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2010年5月12日 (水)

寄らば大樹の陰も最後には~源行家・斬首

 

文治二年(1186年)5月12日、源平争乱期の源氏の武将で、頼朝・義経兄弟の叔父にあたる源行家が斬首されました。

・・・・・・・・・・・

ご命日で、しかも斬首だというのに、はなはだ失礼ではありますが・・・

この源行家(みなもとのゆきいえ)という人・・・源平の争乱の中で、何ともオモシロイ動きをした人です。

彼が歴史の舞台に登場するのは、武士の力無しでは貴族のお家騒動も成り立たない事を知らしめた、あの保元の乱(7月11日参照>>)・・・源為義(ためよし)十男としてお目見えします。

つまり、源頼朝(みなもとのよりとも)義経(よしつね)兄弟のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、日本初の切腹で伝説の人となる源為朝(みなもとのためとも)という事になりますね。

保元元年(1156年)に勃発した、この保元の乱の時、父・為義と、その長男であった義朝は、親子で敵味方に分かれて戦う事になってしまいましたが、義朝以外の息子たちは、全員、父の側につきます。

・・・という事は、当然、行家も父の側で合戦に参加しますが、ご存知のように、勝利したのは、後白河天皇平清盛らと組んだ息子・義朝のほう・・・義朝は、自らの手で、父・為義を処刑し、弟・為朝を流罪から自刃に追い込みます(3月6日参照>>)

ただ、兄弟の中で行家だけは処罰を免れたようです。

・・・というのは、この行家さん・・・為義の十男という事はわかっていますが、その母親も生まれた年月もわかっていません。

おそらくは、父について参戦したとは言え、それが本人の意思かどうか判断できないほど幼かったでのであろうと推測されます。

とにかく、ここで一度、命拾いした行家・・・やがて平治元年(1159年)、先の合戦では強力タッグを組んでいた清盛と義朝が戦う事になる平治の乱が勃発します(12月9日参照>>)

・・・で、すでに書かせていただいているように、この平治の乱では、
義朝は騙まし討ち(1月4日参照>>)
その長男・義平斬首(1月25日参照>>)
次男・朝長美濃(岐阜県)自害し(討たれたとも)
三男・頼朝伊豆へ流されます(2月9日参照>>)

そんな中で、この時の行家は、運良く戦線離脱に成功し、熊野神社へと逃げ込み、源氏の残党としての処刑を免れています。

それから約20年・・・おとなしく熊野で暮らす行家に、突然スポットが当たる日がやってきます。

平治の乱では清盛側についた事で生き残った源頼政(よりまさ)・・・生き残ってはみたものの、平家全盛の世では思うような出世が望めなかった頼政が、もはや老体となったその身を投げ打って、最後の賭けに出たのです。

頼政に担ぎあげられたのは、後白河法皇の息子でありながら、清盛の孫が安徳天皇として即位した事で、不遇の日々を送っていた以仁王(もちひとおう)でした。

治承四年(1180年)4月9日・・・以仁王は全国の源氏の生き残りや反平家勢力に向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発するのですが(4月9日参照>>)、この伝播役として大抜擢されたのが行家だったのです。

そう、メールやファックスがない以上、誰かが、その命令書を持ってかなきゃなりませんが、都に残る数少ない源氏の中でも、彼はあの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の流れを汲む嫡流の一員ですから、まさに適任!

はりきって、近江(滋賀県)尾張(愛知県)などの反平家勢力を回り、あの伊豆の頼朝の所へも、木曽義仲(8月16日参照>>)のところへも・・・さらに奥州藤原氏まで・・・

しかし、秘密裏に行われていたはずのこの行家の行動は、すぐに平家側にバレてしまいます。

実は、お世話になっていた熊野に立ち寄った時、
「今、こんな事やってんのヨ」
と、ついついしゃべちゃった
んですね~

・・・で、未だ、頼朝や義仲が挙兵を悩んでいる時点で、事が発覚してしまったために、頼政は以仁王を守るべく武装しますが、残念ながら宇治にて敗北(5月26日参照>>)・・・夢を託して逃された以仁王も、平家の追撃に遭い木津川にて命を落とします(2009年5月26日参照>>)

やがて、
その3ヵ月後に伊豆で頼朝が(8月18日参照>>)
さらに半月後には義仲が挙兵します(9月7日参照>>)

この二人の挙兵にあわせるように行家も挙兵しますが、石橋山の敗北を挽回した頼朝や、破竹の勢いの義仲に比べて、彼は、どうやら合戦という物が苦手だったのか?

初めての戦闘となった尾張墨俣(すのまた)の戦いを皮切りに、同じく尾張矢作(やはぎ)川の戦い播磨(兵庫県)室山(むろやま)の戦いと、平家相手に3連敗・・

しかも、墨俣に至っては、壊滅状態の中、頼朝の弟・義円まで死なせているにも関わらず、その後、勢いのある頼朝に近づいて「僕にも領地ちょーだい」と、領国を要求・・・

「欲しかったら、自分で勝ち取れや!」
と、頼朝に言われちゃった行家は、今度は義仲のもとに身を寄せて、「頼朝より先に京都へ!」を目標に行動します。

そして、負け知らずで京都をめざす義仲のおかげで、見事、入京を果たした行家(7月28日参照>>)・・・しかし、またまた、ここでモメ事が・・・

それは、平家を都落ちさせた事への朝廷からの論功行賞・・・当然の事ながら、平家を撃ち破った義仲が一番高い評価を得て、行家は義仲より低かったわけですが、それが、彼には気に入らなかった・・・

「確かに、平家を都落ちさせたんは義仲やけど、そもそも、それをうながす令旨を持っていったんは俺やないかい!
令旨がなかったら、義仲の挙兵もなかったかも知れんやろ!」

こうして、義仲とケンカ別れした行家が、今度は後白河法皇へと近づき、山育ちの義仲の無骨さをくっちゃべりながら、様子見ぃのひとときを過ごしていると、都での評判ガタ落ちの義仲を攻めるべく、頼朝が弟の義経を派遣してきます(1月16日参照>>)

「これ幸い」と、義仲追討の動きを見せる行家でしたが、やっぱり敗れてしまい、結局は、義経が義仲を倒して(1月21日参照>>)からの入京という事になってしまいました。

その後は、義経とともに行動するも、合戦に参加する事なく、かと言って鎌倉の頼朝に近づくでもなく、なんとなく河内源氏の本拠地に居座っていた行家・・・

やがて、壇ノ浦で平家を撃ち破った義経・・・しかし、ご存知のように、その後、鎌倉にいた頼朝との関係が悪化し、泣きの手紙を送って許しを乞うも(5月24日参照>>)、頼朝は、逆に配下の土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を使って、義経の屋敷を襲撃させます(10月11日参照>>)

この兄の態度を見て、義経は兄との徹底抗戦を決意するわけですが、ここに、またしても「これ幸い」と行家登場!

あの日の
「欲しかったら、自分で勝ち取れや!」
の怨みは忘れていません。

寿永四年(文治元年・1185年)10月18日・・・義経に近づいた行家は、ともに後白河法皇にせまって、「頼朝追討」の宣旨(せんじ・天皇の命を伝える文書)を得たのです。

しかし、宣旨を得たとは言え、実際に兵を挙げようとすると、予想よりも、はるかに少ない数・・・一方の頼朝は、東国から大量の軍勢で、京都へと攻め込んでくるとの噂。

やむなく、義経と行家は西国で態勢を整えようと、法皇から、義経には九州を、行家には四国を与えるとの約束を取りつけて、大物浦(だいもつのうら・尼崎)から四国へと船出・・・一旦、都を後にしますがしますが、運悪く、これらの船団が嵐に遭い、一行は離れ離れに・・・どころか、すべての船が座礁してしまいます(11月3日参照>>)

しかも、この1週間後の11月11日には、今度は、頼朝が法皇から「義経追討」の宣旨を受けるのです。

哀れ、義経一行とはぐれてしまった行家は、逃れ逃れて和泉国の民家に潜伏していたところを民間人に通報され、頼朝配下の兵に囲まれてしまいます。

「ここが男の花道!」
とばかりに、屋根に登って奮戦する行家でしたが、多勢に無勢ではいかんともし難く、結局、捕縛されてしまいます。

文治二年(1186年)5月12日・・・

ここまで、その口先のウマさで、あまたの危険をかいくぐって来た行家も万事休す!

頼朝が彼に下した処分は斬首でした。

こうして、見た目40歳前後だった(年齢がわからないので…)とされる行家は、二人の息子とともに、この世を去りました。

「寄らば大樹の陰」とばかりに時勢と読み、その時々で同盟関係を変えた行家も、最後の最後に「頼朝への怨み」という私情を挟んだ事で、その運も尽きたのかも知れません。
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