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2010年5月31日 (月)

やっぱり気になる?大安・仏滅って何よ

 

昭和十六年(1941年)5月31日、内務省が、大安・仏滅などの日の縁起や暦に附随する迷信など偽暦=「迷信暦」として、発売を禁止して取締りました。

・・・・・・・・・

結婚式は大安の吉日が良い・・・とか
友引の日には葬式は避けよう・・・とか
っていうヤツですね。

コレって、今でもあちこちで見かけるような気がするんですが、一応、公共の機関では、「迷信暦」としてカレンダーなどには記載しないって事に、今もなってるのだそうです。

まぁ、現代人の私たちにとっては、それを「信じている」というよりは、「どうせするなら縁起の良い日にやったほうがいいかな?」程度の物だと思いますが・・・

・・・で、とにかく、このような吉日厄日なんていうのは、ずいぶん昔からあって、あの万葉の頃には、旧暦の3月3日が「シガノ悪日」と呼ばれる「何をやっても悪い日」とされていて、その厄払いのために、皆で花見に出かけて英気を養ったのが、お花見の始まり・・・なんて事を以前書かせていただきました(3月30日【お花見の歴史は万葉から】参照>>)

また、平安時代に流行った末法思想から、何か事があると儀式やお祓いをして難を逃れようとし、果ては、陰陽師の作った「占いカレンダー」に従って、毎日の生活を送る人までいて、「今日は外に出てはいけない日」とされると、仕事まで休んじゃった・・・なんて話もさせていただきました(2月2日【藤原頼通と平等院と末法】参照>>)

さらに、戦国時代には、軍師と呼ばれる側近が、「今日は日が悪いので出陣はやめましょう」「今日は方角が良い西から攻めましょう」などと指導していた・・・なんて事もありました(5月23日【軍師のお仕事・出陣の儀式】参照>>)

そう言えば江戸時代には、丙午(ひのえうま)の女性はうんぬん(12月28日【八百屋お七と丙午】参照>>)・・・なんてのもありましたが、こういうのも、縁起をかつぐ程度ならほほえましいですが、あまりにソレに縛られたり、丙午のように誰かの生まれた日のせいにしたりするのは、どうもいただけませんねぇ。

・・・そんなこんなで、江戸時代までの暦=カレンダーには、陰陽五行説十干十二支(2007年11月9日参照>>)なんかに基づいた日時の吉凶やその日の運勢など暦注(れきちゅう)と呼ばれる注意書きが書かれていたわけですが、ご存知のように明治五年(1872年)、日本近代化への一環として、それまでの太陰太陽暦に代わって、西洋式の太陽暦=グレオリオ暦が採用される事になり(2006年11月9日参照>>)、それにともなう一般庶民のすみやかな移行のためにも・・・と、これまでの迷信的な暦注は、カレンダーには書いてはいけないという事になったわけです。

しかし、その時に、「六曜(ろくよう)だけは、迷信の類ではないとされ、引き続きカレンダーに記載された事で、爆発的な人気を呼び、そのまま残ったために、今回の昭和十六年(1941年)5月31日「迷信暦の発売禁止」となったのでしょうが、一方では、かの明治の太政官布告には「一切相成らず候」とある事から、「やはり、その時点で禁止されている」との見方もあります。

・・・で、今回の大安や仏滅などの六曜とは・・・

古代中国で生まれた当時は、六壬(るくじん)という時刻の吉凶を占うものでしたが、これが、日本に伝わる時に、日の吉凶を占う物へと変化し、江戸時代末期頃から暦に書かれるようになったのだとか・・・

それは、六つの星が
先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口
と順に巡ってくるのですが、旧暦では、月ごとにリセットされ、「毎月の朔日(ついたち)が何」という風に決まっていたのですが、現在では、月ごとのリセットはなくなり、この六つが順ぐりに巡ってくるようです。

では、一応、その意味を・・・

  • 先勝(せんかちせんしょう)
    「先んずれば勝ち」=つまり早いほうが良いという事で、何事も午前中に済ませるのが吉とされている日です。
  • 友引(ともびき)
    「悪い事に友達を引っ張りこんじゃう」という事でお葬式は避けるべき、また、勝負の決まらない日でもありますが、とりあえず、朝晩は吉で、正午は凶とされています。
  • 先負(せんまけ・せんぷ)
    「先んずれば負け」という事で、勝負事はなるべく避け、相手から仕掛けられてから・・・予想通り、午前は凶で午後からは吉となります。
  • 仏滅(ぶつめつ)
    「仏も滅ぶような最悪の日」という事で、決してお釈迦様の命日ではありません・・・この日は、葬式だけはお見逃しで、あとは何をやっても凶です。
  • 大安(たいあん・だいあん)
    もともとは「泰安=大いに安し」という事で、何をやってもうまくいくって事で、結婚や就職や建築や旅行、お店の開店なんかも、この日にすると良いとされます。
  • 赤口(しゃっく・しゃっこう)
    赤口と羅刹(らせつ)神という恐ろしい鬼の事で、その鬼が悩み事をまき散らす日なので何をやってもうまく行かないとされ、正午以外は凶・・・特に、祝い事は大凶だそうな・・・

んん???
・・・って事は、6分の1が仏も滅ぶ最悪の日で、さらに6分の1が鬼が暴れる日、そして、午前・午後それぞれダメな日が一日ずつあるので、これを足して一日とし、そこに大安以外の日は、どこかしらの時間帯がダメとなると・・・

なんと、2日に1日以上は、何もやってはいけない事になるではないのか?!

それでは、さすがに日々の生活が成り立たん・・・という事で、やっぱり、信じるのはほどほどに・・・

ちなみに、本日、2010年5月31日は先負・・・って事で、午前中は何をやってもダメな日ではありますが、この記事は、午前中にupしますww
 

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2010年5月30日 (日)

新撰組・沖田総司の最期

 

慶応四年(1868年)5月30日、新撰組・1番組組長を務め、池田屋事件などで活躍した沖田総司がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

今更ながらの有名人ではありますが・・・

天保十三年(1842年)もしくは天保十五年に白河藩足軽小頭(あしがるこがしら)沖田勝次郎の長男として生まれた沖田総司(おきたそうじ)は、少年の頃から江戸・市ヶ谷にあった近藤勇天然理心流道場試衛館(しえいかん)で剣術を習い、10代で早くも免許皆伝となり、18歳で師範代を務めていました。

新撰組の生き残りの話によれば、その剣技はもはや伝説の域に達し、下がり気味に構えた剣先から繰り出す刀さばきには誰もが目を見張り、本気になれば、師匠の近藤よりも上なのでは?と思えるほどだったとか・・・もちろん、沖田よりあとから入門した7~8歳年上の土方歳三(ひじかたとしぞう)とは、比べ物にならないくらい強かったなんて言われてますね。

そんな沖田は、文久三年(1863年)2月に、あの清河八郎が募集した将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛にともなう警護の浪士隊の公募に、師匠の近藤らとともに応募し、京都へやってきます。

・・・で、その清河のワケのわからん宣言(2月23日参照>>)で空中分解した浪士組で、京都に残る事にした近藤とともに彼も残留・・・やはり、残る事にした芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間たちとともに壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を結成し、その年の八月十八日の政変でその名を挙げて(2008年8月18日参照>>)新撰組と名を改めたのもつかの間、近藤と反目する芹沢一派の暗殺を決行します(9月18日参照>>)

翌年、かの政変でピンチに追い込まれた長州(山口県)が、政変の中心人物・中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王(2009年8月18日参照>>)の幽閉と、京都守護職の松平容保(かたもり)暗殺計画を練っている現場へと新撰組が突入する事件・・・世に言う池田屋騒動がありました(6月5日参照>>)

ドラマでも、最もカッコイイ沖田の見せ場・・・

結核に冒された沖田が、吐血しながら敵を斬る名シーンですが、実際にところは、吐血したかどうかは微妙なようで・・・

ただ、数人斬ったところで具合が悪くなり、死体を枕に横たわっていたところを、駆けつけた土方隊の介助によって祇園の会所に戻ったという事は確かなようなので、すでに発病していたと思われます。

・・・とは言え、その後も、フツーに新撰組幹部として活躍し、しばらくは病気の記録もないところから、たとえ発病していたとしても、このあたりでは、まだ大した病状ではなかったものと考えられていますが・・・。

やがて、元治から慶応へと元号が改められた年(1865年)に起こった山南敬助(やまなみけいすけ)脱走事件では、兄のように慕っていた彼を追う立場となり、捕らえた山南の切腹の時には、涙を呑んで、その介錯役を務めています(2月21日参照>>)

この年の9月、第二次長州征伐の勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)が下った事で、第一次の戦後処理のため、長州へと訪問する大目付・永井尚志(なおゆき)に同行する事となった近藤は、敵陣に赴くとあって、故郷の多摩の人々に宛てた手紙の最後に、まるで遺言のような事を書いていますが・・・

「京都の留守は土方に頼んでありますので、自分に万一の事があったら、土方の言う通りにして下さい。
剣の流名は沖田に譲りたいと思っていますので、手助けしてやって下さいな。
ただし、この話はナイショにしておいてネ!」

Kondou18651104 沖田の事を頼んだ近藤の書状(小島資料館蔵)

この書状は、死を覚悟しての興奮からか、かなり筆が乱れていると言われますが、その書面に、「天然理心流を沖田に・・・」と書き残すのですから、いかに、沖田への近藤の信頼が篤かったかがうかがえますね。

しかし、慶応三年(1867年)に屯所が西本願寺から不動堂村に移転した頃から、沖田の病状は深刻なものとなってきます

その年の12月、近藤が伏見で襲撃される事件(12月18日参照>>)が勃発しますが、この時の沖田は、すでに動く事ができず、非常に悔しがっていたとの事・・・さらに、翌年正月に勃発した鳥羽伏見の戦いでも、やはり起き上がる事ができず、かの襲撃事件で負傷した近藤とともに、大坂城にて療養するしかなかったのです。

その後、鳥羽伏見で敗れた新撰組の同志らとともに江戸に戻った(1月9日参照>>)後、新撰組は甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改め、甲府へと出陣します(3月6日参照>>)、この時は、「是非とも参加したい!」と、気力を振り絞って行軍に加わります。

しかし、さすがに容体が悪く、故郷・多摩まではなんとか同行するも、甲府まで行く事はできませんでした。

その後、沖田は、浅草にあった松本良順(りょうじゅん)(3月12日参照>>)の医学所に入院して療養したとも、千駄ヶ谷にあった植木屋・平五郎にかくまわれていたとも言われますが、慶応四年(明治元年・1868年)5月30日、まだ25~27歳の若さて病没します。

その2ヶ月前・・・沖田が師と仰いだ近藤勇は、板橋の処刑所にて斬首(4月25日参照>>)となっていますが、沖田には最後まで、その事は知らされず、死の間際まで
「近藤さんは、どうしていますか?便りはありませんか?」
と聞いていたとも言われます。

現在、真実&虚実入り乱れる新撰組でありますが、それもこれも、あまりにも壮絶なその人生に、人は魅力を感じずにはいられないからなのでしょう。

近藤勇、
土方歳三、
沖田総司・・・

三人三様の滅びの美学を演じてくれるところは、あまりにもドラマチックすぎる気がしないでもありませんが、今日のところは、そのカッコ良さに浸る事にいたしましょう。
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2010年5月28日 (金)

応仁の乱~初戦は激しい五月合戦

 

応仁元年(1467年)5月28日、20日に勃発した応仁の乱の戦況を見た将軍・足利義政が、山名宗全細川勝元停戦命令を出しました。

・・・・・・・・・・

その日の日づけで思いついた事を書いてしまうという、このブログの性質上、話が前後してややこしくなり、まことにもって申し訳ないです(*_ _)人

一度、整理しましょう(゚ー゚;

ご存知のように、応仁の乱は、室町幕府・第8代将軍の足利義政が、その趣味に没頭しいたいがため、早々と子供の誕生を諦め、弟の足利義視(よしみ)「将軍を譲る」と約束しちゃった直後、嫁さんの日野富子がご解任あそばし、息子の義尚(よしひさ)が誕生・・・わが子を次期将軍にしたい富子が、守護大名として頭角を現し、当時日本の6分の1を持っていたという山名宗全(そうぜん・持豊)に近づいたところから火がくすぶりはじめます。

そんなくすぶりが表面化するのが文正元年(1466年)12月・・・管領家=畠山家のトップ争いに敗れて京都を追われていた畠山義就(よしなり)宗全の手助けにより上洛します。

当然の事ながら、畠山家の家督を継いで現在の当主となっている畠山政長(義就とは従兄弟)にとっては最大の危機なわけですが、当時は中立の立場にあった将軍・義政が、このお家騒動への関与を禁止したために、政長を支援していた管領家の名門・細川勝元は彼を助ける事ができず、政長は自宅に火を放って上御霊神社にて戦闘態勢に入りますが、ここで敗れて逃走します・・・これが文正二年(1467年)1月18日の御霊合戦と呼ばれる戦いです(1月17日参照>>)

政長が京都を去った事で、新管領には山名派の斯波義廉(しばよしかど)が就任し、勝利の美酒に酔う山名派ですが、この時、水面下で着々と次の作戦を展開していたのが、戦場から逃走した政長と、彼を助けられなかった事を後悔する勝元・・・

改元されて応仁元年となった5月20日・・・この間に将軍・義政を味方につける事に成功した勝元は、やや強引に、「京都を荒らす山名一派の追討命令を取り付けたのです・・・これが応仁の乱の勃発です(5月20日参照>>)

Ouninsenzyoucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そして、6日後の5月26日未明には、細川派の武田信賢(のぶかた)らが、室町第近くにある一色義直(いっしきよしなお)襲撃して占拠・・・応仁の乱の初戦五月合戦が勃発しました。

その後、報復とばかりに、細川勝久を山名派の朝倉孝景(たかかげ)が襲撃・・・急襲を聞いてかけつけた細川派の赤松政則(あかまつまさのり)が入り乱れて、屋敷のある一条大宮一帯は、戦場と化します。

一進一退の攻防戦は、約2日間に渡って行われましたが、どうにもこうにも決着がつかない・・・この状況を見るに見かねた将軍・義政が、応仁元年(1467年)5月28日宗全と勝元に停戦命令を出したわけです。

・・・って、もともと、この将軍さんのせいて話がややこしくなってる気がしないでもありませんが、とにかく、ここで合戦は一旦中断・・・

しかし、またまた、このお騒がせ将軍はやってくれます!

わずか、10日後の6月8日、勝元に牙旗(がき)が与えられ、それが室町第の四足門に掲げられたのです。

Dscn6369a600 牙旗とは、天子や将軍が掲げる旗・・・つまり、幕末の鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗みたいなもので、要するに、細川派が官軍となった事が表明されたわけです。

さらに、細川方は、管領となった義廉の屋敷を包囲・・・もちろん、勝元は、将軍の住まう花の御所も押さえましたから、これは山名派にとってキツイ!!!

やむなく、宗全は自宅に本陣を置き、ここが西陣・・・つまり西軍となり、対する細川派は東軍となります。

これで、一気に士気さがる西軍は、戦いを諦めて国に帰る者が続出し、士気の低下に拍車がかかります。

一方の東軍は、将軍を抱え込んでいるうえに、次期将軍の約束を受けている義就を総大将に大いに盛り上がりますが、ここで、一つ忘れてはならない事が・・・

そうです。

かの日野富子の動向・・・

そもそも、わが息子を次期将軍にしたいがために、宗全に働きかけたのでは???

ところが、どっこい、蓋を開けてみれば、自分たちがいるのは敵であるはずの義視が総大将の陣・・・そして、勝元らに守られる花の御所で暮らしているうえ、味方であるはずの宗全を追討する者たちの中に身を置いている事に・・・

そんな状況を打破すべく、せっせと義視にプレッシャーをかける富子・・・

一方、ここに来て、満を持して参戦してきたのが西国の雄・大内政弘(おおうちまさひろ)・・・大物の参戦で、士気が戻り始める西軍の追い風となったのは、誰あろう義視でした。

なんと、自分を敵視する富子のプレッシャーと、西軍への内通者に耐え切れず、わずかの側近を連れて伊勢へ逃亡してしまうのです(11月13日参照>>)

総大将のトンズラに、今度は東軍の士気が下がる・・・

こうした中、勃発したのが、応仁の乱の中でも、最も激戦となった相国寺の戦い・・・コチラは10月3日のページでどうぞ>>

そして、その半年後に起こるのが、稲荷山の攻防戦(3月21日参照>>)・・・

11年の長きに渡って展開される応仁の乱ですが、都での攻防戦は、この稲荷山を最後に、あとは小競り合いといった程度のもので大きな戦いとはならず、むしろ、大戦は地方へと移っていく事になります。

しかし、その間にも、山名派は賊軍の汚名を払拭しようと画策し、あの義視くんからも目が離せない状況となるのですが、そのお話は、11月13日の【足利義視トンズラ事件in応仁の乱】>>で読んでいただくとして、

今回は、この5月28日に終結した五月合戦を中心に、これまで書かせていただいた応仁の乱の経緯をひとまとめに・・・という事でよろしくお願いします。
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2010年5月27日 (木)

大器が満たぬうちに…掘秀政・無念の病死

 

天正十八年(1590年)5月27日、戦国時代に若くして才能を発揮し、将来を期待されていた武将=堀秀政が小田原早川口の陣中にて病死しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長のもとで近江坂田郡3000石を与えられていた掘秀重(ほりひでしげ)の長男として美濃(岐阜県)で生まれた堀秀政(ほりひでまさ)は、わずか13歳で信長の小姓として側に仕えました。

信長さんは、とにかく彼がお気に入り・・・それは、秀政がかなりの美少年だった事もありましたが、それ以上に、彼の才能に惚れ込んでいたようです。

なんせ、その後、わずか16歳で、将軍の仮御所工事の普請奉行に任命されているのですから・・・

もちろん、こういった事務方の仕事だけではなく、武人としてもその才能を評価されていました。

信長は、あの浅井・朝倉攻め(8月14日参照>>)の時にも、秀政を側近として同行させていたのですが、この時、秀政は、浅井の援軍として駆けつけた朝倉軍への使者に抜擢され、敵陣へと赴いています。

合戦中の敵陣への使者なんて、よほどの信頼と、よほどの豪胆さがなければ、こなす事などできない役わりです。

その信頼は、信長が本能寺で亡くなった後、そのままの形で羽柴(豊臣)秀吉へと受け継がれます。

『常山紀談』によれば、本能寺の直後の山崎の合戦(6月13日参照>>)において、秀政の家臣の中に、息子が明智光秀の家臣となっていた者がおり、その者に息子が送った手紙により、いち早く光秀の動向を知った秀政は、夜のうちに天王山に登って陣を整え、敵が来るのを待ち構えていたのだとか・・・

そのような素早い行動が、秀吉からの篤い信頼を得たのかも知れません。

信長の側近の多くが、その後の身の置き場を模索したのに対して、彼はすんなり・・・というか特例に近い形で、秀吉に仕える事になります。

奈良・興福寺の多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)の日記によれば、信長亡きあとに行われた、あの清洲会議(6月27日参照>>)で、秀吉本人のほか、柴田勝家丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(つねおき)といった織田家の重臣の次に、秀政の名を連ね、彼も、その交渉の一翼を荷っていたとされています。

その記述が事実かどうかはともかく、信長の死亡直後に、すでに秀吉の信頼を得ていた事はうかがえますね。

その後も、秀吉の配下として、
勝家の北ノ庄攻め(4月24日参照>>)
小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)
さらに九州攻め(4月17日参照>>)にも活躍します。

そして、今回の小田原攻めでも、秀政は、山中城陥落(3月29日参照>>)の一翼を荷わけですが・・・

それにしても、これだけの大活躍を見せた秀政だというのに、昨今の歴史ブームの中のドラマでも目立って登場する事もなく、その名前もあまり聞きません。

そう、実は、この秀政さん・・・冒頭に書かせていただいたように、この小田原攻めの最中・・・天正十八年(1590年)5月27日に、病死してしまうのです。

疫病にかかったという事ですが、未だ、38歳の若さでした。

以前、ブログに登場した蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)と並んで、秀吉の両雄とされた秀政・・・

氏郷も40歳で亡くなり、「この先が楽しみだったのに・・・」と書かせていただきましたが、秀政も、彼と同じく、未だ、その才能を存分に発揮する以前に、こうして亡くなってしまうのです。

一説には、秀吉は、この小田原を征したあかつきには、その奪い取った関八州を、徳川家康ではなく、秀政に与えるつもりであったとも言われます。

若くして大器の片鱗を見せた掘秀政・・・その大器に、未だ水が満たないうちに亡くなってしまうのは、なんとも残念です。

彼が、もっと長生きして、関東を支配していたなら家康は・・・様々な妄想をかきたてられる人物です。

秀政亡き後の堀家は、従兄弟で家臣の堀直政が盛り立てる事になるのですが・・・そのお話は2月26日のページでどうぞ>>
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2010年5月26日 (水)

真犯人か冤罪か?人斬り・田中新兵衛は語らず

 

文久三年(1863年)5月26日、先日の姉小路公知・暗殺の容疑で捕縛された田中新兵衛が、尋問中に自殺しました。

・・・・・・・・・

ブログの構成上、答えを言っちゃいましたが・・・(;´д`)

そうです、5月20日の深夜に起こった尊王攘夷派の公家・姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺事件・・・くわしくは5月20日のページで>>)

その容疑者として捕縛されたのが、人斬りで名を馳せた田中新兵衛(たなかしんべえ)という人物だったのです。

新兵衛の出自は、薩摩の商人出身とか、船頭の子供だとか言われますが、実際のところはよくわかっていません・・・もちろん、生年月日も・・・

一撃必殺の示現流(じげんりゅう)の使い手だったとの噂の新兵衛は、薩摩の豪商・森山新蔵の支援を受けて薩摩藩士になったと言います。

文久二年(1862年)に、何とか一旗挙げようと、自費で京都まで来たものの、そこで頼るつもりであった新蔵が、あの寺田屋事件(4月23日参照>>)に関与していたとして、すでに郷里に送り返されてしまっていました。

あてがはずれてしまった新兵衛・・・なんとか自力で職を探そうとしますが、なかなか働き口が見つかりません。

途方に暮れていた新兵衛に声をかけたのが、同じ薩摩藩士であった藤井良節(りょうせつ)でした。

彼は京都の薩摩藩邸にて、尊攘派の公家と藩との連絡役となっていた人物・・・この良節と出会った事で、新兵衛の運命は大きく変わります。

そう、実はこの時、良節は「あの島田が、京都に隠れている」との情報をつかんでいたのです。

「あの島田」とは、幕府の官人であった島田左近(さこん・正辰)の事・・・

左近は、井伊直弼(いいなおすけ)とともに日米通商条約を推し進め、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の擁立にも成功し、その後、断行された安政の大獄(10月7日参照>>)でも腕を振るった人物・・・

その直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で倒れた後は、まさに京都の中心人物の1人として、将軍・家茂と皇女・和宮(かずのみや・孝明天皇の妹)の結婚(8月26日参照>>)にも深く関わっていた人物でした。

彼ら尊攘派から見れば、許し難い敵・・・

「この機会に亡き者にしたい」と考える良節にとって、地位や名誉など失う物などなにもないうえ、腕のたつ新兵衛は、手足として利用するにはうってつけの人物だったわけです。

良節の命を受けた新兵衛は、薩摩藩士二人とともに、木屋町の愛人宅にいた左近を襲撃し、殺害・・・首を四条河原にさらしました。

いわゆる天誅(てんちゅう・神からの懲罰)と称して志士たちが行う数々の暗殺劇は、この島田左近にはじまるとも言われますが、新兵衛の人斬りとしての人生も、ここにはじまったのです。

ちょうどその頃、かの武市半平太(たけちはんぺいた)(5月11日参照>>)率いる土佐勤皇党が京都に入り、尊王攘夷運動を展開しはじめていました。

良節は、次に、そんな半平太と結びつきます。

実は、二人にとって、共通のウザイ男が・・・

それは本間精一郎(ほんませいいちろう)・・・彼は、いち早く尊王攘夷に目覚め、江戸や京都で倒幕を説いていた人物ですが、その立ちすぎる弁で相手を言い負かし、はったりをかましながら裕福さをひけらかす性格は、敵が多い人でありました。

三条実美(さんじょうさねとみ)と組んで勢力拡大をもくろむ半平太にとっては、別ルートで公家との交渉をする精一郎がジャマであり、薩摩藩邸で活躍する良節にとっては、やはり、藩と公家の間をチョロチョロする精一郎が目ざわりだったわけです。

良節と半平太との話し合いによる結果は・・・「やはり、殺るしかない!」

そこで、登場するのは新兵衛・・・良節から、半平太を紹介された新兵衛は、義兄弟の契りを交わし、その命を受ける事になります。

文久二年閏8月、祇園でしこたまお酒を飲んで、泥酔状態の精一郎を新兵衛が襲います。

念のため差し向けられた岡田以蔵をはじめとする勤皇党の者・数名とともに、精一郎を斬り捨てた新兵衛は、その胴体を高瀬川に捨て、首を四条河原にさらしました。

Dscn9758a800 夜の木屋町・高瀬川

その後も、何人かの暗殺に手を染めたといわれ、今も、幕末四大人斬り(他は河上彦斎(12月4日参照>>)・中村半次郎(9月24日参照>>)・岡田以蔵(5月11日参照>>)・・・の1人に数えられる新兵衛・・・

しかし、そんな彼が、文久三年(1863年)5月26日、6日前に起こった姉小路公知・暗殺事件の犯人として捕らえられてしまいます。

決め手は、その公知が敵から奪い取り、杖の代わりにして持ち帰った刀でした。

薩摩鍛冶・奥和泉守重忠の作・・・これで、薩摩の者が疑われたわけです。

新兵衛の取調べを担当した大目付の永井主水正(ながいもんどのしょう)・・・奉行所にての取調べ中、証拠の品となる刀を示して、
「これに見覚えはないか?」
と尋ねます。

それは、確かに新兵衛の物でした。

「これは、俺の物やけど、姉小路卿の暗殺については、何も知らん!」
と、言うがはやいか、手にした脇差でのどを突き、新兵衛は自害したのです。

最も疑わしい者の死で、結局、暗殺事件は迷宮入りとなってしまいました。

  • 新兵衛を見た暗殺現場での生き残りは、「この人です」と証言し
  • 薩摩藩側は、「薩摩を陥れる計略である」と主張
  • 新兵衛の刀は、数日前に料亭ですりかえられていたとの噂
  • 「田中は、この頃ノイローゼ気味で、何かしでかしそうな雰囲気やった」と知人・・・

これらの様々な証言に、今もなお、真犯人についての論争が耐えない、この事件。

果たして、尊攘派の手足となって人斬りに没頭した男は、ただ利用されたあげくにハメられたのか?
はたまた、自らが背負った十字架の重みに、その良心が耐え切れなかったのか?

それとも・・・
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2010年5月25日 (火)

宝暦治水事件~薩摩義士・平田靭負 男の決断

 

宝暦五年(1755年)5月25日、薩摩藩が行った宝暦の治水工事の責任をとって、家老の平田靭負が自殺しました。

・・・・・・・・・・・

宝暦治水事件と呼ばれるこの事件・・・

そもそも、あの関ヶ原から大坂夏の陣にて天下を掌握した徳川家が、その幕藩体制を揺るぎない物にするための一石二鳥の方法として、諸大名に築城を手伝わせる事にはじまります。

天下普請、あるいはお手伝い普請とも呼ばれる物ですが、本来なら自分で築城しなければならない自分の城を、将軍命令として諸大名にやらせるわけです。

慶長十二年(1607年)には、将軍職を息子の徳川秀忠に譲った徳川家康が、自分の居城となる駿府城(2月17日参照>>)・・・

元和六年(1620年)には豊臣亡きあとの大坂城(1月23日参照>>)・・・本来なら幕府直轄=将軍の城ですが、諸大名にそれぞれ担当させています。

皆さんご存知の大阪城のあの大きな石垣や(12月11日参照>>)、誰の寄進かわかる刻印石も、各大名の天下普請での苦難の証しなのです。

なんせ築城には膨大な費用がかかります。
もちろん、それだけの人員もいります。

「いざ、幕府に刃向かう!」となる時に必要になる軍資金を吐き出させ、兵士となる人員の総動員させる・・・そのうえ、自分とこの城は新品に・・・徳川家にとって、こんなとくとくプランはありません。

・・・とは言え、徳川の時代も長く続くと、そうそう城を建てる事もなくなってきます。

かと言って、ここで手を緩めて諸藩が力と財力を蓄えてしまっては、元も子もないわけで・・・そこで、築城に代わって天下普請が行われたのが、今で言うところの公共工事です。

確かに、治水工事などは、川が数藩にまたがって流れている場合もあり、幕府が音頭をとって、関係する諸藩に行わせる場合もありますが、明らかに、まったく関係のない藩に命令する事もありました。

それは、まさに、あの築城の時と同じで、ただただ藩を弱らせるため・・・今回、そのターゲットとなったのが、西南の雄藩=薩摩(鹿児島県)でした。

宝暦三年(1753年)に開始されたこの宝暦の治水工事・・・正式には、「三川分流工事」と呼ぶそうですが、そこは、木曽川長良川揖斐川木曽三川が交わる場所で、大変水害の多い場所でありました。

なので、以前から美濃郡代などから「三川を分流させてほしい」と幕府に働きかけていたのですが、なにせ、難工事になる事うけあいなので、幕府も、なかなか手出しできなかったのです。

その工事を薩摩に・・・もちろん、断る事なんてできません。

幕府からの天下普請を命じられた薩摩藩主・島津重年(しげとし)によって、家老の平田靭負(ゆきえ)総奉行に任命され、国元と江戸から、合わせて947名の人員を引き連れて現地に入ったのは、宝暦三年(1753年)12月の事でした。

まずは、長良川と揖斐川の合流地点に、約2kmの堤を築いて締切る工事・・・

しかし、実際に水が流れている場所での工事とあって、その水をさえぎるだけでも一苦労・・・さらに、工事用の石材や材木も思うように集まらず、工事も遅れがちです。

そこで遅れを取り戻そうと、雨の中での作業が続いたりすると、お金で雇った地元の百姓たちの反発も大きくなり、まさに靭負たちは板ばさみ・・・

そのうえ、幕府から派遣されてきた工事関係者はチャチャ入れまくり・・・なんせ、彼ら幕府の人間は、協力して工事をやろうなんて気はサラサラなく、薩摩藩士の動きを監視する、あるいは干渉するために来ているわけですから、文句ばっかり言って、あとは知らん顔・・・。

この工事の間に、52名(51名とも)もの薩摩藩士が切腹しているのも、いかにモメ事が多かったかを物語っています。

さらに、追い討ちをかけるように赤痢(せきり)が流行し、こちらも30名以上の病死者を出してしまいました。

こうして、多くの犠牲を出しながらも、何とか、大榑川洗堰(おおくれがわあらいぜき)の大改修を終え、宝暦五年(1755年)3月・・・今回の治水工事のすべてを完了しました。

総工事費は、なんと40万両に達し、当初の見積もりの15万両を大幅に越え、それは当時の薩摩藩の財政の3倍という大きな金額になってしまいました。

思わぬ出費は、藩の財政を大きく傾け、やむなく、上方の豪商から借金し、薩摩藩は、この先、長きに渡って、その返済に苦しむ事となります。

5月24日、平田靭負は、美濃国(岐阜県)安八郡大牧村現地本部として使っていた本小屋(もとごや)にて、工事のすべてが完了した事を、国元に報告する手紙をしたためます。

それを書き終えたとき、すでに日づけは宝暦五年(1755年)5月25日となっていました。

未だ闇に包まれた未明・・・靭負は、おもむろに西方鹿児島に体を向けて、その身に刃を向けたのです。

80名以上という多くの犠牲者を出した事と、莫大な費用を使ってしまった事の責任をとっての切腹でした。

しかし、その後、この靭負の死を含む、工事に関してのいっさいの事は、長く封印され続けました。

この宝暦の治水工事が、いかに難工事であったかを語る事は、幕府の天下普請を批判する事になり、タブーとされていたのです。

その後、明治時代になって、ようやく彼ら工事に関わった人たちの苦労や功績が語られるようになったのですが、それでも、公式記録では、靭負の死は病死となっているのだとか・・・。

♪住みなれし 里も今更 名残りにて
  立ちぞわずらふ 美濃の大牧  ♪

国元への報告の手紙をしたためた時、靭負が詠んだとされる歌です。

藩主への手紙には、自分の苦労はいっさい書かず、完成の喜びだけが、いかにも満足そうに書かれていたと言います。

現在、地元・鹿児島では、宝暦の治水工事に関わったすべての藩士を「薩摩義士(さつまぎし)と呼ぶとのこと・・・長く、長く、語り継いでいっていただきたいと願うばかりです。
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2010年5月24日 (月)

空飛ぶヒーロー・役行者の流罪のウラに利権問題?

 

文武天皇三年(699年)5月24日、役行者が弟子の讒言により伊豆に流罪となりました。

・・・・・・・・・・・

この流罪の日づけは『続日本紀(しょくにほんぎ)に登場するもの・・・役行者(えんのぎょうじゃ)のお話は、上記以外にも、『日本霊異記』『本朝神仏伝』『今昔物語』『扶桑略記』などに記されていますが、いずれも、事実というよりは説話・伝説に近い物でありますので、今日のお話も、一つの説とお考えいただきながら聞いていただければ幸いです。

役行者は、本名を役小角(えんのおずね)と言い、大和国(奈良県)南葛城郡茅原(ちはら)の出身で、加茂氏の末裔だと言われています。

名前もいくつかあって、「役君(えんのきみ)」「役公(えんのきみ)」「役優婆塞(えんのうばそく)」「小角仙人(しょうかくせんにん)などと呼ばれるほか、「役」を「えだち」と読み、「小角」を「をずみ」と読みべきであるとの話もあります。

一般的には舒明(じょめい)天皇六年(634年)の正月生まれというのが有名ですが、これも根拠はなく、実際には不明です。

幼少の頃から神童の誉れ高く、長じて呪術をよく使いますが、やがて32歳の時に葛木(葛城)に登って、金銅の孔雀明王の像を安置した岩窟内で草衣木食(そういもくじき)修行をする事30年・・・ついに呪術を完璧にマスターしたのだとか・・・。

前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)二人の鬼(夫婦とも言われる)従者として使い、水を汲ませたり、薪をを取って来させたりという日常の雑用をさせていたと言います。

大和国から紀伊(和歌山県)摂津(大阪府北部)までの高山=金峯(きんぷ)大峯山高野山箕面(みのお)などを統治・開拓したとされ、その弟子も数え切れないくらいいたとされます。

そんな小角が金峯山と葛城山の間に石橋を架けようとした時、弟子の1人の「役行者は天皇への謀反をくわだてております」という讒言(ざんげん・悪口チクリ)によって伊豆へと流罪・・・

時の天皇・第42代文武天皇は、彼を捕らえようとするも、その不思議な力で捕縛する事ができず、やむなく小角の母を捕らえて人質とし、その命と引き換えに、小角の身柄を確保しました。

その罪状は、「妖言(ようげん)を吐いて世俗を惑わせた罪」(←謀反やなかったんかい!)という事だそうで、宗教弾圧の時に使われる、ありがちな罪ですね。

・・・で、この時に、天皇にチクった弟子というのが一言主神(ひとことぬしのかみ)・・・アレレ???

この一言主神って、『古事記』『日本書紀』では雄略(ゆうりゃく)天皇の行列と山道でバッタリ出会って、「我は神である!」と言って天皇を平伏させたり、その後、仲良くなって、いっしょに狩りをしたりしてませんでしたっけ???

雄略天皇と言えば第21代の天皇(8月7日参照>>)・・・年代的に言えば西暦460年頃~480年頃に在位していたとされる天皇です。

・・・って事は、この時、300歳くらいになっとるがな!

いえいえ・・・文書の中には、「一言主神 宮城人ニ付テ云ク」と伝えるものもあり、どうやら、誰かに神が憑依(ひょうい・とりつく事)して、いわゆる神のお告げとして言ったという事のようです。

とは言え、神であるはずの一言主が、役小角の弟子にというのは???

伝説によれば、役小角は、先に書いた前鬼や後鬼と同様に、一言主を従者の1人として、様々な命令を下していたという事ですが、その一言主神も葛城山の神であるという事をご存知の方も多いはず・・・

もともと、葛城山を支配していた神・・・
そして300年後にその場所を統治している役小角に、その神が手足となって仕える・・・
やがて、天皇へのチクリ・・・

なんとなく、見えてきましたね。

役小角は、多くの鬼(おそらくは征服した相手の事)や多くの弟子を従者として駆使しますが、その命令を聞かない者には、ただちに呪縛をかけていたとも言います。

一説には、「行者に呪縛されたため一言主は現世に至っても解脱(げだつ・煩悩の束縛から逃れる事)ができないでいる」とも言われ、その関係は師匠と弟子というより、支配者と被支配者の関係のようです。

そんな中、今回の流罪となる文武三年と奇妙に一致する記述が見られる文献があります。

『神社大観』によれば、役小角は、文武三年に秩父三峯神社にしばしば訪れて修行し、「是より東国の行者の跡を慕い」護摩供を行ったとされます。

これは、埼玉県秩父にある今宮神社の伝承にもあり、そこでは、この文武三年と、流罪が許された後の大宝年間(701年~704年)に訪れたとされています。

さらに、気になる事・・・
秩父&この年代とくれば、おそらく地元の方は、もうお解かりだと思いますが、『続日本紀』にある、銅の献上のくだりです。

慶雲五年(708年)に、郡司を通じて朝廷に自然銅が献上されたとあり、喜んだ第43代元明天皇が、元号を和銅に改元し、例の和同開珎の鋳造・・・という事になる、あの話です。

『続日本紀』では、その場所は特定されていませんが、現在では、年代の一致する銅の精錬所跡も発見されており、それが秩父盆地一帯のどこかであった可能性が高く、現地には、「和同開珎のモニュメント」まで建てられていますよね。

そうです。
この時期に、銅がワンサカ出る事がわかった秩父へと、その勢力を伸ばしつつあった(あるいはすでに一部支配していた?)役小角・・・それを阻止せんとする朝廷

そこに、かつて征服されて支配下となってしまった一言主の一族が、その復権をもくろみ・・・ひょっとして、これは銅をめぐる利権の争いなのでは?

かつて、あの桃太郎が、鉄の利権を求めて吉備の国(岡山県)と争ったように(12月1日参照>>)、この役小角の流罪は、宗教がらみだけではなかったのかも知れません。

Taimaderaenbou2a900 役行者が現在の地に移したとする當麻寺(奈良県当麻)

・・・とは言え、山岳修行によって「海上を自在に走り、鳳のように空を舞う」とされた役小角の話は、後に生まれた密教の発展とともに山岳修行する修験者たちによって、徐々に神格化されていき、やがて役行者というスーパーヒーローとなる・・・それが、ちょうど平安時代の頃で、数々の霊的物語によって、その伝説が後世に伝えられる事となったのでしょう。

一方、復権を願って暗躍した一言主神・・・
その後、修験道がやや衰退するとともに、一言主神は再び盛り返し、現在では「一言の願いを必ず聞いてくれる神様」として信仰を集めていますので、征服された側の一族の願いは、一応叶ったというところでしょうか。
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2010年5月22日 (土)

日本初の写真家・上野彦馬の伝えたかった事

 

明治三十七年(1904年)5月22日、幕末から明治にかけて活躍した日本初の写真家上野彦馬が67歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

天保九年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(としのじょう)の四男として生まれた上野彦馬(うえのひこま)・・・

実は、この父の俊之丞さん・・・日本人による日本最古の写真とされる島津斉彬(なりあきら)の写真を撮った人物で、日本で初めて銀板写真を試みた人であります。

・・・って事は、父の後を継いで写真家に???

いえいえ、彦馬の写真家として人生は、そんなに単純ではありませんでした。

それは、16歳で大分の名門私塾に学んだ後、オランダ医師・ボンペの開いた医学伝習所舎密学=化学を学ぶところから始まります。

そう、父が試みた銀板写真は撮影に20分もかかるうえ、鏡のように反転して写るため、着物の前合わせを逆に着込んだり、手足が動かないように器具で固定したりと、それはそれは大変な物だったのです。

そんなおり、イギリスで湿板写真が発明されました。

これなら露光時間は秒単位になるうえ、ガラス板なので反転を気にする事もありません。

しかし、この湿板写真は、数種類の薬品を微妙な調整で調合せねばならず、そこに化学の知識が必要だったのです。

そして、塾で知り合った堀江鍬次郎(くわじろう)らとともに、化学を学び、研究を重ね、弱冠20歳で、見事!湿板写真の撮影に成功しました。

ただ、薬品の原料自体が無い時代ですから、薬品を作るために牛の生き血を採取して青酸カリウムを取り出したり、生肉がついたままの牛の骨を腐らせてアンモニアを採取したりと、周囲には理解し難い行動をとるため、なかなか受け入れられませんでしたが・・・

・・・とは言え、そんな困難を乗り越えながらも、文久二年(1862年)、故郷の長崎にて上野撮影局という日本初の写真館を開業すると、これが大評判!!

現在の価格に換算すると、1枚:2万~3万円もするという高価格にも関わらず、いや、そんな価格だからこそ、「それだけの金額を出してでも撮影してみたい」と思うような人々・・・つまり、新し物好きの幕末の志士たちが、こぞって写真館にやって来たのです。

Ryoma 高杉新作桂小五郎伊藤博文・・・そして、あの有名な坂本龍馬の立ち姿の写真も・・・

まぁ、龍馬の場合は、厳密には彦馬本人ではなく、弟子の井上俊三という人が撮影したと言われていますが、この彦馬の写真館で撮った事は撮ったのですから・・・

湿板写真は、撮影したての湿っている間に薬品処理をせねばならないため、幕末のこの頃は、ほとんどが、スタジオでの肖像写真でしたが、そんな彦馬の写真家としての才能は、別の形で維新後にも発揮されます。

それは、従軍カメラマン・・・

長崎県令の北島秀朝(ひでとも)を通じて、政府軍の川村純義(すみよし)の依頼を受け、あの西南戦争に従軍して、数々の写真を残すのです。

もちろん、従軍カメラマンは、彼が初ではありません。

あの初の対外戦争となった征台の役(4月18日参照>>)や、萩の乱(10月28日参照>>)にも、その役目の人はいました。

しかし、彦馬の場合は、ただ撮影するのではなく、そのアングル・・・一枚一枚に報道性があり、現在の報道カメラマンに通じる「何かを訴える感」のある写真だったと言います。

今のような首から下げられるようなカメラではないのですよ!

あの近代の歴史ドラマで見るような布の覆われたヤツで厚板の一枚一枚・・・なんせ、その運搬には7~8名の係員が必要だったと言いますから、そんな状態での芸術的写真を撮影するのは、それはそれは大変な事だったでしょう。

激戦となったあの田原坂(3月20日参照>>)では、弾痕も生々しい民家や砲弾に倒れた木々・・・熊本では焦土と化した町並みを、最後の戦いとなった城山でも砦など撮影します。

ただ、これだけ多くの戦場の写真を撮ったにも関わらず、彦馬の写した写真には、兵士の死体の写った物は一枚も無かったと言います。

たとえ官軍である政府側に雇われた従軍カメラマンであっても、「戦争そのものに正義は無い」という事を彦馬は伝えたかったのかも知れません。
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2010年5月21日 (金)

「春季 堺 文化財特別公開」開催中の堺へ…

 

昨日、5月20日~5月25日まで開催されているイベント「春季 堺 文化財特別公開」に合わせての町を散策して参りました。

ご存知のように、堺は戦国時代に南蛮貿易で栄えた港町・・・貿易で巨万の富を得た商人が、その財力をフル活用して周囲三方を掘で囲んだ町は、自治権を主張する自由都市として、織田信長にも抵抗するほどの威勢を誇りました(1月9日参照>>)

茶の湯日本庭園などの伝統文化はもちろん、貿易で得た最先端の製造技術は、お馴染みの刃剣鉄砲だけに留まらず、線香印鑑手すき昆布和菓子などに生かされ、日本屈指の発展を遂げます。

大坂の陣で焼け、太平洋戦争の恐怖にさらされながらも、一部残った町並みは、宣教師・スパル・ヴィエラ「東洋のベニス」と絶賛した面影をしのばせてくれます。

そんな堺の町で、2010年5月20日~25日まで開催されている「春季 堺 文化財特別公開」・・・今回のテーマは「千利休の生まれた街・堺の歴史をたどる」と称して、千利休ゆかりの場所を中心に、普段は公開されていない様々な場所や秘蔵のコレクション、さらに、伝統産業の工房まちやなどが、広く公開されています。

イベント公式ホームページはコチラから>>(別窓で開きます)

まずは・・・

●千利休屋敷跡

ご存知、茶の湯を芸術の域まで高めた千利休を育んだ場所・・・現在は、離宮が茶の湯に使ったと言われる「椿の井戸」が残ります。

イベント中は、向かい側の広場で、無料のお茶の接待があります。
Dscn0999az800 千利休屋敷跡(椿の井戸)

●大安寺(拝観:400円)

こちらは、普段は非公開のお寺・・・本堂は、利休とも親交のあったとされる豪商で、大河ドラマ「黄金の日々」の主人公でもあった呂宋(ルソン)助左衛門の邸宅の一部とされ、重要文化財に指定されている狩野派の障壁画が見事!

Daianzibyoubu
↑障壁画
虹の手水鉢→
Dscn0914a800

柱には、松永久秀がつけた刀傷も残り、美しい石庭には、明治天皇・行幸の際に虹色に輝いたという「虹の手水鉢」もあります。
Dscn0922a800 大安寺・石庭と本堂

●南宗寺(拝観:400円)

つい先日ブログに登場した戦国大名・三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)が創建した南宗寺は、三好一族のお墓はもちろん、本堂前の石庭あり、仏殿には八方睨みの龍ありと、見どころ満載なのですが、なんと言っても戦国ファンにとって見逃せないのは徳川家康のお墓・・・

正史では、大坂夏の陣が終結した後、1年間ほどは生きる家康(4月17日参照>>)ですが、ここ南宗寺の伝承によれば、家康は夏の陣にて後藤又兵衛の槍に倒れて南宗寺で亡くなったとされています。

しかも、ここは、久能山日光とともに、日本にわずか3ケ所しかなかった徳川家公式の東照宮があった場所・・・現在は、東照宮はなく東照宮跡となっていますが、お墓の横にはあの山岡鉄舟が、徳川慶喜の意向汲んで刻んだとされる「家康墓諾(家康の墓である事を認める)の文字が書かれた石も存在するという興味津々なところなのです(くわしくは【堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説】のページで>>)

ここ南宗寺での特別公開は、利休好みの茶室・実相庵・・・普段は外観しか見られないお茶室の内部を見学できます。
Dscn0955az800 徳川家康の墓(右の四角い石に『家康墓諾』の文字が…)

●妙國寺(拝観:400円)

今回の私は、残念ながら公開終了の16時に間に合わず、中に入れませんでしたが・・・利休と深く交流した風流を解する武将・三好義賢(みよしよしかた)が創建した妙國寺には、利休が愛した手水鉢や、信長が安土へ移植したところ、毎夜「堺へ帰りたい」と泣いたと言われるいわくつきの大蘇鉄(そてつ)があります。

今回の特別公開では、利休作・空蝉茶杓が公開されています。

・‥…━━━☆

以上の寺院や史跡以外にも、江戸期の町割りを今に残す七道駅(南海本戦)近くの旧市街地では・・・

  • 内田家住宅(旧商家)
  • 堺鉄砲館(鉄砲展示館)
  • 鳳翔館(休憩処)
  • 水野鍛錬所(刃物工房)
  • 藤井刃物製作所(研ぎ実演)
  • 薫香堂(線香工房)
  • ろおじ(ギャラリー&茶店)
  • 七まちびいどろ(とんぼ玉工房)

など、八軒の町屋が公開されています。

Dscn1049az800
薫香堂
Dscn0870az800
水野鍛錬所
の工房

この中で、私は、薫香堂で香りを楽しみ、鳳翔館で無料のお茶と芋羊羹をいただき、水野鍛錬所に至っては工房を見せていただいた興奮のあまり、出かける前には考えてもいなかった「包丁購入」という離れ業(ケチなので普段は土産を買わない)までやってしまいました。

Dscn1048az800 鉄砲鍛冶屋敷

とにかく、今年、満を持して、町を挙げての観光立国に乗り出した堺・・・この土日に訪れて見られてはどうでしょうか?
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2010年5月20日 (木)

鬼門の猿が目撃者?姉小路公知・暗殺事件

 

文久三年(1863年)5月20日、幕末に攘夷派の公家の1人として活躍した姉小路公知が、猿ヶ辻にて襲撃され、命を落としました。

・・・・・・・・・・

文久三年(1863年)5月20日・・・その日の帰宅は深夜となりました。

時の天皇=第121代・孝明天皇伊勢・大和への行幸問題がもつれにもつれ、会議が深夜まで続いたのです。

午後10時・・・やっと会議が終わり、皆々、帰宅の途につきます。

尊王攘夷派の公卿・姉小路公知(あねがこうじきんとも)は、同じく行幸推進派である三条実美(さねとみ)とともに、御所の宣秋門(ぎしゅうもん)出て、そこで別れを告げて、それぞれ、屋敷に向かって歩き始めます。

Anegakouzizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

実美は南へ・・・
公知は、二人の護衛とともに北へ・・・

御所の白塀沿いに北西の角を曲がり、やがて、北東にある「猿ヶ辻」にさしかかります。

京都御所に行かれた方はご存知かも知れませんが、御所を囲む土塀の角が、この北東の部分だけへこんでおり、その屋根の軒下には、烏帽子をかぶって御幣(ごへい・神主さんがお祓いをする時に使うベラベラの紙のようなヤツ)を持った猿の彫刻が鎮座します。

北東の角が欠けているのは、いわゆる鬼門というヤツで、魔物封じのため・・・猿は、インドの叙事詩「ラーマヤナ」「西遊記」孫悟空を見てもわかるように、魔物を退治する動物というところから来ているのでしょうが、その話をすると長くなりそうなので・・・

Dscn2492aa800_2 猿ヶ辻

とにかく、ここは、その猿の彫刻がある事から、猿ヶ辻という名前で呼ばれていた場所なわけです。

電灯のない時代です。

おそらくは、真っ暗闇の中・・・
現代社会とは違う夜の10時・・・
しんと、静まりかえる御所の鬼門は、張りつめた空気に満ちていたかも知れません。

そんな中、一筋の光が走ります。

暗闇の中から手裏剣のような物が放たれ、護衛の1人・中条右京足を襲ったのです。

うずくまる右京・・・と、その瞬間、覆面をした二人が現われ、公知めがけて斬りかかります。

喉から肩にかけての一撃を喰らった公知・・・応戦しようと、刀を求めますが、彼の刀を持っていたもう一人の護衛・鉄輪左近は、恐怖のあまり、刀を持ったまま、一目散に逃走してしまっていました。

やむなく公知は、手に持った扇で剣先を防ぎながら、身をかわす事、幾たびか・・・

そのうち、態勢を立て直した右京が、賊の1人に斬りかかり、一撃を食らわします。

これを形勢不利と見たのか?・・・そのまま賊は、闇の中へと消え去ってしまいました。

深手を負いながらも、賊から奪った刀を杖に、何とか自宅まで戻った公知・・・しかし、そこで力尽きました。

享年25歳・・・

これが、朔平門(さくべいもん)外の変、あるいは猿ヶ辻の変と呼ばれる公知暗殺事件です。

そもそもは、あのペリー来航以来、アメリカの圧力に屈して結んでしまった日米修好通商条約・・・この時に初めて攘夷の声を挙げてから、将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚(8月26日参照>>)に猛反対した公知は、尊王攘夷派の期待の星となっていました。

文久二年(1862年)には、天皇の勅使(ちょくし・天皇の使い)として、かの実美とともに江戸城へとおもむき、幕府に攘夷の決行を約束させました

その約束は、翌・文久三年(1863年)3月の家茂の上洛という形で果たされます。

この時、公知ら過激な尊攘派は、孝明天皇が賀茂社「攘夷祈願」として行幸し、そのお供を家茂にさせたうえ、将軍を末席に置く事で上下関係を見せつけました

さらに、彼らは、天皇の石清水八幡宮への行幸も計画していました。

八幡太郎義家ゆかりの源氏の神様へ天皇と将軍とがお参りをし、そこで、家茂に刀を授けて、武力行使をうながそうと考えたのです。

ただ、これは、その当日に家茂が体調を崩して欠席をし、代理でやってきた将軍後見の徳川慶喜(よしのぶ)も、腹痛と称して途中でバックレたために(←めっちゃアヤシイ)、実現には至りませんでしたが、それでも、何とか、攘夷決行の日づけを切り出す事に成功したのです。

その攘夷決行の日づけというのが文久三年の5月10日・・・あの、長州藩が、関門海峡を通過しようとしたアメリカ商船を攻撃しちゃうアレ(5月22日参照>>)です。

・・・て、事は、この公知の暗殺事件は、その10日後という事になります。

これだけ攘夷派の先頭に立っていた公知ですから、それならば、犯人は開国派???

いえいえ、それが、事は、そう簡単ではないのです。

実は、家茂は京都滞在中に、大坂湾の湾岸警備の視察というのを行っています。

以前、家茂さんのご命日である7月20日のページに書かせていただきましたが(7月20日参照>>)、この時、案内役となった勝海舟の熱弁で、即座に海軍を作る事をOKしたという出来事がありました。

実は、この時、朝廷内では「家茂は大坂に行ったまま、京都へは戻らずに江戸に帰ってしまうのでは?」との噂が流れ、その家茂の動向を監視するために、公知が、その視察に立ち会っていたのです。

一説には、公知の気質と聡明さを見抜いた慶喜の案という話もありますが、とにかく、その日、公知は、家茂とともに、その勝海舟の熱弁を聞いてしまった・・・

そうです。
それこそ、勝の熱弁で聡明な家茂が、海軍の重要性に気づいたように、聡明な公知も、勝の熱弁で日本の置かれている現状に気づいてしまったというワケです。

現に、この直後、朝廷から「大坂湾防衛強化」の沙汰が下されています。

つまり、尊攘派の先頭を走っていた公知が、幕府側に走ってしまった???・・・と、攘夷派の面々が思った可能性大なのです。

・・・で、結局、容疑者として逮捕されたのは・・・
と、行きたいところですが、そのお話は、その逮捕劇が行われた6日後=5月26日のページへどうぞ>>!!
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2010年5月19日 (水)

剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期

 

永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍足利義輝が、松永久秀ら三好勢によって暗殺されました。

・・・・・・・・・・

初代・足利尊氏(たかうじ)に始まった室町幕府将軍も、第3代・足利義満を頂点に、その権威は下降しはじめ、果ては応仁の乱に始まる戦国の世となります。

そうなれば、直属の武士団すらまともに待たない将軍は、その時々の実力者の動向に左右され、時には京の都を追われて近江(滋賀県)へ・・・さらに越中(富山県)にまで逃げる事もありました。

そんな中、将軍の復権を夢見て亡くなった父・足利義晴(よしはる・12代)の遺志を継いで、当時、京都を牛耳っていた三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)相手に奮闘するのは、第13代将軍・足利義輝(よしてる)・・・

幾度かの交戦の末、何とか長慶との和睦に持ち込んだ義輝は(6月9日参照>>)、永禄元年(1558年)11月、やっと京都に戻り、将軍としての職務を精力的にこなす事ができるようになりました(11月12日参照>>)

・‥…━━━☆

しかし、そんな有能かつ武勇優れた将軍が、見事に職務をこなせばこなすほど、それを警戒する者もチラホラ・・・

それでも、武士の上下関係を重んじる古きよき精神を持つ長慶が君臨していた頃は、三好家内に生まれつつあった叛逆分子もおとなしくしていましたが、弟の戦死や息子の病死が相次いだ上に、行き違いから、もう1人の弟も自害に追い込んでしまった事で、その長慶の生気が一気に衰え、そのまま亡くなってしまった事で事態は急変します。

もちろん、この長慶の死は、京都復帰を機に、各地の戦国大名との交流に力を注いでいた義輝のチャンスでもありました。

今こそ、三好に頼らず、自らが京都を制圧して、名実ともに幕府の権威を将軍の手に取り戻す・・・

しかし、長慶亡きあとに三好家の実権を握ったのは長慶の家臣・松永久秀三好三人衆・・・彼らが、そんな将軍の存在を許すはずはありませんでした。

彼らは、義輝よりも扱いやすい阿波御所足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を将軍に擁立しようとしますが、そうなると、当然、義輝は邪魔・・・亡き者にするしかありません。

当時、5月の中旬に清水寺へと参拝する風習が庶民の間で流行・・・久秀らはそれを利用し、「清水への参拝」として人員を集めます。

かくして永禄八年(1565年)5月19日・深夜・・・そぼ降る雨の中、まずは、「将軍に訴えたい事がある」と称して訴状を渡し、それを義輝が読んでいるすきに、三好の手勢が二条御所(武衛陣御所)を囲みます。

義輝の住む二条御所は周囲に掘をはりめぐらし、高い土塁に囲まれた鉄壁の城郭ではありましたが、残念ながら、その日は、門の修理のために扉が取り外されており、容易に侵入できる状態・・・しかも、たまたま宿下がりしていた者も多く、人員も手薄だったと言います。

囲みを完了した兵は、一斉に(とき)の声を挙げ、鉄砲を撃ちかけながら乱入・・・将軍のお伽衆(おとぎしゅう・話し相手)など十数人が防戦にあたる中、義輝のそばにいた細川隆是(たかよし)は、女房の小袖を借り、将軍の前で最期の舞いを演じた後、数十人の手勢とともに久秀・三好軍の真っ只中に消えました。

残ったのは、わずかな近臣のみ・・・彼らと最期の酒を酌み交わす息子に、母・慶寿院(けいじゅいん・近衛尚通の娘)は、「逃げて・・・」と言いながら、篤く抱擁します。

そんな母に、義輝は
「たとえ相手がアホンダラで、国を治める器量もないヤツやとしても、俺は、逃げ隠れして死ぬなんて、いやなんや!
皆の前で公方らしく戦死する!」

と、言い放ち、近くにいた女官の着物の袖に句を書きあげます。

♪五月雨(さみだれ)は 露か涙か ほととぎす
  わが名をあげよ 雲の上まで ♪

そして、屋敷にあった家伝の名刀をすべて取り出すと、鞘から抜き出し、一つ一つ畳に刺していきます。

そうこうしているうちに、その奥殿まで到達してきた敵兵・・・と、息つく間もなく、剣聖・塚原卜伝(ぼくでん)(2月11日参照>>)直伝の剣先が鋭くうなり、襲い掛かる敵兵を、次から次へと、確実に倒します。

刃がボロボロになれば、先ほどの畳に刺した刀と取替え、さらに奮戦・・・その気迫に圧倒される敵兵は、もはや、一歩も近づけなくなります。

まともに戦っては、ちょっとやそっとの腕では相手になりません。

「これでは、いかん!」
と、久秀の家臣・池田丹後守(たんごのかみ)の息子が、密かに戸の後ろに隠れ、義輝の死角に入り、タイミングを見計らって、槍にて、その足を払いました。

不意の攻撃に転倒する義輝・・・そこを、周囲にあった何枚もの障子で、一斉にかぶせて押さえつけます。

身動きがとれなくなった義輝を、その障子の上から、何本もの槍が襲いました。

足利義輝・・・享年・30歳
下克上に立ち向かった反骨の将軍は、その望み通り修羅場の中で息絶えました。

この時、三好勢によって奈良興福寺に監禁されていた義輝の弟は、この2ヵ月後に、細川藤孝らの手によって救い出されます(7月28日参照>>)

その弟の名は足利義昭(よしあき)・・・
彼が、織田信長とともに上洛するのは、この3年後=永禄十一年(1568年)の事になります。
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2010年5月18日 (火)

北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…

 

天正四年(1576年)5月18日、上杉謙信が将軍・足利義昭の要請に応じて、本願寺顕如と和睦しました。

・・・・・・・・・・

意外な事かも知れませんが、この少し前までは、越後(新潟県)上杉謙信と、尾張(愛知県西部)織田信長とは、大の仲良しだったのです。

すでに元亀元年(1570年)には、本願寺第11代・顕如(けんにょ)が本拠地としていた大坂本願寺の寺地の明け渡しや軍資金の要求などのゴタゴタで、その本願寺との石山合戦に突入していた信長でしたが、元亀三年(1572年)には、室町幕府を守るという共通の目標を掲げて、謙信と同盟を結びます。

この前後の、信長は、謙信に、南蛮渡来の「ビロードのマント」を送ったり、あの有名な「洛中洛外図屏風」を送ったり・・・これでもか!というプレゼント攻勢で、彼のご機嫌取りに走ります。

昨年の「天地人」にも登場していたので、ご存知の方も多いでしょうが、あの「洛中洛外図屏風」なんて、当代最高人気の狩野永徳(かのうえいとく)に、中央部分に輿(こし)に乗って将軍邸に向かう謙信とおぼしき人物を描かせています。

当時、「輿に乗って将軍邸に向かう」なんて姿は、最高権力者の証し・・・その人物を謙信に見立てて作画させるなんて!!!後の覇王・信長からは想像できないベンチャラ臭プンプンの演出です。

これらを貰った謙信が「わぁ~!ウレシイo(*^▽^*)oと思ったかどうかはともかく、同盟と言いながら、明らかに下手に出て来る信長を、悪く思う事はなかったと思います。

それもこれも、信長は、とにかく謙信が怖かった・・・

それは・・・
一説によれば、謙信の生涯の戦歴は、
70戦・43勝・2敗・25引き分け・・・脅威の9割7分という恐ろしい勝率をはじき出す戦績もあったでしょうが、個人的には、その信心ぶりにあったような気がします。

確かに、信長にも信心はあります。
合戦の前には戦勝祈願をするし、お寺への寄進も行っています。

その線引きは、おそらくは、信仰の対象となる神や仏そのものと、それを布教する神官や僧という所で分かれるのではないか?と考えますが、神や仏は信じても、神官や僧・・・特に、戦国時代に多かった「戒律を破りまくって武装する僧なんて信じられるか!」といった感じではなかったかと思います。

後の、比叡山との一件、石山本願寺との一件を見る限りでも、その事がわかりますし、何より、信長の理に叶った戦い方を見れば察しがつきます。

一見、一か八かの冒険のように思える桶狭間(おけはざま)でも(題名は「一か八か」になってますが(*´v゚*)ゞ…5月19日参照>>)、敵の大将・今川義元位置を正確に確認し、降りしきる豪雨によって、自軍の気配を消し、間近にまで寄せてから一気の攻撃をしかける・・・確かに、合戦は相手もいる事ですから、相手が自分の思い通りの行動をしてくれるかどうかという点では、その通りの一か八かですが、少なくとも、計画の時点では綿密かつ完璧に用意して出陣を決意しています。

あくまで予想ですが、この時の、義元の位置、豪雨、両者のタイミング・・・どれ一つ欠けても、信長は出陣を取りやめたように思うのです。

その点、謙信は少し違います。

もちろん、運や神頼みだけで上記のような戦績は残せませんから、謙信の武将としての才能もスゴイものであった事も確かでしょうが、そこに、あの毘沙門天への信仰がプラスされる・・・

謙信が毘沙門天の熱烈な信者だった事は有名ですが、それは信者に留まらず、「自らが毘沙門天の化身である」と思っていた可能性が高い・・・

つまり、「自分は毘沙門天の守られている」と考える謙信は、危険かつ無謀な事を平気でやってしまうわけで、そこに、妻も娶らず実子も残さないというストイックな人生で失う物がないぶん、さらに大胆な行動ができるというオマケもつきます。

どっぷりと信仰に浸かった人の捨て身の行動プラスあの戦績が証明する軍事の見事さ・・・この、敵情を視察しつつ計画通りに事を運ぶという自身の思考の範ちゅうを超えた謙信の戦い方が、信長は本当に怖かったという事ではないでしょうか?
(注:あくまで、個人的妄想です)

しかし、そんな二人の関係も、そう長くは続きませんでした。

そこに目をつけたのが顕如・・・信長と対抗するにあたって、最も期待できる戦力は北陸の本願寺門徒です。

なんせ、あの加賀一向一揆富樫(とがし)を倒してから約100年に渡る本願寺門徒の治める国を造った人たちですから(6月9日参照>>)・・・

しかし、これまでの北陸は謙信と信長の強力タッグに挟まれ、なかなか身動きが取れない・・・一方で、顕如の奥さんの姉の嫁ぎ先=武田信玄の協力により、美濃(岐阜県)伊勢(三重県)などの門徒の活躍はめざましく、これには、信長が一旦、石山本願寺との和睦を申し入れるくらいでした。

しかし、元亀四年(1573年)の信玄の死によって、情勢は大きく変わります。

自らが奉じて室町幕府第15代将軍に擁立した足利義昭(よしあき)京都から追放(7月18日参照>>)、元号を天正と改め、浅井・朝倉を倒した(8月27日参照>>)信長は、謙信よりもさらに上にある天下を見はじめ、ともに室町幕府を守るという共通の理念は崩れ去ったのです。

天正四年(1576年)4月、再び、石山本願寺との戦闘状態に入る信長・・・

そして謙信もが、近づいて来る信長に対して、その姿勢をあらわにし始める(3月17日参照>>)と、ここで、暗躍するのは、追放された義昭・・・彼のとりなしで接近した謙信と顕如は、天正四年(1576年)5月18日和睦を実現させたのです。

これで、北陸門徒の敵は信長1人になり、謙信も安心して西へと兵を進める事ができるようになったわけです。

謙信は、翌・天正五年(1577年)9月には能登をほぼ平定(9月13日参照>>)・・・さらに、その勢いのまま京都に向かって西上し、手取川(石川県)にて、信長が派遣した柴田勝家軍を撃ち破り、その翌月には大聖寺(だいしょうじ・石川県加賀市)でも大勝利!

もちろん、顕如としては、このまま謙信が北陸の本願寺門徒とともに上洛し、信長を根源からぶっ潰す事を期待していたのでしょうが、ここで、大誤算・・・風前の灯火となった信長を救うのは・・・そう、謙信の死です。

そして、ご存知のように、その後継者でモメた上杉家は、約1年間に渡って内戦状態となり(3月17日参照>>)、もはや、信長どころではなくなってしまい、その間に信長は越中(富山県)のほぼ半分ほどを手中に治め、天正八年(1580年)には、勝家によって加賀一向一揆は終焉を迎えます(3月9日参照>>)

ほぼ本願寺門徒の抵抗がなくなった北陸で、魚津城(富山県魚津市)まで落とされ、もはや風前の灯火となった上杉でしたが、ここで、この上杉を救うのが、信長の突然の死・・・というのは、なんとも皮肉な事ですね・・・・(6月3日参照>>)
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2010年5月17日 (月)

「もっと生きていて…」~死にぞこね原田左之助

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月17日、新撰組・十番隊組長を務めた原田左之助が、上野戦争の傷がもとで、この世を去りました。

・・・・・・・・・・

伊予国(愛媛県)松山藩中間(ちゅうげん)原田長次(ちょうじ)の長男として生まれた原田左之助(はらださのすけ)は、父と同じく、郷里で中間を務めておりましたが、20歳の時に出奔・・・

大坂にて谷万太郎(たにまんたろう)種田流槍術(たねだりゅうそうじゅつ)を学んだ後に江戸に出て、文久二年(1862年)頃から、あの近藤勇試衛館(しえいかん)に出入りしていたと言います。

その翌年にあったのが、あの浪士組の募集です。

清河八郎の提案で実施された、将軍・徳川家茂(いえもち)上洛警護のための人員を広く募集したアレです。

近藤が、門人の土方歳三(ひじかたとしぞう)沖田総司(おきたそうじ)などを率いて、この浪士組に参加した事で、左之助も、ともに京都へ向かうわけです。

しかし、ご存知のように、京都についた直後に、清河が、180度の方針転換を言い出したために浪士組は空中分解(2月23日参照>>)・・・清河に従って江戸に帰る者と、京都に残る者に分かれます。

その時、京都に残ったのが、近藤の試衛館の仲間と、芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間・・・彼らが、壬生浪士組となり、後に、新撰組と名を変え、ご存知の活躍をするわけですが、そんな中で、左之助は、副長助勤小荷駄雑具の担当長十番隊組長幹部職を歴任する重要人物の1人となります。

その新撰組では、芹沢一派の暗殺(9月18日参照>>)の時には平山五郎を斬り、大坂西町奉行所・与力の内山彦次郎の暗殺にも加わり、果ては、残された鞘と、犯人が放った「こなくそ!」という伊予の方言から坂本龍馬・暗殺犯の容疑者の1人でもあり・・・(龍馬暗殺については、本家HPの【坂本龍馬・暗殺犯を推理する】をどうぞ>>

ただ、上記の暗殺劇には、参加メンバーにも諸説あり、ご存知のように龍馬の暗殺も謎となっていますが、これらの数々の噂は、それだけ、左之助が血気盛んな暴れん坊だったという事で、あの池田屋騒動(6月5日参照>>)の時などは、あまりの奮戦ぶりに、一時は死亡説も流れるほどでした。

もちろん、新撰組・最後の粛清となったあの油小路の変(11月18日参照>>)にも参加してします。

そんな左之助についたあだ名は「死にぞこね左之助」・・・

それは、まだ、郷里の伊予にて、藩のご奉公時代に、つまらない意地の張り合いで切腹しようとし、その時の傷跡が腹に残っていたからだと言われていますが、それと同時に、いつ死んでもおかしくないような修羅場で、先頭に立って戦いながら、不思議と生き残っている・・・「悪運の強いヤツだ!」という意味も込められていたようです。

やがて慶応四年(明治元年・1868年)正月に勃発する鳥羽伏見の戦い・・・(1月3日参照>>)

そこで奮戦した後は、近藤らの本隊と合流して甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)(3月6日参照>>)として大暴れしますが、江戸に敗走した後は脱隊して、やはり脱隊した永倉新八らとともに靖共隊(せいきょうたい)を結成し、北上する戊辰戦争(2月10日参照>>)に、幕府側として参戦すべく会津へと向かいます。

ところが、何を思ったか左之助・・・下総(しもうさ・千葉県)山崎宿にて離隊し、ただ1人江戸へと戻ります。

もちろん、同志たちは引きとめ、説得しますが、左之助の決意は固く、その理由さえ告げずに去っていきました。

後に、大正四年(1915年)まで生きた永倉が、その理由について、「妻子の事が心配になったのでは?」と語っていますが・・・

そう、実は、「明日をも知れぬ」という事で、あっちこっちに彼女作りっぱなし状態だった新撰組隊士たちの中で、彼は珍しく、京都の商家の娘・まさと正式に結婚して男児をもうけ、在京中は、けっこうなマイホームパパをやってたんです。

彼が、同志たちとともに京都を離れたのは、まさに鳥羽伏見直前の慶応三年の12月・・・その時、まさは、二人めの子供を妊娠中でした。

あれから事情は急展開・・・今や、京都は官軍の支配下にあるわけで、その事を思えば、左之助が心配するのもムリはありません。

しかし、京都に戻りたかったかも知れない左之助も、江戸に着いてみれば、あたりは官軍ばかり・・・東海道中山道も官軍が押さえ、とてもじゃないが、京都へは向かえないし、かと言って、もはや離隊した靖共隊に戻る事もできない・・・

ちょうど、その頃、江戸では、あの彰義隊(しょうぎたい)上野での決戦に挑もうとする頃・・・そう、左之助が、自らの生き場所として選んだのは、あの上野戦争でした。

ところが、慶応四年(明治元年・1868年)5月15日・・・その上野戦争は、官軍の持つアームストロング砲が火を吹き、わずか1日で決着がついてしまいます(5月15日参照>>)

この戦いで被弾し、重傷を負った左之助・・・本所の神保山城守(じんぼやましろのかみ)にて治療を受けていましたが、2日後の5月17日、帰らぬ人となりました。

上記の通り、下総で別れた永倉が大正時代まで生きた事を思えば、ひょっとして引き返さなければ、もっと長く生きられたのかも知れません。

左之助と永倉は、ほぼ1歳違いですから、亡くなった年齢は30歳前後・・・永倉の言う通り、妻子に会いたい一心の後戻りだとすれば、さぞかし無念であった事でしょう。

しかし、さすがは「死にぞこね左之助」・・・上野戦争での彰義隊の名簿に、その名が無かった事から、やはりあります生存説・・・

日清戦争(1894年~1895年)の頃、伊予松山に、「ひょっとして原田さんでは?」と聞かれても肯定も否定もせずにいたやたら新撰組にくわしい老人がいたとか・・・

放浪生活の末、大陸に渡り馬賊の親玉になったとか・・・

明治時代には、新聞にまで報じられましたが、いずれも伝説の域を超えないもの・・・しかし、そんな伝説が語られるのも、やはり、「死にぞこね」と永倉の証言にあるのでしょう。

いくつもの修羅場をかいくぐりながら生き延びた男が最後に望んだ妻子との再会・・・

「今、一度、死にぞこなって、その願いを叶えさせてやりたい!」
そう思う人々にとっては、どうしても左之助を上野で死なせるわけにはいかなかった・・・

残された伝説は、そんな人々の思いが伝わって来るようです。
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2010年5月15日 (土)

「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件

 

昭和七年(1932年)5月15日、軍部政権樹立をもくろんだ青年将校らによる五・一五事件が勃発・・・時の首相・犬養毅が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

その日は、気持ちよく晴れたおだやかな日曜日で、犬養毅(いぬかいつよし)首相は、総理公邸でゆっくりとした休日を過ごしていました。

夕方になり、息子夫婦とともに楽しい夕食のひとときを味わっていたところ、突然、複数の人物が屋内に侵入して来たのです。

彼らは、三上卓(たかし)山岸宏海軍中尉を中心とする陸・海軍軍人と士官候補生ら9名で、すでに警備の警察官1名を射殺し、もう1名に重傷を負わせていました。

彼らの仲間はおよそ30名で、それが数隊に分かれて、首相官邸ほか内大臣官邸警視庁日本銀行三菱銀行・・・その他、都内近郊の変電所などを襲撃し、爆弾を投げ込むなどのテロ行為を決行したのです。

そもそも・・・
先の第一次世界大戦時の行動と好景気で世界の先進国の仲間入りをした日本は、中国への進出に成功・・・軍備拡張による広域経済圏の確立に向かいます。

とりわけ、その頃の満州は、巨大な鉱山があり、多くの製鉄所を抱える「日本の生命線」とも言える存在でしたが、時の第2次若槻内閣の外交は、陸軍から「軟弱外交」と呼ばれる状況で、現地では、関東軍(満州駐留の陸軍部隊)と中国兵や中国農民と朝鮮農民の衝突が耐えませんでした。

そこで、ついに関東軍は、昭和六年(1931年)9月、奉天(ほうてん)郊外の柳条(りゅうじょう)で、満州鉄道の線路を故意に破壊し、中国側の犯行と発表する軍事行動に出たのです。

その後、奉天・長春などの南満州を占領し、さらに、若槻内閣が止めるのも聞かずにハルピン・チンハルなども占領します。

関東軍を止める事ができなかった若槻内閣は総辞職・・・その年の暮には、立憲政友会の総裁であった犬養が首相となりましたが、関東軍の暴走は、まだ止まらず、清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を擁立して執政とし、満州国の建国を宣言させます。

しかし、当然の事ながら、この行為は、先の国際連盟設立を機に結ばれた9ヶ国条約にも違反しますから、犬養内閣は満州国独立の承認を渋っておりました。

一方、この関東軍の暴走は、国内での軍部の勢力にも関係します。

汚職や腐敗ばかりの政党政治にイヤ気がさしている国民は、少なからず軍部に期待を寄せ、その軍部では青年将校らが、「日本のような小領土の国は、大領土のイギリスやロシアと戦ってアジアから排除し、日本を中心とする大アジアを造らねばならない」と解いた国家改造の思想へと傾いていき、テロ行為や暗殺事件を繰り返すようになります。

・・・と、
長~い前置きになりましたが
(それでもごくごく簡単に・・・( ̄◆ ̄;)
この昭和七年(1932年)5月15日という日は、そのような状況下にありました。

犬養首相の官邸に侵入した9人も、仲間とともにテロ行為を起こして戒厳令がしかれ、犬養・死亡のあかつきには、きっと軍事政権が誕生するものと信じていたのです。

この時、官邸に侵入し、先に犬養を発見したのは三上でした。

興奮状態の彼らに出合った犬養首相は、
「何を騒いどるんや!」
と一喝・・・

さらに銃をつきつけられても、
「待て、待て、話せばわかる
と、冷静に彼らを客間へと通します。

客間が日本間だった事で、
「コラ、君ら土足やないかい!
他人んちにあがんねやったら靴ぐらい脱いだらどやねん」

と、落ち着いて対処・・・

そこで、三上は、
「靴の心配はあとでもよろしいやん。
俺らが何のために来たかはわかりますやろ?
何か言いたい事があるなら言いなはれ」

その言葉を聞いた犬養が何か言おうと・・・

・・・と、その瞬間、部屋に入ってきたばかりの山岸が
問答無用!撃て!」
と叫んだ事から、黒岩勇予備役海軍少尉が、飛び込みざまに一発・・・

次いで、の者も次々と銃を発射し、官邸をあとにしました。

銃の音に驚いて駆けつけた女中に、犬養は苦しい息の中、
「もっかい、あの若いヤツらを、ここへ呼んで来い!
わかるように話してきかせるから・・・」

と言っていたと言います。

直後には意識があり、家族とも会話をしていたという事ですが、次第に様態が悪化し、午後11時26分、帰らぬ人となりました・・・享年77歳。

その毒舌ゆえ、敵も多かったと言われる犬養首相・・・この40年前の「決闘状騒動(12月30日参照>>)は見事にかわしたものの、今回の聞く耳持たぬ相手には通じなかったようです。

この犬養と軍人の会話のやりとりは、まさに時代の移り変わりを象徴していました。

「話せばわかる」の政党政治から、
「問答無用」の軍国主義へ・・・

ご存知の二・二六事件(2月26日参照>>)が勃発するのは、この4年後の事でした。
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2010年5月14日 (金)

大久保利通の見た二つの夢~悪夢と未来

 

明治十一年(1878年)5月14日、西郷隆盛木戸孝允と並んで、維新三傑と呼ばれる功労者の1人・大久保利通が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・・

一昨年の大河ドラマ「篤姫」でも大活躍だった薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)・・・

同じ薩摩出身の西郷隆盛とともに、王政復古(12月9日参照>>)に貢献し、維新後には版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)を断行・・・明治六年の政変(10月24日参照>>)では、西郷ら征韓派を一掃して政権を一手に握り、約半年前には、不平士族の最大の叛乱・西南戦争9月24日参照>>)を終えたばかしでした。

この数日前、郵便制度を構築した事で有名な、あの前島密(ひそか)(4月27日参照>>)に、大久保はポツリと話したと言います。

「実は、昨日の晩、嫌な夢を見たんや・・・なんか、自分の頭が割れて脳が動いてる変な夢・・・」

そう言えば、何日か前にも、大久保のところに「あなたを殺害します」などと書かれた殺害予告状が送りつけられてきていましたが、「また、こんなアホなもん届いたで!」と、彼は笑っていました。

大久保の部下で、当時は警察を牛耳っていた川路利良(かわじよしとし)のところにも、石川県から「わが県の元士族が不穏な動きをしている」との報告がありましたが、「石川県士族に何ができるもんか!」と一蹴したばかりでした。

これは、石川県民がどーのというのではなく、江戸時代は加賀百万石と言われた大藩でありながら、幕末維新ではほとんど動かず、終始新政府に従順であったため、「そんな石川の人間が、いまさら、何をするという事もないだろう」といった思いから来ていたようです。

しかし、それから間もなくやってきた運命の日明治十一年(1878年)5月14日・・・その日は朝から湿気を含んだ冷たい北風の吹く、5月とは思えないような寒い日でした。

早朝から大久保邸に訪ねてきていたのは福島県令の山吉盛典(やまよしもりすけ)・・・。

普段は無口な大久保が、この日はことのほか熱心に、その将来のビジョンを山吉に話していたと言います。

「あと10年・・・あと10年で、この日本を近代国家に変えたいと思てるねん!
・・・とは言うてもな、ホンマはな、30年かかると思てんねん。

今までの10年は産みの苦しみ=戦乱ばっかりの10年やったけど、これからの10年は、国内の制度を整えて、産業を発達させて、富国強兵を実現する10年・・・。
ほんで、最後の10年は、その政策を続けていって国家を完成させる10年や。

まっ・・・残念ながら、俺がヤレんのは、これからの10年まで・・・その後の10年は、後輩たちにやってもらわなアカン10年やと思てる」

同郷の西郷は西南戦争に散り、ともに維新に尽力した木戸もすでに、この世には無く・・・三傑の最後の人となった大久保は、多くの犠牲を払って生まれた明治という時代を、見事に完成させなければならないという責任のような物を感じていたのかも知れません。

やがて、その山吉が帰ってまもなく・・・大久保は会議に出席するために赤坂仮御所へと向かいます。

赤坂仮御所とは赤坂離宮の事で、明治六年(1873年)に皇居が焼失してしまったために、この頃の明治天皇は、離宮を仮御所としていて、ここに太政官(中央政府)も置かれていたのでした。

当時、三年町三番地にあった自宅から2頭立ての馬車で仮御所へと向かう大久保・・・従うのは馬丁(ばてい・馬の世話をする人)芳松(よしまつ)馭者(ぎょしゃ・馬を操る役)中村太郎二人だけでした。

Ookuboansatucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

清国公使館の前を右へ折れ、さらにドイツ公使館の前を左・・・突き当たりを右に曲がって、坂を上りきったところで左に行き、その後・・・実は、このまま直進すれば、赤坂仮御所へも近く、道も広いのですが、なぜか大久保は、いつもここで右に曲がり内土手へと上がって紀尾井町を通って仮御所へ向かっていたのです。

それには、人通りの多い道を避けていたとも、風光明媚な道を選んでいたとも言われますが、とにかく、彼は、この細い道のほうを行くのが好きだったのです。

しかし、ここが細い道であった事が、この馬車を止めてしまうのです。

この日は、この細い道の行く手に、二人の若者が花を手にして立っていたのですが、もう、それだけで、馬車は通れない・・・しかたなく、芳松が馬車を降り、若者に道を開けてくれるように頼みます。

その途端!
若者二人は、短刀を取り出しながら馬車の方へと駆け寄り、いきなり馬の前足を斬ります。

馬は膝を折って、はげしくいななきます。

これを合図に、脇に潜んでいた4名が飛び出し、一斉に馬車に向かって殺到します。

全部で6人・・・芳松は、その1人に背中を斬りつけられますが、間一髪でそれをかわし、とにかく、助けを求めるべく必死で走りぬけます。

中村も、とっさに馬車を降りますが、そこを刺客の1人に斬られて即死・・・屋根に、扉に、アリのように馬車に群がる6人に対して、その時、書類に目を通していた大久保は、「待て!」と言って、その書類を箱にしまったと言います。

しかし、その時、すでに、誰の仕業かはわからぬ一太刀が、大久保の右手を傷つけていました。

さらに、刺客たちは、大久保を馬車から引きずり下ろそうとしますが、彼らに向かって一言・・・「無礼者!」

その直後、誰かの短刀が大久保の眉間を捉えたかと思うと、次の一手が深く腰を貫き、動けなくなった彼の頭部に刀が振り下ろされました。

やがて、馬車から転げ落ちた大久保は、フラフラと何歩か歩きますが、そこを、さらに刺客たちが斬りつけ、最後に、倒れた大久保の首を短刀で貫いて立ち去ります。

彼らは、その足で赤坂仮御所へと向かい、門の前にいる守衛に
「今、俺らは大久保利通を殺害した・・・よろしく処置を頼む」
と言って、一つの書簡を差し出します。

その書簡には、大久保をはじめとする藩閥政治家による独裁や汚職に関する不満、そして政策への批判と自由民権運動への弾圧や西郷を自刃に追い込んだ事への抗議などがビッシリと書かれていました。

主犯格の石川県士族・島田一郎・以下、長連豪(ちょうつらひで)杉本乙菊(おとぎく)脇田巧一杉村文一・・・そして、ただ1人の島根県士族の浅井寿篤(じゅとく)の計6名・・・

一方、助けを呼びに行った芳松・・・彼の知らせを受けて、政府高官たちは、慌てて紀尾井町へと駆けつけます。

その中には、あの前島もいました。

現場に駆けつけた前島が見た物は・・・まさに、数日前、大久保が自分に話した悪夢の光景だったのです。

それから約2ヵ月後の7月27日、実行犯6名には死刑が宣告され、即日執行されたほか、関係者・20数名が処罰されました。

現実の物となってしまった悪夢・・・
一方で、叶えられなかった未来の夢・・・

大久保利通の見た二つの夢のうち、叶えられなかった未来の夢は、伊藤博文大隈重信(おおくましげのぶ)といった有能な後輩たちによって受け継がれていく事となります。

幸いな事に、富国強兵へと向かう国家の進むべき道は、ただ一つ・・・すでに、見えていました。

追記:大阪生まれ大阪育ちのため、茶々は鹿児島弁が話せません・・・大久保利通のセリフが大阪弁になっておりますが、悪意はありませんので、お許しを・・・
 .

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2010年5月13日 (木)

摩訶不思議な奈良のピラミッド~頭塔・浮彫石仏

 

今日は、「遷都1300年祭」に沸く奈良から、ちょっとマイナーな史跡をご紹介します。

マイナーと言っても、知る人ぞ知る史跡で、ミステリー感満載のその雰囲気から、好きな人にとっては他に類を見ない史跡という事で、むしろ、ここをお目当てに遠くから訪れる人も少なくない史跡です。

・・・というのも、まずは、この写真をどうぞ

Zutou350 ↑クリックすると大きくなりますヨ

まさに、南米はインカアステカというピラミッドを思わせるこの不思議な形は、見る者を圧倒し、様々な空想をかき立てられるミステリー好きにはたまらない場所なのです。

Zutotizu 場所は、大仏様のある東大寺から南へまっすぐ・・・破石町バス停の南側にある道を右(西)へ入ってすぐの民家の中にこつ然と存在します。

 

 

 
Dscn0494600  .
入り口(写真右→後ろに見える木が史跡です)の斜め向かいにある「仲村表具店」さんが管理人さんをなさっていますので、お店に声をかけると入り口の鍵を開けてくださいます(拝観料:300円・9時~17時まで)・・・これも、なんだかマイナーっぽくでステキです(゚ー゚;

そもそも、ここは、民家の中にポツンと、木々が繁り、頂上には五輪塔が建つ小山のような所で、昔から、奈良時代の僧・玄昉頭を埋葬した墓だと伝えられており、
「頭塔(ずとう)という名で周辺住民に親しまれいて、大正十一年(1922年)には、すでに国の史跡に指定されていました。

その後、昭和五十二年(1977年)に当初から露出していた13基の石仏が重要文化財に指定された事で、1980年代の終わり頃から本格的な調査が開始されます。

Zutohakkutu1a1_2
発掘前の頭塔
Zutohakkutu2a1
発掘中(1987年頃)

すると、単なる小山だと思われていた土の下から、整然と並べられたおびただしい数の石垣が発見されたのです。

しかも、全部で7段の石垣の奇数段の4面には、各11基ずつ、総数44基の石仏が法則にしたがって整然と配置されているではありませんか!

他に類を見ない特異な史跡の発見でした。

Dscn0516800

古文書によれば、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧・実忠が、東大寺の南側方向に土塔を築いたとの記録があり、現在では、その記録にある土塔が、この頭塔の事であろうと考えられています。

Zutodanmenzu1a1_2
ただ、最初に造った物は、すぐに崩れてしまったため、それを覆いかぶすように、すぐに2度目の建設が行われたようで、近年の発掘調査の段階では、その最初の部分も発掘されましたが、整備の都合上、最初の部分は埋め戻されて整備されました。

その役割は、五重塔と同じような仏舎利を収める仏塔・・・つまり、土で造った七重塔、あるいは、立体曼荼羅のような物ではなかったかと言われています。

このような史跡は日本でも少なく、階段状の土塔であっても、そこに石仏がレリーフされているという姿は、むしろ、遠くインドネシアジャワ島にあるボロブドゥール遺跡に酷似している事から、その関係性についても研究の対象となっているようです。
(*ボロブドゥール遺跡についてはwikiをどうぞ>>)

Zutofukugenzu3
現場では、いくつかの瓦も出土いる事から、当時は、奇数段の石仏のある段には屋根が設けられ、人々が、石仏を巡礼しながら周囲を巡ったのではないか?と思われています。

Dscn0503a800 ただし現在、写真のように設置されている屋根は、当時を復元したというよりは、現存する石仏を雨や日差しから守るために設置されている物で、学問上の検証はなされていないとの事です。

また、写真で見ると、ピラミッドのような石垣の向こうに木々が見えますが、これは、史跡の南半分を発掘調査&整備をする以前の形のままに残してあるため・・・つまり、ピラミッドのように見えるのは、史跡の北半分だけなのです。

それは、これが建てられた時の当初の姿に再現するのも歴史・・・
長年の風雨にさらされ、原型を止めなくなりながらも、「頭塔」として奈良市民に親しまれてきた姿も歴史・・・

その両方が、頭塔の歴史であるという考えから、あえて、このような形にしてあるのだとか・・・
なんとも、粋なはからいではありませんか!

Dscn0496ab550jpg_2
*破石町バス停前にある「ホテル・ウィルネス飛鳥路」の駐車場からの眺め…右が整備され左が自然のままです

さぁ、イベントに沸く奈良・・・せっかく東大寺や春日大社に行かれるのでしたら、すぐ近くなのですから、ぜひとも、この頭塔も訪れてみてはいかがですか?

しばし、摩訶不思議な世界へ・・・
 .

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2010年5月12日 (水)

寄らば大樹の陰も最後には~源行家・斬首

 

文治二年(1186年)5月12日、源平争乱期の源氏の武将で、頼朝・義経兄弟の叔父にあたる源行家が斬首されました。

・・・・・・・・・・・

ご命日で、しかも斬首だというのに、はなはだ失礼ではありますが・・・

この源行家(みなもとのゆきいえ)という人・・・源平の争乱の中で、何ともオモシロイ動きをした人です。

彼が歴史の舞台に登場するのは、武士の力無しでは貴族のお家騒動も成り立たない事を知らしめた、あの保元の乱(7月11日参照>>)・・・源為義(ためよし)十男としてお目見えします。

つまり、源頼朝(みなもとのよりとも)義経(よしつね)兄弟のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、日本初の切腹で伝説の人となる源為朝(みなもとのためとも)という事になりますね。

保元元年(1156年)に勃発した、この保元の乱の時、父・為義と、その長男であった義朝は、親子で敵味方に分かれて戦う事になってしまいましたが、義朝以外の息子たちは、全員、父の側につきます。

・・・という事は、当然、行家も父の側で合戦に参加しますが、ご存知のように、勝利したのは、後白河天皇平清盛らと組んだ息子・義朝のほう・・・義朝は、自らの手で、父・為義を処刑し、弟・為朝を流罪から自刃に追い込みます(3月6日参照>>)

ただ、兄弟の中で行家だけは処罰を免れたようです。

・・・というのは、この行家さん・・・為義の十男という事はわかっていますが、その母親も生まれた年月もわかっていません。

おそらくは、父について参戦したとは言え、それが本人の意思かどうか判断できないほど幼かったでのであろうと推測されます。

とにかく、ここで一度、命拾いした行家・・・やがて平治元年(1159年)、先の合戦では強力タッグを組んでいた清盛と義朝が戦う事になる平治の乱が勃発します(12月9日参照>>)

・・・で、すでに書かせていただいているように、この平治の乱では、
義朝は騙まし討ち(1月4日参照>>)
その長男・義平斬首(1月25日参照>>)
次男・朝長美濃(岐阜県)自害し(討たれたとも)
三男・頼朝伊豆へ流されます(2月9日参照>>)

そんな中で、この時の行家は、運良く戦線離脱に成功し、熊野神社へと逃げ込み、源氏の残党としての処刑を免れています。

それから約20年・・・おとなしく熊野で暮らす行家に、突然スポットが当たる日がやってきます。

平治の乱では清盛側についた事で生き残った源頼政(よりまさ)・・・生き残ってはみたものの、平家全盛の世では思うような出世が望めなかった頼政が、もはや老体となったその身を投げ打って、最後の賭けに出たのです。

頼政に担ぎあげられたのは、後白河法皇の息子でありながら、清盛の孫が安徳天皇として即位した事で、不遇の日々を送っていた以仁王(もちひとおう)でした。

治承四年(1180年)4月9日・・・以仁王は全国の源氏の生き残りや反平家勢力に向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発するのですが(4月9日参照>>)、この伝播役として大抜擢されたのが行家だったのです。

そう、メールやファックスがない以上、誰かが、その命令書を持ってかなきゃなりませんが、都に残る数少ない源氏の中でも、彼はあの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の流れを汲む嫡流の一員ですから、まさに適任!

はりきって、近江(滋賀県)尾張(愛知県)などの反平家勢力を回り、あの伊豆の頼朝の所へも、木曽義仲(8月16日参照>>)のところへも・・・さらに奥州藤原氏まで・・・

しかし、秘密裏に行われていたはずのこの行家の行動は、すぐに平家側にバレてしまいます。

実は、お世話になっていた熊野に立ち寄った時、
「今、こんな事やってんのヨ」
と、ついついしゃべちゃった
んですね~

・・・で、未だ、頼朝や義仲が挙兵を悩んでいる時点で、事が発覚してしまったために、頼政は以仁王を守るべく武装しますが、残念ながら宇治にて敗北(5月26日参照>>)・・・夢を託して逃された以仁王も、平家の追撃に遭い木津川にて命を落とします(2009年5月26日参照>>)

やがて、
その3ヵ月後に伊豆で頼朝が(8月18日参照>>)
さらに半月後には義仲が挙兵します(9月7日参照>>)

この二人の挙兵にあわせるように行家も挙兵しますが、石橋山の敗北を挽回した頼朝や、破竹の勢いの義仲に比べて、彼は、どうやら合戦という物が苦手だったのか?

初めての戦闘となった尾張墨俣(すのまた)の戦いを皮切りに、同じく尾張矢作(やはぎ)川の戦い播磨(兵庫県)室山(むろやま)の戦いと、平家相手に3連敗・・

しかも、墨俣に至っては、壊滅状態の中、頼朝の弟・義円まで死なせているにも関わらず、その後、勢いのある頼朝に近づいて「僕にも領地ちょーだい」と、領国を要求・・・

「欲しかったら、自分で勝ち取れや!」
と、頼朝に言われちゃった行家は、今度は義仲のもとに身を寄せて、「頼朝より先に京都へ!」を目標に行動します。

そして、負け知らずで京都をめざす義仲のおかげで、見事、入京を果たした行家(7月28日参照>>)・・・しかし、またまた、ここでモメ事が・・・

それは、平家を都落ちさせた事への朝廷からの論功行賞・・・当然の事ながら、平家を撃ち破った義仲が一番高い評価を得て、行家は義仲より低かったわけですが、それが、彼には気に入らなかった・・・

「確かに、平家を都落ちさせたんは義仲やけど、そもそも、それをうながす令旨を持っていったんは俺やないかい!
令旨がなかったら、義仲の挙兵もなかったかも知れんやろ!」

こうして、義仲とケンカ別れした行家が、今度は後白河法皇へと近づき、山育ちの義仲の無骨さをくっちゃべりながら、様子見ぃのひとときを過ごしていると、都での評判ガタ落ちの義仲を攻めるべく、頼朝が弟の義経を派遣してきます(1月16日参照>>)

「これ幸い」と、義仲追討の動きを見せる行家でしたが、やっぱり敗れてしまい、結局は、義経が義仲を倒して(1月21日参照>>)からの入京という事になってしまいました。

その後は、義経とともに行動するも、合戦に参加する事なく、かと言って鎌倉の頼朝に近づくでもなく、なんとなく河内源氏の本拠地に居座っていた行家・・・

やがて、壇ノ浦で平家を撃ち破った義経・・・しかし、ご存知のように、その後、鎌倉にいた頼朝との関係が悪化し、泣きの手紙を送って許しを乞うも(5月24日参照>>)、頼朝は、逆に配下の土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を使って、義経の屋敷を襲撃させます(10月11日参照>>)

この兄の態度を見て、義経は兄との徹底抗戦を決意するわけですが、ここに、またしても「これ幸い」と行家登場!

あの日の
「欲しかったら、自分で勝ち取れや!」
の怨みは忘れていません。

寿永四年(文治元年・1185年)10月18日・・・義経に近づいた行家は、ともに後白河法皇にせまって、「頼朝追討」の宣旨(せんじ・天皇の命を伝える文書)を得たのです。

しかし、宣旨を得たとは言え、実際に兵を挙げようとすると、予想よりも、はるかに少ない数・・・一方の頼朝は、東国から大量の軍勢で、京都へと攻め込んでくるとの噂。

やむなく、義経と行家は西国で態勢を整えようと、法皇から、義経には九州を、行家には四国を与えるとの約束を取りつけて、大物浦(だいもつのうら・尼崎)から四国へと船出・・・一旦、都を後にしますがしますが、運悪く、これらの船団が嵐に遭い、一行は離れ離れに・・・どころか、すべての船が座礁してしまいます(11月3日参照>>)

しかも、この1週間後の11月11日には、今度は、頼朝が法皇から「義経追討」の宣旨を受けるのです。

哀れ、義経一行とはぐれてしまった行家は、逃れ逃れて和泉国の民家に潜伏していたところを民間人に通報され、頼朝配下の兵に囲まれてしまいます。

「ここが男の花道!」
とばかりに、屋根に登って奮戦する行家でしたが、多勢に無勢ではいかんともし難く、結局、捕縛されてしまいます。

文治二年(1186年)5月12日・・・

ここまで、その口先のウマさで、あまたの危険をかいくぐって来た行家も万事休す!

頼朝が彼に下した処分は斬首でした。

こうして、見た目40歳前後だった(年齢がわからないので…)とされる行家は、二人の息子とともに、この世を去りました。

「寄らば大樹の陰」とばかりに時勢と読み、その時々で同盟関係を変えた行家も、最後の最後に「頼朝への怨み」という私情を挟んだ事で、その運も尽きたのかも知れません。
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2010年5月11日 (火)

土佐勤皇党・武市半平太~切腹す

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慶応元年(1865年)閏5月11日、幕末に土佐勤皇党を率いて活躍した土佐藩士で、戯曲・月形半平太のモデルともなった武市半平太が獄中で切腹しました。

・・・・・・・・・・・

「薩長土肥(さっちょうどひ=薩摩・長州・土佐・肥前)・・・と、明治維新に貢献した雄藩の一つに数えられる土佐(高知県)ですが、幕末に活躍した志士たちのほとんどは、土佐勤皇党(きんのうとう)の出身者です。

その土佐勤皇党を率いていたのが、武市半平太(たけちはんぺいた)・・・号は瑞山(ずいざん)と言い、武市瑞山とも呼ばれます。

今年の大河ドラマ「龍馬伝」では、演技に定評ある大森南朋(なお)さんが、小気味いいブラックさを伴った半平太を好演し、その知名度も一気に上昇したのではないかと思います。

剣においては、自ら道場を開くほどの腕前で、その道場から中岡慎太郎岡田以蔵が育つのですから、師匠の剣客ぶりも容易に想像できますね。

安政三年(1856年)に江戸へ出て、鏡心明智流桃井春蔵道場で修業し、塾頭となる一方で、長州藩の桂小五郎久坂玄瑞(げんずい)高杉晋作らとの親交を深めて尊王攘夷に傾いていきました。

文久元年(1861年)に、先の安政の大獄で隠居の身となっていた先代藩主・山内容堂(ようどう)の志を継ぎ、「一藩勤王」の理念を掲げて、江戸にて土佐勤皇党を結成・・・土佐に戻ってから最初の加盟者となったのは、ご存知の坂本龍馬です。

半平太の、爽やかな言動に高潔な人格は、人を魅了するカリスマ性を持ち、道場に籍をおく多くの弟子たちがそのまま勤皇党へと移行しました。

しかし、ドラマでも描かれているように、彼は、爽やかな言動のウラに、秘めたる陰湿な部分も持っていました。

理念のためには手段を選ばぬその気質は、土佐藩の参政・吉田東洋(とうよう)暗殺に始まります。

東洋は、容堂の一族に連なる土佐藩の実力者で、儒教思想に篤く、かたくなな佐幕・開国論者でもありましたから、半平太の度々の建白書も彼が握り潰し、現藩主の山内豊範(とよのり)には届きませんでした。

なので、「東洋さえいなければ・・・」と、半平太が思ったのも無理はありませんが、そうやって一度手を汚すと、人はとめどなくつき進んで行くもので、京都においても、天誅(てんちゅう・天罰のこと)斬奸(ざんかん・悪人を斬ること)と称して配下の者を差し向け、多くの佐幕派の暗殺に関与してしまいます。

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←京都三条付近にある武市半平太・寓居の跡・・・現在は、京料理のお店・金茶寮(くわしい行き方は、本家HPの歴史散歩のページへ>>)

おかげで、一時的に藩政の実権を尊攘派が手にする事にはなりましたが、それも長くは続きませんでした。

あの八月十八日の政変です(8月18日参照>>)

その政変で、尊攘派の中心であった長州藩が中央政界から追われると、今までおとなしくしていた容堂が動きはじめます。

もともと勤王の思想を持っていたからこそ、安政の大獄で処分を受けた容堂ですが、彼は、理念を推し進める事よりも時代を読む事を優先する人・・・徹底した「鳴くまで待とうホトトギス」の精神の持ち主です。

さらに、彼の山内家は、初代藩主の山内一豊以来、徳川のおかげで今の山内家があるとの考えが強く、幕府への忠誠心はハンパないわけで、倒幕などみじんも考えていません。

ここまで、容堂の志を継いでいるつもりでいた半平太と、容堂本人の気持ちは、まったく違っていたのです。

まして、半平太は、容堂が信頼を寄せていた東洋を暗殺した張本人・・・(これは、半平太本人は否定していても周知の事実でした)

政変によって、風向きが変わった事を感じた容堂は、半平太をはじめとする勤皇党の志士たちを次々と逮捕し、投獄します。

それでも、志士一人一人の自発的な集まりではなく、あくまで藩を挙げての尊王運動でないと意味がないと考えていた半平太は、容堂への進言や説得を続けていきます

しかし、土佐は、関ヶ原で負け組となった長州や薩摩とは違うのです。

藩を挙げての尊王運動をするには、まだ、時代が早かった・・・その風の流れを読み取った容堂と、読み切れなかった半平太の溝は深まるばかり。

投獄されること1年半・・・半平太は東洋暗殺を否定し続けますが、京都に潜伏していた以蔵が幕府からは無宿者として京都を追放され、その後土佐藩に捕まり、拷問の末、一連の暗殺を次々と自白したと言います(2011年5月11日参照>>)

一説には、以蔵が捕まった事を知った半平太が、牢役人に頼んで、以蔵に毒を盛り、その事を知った以蔵が、あっさりと自白した・・・なんて噂もありますが・・・。

毒を盛ったという真偽はともかく、(捕まって自白するくらいなら)あっさり死んでくれたらいいのに・・・」との、半平太の手紙が残っているのは事実で、今回のドラマでも受けるブラックなイメージは、このあたりから・・・といったところでしょうか。

とは言え、最期を迎えたその姿は、理念を貫く半平太らしい堂々たるものだったようです。

古来の方式に従い、腹を三文字にかき斬り、刀を右脇に置いてから両手をついてうつむき、介錯人に脇腹を貫かれるまで、微動だにしなかったのだとか・・・

慶応元年(1865年)閏5月11日・・・享年37歳

目的の高潔さに反する手段の卑劣さ・・・特に、同志を捨て駒のように切り捨てる非情さは、少し気になる部分ではありますが、それが、私利私欲ではなく、大義のためであったというところには、やはり感情移入をしてしまいますね。
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2010年5月10日 (月)

関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?

 

慶長十年(1605年)5月10日、徳川家康豊臣秀頼に上洛を促すも、秀頼が、これを拒否しました。

・・・・・・・・・・

関ヶ原の合戦は慶長五年(1600年)・・・
大坂の陣の勃発が慶長二十年(1615年)・・・

以前より、この間の豊臣と徳川の微妙な関係が気になっておりました。

ブログにも度々書かせていただいておりますが、天下分け目の関ヶ原と言えど、これは、後々の歴史を知っている者が感じる、この後の江戸時代ありきの考えであって、勃発当時は、あくまで豊臣家内のトップ争いだったわけです。

西軍の石田三成からすれば、亡き秀吉の決めたルールを守らず、遺児・秀頼が幼いのを良い事に、代役として采配を揮う家康が、豊臣家内を乱す叛逆分子であり、
東軍の家康から見れば、豊臣恩顧の加藤清正福島正則らとことごとく対立する三成が、豊臣家内を乱す叛逆分子だったわけです。

もちろん、家康個人には、すでに豊臣家に代わって天下を握る構想があったかも知れませんが、少なくとも、その事は、家康自身の心の中だけであって、たとえポーズであったとしても、表向きは豊臣家のために三成を討つという姿勢であったはずです・・・でないと清正ら豊臣恩顧の武将が味方につく事はなかったでしょうし、合戦のわずか12日後に、大坂城の秀頼と淀殿の前に出て、勝利の報告とともに「豊臣家への忠誠を誓う」なんて事をするはずもありません。

ここでは、あくまで家康は、豊臣家の臣下だったわけです。

しかし、世に出ている多くの書籍には、「この関ヶ原の合戦の前と後では、大名たちの石高が大きく変動した」と書かれています。

つまり、勝利した東軍に属した大名は、その恩賞として石高が大幅に上がり、負けた西軍の大名は、没収されて浪人になるか大幅カットか・・・確かに、合戦があったのだから、そうなるのは当然ですが、不可解なのは、主君である秀頼の石高です。

上記の通り、関ヶ原の合戦が豊臣家内の内部抗争ならば、なぜ、秀頼の222万石もあった石高が、摂津・河内・和泉のみの65.7万石になるのか?

この領地配分をやったのは、幼い秀頼に代わって、事実上の采配を揮っていた家康だと言いますが、清正ら、豊臣恩顧の武将は、この事に疑問を持たなかったのでしょうか?

中には、ここで「豊臣家は一大名になり下がった」とまで書かれている書籍もある中、私の見る限りでは、この疑問に対して、明確な回答が書かれている物は、未だありませんでしたので、いつもモヤモヤしながらも、自分なりにイロイロ考えておりました。

そんなおり、2月12日の【徳川家康・征夷大将軍への道】>>のページで、このブログを読んでくださっているいんちきさんから、
「関が原の合戦は”豊臣家内のトップ争い”とあります。ではなぜ、合戦後に豊臣家の領地は削られたのでしょう?」
という、ご質問をいただきました。

そのページのコメントにて、
「すでに、全国のほとんどがどこかの大名の領地となっている現状では、新たに与える領地がなかったので、豊臣家の直轄地から分け与えるという形にしたのでは?」
といった感じの、思うところを書かせていただいたのですが、それでも、「家康がドサクサにまぎれに取っちゃった」みたいな事が書かれている本よりは、少しは説得力があるかな?程度の物で、自分自身でもスッキリとは言い難い物でした。

なんせ、私は単なる歴史好きですので、秘蔵の古文書を特別に見せていただいたりできる立場にはなく、もとになる史料と言えば、一般に公表されている物を展示会で拝見したり、現地へ行って観察したり、市販されている書籍を読まさせていただくしかないわけで、あまたある書籍に「こうなのだ」と書かれていると、まずは、そこから考えるしかなかったわけですし・・・

そんな中、先日、ある歴史講座に参加させていただく機会があり、今まで知らなかった史料を教えていただいた事で、やっと、「関ヶ原後の豊臣家の石高は65.7万石」の出どころを知ったのです。

まずは・・・
文化九年(1812年)に書かれた『廃絶禄』・・・
ここの元和元年の所に、
「六十五万七千四百石 摂州(摂津)大坂城 摂津・河内・和泉 豊臣右大臣秀頼公
 五月八日、大坂城に於て二十三歳にて自害」

とあります。

『廃絶禄』とは、徳川家が統治した江戸時代に廃絶となった人たちを一覧にまとめたデータベースのような物・・・同じ年には、古田織部(ふるたおりべ)の名前も見えます。

そして、もう一つ・・・
明治以降に書かれた『徳川除封禄』・・・
これも、上記の『廃絶禄』と同様に徳川家時代に除封となった大名のデータベース
「六拾五万七千石 豊臣右大臣秀頼
 居城 摂津国西生
(成)郡大阪(坂)
 元和元年五月八日、大阪(坂)城中ニ戦死シ除封セラル」
この次には、大野治長(はるなが)が続きます。

「文化九年?」「明治以降?」
しかも、文化六年(1809年)に成立した『断家譜』という、やはり江戸時代に廃絶した大名や旗本の家譜を集成した物には、豊臣家は収録されていない文化九年(1812年)以前の記録では、豊臣家は江戸時代に廃絶した大名の中に含まれていないというワケです。

つまり、豊臣家が65,7万石の一大名として廃絶となった事が登場するのは、文化九年=関ヶ原から200年以上も経ってからという事になります。

このお話を聞いて、が然、何でも疑ってかかるイケズな性格がムクムクと湧き出てきました!

つまり、関ヶ原直後の豊臣家は、石高を減らされてもいなければ、当然、一大名に成り下がってもいないかも?・・・それを主張しているのは、200年後の徳川幕府?という事になりませんか?

そうなると、関ヶ原後も、諸大名はおろか、公家までもが、毎年、正月の挨拶をしに、大坂城へと赴いたのも納得ですし、豊臣恩顧の武将が、文句を言わないのも納得です・・・なんせ、大勢は、戦前も戦後も変わらないのですから・・・。

家康は、関ヶ原の合戦の勝利一発で天下を手に入れたのではなく、その後、15年かかって、徐々に大勢を変えていき、大阪の陣で、やっと豊臣家を倒す事ができたという事なのではないでしょうか?

その証拠と言えるのが、慶長十七年(1612年)9月28日の日づけで書かれた秀頼の黒印状・・・
「備中国小田郡烏双村弐百廿九石弐斗、 同郡大河村六拾五石六斗、 同郡小林村内五石二斗、都合三百石之事、令扶助訖、全可領知者也、
 慶長十七年 九月廿八日 御黒印
   毛利兵橘とのへ」
(豊臣秀頼知行宛行状写)
つまり、慶長十七年の時点で、秀頼は、備中(岡山県)の領地についての采配を揮っていた事になります。

これら秀頼から領地をもらった武将の多くが、大阪の陣で戦死しているため、現存するのは、わずかに6通だそうですが、備中以外にも山城(京都府)近江(滋賀県)の物が確認されており、
もし、関ヶ原後の秀頼の領地が、摂津・河内・和泉だけの一大名に成り下がっていたのなら、他人の領地を一大名が勝手に与えた事になってしまいます。

そこで、関ヶ原以降もそのまま続いていた豊臣家の威勢を、徐々に、自分の大勢へと持っていこうとする家康が、征夷大将軍に任命されるわけですが、それに関しては、先日のお菊物語】のページ>>に、いつもコメントをいただいている DAIさんから「その時は家康の立場って微妙なのでは?豊臣恩子の大名、また家康をよく思っていない大名、朝廷などなどの反応は?」という質問をいただきました。

2月12日のページにも画像を転載させていただいたように、原本こそ無いものの、複数の1級史料に記録が残されている以上、その日の将軍宣下は、おそらく間違いない事なのでしょうが、本文にも書かせていただいたように、豊臣家は関白・・・なので、家康が征夷大将軍になったからと言って反豊臣とはならないのでは?と、以前から思っていたのですが、さらにスッキリする証拠の書状を教えていただきました。

それは、文禄四年(1594年)8月3日付けで書かれた毛利輝元の自筆の書状・・・

文禄四年と言えば、先の朝鮮出兵が一段落したものの、未だ正式な和睦には至らず、なんだかんだと交渉中の微妙な頃・・・輝元は、畿内にいて、国許に、「オレ、無事に元気でやってるからな~」てな事を報告している文面なのですが、そこに・・・
「昨日御城へ参候而神文(秀吉と秀頼に忠誠を誓う血判書の事)とも仕候、東ハ家康、西ハ我々へまかせ被置之由候、面目此事候・・・」
とあります。

つまり、謁見して改めて豊臣家への忠誠を誓った輝元に、秀吉が
「東は家康に、西は輝元に任せる」と言ったというのです。

以前、奈良時代の歌人でもある大伴旅人(おおとものたびと)が、九州の隼人族を制圧するための征隼人持節大将軍に任命されたお話を書かせていただきましたが(3月4日参照>>)、この天平の時代より、将軍と名のつく役職は複数あって、もともとは、東にいる蝦夷(えみしを征するから征夷大将軍なのだとお話させていただきました。

この場合の輝元は鎮西(ちんぜい)大将軍とでも呼ばせていただきましょうか・・・そうです、家康の征夷大将軍、輝元の鎮西大将軍、そして、その上に全国を統一する豊臣家・・・これが、秀吉が生きている時からの構想だったのです。

そう考えれば、この時の家康の将軍宣下に対して、豊臣家も朝廷もが、いかにも素直な事が当然となってくるわけです。

秀頼は、まだ若いですから、急がずとも、いずれ関白に・・・と、誰しもが思います。

まぁ、結果的には輝元の鎮西大将軍も秀頼の関白も実現しなかったわけで、それが征夷大将軍=武門のトップという錯覚を起させてしまい、あたかも、家康が、将軍となった時点で、天下を取ったような印象を受けてしまうわけです。

そうなると、本日の、「徳川家康が豊臣秀頼に上洛を促すも、秀頼が、これを拒否」というのも納得・・・いや、当然です。

さらに、ご存知のように、大阪の陣のきっかけと言われている、京都・方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)ですが、銘文にイチャモンをつけた家康が、
1、秀頼の江戸への参勤
2、淀殿の江戸在住
3、秀頼が国替えして大坂城を出る

の条件を出してきますが、コレ、関ヶ原直後に豊臣家が一大名になってしまっていたのなら、すでにやっていなくてはならない当然の事ですが、秀頼は、まだやってなかったからこそ条件に出したわけです。

つまり、家康は、この時でも、まだ天下を取ってはいなかったわけで、だからこそ、大坂の陣を仕掛けて、豊臣家をぶっ潰す必要があったという事なのです。

・・・とは言え、まだまだ謎はあります。

もちろん、誰も見た事がない以上「これが正解!」と言えるものでもありませんが、なにやら、以前からのモヤモヤした物が、少しフッ切れたような気がします。

まだ、書き足りない部分もあるのですが、一つのページが、あまり長くなると、読んでいただく方にも負担となりますので、今日のところはこのへんで・・・

新説というよりは、別の視点で見ると・・・という感じかも知れませんでしたね。
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2010年5月 9日 (日)

「ぼたんまつり」で賑わう奈良・長谷寺

 

昨日、「ぼたんまつり」開催中の奈良の長谷寺に行って参りました。

朱鳥元年(686年)に道明上人が第40代天武天皇のために「銅板法華説相図」初瀬(はせ)の西に安置した事に始まるという長谷寺(はせでら)・・・

その後、神亀四年(727年)には、第45代聖武天皇の願いを聞いた徳道上人が、十一面観世音菩薩を東の岡のお祀りしました。

これが、現在、国宝に指定されている本堂です。

Dscn0756aa900 有名な登廊を通って山の中腹にある本堂へ・・・この両側に牡丹が咲きます

徳道上人は西国三十三所観音霊場を開いた事でも知られる人物だったところから、その後の長谷寺はその根本道場としての信仰を集める事になります。

霊験あらたかなな長谷観音さまは、昔話にも登場したりして、以前、ブログで紹介させていただいた大阪府・寝屋川市に伝わる「鉢かづき姫」では、長谷寺への祈願で授かったとされるヒロインの名前も初瀬(はつせ)でしたね(11月14日参照>>)

Hasedera3aa900 本堂(右)・・・登廊の終点が左側の屋根の所です

やがて天正十六年(1588年)には、専誉僧正が入山され、全国の関係寺院3000ヶ所を代表する真言宗豊山派の総本山として栄えています。

現在、本堂においでのご本尊・十一面観世音菩薩さまは、身長10m余りの大きなお姿で、天文七年(1538年)の作と伝えられています。

Dscn0792a900 長谷寺の牡丹

そんな長谷寺は、早春は桜が咲き誇り、秋は紅葉に彩られ・・・と、四季折々に美しい姿で楽しませてくれますが、中でも有名なのは牡丹です。

Hasedera4a600 ひっそりと咲く冬の寒牡丹も一興ですが、やはり、堂々と咲き誇る春が一番!
て事で、毎年、この時期には「ぼたんまつり」が開催され、ご本尊の特別公開など、様々なイベントが行われているわけです。
(写真右→遠くに見えるのが本堂です)

とは、言え、今年の「ぼたんまつり」は5月9日まで・・・

GWが一番の見頃だったようで、昨日は少し盛りを過ぎた雰囲気でしたが、まだまだ、そこかしこに美しい姿を見せてくれていました。

Hasedera5a600 ・・・ですが、どちらかというと、今は、青葉が最高潮!
本堂の舞台から見下ろす伽藍と青葉のコントラストが、たまりませんでした。

「ぼたんまつり」は、本日=9日で終了ですが、青葉は今から見頃・・・
目にしみる青もみじを求めて、足を向けられてはいかがでしょうか?

*ご本尊の特別公開は5月31日まであります。
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2010年5月 7日 (金)

大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日、淀殿に仕えた侍女・お菊大坂城から脱出しました。

・・・・・・・・・

以前、関ヶ原の合戦における大垣城内の様子を克明に伝えたおあむ(おあん)という女性がいて、彼女の証言を書きとめた『おあむ物語(おあん物語)によって、当時の合戦での女性の役割などが鮮明にわかる・・・という事を書かせていただきましたが(9月17日参照>>)、同じような女性が、この大坂夏の陣にもいらっしゃいます。

それが、幼い頃から茶々(淀殿)に仕えたお菊という女性で、大坂城落城当時は20歳・・・彼女が、本丸から逃げる様子をつぶさに語った物が『おきく物語』として伝わっています。

ただ、直接聞いた人が、すぐに書きとめた『おあむ物語』と違って、コチラは、お菊が、孫の田中意徳という人物に語った話を、その孫から聞いた人が、かなり後になって書いた物で、筆者の感想なども加わり、やや、信憑性に欠けるとの事のようですが、それでも、貴重な体験談・・・とても興味が沸くお話です。

・‥…━━━☆

すでに、総攻撃が開始されていた慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日の大坂城・・・
★その日の戦いの様子は・・・
 【大坂城総攻撃(真田幸村・討死)】>>
 【毛利勝永VS本多忠朝~天王寺口の戦い】>>
 【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】>>
 でご覧くださいo(_ _)o

しかし、その時、本丸長局(ながつぼね)にいたお菊は、それほど危険を感じる事もなく、そば焼きを食べようと、下女に「そばを作ってヨ」と申しつけていたところでした。

ところが、その下女が台所へ向かってまもなく、本丸南東にある玉造口(たまつくりくち)が、徳川方の攻撃によって炎上中の情報が入ってきます。

すぐさま、千畳敷の縁側へ出て、見晴らしの良いところで確認すると、あちこちから火の手が上がっているのが見えます。

「これは、いかん!」
と、局へと戻り、かたびら(麻のひとえ)を3枚重ねにして着込み、帯も3本締め、豊臣秀頼から拝領した鏡を懐中にしまいこみ、いざ、台所口から出ると、武田栄翁(えいおう)なる武将と、ほか2名がいて、
「女中の皆さんは、外へ出んといて下さい」
と言います。

「そら、君らは、城を枕に討死の覚悟かも知れんけど、ウチはいやや!」
とばかりに、そんな言葉には耳を貸さずに出ていくと、そこに、秀吉以来、豊臣家のシンボルとなっている金の瓢箪の馬印(合戦の時に大将のしるしとして掲げる物)が落ちています。

「なんで、こんなとこに、こんな大事なモン落としてんねん!
 敵に見つかったら、めっちゃハズイやん!」

と、ツッコミを入れながら、たまたまそばにいたおあちゃという女中とともに、これを打ち折ってから、すかさず外へ出ます

しかし、城外へ出ても、城兵は1人も見当たりません。

「どうしよう・・・」
と、思っていると、物影から現われたのは徳川方の兵・・・

さびまくった刀をチラつかせながら
「ネェチャン、金出せや!」
と・・・

実は、こんな事もあろうかと、お菊は竹ながし(金を竹に流して固めた物)を何本か、胸元深くにしのばせておりました。

そのうちの2本を、男に手渡す代わりに、
「藤堂さんの陣はどこ?」
と尋ねます。

「まつ原口や」
と、男・・・

さらに、次の1本をチラつかせながら、
「その場所まで連れてってくれたら、これも、あげるけどなぁ」
と、言うと、男は
「ささ・・・コチラへ・・・」
と、本来なら城内に向かう事も忘れて、道案内をしてくれました。

その後、ラッキーな事に、やはり城を後にした常高院(じょうこういん・淀殿の妹:お初)の一行に合流する事ができました。

ご存知のように、この常高院さんは、秀頼の母=淀殿を姉に、徳川秀忠の妻=(江与)を妹に持ち、先刻の冬の陣で徳川との和睦交渉の時の豊富方の使者となっていた人(12月19日参照>>)で、京極高次(きょうごくたかつぐ)さんの奥さんでもあります(5月3日参照>>)

その常高院さんとともにいた秀頼付きのお女中が、たった1枚のかたびらに1本の下帯のみの姿だったのを見かねたお菊は、
「自分は3枚着てるので・・・」
と、1枚わけてあげるというやさしさも見せつつ・・・

そうこうしているうちに、常高院に、徳川家康からの呼び出しが・・・

求めに応じて、常高院が家康の陣に向かうと、
「城内におる者も、出た者も、女の子らは、関係ないよって、好きなようにしてええで」
との将軍命令が出たとの事・・・

皆で大いに喜んだのです。

その後、お菊は、備前岡山藩の藩医をしていた田中家に嫁ぎ、83歳の天寿を真っ当したとの事・・・

孫に昔語りを聞かせる、おだやかなおばぁちゃんの、ある意味、武勇伝とも言えるお話でした。

それにしても、しっかりとした20歳ですこと!(*≧m≦*)
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2010年5月 6日 (木)

大坂夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日、大坂夏の陣において、迫り来る徳川方と迎え撃つ豊臣方で、野戦が展開されました。

・・・・・・・・・・

すでに何度も登場してはおりますが・・・

もはや天下を手中に収めた徳川家康が、どうしても潰したい目の上のタンコブは、亡き豊臣秀吉の後を継ぐ豊臣秀頼(ひでより)・・・

その秀頼が寄進した、京都・方広寺の鐘の銘文にイチャモンをつけて、大坂冬の陣を勃発させた家康ですが、難攻不落の大阪城を相手に一旦は和睦を結びます
(ここまでのくわしい経緯は【大坂の陣の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>)

しかし、外堀を埋めるなどの家康の約束破りに対して、再び浪人を集めるなどの豊富方の動きを察した家康は、名古屋に住む息子の結婚を理由に慶長二十年(元和元年・1615年)4月4日に駿府を出発・・・名古屋を経由して10日には、京都に入りました。

一方、すでに家康から将軍職を譲られていた三男・徳川秀忠も、続く21日に京都に到着します。

これを受けて、豊臣方では、大坂城の守りを固めると同時に、迫り来る徳川方への野戦を展開する作戦・・・

家康は、本隊を2手に分け、1軍は大和大路を通り、大和国(奈良県)を迂回して大坂へ至るという松平忠輝率いる3約万5000、もう1軍は、淀川沿いの京街道を南下し、河内方面から大坂に至るという秀忠&家康が率いる約12万の大軍・・・

もちろん、徳川方にくみする畿内の武将も、それぞれが大坂城を囲むべく動きはじめます。

そんな徳川傘下の武将の1人であった紀州(和歌山県)浅野長晟(ながあきら)軍と、4月29日に樫井(かしい・泉佐野市)でぶつかったのが、豊臣方の籠城軍・主将格を務める大野治長(はるなが)の弟・大野治房(はるふさ)軍・・・そこで、配下の塙団右衛門(ばんだんえもん)壮絶な討死を遂げた事は、つい先日書かせていただきました(4月29日参照>>)

・‥…━━━☆

かくして、大坂城へと迫り来る徳川軍と、それを迎え撃つべく城を撃って出た豊臣方によって各地で野戦が展開されたのが慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日・・・

大和方面から来る徳川軍を豊臣方の後藤又兵衛(またべえ)が迎え撃った道明寺の戦では、かの真田幸村(信繁)戦いに間に合わず、到着した時には、又兵衛も(2016年4月30日参照>>)薄田隼人(すすきだはやと)も討死(2009年5月6日参照>>)・・・その後、幸村はちょうど進軍中の伊達政宗(だてまさむね)と死闘をくり広げますが、籠城軍からの命令により、夕方には大坂城へと帰還しました(2007年5月6日参照>>)

一方、河内方面からの徳川軍を迎え撃つべく出陣した木村重成(しげなり)率いる約4700は、若江(東大阪市)にて、徳川配下の藤堂高虎軍を退けたものの、井伊直孝勢の逆襲に遭い、将の重成は討死します(2011年5月6日参照>>)

その高虎軍と八尾(八尾市)にてぶつかったのが、やはり大坂城から撃って出た長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・・・

ここでは、対峙した藤堂勢に大打撃を与えて奮戦する長宗我部勢でしたが、木村勢の敗北が伝えられると、本来、その木村勢とともに行動すべき予定であったため、孤立を恐れて、やむなく大坂城へと帰還する事になります。

その時、盛親の家臣として参戦していた甘牧勘解由(あままきかげゆ)・・・

槍を手に奮戦していた彼も、しかたなく退却を開始した直後・・・藤堂家の家臣・名村石見(なむらいわみ)目と目が合います。

「俺と勝負しろ!」
迫る石見に、一瞬構える勘解由でしたが、もはや、勝負は終った戦い・・・ここで、戦って討死したら、犬死以外の何物でもない!と考えた勘解由は
「アホんだら!おのれはクソでも喰っとけ!」
と、捨てゼリフを残して、勝負をせずに立ち去りました

Oosakazyou100427pa900 大阪城

・・・で、このお話には、その後日談があります。

大坂の陣の決着もつき、すでに落ち着いた頃・・・
藤堂家の家臣であった掘信家(ほりのぶいえ)という人物が、ある人と酒を酌み交わした事がありました。

そこで、
「今って、どんな友達と親しくしてるのん?」
と、その人に聞いてみたところ、甘牧勘解由の名前を出したのです。

しかも、その人は、勘解由のオモシロイ話として、あの八尾の戦いでの出来事を話し始めたのです。

「アハハハ・・・俺、その話、知ってる」
実は、信家は、かの石見と大親友・・・
「アイツ、いつも、俺に話しとんねん。『俺にクソを喰らわして逃げたヤツがおる』って・・・、ソレって本当の事やってんなぁ」
と、大笑いです。

なんだか、不思議なエニシで結ばれているような感激を覚える二人・・・
「今度、アイツらも呼んで、4人で会われへんやろか!」
と、話が盛り上がります。

後日、お酒を酌み交わす4人・・・
あの八尾の戦い以来の勘解由も石見も、当時の話で大笑い・・・

その後の4人は、大の親友となり、末永く交流したのだとか・・・

これは、『備前老人物語』『古実話』に残るエピソードですが、大坂夏の陣と言えば、
○○が壮絶な討死を遂げたとか・・・
大坂市街になだれ込んだ徳川軍によって、目も覆うような殺戮があったとか・・・(9月12日参照>>)
秀頼と、その母・淀殿の自刃とか・・・

何かと、物々しいエピソードばかりが目立ちますが、今日のところは、こんな話もあるのですよ・・・というところをご紹介させていただきました。
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2010年5月 4日 (火)

美しき者も高貴な者も世は無常~皇后・橘嘉智子

 

嘉祥三年(850年)5月4日、第52代嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が65歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、その姓をご覧になっておわかりの通り、「源・平・藤・橘(げんぺいとうきつ)貴種のうちの一つ橘氏の人・・・つまり、以前に登場した一代で大出世の女傑=橘三千代(たちばなのみちよ)(1月11日参照>>)の子孫という事になります。

嘉智子の姉の夫が、藤原四家(藤原不比等の4人の息子の家系)の生き残り・藤原冬嗣(ふゆつぐ)の嫁の弟だったという関係から、その冬嗣に推されて、嵯峨天皇の皇后となったという事ですが、橘氏出身の皇后は、後にも先にも彼女ただ一人です。

三千代の息子・橘諸兄(たちばなのもろえ)左大臣にまで昇りつめますが、その息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・恵美押勝)との政戦に敗れて(7月4日参照>>)・・・以来、橘氏は低迷します(*嘉智子は、この奈良麻呂の孫にあたります)

しかし、栄華誇った、その仲麻呂も乱に失敗して(9月11日参照>>)、藤原四家のうち南家が転落し、すでに、その少し前には、藤原広嗣(ひろつぐ)が、やはり叛乱に失敗して(9月3日参照>>)式家が転落・・・京家が、後継者に恵まれなかった事があってはなから浮上せず。

そのおかげで、ここに来てグンと浮上してきたのが、最後残った冬嗣の北家であり、その血筋と、低迷していた橘氏の、「ともにタッグを組んで浮かんで行こうよ」という利害関係が結びついたというところでしょうか?

・・・とは言え、この嘉智子さん・・・かなりの美貌の持ち主で、かなりのモテモテぶりだったようです。

彼女の残した歌によれば・・・

♪言繁(ことしげ)し しばしは立てれ 宵の間に
  おけらむ露は いでてはらはむ  ♪

「メッチャ噂になってますから、チョットの間、外で待っててください。
 その間についた夜露は、後で私がキレイにしてさしあげますよって・・・」

これは、彼女恋しさに毎日通ってくる嵯峨天皇に詠んだとされる歌・・・

嵯峨天皇の心を、ひとりじめしている彼女を、他の女がヤキモチを焼いて、あれやこれや噂するので、目立つ時間帯には家には入らずに、外で待っててほしいって事なのです。
(クゥ~(*゚ー゚*)えぇなぁ)

さらに、も一つ・・・

♪うつろはぬ 心の深く ありければ
 ここらちる花 春にあへるごと ♪

「アンタの気持ちが、あんまりにも一途やから、
 すでに散ってしもた私やのに、春の盛りに会うたような気持ちやわ」

これも、相手は嵯峨天皇・・・歌の内容からしてわかるように、もう若くない彼女に対して、あまりにも一途に「好き好き光線」を出しまくる天皇に、「若い時みたいでウレシイわ」と・・・

これら、嘉智子さんの歌を見る限りでは、嵯峨天皇とはラブな関係にあったのではないか?と想像できますね。

おかげで、低迷気味だった橘氏も、奈良麻呂の孫にあたる橘常主(たちばなのつねぬし・奈良麻呂の六男)70年ぶりに公卿になったのをはじめ、嘉智子の兄の橘氏公(たちばなのうじきみ)右大臣にまで昇りつめる繁栄ぶりとなります。

仏教への関心も篤かった嘉智子は、当時、中国から来日したばかりの僧・義空を師と仰ぎ、京都は、嵯峨野にて日本初の禅院檀林寺(だんりんじ)という壮大な寺院を営みました・・・このため、嘉智子は、檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれます。

Dscn6897a800 檀林寺・本堂

現在の檀林寺は、以前とは別の場所で、すっかり新しくなっていますが、同じ嵯峨野にあり、本堂=法賓閣は、別名・極楽殿とも呼ばれ、曼荼羅図にある法宝閣のデザインを基本した浄土感漂う造りになっており、連子窓の上に高く連なる三層楼屋根の最上部には、天空に向かって経文を唱える瑞鳥(ずいちょう・めでたい時に現われる鳳凰や鶴などの鳥)の勇姿が見えます。

もちろん、瓦にはのご紋・・・

Dscn6899a800 檀林寺・本堂の屋根

さらに、その権勢を誇るように、橘氏のための学校蓮華精舎も設立した嘉智子さん・・・しかし、そのうち、嘉智子自身が、この世の空しさを感じるような時代へと入っていきます。

嵯峨天皇は、自身の即位の時に、兄弟同士でのゴタゴタがあった関係から、弟に皇位を譲り、第53代・淳和(じゅんな)天皇が即位しますが、その淳和天皇も周囲に気をつかい、多くの息子がいながら、兄の嵯峨天皇の息子(つまり嘉智子の息子)の第54代仁明天皇に皇位を譲ります。

この兄弟同士での譲り合いの関係も、二人の天皇が健在な時には、平穏無事に行われていましたが、承和七年(840年)に淳和上皇が、承和九年(842年)に嵯峨上皇が相次いで亡くなった直後、早くも事件が起きます。

この時、すでに、淳和天皇の息子・恒貞親王が皇太子となっており、次期天皇は彼に決まっていたわけですが、その皇太子を看板に、謀反をくわだてたとして橘逸勢(たちばなのはやなり・奈良麻呂の孫)伴健岑(とものこわみね・大伴一族)逮捕され、恒貞親王も皇太子を廃されてしまいます。

結局、代わって皇太子となったのは、現役の仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)・・・その母親は、冬嗣の息子で、後に臣下で初の摂政となる藤原良房(よしふさ)の妹です。

臭いますね~
もちろん、承和の変と呼ばれるこの事件(7月17日参照>>)は、今では、でっちあげだったというのが定説となっています。

この事件には、嘉智子自身も深く関わっていたとされ、そのせいで、失脚した恒貞親王の生母・正子内親王から、嘉智子はひどく恨まれたとも言いますが、後世の歴史を知っている私たちから見れば、結局、この事件をきっかけに、橘氏は再び低迷状態となり、藤原北家の1人勝ち(8月19日参照>>)となってしまうわけで、もし、本当に関与していたのなら、「嘉智子さん、何やってんの?」って感じですが・・・。

そして・・・
自分をあんなに愛してくれた夫・嵯峨天皇を亡くし、その後に起こった事件に関与した自分自身に何か思うところがあったのでしょうか?

彼女は、あまりにも壮絶な遺言を残したと言います。

「自分の死後は、遺体を埋葬せず、道端に放置するように」と・・・

伝説によれば・・・

嘉祥三年(850年)5月4日、亡くなった嘉智子の遺体は、当時、都の北西部にあったとされり帷子辻(かたびらつじ・現在の帷子ノ辻付近とされる)に放置され、日に日に腐り、犬やカラスに喰い荒らされ、果ては白骨化していったと言います。

Danrinkougoukusouzu この様子は「檀林皇后九相図(くそうず)(西福寺蔵)に描かれているのだとか・・・(←)

もちろん、当時は、風葬(ふうそう)と呼ばれる、このような埋葬方法が存在していたわけで、決して遺体を軽く扱ったわけではないのですが、彼女にしてみれば、高貴な身分の者も、美しかった者も、やがては朽ち果てていく現状を、自らの身を投げうって世間にさらす事で、世の無常・・・世の中は常に移り変わっていき、永遠の物などありはしないという事を示し、そこに仏の道を見いだしたかったのだと・・・

現在の京都でも、北西部の化野(あだしの)や、東山の鳥辺野(とりべの)などはかつての風葬の地として有名ですが、かの帷子ノ辻が、かつては、檀林皇后がその身を投げうって仏の道を解いた聖地とされていたのが、いつしか、「死体を喰い荒らされている幽霊が出る」などの噂が立ち、オカルト的な場所になってしまった事が非常に悲しい・・・

彼女の風葬に関しては、伝説であって事実ではないという意見もありますが、せめて、帷子ノ辻は、心霊スポットではなく、聖地として見守っていただきたいと願うばかりです。

●檀林寺への行き方は、本家HP【京都歴史散歩・嵯峨野嵐山コース】のページへどうぞ>>
 .

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2010年5月 3日 (月)

姉と嫁のおかげで大出世?ホタル大名・京極高次

 

慶長十四年(1609年)5月3日、若狭小浜藩・初代藩主の京極高次が47歳でこの世を去りました。

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近江源氏・佐々木氏の流れを汲む京極氏は、鎌倉時代の昔より近江(滋賀県)周辺の守護を務める名門でしたが(8月7日参照>>)京極高次(きょうごくたかつぐ)が生まれた頃には、地元の小国人・浅井氏のその支配権を奪われ、完全におちぶれた名門と化していました(3月9日参照>>)

しかし、天正元年(1573年)8月にその浅井氏が織田信長によって滅ぼされると(8月27日参照>>)、高次は京極家の旧臣たちを集めて信長の傘下となります。

ところが、その十年後の天正十年(1582年)に信長が本能寺の変(6月2日参照>>)で倒れた時には、明智光秀に味方し、信長配下である羽柴(豊臣)秀吉長浜城を攻略にかかります。

しかし、ご存知のように光秀は、山崎の合戦に敗戦して命を落とし(6月13日参照>>)、あっという間に高次=ピ~ンチ!

やむなく、織田家重臣の柴田勝家のもとに身を寄せますが、今度は、その勝家が秀吉との賎ヶ岳(しずがたけ)の合戦に敗戦して自刃に追い込まれ(4月23日参照>>)またもやピ~ンチ!

しかたなく、今度は、姉(もしくは妹)龍子(竜子・たつこ・妹とも)の嫁ぎ先である若狭(福井県南西部)武田元明のところへ・・・

しかし、その元明も秀吉に殺され(10月22日参照>>)、今度こそ絶体絶命のピ~ンチ!

ところがどっこい、この姉・龍子という人が絶世の美女・・・高貴な血筋の美人大好きの秀吉がそのままにしておくはずがなく、即・側室として迎え入れたため、高次の命が救われたどころか、2年後には、近江の地で2500石の領地を与えられる事に・・・。

さらに天正十五年(1587年)には、信長の妹であるお市の方の娘=つまり、あの浅井三姉妹の次女・お初と結婚・・・高次の母は、浅井長政の姉なので、二人は従兄妹同士の夫婦という事になります。

ここでガンバる妻・お初・・・秀吉の側室となっていた姉・茶々(淀殿)にはたらきかけ、夫の出世のためにまっしぐら・・・おかげで文禄四年(1595年)には、高次は近江大津城主・6万石への大出世なうえ、従三位・参議にも叙任され、かつての京極氏の栄光を取り戻しました。

まぁ、これには、名門好きの秀吉の、「京極氏を取り込んでおきたい」という意向もからんでいるんでしょうけど・・・

ところが、その秀吉が亡くなると、今度は、あの徳川家康が高次に接近・・・大津城の修復費用という名目で白銀30枚を贈呈して、来るべき合戦のおりには味方につけようとします。

しかし、いざ、関ヶ原の合戦が間近になると、あの石田三成からも西軍への参加要請が・・・

大津城の守りに自信がない高次は、合戦直前当時、遠くにいた家康より、近くにいた三成を選択し、西軍配下として関ヶ原に参戦するため、一旦、城をあとにします。

・・・が、途中で、はたと路線変更・・・いきなり大津城へと戻って、今度は東軍の一員として籠城作戦に出ます(9月3日参照>>)

西軍としては、この裏切り行為に対して、当然、攻撃をしかけますが(9月7日参照>>)、ここで、この大津城を攻めた毛利元康(毛利輝元の叔父)立花宗茂(むねしげ)の足止めに成功・・・

彼らを、本番の関ヶ原に参戦できないようにした功績により、戦後は、若狭小浜8万5000石が与えられ、翌年には9万2000石に加増・・・

まぁ、今度は、今度で、妻・お初さんの妹=お江さんが、家康の息子・徳川秀忠の奥さんとなってますから、またもや、お初のはたらきかけがあった可能性大ですが・・・

それには、高次が頼りない・・・というよりは、いくら落ちぶれたとは言え、もともと名門のお坊ちゃん育ちだった彼には、あまり出世欲という物がなかったようで・・・

しかし、逆に奥さんのお初には、織田&浅井の戦国DNAが流れているうえ、淀殿&お江に挟まれた中で、「姉妹に負けたくない!」という気持ちが強かったなんて事も言われていますね。

とにもかくにも、秀吉の寵愛を受けた姉・龍子、姉妹にはたらきかけて京極家を支えた妻・お初のおかげで出世でしたという事で、当時から女たちの尻の下で光る「ホタル大名」なんて噂された高次さん・・・

個人的な印象ですが、高次さんって、そんなかげ口にも、「べつに言いたいヤツには言わしとけば~」と、のほほんとかまえているような性格の持ち主だったような気がしてなりません。
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2010年5月 1日 (土)

会津戦争・勃発~白河口攻防戦

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月1日、会津攻防戦の要所である白河口の南方・白坂に集結した新政府軍が、会津と旧幕府兵の連合軍に総攻撃を仕掛けまし・・・この先、約3ヶ月にわたる白河口攻防戦の勃発です。

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慶応四年(明治元年・1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い・・・戦況の悪さに、大坂城を捨て、軍艦にて江戸城へと戻った第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・(1月6日参照>>)

その後、自ら謹慎し、新政府軍に恭順な態度を見せる慶喜は、ともに江戸城へと戻った京都守護職・松平容保(かたもり)登城禁止の処分にします。

その後、郷里である会津に戻った容保は、抗戦の準備をしながらも、恭順な姿勢を保っていたところ、隣国の米沢藩仙台藩から、戦争回避すべく、『会津藩救済の嘆願書』が新政府軍に提出されます。

しかし、賊軍=会津への徹底討伐を崩さない新政府軍の奥羽鎮撫総督府・下(しも)参謀の世良修蔵(せらしゅうぞう)が、嘆願書を握りつぶしてしまいます(4月20日参照>>)

これで、戦争回避の道がなくなってしまった会津藩・・・その9日後の閏4月20日に、嘆願書を握りつぶした世良が、福島城外で仙台藩士たちに殺されたのと同時に、田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲したのです。

・・・と、先日の2月10日にここまでお話させていただきました(2月10日参照>>)

Aidusensoukankeizucc↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

地図を見てお解かりの通り、この白河東北への玄関口です。

峠一つ越えれば、そこは猪苗代湖・・・その湖畔を行けば会津若松ですから、新政府軍にとっては、ここは是非とも押えて、会津攻撃の拠点としたい場所ですし、逆に会津にとっては守りの最前線となる場所です。

上記の通り、同じ東北のよしみもある仙台兵は、会津・幕府連合軍に囲まれた時点で城を放棄し、連合軍は戦う事なく白河城をゲットします。

これに驚いたのは新政府軍・・・すぐに、参謀・伊地知正治(いじちまさはる)率いる薩長混合隊を組織して、白河城に向かわせたのが、閏4月25日の事でした。

しかし、彼らは、白河口の南方にある白坂(福島県白河市白坂)にて、西郷頼母(たのも)率いる連合軍とぶつかり、あえなく撤退・・・

かくして慶応四年(明治元年・1868年)5月1日、再編成して白坂に集結した新政府軍約700余りによる総攻撃が開始されたのです。

迎え撃つのは、先の連合軍に仙台・棚倉藩の兵を加えた2500余り・・・数では圧勝です。

しかし、悲しいかな軍の中心となっている会津藩の軍備は、薩長中心とする新政府軍に比べて、かなりの遅れをとっていました。

弓・槍・火縄銃を基礎とする長沼流兵学が未だ現役で、西洋式兵法の入る余地はなく、この軍備の差は、兵数の差をはるかに越える物だったのです。

最新兵器を自由自在に使いこなす新政府軍は、中央・右翼・左翼の三手に分け、それぞれを連合軍の拠点である稲荷山・雷神山・立石山に突入させて、一気に落としていきます。

銃弾を浴びて討死する者・・・
からくも、かいくぐって敵陣に突入する者・・・

またたく間に約700名ほどの死者を出してしまった連合軍は、総督の西郷自らが負傷しながら退却するに至って、仙台・棚倉兵も散り散りになり、新政府軍は堂々の白河城入城を果たしたのです。

この激戦の翌日、長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)が日本海側から北上していた新政府軍・別働隊との小千谷(おぢや)会談に挑みますが、話し合いは決裂・・・

2日後の5月4日(6日説あり)には、仙台藩を中心とする東北諸藩に、その長岡・新発田(しばた)・村上などを加えた奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が形成されました(5月13日参照>>)

この間にも、そして、それから後も、約1ヶ月に渡って、度々白河城を奪回すべく、攻撃を繰り返していた列藩同盟軍でしたが、奪った白河城を守っていた新政府軍は板垣退助(いたがきたいすけ)率いる土佐兵・・・なかなか落せるものではありませんでした。

やがて、夏も盛りになる頃には、棚倉城(福島県東白河郡)磐城平城(いわきたいらじょう・福島県いわき市)が次々と落とされ、奥羽越列藩同盟の内部にも亀裂が入りはじめます。

さらに、7月29日には、大半が他の城への援軍として出ていたため、わずかの兵だけが守る二本松城(福島県二本松市)が新政府軍に襲われ(1月16日参照>>)二本松少年隊と称される若者たちを含む250名ほどの戦死者を出し、二本松城も陥落してしまいました。

しかも、この頃には他方の北越で踏ん張っていた長岡城も陥落(7月29日参照>>)日本側からの新政府軍、太平洋側からの新政府軍の両方が、会津へと集結する事になったのです。

こうして、会津戦争は、いよいよ本拠地での激戦へと向かっていくのですが、この続きのお話は、母成峠(ぼなりとうげ)での激が繰り広げられる8月20日でどうぞ>>
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