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2010年4月 4日 (日)

時平の七笑~意外に敏腕?左大臣・藤原時平

 

延喜九年(909年)4月4日、藤原氏栄華の一役を荷った平安前期の公卿・藤原時平が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

藤原時平(ときひら)・・・祖父は、あの応天門事件(9月22日参照>>)をきっかけに、臣下として初めて摂政となった藤原良房(よしふさ)(8月19日参照>>)

その養子の父は、臣下として初めて関白となった藤原基経(もとつね)(8月26日参照>>)・・・まさに望月の欠けたる事もない藤原氏全盛時代の礎を築いたエリート中のエリートの家に生まれ、わずか29歳で事実上のトップ=左大臣まで上りつめます。

さらに、同時期にトップとして並び立つ最大のライバル=右大臣の菅原道真大宰府へ左遷し、失意のどん底に落す・・・ゆえに、その若すぎる死は、怨霊=道真の祟りだったとも言われ、その印象は悪人のイメージが強い時平さんです。

しかし、以前も書かせていただいたように(1月25日参照>>)、左遷の是非に関しては、道真にも野心という物が少なからずあったようで、一概に時平の嫉妬だけってわけでもなかったと、個人的には思っておりますが・・・。

しかも、エリート中のエリートと言っても、順調に父の後を継いだわけではなく、彼なりに苦労して藤原氏の復権に尽力したのですよ。

・・・というのも、父の基経が、あまりにも権力をチラつかせたため、時の天皇・第59代宇多天皇藤原氏を警戒するようになり、基経の死後は、時平が未だ歳若いとして、摂政&関白を置かず、天皇自らが政治をする親政とし、藤原氏の長者の座も当時の右大臣で大叔父の藤原良世(よしよ)を任命します。

さらに、藤原氏と血縁のない皇子を皇太子とし、学者あがりの菅原道真を、時平と同じ参議に起用し、何かと道真を重用したのです。

その姿勢は、次の第60代醍醐(だいご)天皇になっても、変わる事はありませんでした。

そんな中で、わずか29歳で、天皇お気に入りの時の右大臣・道真と並び立つ左大臣になったのですから、ぼんぼんには、ぼんぼんなりの苦労があった事でしょう。

そして、ご存知のように、政治に関してはことごとく道真と対立する事になります。

この対立に関しても、先に書かせていただいたように、道真が不幸な最期を送る事で、見る人には判官びいき的な思いが生まれ、すばらしい政治手腕を持つ道真に対し、一方的に時平の手腕が劣り、そのために対立するような構図を思い浮かべてしまいますが、もともと学者あがりで、律令制の理想を追い求める政治をしようとする道真と、政治家らしく臨機応変に政治改革をしようとする時平では、ぶつかるのが当然・・・

現在の政治を見てもわかるように、よほどのオカシナ物でない限り、改革という物には、それぞれの案自体にプラスとマイナスが混在している物であり、一概に、どちらの改革が悪で、どちらが善でなんて事は決められなかったと思います。

まして、新人左大臣・時平29歳に、対する道真は57歳か58歳くらい・・・「青二才の坊ちゃんが何を言っとる!」という態度であった事も想像できますよね。

そんな時平さんと菅原ミッチーとのおもしろエピソード『大鏡』に残っています。

・‥…━━━☆

今回の政治改革に於いて、自分の案を通したい道真・・・しかし、また、今回も時平とぶつかり、モメる事は確実で、「何とか、彼を黙らせる方法はないか」と思案にあけくれておりました。

それを聞いた道真派の官人が、「よっしゃ、ワテに名案があります。時平はんを黙らせてみせまっせ!」と豪語・・・

実は、時平は・・・
「物のをかしさをぞ え念させたまはざりける
 笑い立たせたなひぬれば すこぶる事も乱れけるとか」

つまり、何かおかしい事があると、時平は笑いが我慢できない性格なのだそうです。

しかも、笑い出すと止まらなくて、その先は事が進まないと・・・

・・・で、半信半疑のまま、会議に出席する道真・・・もちろん、その会議は今で言うところの議会・・・政治の重要な事を決める会議で、時平も、かの官人も出席します。

そして、例のごとく、政治独特の重~い空気が立ち込める会議場で、おもむろに、時平に、道真一押しの書類を提出する、かの文官・・・その瞬間です!

「いと高やかに鳴らして侍りける」
つまり、高らかなるオナラを一発かました・・・と。

すると、時平は「文もえ取らず 手わななきて・・・」
もう、手が奮えて、書類を取る事もできないくらいの大爆笑のうえ
「今日はもアカン!なんもでけへん;:゙;`(゚∀゚)`;:゙右大臣に任せるって・・・」
と退席したのだとか・・・

もちろん、その後の会議は、道真の独壇場・・・

かの『大鏡』では、歳が若いので、その才覚も(道真より)劣ると酷評ですが、道真が政界を去った後には、天皇と藤原家の関係修復に尽力したり、荘園の改革を行ったりと、なかなかの手腕を発揮しているようにも思えますので、道真さんにも、もう少しだけ「とりあえず、一度、若いモンにやらせてみる」というような余裕があっても良かったのではないかと・・・今日は主役なので、少々、時平さんの味方をしてしまう私です。

その後、関係が修復された醍醐天皇とは、「宮中が華美で贅沢になりすぎた」と嘆く天皇と組んで、時平、一世一代のパフォーマンスをやってのけます。

ある日、メチャメチャ派手な格好で、宮廷にやって来た時平・・・

「なんじゃ!その派手な格好は!」
と、醍醐天皇からの大目玉・・・
「すんませ~ん」
と、ほうほうのていで、自宅に逃げ帰り、門を閉ざして1ヶ月間、自ら謹慎生活に・・・

実は、これが天皇としめし合わせた大芝居だったのです。

華美になる宮廷をいましめるために、時平自らが前例となった・・・「あの時平さんでも怒られて謹慎するんだから、派手な服装はやめよう」と、皆に思わせたわけです。

時平の治めた時代は『延喜の治』と呼ばれ、天皇が自ら政治をする理想の形として評価されています。

あの後醍醐天皇も、この時代の政治を理想として鎌倉幕府を倒す決意をしたのですから、やはり時平さん、なかなかの人であったと想像します。

もう少し長く・・・道真さんと同じ年齢になるくらいまで、政治を真っ当させてあげたかったですね。
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コメント

道真さんと違う時代に生きてれば、後世の評価も随分と変わってきてたでしょうね。如何せん道真さんを太宰府に追いやって政権の中枢に座ったと云うイメージが強くて、時代劇にしたら…道真さんがお家の安泰を願う清廉潔白な城代家老。時平さんは城代家老を追い落として自分がその座に着き藩の実権を手中にして藩政を牛耳り私腹を肥やさんとする次席家老か江戸家老あたりって雰囲気ですからね。ただ…道真さん、あれほどの大人物なら太宰府に於いて大功績を上げて『よっしゃ今に見とれぇよ、ワシは何としてでも都に返り咲いて、ワシをこんな田舎に追いやった藤原のモン等を同じ目に遭わせたるけぇな』ってぐらいの気概を見せてほしかったんですが、如何な道真さんとてそれは不可能な事だったんですかね?。

投稿: マー君 | 2010年4月 5日 (月) 01時46分

マー君さん、こんばんは~

>気概を見せてほしかった・・・

そうですね~
年齢が年齢だったので左遷された時点で中央への復帰はあきらめたって事なのかも知れませんが、学者としてのプライドが邪魔をしてたような気もします。

投稿: 茶々 | 2010年4月 5日 (月) 02時02分

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