬の頼みだという事を隠したまま、国元の兄・平井収二郎に頼んで取り寄せたのだとか・・・

これは、龍馬が、加尾に男装させて敵地へ潜入させ、なにやらスパイ行為的な事をさせようとしていたと考えられていますが、結局、龍馬は、その後脱藩してしまうので、この時、加尾さんが準備した衣装の出番はなかったようですが・・・。

脱藩後、ドラマのように、龍馬は京都にやってきますが、実際には二人が会ったという記録は残ってはいません。

まぁ、脱藩してる以上、京都での龍馬の行動が謎多き物なので、「会ってない」とは言い切れないかも知れませんが、晩年の加尾さんが、2度と龍馬に会えなかった事を残念がっていたようなので、やっぱり会ってないんでしょうね。

・・・て、事は、二人の○○○な関係も、残念ながらない事になりますが・・・

・・・と言いつつ、予告編ではきっちり、あの千葉道場の佐那さんに「お前に会いに来たぜよ」と調子の良い事を言ってたみたいなので(このチャラ男ぶりは好きです)、今後は、彼女との恋の行方も気になるところではありますね。
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2010年4月10日 (土)

源頼政の鵺退治~敗北の英雄

 

仁平年間(1151年~1153年)4月10日頃、近衛天皇を悩ませた(ぬえ)源頼政が退治しました。

・・・・・・・・・・・

年号でいうと仁平の頃、時の天皇・近衛天皇は、夜になると決まって何かに怯えて気絶するという状況が毎日続きます。

名のある高僧が何人も呼び出され、大法・秘法を用いて快復を願いますが、いっこうに効き目がありません。

天皇が怯えて気絶されるのは、毎夜決まって草木も眠る丑の刻(午前2時頃)・・内裏の西北・東三条の方角から、突然黒雲が湧き上がり、御殿の上に覆いかぶさる時でした。

朝廷で開かれた会議では、堀河天皇の時の前例が話し合われました。

この時も、まったく同じ状況で、堀河天皇は毎夜気絶されていたのですが、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)(2月27日参照>>)が、三度の鳴弦(めいげん)邪気を祓ったと言います。

三度の鳴弦とは、弓の弦をビュ~ンビュ~ンと三度鳴らして、邪気を追いはらう儀式の事・・・この時は、やはり天皇が気絶された瞬間に、義家が三度の鳴弦を行い、
我こそは前陸奥守源義家!!!」
と名乗りを挙げると、その場にいた者の体に戦慄が突き抜けて身震いをおこし、以後、天皇が気絶する事はなくなったのでした。

この例にならって、誰か勇猛な武士に警護させようという事になり、選ばれたのが源頼政(みなもとのよしまさ)だったのです。

しかし頼政は
「武士が朝廷に仕えるのは、叛乱を起こしたり違反したりする者を征伐するためであって、妖怪を退治するために仕えてるんやおまへん!」
と言って断ろうとするのですが、なんといっても、これは勅命(ちょくめい・天皇の命令)・・・逆らうわけにも行かず、近江の国の住人・猪早太(いのはやた)という信頼のおける郎党1人だけを連れて御殿へと向かったのです。

表裏同色の狩衣に、山鳥の尾で作った2本の矢、そして滋藤の弓を持ち・・・

あえて矢を2本持ったのは、もし、妖怪を撃ち損じた時、残った1本で、源雅頼(みなもとのまさより)の首を撃ち抜くためでした。

そう、実は、その雅頼が、天皇に
「妖怪退治やったら、やっぱ頼政でっせ!」
推薦した本人だったから・・・

とにもかくにも、そうこうしているうちに、黒雲立ち込める時間帯がやってきました。

頼政が、御殿の上にたなびく黒雲を、キッと見上げると、中になにやら怪しい影が・・・

心の中で
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ
と念じて、キリキリを弓を引き、「エイ!」と放ちます。

ヒョ~~とうなりながら一直線に進む矢・・・手ごたえアリ!!
「当たったゾ~」
と叫ぶと、早太が、サッと獲物の落ちてくる位置に回りこみ、押さえつけて刀でとどめを刺しました。

まわりの者が手に手に火を持って集まった時に見たその姿は・・・
Gazuhyakkiyagyoucc「かしら(頭) むくろ(胴) 尾はくちなわ(蛇) 手足はのごとくにて 鳴く声ぬえにぞ似たりける」
だったのたとか・・・

←『画図百鬼夜行』の鵺(ぬえ)の図

 
頼政の勇猛さに大喜びの近衛天皇は、獅子王という名の剣を与えます。

天皇から剣を受け取った左大臣・藤原頼長(よりなが)が、庭で平伏する頼政に、その剣を渡そうと、正面の階段を2~3段下りたところ、時候は、ちょうど4月10日ばかりの事だったので、シ~ンと静まりかえった御殿に、郭公(ほととぎす)の鳴き声が、二声、三声と響きました。

すると頼長は、
「ほととぎす 名をも雲井にあぐるかな」
(お前も、名をあげたなぁ)
と詠みました。

次いで頼政・・・
右膝をつき、左の袖を広げ、ふと見上げた空に輝く月・・・
「弓はり月の いるにまかせて」
(弓に任せて矢を射っただけです)
と、続けます。

「弓矢取るだけやなく、歌道にも長けてるんかいな!」
と、一同大喜び・・・。

そして、かの怪物を、くりぬいた丸木舟に入れ、いずこともなく流したという事です。

・‥…━━━☆

以上が『平家物語』に登場する頼政の鵺退治の物語・第一段・・・

カッコイイ~~(*´v゚*)
カッコイイゾ!頼政さん・・・

以仁王(もちひとおう)とともに、老体にムチ打って平家との橋合戦に挑む、あのオジイチャンの姿(5月26日参照>>)しか想像していなかったこれまでのイメージは、今、ものすごいイケメンの頼政像に方向転換しましたゾ!

さらに、『平家物語』では、二条天皇の時にも鵺が登場し、これも先例にならって頼政が呼び出され、見事、討ち取ったと、その武勇を絶賛しています。

これは、かの以仁王との挙兵、そして、その後の敗北&自刃の話の後に、生前の頼政の逸話として登場し、「これほど強い武将・・・そのまま、出世するはずだったのに、なんとも嘆かわしい」という感じで語られます。

ところで、京都は二条城の近くにある二条公園には、鵺池(ぬえいけ)という池があります。

Dscn2912a800
現在の鵺池
Nueike00
整備前の鵺池

現在は、子供たちが遊ぶ児童公園にしっくりくるようにキレイに整備されていますが、その前は、水も枯れた状態だったようです。

平安の頃、このあたり一帯は御所の敷地内・・・内裏が建ち、官庁が建つ、政治の中心だった場所で、この鵺池は、かの頼政が、血のついた鏃(やじり)を洗ったとされる場所です。

しかし、上記の通り、そのお話は『平家物語』には登場しません。

また、このお話の続編とも言うべき謡曲『鵺』というのには、丸木舟(謡曲ではうつほ舟)に乗せられて流された後、亡霊となった鵺が、僧の供養によって冥土へと旅立ちますが、ここでも鵺池は出てきません。

Dscn2986a800 また、京都の四条通から一本南の綾小路通神明町(東洞院通と高倉通の間)には、神明神社(←)という神社がありますが、ここは鵺が退治された屋敷跡とされ、その時使用した鏃2本を頼政が奉納し、それが、今も宝物として伝わっているのだそうです。

えぇ?
内裏で退治したんじゃ?
つじつまが合わんのではないか?

てな、ヤボな事は言いっこなしにしましょう。

『平家物語』軍記物・・・今でいうところの歴史小説ですから、事実をもとにしてはいても、フィクションが含まれているのが当たり前です。

確かに、橋合戦で負けた頼政が自刃するあたりは事実に基づいているのでしょうが、さすがにこの鵺退治の話を、本当にあった話だと思う人はいないわけで、これは、ひとえに、いかに頼政が強い武将だったかを強調したいがためのお話・・・

そのあとにくっつく、鵺池も、神明神社も、やはり、頼政を英雄として称賛しようとする人々が伝えた物語なわけです。

では、負けたのに、なぜ、英雄扱いなのか?

それは、もう、わかりますよね。

後に、源氏が勝者となるからです。

源頼政は、平家打倒の魁(さきがけ)となった人・・・幕末で言えば、寺田屋で死んだ薩摩九烈士(4月23日参照>>)であり、禁門に散った十七烈士(10月21日参照>>)なわけですよ。

なので、敗者となった頼政でも、英雄の称号を与えたい・・・

そんな気持ちの人たちが、彼に鵺退治をさせるという伝説を残したのでしょう。
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2010年4月 9日 (金)

世紀の祭典・大仏開眼と光明皇后

 

天平勝宝四年(752年)4月9日、東大寺盧舎那仏・・・いわゆる奈良の大仏の開眼供養が行われました。

・・・・・・・・・・

昨日が飛鳥大仏で、今日は奈良の大仏・開眼・・・遷都1300年に沸く奈良のお話です。
 

その幼さゆえ、成長するまでの期間に二人の女帝を中継ぎに、やっと誕生した藤原氏一色の天皇=第45代・聖武天皇・・・

その皇后には、やはり藤原氏の光明子がなり、まさに、二人は藤原氏の期待の星だったわけですが、にわかに流行しはじめた天然痘により、光明皇后の兄・4人が次々とこの世を去り

「これは、藤原氏が死に追いやった反対勢力=長屋王の祟りではないか」(2月12日参照>>)
などと囁かれ、

ならば・・・と、反対勢力の人物を重用したなら、今度は、それに不満を持った身内の藤原広嗣(ひろつぐ)九州で叛乱を起す(9月3日参照>>)・・・

・・・で、恐怖におののいた聖武天皇は、旅に出て、次々と都を移転しまくり、最後にたどりついたのが、世を鎮めるための大仏建立・・・この大仏の大きさは、きっと聖武天皇の恐怖の大きさなのでは?(10月15日参照>>)なんて事も、以前、書かせていただきました。

また、多額の費用を捻出するために、民衆から高い支持を受けている行基(ぎょうき)大抜擢した事も(2月2日参照>>)・・・

さらに、まだブログに慣れていない初心者の頃の4月9日には大仏様の大きさデータ(2006年4月9日参照>>)や、
大仏様=毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)とは、どのような仏様なのか?(3月23日参照>>)
大仏に目を入れたインド出身の僧菩提僊那(ぼだいせんな)(5月18日参照>>)の事・・・などなど、

大仏建立に関係する出来事をいくつか書かせていただいていますが、発掘調査が今もなお現在進行形で行われ、年を追うごとに、またまた新たなる謎が生まれてくるのも歴史のおもしろいところであります。

そんな中で、今では、あの聖武天皇の移転騒ぎも、「単なる恐怖ではなく、もう少し前向きな考えによるものであった」なんて見方も出ているようですが、そのお話は、また、いずれ関連するその日に書かせていただく事として、本日は、この大仏建立そして開眼に、妻である光明皇后が、どのように関わっていたのか?というお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

上記のように、聖武天皇の逃避行が恐怖一色のものだったかどうかはともかく、その他も含めた様々な行動から、この天皇が、少々気の弱いところのあるお坊ちゃま的な性格であった事は想像できます。

それは、まさに、藤原氏の期待の星として、大事に大事に育てられた環境によるところも大きいのでしょうが、それに比べて臣下で初めて皇后に立った光明皇后は、そんな天皇にゲキを飛ばすくらいの、男勝りのしっかり女房だったような印象を受けます。

ただ、そんな彼女でさえ、気がめいってしまうほどのプレッシャーがあったのも確か・・・なんせ、天然痘の流行や不満分子の叛乱の中、期待の星同士の夫婦二人には、「さらに期待の星となる男の子を、一日も早くもうけなければ!」なんて催促も、毎日のようにあったでしょうからね。

そして、逃避行の果てに大仏建立を発案した夫を、おそらくは光明皇后も多いに後押ししたであろう事は想像できますが、それが、具体的にはっきりとしたのが、昭和六十三年(1988年)に東大寺境内から発掘された大仏建立当時の木簡と銅塊でした。

場所は大仏殿の西隣・・・出土したのは、銅を溶かした炉の断片、溶解途中の事故で固まってしまった銅の魂、さらに木炭、そして200点ほどの木簡・・・

銅の塊などは、それまで文献には残っているものの、細かな合金の具合などは想像するしかなかった事から、この発見は大発見として、当時の新聞の一面を飾ったわけですが、同時に発見された木簡にも、新発見がいくつも・・・

Dscn0661800東大寺・大仏殿

木簡の中には、「悲田」「悲□院」「薬院」などと書かれた物がいくつか見つかったのです。

これは、光明皇后が建てたと言われる福祉施設「悲田院(ひでんいん)」「施薬院」の事・・・すでにブログに登場していますが、悲田院が貧困者や孤児を収容する福祉施設で、施薬院が病院&療養所の役割をするものです(4月17日参照>>)

・・・で、その木簡は、どうやら身分証明書のような物らしく、悲田院や施薬院の人々が、大仏鋳造の仕事に従事した時に使った物であろうとの事・・・

さらには、光明皇后の皇后宮「上吹銅一万一千二百廿二斤(約7.6t)請求した記録らしい物も出土・・・

正倉院に残る文書などで、かの良弁(ろうべん・東大寺の初代別当)(3月14日参照>>)から、皇后付きの官職に様々な頼み事がされている事から、光明皇后が大仏建立に関わっていたであろう事は、以前から囁かれていましたが、それが、これらの出土品で証明された事になったわけです。

今では、迷走する夫に「何か打ち込めるものがあれば落ち着くかもしれない」と、むしろ、光明皇后こそが、大仏建立の発案者で、積極的に聖武天皇に勧めたのではないか?とさえ考える研究者も多いようですよ。
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2010年4月 8日 (木)

悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎

 

推古天皇十四年(606年)4月8日、現存する最古の仏像飛鳥大仏が完成しました。

・・・・・・・・・・

先日・3月30日に書かせていただいた物部守屋(もののべのもりや)による仏像投げ捨て事件(3月30日参照>>)・・・しかし、仏像は投げ捨てられても仏教がなくなる事はありませんでした。

守屋に仏像を投げ捨てられたながらも後に物部氏を倒した蘇我馬子(そがのうまこ)は、その、翌・崇峻天皇元年(588年)、初めて本格的な寺院の建立に乗り出すのです。

それが、日本初の僧寺・法興寺(または元興寺)・・・現在の飛鳥寺です。

Asukadera914 飛鳥寺(奈良県明日香村)

『日本書紀』によれば、その「崇峻天皇元年に来日した百済(くだら)の寺工・露盤博士(ろばんはくし・屋根職人)・商工などによって明日香・真神原(まかみはら)によって建立・・・次いで、崇峻天皇五年(592年)に仏堂と歩廊(ほろう)が建てられ、翌・六年に仏塔の柱が、そして推古天皇四年(596年)に建物のすべてが完成した」とされます。

そして、いよいよ推古天皇十四年(606年)4月8日銅・繍(しゅう)の丈六(じょうろく・長さが六尺=約4.8m)の仏像が完成し、銅像を金堂に安置したという事です。

製作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり)・・・後に法隆寺釈迦三尊像を手掛けた司馬鞍作首止利(しばくらつくりのおびととり)と同一人物と思われ、あの仏像投げ捨て事件の時に、娘・3人を日本初の尼とさせた渡来人・司馬達等(しばたつと)の孫とされる飛鳥時代の代表的仏師です。

先に、銅・繍の丈六の仏像と書かせていただきましたが、銅の仏像というのは、いわゆる銅像で、繍というのは、飛鳥時代~奈良時代にかけて大流行した刺繍で仏像をあしらった壁掛けのような物です。

この壁掛けは、とりあえず持って入ってから飾るとして、問題は銅像のほう・・・すでに完成していた金堂の入り口が、像の高さより小さかったため、工人たちは堂の扉を壊す相談をしていたと言います。

Dscn1528a600 しかし、そこに現れた鳥の工夫によって、「戸を壊さすに堂内に入れる事ができた」という事ですが、単に横にしただけって気がしないでもない。

とにかく、スッタモンダして安置された、この仏像が、現在の飛鳥大仏だとされています。
 

全長=2m70cm・・・特徴としては
●全身と比較して顔と手が大きい
●面長
●眼は杏仁形
●鼻が高い
●口は仰月形で不思議な笑みをうかべる
 (いわゆるアルカイックスマイル)
●首が長い
●衣が全身を覆い胸に袴の紐が見える
●手の爪の先が鋭い
●右手の大指の間に縵網相がある
などなど・・・

ところで、とりあえす今回安置された仏像が飛鳥大仏だったとして、ここで一つ疑問・・・

建物が完成したのが推古天皇四年(596年)で、飛鳥大仏が推古天皇十四年(606年)・・・だとしたら、この9年間は、ご本尊が存在しなかったのでしょうか?

これは、かなり以前からの謎とされ、未だ結論の出ない事ではありますが、近年になって飛鳥寺の発掘調査が進み、当時の伽藍配置が、1つの塔を囲むように、3つの金堂が配置された形式だった事が判明すると、さらに、様々な憶測が飛び交います。

一説には、現在の飛鳥大仏は、『元興寺伽藍縁起』に出てくる、推古四年(596年)に鞍部加羅爾(くらつくりのからに)ら渡来工人たちが造ったとされる仏像で、最初から金堂に安置されており、今回完成した鳥が造った仏像は、遅れて完成した東西の金堂に、銅と繍のそれぞれが安置されたのではないか?というもの・・・

・・・で、現在では建物自体が失われてしまったので、「仏像の行方も知れず」という事なのだとか・・・

もちろん、別の説もあります。

本来の中金堂に安置されていたのは、敏達天皇十三年(584年)に鹿深臣(かふかのおみ)が百済からもたらした高さ二尺(約60cm)の弥勒石像であって、その後、東西の金堂が完成した時、銅と繍の2体の仏像を造らせ、以前の弥勒石像を東金堂に移して、銅像を中金堂に、繍像を西金堂に安置したのではないか?と・・・

さらに、推理が推理を呼んで、「現在の飛鳥大仏は、鎌倉時代頃に造りなおされた物で、鳥の造った飛鳥時代の物ではない」なんて話もありますが、私は真実を追究する歴史専門家ではないので、個人的には、やはり、今の飛鳥大仏は鳥の造ったもので、この日本書紀に書かれている最古の物だというロマンのほうを優先したいと思います。

Asukaderazu800 全盛期の飛鳥寺(当時・法興寺)の想像図

ところで、近年の発掘調査によって、明らかにされた法興寺(現・飛鳥寺)・・・その寺域は、約200m四方あり、先に書いたような塔を囲む形で金堂を配置する高句麗様式の伽藍配置で、あの法隆寺の約3倍はあったという大規模な物だったようです。

日本最初の本格的寺院として大いに栄えた法興寺は、またの名を元興寺と呼ばれていましたが、ご存知のように、都が奈良に遷るのと同時に、都に新たな元興寺が建てられます

現在、ならまちと呼ばれる場所にある、あの元興寺です。

Dscn3238800jpg ならまちにある元興寺

ここには、この飛鳥寺から運ばれた多くの瓦が再利用されています。

同じお寺が移転したのですから、再利用されるのは当然と言えば当然なのですが、そのぶん、もとの法興寺・・・つまり、現在の飛鳥寺は、その規模が小さくなってしまったわけです。

江戸時代には、門などもなく、かりそめのお堂に、かの釈迦如来が安置されるだけのお寺になってしまっていましたが、現在も参道入口に建つ寛政四年(1792年)の物とされる石碑には「飛鳥大仏」の文字がしっかりと書かれていますので、その頃には、すでに飛鳥大仏と呼ばれていた事がわかります。

ご覧になった方はおわかりのように、修復に修復が重ねられた大仏様のお顔は、痛々しい限りですが、顔の一部と左耳、右手の指3本だけ、造立当時のまま残ります。

しかし、そのお顔は痛々しさと同時に、遙かなる歴史の重さを感じさせてくれます。

先日、鶴岡八幡宮のあの銀杏の木が倒れたというニュース、そして、その後、その木から新たなる芽が確認されたというニュースがありました。

私・・・思うんです。

人間はいくら頑張っても100年ちょい・・・
それに比べて、樹木は何百年もの命を持ちます。

ひょっとしたら、あの銀杏の木は、源実朝の暗殺劇(1月27日参照>>)を間近で見ていたかも知れない・・・あの銀杏の木が話す事ができたなら、いったいどんな歴史を語ってくれるのだろうかと・・・

この飛鳥大仏も同じ・・・仏像は樹木よりも長い永遠の命を持っています。

飛鳥大仏は、この飛鳥寺が、法興寺と呼ばれた全盛時代も、そして平成の今も、その移り変わりを目の当たりにして来たはずです。

蘇我氏の権勢を見せつけつつ、その永遠の発展を願って馬子が建立した法興寺・・・皮肉にも、その法興寺で催された蹴鞠の会で、後に蘇我氏を倒す事になる(6月12日参照>>)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)が出会います。

その事は、大仏様にとって心痛める事件であったのか?
それとも、新しい時代への幕開けだったのか?

Dscn1532a600 飛鳥大仏のお顔は、
右斜めから見ると厳しく見え、
左斜めから見るとやさしく見え、
極接近すると凄く、
座して仰ぐと荘厳さが増す
と言います。

果たして、その質問は、どの位置からさせていただけばよろしいのでしょうか・・・

この先、飛鳥寺にお邪魔する度に、長時間の問答を繰り返す事になるのかもそれません。

飛鳥寺への行き方は本家HP【古京・明日香を行く】をどうぞ>>
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2010年4月 7日 (水)

敵は足腰にあり!明智越・体験記

 

昨日、明智越に行って参りました~

明智越とは・・・
あの天正十年(1582年)6月2日、明智光秀が大軍を率いて、主君・織田信長本能寺に攻めた(6月2日参照>>)丹波亀山城を出発して、かの事件現場の本能寺まで向かったルートのうちの一つと言われている道です。

現在では、国道9号線をほぼ同じルートをたどる老ノ坂越が一番有力視され、この老ノ坂越を明智越と称している書籍もありますが、もともと「明智越え」という名で呼ばれていたのは、今回行った保津川の北側から愛宕山を抜ける、このルート

この亀岡から嵯峨抜けるルートは、愛宕山を参拝するための聖なる道として古くからあったらしいのですが、愛宕山への信仰が深かった光秀が亀山城主となった時に、城下町の整備とともに、この道も、騎馬武者や庶民が楽に通行できるように整備しと言われています。

ただし、古くからその名で呼ばれていた明智越ですが、上記の通り、光秀が整備したからその名がついたのか?、光秀がしばしば、この道を通って愛宕山に通ったからなのか?それとも、やはり、本能寺の変の当日に通ったからなのか?というのはよくわかっていません。

現在では一般的な歴史では、この日の光秀は1万5千の軍を3段に分け、北から「明智越」「唐橿越」「老ノ坂越」の3方向から本能寺へ向かったとされていますが、地元の伝承では、その中で光秀本人が通ったのは、この明智越であると言われていて、いくつかのこの地にまつわる伝説も残っています。

「あの光秀が通ったかも知れない道を行くなんて!」
と、わくわくドキドキの私でしたが・・・しんどかった~~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

いや、いや、ウォーキングが趣味、ハイキングが趣味なんていう歩く事が得意な方々にとっては、たいした事はないのでしょうが、ワタクシは、単なる歴史好きのインドア派・・・歴史人物に少しでも近づきたいという一心で歩いているだけなので、とてもとても・・・

しかも、お恥ずかしい事に、今では「明智越ハイキングコース」として整備されている道にも関わらず、今回は途中まで・・・というのも、上記の通り、本当の明智越は、亀岡から出発して水尾へ行き、その後、愛宕山も登って京都まで行かなきゃなきゃいけないわけですが、さすがにそれはムリって事で、水尾のちょっと手前から「保津峡ハイキングコース」へとルートを変え、JR保津峡駅へ向かうというルートをとりました。

Aketigoeroot2a コース入り口にある案内板の地図

まずは、亀岡駅から保津大橋を渡ってまっすぐ・・・

Dscn9550sterta 農協ガソリンスタンド前右手に見える坂道を上り、文覚寺というお寺を過ぎた二又を右に行けば、

その道沿いに「明智越ハイキングコース」と書かれた案内板があり、その左横の1人ずつしか歩けないような道↑から山へ入ります。

つまり、ここから明智越のスタートです。

Dscn9577a600 上記の地図で見るところの、最初の30分=峯の堂までが、けっこう急な上りなのでメチャメチャしんどいです。

←写真ではあまり急な坂には見えませんが・・・

それにしても、馬通れるんかいな?

 

Dscn9582800 峯の堂(むねんどう)

ここは元慶四年(880年)に、あの清和天皇が崩御(12月4日参照>>)された場所とされていて、ご遺体を森に納め、社を建立したとされている小高い丘のような場所ですが、現在はお堂は建っていません。

しかし、あの日、光秀がここで必勝祈願をして本能寺へ向かったものの、ご存知のように、すぐに羽柴(豊臣)秀吉に討たれてしまう事から(6月13日参照>>)「峯の堂」と書いて「むねん(無念)堂」と読むのだとか・・

その後の40分=峯の堂から土用の霊泉までは、比較的ゆるやかな上りか、尾根づたいの上下のない道なので、ちょっと楽・・・

Doyounoreisena630jpg この土用の霊泉は、どんなに暑い夏の土用にも枯れる事がなく、こんこんと湧き出る泉だそうで、あの本能寺の変の時、光秀が、止血の特効薬である薬草=三七草(さんしちそう)をこの水に浸し、それを鎧の下に潜ませて本能寺に挑んだとの伝説が残ります。

最後、土用の霊泉からは下りで楽なのですが、逆に急な下りで、コケでぬるぬるだったので、2回もすべってしまいました~

 

 

Dscn9600a800  
 .

とにかく、道筋には→のような案内板が要所々々に設置してあるので、道に迷う事はないようです。

今回の場合は、途中で、保津峡ハイキングコースにルート変更するので、別れ道で、右に曲がるという部分がありますが、そこにもちゃんと
「←明智越ハイキングコース」
「保津峡ハイキンギグコース→」の案内板がありました。

あとは、保津峡駅から北に伸びる水尾からの道へと、自然と合流して駅へ向かう事になります。

それにしても、またしても先人に尊敬の念・・・とてもじゃないが、このコース+愛宕山の登山を、たった一晩・・・しかも雨のそぼ降る闇夜にはムリです~

私の敵は、本能寺ではなく、まだまだ鍛えたらない足腰にありました( ̄◆ ̄;)

Togetukyousakura1a900 桜満開の嵐山・渡月橋付近

・・・とは言え、その後、キッチリ嵐山の満開の桜を愛で、しかもライトアップまでウロチョロする、山越えとは別の楽しみのほうはじっくり味わったんですけどね
 .
 

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2010年4月 6日 (火)

悲劇の名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい!

慶応四年(1868年)閏4月6日、江戸幕府の勘定奉行を務めた事もある小栗忠順が、群馬県・烏川のほとりで、明治政府役人に斬首されました。

・・・・・・・・・・・

文政十年(1827年)に新潟奉行・小栗忠高の息子として江戸に生まれた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)・・・通称を又一と言います。

直参旗本として代々徳川家に仕えた小栗家・・・初代・徳川家康とともに戦国の世を生きた時代には、その合戦で常に先鋒を務め「また、一番槍取ったの?」と尊敬された事で、小栗家の当主は代々「又一」と名乗ったのだとか・・・。

幕臣の中でもエリート中のエリートの家柄に生まれながら、幼い頃から文武両道の才気に長けた忠順は、万延元年(1860年)に、あの咸臨丸一行(1月13日参照>>)とともに、軍艦・ポーハタン号に乗船して日米修好通商条約批准(ひじゅん・署名された条約に対し、国家として正式に同意する事)のため渡米します。

わずか34歳で、正使副使に次ぐ監察(目付け)というナンバー3の役どころ・・・しかも、この時の彼には、第一目的の批准以外にも、重要な使命があったのです。

それは、一両小判と1ドル金貨の交換比率を改める事・・・

実は、開国当時、日本での金と銀の交換比率は1:5・・・しかし、海外では1:15

つまり、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けという事になるわけです。

このため、またたく間に多くの小判が海外に流出し、エライ事になっていたのです。

忠順は、1ドル金貨の金の含有量を確かめるため、日本から持っていった秤を使って重さを測定し、難しい計算をソロバンでまたたく間にやってのけ、アメリカ人を大いに驚かせたと言います。

もちろん、この時の彼が、この難交渉を見事にまとめ、その後の小判の流出を食い止めた事は言うまでもありません。

帰国後も、外国奉行海軍奉行陸軍奉行勘定奉行を歴任する忠順ですが、彼の功績は、そんなもんじゃありません。

大政奉還・王政復古と揺れる幕府内にあって、無駄な出費を省いての課税方法の見直しによる経済対策を行い、何とか幕府の財政を維持・・・さらに、国の安全を守るためには自前の軍艦を建造する必要があると、フランスの力を借りて日本初の大規模な造船所も建設しました。

そのうえ、幕府に代わる新しい政体樹立の構想も、彼の中にはあったと言います。

商工会議所製鉄所銀行制度郵便電信制度・・・果ては、鉄道網ガス燈の設置など、これらは維新が成った後に明治政府が行いますが、実は、すでに忠順の手で、その原型となる物が考えられていたのです。

もはや官僚の域を超えた政治家・・・いや、大統領か首相にも匹敵する敏腕ぶりです。

しかし、そんなさなかに起こるのが、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。

錦の御旗を目の当たりにし、幕府の敗戦を知った第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、賊軍の汚名を着る事をヨシとせず、戦線を離脱して江戸城へと戻ってしまいます(1月6日参照>>)

しかも、その後は、ただひたすら恭順な態度をとり、自ら謹慎・・・戦争回避の意志を表明しますが(1月23日参照>>)、この時、忠順は徹底抗戦を主張します。

そのため、怒った慶喜に、勘定奉行の職を罷免(ひめん・職務をやめさせる事)されてしまっのです。

しかたなく忠順は、一族を引き連れて、領地である上州群馬郡権田(ごんだ)にて隠居生活に入る事になりました。

静かなる村で、読み書きを教えたりなんぞしながら、村人たちと、少しばかりの穏やかな時間を過ごす忠順でしたが、新政府は、それすらも許しませんでした。
(ちなみに忠順のよき理解者であった三野村利左衛門は、この頃、しきりにアメリカへの亡命を、彼に勧めていたと言いますが・・・2月21日参照>>

西郷隆盛勝海舟による世紀の会談(3月14日参照>>)から江戸城無血開城を成した総督府は、その勢いのまま一方はさらに北へ(4月25日参照>>)一方は関東周辺の征圧(4月4日参照>>)に取り掛かるのですが、そんな総督府から、忠順捕縛の命令が下のです。

その容疑は・・・
「大砲などの準備をして叛乱を計画している」と・・・

もちろん、実際には、そんな形跡はありません。

第一、彼が罷免されたのは1月27日・・・役人が村にやって来るまでの3ヶ月ちょっとで、叛乱軍など組織できるはずもありません。

未だ、新しい自宅すら完成しておらず、彼がその時住んでいたのは仮住まいの小さな家だったのですから・・・
(注:もちろん、埋蔵金も持ってません!:6月25日参照>>

しかし、有無を言わさず捕らえられた忠順は、何の取調べもないまま、翌日の慶応四年(1868年)閏4月6日、権田村を流れる烏川のほとりで、わずかに残っていた3人の家来とともに、縛られたまま斬首されたのです。

享年42歳・・・まだまだヤレる人でした・・・いや、むしろ、国家の損失とも言える惜しい人材でした。

地元の領民に慕われていたという忠順さん・・・幕府の頂点にいた将軍・慶喜でさえ、陸軍総裁の勝でさえ生き残っている幕末・維新の争乱の中、幕臣でただ1人処刑された忠順は、賊軍の汚名を、その一身に背負って逝きました。

ゆえに、勝海舟を偉人とするドラマはあっても、彼を主役に据えたドラマは、ほとんどありません。

合戦における先鋒とは、一番の武功を挙げるチャンスのある位置であるとともに、一番危険な場所でもあります。

一番槍の又一は、又一らしく、維新という国家的大戦で、一番、風の当たる場所に立って戦ってくれた人なのかも知れません。
 .

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2010年4月 5日 (月)

島津の前に散る悲しみの琉球王朝~尚寧王

 

慶長十四年(1609年)4月5日、薩摩の島津家久が、配下の樺山久高を総大将に琉球へ侵攻・・・尚寧王が降伏し、以後、琉球王国は薩摩の付属国となりました。

・・・・・・・・・・・

琉球王朝の王統は、15世ごろに初めて琉球全土を統一したと言われる(しょう)氏ですが、その最初に統一して7代続いた第一尚氏と、文明二年(1470年)に尚円(えん・内間金丸)が樹立する第二尚氏とに分かれます。

第一尚氏の第6代・尚泰久(たいきゅう)に仕えて異例の出世を遂げた尚円が、第7代・尚徳(とく)が亡くなったのをきっかけに、前政権にとって代わり、尚氏を引き継いだわけです。

・・・で、その第二尚氏・第6代の尚永(えい)に、後を継ぐべく子供がいなかったので、第3代・尚真(しん)玄孫(やしゃご・ひ孫の子)で、尚永の妹の息子でもあった人物が、天正十七年(1588年)に26歳で第7代の国王となります。

この第7代の王が、独立国家としての琉球最後の王となる尚寧王(しょうねいおう)です。

この頃の琉球は、どちらかと言うと(みん・中国)寄りの立場でした。

・・・というのも、明に限らず、歴代の中国皇帝は、周辺諸国に爵位や称号を与えて、その関係を維持する冊封(さくほう)体制をとっており、周辺諸国も、この大国に認められる事によって、自らの王国の正統性を内外に認識させ、国内の政治の安定をはかっているといった状況だったのです。

もちろん、琉球王朝・第二尚氏の歴代国王も、いずれも、この冊封を受けていましたから、第7代の尚寧も、就任から10年後の慶長四年(1599年)、明の皇帝へ使いを出しますが、この頃は、あの豊臣秀吉朝鮮出兵のゴタゴタで冊封が受けられず、7年後の慶長十一年(1606年)になって、ようやく冊封を受ける事ができました。

・・・とは言え、もともと琉球が日本と交流していなかったわけではありません。

むしろ、先々代の第5代・尚元(げん)の時代頃までは、薩摩(鹿児島県西部)の島津氏とも賢固な友好関にあったのです。

ところが、元亀元年(1570年)と、その翌年に、島津が派遣した使節の接待への仕方を巡ってのトラブルがあり、その後、ちょっとばかりギクシャク・・・

しかも、ここに来て、例の朝鮮出兵の兵糧の提供を求めたり、秀吉亡き後にも、再三に渡って、挨拶しに来い!と無理難題を吹っかけてきていました。

当時の琉球王朝の重臣には、摂政三司官(さんしかん)などの役職がありましたが、その三司官の1人・謝名利山(じゃなりざん・鄭迵=ていどう)などを中心に、これに大きく反発します。

この態度に怒った島津家久は、一族の樺山久高(かばやまひさたか)に3000の兵を預け、100余りの軍船に分乗させて薩摩を出航・・・慶長十四年(1609年)3月26日、沖縄本島北部に上陸し、一路、首里城をめざします。

一方、守る琉球は、実は、いささか不安・・・というのも、尚寧で7代=つまり、7代に渡って平和な日々が続いていたわけで、かの尚真の時に武器のほとんどを捨てた状況となっていたうえ、少し前にピークを迎えた周辺との交易も、ここのところ下火になっていて、最新鋭の武器など持ち合わせていなかったのです。

迫る島津は、関ヶ原を終えたばかり、未だ戦国真っ只中ですから、鉄砲隊をフル活用しての総攻撃・・・次々と死体の山となる状況を目の当たりにした尚寧は、慶長十四年(1609年)4月5日、ついに首里城を明け渡したのです。

わずか11日間の攻防戦でした。

翌・慶長十五年(1610年)、尚寧や利山らは薩摩に連行されますが、尚寧は、この時、人生で初めて首里城を出たと言います。

その後、薩摩にて、この先は島津の方針に従う(属国となる)よう要求されるのですが、尚寧は苦渋の選択の末、起請文にサインしたものの、明に留学経験があり、血統的には中国系であった利山は、かたくなに拒否・・・一行の中ではただ1人、鹿児島にて処刑されています(9月19日参照>>)

さらに、尚寧は駿府(静岡県)から江戸へと連行され、徳川家康や、すでに将軍職を譲られていた徳川秀忠にも対面・・・翌年、ようやく琉球への帰国を許されました。

首里城明け渡しから2年・・・帰国した尚寧の見た琉球は、もはや薩摩の支配下となり、おそらくは、彼の母国とは呼べない国になっていた事でしょう。

唯一の救いは、支配されてはいるものの形式的には「琉球王国」が存続した事・・・ただし、それも、中国との交易には、その方が有利だった事と、参勤交代の時に、異民族の衣装を身にまとう彼らを従えているという薩摩の優越感のためだったらしいのですが・・・

Syurizyou330 首里城・瑞泉門

事実上、琉球最後の王となった尚寧王・・・そのお墓は、琉球歴代の王が眠る「玉陵」ではなく、「浦添(うらぞえ)ようどれ」

これは尚寧の遺言によるものだそうで、一説には、琉球王朝を終らせてしまった事への自分への戒めなどとも言われますが、実際には、浦添が生まれ故郷であったからというのが本当のところのようです。

後継ぎがなかったために王となり、波乱万丈の人生を送った尚寧・・・本当は、王の座なんかよりも、静かな故郷で、ただ1人の人間としてのごく普通の人生を歩みたかったのかも知れません。
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2010年4月 4日 (日)

時平の七笑~意外に敏腕?左大臣・藤原時平

 

延喜九年(909年)4月4日、藤原氏栄華の一役を荷った平安前期の公卿・藤原時平が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

藤原時平(ときひら)・・・祖父は、あの応天門事件(9月22日参照>>)をきっかけに、臣下として初めて摂政となった藤原良房(よしふさ)(8月19日参照>>)

その養子の父は、臣下として初めて関白となった藤原基経(もとつね)(8月26日参照>>)・・・まさに望月の欠けたる事もない藤原氏全盛時代の礎を築いたエリート中のエリートの家に生まれ、わずか29歳で事実上のトップ=左大臣まで上りつめます。

さらに、同時期にトップとして並び立つ最大のライバル=右大臣の菅原道真大宰府へ左遷し、失意のどん底に落す・・・ゆえに、その若すぎる死は、怨霊=道真の祟りだったとも言われ、その印象は悪人のイメージが強い時平さんです。

しかし、以前も書かせていただいたように(1月25日参照>>)、左遷の是非に関しては、道真にも野心という物が少なからずあったようで、一概に時平の嫉妬だけってわけでもなかったと、個人的には思っておりますが・・・。

しかも、エリート中のエリートと言っても、順調に父の後を継いだわけではなく、彼なりに苦労して藤原氏の復権に尽力したのですよ。

・・・というのも、父の基経が、あまりにも権力をチラつかせたため、時の天皇・第59代宇多天皇藤原氏を警戒するようになり、基経の死後は、時平が未だ歳若いとして、摂政&関白を置かず、天皇自らが政治をする親政とし、藤原氏の長者の座も当時の右大臣で大叔父の藤原良世(よしよ)を任命します。

さらに、藤原氏と血縁のない皇子を皇太子とし、学者あがりの菅原道真を、時平と同じ参議に起用し、何かと道真を重用したのです。

その姿勢は、次の第60代醍醐(だいご)天皇になっても、変わる事はありませんでした。

そんな中で、わずか29歳で、天皇お気に入りの時の右大臣・道真と並び立つ左大臣になったのですから、ぼんぼんには、ぼんぼんなりの苦労があった事でしょう。

そして、ご存知のように、政治に関してはことごとく道真と対立する事になります。

この対立に関しても、先に書かせていただいたように、道真が不幸な最期を送る事で、見る人には判官びいき的な思いが生まれ、すばらしい政治手腕を持つ道真に対し、一方的に時平の手腕が劣り、そのために対立するような構図を思い浮かべてしまいますが、もともと学者あがりで、律令制の理想を追い求める政治をしようとする道真と、政治家らしく臨機応変に政治改革をしようとする時平では、ぶつかるのが当然・・・

現在の政治を見てもわかるように、よほどのオカシナ物でない限り、改革という物には、それぞれの案自体にプラスとマイナスが混在している物であり、一概に、どちらの改革が悪で、どちらが善でなんて事は決められなかったと思います。

まして、新人左大臣・時平29歳に、対する道真は57歳か58歳くらい・・・「青二才の坊ちゃんが何を言っとる!」という態度であった事も想像できますよね。

そんな時平さんと菅原ミッチーとのおもしろエピソード『大鏡』に残っています。

・‥…━━━☆

今回の政治改革に於いて、自分の案を通したい道真・・・しかし、また、今回も時平とぶつかり、モメる事は確実で、「何とか、彼を黙らせる方法はないか」と思案にあけくれておりました。

それを聞いた道真派の官人が、「よっしゃ、ワテに名案があります。時平はんを黙らせてみせまっせ!」と豪語・・・

実は、時平は・・・
「物のをかしさをぞ え念させたまはざりける
 笑い立たせたなひぬれば すこぶる事も乱れけるとか」

つまり、何かおかしい事があると、時平は笑いが我慢できない性格なのだそうです。

しかも、笑い出すと止まらなくて、その先は事が進まないと・・・

・・・で、半信半疑のまま、会議に出席する道真・・・もちろん、その会議は今で言うところの議会・・・政治の重要な事を決める会議で、時平も、かの官人も出席します。

そして、例のごとく、政治独特の重~い空気が立ち込める会議場で、おもむろに、時平に、道真一押しの書類を提出する、かの文官・・・その瞬間です!

「いと高やかに鳴らして侍りける」
つまり、高らかなるオナラを一発かました・・・と。

すると、時平は「文もえ取らず 手わななきて・・・」
もう、手が奮えて、書類を取る事もできないくらいの大爆笑のうえ
「今日はもアカン!なんもでけへん;:゙;`(゚∀゚)`;:゙右大臣に任せるって・・・」
と退席したのだとか・・・

もちろん、その後の会議は、道真の独擅場・・・

かの『大鏡』では、歳が若いので、その才覚も(道真より)劣ると酷評ですが、道真が政界を去った後には、天皇と藤原家の関係修復に尽力したり、荘園の改革を行ったりと、なかなかの手腕を発揮しているようにも思えますので、道真さんにも、もう少しだけ「とりあえず、一度、若いモンにやらせてみる」というような余裕があっても良かったのではないかと・・・今日は主役なので、少々、時平さんの味方をしてしまう私です。

その後、関係が修復された醍醐天皇とは、「宮中が華美で贅沢になりすぎた」と嘆く天皇と組んで、時平、一世一代のパフォーマンスをやってのけます。

ある日、メチャメチャ派手な格好で、宮廷にやって来た時平・・・

「なんじゃ!その派手な格好は!」
と、醍醐天皇からの大目玉・・・
「すんませ~ん」
と、ほうほうのていで、自宅に逃げ帰り、門を閉ざして1ヶ月間、自ら謹慎生活に・・・

実は、これが天皇としめし合わせた大芝居だったのです。

華美になる宮廷をいましめるために、時平自らが前例となった・・・「あの時平さんでも怒られて謹慎するんだから、派手な服装はやめよう」と、皆に思わせたわけです。

時平の治めた時代は『延喜の治』と呼ばれ、天皇が自ら政治をする理想の形として評価されています。

あの後醍醐天皇も、この時代の政治を理想として鎌倉幕府を倒す決意をしたのですから、やはり時平さん、なかなかの人であったと想像します。

もう少し長く・・・道真さんと同じ年齢になるくらいまで、政治を真っ当させてあげたかったですね。
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2010年4月 2日 (金)

松花堂弁当と寛永の三筆・松花堂昭乗

 

今日の関西地方は、どんよりとした雨模様で、とても「花見最高!」なんてはしゃぐ気分にはならない雰囲気ですが、季節的にはまさに桜前線北上中!・・・

なので、本日は、花見と言えばお花見弁当、弁当と言えば松花堂って事で、弁当の定番である松花堂のお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

松花堂(しょうかどう)弁当と言えば、25cm四方の正方形の弁当箱を十文字の板で仕切り、それぞれに味の違う料理を見た目も鮮やかに入れたもの・・・幕の内に匹敵する、弁当の定番と言える形式です。

以前、音を楽しむ日本庭園の装置=水琴窟(すいきんくつ)(8月10日参照>>・音も聞けますよ!)をご紹介した時に、少し書かせていただいたので、重複しますが、この弁当を松花堂弁当と呼ぶのは、『寛永の三筆』として名高い江戸時代の文化人・松花堂昭乗(しょうじょう)に由来する物です。

Dscn1237a800 松花堂庭園

昭乗は、天正十年(1582年)に、摂津(大阪)に生まれました。

はじめ、左大臣や関白も務めた事もある公卿・近衛信尹(このえのぶただ)に仕えますが、17歳の時に、京都は八幡にある石清水八幡宮滝本坊実乗(じつじょう)の弟子となり、以後、僧としての人生が始まります。

昭乗の読経には、タヌキまでが聞き入ったとか、彼を慕って毎日坊を訪れてうた小鳥は、昭乗が下山した時には姿を見せなかったとか・・・なんとも、ほのぼのしたエピソードを持つ昭乗さんですが、やはり、彼を有名にしたのは、その書の才能・・・

寛永元年(1624年)、信尹の推薦で、将軍・徳川家光の書の師匠に抜擢された時、老中が彼の力量をテストしようと、一筆所望したところ・・・
「石清水の水を使いたい・・・吾妻の水では書けません」
と、昭乗・・・

しかたなく、その希望に従った水を調達して、後日、再び、メンバーが集まったところで、今度は
「これは、ニセモノですな・・・おそらく、多摩川の水やおまへんか?」
と、ひと目見ただけで即答・・・

どうやら、本当にそうだったらしく、またまた水を調達・・・今度は、家光の「ごまかしは、なしヨ」の命令で、京都西洞院三条下ル『柳の水』というのを運んだところ、ようやく、昭乗は書き始めたのだとか・・・

そんなこんなで、書家として超有名になった昭乗ですが、晩年、滝本坊の住職を引退して、隠居生活に入ります。

坊の横に、茶室と庭園を建てて隠居所としますが、この隠居所の名前が、彼の号でもあった松花堂です。

Dscn1247a800 この向こうに、移転された茶室・松花堂がありますが、ここから先は撮影禁止ですので、その目でお確かめください

明治になって神仏習合が禁止となったため、それまで石清水八幡宮にあった坊は破壊されるか、管理する者もなく放置されて、ことごとく荒廃・・・当然の事ながら昭乗のような神社に奉仕する僧というのもなくなります。

現在は、石清水八幡宮のある男山の中腹に、その跡だけが残ります。

いくつかあるハイキングコースのうち、表参道を行くと松花堂跡を通る事ができます。

明治の中頃になって、その男山中腹にあった松花堂を、1kmほど南の位置に移転・・・これが、現在の松花堂庭園です。

・・・で、肝心の昭乗さんと弁当箱の関係・・・

実は、直接は無関係なんです~(/ω\)
 

そもそも・・・
昭乗さんは、悩んでおりました。

書を書くとき、筆や墨など、分けて整理できる使い勝手の良い容器はないものか?と・・・

そんな時、ふと農家の人が、農作物の種を保管する四角形の容器が目に止まります。

中が十字にし切ってあって、種が他の種と混ざらないように工夫されている・・・「これは、いい!」と、昭乗さん、同じ大きさの四角形の箱をいくつか造ってもらって、それらに道具を整理して入れ、さらに大きな煙草盆に、まとめて収納!

思い通りの整理整頓ができました。

・・・で、これを弁当箱として・・・

いやいや、弁当箱に・・・ていうのは、残念ながら昭乗さんのアイデアではなく、料亭・吉兆の創始者・湯本貞一さん・・・昭和のはじめ頃に、その昭乗の使った整理整頓の入れ物をヒントに考案され、そこから全国に広がったものなのです。

Syoukadoubentou 現在の松花堂庭園にも、『吉兆 松花堂店』があり、まさに本場の松花堂弁当が味わえますが、人気が高いため予約制だそうです。

松花堂庭園には、その吉兆のほかにも、その名の通りの美しい庭園や茶室はもちろん、美術館や昭乗さん関連の展示ホールもあり、のんびりと楽しめます。

さぁ、いよいよ近畿は、この1~2週間が桜の季節・・・石清水八幡宮をはじめ、男山一帯が花に彩られるほか、木津川を挟んだ対岸には、背割堤という桜の名所もありますので、ぜひどうぞ

松花堂庭園から石清水八幡宮&男山、木津川背割堤への行き方は、本家HP:【石清水八幡宮と男山散策】のページへどうぞ>>

Dscn1241a800 松花堂庭園の桜
 

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2010年4月 1日 (木)

千早城攻防戦・秘話~はりぼての野田城

 

今日・4月1日エイプリルフール・・・

その起源については、【ウソも方便…遠めがねの福助さん】(2011年4月1日参照>>)にチョコッと書かせていただきましたが、結局は、よくわからない・・・

とは言え、とにもかくにも、本日は、そのエイプリルフールにちなんで、「ウソ」が登場する大阪の昔話を一つ・・・

とは言え、今回ご紹介するお話は、時も場所もはっきりしていて、実在の歴史上の人物が登場し、しかも、その場所は現在でも史跡として残り、さらに歴史上の大事件を背景にしている、もっともらしいお話です。

ただ、いわゆる歴史家&史学の教授の方々が、おそらく事実であろうと解釈する1級史料と呼ばれる文献には書かれておらず、地元の伝承とされるお話なので、分類としては「昔話」となります。

―はりぼての野田城―
・‥…━━━☆

今から、700年ほど前、鎌倉幕府打倒をめざす後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、笠置山に籠り、近くの土豪(どごう・半士半農の地元の武士)などに賛同を呼びかけました(8月27日参照>>)

楠木正成(くすのきまさしげ)は、倒幕軍の大将のひとりとして、河内の千早城(現在の大阪府千早赤阪村)を護っていましたが、そこをめざして幕府が、数万の大軍を率いてやってきました

朝早く京都を出発して、八尾柏原を経て、南に向かってものすごい勢いです。

千早城は、奈良と大阪をへだてている金剛山のふもとにあり、京から攻めるには、大和川を超え、石川を南へ、そして千早川をさかのぼり、それにつれて道はだんだん険しくなります。

しかし、あっと言う間に幕府軍はもう大和川を越えようとしています。

こんな大軍が攻めてきたら、今の千早城は、ひとたまりもありません。

野田城にいて、その知らせを聞いた野田四郎正氏(楠木正成の家来)は、作戦を練りはじめます。

野田城というのは、石川から少し離れていて、幕府軍が向かう道筋からははずれており、見通しの良い平地に建っている城なのですが、とても城とは呼ぶに程遠い、普通の屋敷のような建物でした。

それは野田城が『伝えの城』という、敵のようすを千早城に知らせる連絡の役目の城だったからです。

正氏は、敵が迫って来ているのを千早城に伝える伝令を走らせる一方で、なんとか幕府軍を野田城に釘付けにして、足止めをさせる方法はないものかと思案します。

正氏は、少しの手勢を集め、押しては退き、退いては押して、巧みに南に進軍していた幕府軍を南西の野田城のほうへ引き寄せます。

そのうえで、イバラの垣根をはりめぐらし、田んぼには水を引いて泥の沼のようにして、馬が足をとられて、なかなか進軍できないようにもしました。

そうやってうまくおびき寄せましたが、今度は野田城近くまでやってきた大軍をどうにかしなければなりません。

日の入りも間近、今日はこれ以上攻めてこないだろうとにらんだ正氏は、みなを集めてこう言いました。

「今から、城を造る。
城と言うてもホンマもんやない。
はりぼて
(紙で作った外だけの物)の城や。」

家来や城下の者、農民も商人も、みんな集まって細い木で木組みを作り、紙に絵の具で色をつけて、糊ではって・・・。

そして東の空が明るくなった頃、それはそれは見事な城が、朝日にさんぜんと輝いていました。

どこからどう見てもりっぱなお城に見え、おまけにのぼり旗を何百本とならべて、見た目には、何千もの兵がそこにいるように見せかけました。

ほんとうは、正氏と家来が3人いただけで、他の者たちは、もう別の場所に移動していたのですが・・・。

そんな事とは知らない幕府軍は、何かワケの分からない所に誘いこまれ、気が付いたら聞いたこともないような場所に大きな城があって、ものすごい数の兵がいる。

ここは、いったん退却して、改めて千早城を攻めることにしようと帰っていきました。

その間に、千早城では武器や食料をたくわえ、充分に作戦をねることができたという事です。

・‥…━━━☆・

この話に登場する野田城は、あの武田信玄の最後の戦い(1月11日参照>>)となった野田城ではなく、大阪和泉の野田城・・・南海電車・高野線の北野田駅の南側に、現在も一部の石垣が残り、史跡とされている場所です。

もちろん、主人公の野田城主・四郎正氏も実在の人物で、助演男優賞の楠木正成後醍醐天皇は、皆様ご存知の通りです。

時代背景としては、まさに、正成の籠る千早城に幕府の大軍が攻め寄せたその時という事になります。

以前書かせていただいた通り、この時、幕府軍が千早城への総攻撃を仕掛けるのが元弘三年(1333年)閏2月5日(2月5日参照>>)・・・正成が、あの伝説的なゲリラ戦を展開する有名な戦いですが、ご存知のように、結局、幕府は千早城を落す事ができず、5月10日には包囲を解いて四散。

その12日後の5月22日、北条高時の死を以って鎌倉幕府は滅亡します(5月22日参照>>)

もし、このお話が、多少の誇張はあるとしても、何らかの事実をもとにしたお話であるなら、正氏さんは、諸葛孔明バリの兵法で、その幕府討伐に大きく貢献した事となりますね。

ちなみに、本日の主役の正氏さん・・・この後、後醍醐天皇に叛旗をひるがえした足利尊氏と戦う楠木正行(まさつら・正成の長男)に従い、四条畷の戦いで戦死したという事です。
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