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2010年4月25日 (日)

江戸初期・最大の謎~大久保長安の懲罰事件

 

慶長十八年(1613年)4月25日、徳川家康配下で、佐渡金山などを開発した大久保長安が69歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

この大久保長安(ながやす)さん・・・もともとは、武田家の家臣でした。

あの天目山の戦い(2008年3月11日参照>>)武田勝頼以下、武田氏を滅亡に追い込んだ織田信長は、執拗に、その残党狩りを行ないます。

一部の残党には抵抗した者もいましたが、そのほとんどは圧倒的な兵力の差に、ただただ身を隠して逃げ回らねばなない状態・・・。

先代・信玄からの家臣である長安も例外ではなく・・・
なので、この頃の彼の消息は不明・・・

そんな不遇の生活から開放されたのが、武田滅亡から3ヶ月後に起こった本能寺の変(6月2日参照>>)・・・肝心の信長が亡くなってしまったのですから、その家臣は「武田の残党」どころの騒ぎではありません。

すぐさま畿内にかけつけて、事の真相を把握しなければ!

ここで、命拾いした長安・・・というのも、信長死亡のドサクサに乗じて甲斐(山梨県)を手に入れた徳川家康は、武田の残党狩りどころか、むしろその配下の者たちを自らの軍に引き入れる事を積極的に行ったからです。

これは、家康が信玄の軍事や政治のやり方を尊敬していたからだとも言われますが・・・

とにもかくにも、あの「武田の赤備え(あかぞなえ)を、そっくりそのまま井伊直政に受け継がせて「井伊の赤備え」にしたり(10月29日参照>>)「甲州水軍」徳川の水軍にしたり(11月7日参照>>)・・・

そんな中で、特に厚遇で登用されたのが長安でした。

それには、甲斐の地に館を建てて家康に献上したからだとも、桑木の風呂をプレゼントしたからだとも言われますが、実際のところは、やはりその才能・・・鉱山や治水に関する技術のすばらしさをかわれたものと思われます。

こうして徳川の一員となった長安は、大久保忠隣(ただちか)の配下となり、忠隣に気に入られた長安は、ここで、その姓を大久保としています(これまで大蔵→土屋でした)

家康の政権になった後も、幕府直轄地の統治に、その手腕を発揮するとともに、石見や佐渡、伊豆などの鉱山の開発にも貢献します。

徳川幕府の草創期に欠かせない人物として重要された長安は、最終的には120万石相当に達したと言われるほどに上りつめます。

しかし、慶長十八年(1613年)4月25日・・・長安の病死によって、徳川の態度は豹変します。

まずは、長安の葬儀の中止

そして、莫大な遺産の没収

さらに、遺子7名の切腹親類縁者の改易・・・

いったい、なぜに???

それには、彼が、あまりにも寄せられた信頼ゆえ、金山をはじめとする様々なものの管理・統轄権を与えられていた事を良い事に、不正な蓄財をくり返し、私腹を肥やしていたというのが、一般的な見方のようですが、その証拠となる物も存在せず、確かに裕福ではありましたが、不正かどうかは今ひとつつかめず、実際には多くの謎がひしめき合っています。

有力視されている別の説では、彼の直属の上司である大久保忠隣と政治的に対立関係にあった本多正信(ほんだまさのぶ)との権力抗争に巻き込まれてしまったのではないか?と・・・。

つまり、本当のターゲットは忠隣だけれど、忠隣側を弱体化させるために、まずは長安の不正蓄財をでっちあげて粛清を行ったのでは?という事です。

現に、この後、ほどなく忠隣自身も失脚の憂き目に遭っています

また、長安が、その莫大な財力を生かして幕府転覆をたくらんでいた・・・という説もあります。

あの伊達政宗遣欧使節派遣(8月26日参照>>)を影で支援し、家康の6男=松平忠輝将軍に据えた新しい幕府の構想を練っていたとか・・・

まぁ、上記のように金山などの統轄を一手に引き受けていた長安には、実際には、その石高以上の収入があり、それが、幕府直轄領に影響を与えるほどになっていたとも考えられ、謀反をたくらむウンヌンよりも、それが、すでに幕府の脅威となっていたという事もありますしね。

・・・と、本来ならブログに書く以上、ここで、自分なりの見解などを提示せねばならないところではありますが・・・申し訳ありませんm(_ _)m

この一件に関しては、未だ私見がまとまらず、恥ずかしながら、今回は、「江戸幕府初期最大の謎としてご紹介する」という形で、このページをまとめさせていただきたいと思います。

今後、何か思うところがあれば、その時に、再び書かせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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コメント

長安を大久保一族(親族の疑惑で大久保忠隣失脚したと思い込む)とよく勘違いする人がいますが、徳川家の陪臣(家臣の家来)ですね。長安が幕閣並みの存在感を持っていたのを嫌がられたか?
武断派の大久保家と官吏派の本多家の対立。下手をするとまるで豊臣家の様に、内紛が起こる寸前で諸大名が関与しなかったのは、恐らく豊臣家衰退(大阪の陣の直前であるためか?)の経緯を知る藤堂・細川・真田の面々が制止したと思います。
幕府初頭の20年はかなり内部でごたごたしています。

投稿: えびすこ | 2010年4月25日 (日) 12時36分

えびすこさん、こんばんは~

江戸に限らず、
室町も鎌倉も、幕府の草創期にはイロイロありますね~

投稿: 茶々 | 2010年4月26日 (月) 01時56分

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