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2010年5月 1日 (土)

会津戦争・勃発~白河口攻防戦

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月1日、会津攻防戦の要所である白河口の南方・白坂に集結した新政府軍が、会津と旧幕府兵の連合軍に総攻撃を仕掛けまし・・・この先、約3ヶ月にわたる白河口攻防戦の勃発です。

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慶応四年(明治元年・1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い・・・戦況の悪さに、大坂城を捨て、軍艦にて江戸城へと戻った第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・(1月6日参照>>)

その後、自ら謹慎し、新政府軍に恭順な態度を見せる慶喜は、ともに江戸城へと戻った京都守護職・松平容保(かたもり)登城禁止の処分にします。

その後、郷里である会津に戻った容保は、抗戦の準備をしながらも、恭順な姿勢を保っていたところ、隣国の米沢藩仙台藩から、戦争回避すべく、『会津藩救済の嘆願書』が新政府軍に提出されます。

しかし、賊軍=会津への徹底討伐を崩さない新政府軍の奥羽鎮撫総督府・下(しも)参謀の世良修蔵(せらしゅうぞう)が、嘆願書を握りつぶしてしまいます(4月20日参照>>)

これで、戦争回避の道がなくなってしまった会津藩・・・その9日後の閏4月20日に、嘆願書を握りつぶした世良が、福島城外で仙台藩士たちに殺されたのと同時に、田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲したのです。

・・・と、先日の2月10日にここまでお話させていただきました(2月10日参照>>)

Aidusensoukankeizucc↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

地図を見てお解かりの通り、この白河東北への玄関口です。

峠一つ越えれば、そこは猪苗代湖・・・その湖畔を行けば会津若松ですから、新政府軍にとっては、ここは是非とも押えて、会津攻撃の拠点としたい場所ですし、逆に会津にとっては守りの最前線となる場所です。

上記の通り、同じ東北のよしみもある仙台兵は、会津・幕府連合軍に囲まれた時点で城を放棄し、連合軍は戦う事なく白河城をゲットします。

これに驚いたのは新政府軍・・・すぐに、参謀・伊地知正治(いじちまさはる)率いる薩長混合隊を組織して、白河城に向かわせたのが、閏4月25日の事でした。

しかし、彼らは、白河口の南方にある白坂(福島県白河市白坂)にて、西郷頼母(たのも)率いる連合軍とぶつかり、あえなく撤退・・・

かくして慶応四年(明治元年・1868年)5月1日、再編成して白坂に集結した新政府軍約700余りによる総攻撃が開始されたのです。

迎え撃つのは、先の連合軍に仙台・棚倉藩の兵を加えた2500余り・・・数では圧勝です。

しかし、悲しいかな軍の中心となっている会津藩の軍備は、薩長中心とする新政府軍に比べて、かなりの遅れをとっていました。

弓・槍・火縄銃を基礎とする長沼流兵学が未だ現役で、西洋式兵法の入る余地はなく、この軍備の差は、兵数の差をはるかに越える物だったのです。

最新兵器を自由自在に使いこなす新政府軍は、中央・右翼・左翼の三手に分け、それぞれを連合軍の拠点である稲荷山・雷神山・立石山に突入させて、一気に落としていきます。

銃弾を浴びて討死する者・・・
からくも、かいくぐって敵陣に突入する者・・・

またたく間に約700名ほどの死者を出してしまった連合軍は、総督の西郷自らが負傷しながら退却するに至って、仙台・棚倉兵も散り散りになり、新政府軍は堂々の白河城入城を果たしたのです。

この激戦の翌日、長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)が日本海側から北上していた新政府軍・別働隊との小千谷(おぢや)会談に挑みますが、話し合いは決裂・・・

2日後の5月4日(6日説あり)には、仙台藩を中心とする東北諸藩に、その長岡・新発田(しばた)・村上などを加えた奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が形成されました(5月13日参照>>)

この間にも、そして、それから後も、約1ヶ月に渡って、度々白河城を奪回すべく、攻撃を繰り返していた列藩同盟軍でしたが、奪った白河城を守っていた新政府軍は板垣退助(いたがきたいすけ)率いる土佐兵・・・なかなか落せるものではありませんでした。

やがて、夏も盛りになる頃には、棚倉城(福島県東白河郡)磐城平城(いわきたいらじょう・福島県いわき市)が次々と落とされ、奥羽越列藩同盟の内部にも亀裂が入りはじめます。

さらに、7月29日には、大半が他の城への援軍として出ていたため、わずかの兵だけが守る二本松城(福島県二本松市)が新政府軍に襲われ(1月16日参照>>)二本松少年隊と称される若者たちを含む250名ほどの戦死者を出し、二本松城も陥落してしまいました。

しかも、この頃には他方の北越で踏ん張っていた長岡城も陥落(7月29日参照>>)日本側からの新政府軍、太平洋側からの新政府軍の両方が、会津へと集結する事になったのです。

こうして、会津戦争は、いよいよ本拠地での激戦へと向かっていくのですが、この続きのお話は、母成峠(ぼなりとうげ)での激が繰り広げられる8月20日でどうぞ>>
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