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2010年5月11日 (火)

土佐勤皇党・武市半平太~切腹す

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慶応元年(1865年)閏5月11日、幕末に土佐勤皇党を率いて活躍した土佐藩士で、戯曲・月形半平太のモデルともなった武市半平太が獄中で切腹しました。

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「薩長土肥(さっちょうどひ=薩摩・長州・土佐・肥前)・・・と、明治維新に貢献した雄藩の一つに数えられる土佐(高知県)ですが、幕末に活躍した志士たちのほとんどは、土佐勤皇党(きんのうとう)の出身者です。

その土佐勤皇党を率いていたのが、武市半平太(たけちはんぺいた)・・・号は瑞山(ずいざん)と言い、武市瑞山とも呼ばれます。

今年の大河ドラマ「龍馬伝」では、演技に定評ある大森南朋(なお)さんが、小気味いいブラックさを伴った半平太を好演し、その知名度も一気に上昇したのではないかと思います。

剣においては、自ら道場を開くほどの腕前で、その道場から中岡慎太郎岡田以蔵が育つのですから、師匠の剣客ぶりも容易に想像できますね。

安政三年(1856年)に江戸へ出て、鏡心明智流桃井春蔵道場で修業し、塾頭となる一方で、長州藩の桂小五郎久坂玄瑞(げんずい)高杉晋作らとの親交を深めて尊王攘夷に傾いていきました。

文久元年(1861年)に、先の安政の大獄で隠居の身となっていた先代藩主・山内容堂(ようどう)の志を継ぎ、「一藩勤王」の理念を掲げて、江戸にて土佐勤皇党を結成・・・土佐に戻ってから最初の加盟者となったのは、ご存知の坂本龍馬です。

半平太の、爽やかな言動に高潔な人格は、人を魅了するカリスマ性を持ち、道場に籍をおく多くの弟子たちがそのまま勤皇党へと移行しました。

しかし、ドラマでも描かれているように、彼は、爽やかな言動のウラに、秘めたる陰湿な部分も持っていました。

理念のためには手段を選ばぬその気質は、土佐藩の参政・吉田東洋(とうよう)暗殺に始まります。

東洋は、容堂の一族に連なる土佐藩の実力者で、儒教思想に篤く、かたくなな佐幕・開国論者でもありましたから、半平太の度々の建白書も彼が握り潰し、現藩主の山内豊範(とよのり)には届きませんでした。

なので、「東洋さえいなければ・・・」と、半平太が思ったのも無理はありませんが、そうやって一度手を汚すと、人はとめどなくつき進んで行くもので、京都においても、天誅(てんちゅう・天罰のこと)斬奸(ざんかん・悪人を斬ること)と称して配下の者を差し向け、多くの佐幕派の暗殺に関与してしまいます。

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←京都三条付近にある武市半平太・寓居の跡・・・現在は、京料理のお店・金茶寮(くわしい行き方は、本家HPの歴史散歩のページへ>>)

おかげで、一時的に藩政の実権を尊攘派が手にする事にはなりましたが、それも長くは続きませんでした。

あの八月十八日の政変です(8月18日参照>>)

その政変で、尊攘派の中心であった長州藩が中央政界から追われると、今までおとなしくしていた容堂が動きはじめます。

もともと勤王の思想を持っていたからこそ、安政の大獄で処分を受けた容堂ですが、彼は、理念を推し進める事よりも時代を読む事を優先する人・・・徹底した「鳴くまで待とうホトトギス」の精神の持ち主です。

さらに、彼の山内家は、初代藩主の山内一豊以来、徳川のおかげで今の山内家があるとの考えが強く、幕府への忠誠心はハンパないわけで、倒幕などみじんも考えていません。

ここまで、容堂の志を継いでいるつもりでいた半平太と、容堂本人の気持ちは、まったく違っていたのです。

まして、半平太は、容堂が信頼を寄せていた東洋を暗殺した張本人・・・(これは、半平太本人は否定していても周知の事実でした)

政変によって、風向きが変わった事を感じた容堂は、半平太をはじめとする勤皇党の志士たちを次々と逮捕し、投獄します。

それでも、志士一人一人の自発的な集まりではなく、あくまで藩を挙げての尊王運動でないと意味がないと考えていた半平太は、容堂への進言や説得を続けていきます

しかし、土佐は、関ヶ原で負け組となった長州や薩摩とは違うのです。

藩を挙げての尊王運動をするには、まだ、時代が早かった・・・その風の流れを読み取った容堂と、読み切れなかった半平太の溝は深まるばかり。

投獄されること1年半・・・半平太は東洋暗殺を否定し続けますが、京都に潜伏していた以蔵が幕府からは無宿者として京都を追放され、その後土佐藩に捕まり、拷問の末、一連の暗殺を次々と自白したと言います(2011年5月11日参照>>)

一説には、以蔵が捕まった事を知った半平太が、牢役人に頼んで、以蔵に毒を盛り、その事を知った以蔵が、あっさりと自白した・・・なんて噂もありますが・・・。

毒を盛ったという真偽はともかく、(捕まって自白するくらいなら)あっさり死んでくれたらいいのに・・・」との、半平太の手紙が残っているのは事実で、今回のドラマでも受けるブラックなイメージは、このあたりから・・・といったところでしょうか。

とは言え、最期を迎えたその姿は、理念を貫く半平太らしい堂々たるものだったようです。

古来の方式に従い、腹を三文字にかき斬り、刀を右脇に置いてから両手をついてうつむき、介錯人に脇腹を貫かれるまで、微動だにしなかったのだとか・・・

慶応元年(1865年)閏5月11日・・・享年37歳

目的の高潔さに反する手段の卑劣さ・・・特に、同志を捨て駒のように切り捨てる非情さは、少し気になる部分ではありますが、それが、私利私欲ではなく、大義のためであったというところには、やはり感情移入をしてしまいますね。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

藩祖のスタンスの違いが、倒幕にも若干影響したんでしょうね。
山内家(土)・細川家(肥)は東軍、島津家(薩)・毛利家(長)は西軍。
でも、日本全体が攘夷から倒幕に傾いた決め手は何でしょうか?

ただ龍馬伝はどうしても「ピント外れ」な印象があります。「カメラの撮り方」以外にも。今年、坂本龍馬を主人公にした理由もいまいちよくわかりません(*´ェ`*)。

投稿: えびすこ | 2010年5月11日 (火) 16時37分

して来た事はともかくとして、男気のある方だった事が伺えますね。
もう少し時代を見据えていれたら、切腹せずともいい方向に向いたような気がしますねhappy01
いつも勉強になります。
これからも頑張って下さい!
岡田以蔵の話も楽しみにしていますdelicious

投稿: みか | 2010年5月11日 (火) 19時44分

えびすこさん、こんばんは~

>攘夷から倒幕に・・・

一番の攘夷派だった薩摩と長州が、外国にコテンパンにやられたのですから、「やっぱ攘夷はムリ」って思ったのでは?

さらに、第二次長州征伐で、たった一つの藩をおさえる事ができなかった幕府に見切りをつけたという感じでしょうか?

まぁ、それぞれの藩の事情にもよりますが・・・

投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 22時13分

みかさん、こんばんは~

そうですね。
考え方がすばらしいだけに、もう1~2年・・・って思います。

幕末は、そう思わせてくれる方がたくさんいて、だから人気も高いんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 22時17分

茶々さん、こんばんは!

武市の「一藩勤皇」の理念は、後々海援隊や陸援隊の結成に見るように最終的には間違ってなかったのですが、時代が悪すぎたのでしょうね。

寺田屋や池田屋の騒動によって「志士」による“個”の時代が終焉し、以降は挙藩による「一藩勤皇」の時代が訪れる訳ですから…

ps.武市の寓居跡碑ですが、碑の裏面は確認済ですか?―何と「(月形半平太)」と刻まれてますよ!

投稿: 御堂 | 2010年5月11日 (火) 23時19分

御堂さん、こんばんは~

>何と「(月形半平太)」と・・・

えぇcoldsweats02それは知りませんでした!!

けっこう、間近でじっくり見てたんですけどねぇ~~
次、行ったら確認しときます。

でも、そう言えば、「東映時代劇」華やかなりし頃は、断然「月形」のほうが有名でしたモンね。
「春雨じゃ、濡れて行こう」
っていうセリフは、意味のわからない子供でも言ってましたから・・・

投稿: 茶々 | 2010年5月12日 (水) 01時24分

茶々さん、こんにちは!

「月形半平太」は故大川橋蔵さんの映画を観た事があります。(その設定では長州藩士でしたが…)
見た印象では義助(久坂)と半平太(武市)が合わさった感じだな、という印象でしたよ。

今回の「龍馬伝」で武市にもう一度注目した上で新たに「月形半平太」のドラマ作ってくれないかな!思ったりします(笑)

投稿: 御堂 | 2010年5月12日 (水) 16時18分

御堂さん、こんばんは~

月形と武市・・・
月形はモテモテなので、
設定は同じで、キャラクターだけが創作なのかと思ってましたが、長州藩士になってる事もあるんですね~

おっしゃる通り、
新たな月形半平太、見てみたいです(゚▽゚*)

投稿: 茶々 | 2010年5月12日 (水) 21時05分

土佐勤皇党は「粛清事件」の後に解散したと思いますが、メンバーで明治後半以降まで生きた人で有名な人は誰かいますか?

佐藤健君が「メレンゲの気持ち」で言ってましたが、龍馬伝の裏話で顔などのメイクを落とすのに、30分もかかったそうです。しかし、なぜに顔を黒くする必要があった?

投稿: えびすこ | 2010年10月21日 (木) 09時08分

えびすこさん、こんにちは~

佐藤くんは、逃げ回ってるので、顔を黒くするのもワカランではありませんでしたが、個人的には、やはり弥太郎の汚さが気になってしかたないです。

不逞浪士がシュッとしてるのに、未だに、なんとなくあか抜けない感じで…

投稿: 茶々 | 2010年10月21日 (木) 11時34分

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