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2010年5月27日 (木)

大器が満たぬうちに…掘秀政・無念の病死

 

天正十八年(1590年)5月27日、戦国時代に若くして才能を発揮し、将来を期待されていた武将=堀秀政が小田原早川口の陣中にて病死しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長のもとで近江坂田郡3000石を与えられていた掘秀重(ほりひでしげ)の長男として美濃(岐阜県)で生まれた堀秀政(ほりひでまさ)は、わずか13歳で信長の小姓として側に仕えました。

信長さんは、とにかく彼がお気に入り・・・それは、秀政がかなりの美少年だった事もありましたが、それ以上に、彼の才能に惚れ込んでいたようです。

なんせ、その後、わずか16歳で、将軍の仮御所工事の普請奉行に任命されているのですから・・・

もちろん、こういった事務方の仕事だけではなく、武人としてもその才能を評価されていました。

信長は、あの浅井・朝倉攻め(8月14日参照>>)の時にも、秀政を側近として同行させていたのですが、この時、秀政は、浅井の援軍として駆けつけた朝倉軍への使者に抜擢され、敵陣へと赴いています。

合戦中の敵陣への使者なんて、よほどの信頼と、よほどの豪胆さがなければ、こなす事などできない役わりです。

その信頼は、信長が本能寺で亡くなった後、そのままの形で羽柴(豊臣)秀吉へと受け継がれます。

『常山紀談』によれば、本能寺の直後の山崎の合戦(6月13日参照>>)において、秀政の家臣の中に、息子が明智光秀の家臣となっていた者がおり、その者に息子が送った手紙により、いち早く光秀の動向を知った秀政は、夜のうちに天王山に登って陣を整え、敵が来るのを待ち構えていたのだとか・・・

そのような素早い行動が、秀吉からの篤い信頼を得たのかも知れません。

信長の側近の多くが、その後の身の置き場を模索したのに対して、彼はすんなり・・・というか特例に近い形で、秀吉に仕える事になります。

奈良・興福寺の多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)の日記によれば、信長亡きあとに行われた、あの清洲会議(6月27日参照>>)で、秀吉本人のほか、柴田勝家丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(つねおき)といった織田家の重臣の次に、秀政の名を連ね、彼も、その交渉の一翼を荷っていたとされています。

その記述が事実かどうかはともかく、信長の死亡直後に、すでに秀吉の信頼を得ていた事はうかがえますね。

その後も、秀吉の配下として、
勝家の北ノ庄攻め(4月24日参照>>)
小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)
さらに九州攻め(4月17日参照>>)にも活躍します。

そして、今回の小田原攻めでも、秀政は、山中城陥落(3月29日参照>>)の一翼を荷わけですが・・・

それにしても、これだけの大活躍を見せた秀政だというのに、昨今の歴史ブームの中のドラマでも目立って登場する事もなく、その名前もあまり聞きません。

そう、実は、この秀政さん・・・冒頭に書かせていただいたように、この小田原攻めの最中・・・天正十八年(1590年)5月27日に、病死してしまうのです。

疫病にかかったという事ですが、未だ、38歳の若さでした。

以前、ブログに登場した蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)と並んで、秀吉の両雄とされた秀政・・・

氏郷も40歳で亡くなり、「この先が楽しみだったのに・・・」と書かせていただきましたが、秀政も、彼と同じく、未だ、その才能を存分に発揮する以前に、こうして亡くなってしまうのです。

一説には、秀吉は、この小田原を征したあかつきには、その奪い取った関八州を、徳川家康ではなく、秀政に与えるつもりであったとも言われます。

若くして大器の片鱗を見せた掘秀政・・・その大器に、未だ水が満たないうちに亡くなってしまうのは、なんとも残念です。

彼が、もっと長生きして、関東を支配していたなら家康は・・・様々な妄想をかきたてられる人物です。

秀政亡き後の堀家は、従兄弟で家臣の堀直政が盛り立てる事になるのですが・・・そのお話は2月26日のページでどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

豊臣秀吉が堀を有望視していたのは、若い時代から織田家の家臣であり、年下だけど古い付き合いなので、数少ない織田系家臣として重宝(子飼いより1段上の格式に)したのでしょうね。
あと20年に生きていたら、堀を五奉行にしたでしょうね。

投稿: えびすこ | 2010年5月28日 (金) 08時49分


羽柴茶々 様

ブログ、楽しく拝見しました。
私たちのサイト「歴史くらぶ」とリンクしませんか。

    「歴史くらぶ」編集室 藤島知行

投稿: 歴史くらぶ・藤島 | 2010年5月28日 (金) 11時30分

えびすこさん、こんにちは~

氏郷と同様、あともう少し生きていたらどんな歴史になっていたんだろう?と想像をかきたてられる人物ですね。

投稿: 茶々 | 2010年5月28日 (金) 13時07分

歴史くらぶ・藤島さん、こんにちは~

頑張って運営されているサイト様とは、ぜひとも、相互リンクをさせていただいきたいとは思うのですが、私はホームページも運営しておりまして、ブログとの相互リンクはブログ同志で、ホームページの相互リンクはホームページ同志でを基本とさせていただいておりますので、このブログでの相互リンクはブログのみとさせていただいております。

ホームページのほうでしたら、喜んで相互リンクさせていただきますので、後日、貴サイトにご連絡をさせていただきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2010年5月28日 (金) 13時15分

もし、堀 秀政が健在だったら、豊臣秀吉は関八州250万石を彼に与え五大老或いは六大老の1人となって秀吉の死後、秀政が西軍の総大将として関ヶ原の合戦で勝利する!その後、朝鮮出兵で信望を失った豊臣家では世は纏まらず秀政が巧みに豊臣家を摂関家筆頭として公家に追いやり秀政が自ら征夷大将軍となって彼により江戸幕府(堀幕府)が開かれ明治維新まで続くのであった!めでたし、めでたしgood

投稿: ロキュータス | 2013年7月31日 (水) 07時04分

ロキュータスさん、こんにちは~

ホント、妄想をかきたてられる人物ですね。

投稿: 茶々 | 2013年7月31日 (水) 14時08分

松平元康は参遠駿甲信5ヶ国全域150万石の領地のままで五大老筆頭として関八州250万石を堀 秀政(五大老第3位)に、蒲生氏郷(五大老第4位)を尾勢2ヶ国125万石に配置し抑えとしてガッチリと狸親爺を囲い込み万全の備えにて候!フフハハフフハハsmile

投稿: リカルド・モンタルバン | 2013年8月30日 (金) 03時55分

リカルド・モンタルバンさん、こんにちは~

ほんに、堀秀政と蒲生氏郷は惜しゅうございますなぁ(ノ_-。)

投稿: 茶々 | 2013年8月30日 (金) 13時17分

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