« 摩訶不思議な奈良のピラミッド~頭塔・浮彫石仏 | トップページ | 「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件 »

2010年5月14日 (金)

大久保利通の見た二つの夢~悪夢と未来

 

明治十一年(1878年)5月14日、西郷隆盛木戸孝允と並んで、維新三傑と呼ばれる功労者の1人・大久保利通が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・・

一昨年の大河ドラマ「篤姫」でも大活躍だった薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)・・・

同じ薩摩出身の西郷隆盛とともに、王政復古(12月9日参照>>)に貢献し、維新後には版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)を断行・・・明治六年の政変(10月24日参照>>)では、西郷ら征韓派を一掃して政権を一手に握り、約半年前には、不平士族の最大の叛乱・西南戦争9月24日参照>>)を終えたばかしでした。

この数日前、郵便制度を構築した事で有名な、あの前島密(ひそか)(4月27日参照>>)に、大久保はポツリと話したと言います。

「実は、昨日の晩、嫌な夢を見たんや・・・なんか、自分の頭が割れて脳が動いてる変な夢・・・」

そう言えば、何日か前にも、大久保のところに「あなたを殺害します」などと書かれた殺害予告状が送りつけられてきていましたが、「また、こんなアホなもん届いたで!」と、彼は笑っていました。

大久保の部下で、当時は警察を牛耳っていた川路利良(かわじよしとし)のところにも、石川県から「わが県の元士族が不穏な動きをしている」との報告がありましたが、「石川県士族に何ができるもんか!」と一蹴したばかりでした。

これは、石川県民がどーのというのではなく、江戸時代は加賀百万石と言われた大藩でありながら、幕末維新ではほとんど動かず、終始新政府に従順であったため、「そんな石川の人間が、いまさら、何をするという事もないだろう」といった思いから来ていたようです。

しかし、それから間もなくやってきた運命の日明治十一年(1878年)5月14日・・・その日は朝から湿気を含んだ冷たい北風の吹く、5月とは思えないような寒い日でした。

早朝から大久保邸に訪ねてきていたのは福島県令の山吉盛典(やまよしもりすけ)・・・。

普段は無口な大久保が、この日はことのほか熱心に、その将来のビジョンを山吉に話していたと言います。

「あと10年・・・あと10年で、この日本を近代国家に変えたいと思てるねん!
・・・とは言うてもな、ホンマはな、30年かかると思てんねん。

今までの10年は産みの苦しみ=戦乱ばっかりの10年やったけど、これからの10年は、国内の制度を整えて、産業を発達させて、富国強兵を実現する10年・・・。
ほんで、最後の10年は、その政策を続けていって国家を完成させる10年や。

まっ・・・残念ながら、俺がヤレんのは、これからの10年まで・・・その後の10年は、後輩たちにやってもらわなアカン10年やと思てる」

同郷の西郷は西南戦争に散り、ともに維新に尽力した木戸もすでに、この世には無く・・・三傑の最後の人となった大久保は、多くの犠牲を払って生まれた明治という時代を、見事に完成させなければならないという責任のような物を感じていたのかも知れません。

やがて、その山吉が帰ってまもなく・・・大久保は会議に出席するために赤坂仮御所へと向かいます。

赤坂仮御所とは赤坂離宮の事で、明治六年(1873年)に皇居が焼失してしまったために、この頃の明治天皇は、離宮を仮御所としていて、ここに太政官(中央政府)も置かれていたのでした。

当時、三年町三番地にあった自宅から2頭立ての馬車で仮御所へと向かう大久保・・・従うのは馬丁(ばてい・馬の世話をする人)芳松(よしまつ)馭者(ぎょしゃ・馬を操る役)中村太郎二人だけでした。

Ookuboansatucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

清国公使館の前を右へ折れ、さらにドイツ公使館の前を左・・・突き当たりを右に曲がって、坂を上りきったところで左に行き、その後・・・実は、このまま直進すれば、赤坂仮御所へも近く、道も広いのですが、なぜか大久保は、いつもここで右に曲がり内土手へと上がって紀尾井町を通って仮御所へ向かっていたのです。

それには、人通りの多い道を避けていたとも、風光明媚な道を選んでいたとも言われますが、とにかく、彼は、この細い道のほうを行くのが好きだったのです。

しかし、ここが細い道であった事が、この馬車を止めてしまうのです。

この日は、この細い道の行く手に、二人の若者が花を手にして立っていたのですが、もう、それだけで、馬車は通れない・・・しかたなく、芳松が馬車を降り、若者に道を開けてくれるように頼みます。

その途端!
若者二人は、短刀を取り出しながら馬車の方へと駆け寄り、いきなり馬の前足を斬ります。

馬は膝を折って、はげしくいななきます。

これを合図に、脇に潜んでいた4名が飛び出し、一斉に馬車に向かって殺到します。

全部で6人・・・芳松は、その1人に背中を斬りつけられますが、間一髪でそれをかわし、とにかく、助けを求めるべく必死で走りぬけます。

中村も、とっさに馬車を降りますが、そこを刺客の1人に斬られて即死・・・屋根に、扉に、アリのように馬車に群がる6人に対して、その時、書類に目を通していた大久保は、「待て!」と言って、その書類を箱にしまったと言います。

しかし、その時、すでに、誰の仕業かはわからぬ一太刀が、大久保の右手を傷つけていました。

さらに、刺客たちは、大久保を馬車から引きずり下ろそうとしますが、彼らに向かって一言・・・「無礼者!」

その直後、誰かの短刀が大久保の眉間を捉えたかと思うと、次の一手が深く腰を貫き、動けなくなった彼の頭部に刀が振り下ろされました。

やがて、馬車から転げ落ちた大久保は、フラフラと何歩か歩きますが、そこを、さらに刺客たちが斬りつけ、最後に、倒れた大久保の首を短刀で貫いて立ち去ります。

彼らは、その足で赤坂仮御所へと向かい、門の前にいる守衛に
「今、俺らは大久保利通を殺害した・・・よろしく処置を頼む」
と言って、一つの書簡を差し出します。

その書簡には、大久保をはじめとする藩閥政治家による独裁や汚職に関する不満、そして政策への批判と自由民権運動への弾圧や西郷を自刃に追い込んだ事への抗議などがビッシリと書かれていました。

主犯格の石川県士族・島田一郎・以下、長連豪(ちょうつらひで)杉本乙菊(おとぎく)脇田巧一杉村文一・・・そして、ただ1人の島根県士族の浅井寿篤(じゅとく)の計6名・・・

一方、助けを呼びに行った芳松・・・彼の知らせを受けて、政府高官たちは、慌てて紀尾井町へと駆けつけます。

その中には、あの前島もいました。

現場に駆けつけた前島が見た物は・・・まさに、数日前、大久保が自分に話した悪夢の光景だったのです。

それから約2ヵ月後の7月27日、実行犯6名には死刑が宣告され、即日執行されたほか、関係者・20数名が処罰されました。

現実の物となってしまった悪夢・・・
一方で、叶えられなかった未来の夢・・・

大久保利通の見た二つの夢のうち、叶えられなかった未来の夢は、伊藤博文大隈重信(おおくましげのぶ)といった有能な後輩たちによって受け継がれていく事となります。

幸いな事に、富国強兵へと向かう国家の進むべき道は、ただ一つ・・・すでに、見えていました。

追記:大阪生まれ大阪育ちのため、茶々は鹿児島弁が話せません・・・大久保利通のセリフが大阪弁になっておりますが、悪意はありませんので、お許しを・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 摩訶不思議な奈良のピラミッド~頭塔・浮彫石仏 | トップページ | 「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件 »

明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

茶々様 お久しぶりです!

 「石川県士族に何ができるもんか」…とんでもないことやっちゃいましたねうちの地元は;
 紀尾井坂事件…幕末から明治にかけて最も石川県が目立った出来事ですね(苦笑)
 首謀者の島田一郎は相当激情家だったみたいで、「糞食らえ!」と言われたら本当に道端の糞を食べたとか。地元では安重根さんみたいに英雄視はされてませんし、卑下されてもいませんでした…というより、あまり知られていないですね(苦笑)
 江戸時代や現在は日和見感の強い石川ですが、よく考えたら加賀の一向一揆で守護の富樫正親を殺してますからね。意外とおっかない土地なのかも笑 
 大久保暗殺がその後の歴史に与えた影響は大きかったでしょうが、大久保の死がなくとも、やはり富国強兵の道を進んでいったのでしょうか。

投稿: ryou | 2010年5月14日 (金) 11時13分

ryouさん、こんばんは~

加賀の一向一揆・・・
そうですね、石川県民は、内に秘めたる物を持ち続けていたのかも知れませんね。

大久保の死は政府にとってショックな出来事ではあったでしょうが、やはり、富国強兵への道は、その死の前に、すでに基礎が出来上がっていたような気がします。

投稿: 茶々 | 2010年5月14日 (金) 18時19分

茶々さん、こんばんは!

大久保利通の暗殺は明治維新をかなり遅らせてしまった現実ですね。
大久保の死後、彼の考えた構想通り(=内務省主導の政治)に動いていたので非常に残念に思います。

大久保が生きながらえていたら、伊藤博文もかすんでいた事でしょうね!

PS.大久保利通の関連でTBさせて下さい!

投稿: 御堂 | 2010年5月14日 (金) 22時18分

大久保利通、個人的にはとても興味深い人物です
幕末、明治嫌い(幕末の志士や明治の政治家が嫌い?)だとおっしゃっていた某歴史小説家が 、「大久保はすごく頭がいい人だ」と褒めていらっしゃったのが
印象に残っています
今日もおもしろかったです
ありがとうございました


投稿: くらげ | 2010年5月14日 (金) 23時07分

御堂さん、こんばんは~

確かに・・・
上記のryouさんへのコメントに基礎はできていたのでは?と書かせていただきましたが、道は見えていても、大久保さんの死によってかなり遅れてしまったでしょうね。

おっしゃる通り、伊藤博文の出番はなかなか来なかったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年5月15日 (土) 01時30分

くらげさん、こんばんは~

聞くところによれば、故郷の鹿児島でも、あまりにも西郷さんが人気のため、大久保さんにはスポットが当たらないのだとか・・・
でも、なかなかスゴイ人ですよね。
もう少し人気が出ても良いのでは?と思います。

投稿: 茶々 | 2010年5月15日 (土) 01時35分

幕末のコンビで後藤には板垣(土佐)あり、西郷には大久保(薩摩)あり、三条には岩倉(朝廷)あり、のはずですが、龍馬伝には三組の「後者」が出ていません。
「坂本には中岡あり」で、今月ようやく出てきたのはささやかな救い(15日は中岡は出てません)ですが。

大久保暗殺の何年か後に、板垣も襲われましたが奇跡的に一命を取り留めて、近代化した明治時代を丸々見届けられましたね。

投稿: えびすこ | 2010年8月22日 (日) 09時39分

えびすこさん、こんにちは~

最近の大河ドラマは、重要人物がすっ飛ばされる頻度が多いように思います。

何度めかのドラマ化で、先の作品との違いを出したいというところなのでしょうが、少し寂しい気もします。

投稿: 茶々 | 2010年8月22日 (日) 16時38分

>重要人物がすっ飛ばされる…
「翔ぶが如く」や「篤姫」では大久保利通は重要人物でしたのにね。薩摩藩では幹部クラスとして、西郷より実績があると思います。
原田さんは近藤勇より大久保利通の方が似合います。近藤勇だと「細く」見えます。
来年は登場人物の顔ぶれが豪華(今年は地味すぎます。「ローカルレベルの人」が多く出すぎた印象)で、「劇中時間」が進むと登場人物が世代交代して、終盤は若い俳優が多く出るようなので、挽回を期待したいです。

序盤から感じるんですが、「龍馬伝」を見た後は気分がなえます。気分がなえるような感じでは若者の支持を失いますね。昨日も中岡が出ませんでした。残念。(;´д`)トホホ…

投稿: えびすこ | 2010年8月23日 (月) 09時11分

えびすこさん、こんにちは~

>昨日も中岡が出ませんでした…

ホントですね~
上川さんが出ると福山さんが霞んでしまうからでしょうか…

なんだか、龍馬と亀山社中だけで薩長同盟をすすめているような…
しかも、一応、商社のはずなのに、「金稼いじゃいけない」って、これいかに???
ドラマでは、亀山社中はカステラ屋って設定なのかも…

投稿: 茶々 | 2010年8月23日 (月) 11時37分

ブログを拝見しましたが、確かに、大久保利通は、政治家としての能力や考え方は間違いなく優れていたでしょう。しかし、紀尾井坂の変が起きた背景には、加害者である、島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族が、利通だけではなく、川路利良・岩倉具視らに対する怒りと憎しみと政治への不満を募らせたことや、一郎が、西郷隆盛に対して異常過ぎるほどの尊敬が原因と認識しています。だからこそ、一郎らは、利通らに対して、どうしても我慢ができなかった結果だったのではないかと思います。もちろん、暗殺する事自体は、テロ行為ゆえに、絶対且つ決して許されませんが、一郎らを、単なる加害者として扱うのはいかがなものかと思ってます。見方を変えれば、一郎らは、時代から捨てられてしまった被害者だったのではないでしょうか。

投稿: トト | 2015年7月 8日 (水) 18時45分

トトさん、こんばんは~

コメントありがとうございます。

>一郎らを、単なる加害者として扱うのはいかがなものか…

本文にも「彼らの思いを書きとめた書簡を手渡した」と、彼らには彼らの言い分がある事を書いておりますので、単なる加害者として扱ったつもりはございませんが、「その説明が足りない」とお思いなのかも知れませんね。

実は、このブログは基本1話完結で、黙読で3~4分=5分かからないようにと思い、1ページを4000~6000文字程度でまとめるように心掛けております。
それで、今回は、ご覧の通り、大久保の「その日」を細かく書かせていただきましたため、島田一郎の思いの奥深くまでは迫る事ができませんでした。

戦国や幕末もそうですが、敵対した両者がいる場合、それぞれに言い分がある物で、こっちの見方やあっちの見方やと…なので、このブログでは日をおいて別の角度からの見解を書いたりもするよう心がけているのですが、なにぶん一介の歴史好きなだけなもので、自らの思いが入り、なかなか快刀乱麻とはいかないものでして…

いずれは島田一郎らから見たこの事件も書かせていただきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2015年7月 9日 (木) 01時26分

紀尾井坂の変について、新たに追記したいことがあります。まず、大久保利通の妻である大久保満寿子ですが、利通の死から約半年後に病死したそうです。しかも、満寿子は、どちらかといえば病弱だったらしいです。利通の死が、満寿子の寿命を縮めたとすれば、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族の思うようにではありませんが、満寿子に、強烈な不幸をもたらしたような気がします。あと、川路利良についてですが、紀尾井坂の変後、利良は、内務省の官僚で旧米沢藩士の千坂高雅から、「下手人は島田にして島田ではない! 警護を怠った川路だ!」と激しく罵られたようです。それが原因だったのか、利通を守れなかったことがトラウマとなって、一生立ち直れなかった上に、明治12年に、謎の急死を遂げてしまいました。詰まるところ、利通&利良は、一郎らを侮るだけ侮り、馬鹿にするだけ馬鹿にしたことで、自分たちの一生を台無しにしてしまったのではないでしょうか。一郎らに対して、火に油を注いでしまったような印象を感じました。

投稿: トト | 2015年9月 3日 (木) 10時49分

トトさん、こんにちは~

いろいろと情報&ご感想、ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2015年9月 4日 (金) 15時24分

紀尾井坂の変に関して、また新たな追記をしたいと思いますが、柴五郎という方をご存じでしょうか? その方は、会津藩出身で、後に、軍人に出世した人物なのですが、中公新書という出版社から出版されている、『ある明治人の記録ー会津人 柴五郎の遺書』という書物によりますと、五郎が、大久保利通が暗殺されたことや西郷隆盛が西南戦争で自害したことについて、「天下の耳目を日飾ひかざれば大事ならずとして、会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結でなりと断じて喜べり。」というコメントを残したそうです。このコメントには、利通と隆盛の双方に対する、五郎の怒りと憎しみが込められています。特に、利通のみに限定して言えば、五郎は、利通を暗殺した、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族のことを、ヒーローのように誉め称えていたかもしれません。利通に対する怒りと憎しみを抱いていたのは、一郎らだけではなく、五郎のような、旧会津藩の人々や旧幕府関係者もいたということですね。

投稿: トト | 2015年10月21日 (水) 08時31分

トトさん、こんにちは~

薩長と会津の関係は今現在の県民性でも語られますからね~
西南戦争の鎮圧には、旧会津藩の方々が大活躍されました。
思いはイロイロあったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年10月21日 (水) 16時36分

私も母方の血筋が毛利家中で
維新成功によって随分と良い思いをしたようですが、その内実は「二草」とか「街上り」など、徳川家のようなしっかりした秩序のものとは程遠い、新世代の構築というよりは実質的な成り上がりがかなりあったのが内実だったという話を聞いています


大久保利通の功績は否定しませんが、こう、どうでもいいところで無用に憎悪をかき立てたり、なにか歪んだ生い立ちみたいなのは薄っすらと感じます。

投稿: ほよよんほよよん | 2015年10月24日 (土) 12時46分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

徳川の世にも、明治の世にも、それぞれ良いところと悪いところがありますね。
その両方の良いところだけをチョイスしてうまくブレンドして…といきたいところですが、なかなか難しいですね。
そのためにも歴史を知る事は大切かも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2015年10月25日 (日) 00時35分

私、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館において開催されてます、「大久保利通とその時代」という企画展を見学してきましたが、大久保利通が所持していた護身用の拳銃を見ました。アメリカ・レミントン社製の[デリンジャー・二連先折式]という、弾が2発しか込められないと言われている拳銃です。もしかしたら、利通が、護身用の拳銃を所持し続けたとしても、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族から、自分の身を守るのは難しかったような気がします。それに、一郎らは、利通が、護身用の拳銃を所持しているかもしれないことを、初めから、計算に入れていた可能性が高いと思います。そうでなければ、暗殺に成功するとは思えないからです。

投稿: トト | 2015年11月21日 (土) 19時06分

トトさん、こんにちは~

刺客は複数人ですからね~
防ぐのは難しいかも知れません。

投稿: 茶々 | 2015年11月22日 (日) 12時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/34684269

この記事へのトラックバック一覧です: 大久保利通の見た二つの夢~悪夢と未来:

» 大久保利通の印象! [歴史~とはずがたり~]
NHK「その時歴史が動いた」の「大久保利通・新生日本を救う~回避された『幻の日清戦争』~」を観ました。 内容は征台の役(台湾出兵事件)に関して日本と清国が一速即発な状況で、大久保利通内務卿が苦心した様子が描かれていました。 僕は根っからの大久保シンパで大..... [続きを読む]

受信: 2010年5月14日 (金) 21時47分

« 摩訶不思議な奈良のピラミッド~頭塔・浮彫石仏 | トップページ | 「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件 »