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2010年7月23日 (金)

大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?

 

天武天皇元年(672年)7月23日、壬申の乱で敗れた大友皇子が、山前の地にて首を吊り、自殺を謀りました。

・・・・・・・・・・・

第38代天智天皇亡き後に、その弟=大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)と息子=大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)の間で勃発した皇位継承の争い壬申の乱・・・

その経緯については、すでにイロイロ書かせていただいていますので・・・

・・・と上記のリンクから、それぞれの出来事を確認していただくとして、前日=7月22日の瀬田合戦で敗れた大友皇子は、天武天皇元年(672年)7月23日山前(やまさき)の地にて首を吊り、25歳の生涯を終えたのです。

この山前という場所は、その読みが「やまさき」であるところから、現在の山崎=天王山ではないか?という説と、近江京近くのどこかの山かも?という説に分かれていますが、いずれにしても、左右大臣をはじめ、大友皇子の近臣は、皆、散り々々に逃げ去り、彼に従うのは物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と、1~2人の舎人(とねり・下級官人)だけだったと言います。

・・・と、本日は大友皇子のご命日という事で、今回は大友皇子の人となりについて書かせていただきたいところではありますが、なにぶん、壬申の乱に最もくわしい日本書紀は、天武天皇のための歴史書・・・つまり、勝者の歴史ですので、大友皇子個人の言動や人柄などの記述はほとんど書かれておらず、その実像が見え難いところではあります。

とにかく・・・
大友皇子は、先の天智天皇が、未だ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と称されていた23歳の時に、伊賀采女宅子娘(うねめのやかこのいつらめ)との間に生まれた長男です。

采女(うねめ)とは、地方の豪族が中央への恭順の証しとして、その娘を後宮へと差し出した下級女官の事で、「伊賀」とついているからには、彼女は伊賀(三重県の一部)の豪族の娘であったという事です。

つまりは、下世話な言い方をすると、「若き日の天智天皇が、宮仕えをする女官に手をつけてデキちゃった子」という事になりますが、この頃は難波に都が置かれていたので、おそらくは大友皇子は大阪生まれ・・・ただ、この時代の慣例として、奥さんの実家で養育という事があったので、育てられたのは伊賀かも知れません。

なので、もとの名は伊賀皇子(いがのみこ)・・・大友皇子という名は、後の通称なのですが、今日は、大友皇子という名前で呼ばせていただきます。

やがて白雉四年(653年)、第36代孝徳天皇と不和になった中大兄皇子が、飛鳥に戻ったので、おそらく大友皇子も父に従って飛鳥へ・・・

この頃の日本は、百済(くだら)からの大量の亡命者を受け入れている時代でもあったので、多感な少年時代だった大友皇子も、彼らから教育を受け、大陸最先端の高い教養を身につけていものと思われます。

天平勝宝三年(751年)成立の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)には・・・
「皇子博学多通 文武ノ才幹」
・・・と博識で文武両道の優れた人物である事が書かれています。

まぁ、この懐風藻の撰者は、大友皇子のひ孫にあたる淡海三船(おうみのみふね)かも知れないという事なので、そうなると、敗者となって、その存在のほとんどを抹消されたひいじっちゃんの名誉のためにも、精一杯、褒めてあるとも言えなくもないですが、普通に考えて、母親の身分は低いとは言え、事実上の最高権力者で次期天皇の長男に、当時の最高級の教育をほどこすのは当然と言えば当然でしょうね。

やがて、中大兄皇子は第38代天智天皇となって、天智天皇六年(667年)、都を近江に遷します(3月19日参照>>)

当然、大友皇子も近江へ移住・・・さらに20歳の青年の盛りを迎えていた大友皇子は、おそらく、この頃に十市皇女(とおちのひめみこ)と結婚・・・葛野王(かどのおう)という待望の男の子も生まれています

この奥さんの十市皇女は、大海人皇子と、あの額田王(ぬかたのおおきみ)との間に生まれた女の子で(1月6日参照>>)、一説には、大海人皇子側から送り込まれたスパイなんて噂もありますが、おそらく、それは、物語をよりドラマチックに演出するためのつけたしのように思います。

その後、天智天皇十年(671年)には、大友皇子は太政大臣に任ぜられ、朝廷の政務を取り仕切る役どころとなりますが、この頃から、天智天皇は、成長した息子へのかわいさあまり、皇太子である弟=大海人皇子ではなく、息子に皇位を譲りたいと思うようになったとされていますが、一方では、母方の身分の低さからみて大友皇子の皇位継承はあり得なく、天智天皇もそんな事は考えていなかったという説も囁かれます。

結局は、懐風藻などに記されている天智天皇が亡くなった後に即位していたという説をとって、明治の世になって第39代弘文天皇と、歴代天皇表に記される事になる大友皇子ですが、実際には、天智天皇が亡くなった後も大友皇子は即位せず、天智天皇の皇后であった倭女王(やまとひめのおおきみ)が即位し、大友皇子が、その補佐として政務をこなす役割をしていたとも言われ、ここらへんは、現在でも、様々な説が飛び交っているところでもあります。

ただ、大海人皇子が吉野へと退いている以上、この天智天皇が亡くなった直後の一時期は、事実上、大友皇子が近江朝廷の政務をこなしていなければならない事になります。

日本書紀によれば、結局、その後、近江朝廷が吉野を攻める準備をしているとの噂を聞き、大海人皇子は挙兵の決意をするわけですが、個人的には、どうも、このあたりがウヤムヤになってる気がしないではありません。

冒頭にも書いた通り、日本書紀は、天武天皇のために天武天皇の息子が書いた勝者の歴史書です。

独断的な仮説を許していただけるなら、ひょっとしたら、大海人皇子は、皇太子どころか、まったく皇位継承の範ちゅうになかった人物だったのではないか?と思います天武天皇の疑惑については2月27日のページもどうぞ>>)

天智天皇と、まったく血縁関係が無かったとまでは言いませんが、少なくとも、弟などではなく、天皇のイス争奪戦に参加できるほど近い人物ではない人物・・・つまり、このままだったら、絶対に天皇になれないので、力ずくで、近江朝廷を倒した気がしてならないのです。

しかし、そうなると、おそらくは謀反人とも言える大海人皇子に、多くの味方がつくのはなぜか?という疑問が湧いてきます。

壬申の乱では、確かに、大海人皇子は戦略にも長け、大友皇子よりもはるかに人生経験を積んではいますが、やはり、最も大きかったのは、その数の差・・・多くの豪族の協力を得た事による勝利です。

そこで、思うのは、この後、天武天皇から皇位を継いだ奥さんの持統天皇の世で確立する事になる大宝律令です(8月3日参照>>)

以前、書かせていただきましたが、この大宝律令によって決定づけられた官制・・・中国にならったと言いながらも、その官人の採用方法は、完全なる世襲制で、100%コネの世界・・・

中国には科挙(かきょ)と呼ばれるメッチャ難しい試験があって、その成績によって官人への採用や登用が決められていたわけですが、これまで、中国にならっての中央集権をめざして来た朝廷として、ここをまったく無視した大宝律令・・・

ひょっとして、逆に、勝者の歴史によって消されてしまった668年の天智天皇の近江令には、この科挙のような試験採用制度のような物が含まれていた可能性はないでしょうか?

つまり、試験採用ではなく、世襲制をはじめとする旧豪族を優遇する法制度を看板に、彼らを味方につけたおかげで、反乱軍であるはずの大海人皇子軍は、思った以上の数に膨れ上がったのではないかと・・・だとすれば、なんとなく「公約を守ったのでエライ!!」とは言い難い公約だなぁ~(←個人の感想です)

・・・で、結局、平成の世になっても、政治家は自分たちの不利になるような法律は定めない( ̄○ ̄;)!・・・ってね。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

再来年の大河はどうやら平清盛に決まったようですね。晩年よりも前半生がどう描かれるのか楽しみです。

投稿: ハル | 2010年7月23日 (金) 16時54分

正統の入れ替わり ~ ~ 、物部氏と蘇我氏の排仏派と崇仏派の争いの記述から、幾度となく、それを疑うようなことが、而も、擬似的な記述の仕方で、歴史に記されていますよね。
大友の皇子の最期の様子は、聖徳太子の皇子の山背の大兄皇子の最期の様子に似ています。けれど、大海人の皇子と、蘇我入鹿が似ているかと云うと、ちょっと違います。
他にも、事件のあれとアレとは似ているけれど、あれの時のあの人は、アレのあの人とは、別に似ていない・・・なんていうのが沢山あって、私はいつも飛鳥や奈良の国のことを考えていると、頭の中がスッキリしなくなります。
日本書紀は、歴史を攪乱させようという意図の下で書かれたのではないかと思いたくなります。

投稿: 重用の節句を祝う | 2010年7月23日 (金) 17時58分

ハルさん、こんばんは~

えぇ?!再来年は清盛なんですか?

ラストシーンは、どのあたりになるんだろ?
楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2010年7月23日 (金) 19時43分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

ホントです。
記紀は、どこが史実をもとにしていて、どこがフィクションなのかと、考え出したら夜も寝られませんww

>歴史を攪乱させようという意図の下で…

絶対、そうだと思います(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2010年7月23日 (金) 19時46分

今回も面白い仮説ですね。
改革派と保守派の対立かぁ。思いつきませんでした。
大海人皇子の吉野行きも、もしかしたら左遷なのかも。

>「公約を守ったのでエライ!!」とは言い難い公約だなぁ~
私はエライと思います。
世襲は悪ではありません。悪用することが悪です。
語弊があるかもしれませんが、科挙などは、合格は実力でも出世はコネです。汚職が倍増するでしょう。

外国の制度をそのまま取り入れることは、むしろ危険な場合があります。
文化や慣習の違い、制度を運用する際の意識や解釈の統一など、早急な改革ほど難しい問題が起こりやすいのです。
現在の途上国のように、成熟した運用が出来るようになるまで、何十年も混乱が続く可能性があります。

だからと言って、改革しないわけにも行きませんが。

投稿: ことかね | 2010年7月24日 (土) 17時03分

万世一世というフィクションを事実と強弁するための方便ですね。前漢、後漢という風にもっとおおらかに歴史を見れば西洋史や東洋史とも矛盾のない歴史が自由に描けます。天皇への尊敬の念や親しみも益々深まって来ると思います。
②茶々さんの推論に同感です。ただ、天智天皇よりも天武天皇こそ国の礎の基をつくった功績大かと思います(当時のインターナショナル)・・

投稿: syunchan | 2010年7月24日 (土) 18時59分

ことかねさん、こんばんは~

なるほど…
そうですね。
政策というと、つい、現在のような民主主義の確立した世界を思い描いてしまいますが、未だ成熟した社会でない場合は、世襲も悪とは言い切れませんね。

会社なんかも、そうですね。
大きな組織ならともかく、商店規模の小さな会社なら、世襲のほうがウマくいきますもんね。

勉強になりましたo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2010年7月25日 (日) 02時27分

syunchanさん、こんばんは~

>天智天皇よりも天武天皇こそ国の礎の基をつくった功績大かと…

もちろんです!

判官びいきで、つい、負けた大友皇子に味方するような書き方になってしまいましたが、日本という国が、世界レベルでも、ちゃんとした国と認められるような中央集権の律令国家としての基礎を造り上げたのは天武天皇に間違いなく、その功績は偉大だと思います。

投稿: 茶々 | 2010年7月25日 (日) 02時33分

>※欄茶々様:勉強になりました
大変、恐縮しております。偉そう&長い文章ですみません。
“公約”についてイロイロ思うことがあり、つい、指が滑りまくった次第です。
《 ナァ~ニィ?ヤッチマッタナァ!Ф(゚Д゚♯) 》
(´д`; 三 ;´д`) ゲ、ゲンチョウ?

投稿: ことかね | 2010年7月26日 (月) 16時48分

ことかねさん、こんばんは~

いえいえ、
「世襲は悪とは言い切れない」
本当に、そうだと思いました。

まだ確立されていない組織の場合は、
あまりに優秀な人材が揃いすぎては、かえって意見がまとまらない事も多々ありますから…

そんな場合は、
「この人が絶対!」
みたいな存在の人がいれは、その下で、けっこうまとまったりします。

投稿: 茶々 | 2010年7月26日 (月) 23時00分

こんばんは。
壬申の乱で勝利した大海人の皇子
(天武天皇)の血統は井上廃皇后で
絶えてしまいます。
光仁天皇から天智天皇系になります。
たび重なる政変で粛清されても、
こうして、長く細く脈々と
子孫が残る天智系が正統に思えますが。

正統といえば南北時代の南朝がそうだと
言う考えもあります。

投稿: やぶひび | 2010年7月28日 (水) 02時32分

やぶひびさん、お早うございます。

>正統といえば南北時代の南朝が…

そうですね。
第96代の後醍醐天皇の次は、第97代の後村上天皇…
その間に北朝には光厳天皇と光明天皇が立ちますが、コチラは北朝第1代・北朝第2代と言いますからね。

後醍醐天皇が「北朝に渡した三種の神器はニセ物」と言った事で、本物を持ってる南朝が正統だという事らしいですが、そうなると明治天皇は…って事で、かなりモメたと聞きました。

投稿: 茶々 | 2010年7月28日 (水) 06時29分

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